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極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

新再エネ立国九州論 Ⅰ

2015年02月28日 | 時事書評


 

 

 

● 再エネ国に変わる九州 宮崎県都農町

森林資源の豊富な宮崎県が新しく生まれ変わろうとしている。地域の未利用材だけを燃料に使
うバイオマス発電所が運転を開始した。山林に残された未利用材から、一般家庭で1万1千世
帯分の電力を作り出すことができる。発電所の構内には木材をチップに加工する設備を備えて、
年間に7万2千トンを燃料に利用する事業が2月1日より運転を開始。都農町内で2009年に設
立したグリーンバイオマスファクトリーが建設運営し、発電能力が5.75メガワットで 年間
4千万キロワットアワーhの電力が供給できる。発電設備には木質バイオマスでも高い燃焼効
を発揮する「循環流動層ボイラー」を採用した。ボイラーの中で高温の砂を循環させながら
焼させる方式で、化石燃料と比べて燃えにくい木質チップでも効率よく燃焼させることがで
る。450℃以上の蒸気を発生し、発電機のタービンを高速に回転する仕組み――ボイラ最
連続蒸発量:毎時25トン、主蒸気圧力:5.4メガパスカルゲージ――という。




● 住友-フォスターウイラ型CFBボイラ技術の特徴

流動床式ボイラ(「CFBボイラ」ともいう)へのバイオマス燃料の適用が求められている。
バイオ
マス燃料のうち、モミ殻やEFB(Empty Fruit Bunchesなどの低品位のバイオマス燃
料はアルカリ
成分を多く含み、このアルカリ成分は低融点の化合物が生じる。低融点の化合物は流
動材(「ベット材」ともいう)に付着し流動不良を引き起こす可能性があり、炉内温度を低融点の化合物
が生じない程度、具体的には750℃以下に維持するなどの制御が必要である。一方で、流動床式ボ
イラの流動材中に酸化マグネシウム(MgO)を添加すると、低融点の化合物の生成を抑えることがで
きるが、酸化マグネシウムを直接に流動材中の添加は一般的ではないため、通常は、炭酸マグネシウ
ム(MgCO)や水酸化マグネシウム(Mg(OH))を供給する。このため、バイオマス燃料を用いる
CFBボイラの燃焼方法で、フェロニッケルスラグをバイオマス燃料に加えて流動床式ボイラ
で燃焼することで、フェロニッケルスラグ中には酸化マグネシウムが含まれているため、アル
カリ珪酸塩の生成が抑制でき、低融点化合物の生成に伴う流動不良発生の虞が低減し、CFB
ボイラの高温の運転ができるため、エネルギー回収効率の向上を図り易くなるということを特
徴としたボイラーシステムである(下図参照)。
 

循環流動層ボイラは、高温で流動する固体粒子を循環させながら、燃料を燃焼し、蒸気を発生
させることができる。このような循環流動層ボイラを支持する方法として、例えば鉄骨架構を
設け
循環流動層ボイラを吊り下げる方法が採用されているが、据え付け工事上、鉄骨架構を設
置場所と大きな鉄骨架構を設ける必要があり、工期が長期化してしまう。下図のように、循環
流動層ボイラでは、複数の主要ユニットには、設置面に向かって延びる脚部がそれぞれ設けら
れていて、、脚部に支持することで、複数の主要が、設置面で自立可能となり、鉄骨架構など
を設けることなく、脚部を各主要ユニットを設ける作業も容易に、短期間で行える新規考案で
ある。




● 阿蘇のふもとで地熱と小水力を増やす

日本有数の活火山である阿蘇山から北へ約30キロメートルの一帯に「わいた温泉郷」が広がっ
ている。豊富な湯量を誇る温泉街で、地元の住民26人が地熱発電を目的に「合同会社わいた会」
を2011年に設立して、発電所の建設計画を進めてきた。その地熱発電所の完成が迫っている。
入する発電設備の能力は2メガワットで、3月中に運転を開始する予定だ。地熱発電の設備利
用率(発電能力に対する実際の発電量)は標準で70%と高く、太陽光や風力と比べて安定した
電力源として使うことができる。2メガワットの発電設備で年間の想定発電量は1200万キ
ロワットになり、一般家庭で3千4百世帯分の使用量に相当。

熊本県の再生可能エネルギーは沿岸部の豊富な日射量を生かして太陽光発電が先行してきた。
それに続く形で地熱や水力、さらにバイオマスの導入プロジェクトが県内の各地に広がり始め
ている。中でも地熱と小水力は固定価格買取制度の認定設備の規模がいずれも全国で第2位に
躍進する。

 




● 大分県は地熱発電だけじゃない

 地熱発電の導入量で全国トップの大分県では、地域の森林資源を生かした木質バイオマス発電のプ
ロジェクトが活発に始まっている。農林水産業と連携して地産地消型の再生可能エネルギーを拡大す
る取り組みだ。新電力も参画して、電力会社に依存しないエネルギー供給体制が着々と広がっている。

 

大分県は特性によって6つの地域に分けることができる(上図)。このうち木質バイオマスが
盛んなのは内陸部の3地域。特に西部の日田市南部の佐伯市を中心に大規模な発電プロジェク
トが相次いで立ち上がっている。日田市では地元の企業2社が共同で設立したグリーン発電大分
の「天瀬(あまがせ)発電所」が2013年11月に運転を開始した。発電能力は5.7メガワットで、
一般家庭の使用量に換算して約1万世帯分の電力を供給することができる。燃料に使う木材は
地域の森林事者17社で構成する協議会が供給する。森林には間伐材や根曲がり材などが大量に
発生、用途のない木材はC材やD材と呼ばれて山林の中に残置されている。こうした未利用の木
材を森林事業者が集約して発電所に供給する体制を作り上げる。


 

福岡県は2020年に向けて大規模な発電設備の導入計画を急ピッチで進めている。北九州市に太
陽光・風力・火力発電所を相次いで新設する一方、有明海の沿岸部ではメガソーラーの建設が
――特に急速に拡大しているのが太陽光発電だ。買取制度が始まってからの1年間でメガソー
ラーが40カ所も稼働して、発電規模は8万キロワットに達した。件数・規模ともに全国で第1
位である。さらに稼働予定の設備を含めると40万キロワットになり、これを加えただけで2020

年度の目標に届く――目白押しの状態だ。県が運営する治水用のダムに小水力発電設備を導入
るプロジェクトも展開する。さて、このように佐賀県、長崎県、沖縄県を含めた全地域の九
州は再生エ
ネルギー導入の最先進地域となるになることは、あるいは、創意工夫を行うことで
世界一の地域となる
右翼に位置しすると携帯される。 

                                          (この項続く)  

 

● 『吉本隆明の経済学』論 11

   吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!
  

 吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズと
 も異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかっ
 たその思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造
 とは何か。資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の

 核心に迫る。

  はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 労働価値論から贈与価値論へ
 第5章 生産と消費
 第6章 都市経済論
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき
 

 第2部 経済の詩的構造

  2 言語にとって増殖とは何か


                                        第二部 経済の詩的構造 中沢新一

 こうして想像界(とさらにその上につくられた象徴界)をもつことによって人間の心では、
 たえ
まない意味の増殖が起こるようになる。いやそれ以上に、現世人類型の脳に進化した人
 間の脳=
心は増殖性を本質とし、それを私たちは吉本隆明やハイデッガーとともに「詩人性」
 と呼ぶので
ある。この「詩人性脳」には特有の構造が備わっている。それは生起と喩の過程
 の結合として
その輪郭を描くことができる。

    ※

   この詩的構造を備えた脳=心が、すべての交換現象を発生させるのである。言語能力では
 コト
バが用いられ、そのコトバは意味増殖の現象をいつでも引き出すことができる。コトバ
 がはらむ
意味増殖能力を最大限に引き出すために、詩という言語の組織体を人間は生み出し
 てきた。
同じ現象が、物の交換の現場でもおこるのである。物の交換の本質においても深層
 では私の言
うところの「詩的構造」が働いている。すなわち生起と喩の複合でできた一つの
 構造が、あらゆ
る交換の現場で活動しているのである。
 

 物を仲立ちにした交換の現象を二類型に分けることができる。商品の交換と贈与の交換のそ
  れぞれ
として、その1類型を描くことができる。物と物を商品として交換するときには、2
 つの異なる物の
間に等しいものがあると無意識のうちに考えられており、そのために「1ク
 ォーターの
小麦は、Xポンドの鉄と交換」できる。ここでは等価交換の原則が、交換をコン
 トロールしている。この様子は『資本論』の中で詳細に分析されている。

 これにたいしてマルセル・モースの研究した贈与的交換では、だいぶ事情が違っている。あ
 る人な
いし集団から何かの贈り物をもらった人ないし集団は、それにたいするお返しをしな
 ければならな
いという、これまた無意識の要請にしたがって、贈り物をくれた人ないし集団
 にそれ相のお返しを
多くの場合はもらった物よりも価値のある物をお返しする。モースは贈
 与交換の当事者が考えてい
ることにしたがって、贈り物には「ハウ」の霊力が付着している
 ので、贈り物をもらったら相手に別の
物でお返しをして、その「ハウ」を贈り戻す必要があ
 る、そのさいには、できるだけ「ハウ」を増殖さ
せてお 返しするのがよい。そのためにも
 らった物より価値の大きい物でお返しするのがよい、と考えた。贈与では交換を通して価値
 は増殖するのである。贈与の慣習
は、前資本王義社会で一般的におこなわれていた、古代以
 来の交換形態である。これにたいして
資本主義社会で一般的な商品交換においては、等価交
 換の原則が貫徹されている。
前者は交換に基づく価値増殖を前面に出し、後者では交換その
 ものからは価値増殖はおきない。
ところが資本主義システムでは、前資本主義社会をはるか
 にしのぐ価値増殖が起こり、成長が実現
されている。二つの交換形態は一見すると相反しあ
 っているように見える。

  贈与と交換というこの二つの交換形態は、一見するとまったく別のメカニズムがつくって
 いる現象のように
見えるが、じっさいには同一の「交換の詩的構造」の上で生起している双
 対(Dual)現象にほかならない。そのことを人類学者のサーリンズはこう書いている。



    この点て、モースは、『資本論』第二章のマルクスに、はるかにずっと似てくるようで
  ある。こういったからといって、礼を失したことにはならないとおもうが、ずっとアニミ
  ズム的なのである。1クォーターの小麦が、Xポンドの鉄と交換できる。これほど明白に
  ちがっている、これら二つの物の間で、等しいものは何であるのか。まさしく、マルクス
  にとって、問題は、これら二つの物のなかで、両者を一致させるものは何かにあったわけ
  で、交換する二人の当事者について、ひとしいものが何であるかが、問題であるわけでも
  なかった。同様に、モースにとっても、「与えられた物のなかに、受取人に返報させる力
  があるのか」が問題だったのである。そして、それに本員的な固有性から、という同じよ
  うな答えが、ひきだされる。マルクスにあっては、それは、社会的必要労働時間であった
  とすれば、モースにあっては、ハウにほかならなかった。

   マーシャル・サーリンズ『石器時代の経済学』山内和訳、法政大学出版局、1984年)




  マルクスが彼の同時代や後のいわゆる「近代経済学者」と決定的に違っていたのは、交換
 の背後で活動している「ひとしいもの」を問題にしたところにある。近代経済学者は「ひと
 しいもの」の活動を問題にするかわりに、交換過程の反復のなかに発生する「均衡点」を問
 題にした。これを私たちの視点にひきつけていえば、マルクスは交換を人間の言語と思考の
 基礎にある「喩の過程」のうちに置こうとしたのにたいして、近代経済学者たちは喩のよう
 な心的構造に基礎を据えるかわりに、言語や思考の外部でくりひろげられている物理的過程
 として、交換現象の本質を理解しようとしたと言える。 

  
この結果、労働価値説に基礎を置くマルクスの経済学は、近代経済学よりもはるかに「ア
 ニミズム的」となったのである。しかしそのおかけで、『資本論』は現代の脳科学や認知科
 学と同じ地盤の上に立つことになった。『資本論』の価値形態論は人間の脳=心の構造の理
 解から、価値を発生させるメカニズムを探りだそうとしている。そのおかけでマルクスの経
 済学は現代的な探求と共通の地盤に立つことになっている。

  資本の本質である増殖の理解に近づくためには、生起と喩の合体した「詩的構造」として
 つくられている人間の脳=心の本性にもとづいて、それを理解しなければならない。ところ
 が近代経済学の学としての構造には、生起や喩を合む詩的構造についての理解がはじめから
 排除されている。詩的構造が社会的現実の表面にあらわれてこないことが、そのもっとも大
 きな原因でありまた近代科学がそれを扱う方法をまだじゅうぶんに確立できていないからで
 ある。そのため近代緑済学は多くの場合社会的現実の追認に終わってしまい、たとえ目を開
 いても「世界を凍りつかせる」ような事態にはいたらない。ところがマルクスや吉本隆明の
 経済学では、それが起こってしまうのである。

  人間に特有な増殖脳の理解には、詩的構造のモデルが不可欠である。増殖性を本質とした
 その間の脳=心が資本主義を生み出したのであれば、マルクスや古本隆明がそうしようとし
 たように、経済学にも詩的構造の組み込みが必要である。このような試みは古典派経済学の
 冒険のあとでは、すっかり放棄されてしまっている。私は『吉本隆明の経済学』をつうじて
 まだ未来に属しているそのような経済学への道筋をつけてみたい。  

 


  3 詩的構造を持った経済学

  経済学的な価値増殖の問題を、真性な「詩的構造」としてとらえ直してみるためには、近
 代資本主義システムの形成期にまで遡ってみる必要がある。そのとき経済システムの内部に
 根本的な変化が生じて、私たちが「経済の詩的構造」と呼んでいるものの姿が、経済学の表
 面から見えなくなっていくからである。

 近代資本主義の発達を準備したのは、農業の発達がもたらした大きな原初的蓄積である。と
 くにイギリスでは18世紀に入ると、家畜動物の力を利用した改良鋤が普及して広い農地の
 開墾が進んだ。この影響はフランスにも及んでいき、大規模農地での機械化農業の時代に入
 った。農業が蓄積した富をもとにして、資本主義的な工業生産の基礎が築かれた。それゆえ、
 資本主義的な価値増殖の問題を考えるには、農業がもたらす富とその資本への転化が重要で
 ある。

  農業からもたらされる利潤には、きわめて興味深い特徴がある。それが商工業の場合の利
 潤のように合理的計算にもとづく「いさおし」によるのではなく、一種の自然からの「賜物」
 としてもたらされるからである。農業は地球システムの活動に技術を介して参加する。その
 さいに地球システムとの協同によってより豊かな産出がもたらされるように工夫をこらす。
 この産出量から投入量(労働力、種子、肥料などにかかった諸費用)を差し引いた分か、利
 潤となる。

  このように農業では人間の計算的思考の及ばない地球システムの活動が関わり、そこから
 利潤=増殖分かもたらされるのであるから、言語の場合によく似て、増殖に潜在空間の生産
 力が関与していることになる。しかも穀物量で測られた産出量(output)から 穀物量に換算
 された役人量(input)を引いて得られる量から計算される「利潤率」は、経済学にとってき
  わめて合理的な基礎を与えることになる。ここから最初の近代的な経済学としての「重農主
 義(フィジオクラシー)」が生まれたのである。

  しかしイギリスでは、その後「囲い込み運動」などが起こり、農業と農村の解体が始まる
 ことになる。産業の中心が農業から工業へ移ってくる。囲い込み運動で土地を失った農民(
 イギリスのファーマー、フランスのフェルミエ)は、プロレタリア化して都市部に移り住み
 賃金労働者になっていった。そうなると、経済学の科学的基礎の作り替えが必要になってく
 る。
  重農主義は、私たちの言う「生起と喩」の二重構造に近い仕組みを組み込んである経済学
 をつくった。穀物の増殖をもたらしたものの総体を「自然からの贈与」として概念化するこ
 とによって、「生起=自然からの贈与」と「喩=交換システム」の組み合わせとして、初期
 資本主義の本質を表現しようとした。つまりそこでは産業システム全体の中心に「穴」が開
 いていて、そこから贈与的な力が流人してくるのである。この経済モデルは、詩的言語の構
 造モデルときわめてよく似ている。重農主義に特有な牧歌性はそこから生まれる。

  重農主義が創造したこのような経済学の理論モデルは、産業の中心が工業に移ったイギリ
 スで新しい時代にふさわしい経済学を打ち立てようとしたアダム・スミスに大きな影響を与
 えた。アダム・スミスは農業だけが生産的であるとする重農主義の考えを捨てて、工業生産
 も生産的であることを示そうとしたのであるが、そこにはまだ農業世界に包囲されていた工
 業に保たれていたある種の牧歌性が生き続けていた。


  


  アダム・スミスの後を受け継いだリカードはもともとが銀行家であったから、アダム・ス
 ミスが開拓した古典派経済学を、産業がもたらす論利潤をじっさいに貨幣価値で計算できる
 経済学につくりかえるという、困難な仕事に取り組むことになる。このときとても興味深い
 ことが起こる。
  リカードは「のあらゆる産業の利潤を規定するものは、農業者の利潤である」(『利潤論』
 1815年)と考え、それにもとづいて利潤計算の基礎づけをおこなおうとした。農業の産
 業としての重要性を否定しておきながら、工業生産における利潤まで「穀物比率」で理解で
 きると考えたのである。

  農業は製造業と違って、生産過程の投大淵と産出側とに、同じ穀物商品があらわれるから、
 農業における価値増殖は、労働者によって消費された穀物の超過分として、価値評価とは無
 関係に把握される。つまり増殖率を「穀物比率」という物量比として直接に計算ができると、
 リカードとその学派は考えた。

  サーリンズの表現を借りれば、重農主義の底には穀物の生命という形をとおして表現され
 た「アニミズム的なもの」が力強くセットされているが、農業の第一義性を否定して製造業
 の重要性を唱えた古典派の理論にも、同じアニミズム的なものがあらゆる産業を通底する「
 同一なもの」として流れ続けている。リカードはアダム・スミスのなかに潜んでいたこの考
 えを顕在化させ、それを計算可能な量につくりかえたのである。

   ※

  吉本隆明が『経済の記述と立場-スミス・リカード・マルクス』で問題にしていたのは、
 このことであった。アダム・スミスの経済学の内部には素朴で牧歌的な「うた」が聞こえる。
 このごった」はスコットランド民謡のような優しい詩性をたたえていて、たとえマンチェン
 スターの殺風景で薄汚れた工場街でそれが歌われていたとしても、その「うた」には自然に
 囲まれた落ち着いた生活の記憶が失われていない。

  そののちロンドンの銀行家リカードは、このアダム・スミスの生み出した「うた」の詩性
 をたたえた経済学を、複式簿記の計算に慣れた経済の実際家たちにも役立つ計算的な科学に
 つくりかえることをめざした。リカードはアダム・スミスの「うた」を散文の「ものがたり」
 に改造しようとしたのである。その際、「ものがたり」を駆動させる原理として、彼は『国
 富論』が乗り越えたはずの重農主義経済学に由来する「穀物比率」という概念を再利用した。
 リカードの時代に書かれていた物語がみなそうであったように、「ものがたり」を駆動させ
 るには、自己変形しながら転形流動する「同一のもの」が必要で、『源氏物語』における御
 霊のように、それはある種のアニミズム的な性質を帯びている。

  マルクスはリカードの理論から出発しながらも、体系の要となる場所から「穀物比率」と
 いうアニミズム的概念を取り除いて、古典派経済学を真の科学につくりかえようとした。そ
 のときリカードの「ものがたり」は「ドラア」への変化を起こした、というのが吉本隆明の
 考えである。 穀物は自分の内部に増殖性の原理を含み、それによって増殖し、利潤を発生
 させる。したがって生命の増殖率にほかならない「穀物比率」を自分のうちに取り込んであ
 る理論は、生起の過程を組み込んだ詩的構造の特徴を持つことになるが、これは製造業や運
 輸業ではなりかたない。リカードはまだ「農業利潤の先決性」という考えにとりつかれてい
 た。マルクスはこれを否定して「穀物利潤」の概念に変わる新しい概念を剔出することによ
 って、増殖の現象の解明に向けようとした。




                                        第二部 経済の詩的構造 中沢新一


資本の本質である増殖の理解に近づくためには生起と喩の合体した「詩的構造」として つくら
れている
人間の脳=心の本性にもとづいて、それを理解しなければならない。ところが近代経済
学の学としての
構造には、生起や喩を合む詩的構造についての理解がはじめから排除されている
――との件こそがコアだと告知される。ますます目が離せなくなる。

                                           (この項続く)  


 

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山猫の慟哭

2015年02月27日 | 時事書評

 

 

 

  
         
春の岬旅のをはりの鴎どり / 浮きつつ遠くなりにけるかも

    
                                            三好達治 「春の岬」

 

 

● 謎が深まるセレス準惑星で点滅する2つの光 

 

太陽系で最も小さい準惑星「セレス(Ceres)」の表面に出現した正体不明の2つの明るい点を
捉えた米航空宇宙局(NASA)の無人探査機「ドーン(Dawn)」の画像。19日にセレスから約4万
6千キロ離れた位置から撮影されたものだという。正式な説明はないが、クレーターに凍結した
氷よる反射光ではないかとも推測されている(上2つの写真をクリック)。


 

● 『吉本隆明の経済学』論 Ⅹ

   吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!
  

 吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズと
 も異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかっ
 たその思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造
 とは何か。資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の

 核心に迫る。


 はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 労働価値論から贈与価値論へ
 第5章 生産と消費
 第6章 都市経済論
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき
 

 

 

 第2部 経済の詩的構造

  1 詩と経済学

  ずいぶん以前のことになるが、三好達治の詩に夢中だったことがあって、その頃誰かの書いた
 ッセイの中に、三好達治は毎晩寝る前に、『資本論』の一節を読むことを日課にしていたと
 書
いてあったのを読んで、意外に思ったことがある。ボードレールの翻訳者でもあるこの詩
 人と
まだ読んだこともなかったけれど、難しい経済学の本であるということだけは知ってい
 たその書
物との間に、いったいどんなつながりがあるのか、そもそも詩と経済学の間にどん
 な関係がある
のか、その頃の私には、皆目見当がつかなかった。
 

  しかしその後『資本論』を実際に読んでみて、三好達治がその本から何を学ぼうとしてい
 たの
かが、うっすらと理解できるような気がした。マルクスは資本主義という巨大で複雑な
 生命体を
相手にして、まずその生所体の細胞にあたるものの分析解剖から始めている。資本
 主義は巨大な
商品の集積によってなりたっているが、商品が交換されなければ価値の増殖と
 いうことも起こら
ず、そうなるとそもそも資本主義も成立しえない。したがって資本主義の
 細胞は交換行為という
ことになる。

  交換は具体的な物を介しておこなわれる。しかしその交換される物の背後で、「異なる物
 を等価な
価値を持つとみなす」という抽象的な思考が動いているのでなければ、商品交換は
 おこらない。物質
と非物質的な思考の矛盾にみちた出会いが、交換というものを生み出して
 いる。三好達治はこの仕組みの中に、詩の場合ときわめてよく似た過程を見出していたので
 はないだろうか。

  詩は言語の意味と音の響きとの結合でできている。日常言語の場合では、意味のほうが前
 面に出てくるが、言語の機能や有用性を背後に退かせていく詩では、音の響きの面が前面に
 出て来る音の響きは物質的な振動である。詩においては、物質的な響きや色彩やイメージ群
 の運動と、意味を伝えるための抽象的な思考とが、たがいにせめぎあい結びつきあう中から
 響きと意味の特別な結合体がつくりだされる。そういう詩の発生の仕組みと、マルクスが『
 資本論』で取り出してみせた資本主義の細胞である交換が発生してくる仕組みとは、じつに
 多くの共通性をもっている。

  三好達治にとって、『資本論』という本は、言語の奥に潜む詩的構造を解明する上で、こ
 の上ない霊感を与えてくれる書物であった。詩の実作者として知りたいと思っていた言語の
 秘密がその経済学の本の中には書かれている、と直感したのであろう。彼は毎晩その本を勉
 強した。私はそういう三好達治を詩人としてたいへんに偉いと思った。しかしそののち吉本
 隆明というもう一人の詩人の仕事を知るに及んで、さらに何歩もその先を歩もうとしていた
 人がいることを知った。



  吉本隆明は言語の奥に潜む詩的構造を探るだけでは満足せず、経済というものの奥に潜む
 詩的構造まで明らかにしようとした。そういう探求を通じて、彼は人間の心の仕組みの奥に、
 「詩的構造」としか名づけようのない活動かおこなわれていることをあきらかにしようとし
 たのだと私は考えている。この根源的な「詩的構造」から、いっさいの心的現象は立ち現れ
 る。その活動が言語の機構をくぐり抜けてくるときには、そこに詩が生まれて来る。交換の
 機構を通り抜けてくるときには、価値増殖が起こる。この価値増殖の現象が、資本主義の基
 礎細胞となる。
 
  したがって、人間の心の探求においてもっとも確実な方法は、この根源的な「詩的構造」
 を出発点にすることである、と吉本隆明は考えていた。この考えを言語論に持ち込めば、言
 語のコミュニケーション機能を出発点にするのではなく、言語の詩的ないし芸術的機能を出
 発点にすえる「言語芸術論」というものが、もっとも重要な言語の学問にならなくてはなら
 ないだろう。そういう考えに立って、『言語にとって美とはなにか』(勁草書房、1965
 年/角川文庫、1982年)をはじめとする、彼の言語をめぐる多くの思考は生まれた。

  こういう考えを経済学の領域で実行したらどうなるかを考えて、吉本隆明は多くの試行を
 くり返した。この『吉本隆明の経済学』という本は、そういう彼が残していった思考群に柔
 らかい秩序をほどこすことによって、彼の考えた「詩的構造を持つ経済学」というものに、
 ひとまず全体の見通しを与えてみようとしたものである。その本に付けられたこの解説の文
 章で、私は吉本隆明が考えた経済現象の奥に潜む詩的構造がどのようなものであったかを、
 私の思考の流儀によって、あきらかにしてみようと思う。こういう試みはいままでなされた
 ことがない。しかしこの試みはとても重要な意義をもっていると私は思う。

 それは、吉本隆明がとったようなやり方を通じてでなければ、資本主義の本質にもたどり着
 くことはできないし、現在それかたどりつつある変容の意味を理解することもできない、と
 私も考えているからである。吉本隆明は最後まで「自分は第一義的に詩人である」と明言し
 ていた。その言葉の意味がこの探求によってあきらかになるだろう。




  2 言語にとって増殖とは何か

  動物記号学のおかけで、イルカや鯨やさまざまな鳥たちがおこなっているコミュニケーシ
 ョンについて、多くの知識がもたらされるようになった。動物たちもそれぞれの様式のゲン
 ゴ(コミュニケーション・ツール)を使用していることが、そうした研究でわかるようにな
 った。植物や粘菌やウィルスなども、ユニークな様式でコミュニケーションをおこなってい
 る。生命はどんなものも、それぞれの様式のゲンゴを持っているのである。

  しかしそれらのゲンゴは、いまの人間(ホモサピエンス)が用いている言語とは、決定的
 な違いを持っている。人間以外の生命体のゲンゴでは、記号表現と記号内容との結びつきが
 自由ではない。あらかじめ遺伝子によって決定されたコードにしたがって、生存に必要な情
 報の伝達がおこなわれている。ところが人間の言語では、この記号表現と記号内容との結び
 つきに、かなりな自由度が与えられている。その自由度を用いて、人間はなんと無限の種類
 の「文」を、言語によって自由に生み出すことができるのだ。



   吉本隆明は人間の言語の持つこの特性を、「指示表出」と「自己表出」という二つの軸に
  よって理解しようとした。指示表出は外界に向けられた意識が、そこに見出される対象物を
 名指しする働きをする.犬を見て「イヌ」というような場合である。このとき記号表現と記
 号内容は緊密に結びついている。しかし話者がその犬をかわいいと感じ、「かわいいイヌ」
 と言うときには、それとは決定的に違う事態が起こる。意識は自己の内面に潜り込みをおこ
 ない、そこで出会った感情をひろって、もう一度記号表現の層に浮かび上がって来る。その
 とき指示表出の軸にある「イヌ」には、自己表出の軸から出てきた「かわいい」が結合して、
 人間味のある自由な言い方が生まれる。そのことが意味の増殖をもたらすのである。

