藤子不二雄A先生、ありがとうございました

 4月7日に、藤子不二雄A先生(「A」は正しくは丸の中にAだが、機種依存文字なのでここでは「A」と表記させていただく)が亡くなられた。

 ご高齢ではあるので、いつかはこう言う日が来るとは思っていた。しかし、最近A先生のご体調が悪いという話は聞いていなかったので、その日がこんなに早く訪れるとは、全くの青天の霹靂だ。
 つい先月、お誕生日を迎えられたばかりで、数日前には富山新聞の『記者A』の連載が完結して、今後もお元気でいてくださるものとばかり思っていた。

 第一報はスマホで見たのだが、それを見た瞬間は何が何だかわからなかった。悪い冗談じゃないかと思ってしまったくらいだ。しかし、それは事実だった。
 そして、どうしようもない喪失感が私の心を覆ってしまった。私が生まれてから、ずっとA先生はお元気で活躍されてきたのだ。A先生がおられない世界というのは、想像以上に寂しいものだとわかった。
 もちろん、A先生は漫画家なので、ご本人が亡くなっても作品は残る。そして、これからも読み継がれていくのなら、A先生は永遠に生き続けるといってもいいだろう。しかし、それでもやはりA先生がもうこの世におられないというのは、どうしようもなく残念なことだ。

 思い返せば、私がはじめて藤子不二雄A先生の作品に触れたのは、いつだっただろうか。
 コンビの「藤子不二雄」としての合作を含めるならば、4歳頃に読んだてんとう虫コミックスの『オバケのQ太郎』第1巻が最初だと思う。A先生単独作としては、おそらく1980年にシンエイ動画版テレビアニメがスタートした『怪物くん』だろう。
 前年にシンエイ動画版『ドラえもん』がスタートして、いわゆる「藤子不二雄ブーム」が巻き起ころうとしていたときに『ドラえもん』に続くアニメ化作品として選ばれたのがA先生の『怪物くん』であり、私も怪物くんと多彩なモンスターたちの巻き起こす物語には夢中になった。
 そして、次に1981年にテレビアニメ化された『忍者ハットリくん』に触れることになる。

 『怪物くん』や『忍者ハットリくん』はテレビアニメ化に合わせて漫画の新作も連載されたが、どちらかというとテレビアニメ主体で動いていたように思う。
 私が本格的にA先生の作品に夢中になるのは、11歳頃の時に『まんが道』を読んでからだ。ちょうどNHKの「銀河テレビ小説」にて『まんが道』がドラマ化された頃だったと思うが、友人が秋田書店版の『まんが道』(あすなろ編)の単行本を持っており、それを見せてもらったのが私の『まんが道』との出逢いだった。
 同時期に、「藤子不二雄のコンビ解消」というファンにとっては重大な出来事があり、そこで大部分の作品は個別に描かれていたことが明かされた。私自身は、藤子作品に2種類の作風があることは何となく気がついていた程度で、コンビ解消となってようやく「この作品はA先生の担当だったのか」とはっきりわかったのだった。

 その後、中学生になって藤子不二雄ランドを集めるようになり、A作品・F作品を問わずに色々と読んでいくのだが、A作品では『まんが道』や『プロゴルファー猿』といった長編に特に引き込まれた。
 また、中学生の時はTBSの『ギミア・ぶれいく』内にてアニメ『藤子不二雄Aの笑ゥせぇるすまん』がスタートして一大ブームとなり、私もそれをきっかけに原作を読んだのだった。そして、A先生のブラックユーモア短編にも強く惹かれて、中央公論社から出た愛蔵版の『藤子不二雄Aブラックユーモア短篇集』(全3巻)は何度も何度も愛読することになった。
 他に、特に好きな作品を挙げるとするならば、『黒ベエ』『仮面太郎』『ビリ犬(『ぼくら』版)』などが思いつく。

 その後も、色々な藤子不二雄A作品に触れてきたが、あまり詳しく書いてもしつこいので、この辺にしておく。
 とにかく、A先生の作品の数々は、私の成長と共にあり、私は人生の大部分を藤子不二雄A作品と共に過ごしてきたのだ。

 私は人生の半分以上を名古屋で過ごしていたが、大人になってからはしばしば遠出で東京や高岡・氷見に遊びに行くようになり、そこで何度かA先生のお姿を拝見したり、お話しすることができたのは、非常に幸せな時間だった。
 直接お話しできたのは三度ほどで、そのうち2回はサイン会でサインをいただくときだが、あと一回は藤子ファン有志が高岡・氷見に旅行したときに、A先生と一緒に生家の光禅寺を訪れて、そこでお話しする機会があったのだ。
 この氷見旅行がいつのものだったか、当ブログの過去記事などを確認して調べたのだが、はっきりしなかった。21世紀になってからなのは、間違いないと思うのだが。一時期は毎年のように高岡や氷見で藤子ファンの集まりがあったものだった。
 なお、サイン会についてはこちらこちらで記事にしている。

 私は、物心ついたときはもう藤子ファンだったし、これからもずっとそうだろう。
 藤子不二雄A先生の作品は、一部の入手困難なものを除けば、電子書籍を含めて何らかの形で読めるようにはなっている。これからも、ずっと藤子A作品が読み継がれていって欲しい。
 もちろん、ファンとしてはいつかは完全な「藤子不二雄A全集」が刊行されることを望みたいが、まずは今あるものが読まれることが何よりだと思う。

 藤子不二雄A先生、これまで本当にありがとうございました。そして、これからも残された作品で楽しませていただきます。
 最後に、藤子不二雄A先生のご冥福を、心よりお祈りいたします。



(4/17 追記)

 本文中で、氷見でA先生と光禅寺へ行ったのがいつだったかはっきりしないと書いたが、その後ある方よりご指摘があり、2002年に「藤子不二雄Aまんが原画展」が開催されたときのことだと判明した。
 現在は公開していない過去のウェブ日記で、ちゃんとその時の興奮を書いていたのだ。せっかくなので、その部分をここに引用しておく。


(前略)
 同じく13時前にはA先生もご到着して、開会式。続いて「ひみキトキトまんが道大賞コンテスト」の表彰式を挟んで、A先生が「用心棒」を描くにあたって取材されたという黒澤雄太氏の剣技の実演があった。そして、その後は知人達と共にA先生の生家「光禅寺」にお邪魔させていただいた。光禅寺には、以前に藤子MLの高岡オフ会でも一度訪れているが、その時と大きく異なるのは、今回はA先生がいらっしゃるという点である。前回は中に上がらせていただいただけで感激だったが、今回はそれに加えてA先生と直接お話しをすることが出来たのだ。もう言葉に出来ないほどの大感激である。A先生のお話は、一つ一つがとても面白く、思わず聞き入ってしまった。ここで内容を書くわけには行かないのが残念だが、誰も知らなかったような興味深いお話をたくさんお聞きすることが出来て、気が付いたら1時間以上も経っていた。時間を忘れるとは、まさにこういう事だろう。
(後略)
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