藤子・F・不二雄大全集『モジャ公』感想

 25日に、藤子・F・不二雄大全集『モジャ公』が発売になった。

 私にとって、『ドラえもん』を別格とすれば、藤子・F・不二雄作品の中で一番好きな作品が『モジャ公』だ。
 『モジャ公』を初めて読んだのは、中学生の時だった。ぼつぼつと藤子不二雄ランドを集め始めていた時、古書店でたまたま目について第1巻を購入したのがこの作品に触れるきっかけだった。1巻を一読して、まだこんな面白い藤子作品を読んでいなかったのかとびっくりさせられた。翌日に、急いで第2巻と第3巻を新刊書店で買ってきて読むと、2・3巻は1巻より更に面白くて、完全に『モジャ公』の世界にのめり込んだのだった。

 誇張抜きで、『モジャ公』は100回以上は通して読んでいるはずだ。なにしろ、一日に何度も読み返す日々が、一ヶ月くらいは続いたのだから。とにかく、『モジャ公』は中学生の私にとって、この上なく魅力的な作品だった。しっかりとしたSF設定と、その上で繰り広げられる空夫・モジャ公・ドンモの三人(?)の数々の珍道中の面白さは、それまでF作品も含めて他の漫画では味わった事のないものだった。何より、主人公三人組の行動原理がいい加減なところがいい。三人がイキアタリバッタリに行動しているように見えて、最終的には話にきちんとしたオチが付くあたりは、F先生の話作りの上手さがうかがえる。
 好きなエピソードを挙げるときりがないが、強いて一番を挙げるとすれば「自殺集団」だ。誰も死なない星・フェニックスで、「自殺」と言う文字通り生死に関わる事を見せ物にする「価値観の逆転」が素晴らしい。「建設的生産的発展的自殺」などという言葉は、F先生でないと思いつかないだろう。それに、「死」をテーマにしているだけあって、F作品ではなかなかお目にかかる事のないグロ描写がバンバン出てくるのも新鮮だ。最後にタコペッティが映した映画「宇宙マル秘地帯」は、地球の事を描いているのだろうけど、あえて「地球」という単語を出さないところも、洒落ている。
 そして、あらためて思うのだが、「自殺集団」は原作に忠実にアニメ化して欲しい。劇中曲の「自殺のブルース」「自殺のスキャット」の2曲も、作ってくれれば言う事はない。それにしても、「自殺のブルース」の歌詞は、すごいセンスだ。「飛ーんでった飛んでった モジャラの首がとんでった」と言うが、一体あの身体のどこからどこまでが首なのか、実に気になる。


 と、これだけ好きな作品が、いよいよ藤子・F・不二雄大全集で登場したのだから、喜ばずにいられない。
 ただ単に全集で刊行されただけでなく、今まで未収録だった連載第2回および『たのしい幼稚園』版全話、単行本での描き変え・描き足し前後のバージョン違いと未収録扉絵も可能な限りフォローしており、まさに「完全版」と言っていい内容だ。そのような本を作ろうという心意気が、まずは嬉しい。
 実を言うと、『モジャ公』に関しては以前に国会図書館で可能な限り初出誌の『週刊ぼくらマガジン』を借り出して、扉絵や単行本での描き足しや描き換えなどの差異をチェックした事がある。『モジャ公』では初出と単行本で大幅に内容が異なるのは、「地球最後の日」中公愛蔵版ラスト部分が唯一で、他にはほぼ無いと言っていい。描き足し・描き換えは専ら、連載前後回でのコマの重複の整理や広告スペースを埋めるために行われている。
 そんな事をしていたので、未収録扉絵などには個人的には新鮮味はなかったのだが、『週刊ぼくらマガジン』創刊号が国会図書館に所蔵されていなかったため未見だった連載第1回の初出版を、今回の全集で読めるようになったのは、非常に嬉しかった。
 また、『たのしい幼稚園』版も、今回あらためて読んでみると、各回で訪れている星にはそれぞれ趣向が凝らされていて、幼年版とは言えなかなか面白い。
 特に、「木が人をうえる星」で見られる、笑顔で人間が地面から生えている絵からは、形容しがたい異様さを感じる。人が木のようになって生えているという点からは筒井康隆の短篇「佇むひと」を連想させられたが、調べてみると「佇むひと」は1974年の作品なので、『モジャ公』の方が早く描かれている。さすがに「佇むひと」が、たのしい幼稚園版『モジャ公』の影響を受けたと言う事はないだろうが、なかなか興味深い。