  人間の言語は、指示表出と自己表出という二つの軸の結合としてつくられている。その結
 合の様式はさまざまで、指示表出の軸に強く傾くと、いわゆる客観的表現に近づくし、自己
 表出の軸に強く偏ると、主観的な表現と呼ばれる言い方が生まれる。吉本隆明はそのことを
 右のような図で表そうとした。
  この図はふつうの平面としてではなく、複素平面のようなものとして読む必要がある。つ
 まり二つの軸は同じ資格で交差しあっているのではなく、指示表出は現実世界に向かう「リ
 アル(実)軸」であるのにたいして、自己表出は潜在的な内面世界に向かっていく「ヴァー
 チヤル(虚)軸」をあらわしている。吉本隆明はこの図によってじっさいには、人間のおこ
 なうすべての言語による表現は、数学で言う複素数のように実軸と虚軸の交わりとして実現
 されており、そのことが人間の言語に自由を与えていると言おうとしているのだと思う。

  指示表出と自己表出という二つの質的に異なる軸の交差としてできていることによって、
 人間の言語は他の生物が用いているゲンゴに比較すると、格段に自由な表現能力を手に入れ
 ている。しかしそのことによって、人間は言語を用いて自分の心の中にあることを表現しよ
 うとするたびに、表現されない心の潜在空間からの影響を受けることになる。これをフロイ
 トのように言うならば、表現された言語の裏側には無意識という潜在空間がいっしょに張り
 付いている、ということになる。人間は自由であることの代償に、無意識というものを手放
 せなくなったとも言える。

  吉本隆明の言語論が、フロイトやユングに近いことを語るようになるのは、こういう理論
 上のつながりから来ている。

  詩はこのような人間の言語のいちばんおおもとの構造に立っておこなわれる表現である。
 潜在(ヴァーチヤル)空間が現実(リアル)の世界に転じる、その特異点のような場所で、
 言語による表現をおこなうのである。詩が鋭い点のような表現をつくりだすのは、そこがま
 だ現実世界の諸価値に組み込まれきっていない場所だからであり、そこでは現実世界への否
 定性が活発な活動をおこなっている。そのことを吉本隆明はつぎのように表現している。

  マルティン・ハイデッガーは『ヘルダーリンと詩の本質』一(斎藤信治訳、理想出版部、
 1938年)のなかでつぎのようにいう。
 

   人間の現存在はその根底に於て「詩人的」である。ところで詩とは我々の理解するとこ
  ろによれ
ば神々並に事物の本質において建設的に名を賦与することである。詩人として往
  むとは神々の現在のうちに立ち事物の本質の近みによって迫られることである。現
存在が
   の根底に於て「詩人的」であるとは、それは同時に現存在が建設せられたもの(根拠づけられたも
   の)として何らのいさおしではなく賜物であるの詣である。

                              (マルティン・ハイデッガー『ヘルダーリンと詩の本質』)





  現存在が詩人的であるとは、いさおしではなく賜物だ、という言葉は詩は歴史を担う根拠
 だという言葉はわたしの気に入る。これを、やさしく翻訳すれば、現存する社会に、詩人と
 して、いいかえれば言うべきほんとのことをもって生きるということは、本質的にいえば
 個々の詩人の恣意ではなく、人間の社会における存在の仕方の本質に由来するものだ、とい
 うことになる。これを、わたしのかんがえにひきよせて云いかえれば、わたしたちが現実の
 社会で、口を出せば全世界が凍ってしまうだろうほんとのことを持つ根拠は、人間の歴史と
 ともに根ぶかい理由をもつものだ、ということに帰する。
 
                   (吉本隆明 『詩とはなにか』思潮杜、2006年)

 



  ここには人間(現存在)の本質がその詩的構造にあることが、余すところなく表現されつ
 くしている。詩的構造は人間の本質をなすものでありながら、日常の中では隠蔽されてしま
 う。詩的構造が「ほんとのこと」に触れているからである。しかしそのことを「口に出せば
 全世界が凍っ
てしまう」。人間の本質をなす詩的構造が、現実にたいする否定性として作用
 するからである。

  人間の言語は木質においては現実軸と潜在軸が垂直に交わり合う、複素数のような構造を
 持っ
ている。しかしそのことはコミュニケーション機能を前面に立てる日常言語や散文では、
 表にあ
らわれてこない。詩がそれを表に出して表現する。言語の詩的構造の研究こそが、人
 間しか持た
ないこの言語の本性をあきらかにするはずなのである。こういう視点から、吉本
 隆明は言語学の
土台をひっくり返そうとした。彼の言う言語芸術論こそが、真実の言語の学
 に近づくための道を開く
。コミュニケーション機能を超える詩的構造を自らの立ち位置とす
 る、来るべき言語の学で
ある。


    ※

  『言語にとって美とはなにか』で吉本隆明が言語の中から取り出してみせた指示表出性と
 自己表
出性というIらの軸は、潜在空間から現実世界へ向かおうとする言語の現象性の本質
 に関わるも
のだった。私は潜在空間から現実世界へと向かうこの垂直的な過程全体を、ハイ
 デッガーになら
って意味の「生起」と呼ぶことにする。この生起をつうじて、潜在空間のう
 ちから立ちあがって
きた「意味の胚」はまだ孤立した状態にあって、おたがいの間につなが
 りがない。この生起して
きたばかりの孤立した点のような意味の胚を、詩的構造のもう一つ
 の重要な働きである「喩」が
組織するのである。
 
  意味の胚として生起したばかりの孤立点を組織する能力を喩は持っている。喩はだかいに
 似て
いる事物を「同じもの」としてまとめる能力である。この能力を獲得するために、人間
 の脳は特
別なニューロン・ネットワークの形式を発達させてきた。ニューロンに発生した興
 奮がニューロ
ンのつなぎ目であるシナプスを通過するたびに特定のパターンに縮減され、互
 いに似たパターン
をもったもの同士が「同じもの」として分類されていくようになる。この
 過程がニューロン・ネ
ットワークで反復されているうちに、しだいに安定した連結をつくり
 だすようになる。


  これによって、連うもの同士の間に、喩としての連結が形成されるようになる。連結によ
 って
新しい意味が発生するようになる。このとき意味の増殖が起こる。喩は生起したばかり
 の意味の
胚を、じゅうぶんに分化した組織を持つ意味の体系として組織していく能力として、
 現世人類の
脳に生まれたユニークな能力である。脳のニューロン・ネットワークが喩的能力
 を持つために、
いまの人間の脳の爆発的進化は起こったとも言える。

  このようなニューロン組織をもった人間の脳=心は、増殖性を一つの重要な本質とするこ
 とと
なる。潜在空間から意味の胚を立ち上げる生起の過程によって発生した意味世界は、さ
 らに喩の
能力を借りて増殖と成長をとげていくことができるからである。生起と喩という二
 つの過程によ
ってつくられる「意味をもっか人間世界」は、生まれたときからすでに増殖性
 を本質としていて
その本質は現在もまったく変わっていない。
  生起と喩の二つの過程は、図2にしめすような回路をつうじて、意味増殖をおこなう。

  人間の脳は喩的能力を備えたニューロン・ネットワークに進化をとげることによって、想
 像界という他の生物が持だない心的秩序をもつようになった。それによって人間は、他の生
  物とは違う仕組みで、現実界を認知するようになった。
 図のAとBを、現実界では分離されている二つの事物としよう。現実界で分離されている諸
 事物を結びつけるのは「因果性」である。この因果性を表現するのが、象徴界の記号連鎖で
 ある。

 ところが生起の過程がっくりあげている想像界では、AとBはともに潜在空間Xではつなが
 りあっていて、そのために喩のメカニズムはAとBを「同じもの」と見なしたのである。人
 間が想像界をとおして見た世界は現実界そのものではない。そこには歪みがある。その歪み
 を他の人間の認識との共同性によってより現実界に近い像に「焼き戻す」ために、共同的な
 言語の場である象徴界が人間にはなくてはならないものとなる。




  こうして想像界ではAとBとXがつくりなす「三位一体」の構造が、たえず心の動きに影
 響を与えることになる。事物aについ
ての認識には、潜在空間Xの力が及ぼされ、それはい
 ねば地下の
通底路を通じて、喩が「同じもの」と認めた事物Bの認識にも入り込んでいく。
 さらにはBの認識がAについての認識にも還流し
てくる。こうして、Aについての認識は喩
 のメカニズムを介して
膨らんでいき、増殖していくようになる。このときの意味の増殖を可
 能にしているのは、潜在空間からもたらされる(贈与され
る)力にほかならない。


                                       第二部 経済の詩的構造 中沢新一


今夜から第二部にはいる。ここでは吉本がたぐいまれなる読書家であり、世界に不二な思想家で
あることがわかるとともに、彼の眼精疲労の重篤さが如何ばかりだった
かと推測もできる。さて、
ここでもっと、早く読み進めなければと気が走るわたしがいるが、もう片方で「熟っくりと読み
たまえ」と囁くわたしもいる。

                                                      (この項続く)  

 




● 縄すてまじ! Ⅲ

沖縄県の翁長雄志(おなが・たけし)知事は26日の県議会で、6月23日の沖縄全戦没者追悼
式で読み上げる平和宣言に、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古移設に反対し、政府
に県外移設を要求していく方針を盛り込む意向を表明した。例年、首相が参列する追悼式の場で
沖縄の民意を示す狙いがあるとみられるが、政府・与党内からは見直しを求める声が上がってい
るという(「沖縄知事、平和宣言に「辺野古反対」明記へ」産経新聞 2015.02.27 )
。さらに翁
長氏は平和宣言について、社民党県議の代表質問に「辺野古の新基地建設に反対し、普天間の県
外移設を盛り込む方向で検討するとともに、平和を希求する県民の思いを県内外に発信していき
たい」と明言。さらに「過酷な地上戦が行われた沖縄の経験に基づき、戦争体験を継承し、恒久
平和の実現に取り組む」とも答弁したが、これに対し、政府・与党内では「普天間の早期返還」
と「県外移設」という現状では両立し得ない主張をする翁長氏への不信感が根強いが、今回の発
言はそれに拍車をかけた格好。政府高官は26日、記者団に、首相が予定どおり追悼式に出席す
るとの見通しを示した上で、「沖縄県の式典なんだから勝手にすればいい」と突き放したこと、
さらに、自民党の稲田朋美政調会長は26日の記者会見で、翁長氏の発言に関し「普天間飛行場
の移設問題は沖縄県にとり重大な問題であると同時に、わが国の安全保障にもかかわる問題だ」
と指摘。その上で平和宣言について「そういったさまざまな観点から検討、行動してほしい」と
再考を求めたとも伝えている。

このニュースに接し、「琉球征伐」「琉球処分(薩摩藩による併合)」「沖縄返還運動」に加え、
なぜか「成田空港反対闘争」のことを思い出していた。

※ 翁長知事、6・23平和宣言に「辺野古反対」明記へ 沖縄タイムス 2015.02.26 


● 余りにも命が軽い 2015年問題

川崎市の多摩川河川敷で同区の中学1年の刺殺体が見つかった事件で、神奈川県警川崎署捜査本
部は27日朝、上村さんの顔見知りの少年3人が事件に関与した疑いが強まったとして、殺人容
疑で逮捕状を請求し、リーダーとみられる少年(18)を逮捕した。残る2人についても同日内に逮捕す
る見通し。事件は発生から1週間を経て大きく動き出したと報じた(毎日新聞 2015.02.27 11:43)。
これを切っかけに事件の背景が明確になっていくことになろうが、わたしは、ミレミアムベイビ
ー(新世紀ベイビー)が成人していく過程で、これまでと異なった事件や社会現象が問題化して
いくだろうと想定しているがそのひとつの事例となるか注視している。



  ● 今夜の二曲


   避けられてるかもしれない予感
   それとなくそれとな<感じてた
   愛されてるかもしれない期待  
   かろうじてかろうじてつないだ
   話かおる、と
   照れたように言いかけたあなた
   逃げる私
   聞けよ、イヤよ、聞けよ、知ってるわ

   ひと晩じゅう泣いて泣いて泣いて
   気がついたの
   ともだちなんかじゃないという想い
   ひと晩じゅう泣いて泣いて泣いて
   わかったのに
   あまえも早<だれかをさがせよと
   からかわないで、エラそうに


                               『慟哭』

                             唄 工藤  静香           
                                          作詞 中島みゆき
                                          作曲 後藤 次利


「慟哭」は、工藤静香通算18枚目のシングル。1993年02月03日発売。発売元はポニーキャニオン。
フジテレビ系月曜9時枠ドラマ『あの日に帰りたい』(1993年01月11日~03月22日放送)の主題
歌。現時点で工藤最大の売上を記録している。工藤静香は中島みゆきの「やまねこ」と出会い、

シンクロナイズし成長してきたことが彼女自身の口からも語られている(NHK SONGS「工
藤静香~わたしに翼をくれた中島みゆきの歌~」)。バブルが弾け世の中がデフレの淵に真っ逆
さまに落ちようとしているなかで、皮肉にも好景気の絶頂に上り詰めた八面六臂期で、憂い顔の
彼女の歌に惹かれ曲を聴いていた。





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元和偃武再考

2015年02月26日 | 贈与経済

 



● エボラ出血熱 富士フィルムのアビガン錠で死亡率が半減!

西アフリカのギニアでエボラ出血熱治療に関する臨床試験を行っている医療慈善団体は、富士フ
イルムグループの富山化学工業が開発したインフルエンザ薬「アビガン」(一般名:ファビピラ
ビル)について、一部患者の死亡率が半減したとし、西アフリカ全域で使用されるべきだとの見
解を明らかにした。
ギニア南東部Nzerekoreの治療センターでアビガンの臨床試験を行っている国
際医療活動連盟(ALIMA)は、血中のウイルス量が低・中レベルの患者では、死亡率が30
%から15%に低下したと発表。ただ、ウイルス量が多ければ効果はみられないという条件がつ
く(ロイター 2015.02.23)。

尚、この結果の詳細は、シアトルで開催されているConference on Retroviruses and Opportunistic Infe
ctions(CROI
)会議にて2月25日(現地)に発表される。




※「抗インフルエンザ薬がエボラ出血熱に効く理由は?」(『今夜の3つの疑問』2014.08.27)
※「エボラ出血熱に対する「アビガン®錠200mg」の臨床試験(中間解析)で有効性が示唆」(富
  士フィルム ニュースリリース 2015.02.24)


● 『吉本隆明の経済学』論 Ⅸ

   吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!
  

 吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズと
 も異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかっ
 たその思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造
 とは何か。資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の

 核心に迫る。


 はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 労働価値論から贈与価値論へ
 第5章 生産と消費
 第6章 都市経済論
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき
 

 
 第7章 贈与価値

  

      

   一週間か二週間して小さなヤムは栽園からへ運ばれる。ついで男女子供など多くの
  協力者が動員され、贈物として姉妹の夫のところにとどけられる。大抵は同じ地区内でも
  距離がある。贈物を届ける人達はなかば祭の時のような衣裳をつけ、化粧し、花を飾り、
  全く愉快な一隊をなして出かける。彼らはまず栽園中を歩き廻り、作物を見まわしながら、
  ほめた
り批判したりする。まぐれでもあるいは人一倍の努力によってでも、優れた作物をつくった
    男の「名声」が拡められるし、有名な牧園師が住むでは彼の作物を見学したり(傍点
    筆
者)、以前のできと比較したりする。時には一村内でないしはいくつかの村の間で「品
  評会」
をやることもあり、誰もが自分や自分の村の面目にかけて最善をつくす。散傷心の
  あまり
昔はよく戦争や争いが起るほどであった。

   この時期、栽回は活気がみなぎり祭のようになる。ヤム芋の山が無花果や葡萄のような
  大
きい葉と一緒にあちこちの地面に散乱しており、その間に村人達がたむろしてヤム芋を
  奇麗
にしたり並べたりしている。一方では華やかに着飾った見物人の一団が、散らかった
  葉の間
を行ったりきたりする。皮膚の赤銅色と、祭に使うペチコートの赤と黄金色、本楯の本
   の深紅色、タコ銀子の淡黄色、そして長い葉の緑色など、これらがあるいは陶酔的あるいは牧歌
   的な南海の田園風景をかたちづくっている。

                        (マリノウスキー『未開人の性生活』泉靖丁蒲生正男・島澄訳)


  これは父(夫)から出自のおなじ氏族に属するじぶんの姉妹の家族にたいする贈与物を運
 ぶ祭
のような風俗と示威の有様だ。この祭りの風俗と示威の中心には、正体のわからぬ〈霊
 威〉にた
いする贈与と返礼がかくされている。だがわたしたちが現在かんがえるような正体
 のわかった
〈権力〉が介在するためにはどうしても贈与が、婚姻関係から解脱しなくてはな
 らない。婚姻関
係の内部で父(夫)が実の子どもに与えたい所有物と母(妻)の側の氏族か
 ら父(夫)に与えられる贈与物とが均衡するためには、交叉いとこ婚をとるはかないことは、
 さきにも述べた。
 
  では、婚姻関係を保ちながら贈与が父(夫)系と母(妻)系とのあいだで拡大するために
 は、父(夫)が母系の氏族と多重な贈与関係をむすぶのがいいことになる。この複数の母系
 氏族との多重な婚姻関係によって父(夫)は富を蓄積するとともに漠然としてではあるが複
 数の母(妻)系の複数の氏族を内包した版図ともいうべきものを獲得する。そして母(妻)
 系の氏族の系譜を継時的に存続させるために必要な母(告示の開祖の〈霊〉と交換される複
 数の〈威力〉を、父(夫)は獲得することになる。





  わたしたちがこの考え方に固執する根拠は、贈与が婚姻関係(母系氏族外婚制)を離脱し
 たあとまで拡張されたときに未開、原始の次の段階に想定されるアジア的な社会で贈与制度
 はいねば不変的な贈与ともいうべき貢納制に転化され、それと一緒に父(夫)は普遍的な〈
 霊威〉の集積ともいうべきアジア的な〈専制〉を獲得するようになる。アジア的な〈専制〉
 を強制的な収奪体制とかんがえ、貢納を恐怖にふるえる民衆の贈与という像でかんがえるこ
 ともできよう。だがこういう像にはすぐに仁慈にあふれ、政治にじかにはかかわらない、む
 しろ宗数的にだけ存在する専制の父(夫)と、すすんで貢納を献上する外部の他者としての
 民衆という述の像がついてまわる。

  わたしたちはアジア的な専制を、普遍化された多重な〈霊威〉の集積とみなし、普遍化さ
 れた多重な贈与としての貢納に対応するとみなした方が妥当な気がする。

 『古事記』神話のなかの伝承の初期天皇群は、記述の位置からいえば複数の母(妻)系の氏
 族と婚姻関係をもつことでそれぞれの氏族から多重な贈与をうけ、父(夫)としての〈霊威〉
 を多重化した者たちに該当している。記述の通りいえば、初代の神式は日向にいたとき阿多
 の小梅の君の妹にあたる阿比良比売と婚して二人の子どもが生れる。また大和に入ってから
 は三輪の狭井河の上に住む母系氏族の象徴(祖)伊須気余理比売のもとに通い、三人の子ど
 もが生れる。

 神武が死んだあと、日向で産んだ二人の子どもの兄の方が庶母にあたる伊須気余程比売に入
 婿する。そして神武が大和で伊須気楽程比売に産ませた三人の子どもが邪魔になり殺そうと
 するが、遂に殺される。そこで伊須気余程比売の母(妻)系の氏族は安泰で、三輪の地方に
 版図をもち、三人の子どもの末子が、この氏族を背景に次期天皇(綏靖)になる。ただ神武
 が畝大の白梼原に住んでいたのにたいし、葛城の高岡に住むようになる。これは母(妻)系
 への入婿制でありながら住居は父(夫)系に依存するかたちであるようにみえる。また母(
 妻)系氏族とじぶんの氏族との中間点に択ばれたともうけとれる。綏靖は師木の県主の母(
 妻)系氏族の首長(祖)である河俣毗売と婚してひとりの子どもが生れる。この子どもが三
 代目の天皇(安寧)ということになる。

 そして住居は片塩の浮穴にかわる。この安寧は河俣毗売の兄の娘である阿久斗比売と婚して、
 三人の子どもを生む。この三人の子どものうちまん中の子どもが四代の天皇(懿徳)になる。
 かれは軽の境岡に住居を定める。ところで三人の子のうち末っ子は二人の子を生む。そのう
 ちのひとりの子は淡道(淡路島)の御井に住居して二人の娘が生れる。なぜここで末子のこ
 とが記載されているのか。ふたつ理由がかんがえられる。ひとつは淡道に住居を定めたとい
 うことで、この母(妻)系の氏族の版図がはじめて大和地方を離れた遠隔に及んだことを暗
 示していることだ。

 もうひとつあるとすれば、この末子のふたりの娘(姉の名は蝿伊呂泥、妹の名は蝿伊呂抒)
 の系譜が格別の意味を神話時代にもったからだとおもえる(孝言記の記載では妹の蝿伊昌行
 の母系は播磨に版図をもった)。

 この伝承の初期天皇群は、はじめから特定の社会的な地位を占めていたものとみれば、母系
 優位の氏族制をもった初期社会の一般的な村落庶衆のあり方と同じに見なすことはできない
 だろう。だが婚姻の相手である母(妻)系の氏族を多重し、地域的に遠隔化することで版図
 が拡大される父(夫)の位置をうかがうことはできる。初期天皇群の相手として記載された
 それぞれの母(妻)系の氏族の祖(女首長)は、それぞれに親族と家族をもっていた。そし
 てこの親族や家族と多重化された婚姻関係をもった父(夫)とのあいだの媒介概念は贈与と
 いうより貢納というべきものに転化していったとおもえる。父(夫)の〈霊威〉の概念が贈
 与に対応するとすれば、貢納に対応する概念は、特異な〈霊威〉の集積としての〈専制〉と
  みなされる。




    2 消費資本主義の終焉から贈与価値論へ

 
                                    マルクスが分析しなかった未知の段階、消費資本主義

   日本の一次産業、農業みたいなものは、だいたい全産業の9%ぐらいだとお
もうんです。
 専専業の農家は9%のそのまた14%ぐらいです。日本の農業は兼業農家になっている、

 いうことです。もうひとつは産業の重点は第三次産業に移っています。流通とかサービス業
 とか
そういうところに重点が移ってしまっている。六〇%ぐらいだとおもいます。こういう
 産業段階にあるっていうのは、世界でいえば日本とアメリカとそれからフランスなどECで、
 それが先進費本主義っていわれているなかにはいっているとおもいます。この段階の特徴は
 何かっていったら、ぼくは消費資本主義っていってるんですね。消費資本主義っていうのは
 定義しますと、個人所得でも法人所得でもどっちをとってもいいんですけど、その所得の半
 分以上が消費に使われている仕会っていうこと、それからもうひとつ、消費支出のうち50
 %以上が選択消費っていいましょうか、つまり必需消費ではなくて、選んで使える消費って
 のが50%以上になっていることです。

 このふたつの条件があれば、消費資本主義段限って呼べるとおもいます。要は第三次産業が
 主なる産業になってる段階だとおもうんです。ぼくの理解の仕方では、それはマルクスなん
 かが分析しなかった未知の段階です。だからこれは分析しなおさなくちゃならない。そうい
 うより、マルクスがいま生きてたら分析するだろうように分析しなければだめなのじゃない
 ですか。つまりいままでのマルクス主義ではだめということです。ここでの問題は、消費と
 は何かってことになるわけです。マルクスのいい方をすると、消費とは遅延された生産だっ
 てことです。いちばん簡単なのは、いまここで天然の本の実があって、とってこれを食っち
 ゃえば、生産と消費とは同時性があるってことになりますね。

 そうすると、消費社会、消費資本主義とは何かっていったら、遅延された生産が闇値以上に
 なってしまっている、つまり生産の遅延、遅れってことが空間的にも時間的にもある段階以
 上になってしまった社会なんだということです。闇値があって、マルクス的に、消費は遅延
 された生産だっていう理解の仕方で分析できる段階に、境界点があるとすれば、その限界か
 ら向こうにいっちゃうと、消費は消費としての浮遊状態にあり、生産は生産でまったく別だ
 っていうことを想定しなければならないことになります。

 消費ってのは遅延された生産だっていえるある闇値を超えちゃったら、消費資本主義だって
 いう以外ない。それがいちばんてきめんに現われるのは第三次産業なんです。それはまった
 く未知の段階で、本格的にいうと、誰もがうまく分析したり説明したりできないでいるって
 いうのが、現状だとおもいます。ここで生じてくる問題は、予想外のことが、どんどん突発
 的におこってくることです。そこでは、欠如とか欠乏を基準に考え組み立てていったら、だ
 めなんじゃないかとおもうんです。もちろん分析の組み立てもそうですが、倫理の組み立て
 も、欠乏を元にしか倫理はだめなんじゃないかとおもいます。

 そうすると、段階っていうのだけが問題なんだとおもいます。消費資本主義は大衆の窮乏、
 欠乏をだいたいにおいて解いてしまったわけです。でも段階はこれで解けないだろうとおも
 います。段階っていうのは、彼が所得百万なのに彼は二十万だったとかっていうこの段階の
 ちがいだけは、資本主義ではどんなに高度になっても解けないんじゃないかっておもいます。
 それで、これが解けないってことが明らかになった時に、たぶん資本主義っていうのは本当
 にピンチを迎えるだろうとおもいます。現在までのところでは、対立的に、資本主義はここ
 が欠陥だっていうようにいわれてたんだけど、その考えの党派性は、消費資牛王義の段階で
 は無効なんです。かたっぽに窮乏者がいて、かたっぽに富む者がいる、そういうスタンスの
 対立の考えではだめです。ちがう段階を基盤にした対立の取り方をしない限りだめなんじゃ
 ないか。そこらへんが、高度資本主義のいちばんきわどいところの分析になるんじゃないか
 とおもいます。


                       贈与価値論の形成に向けて

  それから農業の問題なんですが、農業ってのはイギリスが二%くらいなんですね。あるい
 は東京の農業ってのは0.2%なんですよ。まず、ここらへんぐらいまではいくとおもった
 ほうがよろしいってのが、ぼくの考え方なんです。地方のどんな都市でも東京並みになって
 いく。これはそこまでいくでしょう。農業っていうのはイギリスでいえば2%、東京をモデ
 ルにすれば0.31%、極端にいえば農業ゼロっていう段階にいくのが、理論的にはあると
 おもってます。つまりそこがどうかんがえても、資本主義の終焉、つまり資季王義がほんと
 うのピンチ、内在的なピンチを迎えるというふうにぼくはおもってます。そうすると、その
 時どういうふうになるだろうかっていうと、消費社会を世界的な規模で、アメリカ、日本、
 フランスなどEC、西欧をモデルにとれば、そこだけが農業ゼロに限りなく近づいていく。
 そうしたら、世界はどうなるかっていうと、第三世界、それとアジアのある一部が農産物担
 当地域になる。かたっぽは農業ゼロに近くなっていくっていうのが、自然な見通しになりま
 す。近未来っていうのは、そうなるでしょう。

  経済学の公理みたいなもので、つまり天然自然を相手にしている限りはその産業者は、貧
 困から脱出できない。残念ですけど、公理みたいなもんですね。そうしたらどうなるかって
 いったら、農業ゼロに近づいた先進地域は農業地域に対して贈与するしかない。(……)
 そしてこっちは必然的に農産物、世界の食糧生産物担当地域になっちやって、かたっぽは農
 業ゼロに近づいているっていう構図になって、その不均衡はどうなるんだっていったら、こ
 っちが贈与するしかないって、ぼくはおもってます。それは近未来にかんがえられる構図じ
 ゃないか。

 そうすると、その時は何か問題になるかっていったら、価値が消滅するってことなんですね。
 価値ってのは交換価値ですね。交換価値っていう概念は消滅する。贈与価値なんですよね。
 贈与価値っていうのが問題になってくるだろう。ぼくらがかんがえる消費資率王義っていう
 のの分析は交換価値っていう概念じゃなくて、贈与価値っていう価値が、どういうふうに何
 か本質なのかって、それを基盤にしなければ、価値論を形成できないでしょう。

 それを武器に分析し論理をつくる以外ない。でないとこの分析は不可能だと、ぼくはそうお
 もいます。ぼくがポイントポイントでかんがえてる近未来の構図は、そうです。ですから、
 あなたのいうことと違うんじゃないかとおもうんです。ぼくは、第一次産業が先進資本主義
 でもってゼロに近づいていくことを避けることはできない、つまり歴史の必然だって、おも
 っています。それはいかなる政策をとっても避けられないでしょう。遅くする早くするはで
 きますよね。でも、必然的にそういくってことは避けられない。そこは価値論の終わりのと
 ころで、同時に贈与価情誼を基礎に据えなければ分析なんかできない段階です。

 つまり贈与価値論ってのは何かって犬雑把にいっちゃえば、かたっぽは物でも貨幣でも信用
 でもいいんですけど、それをいわゆるただでやっちゃうわけですよ。いわゆる交換価値論で
 いえば、ただでやっちゃうわけだけど、その代わり、なにかしら無形の何かをこっちがもら
 ってくる、それと交換するってことになるとおもうんです。その無形の価値ってことはモー
 スのいうような未開の原始社会での贈与とね、高度社会における贈与は違うとおもうんです。
 おっしゃった知的所有権ってのは、当然それを合めた価値論になります。交換価値の代わり
 に贈与価値論を形成する場合に、無形の価値を勘定にいれた原理、そういう価値論を形成し
 ない限りは未開社会じゃなく、高度に意識された贈与ですから、おっしゃることは当然勘定
 にはいってなければならないようにおもいます。


                  
主義の高度化が世界を単一化させていく

  たぶん資本主義の高度化っていうのが、ひとりでに世界を単一化する方向に力をはたらか
 せていて、国家の粋が、だんだん連続的に壊されてくみたいな形で広がってる。それはいろ
  んな形でいえるんだとおもいます。また具体的にいえば、実質的には贈与っていえばいえる
 ほど、日本もアメリカも第三地域とかアジア地域とかにお金は貸してるけど、ちっとも返し
 てもらってないです。だからそれは累積するばかりになってきてるわけで、実質上はもうす
 ぐ限度を超えた交換ってことで、もう贈与と同じだよっていう境界に近づきつつあるとおも
 います。ぼくの中でマルクスの考え方が生きてる、あるいは生かしてるっていうようにおも
 えるのは、価値形態論でいくのはやめようじゃないか、生産論、再生産論でいこうじゃない
 かみたいなことです。もうひとつはマルクスは、消費ってのは遅延された生産なんだ、べつ
 のものじゃないんだってことを、「経済学批判」の序説のとこでいってるんだけど、その遅
 延っていう概念がどこまで時間的、空間的に伸びきったら遅延以上になっちゃったよってい
 えるだろうかっていうことを解明すれば、だいたいいけるんじゃないかとおもうところがあ
 るんです。

    価値形態論でいうとやかましいことになってきて、プリペイドカードみたいなのあるでし
  ょ。これ、どの範囲にいれようかっていうことになってくるんです。それよりもわかりやす
  いのは
生産論、財生産論ですね。産業の次元の区別ってことで、そこんところでおさえてい
  って、第三産業
ってのも原理的にいえば、第一次産業を含んでないようにみえて、ほんとは
 全部含んでは
いってるんですよね、遅延した農業なんですよね。原理的にはそうなってるか
 ら、その考え方のほう
がわかりいいんじゃないかとおもって、それで、いったほうがいいんじゃない
  かとかんがえます。

                            (聞き手ー中川平・石塚誰人)

                                             第一部 吉本隆明の経済学


産業構造論とくに農業論についての見解はわたしとは大きくことなる。農本主義や土地本位制か
ら乖離する不可避性についても、第一産業の貨幣量指標で漸近ゼロ傾向になることも否定しない
が食糧安全保障や国土保全的側面からはなくなることはなく、寧ろ、逆に高付加価値化が進行し
ていく。また、農業の兼業化は高度な分業化日本的形態であると考える。民間や民営にによる高
付加価値化(大型農営と分散農営の同時進行)が進行する。これには政府による再投資(再生産
)促進が前提条件になる。つまり、先端技術と環境リスク本位制を社会背景として推測できるも
のだと考える。詳細事例はこのブログで掲載している(例えば「ロスト・スコアからTPP締結
まで」(『中東の地獄絵図』2015.02.08)。


                                    (この項続く)  

 


● 元和偃武再考


        王来自商、至于豊。乃偃武修文。 


                               『書経』周書・武功篇



元和偃武(げんなえんぶ)とは、慶長20年(元和元年/1615年)5月の大坂夏の陣において江戸
幕府が大坂城主の羽柴家(豊臣宗家)を攻め滅ぼしたことにより、応仁の乱(東国においてはそ
れ以前の享徳の乱)以来150年近くにわたって断続的に続いた大規模な軍事衝突が終了した事を
指す。江戸幕府は同年7月に元号を元和と改めて、天下の平定が完了した事を内外に宣したこと
を意味する。偃武とは、中国古典『書経』周書・武成篇の中の語「王来自商、至于豊。乃偃武修
文。(王 商自り来たり、豊に至る。乃ち武を偃(ふ)せて文を修む。)」に由来し、武器を偃
(ふ)せて武器庫に収める事を指している

これにより、江戸幕府による全国支配体制の基礎が確立して、以後幕末に至るまで(一揆由来の
島原の乱と慶安の変を除く)大規模な軍事衝突が発生しなかった事を体制側が賞賛する意味で用
いられ、6月には既に一国一城制が定められ、改元後に幕府は武家諸法度の制定などによって、
支配体制の強化を図っていくことになったいう。このような歴史的事実を踏まえ、高度資本主義
化する単一世界の統治原理「人命は地球より重し」を宣言し、日本が率先垂範することが、「戦
後70年 「人命は鴻毛より軽し」を問う」(『人命は鴻毛より軽し』2015.02.22)で記載した
ように、わたしたち日本人が世界に向けて発進すべきだ原理だと祈念するものである。
 


 

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石油価格下落の行方

2015年02月25日 | デジタル革命渦論

 

 

                  だし巻きに颪大根乗せてなる 見慣れたる朝こそ平和かな 

 

和食ブームだというが、洋食のファーストフードのそれと比べ、一番の違いを考えたとき、味噌汁、豆腐、
干物、香の物などあるが、大根の颪ものを乗せただし巻きが最右翼だと思える。スクランブル、ポーチド、
ハードボイルドにソフトボイルド、フライドエッグあるいはサニーサイドアップにターンオーバーなどイメー
ジするが、やはり一手間の違いということでは、これに勝るものないであろうし、この差異が、日本人の
センス(文化的後背景力)の良さとして、キラリと光っているのだと腑に落とし朝餉に向かう。

 

  ふんわりだし巻き卵の作り方

  左図クリック

● 石油価格下落の行方

OPECの原油産出緩和にともない、「シェール革命」は一過性ブームに終わるかの論調――例え
ば最大手のシェルが東テキサスのシェールオイル開発から撤退したことや、日本企業も含めて、
何社かが北米シェール権益を評価損計上する動き、あるいは今冬に北米ガス価格が高騰したこと(
や、さらに北米以外で本格的なシェール開発が進んでいないなど懸念材料とした――があったも
のの、北米ガス価格の昨年平均が3・7㌦/百万BTUと低水準であったにもかかわらず、昨年
1月の米国生産量は前年同月比3・8%増であり(年間生産量は1%増)、米国エネルギー情報
局(EIA)による最新の米国ガス長期生産見通しでも、2040年までに12年生産実績の6
割弱増、年率で平均1・6%伸びる見通しにある。3月中旬のEIA報告――米国のシェールガ
ス、オイル生産に関する過去数年間の生産効率に関する統計では、ドライ・シェールガス(オイ
ル生産のない)開発は、例えば東部にある米国最大のマーセラス鉱床では、1掘削リグ当たりの
生産量が、07年から本年初めまでに10倍以上に急拡大しており、一昨年4月から現在までの
直近1年間だけでも、約2割伸びている。同鉱床全体の生産量は、07年の12億立方フィート
/日から、現在140億立方フィート/日(LNG換算で約1億2000万t/年)へ、10倍
以上に爆発的に伸び、大方の見方では20年の200億立方フィートまで、4割以上の増産見通
しである。

つまり、この強気の背景には『デジタル革命渦論』をベースとした技術革新による生産性向上で、
対原油1バーレル当たり50ドル――比較的高い平均生産コスト推定、例えばシェールガスの平
均生産コストが4~5㌦/百万BTU、シェールオイルが80㌦/バレル以上というのは各鉱床
での、いわば初期生産レートでの計算――が採算限界とされていたものが、現在では20から2
5ドルにまで逓減してしているのではと想定されている。例えば、学術的な最新推定で、現在の
米国シェールガス生産量の約40年分に当たる、約400兆立方フィートの米国内シェールガス
資源量は、生産コスト5㌦未満と試算されているから、輸入消費諸国にとっては朗報となろう。

しかしながら、天然ガスも、シェールガスも地球
温暖化ガスの排出源であることに変わりなく、
これらの策費用を内部経済化(排出権)しなければならないのである。また、シェールガスに
よる価格下落は、同時に原油・天然ガス産出国とに微妙な軋轢を増加させる――例えば、サウジ
アラビアがよりアラブ・イスラム諸国寄り(反米)の政策転換する――反動の懸念もある。

 左図クリック

● 3Dプリンタ 実は日本人の発明っだった 

3Dプリンタに興味をもったのはつい最近のことで、2000年初頭の開発部門で事業開発の調査中
のことで、製版プロセスの版下作成技術で使用される光造形法(1980年に現在の快友国際特許事
務所弁理士小玉秀男が発明しこれを元に3Dプリンタが開発せれることになる)で、紫外線を照
射し紫外線硬化型樹脂を高速で固め3D造形するというもの。それと併行してインクジェットプ
リンタ技術の商品開発競争が激しくなっている時であった。結局、この方向には進まず色素増感
型太陽電池の開発に向かう――当然、高性能な太陽光発電パネルの事業開発を最終目標としてお
り、ウエットプロセス領域がらドライプロセス領域へのシフトを目標としていた――こととなる。





ところで、3Dプリンタとは、通常の紙に平面的に印刷するプリンターに対して、3DCAD、3DCG
データを元に立体(3次元のオブジェクト)を造形する機器。産業用ロボットの一種。通常は積
層造形法(additive manufacturing)によるものを指し、切削造形法によるものは3Dプロッタと呼ぶ。
3次元のオブジェクトを造形することを3Dプリントと呼ぶ。

初期のものは1980年代に開発され実用化していったが、それらは高価であるばかりでなく、特殊
な制御を求められるもので、1980年、小玉秀男が光造形法を発明し、また1983年にチャック・ハ
ル(英語版)が.stl(Standard Triangulated Language)という3Dデータの保存方式を発明し、1986
年3D Systems Corpを起業して、翌1987年「SLA 1」として商品化。これが初の3Dプリンタと
されるこの後も、1990年代半ばまでに様々な技術開発と製品が出されたが、それぞれ別々の名で
呼ばれ、まだ3Dプリンタ(もしくは additive manufacturing)はそれらを表す共通の言葉とはな
っていなかった。



1990年、3D
印刷ともっとも広く関連づけられるPlastics extrusion技術が、Stratasys社により"fused
deposition modeling
(FDM)"(熱溶解積層法)として商品化。1995年Z Corporation社が、MIT
発した積層造形法に基づく製品を初めて"3D printing (3DP)"の商標で販売する。これにより、
Ink jet material depositionを行う機器をおおまかに他と区別して3Dプリンタと呼ぶようになって
いった。2000年代半ばまでは安くても数百万円するため企業など事業所で導入されるのが主であ
ったが、基本特許が切れたのに伴って数万円~数十万円のものが発売され始め、個人や家庭でも
導入される。2008年から2011年にかけて、低価格の個人用3Dプリンタ市場は毎年平均346%も
の爆発的成長を遂げ、2013年には7万台が販売される。2010年は、3D Systems,Stratasysなど上位
3社で業界シェアの80%以上を占め、特に、ストラタシス社のDimension/uPrintシリーズの業界
シェアが約50%と高く、事実上の業界標準となっていた。2012年に3D SystemsZ Corporationを併
合し、2社の争いになっている。

「3Dプリンタの発明経緯とその後の苦戦」で発明者の小玉秀男は、特許戦争に敗れた原因とし
て、(1) 外国へ特許出願しなかった(2)原理を共通する派生技術の出願もれ(3)日本出
願に「審査請求」しなかった(4)弁理士に出願を依頼しなかったことの4つを挙げている。
青色発光ダイオードの開発者でノーベル賞受賞者の中村修二が語るように、ベンチャーを育成す
る文化的後背景力が小さいことも遠因しているのかもしれない。

ともあれ、この時期も24時間、頭はフル回転の、八面六臂、発狂寸前状態。辛うじて、赤提灯
で修復させていたが、今は、老人性?鬱病状態。実現出来なかった、3Dプリンタ組み立通販キ
ットて自慰行為に耽っているというわけだが、これも馬鹿にできないぞ!と思っているわけだが、
完成したらひこにゃんのフィギアチョコをつくろうと考えている。これはこのブログでも掲載し
ていたことだが、完成したらブログ掲載しよう。

 

 




● 老人性鬱病対策を練る

脳神経が壊れるのが痴呆症で、脳神経がやせ細るあるいは活動低下するのが鬱病であると言われ
れているが、α-リノレン酸を適量摂取することで鬱病が改善することが明確になっている。し
かし、(1)これらの
必須脂肪酸は、人間の体内で合成できないため、食品から摂取しなければ
ならない。(2)しかし、料理品から必須脂肪酸を摂取しようとすると過剰になり、特
に、栄養
成分ではリノール酸が過剰に摂取されることになる。リノール酸は代謝の中でアラキドン酸に変
化し、このアラキドン酸がアレルギーの原因になるため摂取量を抑えるが必要となる。

α-リノレン酸を多く含有するるアマニ種子、エゴマ種子、シソ種子、月見草種子、ボラージ種
子のうち1種以上の種子に、ゴマ種子を混合して搾油し、その後、精製処理して食用油を製造し
ている。ゴマ種子の配合率を10%~80%とし、食用油のα-リノレン酸含量が15%~55
%にし、α-リノレン酸含量を15%~55%とすることで、α-リノレン酸を適度な量摂取で
きまた、ゴマ種子の配合率を10%~80%にすることで、食用油の
酸化安定性と保存安定性が
向上される方法提案されているが、酸の含量を多くしてはいるが、リノール酸の含量を考慮して
いないため、必須脂肪酸のバランスが偏り、食用油の栄養バランスが悪いという問題があり、下
図のような案が提案されている。





原料種子を混合し、この混合した種子を搾油し、食用油Sとする食用油Sの製造方法では、原料種子とし
て、エゴマ種子E、ゴマ種子Gと、ナタネ種子Nのうち少なくとも2種類の種子を選択し、これら選択した種
子を、搾油後の食用油Sの成分のうちリノール酸とα-リノレン酸との組成比率が、リノール酸:
α-リノレン酸=(0.5~5):1となるよう各種子の混合比を求めその後混合することで、
必須脂肪酸のバランスを良くして食用油の栄養バランスを良くするとともに、酸化安定性と保存
安定性を向上させるというものである。

                                                抗うつ作用について

健常者とうつ病患者のαリノレン酸やDHA、EPAなど不飽和脂肪酸の蓄積量を調べたところ、うつ
病患者の方が有意に低かったことが明らかとなっている。αリノレン酸を摂取することで、うつ
を予防する作用があると考えられている。また、妊娠・出産期には、αリノレン酸やDHA、EPAな
どの枯渇リスクが高まる。その為、産後うつ病の危険性が高まると考えられるので、特に意識し
て摂取することが推奨されていている。

 

 

● 『吉本隆明の経済学』論 Ⅷ

   吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!
  

 吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズと
 も異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかっ
 たその思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造
 とは何か。資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の

 核心に迫る。


 はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 労働価値論から贈与価値論へ
 第5章 生産と消費
 第6章 都市経済論
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき
 

 
 第7章 贈与価値

 
   

  モースが触れているように、「信用」という概念の起源には「名誉」という概念がひかえ
 てい
る。氏族「間」のあいだ、氏族「内」の成員のあいだでも、「だれが二布の金持で、そ
 の富をもっとも派手に消費するかを我先にと競い合」って一切の物を消費しつくすところま
 でゆく。戦争とおなじように財の戦い富の戦いで、物の受贈よりも返礼を期待していないこ
 とを誇示するために、たんに物や財を破壊しているとしかみえないことがあるとモースはい
 っている。ここには「名誉」という概念の起源があり、その背後には呪術的な有効性が絶大
 な意味をもつと解釈しなければ納得しにくい。ここで呪術的な有効性とかんがえられている
 ものは、いちおうは部族や氏族や親族や家族の共同幻想の優位の観念とみなせる。

  これは個々の成員の心の構えに集約すれば虚栄ということになり、共同体の構えに集約す
 れば犠牲という概念になるともいえる。いずれにしろ部族や氏族や親族や家族の共同体の歴
 代の伝統から贈与された呪術的な有効性にたいする返礼とみなすほかないようにみえる。わ
 かしには、モースが「権利」「義務」「強制」といった概念で述べていることが、半ば納得
 できていない。モースはボアスが英領コロンビアのインディアンのポトラッチについて述べ
 たところを、脚注で触れている。それによるとここのインディアンのポトラッチは、ふたつ
 の要点をふくんでいる。第一は債務の弁済で、たくさんの儀式や公正文書で公けに行なわれ
 る。第二の目的は労働によって蓄積した財を、じぶんや子どものために投資するという意味
 をもつ。贈与された方は借人物とみなし、何年か経たのちに利子をつけて贈与者やその継承
 者に返す義務を負う。

  ボアスのようにかんがえれば「権利」「義務」「強制」といった概念は、「投資」という
 概念といっしょに生きることになる。しかしポトラッチの本質から外れているか、大切な何
 かを省略しているような気がする。贈与することで大きな霊の恐怖が呼び醒される。そして
 この恐怖は返礼することによってしか解消されない。この大きな言と小さな霊との循環は、
 「母」系的な初期社会では「母」と子どもの二世代だけでは解消されず(いいかえれば家族
 内部では解消されず)、負荷はいねば原始的に転生しながら代々蓄積される。ここに贈与と
 返礼とを司る要員がかくされている。いわばフロイトが二世代について考察したものが、こ
 こでは無限世代の輪廻転生の主題になっている。




  

  マリノウスキーがトロブリアンド諸島の原住民(ポリネシアン)のあいだで体験し、調

 した特異な交換のすがたを普遍化してゆくと、贈与という概念が発生した唯一の根拠は、母
 系 優位の初期社会だということになる。また遂に母系優位の初期社会は、かならず贈与とい
 う概念を発生させるためのものだということにもなる。いいかえればトロブリアンドとい
 地域や、ポリネシアンという種族ともかかわりないところまではたどりつける。こんなこ

 がいえる根拠はただひとつ、「父」(夫)と母(妻)のあいだの性(交)行為と母(妻)

 子どもを出産することのあいだに、因果関係の認識がなく、母(妻)の妊娠や出産は、もっ
 ぱら
氏族の親しい死者の霊と母(妻)とのあいだの転生の出来ごととかんがえられていたこ
 とだ。

  
  この認識上の盲点は母系優位のままに氏族の系譜がつくられ、父(夫)は当然べつの氏族
 に属するという社会組織を生みだす
ことになった。マリノウスキーのいうとおりだとすれば、
 かれがたまたま調査したポリネシアン
の種族に属するトロブリアンド諸島の原住民だけが母
 系優位の地域だったとかんがえるべき根拠
はないとおもえてくる。なぜなら父(夫)と母(
 妻)の性(交)行為と母(妻)の妊娠や出産のあいだに関係を見いだせない時期を人類はす
 べて通過したにちがいないからだ。だがなぜか人類は未開、原始、アジア的な段階の初期の
 特色をおおくのこす地域と、すみやかにその段階を通った地域とに分かれ、母系優位が一定
 時期以上つづいた地域だけが、ながく母系優位の社会制度を固定し、それに対応する習俗や
 神話などを抱えこむことになった。そしてそうでない地域は、すみやかにこの段階を消去し
 ていったとみられる。

  もうひとついえば、贈与という概念や、その制度と習俗をのこしたのは、この母系優位の
 段階をよりおおく保存した地域だといういい方も成り立つ。なぜそうなるのか、この問いに
 かかわるようにいえば、マリノウスキーはトロブリアンドの原住民の観察から、贈与の発生
 条件についていくつかの特色を見つけだしたとみなせるからである

  ひとつは、トロブリアンドの母系社会では、母(妻)と産んだ子どもは同一の母系の親族
 と氏族とをつくるが、産まれた子と何の関係もないとかんがえられた父(夫)はべつの氏族
 に属しべつのところで氏族をおなじくする後見者、保護者として、義務や役割を果すことに
 なる。

  にもかかわらず、父(夫)は母(妻)にたいして(夫)として性愛を交わし、子どもにた
 いしては父として家族愛にもとづいて情愛をつくし、子どものお守り、排泄の世話など、養
 育をひきうける親和感をもっている。しかもマリノウスキーによればトロブリアンドでは父
 (夫)処婚だから母(妻)も子どもも住居は父(夫)の氏族の方におかれる。
 
  すると母系氏族制という社会制度上の掟と、家族としての父(夫)と母(妻)と子どもと
 の親相性とは父(夫)親という存在にとって矛盾に近い二重性を負うことになる。具体的に
 いえば父(夫)は家族の一員としての親和力からすれば、じぶんの子どもに特別の愛情をも
 ち、財産や権利や社会的な特権を実の子どもに与えたくなってくる。だが母系的な氏族の制
 度からいえば、この父(夫)は子どもとは別の氏族に属するため、地位、財産、特権などは
 父(夫)の姉妹の子ども(甥)に譲られることになる。

  そこで父(夫)にとって、氏族としては別になる実の子どもと氏族としてはおなじだが、
 実の子でない譲渡者の甥とは、母系制度と家族の親和力との矛盾を体現した宿命の利書冊立
 者になってゆく。これを贈与の問題に対応させれば父(夫)と母(妻)とがべつの氏族に属
 す母系社会の宿命に起因する贈与の矛盾が生じることになる。父(夫)は、実の子どもにた
 いしては親和や好意から無償で財産や所有物の一部を与えることにたいし、甥にたいしては
 贈与として、与える者と受ける者の返礼のかたちをとらざるをえないからだ。

  もうひとつある。こういった母系制度と家族としての父(夫)が実の子どもにたいしても
 つ親和力のあいだの矛盾を解決する方法として、父(夫)の子ども(男)と父(夫)の姉妹
 の娘とを幼児のうちに婚約させる交叉いとこ婚がかんがえられ、行なわれる。俗にいえば親
 同士がきめた子どものときからの許嫁のいとこ同士ということになる。父(夫)はこれによ
 って実の子どもにたいしてじぶんの所有物を与え、家族的な親和力も充たし、また同時にじ
 ぶんの氏族の相続者にたいする譲渡とを矛盾や敵対なく両立させることができることになる。
 これが初期社会で交叉いとこ婚がさかんに行なわれる理由になった。

  マリノウスキーが観察し、調査したところでは、贈与のうち最大であり、この制度の根幹
 ロブリアンド原始社会の根底に触れるほどの意味があるのは、婚姻の成立にともなう贈与と、
 そのあと母(妻)の側の氏族から父(夫)の側に永続的に行なわれる贈与であった。

  まずマリノウスキーは、この婚姻当初の贈与と返礼のかたちを述べている。贈与されるも
 のは主食であるヤム芋、野菜、魚などになり、ヤム芋は料理されたもの、あるいは生のまま
 のものである。また魚は父(夫)からの返礼にあてられる。贈与は何を与えたかより、どん
 な形になるかが重要だとおもえる。

  〔母(妻)の側からの贈与〕

  1.母(妻)の両親から父(夫)の家族
  2.母(妻)の一人ひとりの親族から父(夫)の両親へ
  3.母(妻)の家族のメンバーが父実)の家族へ

  〔父(夫)の側からの返礼〕
  
  1.父(吉の親族から母(考の家族へ
  2.父(夫)の父親から母(妻)の父親へ

 
  〔母(妻)の側からの贈与〕

  1.母(妻)の家族から父(夫)へ

  〔父(夫)の側からの返礼〕

  1.父(夫)から母(考の父に贈る魚
  2.父(夫)の父親から母(妻)の父親へ

  これをみると母(妻)の側は、両親、親族、家族の個々のメンバーすべてから、父(夫)
 の家両親、本人への贈与が行なわれることがわかる。父(夫)の側からの返礼は、父(夫)
 の親族父(夫)の父から、母(妻)の家、母(妻)の父にたいして行なわれる。そしてその
 あと婚姻関係がつづくかぎり母(妻)方の家族から父(夫)の世帯にたいする永続的な贈与
 がつづく。

  父(夫)を中心にかんがえれば、かれは母(妻)の家族から永続的な贈与をうけることで
 そのあとの生活経済を営み、同時にじぶんの姉妹その他の女性親族にたいして贈与を貢ぐた
 めヤム芋の栽培など、生産活動を行なうことになる。つまり父(夫)を中心にかんがえれば、
 かれはじぶん自身の働きと能力のほかには母(妻)の側からの贈与が経済生活のすべてを支
 える重要な意味をもつことになる。根幹になる贈与と返礼をみると、父(夫)にたいする母
 (妻)の側からの贈与だけが、対応する部分を消去したあともなおのこることがわかる。ま
 た父(夫)から母(妻)の父親への魚の返礼がのこる。まったくおなじように母(妻)は個
 人として、この贈与と返礼に登場しないことが知られる。

  ただ父(夫)が登場するのは、母(妻)の家族から父(夫)への婚姻後最初の収穫の贈与
 と、それにたいする父(夫)から母(妻)の父親への魚の返礼にかぎられる。すると結局の
 ところ婚姻を契機にする贈与は、母(妻)の氏族から父(夫)の氏族への贈与とそれにたい
 する返礼とに集約される。べつのいい方をすれば母(妻)の家族と親族から別の氏族に属す
 る父(夫)の家族、親族への贈与とその返礼とに還元されるといえよう。ではこの贈与の動
 機は何かといえば、母(妻)の側からすればじぶんの氏族に属する子どもを産んだことに父
 (夫)が不可矢だったからではない(マリノウスキーの調査を信ずれば、子どもの生まれる
 のに寄与するのは氏族の故人の誰かの霊であって、父〔夫〕ではない)。それでは将来寄与
 してくれるはずの労働力や子育ての 協力にたいする前払いの意味をもつのだろうか。

  そんなことは信じられそうもない。

  この種の理由をさまざまに見つけだして数えあげるくらいなら、母(妻)の側の氏族にと
 って父(夫)の側の氏族との関係を生ずることが正体のわからぬ〈霊威〉をもたらすからだ
 と想定した方がまだましなような気がする。この得体の知れぬ〈霊威〉はどこから発生する
 のか。べつの氏族からきた父(夫)がじぶんの母(妻)系の氏族の子どもを妊娠し、出産さ
 せてくれたじぶんの氏族の親しい〈霊〉と交換できる無意識の存在、これが正体のわからぬ
 父(夫)の〈霊威〉という概念を発生させた原因ではないのだろうか。マリノウスキーの調
 査や観察を信ずれば、トロブリアンドのポリネシアン種族は、母(妻)と他氏族に属する父
 (夫)との性(交)行為で子どもができるとはゆめにもおもっていない。おなじ氏族の親し
 い者の死んだあとの霊がもどってきて母(妻)に宿るとき妊娠するのだとおもい入れている。

  この盲点を保存する社会システムが、母系優位の氏族制をつくりあげたのだ。そしてこの
 盲点を保存することが母系優位の氏族制をつくりあげたのである。この盲点を保存すること
 は、母系優位の初期社会では無意識の至上命令だった。いいかえれば意識される条件が揃っ
 ていても、あえて無意識によって拒絶されるべき盲点だったとおもえる。この制度では父(
 夫)はおなじ家に住みながら、どうしても母(妻)や産まれた子どもとは別の氏族に属する
 他所者であるほかはない。母(妻)に子どもを産ませるおなじ氏族の霊は、現実化したとき
 は他所者の別氏族の父(夫)として表出される。この機構は母(妻)の無意識の奥に気づか
 れずに潜在しているのではない。氏族の死者の霊が畏怖すべき祖霊の系譜とおなじように、
 この他所者の父(夫)には正体のはっきりしない〈霊威〉が付着しているのではないか。

  母系的な初期社会で、いま仮りにこの父(夫)が多少ともほかの父(夫)より社会的に優
 位な地位をもちたいとかんがえたとする。それを実現化するには父(夫)と母(妻)のあい
 だに贈与が反復されることで生じたに相違ない正体のわからぬ〈霊威〉をたくさん重畳する
 よりほかに方法はないはずだ。いいかえれば父(夫)がじぶんの母(妻)をたくさんもつこ
 とで、母(妻)(一)の氏族(一)や母(妻)(二)の氏族(二)、母(妻)(三)の氏族…
 などからそれぞれ婚姻の贈与をうけとることによって財産を築きあげることよりほかない。
 
  それは同時に一対一では正体のわからぬ〈霊威〉にすぎないような関係を、母(妻)の氏
 族(一)、氏族(二)、氏族(三)……からも同時に獲得しその複数の〈霊威〉を蓄積、重
 畳することを意味しているとおもえる。この父(夫)は、複数の母(妻)の出自である氏族
 のそれぞれから贈与をうけとるとともに複数の母(妻)の出自の氏族のそれぞれにたいして
 〈権力〉らしきものを獲得することになる。つまり重畳された〈霊威〉=〈権力〉という等
 式が成り立つようにおもえてくる。これが母系的な初期社会で多少とも社会的に優位な父(
 夫)が一夫多妻をとることの根拠になる。もちろんこのいい方は因果が逆さまかもしれない。
 マルクスは最初の富の蓄積はどんないい廻しをとっても原始的な収奪によるとかんがえた。
 マリノウスキーのいい方では、初期の母系的な氏族社会では富の蓄積は婚姻関係による母
 (妻)の氏族からの贈与で父(夫)が得た蓄積、ということになる。贈与は和解であり、同
 時に収奪であり、また〈霊威〉の返礼なのだ

  マリノウスキーは、トロブリアンドにおける母(妻)の側からもたらされる贈与のヤム芋
 もじぶんが栽園から収穫し、女性親族(姉妹)に贈与する収獲物も、貯蔵小屋のなかに規則
 正しく積みあげられ、しばらくは誇示される(見せびらかされる)と述べている。これはじ
 ぶんの村や隣村の人々にその富を賞讃してもらうためで、虚栄と野心が愛情や義務感に混り
 こんだものと理解されている。人間の内部には矛盾をつくり出さずにはおかない貯水池があ
 り、そこに奔騰するものが関与しているとしておくのが、さしあたりの解答のようにおもえ
 る。

                                             第一部 吉本隆明の経済学
                          (この項続く)  

 

 

   ● 今夜の一曲

 
   She comes in colors ev'rywhere;

   She combs her hair
   She's like a rainbow
   Coming, colors in the air
   everywhere
   She comes in colors

   She comes in colors ev'rywhere;
   She combs her hair
   She's like a rainbow
   Coming, colors in the air
   Oh, everywhere
   She comes in colors

   Have you seen her dressed in blue?
   See the sky in front of you
   And her face is like a sail
   Speck of white so fair and pale
   Have you seen a lady fairer?