 ともかく、『モジャ公』はFファンのみならず、面白い漫画が読みたいという人になら迷わずお薦めできる作品だ。その上で、今『モジャ公』の単行本を入手するなら、全集版をお薦めしたい。今回の全集版刊行をきっかけに、『モジャ公』が、今までより多くの人に読まれるようになって欲しいものだ。
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綾辻行人『奇面館の殺人』感想

 あけまして、おめでとうございます。ご挨拶が遅くなりましたが、本年も当ブログをよろしくお願いします。


 新年最初の話題は、綾辻行人『奇面館の殺人』(講談社ノベルス)の感想。前作『びっくり館の殺人』以来、実に6年ぶりの「館シリーズ」新作だ。名古屋でも、昨日ようやく店頭に並び、無事に購入することが出来た。その後、帰宅してから一気に読み続けて、本日昼前には読了した。ページ数にして2段組・約400ページでそれなりのボリュームだが、気にせず作品世界に没入することができた。
 ミステリはそれなりに読んでいるが、こういう感覚を味わえる作品は、そうは多くない。その意味で「館シリーズ」は、私にとって特別な作品群だ。そんなシリーズの最新作がついに出たのだから、ゆっくり読めと言う方が無理な注文だ。

 とりあえず、一読しての感想は、「なるほど、こうきたか」と言ったところ。まだ発売から間もないので、ここでは具体的な内容について踏み込んだ記述は可能な限り書かないでおくが、重要なアイテムである「仮面」の使い方については、よかったと思う。登場人物みんなが仮面を付けているという設定を聞いて、誰もが思いつくのは、顔が隠されていることを利用した「入れ替わり」だろう。本作では「同一性の問題」として論じられているが、実のところ、犯人は…。

 ここでは、これ以上は書くまい。久々の「館シリーズ」、十分に楽しめた。綾辻作品でお馴染みの○○トリックももちろんあり、ちゃんと「驚き」を味わうことが出来た。綾辻作品には「気持ちよく騙される」快感を求めているので、その点では満足だ。館の主人・影山逸史のキャラクターについては、もう少し踏み込んで描いたら、もっと面白くなったのではと思わないでもないが、それを過剰に行うと『暗黒館の殺人』の二の舞にもなりかねない。今回は、作品の分量はちょうどいいところに収まったと思う。
 ただ、『十角館の殺人』初読時のレベルでの驚きがあったかとなると、あれには及ばないと言うのが正直な感想だ。長年、綾辻作品を読んでいると、○○トリックに対して身構えて読むから、その分どうしても「驚き」は弱くなってしまう。
 思いかえすと、『十角館の殺人』は、中学生になってミステリから離れていた頃、母の本をたまたま読んで、はまってしまったのだった。あの頃は若かったので一晩で一気に読んで、見事なまでに騙されてしまい、結末近くのあの「一言」には大きな衝撃を受けた。私が、新本格作品を主としてミステリを本格的に読むようになったのは、『十角館の殺人』のおかげと言っていい。
 その後、「館シリーズ」は、ほぼ刊行順に読んで、追い続けてきた。『水車館の殺人』『迷路館の殺人』『人形館の殺人』『時計館の殺人』『黒猫館の殺人』と、それぞれトリックの中身は異なるが、どれもみな私に「驚き」を与えてくれた作品群だ。

 『黒猫館』の次は『暗黒館の殺人』だが、これは残念な作品だった。感想については発売当時に書いているので、そちらをご覧いただきたい。今更だが、『暗黒館の殺人』は、作品の長さに対して「驚き」が弱かった。気合いを入れて「暗黒館」内部の世界を描き込んでいるのはわかっても、話が先に進まない事に対する苛立ちの方が大きくなって、結末まで読んでも「なんだ、そんなオチか」と思ってしまった。
 そして、その次は『びっくり館の殺人』。唯一、初刊が講談社ノベルスでなく「ミステリーランド」だった作品だが、これは話が短いのはともかくとして、「驚き」が過去作と比べて一番弱く感じて、その点では『暗黒館』よりも更に残念だった。伏線めいた描写がいくつか放置気味なのも気になった。
 この二作を読んで、もう「館シリーズ」はダメなのかと思った時期もあった。それだけに、今回の『奇面館の殺人』が、原点回帰した感じで楽しめたのは嬉しかった。


 『奇面館の殺人』の名前は、かなり前から予告されていたが、現時点で次の「館」がどんなものになるのかはわからない。次はシリーズ完結作となるだけに、凝りに凝った「館」を期待したい。今度は、三年くらいで出たらいいなあ。
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