ローリング・ストーンズの11枚目のアルバムの『サタニック・マジェスティーズ』(Their Satanic
Majesties Request
)は、1967年にリリースされたローリング・ストーンズのアルバム。
あまりにも
ビートルズの 『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』 を意識し、コ
アなストーンズ・ファンから賛否両論のアルバム。
実はストーンズ内部でも、このアルバムを出
すか出さないかで揉めたという。このアルバムが世に出なかったら、"She's Like A Rainbow"の名
曲も埋もれてしまっていたかもしれない。
レッド・ツェッペリンのジョン・ポール・ジョーンズ
がアレンジを担当し、繊細でありかつビートの心地良さが心に響くピアノのメロディはクラシッ
クに匹敵する。このアルバムに拒否的なファンでさえ、この曲の素晴らしさにだけは文句のつけ
ようがない。また、
ストーンズの音楽に馴染みのない人にも、この曲には親和性をもつだろう。

 

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ウッドパウダー食品工学

2015年02月24日 | 新弥生時代

 

 

【オールバイオマスシステム完結論 14】 

● ウッドパウダー食品工学で地元林業を活性化 

静岡理工科大学の志村史夫教授らが、樹木の主な成分のセルロースを使いって、パンやビスケット、ソ
ーセージ――スギやヒノキを加工するときに出る「おがくず」を細かく粉砕して、食べら
れる「
スーパーウッドパウダー」――をつくっているという。2年前から研究をつづけてこられ
ている
という(「研究室にようこそ!地元大学の研究者にインタビュー」2015.02.12 静岡新聞)。

感も違和感はなく、例えば、パンは口に入れると木の香りが、食べるとリフレッシュした気分が
し、今まで食べた人の7割は「便秘に効いた」と言う。つまりこれは、食物繊維だからダイ
エッ
ト機能食品だとのことで、現在は、杉花粉成分を加え減免効果を狙って、花粉症に効くか
調査中
だという。半導体の研究者である志村史夫教授は、古代人の建築技術とか、自然や生き物
の持つ
パワーに驚きを感じ樹木の研究を通じて、地元の林業を活性化したいと語っている。


尚、天竜区水窪町の雑穀料理店「つぶ食 いしもと」が志村教授から依頼され、パンのほか、ケ
ーキやビスケット、ドーナツ、ハンバーグ、ソーセージなどを試作している。


わたし(たち)が木質バイオマスのパウダー化に着目したのは1989年前後だったと記憶して
いる。これは静岡出身の商社営業マンとのお茶の製法が話題にあがった時だ。この経緯はこのブ
ログでも掲載しているが、お茶の売上げが逓減しているため対策を話していた時である。お茶の
成分は葉のみでなく枝などにも含まれているからこれをパウダー化すれば廃棄物も減らせ、コス
トも逓減できるというものであった――このとき特許出願していれば今は億万長者?になってい
ただろう。事実、1992年には売上額が最低を記録するが、伊藤園の営業努力もありV字回復
していく。また、回転寿司システムの普及、消費者の健康志向もあり生産量が続伸していく。

さて、そんなこともあり静岡理工科大学の研究グループに注目したが、環境問題だけでなく、食
糧安全保障的側面からも大きなプロジェクトとなっていくだろうと考えるからこの話題を取り上
げた。
 

 

目次 

第1章 五重塔の心柱
第2章 日本古来の木造加工技術
第3章 “呼吸する”古代瓦
第4章 古代鉄と日本刀の秘密
第5章 奈良の大仏建立の謎
第6章 縄文時代の最新技術 

東京スカイツリーの制振装置にも使われた、「倒れない五重塔」の秘密。驚異の湿度調整能力で
家屋を守る古代瓦。名刀「正宗」に半導体顔負けの多層構造が隠されていた!朽ちない釘に重要
な役割を果たした“不純物”とは?縄文人はアスファルトを利用し、レーザーをしのぐ穿孔技術
をもっていた!現代のハイテクを知り尽くす半導体研究者が自ら体験・実験して見抜いた、古代
日本が誇る、自然を活かしきった匠の技のすべて。

志村史夫[シムラフミオ]

1948年、東京・駒込生まれ。名古屋工業大学大学院修士課程修了(無機材料工学)。名古屋
大学工学博士(応用物理)。日本電気中央研究所、モンサント・セントルイス研究所、ノースカ
ロライナ州立大学を経て、現在、静岡理工科大学教授、ノースカロライナ州立大学併任教授。応
用物理学会フェロー。日本とアメリカで長らく半導体結晶の研究に従事したが、現在は古代文明、
自然哲学、基礎物理学、生物機能などに興味を拡げている


● 志村教授の放射能汚染に関するコメント 

「物事の根幹と枝葉末節冷静かつ論理的に考える」 静岡新聞の時評(2011.05.17)のコメント
に「「放射能汚染」の風評被害も甚大である。学生時代から長らく放射線を実験手段に使い、昔
の実験装置には十分な安全装置がついていなかったから、私はかなりの量の放射線被曝を経験し
ている。そういう私がどう考えても深刻とは思えない放射線量のために、住民に避難生活を強い
たり、生徒を校庭に出さないで体育館に閉じ込めたりする政府・自治体の責任者は、それが当事
者に引き起こすストレス、精神的負担のことを深刻に考えるべきだ。また、私の先輩でいまも元
気に活躍している長崎原爆被爆者の「俺たちは原爆投下直後にどんな野菜でも魚でも元気で食べ
た」という証言もある。多くの病気の元凶がストレスであることは科学的に証明されていること
である。」(「なくさない! 飯坂温泉 共同湯」2011.05.30) と見解を披露しておられるが、
安全・安心的側面から賛同しかねるものである。その失敗は、福島原発事故、福知山線列車事故、
アスベスト塵肺発ガン、水俣病、原発被爆者救済、西淀川公害訴訟などの事例からも自分の立ち
位置が判断できるだろう考える。マッチョ思考体質が推測できそうなエピソードだが、これは戴
けない。


● 『吉本隆明の経済学』論 Ⅶ

   吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!
  

 吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズと
 も異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかっ
 たその思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造
 とは何か。資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の

 核心に迫る。


 はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 労働価値論から贈与価値論へ
 第5章 生産と消費
 第6章 都市経済論
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき
 

 
 第7章 贈与価値論

 

                                                       1 贈与論

  


  このヴァリエーションもあって、漂ってきた嬰児の霊魂が水洛中の女性の子宮に入りこむ
 と妊娠するとの認識もあれば、妊娠したい女性の小屋に、その女性の兄弟またはその女性の
 「母」の兄弟が汲んだ海水の容器をおいておくと、その海水に浮遊していた「母」方の親族
 の霊魂が夢のなかに訪れて、その女性は妊娠するという言い方もある。

  このいずれのばあいをとっても、兄妹始祖の神話をもつ「母」系優位の初期社会で、子ど
 もは「母」方の親族の霊魂から授かった贈与だとみなされている。マリノウスキーのこの場
 面の記述はあいまいさをのこしている気がするが、基本にあるのは「母」方に近い親族、た
 とえば「母」「母」の兄弟、「母」のその「母」親の兄弟といった母系の親族の霊魂の贈与
 により、子どもは受胎され、妊娠、出生するということだ。兄妹始祖神話の風によって孕む
 というばあいも、小さな嬰児の霊魂が流本のようなものにのって漂着し、海岸に水浴してい
 る女性の子宮にはいって受胎し、妊娠するばあいも、母方の親族によって汲みあげられた海
 水をコ僕小屋のまえにおくことによって孕むばあいも、日本列島の島々にのこされた伝承の
 ように、セキレイの交尾をみて兄妹が性交する方法を知って子孫をふやしたばあいも、夢か
 現かわからぬ入眠状態で、をなり神(姉兄 妹が人間の始祖になるという神話は、インド南
 部、中国の南西部や東南アジア、台湾妹)にたいするえけり神(兄弟)や「母」やその兄弟
 などの霊魂の贈与により子どもが受胎され、妊娠期間を経て出産されるとみなされているこ
 とは、疑うことができない。
 
  この「母」系優位の初期社会で出産された子どもの価値は、贈与された「母」系の親族の
 霊魂の価値とちょうど釣り合っているということもできる。そして「母」系の親族の霊魂と
 等価なのはその「母」系親族組織の形而上的な価値、いいかえれば儀礼、慣習、氏族的な地
 位等々のすべてだということになる。マルクスのようにいえば、最初の分業は子どもを産む
 ばあいの男女の分業だということになる。男女、いいかえれば「父」「母」とはどんなもの
 を分業して子どもを生んだのか。このばあい「母」系親族の霊魂が贈与されたことと何か対
 応するかが問題だとすれば、「父」親の性行為にまつわる心身の享受と消費ということにな
 る。これはもう少しだけ追いつめてみなければならない。ここで贈与と交換のあいだに脈絡
 をつけうるとすれば、「母」系の親族の霊魂の力能と「父」親の性愛の力能とは対応するも
 のという考えにみちびかれる。たぶん未開人の近い親族の霊魂の力能と現代にも通用する「
 父」親の性愛の力能とは等質とみなせるにちがいない。そこでこの考え方からすればわたし
 たちは贈与とは遅延された形而上的な交換だという概念に導かれる。そして未開、原始の初
 期社会ではこの遅延は世代(出生と死)を単位とする無限の循環時間(永続転生)によって
 規定できるとみなされる。しかしここまでのところで、こういう理解の仕方をよいものとし
 ておしつけることはできない気がする。わたしたちはもっとよくこの問題をつきつめなくて
 はならない。

  わたしたちはどこかでよく聞きなれた考え方に出合っているような気もするが、やはり未
 開や原始の初期社会の観察を読んでいることは間違いない。




  
 

  マルセル・モースの、名前だけはよく知られた『贈与論』のなかに、マオリ族の立法者の
 言葉の報
告が載っている。


   たとえば、あなたがある特定の物(タオンガ)を持っていて、それをわたくしにくれた
   とし
ましょう。しかもあなたは一定の代価をも定めないで、それをわたくしにくれたの
   です。わ
たくしたちは、その売買を行ったのではありません。さて、わたくしが、この
   品物を第三者
に贈ると、暫くたって、その者はわたくしに代償(utu) としてなにかを
      返そうと決心し、わたくしになにかの品物(タオンガ)を贈ってよこします。ところで、
   彼から貰
ったこのタオンガは、わたくしがあなたから貰い、更に、彼に譲り渡したタオ
   ンガの霊(hau)なのです。わたくしはあなたのところから来たタオンガのために、い
   ま貰ったタオンガをあなたに
お返ししなければなりません。わたくしとしては、これら
   のタオンガが望ましいもの
(rawe)であっても、また、いやなもの(kino)であっても、
      それをしまって置くのは正し
く(tika)ないのです。わたくしは、それをあなたにお返
      ししなければなりません。それは
あなたから貰ったタオンガのハウであるからです。も
   しわたくしがこのタオンガをひとり占
めでもしようものなら、わたくしは疾病あるいは
   死亡という事故にすら見舞われるでしょう。このようなものがハウであり、また、身の
   廻りの
品のハウ、タオンガのハウ、森のハウにあたります。

                           (モース『贈与論』「マオリ族の法律家の言葉」有池亭訳)


  これにたいしてモースは一定の解釈を施している。マオリ族の観念では贈り物(一般には
 物)
は、生命のないものではなく、その物の本来の産地(本源地)から生気づけられたハゥ
 (言)をもっている。そのハゥ(霊)はじぶんの本源地である民族や森や土地にその物が帰

 るまで、その物につきまとって離れない。その物をもつものが、同等あるいはそれ以上の返
 礼を贈
与したとき、はじめて最初の贈与者に威力を戻しえたことになり、ハウ(霊)は本源
 に安んじたことに
なる。

  このモースの解釈は原往のマオリ族の「法律家」の報告が、物(タオンガ)がそれに付着
 した霊(ハウ
)に統御されるという観念からできているように、贈与と返礼の義務を物の背
 後、物につ
いている霊(ハウ)の力能に帰している。もっといえば、たとえ物が贈与した者
 の手をはなれた
としても物についた霊(ハウ)はなお贈与したものの所有としてその物にと
 どまっているので、
その物を渡されたものは返礼の義務を生じ、それを果さぬかぎりつきま
 とう霊(ハウ)の力能をまぬがれることができない。物を贈与されることはその贈与者の「

 霊的実在」の一部をもらうことだが、返礼なしにその物を所有することは危険で生命にかか
 わることがあるかもしれぬため返しておかなくてはいけないことになる。物についた霊(ハ
 ウ)
はその物を産んだ氏族や土地にたいして、じぶんの代りになる等価物を返そうと願うか
 らだ。マリノ
ウスキーの解釈は、ひと通りの意味でいえば贈与を物とそれについた霊(ハウ)
 を含む価値とみて、
あるいは霊(ハウ)だけを価値とみて、等価交換が成り立つとかんがえ
 ていたといえよう。しかしこう
いう理解はすっきりした物と霊の二重化にすぎるような気が
 する。贈与という概念も、贈与と返礼という行為も物と霊との分離やずれがないところでは
 成り立ちそうにもみえない。もうすこしいえば、物と霊のあいだ、人間と霊のあいだに境界
 のない交換が成り立たなくてはならないようにおもえる。

  モースは、ダヤク族では食事に居合わせるか、またその用意を目撃したら、食事に加わら
 なければならない義務があると記している。このばあい、食事をすすめることを怠ったり、
 逆にすすめを断るのは、親交を拒否したこととおなじになる。モースの考えでは、ある原住
 民が物を与えるのは、与えることを強制されているからだ、また物を受けるのは受ける者が
 与える者のもつすべての物にたいして、「ある種の所有権」をもっているから、と述べてい
 る。「ある種の所有権」とは氏族や家族の儀礼や睨的行為などの共同性からつくられる霊的
 な紐帯を指すことになる。この考え方に異論をもつとすれば、「義務」や「強制」とモース
 がいっているものは、共同性のもつ睨的な威力にたいする服従と成員の人格的善意とに帰着
 する。

  モースのダヤク族についての例は、わたしたちの慣習からそれほど遠いものではない。た
 とえば、京都の地着きの家庭を訪問し、食事に居合わせたり、食事の用意を目撃し、どうぞ
 一緒に食べませんかといわれたら、それは帰ってくれという意昧との言い草は、いまでも耳
 にささやかれている。これはダヤク族のような贈与の風習が、わたしたちのあいだにもあっ
 たとかんがえられる一例だ。どうぞ一緒に食べませんかといわれたら、それを受けなければ
 ならない義務があった。わたしははじめての訪問であり、「父」「母」が出郷したのは数十
 年も以前だったので、迷惑のかからぬようにと、すこし離れた所に宿をとって訪問した。「
 母」方の親族はとこかに宿をとったのかと尋ねたので、正直にその場所を告げた。「母」方
 の親族は心の底から不服そうで、表情に不満感をみなぎらせ、どうしてじぶんの家に泊らな
 いのかといい、わたしは親族を納得させる弁明につとめなければならなかった。このことは
 たぶん、数十年も音信のない親族にいきなり初対面で訪問されたら心の底から岫っていけと
 いえずにためらうだろうと、わたし自身が類推した配慮が、どんな親族でも即座に同化し親
 和できる風習のなかにあるものと裏返ったのだとおもえる。

  このばあい、わたしの解釈は親族内の親和意識のつよい遺風と、相手方の人格的な善意と
 に理由をもとめる。だがそこで親和はおわり、この親族の態度をさかのぼって「義務」と「
 強制」にまでたどりつくことはしないとおもう。なぜそうかといえば、モースにとってポリ
 ネシアやミクロネシアの島々はまったく異質な外部から観察した初期社会でありうるのに、
 わたし(たち)はあるところまで外部からの観察者の眼を行使できるものの、深層のところ
 では、外部と内部の視点が融け合うポリネシアやミクロネシアと同質の伝統に融けてしまう
 からだ。

  抽象度を高めて表現しないかぎり、交換や交易よりも贈与と返礼によって成り立ってきた
 習慣ののこるこれらの地域で、ポトラッチを「義務」「権利」「強制」といった言葉で解釈
 しつくすこと、そして「母」系を中心の分節点として網の目のように融著し粘性をもってつ
 ながりあった家族や氏族、家族の性質としての個人を分離することは難しいとおもえる。



 
  モースがとりあげるポトラッチ部族のうちで、もうひとつわたし(たち)の心を騒がせる
 のは、わたしたちのなかにある北方的な要素についてだ。アラスカ海岸に居住するトリンギ
 ト族やハイダ族についてもモースは記述している。これらの部族は春になると山地に散らば
 って狩猟や本の根や果実を採取し、河海では鮭、あざらし、鯨などをとったりしている。社
 会組織は「母」系優位なのだ。そして紋章の描かれた櫛形の銅版や美しい毛布が通貨の代り
 をしている。冬になると「町」に集まって、全期間を通じて興奮した状態をつづける。部族
 や氏族の家族どうしがいつも訪問しあい、祭が冬中くりかえされる。婚礼や儀式があると、
 蓄積した物をことごとく消費する。

  かれらのポトラッチ、贈与にたいする返礼(反対給付)には、はっきりとした「期間」が
 あることだ。モースはこの「期間」の概念をもとに、一方では贈与と返礼を限りなくちかづ
 けて同時化する物々交換(交換の初源の形態)、他方では売買上の「信用」取引と貸借が生
 みだされたと、注目すべきかんがえを披露している。つまり信用取引が文明社会の経済的段
 階の産物ではないと、モースはいいたいわけだ。このモースのかんがえは、さきに述べた、
 贈与は遅延された交換、とするかんがえにとってはおあつらえむきだといっていい。ただ、
 わたしたちが贈与は遅延された交換というために、いい難い心理的なわだかまりやもやもや
 を切り持てたうしろめたさを感じるのとは違い、モースがアラスカ沿岸の部族のポトラッチ
 を理解する手つきは、あまりにすっきりしすぎている。もやもやの要素が喚び起こす半概念
 的な気分は何なのかとりあげるべきだとおもえる。


                                                            第一部 吉本隆明の経済学

右図をクリック!


今夜から第7章に入り、わたしたちの文化的遺伝子の芳香に感動しながら読み進んでいる。何と
素晴らしいことかと。


                                                    (この項続く)  


 


昨日のこと。ルームランナーを起動すると「LUBE BELT」が表示される。電子ファイリングさせ
ていたマニュアルを開くと「6か月ごとまたはディスプレイに「LUBE BELT]と表示されるごと
にランニングデッキとランニングベルトの間のワックスがけをする必要があると表示。専用の
シリコンオイルを薄く塗って(手袋の着用)平滑度を維持する作業を行う。毎日3キロメート
ル、最大斜度6、最大速度毎時6キロメートル、スクワット、スナップ付きのトレーニングを
続ける。
創意工夫しながらがのトレーニングだ。 

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そのうすみどり。

2015年02月23日 | 贈与経済

 

 


    蕗を煮る 昼下がりには 母と吾と春の色して そのうすみどり / 俵万智

 

 

【旬の食】蕗の薹の天麩羅

「そのうすみどり」という言葉が輝いている俵万智の一首だ。今年は少し早めに採れたのでと、
彼女が近くの白山神社の境内から持ち帰りったフキの苗木を裏庭に移植していた、蕗の薹が芽吹
いたと見せ、これをいまから天麩羅にするので待ってくださいねと言う。その時の美しい「うす
みどり」が印象的だったのデジカメしたいと言ったが取り合わず、そそくさと調理しはじめた。
そのときの印象と「そのうすみどり」 が見事にわたし的にシンクロナイズされたわけだ。暫くす
ると野菜ばかりの天麩羅のなかから、蕗の薹の天麩羅を市販の麺つゆに漬け戴く。何という若菜
くさく、山葵のような香りでもない独特の良い匂いがするのだろう。パスタは苦みが合うが、天
麩羅ならではの味わいである。これから蕗の薹を"Butterbur sprout"と呼ばず"Breakthrough"と呼ぶ
ことにしたが、これは"春の使者"よりは良いだろうと。

そういうのは、スプラウトという言葉はモヤシというイメージが強すぎるためで、芽キャベツの
方が自然な感じがするが、陽にあたっていないふきのとうは色が黄色っぽく、苦みが少ないので、
そのまま天ぷらにしたり、炒め物にして食べる。陽にあたると緑がかった色になり、苦みとアク
が出てくるので、下ごしらえが必要となる。この差を利用して献立法も変わる。そこが、ほかの
スプラウトと異なるのだと、いかにも大発見したかのように悦に入る。

ところで、独特の香りがあるふきのとうや葉柄、葉を食用とするが、肝毒性が強いペタシテニン
(Petasitenine、別名フキノトキシン)などのピロリジジンアルカロイドが含まれているから灰汁
抜きをする必要があるが、効能成分が多いことも強みだ。香りの成分のフキノリド(バッケノリ
ドD:S-Fukinolide、Bakkenolide D)は胃腸の働きを促進するし、苦み成分であるケンフェノー
ルやクエルセチンは、咳止め、健胃整腸として、フキノール酸は血中ヒスタミンを減らし、花粉
症によく効く?といわれ、肝機能強化、代謝促進もある。さらに、ケンフェノールは発ガン物質
を除去があるととか言われている。

 
※ フキノール酸のラジカル消去能について(Radical Scavenging Activity of Fukinolic Acid):
   http://ci.nii.ac.jp/naid/110006407755

また、「冬眠から目覚めた熊が一番初めに口にする」といわれるほど、健康に良いという食品だ
という。そ
れじゃ、最適な環境制御条件が解析されれば、新しいスプラウトとして、世界展開で
きる食品である。これ
で滋賀の里山に専用の植物工場を整備すれば、”蕗の薹御殿”を建てるの
も夢でないってか? ^^;。

 

  

● 『吉本隆明の経済学』論 Ⅵ

 

   吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!
 

 

 吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズと
 も異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかっ
 たその思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造
 とは何か。資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の
 核心に迫る。


 はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 労働価値論から贈与価値論へ
 第5章 生産と消費
 第6章 都市経済論
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき
 

 


 第7章 贈与価値論

  解説

 
  贈与論を主題とした吉本隆明の思考を二つに分類することができる。一つのタイプでは、
 人類学の伝統の中で蓄積されてきたいわゆる未開社会におこなわれている贈与慣行をめぐ
 もので、そこに国家の発生の問題を結びつけたさまざまな考察が展開されている。


  こうした社会では、多くの場合、母方の叔父に大きな威信が与えられ、父親としての男

 の存在は影が薄い。レヴィ=ストロースはこの理由を、女性という財を与える側(これ
を代
 表するのが母方の叔父である)の、女性という財を妻として受け取る側(夫の親族の属
する
 集団)にたいする贈与論的な優位のうちに見出そうとする。


  これにたいして吉本隆明は、対幻想の構造の中に生まれる霊力の偏在のうちに、その理

 を見る。母親は出産をつうじて根源的な贈与をもたらす存在であり、父親の存在はそれ
にた
 いして形而上学的な意味しかもだない。ここから「贈与は遅延された形而上学的な交
換であ
 」という認識が生まれる。贈与と交換のちがいを、彼は対幻想の構造の内部での
こととし
 て理解しようとするのだ。


  未開社会での贈与関係は動的でいつも揺らいでいる。ところがこの揺らぎを停止させ、
 係性を固定化する動きの中から国家が発生してくる。このとき贈与は貢納に変わり、そ
れが
 拡大することによってデスポティズム(専制)的国家を生み出す。『共同幻想論』以
来の主
 題が変奏されて、ここにあらわれてきている。共同幻想は対幻想を土台として発生
する。そ
 れと同じように、デスポティズムを基礎づける貢納制度は、結婚と出産をめぐる
女性の贈与
 論的意味という土台なしには発生できない。その意味では国家論の礎石は贈与
論の中に隠さ
 れているということになる。


  もう一つのタイプの贈与論の主題は、消費資本主義の終末以後の人類史に関わるものと
 て登場してくる。消費資本主義の発達は最終的に、交換価値のみによる先進資本主義の
地帯
 と農業をおこなうことによって食料を供給する地帯への、世界の二分割の状態をつく
りだし
 ていくにちがいない、と吉本は考える。その絶対的非対称を解消するためには、消
費資本主
 義の地帯は食料調達地帯へ無償の贈与をおこなわなければならないだろう。

  ここで二つのタイプの贈与論が一つにつながる。未来の世界に贈与論が回帰してくるの
 ある。未開社会の贈与とは達う形態をとって、より高度な形態をとった贈与が人類社会
に回
 帰してくる。このようにして贈与論の主題は人類史を貢いていくのだ。吉本隆明はこ
こで
 ルクスとモースを同時に乗り越えようとしている。


 

                              1 贈与論

  Ⅰ

  兄 妹が人間の始祖になるという神話は、インド南部、中国の南西部や東南アジア、台湾、
 沖縄、
奄美、南九州、四国をはじめわが国の全域、それからミクロネシア、ポリネシアなど
 の島々に分
布している。こまかいところは、それぞれに独特のニュアンスとタイプをもって
 いる。たとえば
洪水によって人間がみなおし流され兄妹ふたりだけがとりのこされて人間の
 始祖になったタイプ
もあれば、兄妹ふたりだけが舟などで漂着し、人間の始祖になったとい
 うばあいもある。また兄
妹が天から降りてきたというもの、兄妹ふたりがつぎつぎに地下か
 ら地上にあらわれたというの
もある。ここでわたしたちのモチーフから大切だとみなしたの
 は、つぎのふたつだ。

  第一は、こ
とさらに近親である兄妹ふたりが人間の始祖になったという神話や説話や伝承
 の形だ。これはア
ジアやオセアニアや印度の沿岸部や周縁部、そして島々に、さまざまなヴ
 ァリエーションで分布
している。第二に、もうひとつこの兄妹始祖の神話や説話や伝承で大
 切なのは、この兄妹が風によって孕み、子どもを生んだとか、セキレイが交尾する様子をみ
 てはじめて性交の仕方を知り、子孫をふやしていったとかいうように、はじめ性交を知らな
 かったという形で流布されていることが。いいかえれば兄妹の性交が禁忌であることを暗示
 しながら、それでも兄妹が人間の始祖だとされていることが大切だといっていい。

  わが琉球や本土の沿海や島々でも、兄妹は性交の方法を知らなかったが、セキレイの交尾
 をみて、それにならって性交し、子孫をふやしたという海人系と思われる神話や説話が分布
 している。わたしも淡路島に行ったときこの説話がのこされているのを知った。このばあい、
 セキレイはしばしば別の小鳥や生物であったりする。いずれにせよ始祖の兄妹は、はじめ性
 交を知らなかった、それでも兄妹が人間の始祖になったというのは、この神話や伝承をもつ
 地域が「母」系が優位だった初期社会の遺風をおおきくのこしていることを暗示している。

  このタイプの神話や伝承をもっか社会では、子どもを基準にしたばあい、家族や氏族は「
 母」と子どもをつなぐ系列と「母」の兄弟(母方の伯叔父)と子どもをつなぐ系列によって
 展開される。そして「母」の兄弟(母方の伯叔父)が子どもに保護者としておおきな権威と
 役割をもち、この「母」と子ども、「母」の兄弟と子どもというふたつの系列によって親族
 組織が展開されることになる。そして「父」はこの親族組織にたいして「母」の兄弟よりも
 はるかに疎遠で、別の氏族に属している。だが「父」として家族の生活をささえ、じっさい
 には「父」方の家で家族の生活が営まれるところもある。もし「母」系優位の社会における
 家族の最小限の単位をかんがえるとすれば、こんなふうに「父」は実際の家族の生活では「
 母」と子と同居してその経済や日常を何くれとなくささえながら、親族組織の展開では「母
 」の兄弟が、おなじ氏族員として子どもの保護に任じ、「父」にとって代る位置を占める。
 「父」のほうは別の氏族に属する。

  そんな二重の関係が描かれることになる。この「母」系優位の社会で親族組織が家族と氏
 族をつ
くってゆく姿は、マリノウスキーーによってよく観察されている。
  マリノウスキーが未開や原始の初期社会についてかんがえたところは、つぎのいくつかに
 要約できる。

 (1)子どもからみて、ほんとの「母」とほんとの「父」のほかに「母」の姉妹もまた「母」
   と呼ばれ、「父」の兄弟もまた「父」と呼ばれる。兄弟や姉妹についてもおなした。そ
   してこの呼び名はとおい親族にも拡大され、氏族の成員にまで拡がってゆく。氏族のな
   かの実の「父」とおなじ世代の男子はすべて「父」と呼ばれ、実の「母」とおなじ世代
   の女子はすべて「母」と呼ばれるわけだ。「母」系が優位の地域では、親族組織の拡が
   りや氏族の発生は「母」方の親族をもとに行なわれる。そしてこのばあい、複数の「父」
   「母」や「姉妹」「兄弟」の呼称があることは、それ以前に原初的な乱婚や乱交の時期
   があったことを意味しているわけではない。

   またこれとかかわりがあることだが、家族と氏族とは親族組織が展開してゆくばあいの
   ふたつの面をあらわすので、家族が解体して氏族になるわけではない。

 (2)「母」系優位の社会とは、「母」と子どもの身体、つまり生理的なつながりが犬切な
   役割をもち、この母子関係をもとに親族が展開された社会という意味になる。「母」は
   まず子どもを受胎すると苦しくて不快な妊娠の時期を一年ちかくも耐え、出産の危機を
   とおりぬけ、出産してから一年以上、子どもの生命を養うために授乳し、養育しなくて
   はならない。この「母」の役割は文明社会でも未開の初期社会でもあくまでも「母」と
   「子」の個別的な過程であって、受胎、妊娠、出生、哺乳が個々の「母」と子どもの個
   別的なきずなだというのは変ることはない。

  このきずなにたいして「父」親が一義的に大切な役割があるとみなされるには、「母」と
 「父」との性交が、「母」の受胎や妊娠や出生をもたらした原因だという認識が前提になる
 はずだ。だが未開や原始などの初期社会では「母」と「父」との性交がなければ受胎も妊娠
 も子どもの出生もないという認識は存在しない。



 
  そこで何か起るかといえば「父」はすくなくとも「母」の受胎、妊娠そして子どもの出生
 にたいしては何のかかわりもない存在とみなされることだ。ただ「父」と「母」との性愛の
 親和だけが納得されている。もうひとつは「母」の兄弟が後見者や保護者としておおきな親
 密な関係で「母」と子どもの関係に登場してくるということだ。

  マリノウスキーのような考え方を右折すれば、これが兄妹始祖神話や説話や伝承が流布さ
 れ、しかもこの兄妹は風によって孕む、セキレイの交尾をみて性交を知ったというように、
 性交を知らぬ兄妹の言い伝えによって生みだされた証拠だということになる。

  こういう「母」系優位の初期社会で、「父」の役割や存在理由はとこにあるのか。マリノ
 ウスキーがトロブリアンド諸島の原住民について観察したところでは、「父」親はじっさい
 は「母」親をたすけて出生した子どもの経済生活の庇護者になり、その子どもを「母」親と
 分担して養育し愛しむことはもちろん、擬娩のようなじぶんが子どもを妊娠し苦痛を感じ、
 出産するといった「母」親に同化する行為さえやってのける。また「母」親の受胎、妊娠、
 出産のときに「父」親に課せられるタブーや儀式や睨的な行為一連の行為を行なうことにな
 る。マリノウスキーが強調したのは、「父」親の存在なしには「母」親の受胎、妊娠、子ど
 もの出生が親族や部族の間で合法的なものとしては認められないということだった。「父」
 と「母」とのあいだには婚姻にまつわる儀礼を経ていなければならないし、子どもの成育に
 まつわる共同の儀式や儀礼も「父」親を欠いては成り立たない。だから初期社会の「父」親
 の役割、あるいは「父」と「母」との婚姻関係といってもおなじだが、この関係の意味は子
 どもを生むための性的な配偶者というより「母」の受胎から子どもの出生にいたる「母」と
 子の関係を認知させるためのものだというのが、マリノウスキーの強調する眼目だった。

  これなしには「母」が子どもを産むという身体生理的な(生物学的な)事実を未開社会に
 おける文化的な事実にまでもたらすことはできない。さしあたってここでマリノウスキーが
 文化的とよんでいるものは、生れた子どもを中心に授乳や排便の社つけや、言葉の修得、部
 族に伝わる技術や儀礼の教えこみ、などをさしている。

  子どもは成長するにつれて家族から離れ、氏族の成員として神話や伝承を教えられ、共同
 の若者宿の生活に参加し、儀式や習慣を身につけ、「父」親の代りに「母」の兄弟の影響に
 よって氏族生活に入ってゆく。しかし、家族が結合をこわされるわけではない。
  もうひとつ大切なことは、家族内の近親相姦の禁止だ。兄弟と姉妹のあいだ、母と息子の
 あいだ、父と娘のあいだでの性的な行為は禁止される。これはおなじ氏族のなかでの婚姻の
 禁止と他の氏族との外婚制にまで発展してゆく。たとえば「母」系優位の社会では「母」の
 姉妹の家族にまで近親相姦の禁止が拡大されれば、その家族の兄弟や姉妹も兄弟姉妹と呼ば
 れるとともに性的な行為の禁止される範囲も名称にともなって拡大する。これは「母」方の
 親族として氏族にまでひろがり、その内部では性行為の禁止が行なわれ、それ以外の氏族と
 の外婚が成り立ってゆく。

  では子どもにとって実の「母」「父」と親族組織がひろがっていったため「母」とか「父」
 と呼ばれることになる母方の兄弟(伯叔父)や姉妹(伯叔母)はおなじ呼称なのに、どう区
 別されるのだろうか。マリノウスキーによれば、おなじ「父」「母」と呼ばれても、実の「
 父」「母」と氏族の「父」たちや「母」だちとでは感情的な抑揚や前後の関係の言いまわし
 によって呼び方のニュアンスが違い、原住民はそれが実の「父」「母」を呼んでいるのか、
 氏族の「父」たちや「母」たちのことかを手易く知り分けることができると述べている。

  またこの地域の原住民の言葉(マラヨ・ポリネシアン系)には同音異放談がおおいのだが、
 それは民族談として語彙が貧弱なためでも、未発達で粗雑なためでもない。おおくの同音異
 義談は比喩の関係にあって、直喩や暗喩とはつまり言語の呪術的な機能を談るものだと述べ
 ている。わたしたちがマリノウスキーの考察に卓抜さをかんじるのはこういう個所だ。

  たとえば「母」という言葉は、はじめはほんとの「母」にだけ使われる言葉たった。それ
 がやがて「母」の姉妹にまで使われることになる。これは子どもの「母」の姉妹にたいする
 社会的な関係がほんとうの「母」にたいする関係と同一になりうることを暗喩することにも
 なっている。そこでこのふたつの「母」を区別するために「母」という呼び方の感情的な抑
 揚を微妙に変えることにする。これによってほんとの「母」と、「母」の姉妹との社会的同
 一性とじっさいの差異を微妙にあらわし区別することになる。子どもの世代がこの同一性と
 差異に耐えられぬほどの社会的関係の変化やずれを体験したとき別称がはじめて実際の場面
 で登場しなくてはならない。

  ここまででぜひとも注釈しておきたいのは、マリノウスキーはトロブリアンド島の未開社
 会について、じぶんが往みついて体験し、見聞きし、考察したりしたことを、いねば部外か
 ら記述していることだ。その記述がどんなに如実で内在的にみえても、文明という外在から
 記述していることに変りはない。だが、これを読んでいるわかし(たち)はマリノウスキー
 ほど外在的ではない。文明社会の眼をもっているという意味では外在的だが、わかし(たち)
 の習俗の経験や遺伝的、伝統的な感性は、あきらかにトロブリアンド島とおなじ「母」系優
 位の初期社会から発している。そのためあるところまでゆくと外在と内在との混融した、奇
 妙な感じをともなうことになる。わたしの感受性が正確だとすればこの奇妙な感じは、どこ
 かで論理をあたえなくてはならない。

  「父」親はマリノウスキーがとりあげたトロブリアンド島のような「母」系優位の社会で
 も「母」と結婚し、「母」とおなじ家に位み、おなじ世帯をつくっている。さまざまなヴァ
 リエーションがあるが、この世帯はトロブリアンドでは「父」の村落の「父」の家で営まれ
 る。「父」は子どもの親しい仲間として世話をし、情愛を傾け、教育にこころをついやす。
 しかし、成長して家族の外部で振舞う場面にたつようになると、子どもは「父」の氏族やト
 ーテムと違って「母」の氏族に属することをはっきりと知り、氏族にたいする義務や儀礼が
 「父」親と遠うことになる。

 「父」の像はその場面では遠のいていくだろう。そして「父」にかわってこういう家族外の
 場面で途上してくるのが「母」の兄弟(母方の伯叔父)ということを知る。この「母」の兄
 弟の住む村落が、子にとってじぶんの村落になり、財産や住民としての帰属や仲間は「母」
 の兄弟の村落にあり、「父」の村落には属さない。子どもが帰属する村落では「父」はよそ
 者ということになり、また第二の「父」である「母」の兄弟は子どもにたいし、ますます権
 威をもつようになる。

  わたしたちは琉球ではいまなおこの習俗に出合うことができるし、本土でも、またわたし
 たちの感情の基層でも、この名残りを実感することができよう。
  マリノウスキーの考察はトロブリアンド島の原住民の性認識の観察を通じて、兄妹始祖神
 話をもった地域の初期社会のいちばん犬切な問題にかかわってゆくようにおもえる。この神
 話をもった「母」系優位の初期社会がどうして出現したかといえば、男女の性交をふくむ性
 行動、いいかえれば子どもからみた「父」「母」との性交と「母」の受胎、妊娠、出産との
 あいだに関係のあることを認知できないところから由来している。これは重要なことだ。

  すぐに気がつく常識でいえば、受胎から出産までのあいだに十ヵ月の遅延があるため、性
 交がすぐに受胎につながったとしても、十ヵ月の空白をこえて性交が妊娠、出産とかかわり
 があることを、初期社会の原住民たちは認識できなかった。いいかえれば原住民の認識力は
 即時的な事象を結びつけることはできるが、時間的に遅延された事象の隔たりを結びつける
 までには至らなかったのだ。マリノウスキーによれば、かれらは性的な欲望は眼(視覚)に
 やどるが愛情は内臓や両腕の皮膚にやどるとかんがえていた。この性交と、受胎と、出産の
 あいだの遅延を充たしているのは、原住民によれば使者の霊魂(baloma)だとかんがえられ
  ていた。霊魂は使者の島(Tuma)に住んで生活しているが、現世へ復帰したくなると若返っ
 て肉体化しないちいさな嬰児の霊魂になってトロブリアンドの島へ帰り、女性の子宮のなか
 に入り込む。それが受胎であり氏族の死んだ誰かの霊魂の再生にあたっている。このばあい
 小さな霊魂とそれが子宮に入りこむ女性とは、同一の氏族(亜氏族)に属していなければな
 らない。
 
  霊魂は若返るためには海辺に行き、海水で身をすすぐ。そして何回か休浴し小さな嬰児の
 状態になると海に漂流する。流木、本の葉、樹枝、海藻、泡沫などにのってトロブリアンド
 の海岸ちかくを漂う。
  マリノウスキーが厳密に言いわけているところでは、嬰児の霊魂は直接に漂ってくるので
 はないという考えもある。その背後に支配的霊魂の行動があり、そしてこの霊魂はまさに妊
 娠しようとしている女性の夢のなかにあらわれる。その女性は自分の「母」系の親族の誰か、
 たとえばじぶんの「母」親や「母」の兄弟などの霊魂が夢のなかにあらわれ、目が覚めて、
 いま子どもを授かったと言って納得する。マリノウスキーはこう記述している。

  
   婦人は、嬰児を彼女に授けたのが誰であったかを夫に話すことが多い。そしてこの霊的
  代父もしくは代母の伝承は保存されている。このようにして、この地方第一の村、オマラ
  カナの現在の酋長は、彼の母に自分を授けたのは、オマラカナのかつての酋長の一人のブ
  グヮブヮガ(Bugwabwaga)であったと思っている。わたくしの最良の友であるトクルバキ
  キ(Tokulubakiki)は母の母の兄弟のカダラ(kadala)から母への贈物によって生まれた。
  トクルバキキの妻はその長女を母の霊魂から授かった。通常、贈物を授けるのは母《とな
  るべき者》の母系親族の何人かである。しかし時としては、トムワヤ・ラクワブロの陳述
  にあらわれているように、妊婦の父であることもある。
       

          (B・マリノウスキー『未開家族の論理と心理』青山道夫・布地亨訳)


 


                                                            第一部 吉本隆明の経済学


今夜から第7章に入って、贈与経済論の俯瞰し、これからのわたし(たち)の課題を再確認でき
れば
と考えている。

                                                    (この項続く)  

 

 

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人命は鴻毛より軽し

2015年02月22日 | 時事書評

 





 

● 戦後70年 「人命は鴻毛より軽し」を問う


■イスラム過激派「イラク・シリア・イスラム国(ISIS)」は15日、リビアの海岸でキリ
スト教の一派であるコプト教徒のエジプト人約20人の首をはねて殺害したとするビデオを公開。
ISISの宣伝部門「アルハヤト・メディア」が約5分間のビデオを流し、オレンジ色の服を着
て後ろ手に縛られた犠牲者ひとりひとりの背後に、黒装束の過激派メンバーらが立っている。ビ
デオには英語を話す覆面の人物が登場し、米軍が殺害した国際テロ組織アルカイダの指導者オサ
マ・ビンラディン容疑者の名を挙げて「お前たちがビンラディン師の遺体を隠した海に、お前た
ちの血を混ぜることを神に誓う」と宣言。合図とともに犠牲者全員が倒され、首を切られる場面
を収録(「コプト教徒を『集団処刑』ISISが動画公開」CNN,2015.02.16)。■これに対し、
エジプト軍は16日、リビアにあるイスラム過激派組織「イスラム国」の拠点を空爆。ISの分
派組織「ISトリポリ州」がエジプト人のキリスト教徒21人を殺害したのに対する報復措置。
ISによる大量虐殺は、シリアやイラクに続いて、リビアでもISの脅威が拡大していることを
実証した格好で、周辺国からはリビアへの国際的な介入を求める声が強まっているという(「エ
ジプト:リビアのISに報復空爆」毎日新聞, 2015.02.16)。■これに対し、リビア東部クバで
20日、ガソリンスタンドなどを狙った爆発があり、AP通信によると、少なくとも45人が死
亡した。東部を統治する「トブルク政府」側のサレハ暫定議会議長の自宅前でも爆発があった。
クバの東約35キロのデルナでは16日、エジプト軍と「トブルク政府」が共同で、イスラム過
激派組織「イスラム国」(IS)の分派への空爆を実施しており、ロイター通信によると、IS
の分派組織が「デルナの流血に報復するため、数十人を死傷させた」との犯行声明を出したとい
う(<リビア>爆発、45人死亡…IS分派が犯行声明」毎日新聞 2015.02.20)。■そうか思え
ば。過激派組織「イスラム国」が、トルコ国内にある欧米諸国などの在外公館をテロ攻撃する可
能性があるとの報道が、トルコの主要紙で相次いでいる。「イスラム国」には、米軍主導の空爆
の参加国に報復する意図があるとみられているという(「イスラム国」トルコでテロ計画か主要
紙が相次ぎ報道」朝日新聞デジタル 2015.02.21)。■それでは終わらないようで、中国で新疆ウ
イグル自治区のイスラム教徒ウイグル族による不法出国が相次いでいる。多くは東南アジアに向
かい、一部は歴史的につながりの深いトルコに逃れているという。中国当局はウイグル独立派組
織がシリアなどの過激派組織への参加を扇動していると主張するが、宗教的な抑圧から逃れよう
脱出を図った人も多いとみられているという(「脱出相次ぐウイグル族 強まるイスラム教抑
」毎日新聞 2015.02.22)。

「パンドラの箱」をあけてしまって、千年戦争だけが残った感がするとは、このブログで掲載し
たことではあるが、コブト教徒惨殺のニュースに接し「人命は鴻毛より軽し」という言葉が浮か
んだ。このフレーズの原文は、人の死というものは,泰山より重い時もあれば,鴻毛よりも軽い
時もあって,その趣(趨)は様々であるというような意味。これが軍人や任侠の世界では「義は
泰山より重く,命は鴻毛より軽い」とされ、後に、毛沢東もその語録で,この言葉を引用する。




         人固有一死。或重於太山、或軽於鴻毛。用之所趨異也。

                           
                    
                        司馬遷『報任少卿書』



日本では、明治年間の1882年に作られた軍人勅諭の一節にあり、「只々一途に己か本分の忠節を
守り,義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覺悟せよ。其操を破りて不覚を取り汚名を受く
るなかれ。」とある。イスラムでは「ジハード(聖戦)訓」と言うことになるのだろうか、しか
し、個人的には、寧ろ「厭戦感」として使っているのだ。ベトナム戦争、イイ戦争、湾岸戦争、
アフガニスタン戦争となにひとつ成果を挙げることができなかった?歴代の米国の巨砲外交戦後
史の「徒花」の句でもあろうか。個人的には、いい加減に国際的な国家の軍事部門の「戦略思考」
(=軍事的ゼロサム思考)を終焉させ、日本の戦争責任問題にけじめをつけなければと考える。
つまりは、それ程までの核エネルギーに象徴される様な巨大な生産力を
もつに至った人類の欲望
の「制御」の確立と国際的な合意形成の必要性への問い直しが、"人命は鴻毛より軽し"だったと。


 
  琉球布紀行

● 『吉本隆明の経済学』論 Ⅴ

   吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!
 

 吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズと
 も異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかっ
 たその思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造
 とは何か。資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の
 核心に迫る。


 はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 労働価値論から贈与価値論へ
 第5章 生産と消費
 第6章 都市経済論
 第7章 農業問題
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき
 

     第8章 超資本主義論

    2 世界認識の臨界へ

 
                                高次化する資本主義
 
   〈エコロジー〉を問う

 ――すこし話題を変えます。70年代から80年代にかけて、都市化という問題、日本全国
 が都
市になっていくような拡張現象があったとおもうんです。それにたいして一種の反動と
 いうか、自然を守れという地球環境保護のような主張が起こったとおもうんです。
  80年代は市民運動レベルからファッションとしてのエコロジーまでそうした主張が多様
 に出てきたとおもうんです。この問題についてはどうお考えですか。

 吉本 農村が都市化し、都市が高度化していく、つまり高度情報化していく、その流れには、
 自然史の延長としての文明史の必然だという部分があります。この部分は制度や権力で止め
 ようとおもって法律をこしらえても、いくらか遅くなるか促進されるか反動が起こったり、
 という程度のものだとおもいます。
  そうすると、都市は高度化し、文明はもっと高度化しということは、基本的なところでは
 不可避だとおもいます。何かできるのかといえば人工都市はできるんです。人工都市の中で
 自然と産業、つまり先ほどいいましたことから出てくる第一次産業、第二次産業、第三次産
 業、あるいは第四次産業、その産業の割合と、天然自然の割合とが理想的であるような人工
 都市をつくるという考え方です。だから都市のなかに農村をつくったり、公園をつくったり、
 森林をつくったり河川をつくったりという、それ以外の方法はありえないでしょう。

  たぶん高度化した都市から順々に人工都市をつくらざるをえなくなっていくだろうとおも
 います。つまり、一般的にエコロジストなどが都市は高度になって廃墟化していくといって
 いる。その廃墟化といっているものこそは、人工都市をつくるべきいちばんのポイントなん
 です。それから、もうひとつつくれるところがあるんです。それは、ぼくがよくいっている
 アフリカ的段階です。つまり草原・森林というのが依然として健在で、田畑、つまり開墾し
 たりしてないところがあるんです。開墾したらそれはアジア型の社会になってしまうんです
 が、開墾されてない多くの森林や草原があるということは、自然と産業と理想の割り振りで
 人工都市をつくれる可能性があるということです。じっさいにその実力や権力がある人たち
 がつくるかどうかはまったく別の問題です。たぶんつくらないとおもいます。放っておけば
 アジア的な社会になっていくとおもいます。だけど、やる気と見識があればほんとうはつく
 れるんです。

  つくれるところはふたつです。アフリカ的段階と、それからとても高度になった資本主義
 社会の段階とです。それがぼくの根本的な考え方です。
  それではなぜエコロジーの思想、環境保護の思想というのが世界的な規模で、しかも保守
 的であると進歩的であるとを問わず出てきたか。要するに危機感があるからです。つまり産
 業の高次化ということが未知の体験で、まだ適応するほど慣れていないからです。意識が遅
 れているからつまり慣れていないです。そうすると、どうしても、農村があって、製造工業
 を主体とする都市があってという、ほんとうはエコロジスト、自然保護、環境保護を主張す
 る人たちの産業のイメージあるいは社会のイメージはそれになってしまうんです。現在はも
 うそうじゃないんだ、世界の先進的な地域では第三次産業が主体になっているんだというイ
 メージがないんです。だから、農村や製造業が少なくなって流通業やサービス業が多くなっ
 ていくという、これがものすごく手がかりや枠組が不明で危機感を誘発するわけです。これ
 が終末感がまんえんする所以です。エコロジーの思想が世界じゅうでまんえんし、進歩的な
 やつも保守的なやつもエコロジーの思想を宗数的なまで至上のところにおしあげている根本
 理由だとおもってます。
 
  それでは、どうしてそんなことになってしまうのかということですが、それは、つくりだ
 すものが目に見える物ではない産業、つまり三次産業以上にたいして、どう適応していいか
 わからないことがひとつ、もうひとつは、人間というものの可変性といいますか、可塑性と
 いいましょうか、それを全然考えに入れてないからです。つまり人間の意識は高次化する社
 会に遅れたり進んだりはするけれども、適応し、働きかけるものです。いつでも人間という
 のは環境に受け身でないんですね。文明、文化がそれを証明しているように、ここに欠陥が
 あるとなれば、それにたいして修正しようともしますし、適応しようともします。人間の身
 体もまた適応しようとします。

  だから、人間というのは産業のそれぞれの段階で、それぞれ適応しながら自分の意識も発
 達させていくわけです。そのことが人類がいままで滅びないでやってきた理由です。
  エコロジストや環境保護を主張する人たちは、いや、そうはいってももうこれ以上産業が
 高次になるとなどといいますが、それは嘘なんです。そうだとしたら、かつて縄文時代みた
 いに狩猟や自然採取の社会から、農耕みたいに自然を耕して収穫してというふうになるとき
 だってやはり大変革ですから、それにたいして適応できない縄文人ももちろんいたわけです
 が、そういう大変革のところでたいてい滅んでしまっているわけでしょう。そういうのを歴
 史の折り目にくぐり抜けてきているということは何かといったら、それに対して適応してい
 く能力があるからです。そのことを勘定に入れないで、エコロジストがいうように、今度だ
 け適応できないなどということを考える根拠はまったくないとおもいます。

  ぼくは、そういう外在的なことでは人類という種は滅びないとおもっています。それは生
 物学者はよく知っているけれども、人間という種が滅びるときは内在的に滅びるんです。種
 というのは永久的じゃないですから、どんな動物の種も、どんな植物の種も、それ自体の内
 在的な理由で永久ではないんです。そういう滅び方しかしないとぼくはおもっています。地
 球環境がだめだったらどこかへ行きますし、そんなことは別にどうということはないので、
 そういう滅び方はしない。人類はそういう滅び方はなんとかかんとか切り抜けてきているわ
 けです。それはぜんぜん嘘だ、虚偽の主張だとおもっています。

  保守的であろうと進歩的であろうと、環境保護みたいなことをいうと、水戸黄門の印龍み
 たいなオールマイティで、これで済んでしまう。とんでもない話だとおもうんです。
  環境保護の問題に対しては、イデオロギー、緑の思想とかエコロジーの思想とかを入れな
 いことです。これは純技術的な問題として、国際的に技術的な専門家の機関を設けて個々の
 地域にいる関心の深い人たちはモニターの役割をすればいいとおもいます。

  イデオロギストが科学技術的に解決する技術的方策をもたないで運動体として指導する形
 はいちばんだめなことだとおもいます。公害やウイルスは人やイデオロギーを区別するわけ
 じゃないですから。そんなものは引っ込んじゃったほうがいい。これは科学技術的な問題で
 す。
  よほど反動的な政府ができて、もうこれ以上都市を膨張させたら、法律上死刑に処すると
 いう制度をつくったら、文明は少しは遅くなりますが、もともと文明の中核には自然史の延
 長たというところがありますから、文明をとめることはできません。

 

  世界資本主義と〈国家〉

 ――国家による支配が問題になっているのが現在のソ連・東欧圏の問題なわけですが198
 0年代はまた歴史の中で、国家と大衆の本質的な問題を露出させた十年だったとおもいます。
 1980年代の初めにポ土フンドで反体制運動が起こって、その流れは最終的に1989年
 の一連のソ連東欧圏の民主化運動につながっていったわけですが、そうした社会主義圏の国
 家の問題についてはどうお考えになっているのでしょうか。その問題は先はどの歴史の自然
 過程、人類の無意識ということに関わってくるとおもいますが。

 吉本 人類が無意識のうちに最上とおもいながら選択していったら、現状はこうなったとい
 う意味では、歴史の無意識の最先端はEC(欧州共同体)だとおもいます。欧州共同体がど
 こまで国家を超えて、どこの部分では国家に固執していくかということをみるのがいちばん
 の目安です。それから人類の意識的な問題、つまり国家について意識的な問題というのはど
 うなるかということがあるわけですが、その前に、先ほどいいましたように、人類の歴史を
 意識化しようとするやり方は現在のボーランドの「連帯」の動きを最先端として、現在のソ
 ビエト、東欧諸国、中国いわゆる社会主義国家圈の問題として現われています。つまり人類
 の歴史を意識化しようとしてなお固家を存続しておいた、その矛盾がいま露呈してきている
 のだとおもいます。

  ポーランドの「連帯」はずっと共産党の国家権力と対決してきたのが以前の状態です。現
 在の状態は大きく変わって、「連帯」系の知識人が半分国家権力の中に入っていったという
 ことです。
  これが他の東欧圏に比べていちばん進んだ形です。
  そうすると、ここで何か問題なのかといえばそれは大衆の問題です。以前の「連帯」とい
 う労働運動の組織(これは大衆の祖織的な主体ですが)と国家権力との対決の状態のなかで
 何か問題だったかというと、大衆の組織である「連帯」の労働運動の水準で自分たちがデモ
 をして政府を倒して、国家を掌握するんだと考えていくらやっても、原理的にそれではだめ
 なんだ、という理解の仕方をもっていました。これは『超西欧的まで』のなかに「ポーラン
 ドヘの寄与」という題でいったところです。

  それはなぜかといったら、「連帯」はもともと労働組合の連合で、労働組合組織として自
 立性自主性をもたせよという要求をもとに結集した組織です。労働組合の外部の社会にたい
 してどんな位置づけをもつか、また国家の機構にたいしてどんな関連をもつか、一般大衆と
 「連帯」とのあいだにどんな関連をつけるか、などという問題に対して、「連帯」は何も考
 えていなかったし位置づけもなくて、ただ共産党国家権力から相対的に自立した労働組合で
 あることだけを要求してきたのです。これでは「連帯」が国家を担当するという課題はどこ
 からもでてくるはずがない。

 「連帯」が国家に到達するには、中間にいくつか段階が考えられなければならないはずだと
 いうのがぽくの理解の仕方でした。
  だから、「連帯」がいかに情況がよくなって強くなっても、その組織原理が労働者の内側
 からの自主的な組織というところにあるだけなら、国家としかに対抗したり、国家を掌握し
 たりはできません。「連帯」が一般市民社会に出たとき、どんな振る舞い方ができるかとい
 うシステムの構えがあらかじめあれば、国家にじかに近づくことができるし、影響を与えら
 れるけれど、そういうものがなければ、じかに国家にかわったりできないわけです。「連帯」
 はいまは、情勢が進展して、国家権力の中に半数は入っているわけです。これがうまくやっ
 ていくには、経済政策とかいろいろいわれていますが、そんなことはどこの内閣だって、ど
 この政府だってやる課題で、どうということもないでしょう。それよりも原理的に、「連帯」
 という組織と国家との中間に、国家にじかに働きかけたり、あるいは国家がじかに働きかけ
 たりできるシステムや、システム的な思考が理論的につくれてなくてはならないはずです。

  資本主義国の一般の政府と同じにしか振る舞えなければ、ポシャるだけのことのようにお
 もいます。それが考えられてなければ、歴史を意識的に変えようとする大衆の政府の先端的
 な問題を解いたことにならないでしょう。中間のそういうシステムがどうつくれるかという
 課題がポーランドの問題、つまり歴史を意識的に変えようとする考え方のいちばん先端的な
 問題だとおもいます。
  ところで今度はあとのほうの社会主義圈の問題、これはふたつみればいい。ひとつはロシ
 アつまりソビエトをみればいい。もうひとつは東欧諸国をみればいいとおもいます。
  ソビエトの問題は何かといったら、ソビエト社会主義共和国連邦政府、つまりソピエトの
 中央政府、ゴルバチョフ政府と、各共和国の権力の不均衡ということがひとつの大きな問題
 です。つまり、いまの連邦政府がもっている権力は大量に共和国に委譲するとおもいます。
 委譲しなければ収まらない、それの問題だとおもいます。連邦政府が自分のもっている連邦
 国家権力を各共和国の国家権力にどれだけ委譲できるか、あるいはバルト三国のような完全
 に権力を委譲せよという要求に、どこまで応じられるか、どこで弾圧するかという問題です。

  バルト三国みたいなのは独立までいってしまうかもしれませんし、それ以前で、大部分の
 権力は共和国に委譲され、少数の権力だけを連邦政府がもって、ここで均衡と妥協が成り立
 つかもしれません。ソ連の場合にはこれをよくみていればいいとおもいます。
  それから、もうひとつは土地所有の問題、あるいは農業の私有地の問題です。現在、土地
 所有はソビエトでは許されていない。わずかに私有地が許されているのは全土地の3%ぐら
 いです。
  3%の耕作地は私有地として許されて、そこで収穫した穀物や野菜は、自分で売って収入
 を得ていいことになっていますが、あとはコルホーズやソフホーズで、要するに国家の給料
 をもらっている官吏と同じようになっています。

  そこで問題なのは、土地の私有が3%しか許されていない。ところがジャガイモにいたっ
 てはソ連の全農産物の60%は3%の私有地でつくっている。大体ならして20%から60
 %の農産物はたった3%の私有地でつくられています。こんなバカな土地制度が許されてい
 いはずはないので、これはいまゴルバチョフ政府が土地保有法改定の法案を出しています。
 永代貸与を認める――つまり実質上は私有地ですがIIという改正案を出していますが、そ
 れは当然なんです。ロシアはあんな広い土地があって、それで他から農産物を買っているわ
 けですから、まったくだめな土地制度でやはりそこの問題なんです。農地および土地所有法
 ですが、これをどこまで許すことで妥協するか。全部100%許すというのなら、それは資
 本主義ですね。そこまでいくかもしれませんし、その前で、20%許すとか50%許すとか
 いうところで止まるかもしれません。ソビエトの場合はそれをよくみていればいいとおもい
 ます。

  あとは、東欧諸国は大なり小なり共産党一党支配が止んで、民主社会主義といいましょう
 か独裁じゃなくて民主的な、つまり複数政党を許す社会主義のどのへんまでで止まるか。そ
 れともそれはだめだというところで資本主義と同じ、つまり先進資本主義はたぶんいま国家
 管理は大体30%から40%だとおもうんです。アメリカなどは40%ぐらいは国家管理だ
 とおもいます。
  だからそこらへんまでいってしまうか、それとも50%以上60%までの国家管理で、あ
 とは複数政党の権利を認めてというところで止まるか、それをみていればいいとおもいます。
  これが国家の問題の現状です。国家を意識的に変えようという制度が、いちように失敗し
 てきた現状です。それなら、どこが意識的に国家を変えるポイントは何なのかといえば、3
 つあるとおもうんです。

  ひとつ、簡単なことなんですが、複数政党制を認めるか認めないかでやっているけれども、
 そんなことはどうでもいい。ということは、複数政党制というのはどこまで資本主義原理を
 導入するかということとイコールです。つまり、資本主義というのは、国家の政府は少なく
 ともシステム上は100%、民衆が選挙をして選んだ奴がまた選んで、また選んで、そして
 多数派の政党が政権をとる、となっているわけだから、複数政党制をとっているということ
 は資本主義をそれだけの部分とっているというだけのことで、言い換えにすぎないです。そ
 こで歴史の新しさが出てくるわけでも何でもない。それは資本主義に部分的に戻ったという
 意味しかないので、社会民主主義と呼ぼうが呼ぶまいが資本主義はそういうものでしかない
 ので、意識的に国家の歴史を変えるという考え方が国家に対してどのようにあれすればいい
 かとまったくかかわりありません。しかしこの課題は未知ですが、原則はいくつかに還元さ
 れます。

  ひとつは、国家が軍隊を持たないことです。軍隊をもっても、社会管理とか市民が管理す
 る軍隊しかもたないということ、それがポイントです。つまり国軍をもたない。中央の国家
 政府が「おい、戦争しよう」といったら軍隊が動いてしまうような、そういう軍隊をもたな
 い。市民や一般大衆が管理している、つまり一般大衆の賛成が得られなかったら軍隊を動か
 せない。そういう軍隊にすること、つまり国軍を持たないということというのがひとつの大
 きな条件です。
  
  それからもうひとつは、経済の問題です。いまの社会主義国は100%生産手段を国有化
 してきました。ところで国有化すること、あるいは社会所有にすることが、つまり公有化す
 ることが、一般大衆の利益になる限りでだけ公有化を行ない、個々の一般大衆の利益になら
 ないものは全部私有化するということです。そうしたほうが一般大衆にとって利益なんだと
 いう生産手段だけを国有化すること、それが原則です。

  それからもうひとつ第三の原則は、これも簡単なことですが、一般大衆の直接無記名投票
 で国家がリコールできるということです。
  この3点ができたら歴史を意識的に変えようとする理念は原理的に成り立つことになりま
 す。
  逆にいえばこの3つが実際にできていないかぎり、社会主義でも何でもないわけです。と
 いうことは昨年来の中国、東欧、ソ連の激動をみて、社会主義は終わったという見解も、現
 在までの体制をソフトにしただけで人間の顔をした社会民主主義に変えるんだなどという見
 解も馬鹿げているということです。ソ連や東欧の体制は社会主義であったこともないし、ゴ
 ルバチョフ体制が社会主義になったわけでもありません。

  いま申しましたようにこの3つの原則ができてなかったら、主観的にある政党がいくら社
 会主義だと名乗ろうとべつに社会主義ではありません。このことははっきりしていることだ
 し、またはっきりさせておくことが大切です。よくみててごらんなさい。その3つがポーラ
 ンドでまっ先にできたら、それが社会主義です。歴史を意識化できるかどうかのポイントは
 ここですから、よくみていればすぐに誰にでもわかります。これだけですね。これでいいと
 ぼくはおもっています。

  現在当面しているソ連、東欧、東独問題は何なんだ、国家がどうなれば歴史は意識的に変
 えられたと結論できるのか、そして意識的に歴史を変えようとする理念がだめなら、歴史は
 無意識のうちに変わる以外にないとかいうことを判断したことになります。欧州共同体をよ
 くみててごらんなさい。これのやり方のよさと悪さは、逆に歴史の無意識の問題になります。
  中国はそういう原則に照らして、いまの状態だったらたぶん十年とか二十年とか民衆の解
 放は遅れるとおもいます。


 ――資本主義圈でいえば、国家管理がたとえば40%だということはあるかもしれないので
 すが、管理の構造が変わって非常にソフトな管理が進んでいくようなことがあるのではない
 でしょうか。ヨーロッパ共同体というのも、国家の解体という事もあるけれども、逆に新た
 な、見えない、管理の強化みたいなことも出てくるんじゃないか、それが資本主義の停滞と
 いう問題を生むこともあるのじゃないかとおもうんですが……。

 吉本 あるとおもいます。つまり、ぼくは前からそうおもっていたけれども、結局だんだん
 社会主義国家圏と先進資本主義国家圈とが同じイメージのところへいくだろうから、同じ問
 題として理解して、ほとんどいいとおもいます。まだまだそうはいかないですが、いまに東
 欧がもう少し動きますし、資本主義ももしかするともう少し干渉しないとだめなのかもしれ
 ないし、その前に、先はどのECみたいに、国家がどんどん緩くなっていっちやうことで管
 理が止まっていったり少なくなっていくかもしれない。それはわかりません。国家というの
 が強化される一方だったら、たぶん管理は強化される一方になって、社会主義が55%管理
 までいったら、資本主義は45%までいくみたいになってしまうとおもいます。だけれども、
 一方では欧州共同体みたいに、産業が高次化すれば国家は部分的に解体に向かいますから
 そういう動きももう一方にあります。それは均衡の問題になるような気がします。

  ぽくがいま得ているイメージの骨組みはそこらへんです。それ以上のことはほんとうにわ
 かりませんから、もっと突っ込んだらまた『ハイ・イメージ論』で、もう一度やってやろう
 とおもっています。まだわからないものだから放り出したり、いいかげんなことでやめたり、
 また別なことをやりだしたりしています。またやってみようとおもってます。



  世界認識の現在

 ――最後に、これはいままでの話と直接は関わってこないかもしれないのですが、吉本さん
 の思想の方法、世界の認識の方法についてうかがいたいとおもいます。世界というのは最終
 的に明証的に解読しえるんだという思想と究極的に解読しえない「未知」が存在するとする
 思想があるわけですが、古本さんの思想は〈明証〉と〈未知〉をどのように位置づけている
 のでしょうか。あるいは、「自立」というイメージ、それに対する余剰ともいうべき人間の
 「弱さ」とか「過ち」はどのように理解されるでしょう。その問題はもちろん「大衆の原像」
 という思想にも関わっているのでしょうが。

 吉本 ぼくはこうおもうんです。いま自分の歩き方を考えてみると、戦争中から戦争が終わ
 ったときにかけて、大転換期を体験しました。それは目に見える動乱と混乱でした。現在は
 目に見えない大混乱と大転換の時期だとおもいます
  これはまったくだめで間違ったな、という体験をしたのは、第二次大戦の終わり、つまり
 太平洋戦争の敗戦とその直後のところでした、これは徹底的にだめだったなとおもったのは
 世界把握の方法を自分はまったく持ってなかったということでした。つまり主観的あるいは
 内面的だった文学青年にすぎなかったなということです。世界という外在をつかむことに関
 心も少なかったけれど、そのつかみ方すらわからなかった。だからうまく外側から権力者や
 同伴者のいうことに乗せられたとおもいます。
 
  現在、ぽくは世界的な規模で、敗戦にぶつかっているんだとみなすのが世界把握としては
 いちばん考えやすいし、正確だとおもっています。内面さえ深めてゆけば人間はいいんだと
 いう考えはまったくだめだったというのが、戦後にいちばん考えたところです。現在までの
 ところ半分は正確に世界をつかんできたとおもっています。そして半分はやっぱり、これは
 ちょっとまいったな、よほど徹底して考えないと、現在のこの転換期の世界はうまく把めな
 い。そんな問題が世界的な規模で目の前におかれているというのがぼくの現状理解の仕方で
 す。

 ――長時間、ありがとうございました。

                             第一部 吉本隆明の経済学




ここで、吉本のエコロジーに対する思いと別に、地球環境の劣化―「不都合な真実」が静かに進
行しているようにみえる。1990年代初期にカナダのブリティッシュコロンビア大学のウィリアム・
リースとマティス・ワケナゲルが「収奪された環境収容力(Appropriated Carrying Capacity, ACC)」
提唱する。この用語が難解であったため、「人間活動が地球環境を踏みつけにした足跡」という
比喩に基づき、1992年に「エコロジカル・フットプリント)」と言う用語に変更された。が、その
後事
態は悪化の一途を辿っているかのうようだ。つまり、環境リスク(あるいは、カーボンリス
ク)本位制時代
1999年の夏に突入したと――そうわたし(たち)は世界認識しているのだ(詳
しくは、このブロ
グのカテゴリー「地球温暖化」を検索のこと)。
 

                                                    (この項続く)  

 

  ● 日本のエコロジカル・フットプリント2012

 

 

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『吉本隆明の経済学』論 Ⅳ

2015年02月21日 | 時事書評

 

● 『吉本隆明の経済学』論 Ⅳ

  吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!
 

 吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズと
 も異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかっ
 たその思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造
 とは何か。資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の
 核心に迫る。


 はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 労働価値論から贈与価値論へ
 第5章 生産と消費
 第6章 都市経済論
 第7章 農業問題
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき
 

     第8章 超資本主義論

    2 世界認識の臨界へ
 
                                 高次化する資本主義

 ――まず鍛初に、私たちはいまどこにいるのかということをおうかがいしたいとおもいます。
  20世紀も終わろうとしているわけですが、19世紀から20世紀にかけて確立されたさま
 ざまなシステム、「近代国家」「近代資本主義」…といったものがこわれて未知な何かに変わ
 ろうとしている。その徴徴候が60年代から80年代にかけて、さまざまな局面で噴出したよ
 うにおもえます。その問題は高度資本主義という現象がいちばん重要となってくるとおもいま
 すが、まずそのあたりから……。

 吉本 いまおっしやった点だけでいうと、80年代にきっぱりと区切るわけにいかないですが、
 しいて区切ってみます。そこのところで資本主義の新しい未知の段階に入った徴候がいろいろ
 と顕著に出てきた。それが特徴ではないでしょうか。何を未知というかということです。18
 世紀の半ばころから西欧世界の先進的な地域で資本主義的な社会システムをとって、資本主義
 は興隆 期間になりますね。
 
  どこで資本主義を見ていくのか、話を単純にするため、産業の段階でいってみます。農業、
 漁業、林業など、じかに自然を相手とした第一次産業、その基本になっているのは農村、漁村
 です。初期は農村、漁村が食糧だけでなくて、同時に衣食住でいえば、衣料や住居に関する産
 業も家内工業的に処理してきたわけです。それが規模も大きくなって第二次産業、つまり工業
 あるいは製造業という形で、農村から別のところに製造工場の場所を求めて分離していき、都
 市をつくります。そこまでのイメージが、第一次産業と第二次産業、つまり農業、漁業、林業
 のような自然を相手にした産業と、製造業あるいは建設工業との分離と対立で、同時に農村と
 都市の対立のはじまりです。分業が盛んになり、また市場が設けられて製品の売買交換が行わ
 れるようになります。

 そういう段階までが、初期に資本主義と規定された社会の根本の構造だとおもうんです。

  現在はどうなっているでしょうか。先進的な社会では60年代から80年代のあいだに、第
 二次的な製造工業のなかから第三次的な産業――流通業とか、サービス業のようなもの、教育、
 娯楽、医療、情報などの産業が、人目構成では大勢を占めるようになっています。つまり農漁
 業と製造業の分離と対立ではなく、第三次的な産業がどれだけ膨張して、第二次産業と第一次
 産業を 内包したり外延したりできるかが、資本主義の課題に変貌してきました これが現在、
 未知の段階のさまざまな混乱とはじめての高度な新しい課題を産みだしている理由だとおもう
 んです。

  その未知の萌芽はもちろん第二次産業のときにすでにあるわけです。流通業、サービス業、
 娯楽教育産業、外食産業、どれをとっても、第二次産業の胎内にもうすでにあったわけです。
 でも主体はあくまでも製造業や農漁業にあり、それが枯抗して資本主義の基本のイメージをつ
 くっていました。この社会現象や、産業現象や、それに伴う文化現象のイメージがすでに通り
 過ぎたということです。この現在の段階の資本主義について明瞭な分析を加えて、この資本主
 義の実体はどうで、特長や弱点はどこにあるかという問題を解くため『資本論』をやったもの
 はどこからもあらわれていません。現在破綻に瀕している社会主義的思想は、第二次産業が興
 隆するあまり農村が疲弊し、都市では労働者が貧困にさらされ、資本だけが膨張して、という
 イメージのなかでできたものです。破綻するのは当然です。第三次産業が社会産業の中心に移
 り、その産業の中心を担う民衆が中流意識をもち、社会構成の70~80%を占めるようにな
 った現状を、どう理解すべきかという問題が、全体的に未知だとおもいます。この問題が露わ
 にでてきたのが80年代の問題です。いまあなたのおっしゃった要約点でいうならば、そうい
 うふうに理解すれば、大ざっぱにはいいのじゃないでしょうか。

  一般的に社会がどういっているか、現状はどうだということをどこではかるか、大ざっぱに
 はふたつです。ひとつは産業構造、ひとつは国家の問題です。民族国家は近代資本主義興隆期
 の産物です。近代資本主義社会が未知の段階にはいったとすれば、近代民族国家もまた未知の
 段階にはいったと考えるべきです。

  昨年来、中国やソ達や東欧の社会主義「国」で起こっている混乱の問題は、いってみれば国
 家管理社会主義の問題です。国家はそのままにしておいて、社会主義的な理念を社会システム
 に適用しようとしてきたのが国家社会主義です。つまり資本主義社会の共同幻想である国家は
 そのままにして、社会構成や生産の仕方だけ社会主義化しようと無意識にやってきたことが、
 矛盾と破綻をきたしているのだとおもいます。資本主義をよりよくしようとか変えようという
 のだったら国家を変えようというのが当然伴わなければならない。幻想性としての国家を変え
  ようということが資本主義社会を変えることだし、また産業制度としての資本主義を変えよう
  ということが社
会を変えるということですからその両方がなければちっとも終わりにならない
 んです
。その一方だけはそのままにしておいて、一方だけを変えようというふうにやってきた
 ことが、ついに極端な矛盾に到達したという問題になるのじやないでしょうか。

 ――それではさらに市場とか商品という具体的な問題でお話をうかがいたいとおもいます。先
 進資本主義社会の市場にあふれている商品というのは、付加価値性の高いものになっていると
 おもいます,商品が次々と差異化され、新たな大衆の欲望を喚起させるシステムといってもい
 いものがそこにあるとおもいます、第三次産業、第四次産業――と産業構造が高次化していき、
 システムは高次化していく一方で、われわれはある種疲れているというのが現実だとおもいま
 す 不可避的に高次化していくこととそのなかでの「疲労」ないし「停滞」ざどう考えたらい
 いのでしょうか?

 吉本 「付加価値」という言い方は経済専門家が高次産業の経済現象を説明するのに使ってい
 ます。われわれも便利だから便っています。いずれも近似的な使い方だとおもいます。つまり
 ある商品の価値概念は、マルクス経済学の方法をとっても近代経済学の方法をとっても、具体
 的な商品に対する価値概念としてあるわけです。それにもっと余計な実体にたいして加えられ
 た要素があって流通していると考えるから、「付加価値」といっているのだとおもいます。
  
  その言い方、その考え方は、ほんとうはだめなんじゃないでしょうか。たとえばぼくは『ハ
 イ・イメージ論』で価値という概念-商品の価値でもいいし、それからあなたのおっしゃる付
 加価値でもいいし、モノではなくて具体的に目には見えない価値でもいいのですが、そのすべ
 てに通用する価値概念をつくってみたくて考えましたが、中途のところでまたやめています。
 ぼくの「拡張論」とか「自然論」とかに考え方はよく出ているとおもいます。
  
  第三次産業、第四次産業、第n次産業が中心の産業になるにつれて、商品の実体、あるいは
 実体ある商品よりも、商品の眼にみえない扱い方のほうを価値構成の大きな要素として扱わな
 くてはならなくなります。これは価値の領域の枠組にたいする不安や未知であるとともに、価
 値の概念についての不安や未知でもあります。たぶん誤差や付加分がでたらそれを足しておい
 てということにはならないのじゃないでしょうか。価値概念というものをもう少し普遍的につ
 くるというモチーフがなければだめだとおもいます。

  ほんとの願望をいえば、マルクスが第一次産業と第二次産業が対立しつつあった資本主義の
 興
隆期に、資本の実体と運動を分析したのとおなじように、現在の資本を分析したいわけです。
 そうすれば
マルクスの資本主義社会の分析のうらにまんえんしだしていた結核とおなじように
 
あなたのいう高次産業のなかの疲労も正体がわかるかも知れないとおもいます。価値の枠組が
 つ
くれないために、時間の高次産業的な枠組がつくれない。その未知で不安な時間の体験だけ
 は大
部分の労働する人口がしつつあるわけです。疲労と障害は精神の働きにまんえんしますね。

  ついでだから共同幻想である国家の疲労や障害についてもいっておきましょうや。いまある
 国
家は全部19世紀的国家、18世紀的国家、つまりヘーゲル流にいえば資本主義社会のうえ
 にそ
びえた国家です。第一次、第二次産業中心時代の資本主義社会と対応する幻想性がいまの
 民族国
家です。疲労や障害のあげくひとりでに壊れていくでしょう。でもこういうふうに壊れ
 たらいい
ということが示せなければだめだとおもいます。それがいま国家社会主義いわゆるロ
 シア・マル
クス主義が当面している問題ではないのでしょうか。
  
  国家だけは旧い民族国家のまま存続して、管理機構として絶対化しながら、社会だけを変え
 よ
うとしてきた矛盾と欠陥がいま露わにでてきたとぽくには思えます。だから、もちろん黙っ
 てい
ても、資本主義社会が高度になりますと国家は消滅していきます。つまり無意識が消滅さ
 せるわ
けです。無意識が消滅させたものがいちばんいいのかどうかはわかりません。もっとい
 い消滅の
させ方は何なのかということがあるはずなんです。それはレーニン以降のマルクス主
 義ではどう
しようもないんじゃないでしょうか。それを弱点としてよく象徴しているのが現在
 の中国・ソ
連・東欧の状況だとおもうんです。

  ――とすれば、われわれは高度資本主義にどのようにむきあえばいいのですか。たとえば現在
 の高度資本主義の「加速化」といった問題はどうお考えなのですか。

 吉本 あなたの質問は、一般論として答えようがないほどの大問題から大問題へ移ってゆきま
 すね。この高度産業社会の時間の加速化に巻き込まれないために、どうしたらいいかという問
 題はいまの段階ではまったく個人的な問題になっちやうんです。つまりあなたがサボればいい
 わけでぼくだってときどき時間をみつけてはサボっています。つまり生活的、経済的に破綻を
 きたさない程度で、ときどきは社会を動かしている機械やエレクトロニクスから足を抜いて、
 勝手に遊んだり、勝手に他のことを考えたり、他のことをやっちやったりして、知らんぷりし
 てまたそういう速度のなかに入っていく。個人的に疲労や精神障害を防ぐみたいにすることが
 あるわけですね。

  それを資本主義の問題とすぐに混同してはいけないとおもうんです。
  資本主義社会の速度は大ざっぱにいえば、支配的な大きな産業が商品や情報をつくり、流や
 サー
ビスを関与させ、そして販売し回収するという速度が、全社会的な速度を決定しているだ
 ろうなと考え
るのが常識的な結論になるとおもいます。
  それをどうするんだということになれば、資本主義をどうするんだということか、逆にいか
 にその速度
に心身を慣れさせるか、どちらかまたは両方だとおもいます。つまり、資本主義機
 構が人間の社会の
発展の過程でどうしても通らなければならない部分をもつとすれば、その部
 分だけ慣れるよりほかない必然の部分です。それ以外の部分は資本主義機構がどうにかならな
  ければ解決しない部分です。産業の速度はわかりませんが、第二次産業が主体である時よりも
  第三次産業が主体の時のほうが速いということになるのかもしれないし、第四次産業はなおさ
  ら加速されるということになるのかもしれません。そうしたら、われわれが身体生理的に最適
  だと思っている速度との矛盾がますます激化するかもしれません。しかしそれを止めることは
  資本主義を肯定する限りはできない、また資本主義が進んで高度化していく限りはできないと
  おもいます。だから防御する以外にない。このことは徹底してそう考えたほうがいいとおもい
  ます。こんなもので第三次産業に主体が移っていきつつある高度資本主義が簡単に壊れるなど
  とおもわないほうがいいです。

    だから、社会のつくる速度と個々の大衆(市民)の最適な速度とがますます矛盾するかもし
  れないことは、覚悟したほうがいい。こんなものは簡単になんとかなると錯覚したら、いまの
  社会主義国が陥っているように資本主義以下の社会生活になっちやいます。
   産業経済構造の高次化ということには、システムの変化だけではなくて、マルクスのいう自
  然史的必然の部分があります。その部分はシステムを変えたって変わらないんです。第二次産
  業のところで国家を担当する政府がやめておこうといえばやまるなどとおもったら大間違いで、
  産業は自然史のように、高次化してわれわれの生理的な待ち時間にたいしてますます矛盾する
  かもしれません。

   もうひとつは、個々で防御することだとおもいます。これは個々の人の問題じやないでしょ
  うか。そのふたつが、差し当たってあなたの質問をより具体化しようとしたときの問題の中心
  でしょう。いままでの国家社会主義がだめだったということと、あれよあれよという間に資本
  主義社会は高次化していってしまうことは、誰でも漠然と感じています。しかし本格的に、ど
  う対応していかなくてはいけないかはこれから解かれてゆくことになるのじゃないでしょうか。


   〈日本〉という問題系

 ――60年代から80年代にかけて、とくに70年代、80年代において、日本の資本主義は
 非常な発展を遂げた。しかも、石油ショックのあと、世界の中で日本の資本主義だけがその処
 理を非常にうまくやったと吉本さんはお考えだとおもいますが、その原因というか、日本にお
 いてなぜそういうことがうまくいってしまったのでしょうか。そして日本がうまくいってしま
 ったことはいまお話し下さった高次化の問題とどうかかわっているのでしょうか。


 吉本 うまくいってしまったという問題は、結果的に数字が出たり世界第二の経済大国になっ
 てしまっているとか、貯蓄率からいって格段の上昇をきたしているとか、それらはすべて結果
 的なデータになりますね。簡単におさえられるところはあるとおもうんです。ひとつは、技術
 の商品化ということを巧みにやったということじやないでしょうか。技術の商品化というのは、
 技術自体が商品の価値概念に寄与する度合が格段に飛躍したということです。

  日本の技術社会の能力が格段によかったとか、それを統合するカー政策でしょうが、それが
 うまく発揮されたのだとか、もともと大工業の大技術にたいしては、それはどの適応能力はな
 いんだけれども、小規模のメカニズムの技術にたいしては、日本の技術社会はもともと適応が
 得意であったとか、そうしたいろんなことがいえましょう。そして結果として高度化した技術
 を商品化するということを、実にみごとに飛躍的に短期間にやったということに帰せられます。
 
  もうひとつは、人々が日本人は勤勉だとか働き過ぎだとかいっていることと同じなんですが、
 単位商品生産量に対して労働時間の過剰さといいましょうか、たいへん無理をしても多くやっ
 ちゃったんだということもあるかもしれない。つまり勤勉だとか働き過ぎだとかいわれている
 ものです。これはデータがありますけれども、つまり労働時間の比較をすればわかるのですが
 西欧とアメリカとはちょっと違いますけれども、おおよそそれを100とすれば、たぶん日本
 では150時間働いています。労働時間としてそうだとおもいます。大ざっぱにいえばそのく
 らい違います。結果は経済的な大国になってしまったとか、生活レベルも貯蓄率も格段の違い
 になってしまったというふうに出てきています。

  もちろん政府や国家の担当者は、われわれが優秀でよく指導したというでしょうし、資本家
 はわれわれがよく海外の市場も研究し、うまく適応したからだとか、産業をうまく指導したか
 らだとか、それぞれ立場としていろいろいうだろうとおもいます。しかしぽくがそんなことを
 いう理由はない。ぼくなどがいう必要があるのは、技術の高度化をとても短期間になし遂げ商
 品化することができた、それから労働時間がヨーロッパやアメリカの先進資本主義国に比べて
 格段に過剰で多くやったということ、そのふたつだけじゃないでしょうか。あとはぼくがいう
 必要はないとおもいます。


 ――そのような条件によって70年代から80年代にかけて、日本資本主義が高度資本主義に
 なったとすれば、吉本さんは本質的に「何か」変わったのだとお考えですか。

 吉本 要するに「何か変わった」という、その「何か」を「どこで」ということにしてみるこ
 とが重要です。いつだってそうですが、産業の構造でおさえるのがいちばんおさえやすい。つ
 まり技術の高度な商品化ができたということは、産業が二次産業から三次産業の要素が多くな
 ったということで、それが高度になって、かつうまくやったということの意味になるとおもい
 ます。
 
  そして、それがわれわれの意識にどう影響を及ぼしたか、文化的な現象としてみればどう変
 化したか、映像文化がだんだん活字文化に比べて多くなったとか、いろいろなことがいえます。
 われわれの意識の変化、あるいは世代的な意識の落差は、こういうことを派生的にいえば徐々
 に緻密に詰めていくことができるとおもいます。根本的にはそれでいいんじゃないでしょうか。
 こまかくいうには、文学的な現象、映像の現象、音の現象、などを個々にすべてやっていかな
 いといけないとおもいます。


 ――それでは少し細密に文学についてうかがいたいのですが、村上春樹が出てきたのがちょう
 ど80年初めで、島田雅彦も文学的出発はハー年なんですね。村上龍はちょっと前ですけれど
 も、村上春樹は80年代の十年間を非常に象徴する作家だったとおもうんです。そこに何かひ
 とつの精神とか文化のあり方の変容というようなことを、代表として語ることはできるとおも
 うのですが……。

 吉本 それはできるとおもいます。村上龍はもっと前からとおっしゃるけれども、村上龍が、
 文字体の作品から話体の作品へ変わって出てきたのはやっぱりそのころですね。また村上春樹
 の場合には、『風の歌を聴け』もそうだけれども、初めから文学体の作家ですね。それがある
 作品群を契機にして、それは『蛍・納屋を焼く』でも、あるいは『羊をめぐる冒険』でもいい
 んですけれども、飛躍的に現在のなかに入ってくるという形になったといえます。
  ひとくちに知識がどう変わったかとか、あるいは知的な風俗がどう変わっているのかという
 ことに鋭敏に適応してきたとおもうんです。それが無意識に作品でやれた。それが「何か変わ
 った」という「何か」をよく象徴しています。第三次産業の主流化とともに大量にでてきた大
 衆的知識の層にまさにアピールできるように入りこむ表現が両村上によって充たされたという
 ことじゃないでしょうか。それは決して知識のいちばん高度な層ではなくて、知識の大量層で
 す。いわば現在の中流意識を形成している70~80%の部分でしょう。

  それは文学を文化現象としてみるときには重要なことです。いままでの社会構成だったら、
 上に知的な層があり、空隙を中間において大衆層――知でない層があって、知でない層と知的
 な層とは文化への関心や風俗への関心もそれぞれ違っていたというふうになっていたものが、
 両方からずっと接近してきて、ここにひとつの帯をつくってしまった、ということだとおもい
 ます。その帯を文学がどうやって捉えたかということが両村上の文化現象になるとおもうんで
 す。現在でも文化現象の裾野にひらかれた大衆の層はありますし、一方で文化現象の頂点に近
 いところで高度な知的な層もあるでしょうが、たぶん統計的にいえば数が少なくなっていると
 おもいます。

  技術の商品化が短期間にうまくなし遂げられたという問題と、産業が高次化して第三次産業
 を主流におしあげたということと、それから知的な大衆層が量のいちばん多い層として形成さ
 れてしまったということは全部関連しています。それが総体的に「何かが変わった」というこ
 との内容をなしています。


 ――その帯のところにそうした作品群ができあがった過程に「映像」とか「イメージ」という
 ような問題、感覚、それは単に文字文化と映像文化ということではなくて、像としての〈知〉
 といった問題に変わってきたような〈知〉のあり方がかかわっているということはあるでしょ
 うか。

 吉本 そうだとおもいます。イメージを広い意味に拡張しますと、産業構造から商品の構造ま
 でつまりあなたのいう付加価値というのも含めた商品、そういう商品の構造から、もちろん具
 体的な農村の構造とか都市の構造とか、それ全部がイメージ化の作用を受けているとおもうん
 です。だから、イメージ化の実体をつかまえていかないと未知なことがおおいのです。

 ――それは、他のジャンル、たとえば映画とか演劇などにも同じような問題がみられるのでし
  ょうか。

 吉本 大ざっぱにいってはいけないとおもいます。映画とか演劇は、イメージの拡がりと高度
 化を最先端で表現しています。いまの映画と演劇が、この動きからつかまえられなかったらど
 うにもならないとおもっています。
  70年代だったらさだまさしとか井上陽水とか、ソロのミュージシャンが主体で新しい大衆
 的音楽をつくっていったわけでしょう。いまの新しい大衆的音楽は、ひとつはロッキングしち
 やうということ、もうひとつはグループ的ですね。つまりソロシンガーというような形で新し
 いミュージシャンが出てくるというよりも、四、五人で、背景が動き回ったり踊ったりという
 演劇的な要素、映画的要素、そういうものを含めて出現してきている気がします。アイドル歌
 手みたいな限られた世界ではソロのシンガーとして出てくることもあります。でもソロのシン
 ガーとして出てくるというのは一般的にすくなくなってきているのではないでしょうか。

                          中沢新一 編集 『吉本隆明の経済学』


ここでは、産業の高度化の不可避生をマルクスの哲学と重ね語っている。「〈日本〉という問題系」で吉本は
「技術の高度化をとても短期間になし遂げ商品化することができた、それから労働時間がヨーロッパやアメ
リカの先進資本主義国に比べて 格段に過剰で多くやったということ、そのふたつだけじゃないでしょうか。
あとはぼくがいう 必要はないとおもいます。」と、さらっと流したしているが、「(日本人の)センスの良さが
特徴的な技術の高度発展を促した」との補足説明が欲しかったと思ったが、どうだろう?

例えば、下図の温水洗浄便座は周知の通り、洋風便器に設置して温水によって肛門を洗浄する機能
を持った便座。商標の普通名称化により「ウォシュレット」や「シャワートイレ」などの呼称で総称して
いる場合があるが、ウォシュレットはTOTO、シャワートイレはINAX(LIXIL)の
商標であるが、日
本ではこの温水洗浄便座を装備した便器が増加しており、現在の普及率は70%
程度に達する温水洗
浄便座は、米国で医療・福祉用に開発された。日本では1964年に東洋陶器(現:TOTO)がアメリカ
ンビデ社(米)の「ウォシュエアシート」を輸入販売開始したのが始まりとされる。その後、ライ
バルの伊奈製陶(ina)も1967年に国産初の温水洗浄便座付洋風便器「サニタリーナ61」を発売(
1976年にはシートタイプ(便座単体タイプ)の「サニタリーナF」を発売)、TOTOも1969年に国産
化に踏み切っているものだが、本家の米国を上回る付加価値と性能をつけ普及している。これは半
導体技術の発展は日本の浮世絵の産業構造によりさせられことを、中沢新一は「春画か技術か」と
問い直し考察しているところでもあり、「第二の敗戦」の象徴である"半導体不平等協定"のように
本家の米国政府により骨抜きにされた上、半導体の開発研究機構を模倣再輸入されているものの、
これなども日本のセンス良さ(文化歴史的後背力)が技術的発展に貢献した事例だと思っている。


 

                                                     (この項続く)        

 

 

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縄すてまじ! Ⅱ

2015年02月20日 | 時事書評

 

 

【本当にあった怖い話?】

宇宙物理学者の心ってどんなものなのと思うことがある。なぜそんなことを考えるのか? そ
れは、今から約7万年前、太陽系からおよそ8兆キロの距離を1個の恒星が通過したとの研究
論文が17日、英学術誌「アストロフィジカル・ジャーナル・レターズ(Astrophysical Journal
Letters
)」に掲載されたが、これは宇宙の基準からすると、史上最大の「危機的状況」だった
というニュースに接したことによる。つまり、怖い、恐ろしいという感情が襲ったのだ。

これは、米国、欧州、南米の天文学者らからなる国際研究チームが発表した論文によるもので、
最近
発見されたこの暗い恒星は、オールトの雲Oort Cloud)として知られる、太陽系外縁部を取り
巻く彗星の集まりの中を通過した可能性が高いという。 この時の距離は、現在のところ太陽系に最も
近い恒星のプロキシマ・ケンタウリ(Proxima Centauri)までの距離の約5分の1で、これまで知られてい
る中でこれほど太陽系に接近した恒星は他にないと同研究チームが指摘している。発見者の名
にちなんで「ショルツ星Scholz's star)」と命名されたこの赤色矮星(わいせい)は、軌道分析の
結果、太
陽系から約0.8光年離れたところを通過したことが示唆された──天文学的スケール
では、これは「接近」であるとのこと。そこで、
論文主執筆者で、米ロチェスター大学(University
of Rochester
)のエリック・ママジェク(Eric Mamajekは、ショルツ星は現在、20光年離れた距離に
ると話す。また、研究チームは、南アフリカとチリにある分光器と大型望遠鏡を用い、同星
の速度を算出
し、時間の流れをさかのぼって同星の軌道を再構成することに成功。現在は、太
陽系から遠ざかりつつ
あることも突き止めている。現在のところ、太陽系に最接近通過する見
通しが最も高い候補は、いわゆる「ローグ星」の
HIP85605だ。この星については、今から24万
年~47万年の間に太陽系に接近すると予測されているというが、HIP85605までの本来の距離が
10分の1ほど小さく見積もられている可能性が高いことも明らかにしていると伝えている。

遠い過去のできことであり、自分とは関わりのないことではあるが、知った限りにおいて想像
力が働くという話だ。なに、貴方は怖くないって?そうか~その線もあるか!

 

● 縄すてまじ! Ⅱ

 

沖縄県の翁長雄志知事は16日、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設に向けた名護市辺野古で
準備作業の一部を停止するよう、沖縄防衛局に指示した。従わない場合は、埋め立て工事に関
連す
る許可を「取り消すことがある」とした。ただ、対象となる作業はすでに終わっているとい
い、今回の指
示が準備作業に影響するかは不透明だと報じた(「朝日新聞デジタル 2015/02/16」)。
翁長知事が停止を指示したのは、辺野古沿岸部の海底に大型のコンクリートブロック
を沈める作
業。ブロックは海上の立ち入り禁止区域を明示するフロート(浮き具)の重りで、移設反対派

「サンゴ礁を傷つけている」と反発している。指示の根拠は、仲井真弘多・前知事時代の昨年8
月、県が出した岩礁破砕許可の中の規定で、「公益上の理由により(県が)指示する場合は従う
こと」とある部分。翁長氏は16日、報道陣に、新たなブロック投入の停止や、設置したブロッ
クを移動させないことなどを指示したと説明した。また、27日から県が、現地の海底を調査す
ることも明らかにしたという。

この件は、ブログでも振れてきたが(『縄すてまじ!』2015.12.15)、ここで、鳩山由紀夫民主
党政権時代の普天間基地問題を時系列的に振り返ってみる


2009.08.30 民主党開票センターで当選者の氏名に花をつける鳩山由紀夫と小沢一郎第45回衆議
      院議員総選挙。民主党が過半数の議席を獲得する。ここで鳩山由紀夫代表は開票セ
      ンターで、国家戦略局の前段階として「国家戦略室」を設置、財源は「まず行政刷
      新会議で行政の無駄遣いを一掃させる」、「無駄を省いてそれでも足りない、という
      ことは起きない」「消費税の増税はしない」「国債の発行も極力抑えるように当然
      努力する」と語っている。
2009.09.01 民主党の公約「米軍普天間飛行場の沖縄県外への移設」について、米国のジョン・
      ケリー国務省報道官が、「普天間飛行場を沖縄県名護市の米軍基地内に移設する日
      米合意案の再交渉を行うつもりはない」と言明。 
2009.10.07  鳩山が、在日米軍再編のマニフェストを「時間によって変化する可能性は否定しな
            い」「マニフェストを絶対に変えてはいけないという、そんな石頭で首相はやって
            いない」と述べ、普天間飛行場の移設を合意を容認する可能性を示唆。米軍の普天
            間飛行場の移設問題について、北澤俊美防衛相は「この問題に時間を浪費するいと
            まはない」と問題解決に時間をかけることは建設的ではないと述べる

2009.10.21  ロバート・ゲーツ米国防長官が、同盟強化よりも後ろ向きな姿勢ばかりが目立つ鳩
            山政権への強烈な不快感の表明。
2009.10.23 鳩山首相は米軍普天間飛行場の移設問題について「(日米が)お互いにいかにリス
      クを回避するかだ。それが外交だ。あせることはない」と述べ、時間をかけて調整
      を進める考えを示す

2009.12.11  鳩山首相は、米軍普天間飛行場の移設問題に関し、日米合意の全面履行は困難であ
            ることを表明。
2009.12.18  普天間基地問題について与党3党が協議。移設先を当分決めないことで正式に合意。 
2009.12.29  『ワシントン・ポスト』が、鳩山はオバマ大統領に普天間基地問題の年内解決を約
            束する書簡を送っていたと報じる。
2010.06.01  「米国における対日世論調査」で
、アジアにおける米国の最も重要なパートナーは
      中国という結果。中国が1位になるのは1985年以来25年ぶり。
2010.06.02  鳩山首相が民主党緊急両院議員総会で首相と民主党代表辞任を正式表明。
2011.03.11 東日本大震災・福島第一原発事故発生。
2014.12.17  沖縄県知事選で普天間の名護市辺野古移設に反対する翁長雄志氏が圧勝


鳩山内閣誕生の2009年(平成21年
)から約5年3ヵ月経過したことになるが、沖縄県民と安部政
府は真っ向の対決を見せており、このまま行けば流血事件や独立分離運動などの流れが生じる懸
念も拭えない状況だといえる。米国側の強固な軍事戦略に対しいかなる対案が提出されるのかと
考え出したのが下図の「自律型浮体空港システム」(2012.12.15)であり、ブログ初めて掲載し
た『黄菊と沖縄ビジョン』(2009.11.05
)から5年経過する。前提条件は、(1)普天間基地の
廃止、(2)辺野古移転案の廃棄であったが、浮体空港であるため、必ずしも非沖縄県外を満た
すものではなく、沖縄本島の離島や九州などの沿岸部への配置を前提としている。また、浮体空
港と陸上部との人員の移動は、無人シャトルマルチコプタ――保安要員のパイロットとして1名
搭乗――でおこなうものである。米国側との交渉で戦略変更でグァム島に移動しても、本空港を
無償移譲するというものであった(仕様例は、該当ブログ(辺野古・沖縄・普天間で検索)参照
)。

※ エンジンは水素液体内燃機関と水素燃料電池による電動機。水素は海水の電気分解、電気エ
エネルギーは太陽光発電・潮流波動発電及び外部持ち込みの液体水素を使用。


  

5年前、鳩山首相が決断していれば、世界初の自律型浮体空港が完成していただろうと考えてい
る。それ
が実現すれば造船業界は活況を取り戻すことができるだけでなく、海洋資源開発用、海
洋都市用、海洋
再生エネルギー生産基地、防災用基地として応用展開でき、米国政府-沖縄県民
-日本政府の「三方よし」となり、鳩山由紀夫総理の名が刻まれるはずだったが、今からでも―
といっても、これから早くても3~5年先になるが――遅くないと考えている。

 

● 『吉本隆明の経済学』論 Ⅲ

 

 吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!

 

 吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズと
 も異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかっ
 たその思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造
 とは何か。資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の
 核心に迫る。


 はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 労働価値論から贈与価値論へ
 第5章 生産と消費
 第6章 都市経済論
 第7章 農業問題
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき
 

 

     第8章 超資本主義論

                                                不況とはなにか Ⅱ 

  Ⅰ

  ここではまだ政策担当者にケインズ的な方策(逆にいえばマル経的な方策)の有効さが 
 信
じられているのだ。すでに不況の原因が先進地域国家における第三次産業の過半分さと、
 第
三次産業における物流と非物流の独立と分離した動きの政行性からやってきていることが、
 はっきりしているのに、不況政策は相変らず第二次産業を主体にかんがえられている。これ
 で効果がすみやかにあらわれるとかんがえる方がどうかしていることになる。

 

   Ⅱ
   
  できるかぎり常識にしたがって判断するようにこころかけて、第三次産業が全体の50パ
 ーセ
ント以上の総生産と就業人口をもっか先進的な地域国家では、不況(景気後退または経
 済恐慌)の
あり方は、金融の過剰な溜り、過少な流れだけが独行する不況も、物流の過剰な
 溜りや停滞ある
いは遂に過少になる加速が独り歩きする不況も、金融の溜りあるいは流れすぎと、
 物流の溜りあるいは流れすぎとが連動しながら破行状態に陥ることが不況の原因になるばあ
 いもあることにな
る。ごれが現在、世界のいちばん先進的な地域国家であるアメリカや日本
 や西欧の先進地域(フ
ランスやドイツ、イタリア、イギリろを軒なみに訪れている重たいが
 輪郭の不明瞭な不況の根源
にあるものだということができよう。

   ところで宮崎義一の『複合不況』はアメリカや日本やイギリスの金融自由化の政策からは
 しま
った金融の流れの不整脈化か物流の停滞に波及して、それが世界的な規模でひろがり、
 金融循環
からはじまって生産物循環を疏行状態に陥れたのが、現在の不況の実体だというか
 んがえを、アメリカの不況現象と日本の不況現象を分析しながら結論づけている。わたしは
 かくべつまちがった分析だとおもわなかった代りにかくべつ感心もしなかった。宮崎義一は、
 金融自由化の流れが一国資本主義的なケインズ政策では統御できなくなったことが、この複
 合的な不況が世界化した根拠だという考えを述べている。そしてこれをケインズ政策的に再
 構築するには、一国規模ではないグローバルなケインズ政策が必要で、巨額な資金の世界的
 な流れをコントロールできる強力な世界銀行を作って、世界共通貨幣が形成されるような基
 礎をつくらなくてはならないと結論づけている。

  わたしには支配の政策の補助学としての経済学の旧い体質を見事に象徴した結論のように
 おもえた、なぜこういう結論になるかはとてもはっきりしている。現在の先進地域国家をつ
 ぎつぎにおとずれている不況を、アメリカ、日本、イギリスなどの先進諸国の金融自由化か
 らはじまった金融の流れの破行状態が、ついに生産物の過剰である不況をまきこんだ複合不
 況としてあらわれたものだと位置づけたところから、そんな結論が導きだされている。わた
 したちは宮崎義一の論旨にそっておなじことをいうとすれば、まったく逆立ちしたことを言
 うほかはないのだ。すでに消費が所得や収益の過半量を占め、また選択が可能な消費が全潰
 費や総支出の過半量を占めるようになったために、経済政策のどんな担当者よりも、諸国民
 個人や企業体のほうが優位になった地域国家で、社会生産が第三次産業に主体が移ってしま
 ったために、現在のような先進国の不況は起っている。この不況を離脱するには、ほんとう
 はすでに先進国では諸国民と企業体を経済と経済政策の主体においた方策をとるよりほかに
 はありえないので、ケインズ政策の信奉者やマルクス主義経済の信奉者が、すでにじぶんた
 ちが先進諸国民や企業体本位の政策の代行者にすぎないことを自覚するよりほかにありえな
 いのだ。

  佐和隆光の『成熟化社会の経済倫理』は、ほとんど宮崎義一とおなじことを、別の言葉で
 語っているにすぎない。経済専門家と称するものの見識がどの程度に妥当性をもち、どの程
 度駄目なものかを程よく象徴しているといっていい。この本の結びのところで佐和隆光は言
 わずもがなのお説敦を国民大衆に向ってたれている。


 ①21世紀の発展途上諸国の人口爆発と彼らの「発展権」を前提とするかぎり、大量生産、
  大量消費、大量廃棄ないし使い捨てを旨とする、20世紀型文明の見直しがせまられてい
  る。
 ②いまわたしたちは、こうした「ぜいたく」の粋をきわめた80年代後半の生きざまを反省
  しもったいない、質素倹約、省子不ルギーーなど、数年前に「死語」と化した言葉を、あ
  らためて想起しなければならない。
 ③地球環境を保全することが、飢えと貧困にさいなまれ「発展権」を主張する南の国ぐにと、
  エネルギー多消費型経済発展をとげてきた北の国ぐにの双方の利益につながることを、双
  方 が確認し、協調体制をつくるべきだ。


  佐和隆光が繰り返しているこの種の経済倫理の結論は、いくら並べてみてもおなじことだ。
  ようするにわたしの根本的な批判はスターリン主義者の清貧主義やエコロジストの文明退化
  主義にたいする批判とおなじだ。第一にわたしは佐和隆光とちがって、経済現象と文明とは、
 その中核のところで自然現象とおなじように、自然史的な過程であって、人工的な政策で統
 御できるのは、発展の遅速だけだということをマルクスから学んだ。この文明と経済の発展
 過程は停止させることも、逆戻りさせることも、跳躍させることもできないということだ。
  佐和隆光のいうことは経済政策や環境政策によって、人類の歴史を逆行させることすらで
 きるという馬鹿げた錯誤と、そこから出てくる口当りのよい地球環境浄化論にしかなってい
 ない。
  もうひとつ根本的な批判がある。やさしい言葉でいえば近代経済学を心得えた顔をした経
 済学者でありながら、この今くらいの世界諸地域の経済発展の程度で、もう音をあげて経済
 発展の公理を放棄してしまっていることだ。佐和隆光の言っていることは二宮尊徳の『夜話』
 の世界ですでに150年も2百年もまえに、農民は勤倹節約してぜいたくを慎んで生活し、
 金銭を貯えるためには、夜なべをして縄をない、それを販って貯蓄につとめなければならな
 いと説いている。ひとかどの経済学者が、今度の不況程度のことでこんな唐突にもう退化を
 はじめてしまうことが、わたしにはまったく信じられない。わたしは断言して予告しておく
 が、たとえ佐和隆光や中野孝次が政府の経済政策や道徳政策の顧問になって国民大衆に勤倹
 節約を強制しても、経済機構は高度化への自然史的な発展をやめないで、第三次産業化への
 度合いをすすめてゆくし、都市は農村との接触対面をますます少なくして、H・G・ウェル
 ズの未来小説的にハイパー都市化をすすめるとおもう。この方向は政策や政治とはかかわり
 ない自然史的な必然に属するから、自民のような保守政府でも、社共のような進歩政府でも、
 退
化してしまうことはありえない。せいぜい文明の進展に反動的に逆らうことで、多少の遅
 れをもたらせるだけだ。

  佐和隆光は経済学の専門家を自任しているから、そこまで露骨には言っていないが、黒古
 一夫のような無智な素人は、国民大衆が高価なファッションを身につけたいために、自由に
 使える選択消費の部分からそれを購ったことが、バブルがはじけ、不況になった原因だとお
 もっている。
  わたしが再三いうようにそれは逆なのだ。国民大衆がファッションを身につけて豊かな気
 分になったり、選択消費を充分に使える状態が経済的好況を主導することになるので、脇を
 締めて勤倹節約しなければならない状態は政策者や指導者が無能なために起った悪い社会状
 態なのだ。
  黒古一夫や佐和隆光や中野孝次が清貧な生活をしても、誰も賞めないかわりに咎めるもの
 もいない。だが国民大衆に勤倹節約を説教するのは、まったくのお門違いで、この倒錯は諸
 国のスターリン主義者や同伴者が国民大衆をあざむいて破産させた根本的な前近代の発想法
 にしかすぎない。きびしくその錯誤を批判するよりほかありえない。国民大衆に勤倹節約を
 強制したり勧告したりする佐和隆光のような見解が、ひとかどの経済学者の口をついて出て
 くるなど、わたしにはとうてい信じ難いことだ。経済学はまかり間違えばすぐに支配の補助
 学として機能できる側面をもっている。宮崎義一や佐和隆光の不況分析や現在の経済状態の
 分析は、それほど不都合だとはおもわないが、そこから導きだしている経済倫理や経済政策
 は、まったくの反動と退化を口当りのいい言葉でつらねているにすぎない。それは経済学的
 な知識の蓄積の問題ではなく、見識と叡知を問われる側面を経済学がもっているからだ。自
 分たちはそうしたければ清貧を守ればいい(ただし立てまえだけの嘘をつくのはもうやめる
 べきだ)。だがすこしは国民大衆の所得を増加させ、民衆が自由に豊かなファッション製品
 を購買できるようになることを促進するような見識を示してみせるべきではないか。
  経済不況の現状を誤解し、政策や方策をまちがえて不況に陥れた指導者の責任の後始末の
 ために、国民大衆に勤倹節約を説くなどは、まったくの逆縁というもので途方もないまちが
 いなのだ。

                    
 
中沢新一 編集 『吉本隆明の経済学』


ここでは、吉本節が炸裂している。おおむね同意できるとしても、福島第一原発事故前の発言で
は、原発は限りなく経済効率が良いという発言を撤回し、安全第一を唱えているが、終末処理や
事故対応などのコストやリスクについてなにも言及してはいない。つまり、観念的とまでは言わ
ないが、独創的な原理を説くが現実的な処方箋らしきヒントは少ないと、いつもながらのパター
ンは変わっていない。と、そのように見うけられるが、それはさておき、ここは、さらに読み進
めていくことに。

                                                  (この項続く)

 

 

  ● 今夜のこの一曲 『白い一日』

 

   真っ白な陶磁器を 眺めては飽きもせず かと言って触れもせず

   そんな風に君の周りで 僕の一日が過ぎて行く

   遮断機が上がり 振り向いた君は もう大人の顔をしてるだろう・・・・・・




                                作詞 小椋  佳
                                作曲 井上 陽水


  「白い一日」は、概して、少年が未だ逡巡している間に、いち早く少女のほうが大人にな
 ってしまうね、という当惑と感慨を歌ったもの。ここで言う「大人になる」とは、「人間社
 会の理不尽さ、曖昧さ、いい加減さを受け容れる人間となる」、言い換えれば「もの判りの
 いい人間となる」といった程度の意昧でとらえていただいていいと思う。それはそれで男女
 差の仕方のない現象だと思う。
  私は、しかし、この国では、もの判りの良過ぎる傾向か国民全体に蔓延しているのでは
 いかと懸念している
。「理屈っぽい奴だ」とか「屁理屈を言うな」とかの攻め言葉がある。
 理屈の通っていないことを、さも正当な理由があるかの如く表現されるのは困ったものであ
 って、たしかに、この攻め言葉が使用されて妥当な場合は多い。けれども、何かしか論理的
 であろうとする姿勢がうかがえる分だけ、それらは、「理不尽」よりはややましだと私は考
 える。私としては、「大人になる」ことより、「それぞれに自らの理を保持す
ることを重大
 視する」国民性の獲得を祈りたい。


  私たちは、この国の、あるいは私たち国民の、行為規範ないし在るべき姿の基本的規定

 して日本国憲法をもつ。さて、たとえば、その第11条では、基本的人権の享有と憲法
による
 その保障を謳う。私たちは、人間は誰もが生来当然に基本的人権をもつと、無反省に理もな
 く思いこまされていないだろうか。あるいは、憲法前文で「民主」を言い、第14条で法の下
 の「国民皆平等」を言いつつ、第1条から第8条までで、天皇という特定人物の特権と人権
 剥奪扱いともいえる規定を設けている。この一見不整合に思われる構造をそれぞれがどのよ
 うな理で自らのウチを収めて受容しているのか。いずれにせよ、「特別それで大きな不都合
 は起きていないんだからいいんじゃないの」という「大人」が多過ぎはしないだろうか。
  
  若者一般の為体を嘆くのは年寄りの小言になってしまうが、近年若い記者のインタビュー
 を受けた析に、「(文)Aだから(文)Bでして……」と語られたとき、そのAとBの文が
 「だから」ではまったく繋がらないものであったにもかかわらず、本人はそのことに無頓着。
 言葉を仕事の道具としている人でさえの(理由づけの)接続詞「だから」の雑で不快な濫用、
 私はおおげさ(やや大袈裟だが)日本の将来に暗雲を感じてしまった。

 
                            小椋 佳 『生前葬コンサート』

 


この曲の作詞を担当した小椋佳も1974年にシングルとしてリリースしているが、この楽曲の思い
出も多い。1975年にわたしはこの地にマイホームを新築するがその工事が進行していた時期だ。
若くして他界した同期の野村利和は、会社の寮を退去し借家住まいしていたが、まだ、独身寮―
―同期でも寮規定を改定してまで住み込んでいたり、寮規定を悪用し、持ち家を賃貸し、自分は
チャッカと寮住まいしていた社員もいたが――に住み、仕事と企業内組合、地域運動なども掛け
持ち活動していた。時折彼の借家に上がり込み、好きな歌手のレコードを聴かせてもらっていた。
井上陽水の同曲も良かったが、いまは、しっとりとした小椋佳の歌声に癒されていた頃、嵐のよ
うな毎日を過ごしていた頃を思い出す。そう考えればわたしの周りの、素晴らしい先輩や仲間

囲まれていた。今から思えば、その恵まれ環境への感謝の気持ちでいっぱいである。

 

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『吉本隆明の経済学』論事始め

2015年02月19日 | 環境工学システム論

 

  

   ● 寒気団で凍り付く米国北東部

 

 

● 繁殖するアメリカンキャッシトフィッシュはチャンス ?

ブラックバスやブルーギルなどの外来魚に脅かされている琵琶湖の固有種に、新たな天敵が現れた。
ナマズ
の一種、チャネルキャットフィッシュ(アメリカナマズ)だ。原産地の北米では食用に広く流
通しているが、琵琶
湖でも捕獲数がここ数年増えており、湖内で繁殖している可能性も。貪欲な食性
から生態系に悪影響を及ぼ
すと懸念されており、滋賀県は本格的な駆除を検討していると公表(「産
経新聞」2015.02.17)。

チャネルキャットフィッシュはカナダ南部からメキシコ北部の湖沼や河川に生息し、成魚は体長1メ
ートルに達
する。日本には昭和40年代に食用として持ち込まれ、霞ケ浦(茨城県)などで養殖され
ていたが、逃げ出した
り放流されたりして各地で繁殖。これに伴い、背や胸の鋭いヒレで、漁業者が
けがをしたり漁網が破られたり
するなど、深刻な漁業被害が相次いでいる。また、肉食で在来の生態
系を大きく損ねることなどから、環境省
は平成17年、外来生物法の「特定外来生物」に指定。飼育
や放流などが禁じられた。


滋賀県水産試験場によると、県内では13年に琵琶湖で初めて1匹が見つかり、琵琶湖とそれに続く
瀬田川で
の捕獲数は25年が18匹、26年41匹と年々増加している。稚魚も捕獲されたことから
担当者は「琵琶湖に
持ち込まれた経緯は分からないが、湖内で繁殖が進んでいる恐れが十分にある」
と指摘する。琵琶湖ではこ
れまで、ブラックバス(オオクチバス)やブルーギルが固有種の生息を脅
かす存在として知られ、県と漁業者が
駆除に取り組んでいる。水中に電気を流して浮かび上がった魚
のうち外来魚だけを取り除いたり、外来魚を対
象にした釣り大会を開いたりした結果、18年に19
14トンだったこれら2種の推定生息量は、25年には916ト
ンまで減った。



しかし、チャネルキャットフィッシュについては習性などに不明な部分が多く、水産試験場は有効な
駆除方法の
調査に着手する。腐った魚も食べるという貪欲ぶりに着目し、エサでおびきよせる方法な
ども検討。「漁業者の
継続的な協力が得られるような駆除方法のマニュアルを作りたい」としている。

尚、カナダ、アメリカとメキシコの一部に生息。また チェコやルーマニアなどの東ヨーロッパやマレ
ーシアなどに移入されている 。湖沼や河川に生息。1971年には、食用目的で日本の霞ヶ浦にも導入さ
れて定着、1994年以降に個体数が激増している。琵琶湖でも捕獲された記録がある。体長は最大132セ
ンチメートル。口ひげは8本。脂鰭を備え、尾びれは中央が切れ込み長大で、横V字型。ニホンナマズ
等の属するSilurus属に比べると、口がやや小さく、体型は流線型で各鰭が大きく遊泳力に富んでおり、
総じてその姿はギギ等のPelteobagrusのそれに近い。背鰭と胸鰭の主条が極めて硬質かつ丈夫な鋭い棘
として発達しているのも、Pelteobagrusと同様の特徴である。湖沼や流れの緩い河川の中流~汽水域に
生息する。溶存酸素の不足や水質の急激な変化には耐性が低いが、水質汚濁そのものには大変強い。
おお
むね夜行性。夕刻から夜間にかけて活動的となり、盛んに遊泳して摂食行動等をおこなう。食性
は雑食で、ザリガニや小魚、カエル、コオロギなどを捕食する。非常に貪欲であり、釣り餌として付けられた石
鹸に食いつくこともあることが知られている。

身は食用にされる。またルアー釣りの対象魚としても知られる。魚粉として肉骨粉の代わりに畜産(
養鶏・養豚など)飼料や魚類の養殖飼料や有機肥料として利用される。 外来魚駆除の取り組みとして
地産地消品として有効利用されている。なお、日本では水産庁の「魚介類の名称のガイドラインにつ
いて」によって消費者に分類学上無関係であるにもかかわらず高級魚類の類縁種であるような誤認(
いわゆる優良誤認)を防ぐため、アメリカナマズについて「シミズダイ」や「カワフグ」の名称を使
用しないことと定められている。


● キャットフィッシュを畜養し琵琶湖の特産品に育てる

このブログでも掲載してきた「鯰とサロゲート」2010.10.24/「紫花菜と寒もろこ」2009.02.20/「
ビル中の大山椒魚」2012.11.19)。

 
 日
本初の完全な人工海水利用型水族館であることは「浸透圧制御」を数年前に畜養バイオ事業の
 関係で知っていたこ
とだ。そういえば、その彼と、20数年前「ナマズの畜養事業」の調査がてら、
 京都北白川の日本鯰専門料亭
『十壱』で生前の田中豊一と実弟と堪能したことがあったことを二
 人で思い出を懐かしんだ。

                                             『ビル中の大山椒魚』2012.11.19


ということは、1989年のことであったが、食餌が必要だからということで、このプロジェクト原
案は没となった。
わざわざ、埼玉水産試験場まで、いつものように身銭を切って――ここらへんが、
野々村うんぬんのデフレ県会議員と違うところでもあるが――故田中豊一と調査見学し、近くのめし
屋で鯰料理を試食し帰ってきているが、このとき皇太子がナマズ博士であることをたびたびこの試験
場に足を運んでいたことを知る。また、日本ナマズの稚魚は共食いするが、アメリカナマズはそれは
ない。勿論、共食いしないように育種することは可能だろうがそれはここでは扱わない。問題は成魚
の食餌だが、外来種の水草や魚類を粉砕利用し、そこに、里山のオークナッツやハーブや嗜好性(食
いつきの良さ)を添加し食餌とすればよいだろう。また、畜養は下図のように(「魚工場 漁網ロボッ
ト工学
」2015.01.11)
畜養槽に魚群センサの高度化させたものでナマズを1尾、1尾の状態を管理す
るようにすれば完全養
殖か可能となろう。                              

 

食べた経験があれば、ナマズは河豚のように淡泊で美味しい。しかも、河豚のように毒の危険性もな
く、フライはもちろん燻製、発酵、南蛮漬け、焼き物、ナマズソーセージも可能だろう。河豚よりも
廉価に販売できることは間違いないと考える。これが成功すれば、滋賀県は新鮮な魚が美味しく戴け
る国として世界発信すれば、ニシン御殿ならず、ナマズ御殿が建つことも間違いないだろう。
 
  
  
 soul food

 




『吉本隆明の経済学』論 Ⅱ

 

 吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!

 

 吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズと
 も異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかっ
 たその思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造
 とは何か。資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の
 核心に迫る。


 はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 労働価値論から贈与価値論へ
 第5章 生産と消費
 第6章 都市経済論
 第7章 農業問題
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき
 

 

     第8章 超資本主義論

                                                  

                1 超資本主義の行方不況とはなにか I  

   Ⅲ

  わたしたちはここで、いちばん確かに不況を判断する経済基準がどこにあるか、あらた
 めてかんがえてみるべきだとおもえる。とくに現在の世界の先進的な地域では、その基準
 を確定することが、不況かどうか判断するための必須な前提だとかんがえるほかない。な
 ぜならその地域ではすでに消費や支出、とくに選択の可能性がある消費や支出が、個人や
 企業のおもな身体の血肉になってであっても、企業体は理論的には同一水準で維持されう
 る。これは個人が選択消費が0%であったとしても理論的には同一の生活水準を維持でき
 ることとおなじだといっていい。わたしたちはこういうことを踏まえたうえで、現在の不
 況を測る尺度がどこにあるのかを求めてゆくべきだとおもえる。企業が経済の主体になる
 のではなく、企業の意志が経済環境によってどれだけ抑止をうけるかが問われなくてはな
 らない。



 
  現在の不況の状態がどんなものか、いちばん最近の主な企業の業況判断のデータからみ
 てみる。日銀の短期経済観測の調査では、本年93(平成5)年2月の製造業の業況判断
 DI(指標)はマイナス49、非製造業のDIはマイナス33となっている。説明すれば
 業況が「良い」と答えた企業の割合から業況が「悪い」と答えた企業の割合を引いたもの
 がDI(指標)の数字に当っている。この数字は製造業を例にすれば第T次石油ショック
 の不況(マイナス67)より「良い」が、第二次石油ショック(マイナス35)より「悪
 い」数字で、これからさらに「悪い」傾向に走ってゆく徴候が大きいとみられている。
 わたしたちの不況にたいする認識からすれば、企業でいえば設備投資の前年同期にたいす
 る伸び率比の増減が、いちばんはっきりと企業体についてのいるからだ。そこでは消費や
 支出は遅延または先行された生産にほかならず、それはいず不況の度合いを象徴すること
 になる。それを挙げてみると、先の図18のようになる。
 
  設備投資の伸び率が前年同期の伸び率にくらべて製造業では全部マイナス、非製造業で
 はそれよりましだがそれでもほとんど全部マイナスだということは(予想は)、業況判断
 のDIとともに企業が現在の不況をかなり深刻にうけとめ、設備投資をいかに手控えしよ
  うとしているかという企業体の意志を暗示している。
  このデータの観測は日本興業銀行のアンケート調査でも変らない。全産業の92年度の
 設備投資(見込み)は前年度比4.3%減、93年度設備投資計画も6.6%減というよう
 に企業体がいっそうの不況と冷え込みを予想し、それに対応しようと意志していることを
 示している。

  わたしたちが不況の測度としていちばん注目すべきだとする個々の世帯の消費支出につ
 いてもわかっているデータを挙げてみる。総務庁が発表した九二年度の家計調査では、全
 国の全世帯の消費支出は一世帯平均で31万1305円で、物価上昇分を差し引いた実質
 分で、前年同月比0.2
%増にとどまっている。内訳はサラリーマン世帯で実質2.2%増、
 自営業者など一般世帯でマイナス3.8%となっている。
  もうひとつ消費者態度指数がある。これは、(1)暮らし向き(2)収入(3)物価(4)
 雇用(5)耐久消費財の買い時について、今後半年の見通しをアンケートして数字化した
 指数である。いずれの項目も前期より悪化し、とくに雇用の悪化という意識が大幅に増加
 し、92年の7月から9月の時点で、前期に比ベマイナス18.9%となった。これは企業
 群が設備投資の引きしめの環のなかに雇用者の退職の勧誘や一時休暇や新規採用者の手控
 えや、極端なばあい、取消しの通告などを組み入れていることが、サラリーマンの消費を
  手控
えさせる最大の要因になっていることを示しているとおもえる。

   言うまでもなく個人の選択消費や企業の設備投資を中心とする選択的な支出をゼロに手
  控えし
て、年期や年半期のあいだ持続しても、現在の世界の先進的な地域では、個人の世
  帯の生活や企
業体は、政策主体としての政治国家の担当者よりさきに破産することはあり
 えない、先進的な地
域がこの重要な段階にはいったという世界認識が、わたしたちに不況
 判断の視点を変更すべきた
というわたしの見解の基礎に横だわっているものだ。


                              不況とはなにか Ⅱ 

  Ⅰ

  保守政府は平成5(1993)年4月13日に過去いちばん大規模だといわれる「新総
 合経済対策」なるものを決めた、総額で13兆2千億と新聞は発表している。なぜこんな
 大規模な不況の対策を追っかけるように決めなければならなかったか、はっきりしている。
 これまでの規模の2回にわたるテコ入れくらいでは、おもうような不況脱出のきざしがみ
 られなかったからだ、どうして公共事業費の役人を主にしたケインズ型の不況対策がそれ
 はどの目立った効果をあげないのかは、これまたとてもはっきりしている。 

  わが国でいえば、すでに5、6年まえに国内総生産からみた産業の構成比で、第一次産
 業(農・漁∴杯業)は三%くらい、第二次産業(製造工業・建設業など)は42%くらい、
 第三次産業(サービス・金融・小売・教育・流通など)は55%くらいになっていた。ま
 た就業している人口からみても第一次産業は9%くらい、第二次産業は33%くらい、第
 三次産業は57%くらいになっていた。いいかえれば、そのときにもう就業者の人口から
 みても、国内総生産からみても第三次産業が過半量を占めていたのだ。こんな世界の経済
 的な先進地域国家で、建設や土木工事や道路や港湾の改修など、第二次産業に属する建設
 業に公共事業費を投入しても、国内総生産で42%くらい、労働人口で33%くらいが直
 接の効果に晒されるだけで、大部分の総生産や労働人口を占める第三次産業にたいしては、
 めぐりめぐった間接的な効果しか期待できないか、途中で効果が消滅してしまうのは、じ
 つにはっきりしたことだからだ。いいかえれば不況対策として建設や土木工事を主体にし
 た公共事業費の投入に期待をかける方策は第三次産業が半分以下しか占めることのない地
 域国家か、経済段階にしか通用しないケインズ的な(逆にいえばマル経的な)寝ぼけたや
 り方にしかすぎない。仮に不況脱出の効果があったとしても寝ぼけた、あいまいな、そし
 て遅々とした速度にしかならないことは、はっきりしている。

  もうひとつ付け加えることがあるとおもう。第三次産業を物流と金融や信用や証券の流
 れのような非物流の二面から眺めたばあいの特徴はふたつかんがえられる。ひとつは物流
 と金融や信用や証券の流れのあいだに一対一の対応性が成り立たないことだ。

  もうひとつはそこから派生するわけだが、物流も金融や信用や証券の流れのような非物
 流も、それぞれに独り歩きして、より有利な経済的な場面に集中して過剰になったり、そ
 れにともなう過少な部分をつくってしまうことだといえる。これだけの条件があれば第三
 次産業が過半量を占めている世界の先進的な地域国家で、ケインズ的な(遂にいえばマル
 経的な)不況対策が急速な効果をあげえないのは自明のことだというほかない。
 
  さらに先に述べたように、こんな世界の経済的に先進的な地域(アメリカ、日本、EC
 のような)では、個人の消費や企業体の総支出が所得や収益の過半量を占め、そのうえ選
 択的な消費や支出が、総消費や総支出の過半量のパーセンテージを占めているため、個々
 の国民大衆や民間企業体が選択的な消費や総支出をひき締めてしまえば、どんな政策を採
 用しても不況を脱出することができないという条件をもつようになっている。いいかえれ
 ばどんな政治体よりも国民大衆や企業体のほうが優位になってしまっている。
  
  こんな条件をもった先進的な地域国家で、すこしでも有効な不況政策があるとすれば、
 投入する公共費の半分以上(わが国でいえば55%以上)を第三次産業関係に向けること
 しかかんがえられない。この見方から今度の保守政府の「新総合経済対策」をみてみると
 どういうことになるのか、すこし言及してみることにする。


 
  次ページの図19をみてみると、まず公共投資など、10兆6千2百億のうち公共事業関
 係に4兆1千7百億が割りあてられている。これは40%くらいに当る。この数値の割り
 あてはなかなか妥当なものだといっていいことが、第二次産業の国内総生産としての割合
 が42%くらいであることからすぐに判断される。ところで第三次産業関係にたいする割
 りふりを拾いあつめてみると、大学や研究所施設、教育、医療、福祉などを整備するため
 の施設費1兆1千5百億、政府関係金融機関など2兆4千3百億、中小企業対策1兆9千
 百億(55%掛け)、民間設備投資の促進5千2百億(55%掛け)、住宅金融公庫など
 1兆8千億(55%掛け)などが最大限の概算に入ってくる。
  最小限は1兆1千5百億とみなされるから、第三次産業関係の投人分は最大限に見積っ
 ても45%くらい、最小限では10%くらいなものにすぎないことになる。理想のイメー
 ジを大胆にいえばこの数字は逆さまだ。第三次産業関係の公共投資がむしろ50%を超え
 た額になるような割りふりをもつことが、不況を脱出するための経済対策としていちばん
 の早道だということはいうまでもないとおもう。

                    中沢新一 編集 『吉本隆明の経済学』


ところで、公共事業が有効需要でないという結論も誤解を生むだろう。例えば、"箱もの"とよ
ばれるビルディングの耐震化という公共事業(法整備というよりハードなソフトウエア事業)
を考えた場合、キラーパルスという長周波対策を実施ししていくには、コンピューターシミュ
レーション(三次産業:プログラミングなどの情報通信分野)でモデル構築→検証実験(2次
産業:建築分野)→実施設計・施工・評価(第1+2次産業+3次産業)と各産業部門のコラ
ボレートの上で実行されるように、産業の相互浸潤がありこれを産業別に金額で評価するのは
困難であろう。また、高速道路をの架橋工事でも、日々進化しており、単に鉄骨、コンクリー
トだけでなく、外部環境からの湿気を遮断する表面工法を付加することで耐久年数を伸ばすこ
とが可能であるように、同じ費用でも付加価値を高めることもできる。つまり、実質上の価格
落という変化が科学技術進歩により生じているが、これらは3次産業の情報通信技術の影響
ている時代でもある(『デジタル革命渦論』)。"箱もの"、"筋もの"も同様に道路の多機能
高度化が進行する時代でもあり、そう単純に土建屋だけが儲かるという図式でないことだけ
は確か
な時代であることを補足しておこう。3次産業の医療分野でも同様である。高齢者の介
護施設は、2次産業、素材、食品などは1次産業と深く関わるし、介護工学には、心理学やケ
アーマネージメント教育、リハビリー技術などの3次産業分野も絡んでいる・・・・そういうこと
踏まえ考える必要がある。

 

 

「赤字国債をバンバン発行」してでも、この不況を脱出するためにはマルクスかぶれやケインズかぶ
れあるいはその亜流の新自由主義(英米流資本主義)の政策の無効性を検討する前に、わたし
たちの前には財務官僚機構が立ちはだかったことが問題だったのだ。口を開けば、やれ、プラ
イマーバランス
――財政収支において、借入金を除く税収などの歳入と過去の借入に対する元
利払いを除いた歳出の差のこと。そのバランスが均衡していれば、借金に頼らない行政サービ
スをしているということを表すが、赤字なら後々に借金が増えていることを示す。プライマリ
ーバランスの赤字が続いている限り、それを埋めるために国債発行残高は増加せざるをえない
状況が継続する。やれ、次世代、孫世代に「借金を残すな」、やれ、「国債償還の禁じ手」は
するなと言い続け、手を回し、標的とする要人を冤罪、スキャンダルで追い落とした。そこで
「日銀解体論」「歳入庁創設論」をこのブログで記載してきたのだが、その岩盤を、現在の安
部政権が突破したのである。これは大いに評価されていいし、この功績だけで、彼の名前は記
憶されることになった。


                                               
 (この項続く)

 

 

 

 

 

 

 

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深海魚の謎

2015年02月18日 | 贈与経済

 

 

● 深海魚の謎 ダイオウイカのメッセージ

福井市茱崎町の海岸で17日、岩場に打ち上げられているダイオウイカを住民が見つけた。既
に死んでおり、最長の食腕2本がともに無くなっているが、全長は約7メートルと推測される
という。
近くに住む上野志津子さんが午前9時ごろ、海藻アカモクの育ち具合を見に行って発
見した。約40年間イカ漁をしていた上野さんも「これまで見たことがない」と驚いていた。

前松島水族館(福井県坂井市)の笹井清二飼育員によると、雌で、腐敗が進んでいないことか
ら死後間もないとみられる。最長の食腕2本を除いた体長は3メートル77センチ。県内では
ダイオウイカは昨年、小浜市や越前町で発見されている(福井新聞 オンライン 2015.02.16 )。



また、富山市の四方漁港沖2kmの定置網で、3日朝、生きたまま暴れる全長およそ4メートル
のダイオウイカが発見されている。四方漁港沖では、1月19日にも定置網にダイオウイカが
かかっていたが、今回のダイオウイカは、前回より一回り大きなものだった。富山湾で見つか
ったダイオウイカは、2015年に入って7例目となると伝えている(「富山市沖でダイオウイカ
深海魚からのメッセージ」2016.02.06 ブログ「謎と真実の狭間で」より)。また、昨年の4月
22日には、室戸岬沖で深海魚105匹が捕獲されている(「海域に異変か」と専門家/「47
NEWS」2014.04.22)。そして、葛西水族館のマグロの大量死(「マグロ大量死原因分からず!」
2015.02.14.)として掲載したこともあり、マグニチュード7以上の大地震が間近に迫っている
ことを告知する現象ではないかと訝ったりもするが、ここは警戒を怠らないことだろう。


※ 日本の列島と近海地震履歴(マグニチュード4以上)

2015年02月17日 13時46分ごろ 2015年02月17日 13時51分 岩手県沖     5.7   5強
2015年02月17日 08時06分ごろ 2015年02月17日 08時18分 三陸沖       6.9   4
2015年02月06日 10時25分ごろ 2015年02月06日 10時29分 徳島県南部   5.0   5強
2015年01月26日 07時20分ごろ 2015年01月26日 07時25分 千葉県北東部 4.9   4
2015年01月25日 19時41分ごろ 2015年01月25日 19時47分 鳥島近海     5.7   1
2015年01月25日 16時19分ごろ 2015年01月25日 16時23分 奄美大島北東沖 4.3 1
2015年01月23日 18時11分ごろ 2015年01月23日 18時15分 福島県沖     4.2   3
2015年01月22日 02時35分ごろ 2015年01月22日 02時39分 釧路沖       4.5   3
2015年01月16日 16時48分ごろ 2015年01月16日 16時52分 宮古島近海   4.0   2
2015年01月16日 00時44分ごろ 2015年01月16日 00時49分 北海道東方沖 4.2   2
2015年01月14日 10時15分ごろ 2015年01月14日 10時20分 沖縄本島近海 4.6   3
2015年01月14日 09時40分ごろ 2015年01月14日 09時44分 奄美大島北西沖 4.5 1
2015年01月14日 04時50分ごろ 2015年01月14日 04時55分 福島県沖     4.3   1
2015年01月14日 02時46分ごろ 2015年01月14日 02時50分 岩手県沖     4.8   3
2015年01月12日 13時59分ごろ 2015年01月12日 14時04分 沖縄本島近海 4.3   2
2015年01月09日 12時56分ごろ 2015年01月09日 13時00分 北海道東方沖 4.5   1
2015年01月09日 03時42分ごろ 2015年01月09日 03時47分 根室地方中部 5.4   4
2015年01月08日 12時01分ごろ 2015年01月08日 12時06分 静岡県西部   4.2   3
2015年01月07日 18時58分ごろ 2015年01月07日 19時02分 宮城県沖     4.3   3 
2015年01月04日 14時51分ごろ 2015年01月04日 14時56分 奄美大島北東沖 5.0 2
2015年01月02日 01時14分ごろ 2015年01月02日 01時17分 日向灘       4.2   3
2015年01月01日 23時41分ごろ 2015年01月01日 23時45分 奄美大島近海 3.7   1
2015年01月01日 22時57分ごろ 2015年01月01日 23時00分 苫小牧沖     4.4   4
2014年12月31日 17時17分ごろ 2014年12月31日 17時21分 根室半島南東沖 4.3 1
2014年12月31日 16時54分ごろ 2014年12月31日 16時58分 与那国島近海 4.6   1 
2011年03月11日 14時46分ごろ 2011年03月11日 15時01分 三陸沖       9.0   7

 



● ミヤンマーへの自転車と自動二輪車の贈与支援

「庶民の車」として親しまれてきた軽自動車が、高級品の代名詞である輸入車と競い合う時代
を迎えているという。乗り心地や走行性能が格段に進化した軽は、スポーツカータイプが人気
になるなど高級化が進む。一方、輸入車は、日本国内で顧客の裾野を広げようとコスト競争力
がある小型車の導入を加速。価格帯が一部で重なったことで比較検討するユーザーが増え、互
いのライバル意識も徐々に高まってきているとか。ただ軽の高級化は、税制優遇など軽の最大
リである維持費の安さを損ないかねない懸念を伝えている(「SankeiBiz」2015.02.18)。
自家用車の
ダウンサイジングは『デジタル革命渦論』の基本特性の必然性であり驚くに当たら
ないが、同時に、テレビでは佐野史郎が、ミヤンマーの旧日本製機関車旅行のルポルタージュ
し、1往復で30円を素焼き土器運びし稼いだ金を全額母親に差し入れているという少女が、
自転車が欲しいとインタビューで応えていた。日本のODAとして自転車と自動二輪車を贈与
支援すべきで、これがミヤンマーの戦後復興状態と同等経済への必要物資支援の1つではない
かと思って観ていた。

  

 

今夜の一冊 推薦図書


『吉本隆明の経済学』論 Ⅰ


 

予定とはことなり、この本を手にすることになる。下記のごとく「マルクスともケインズとも
異なる経済学」と紹介されているが、わたし(たち)は寧ろ「マルクスともケインズともある
いはには、ケインズ主義の亜流である新自由主義
」とも決定的に異なるものではなく、その延
長選上にあると考える立ち位置にある。今後、時宜をみて適宜、読み進めその差異を検証して
いきたい。

 吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!

 吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズと
 も異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかっ
 たその思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造
 とは何か。資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の
 核心に迫る。


 はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 労働価値論から贈与価値論へ
 第5章 生産と消費
 第6章 都市経済論
 第7章 農業問題
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき
 

     第8章 超資本主義論

                                                  解説

  1990年代の半ば頃から日本経済は一転して不況期に入った。不況に対処する処方僕
 としては、20世紀にはケインズ的な政策が有効だと考えられてきた。そこで当時の自民
 党政権も、建設や土木工事などの公共事業に国費を投入する、ケインズ的政策で不況を乗
 り切ろうとした。吉本隆明はそれを、資本主義の現在の段階を理解していない間違った政
 策として、きっぱりと否定した。その理由は、彼の考えていた資本主義の未来像(超資本
 主義)と深く関わっている。

  消費資本主義の段階に入っている先進国では、第T次産業の人口が大幅に減少している。
 第二次産業についても似た傾向が見られる。そのかわりサービス業や金融業や情報産業な
 どの第三次産業に就いている人の割合が増えていっている。資本主義じたいが金融グロー
 バリズムの時代に入っていた。こういう社会で、ケインズの時代と同じような不況対策が
  はたして有効だろうか。ケインズの時代には第二次産業がもっとも重要で就業者の数も多
  かったから、公共投資をさかんにしていけば、人口の多くの部分がそれによって潤うこと
  になった。ところが消費資本主義の社会で同じ政策をとっても、一部のゼネコンなどが大
  儲けをするだけで、社会は全体として豊かにならない。
  
  先進国がとらなければならない不況策が、ここから自然と見えてくる。公共投資は教育、
 医療、
福祉などの第三次産業へ向けられていかなければならない。いやそもそもなぜ先進
 などの第三
次産業に移行してしまっているのに、政治家も経済学者も古い「支配の思考」 
 のレベルで止まっ
てしまっており、その幻想性ゆえに現実の経済の姿が見えていないから
 である。消費資本主義の社会のほんとうの主人公は、いまや国民と企業体である。彼らの
 おこなう消費が社会を左右する力をもっている。「支配の思考」は、国民や企業体がその
 ことに
気づき、消費資本主義の主人公として彼らの意志を政治に直接反映させようとする
 事態を
恐れている。しかしここが突破されると、先進国ははじめて超資本主義の段階に入
 ってい
くことになる。

  
吉本隆明はこの超資本主義の世界がどのようなものであるか、興味深い着想をいくつも
 残して
いる。なかでも興味深いのは「アフリカ的段階」の要素を保存したままの世界にた
 いする期待で
ある。人間の心の原初構造がハイパー科学技術と結合して(つまり人類の「
 ア
ジア的段階」を経ることなく)つくりだす見たこともない未来を、吉本隆明は夢見ていた。


                      1 超資本主義の行方不況とはなにか I 
   i

  経済上のデータをたどって判断すると、1990(平成2)年の下四半期のおわりごろ
  から不況の萌しがみえけじめ、91(平成3)年の上四半期のはじめにははっきりと不況
 に入ったとい
える。だが企業も個人も政府もまだ楽観的だった。そしてすこしずつ不況感
 は深まり、現在もまだ回復の手だてが有効さを発揮できないまま続いているといっていい。

 そこでわたしなりの見解でこの不況の情況に言及してみたくなった。ど素人のくせにこの
 経済的な
不況に介入したいモチーフはなにか、あらかじめひとつふたついっておきたい。
 ケインズ以後の近代的な経済学も、その反対のマルクス主義経済学も、なまの現実の政治
  経済や社会経済を分析し、経済の政策や社会政策に反映させようと企てるばあい、いずれ
  もおなじように支配の学の発想だといっていい。やさしくいい直すと、政治や社会の政策
  をおこなえる地位にあるものが、それを実施しようとするばあいの指針の役割を果たすた
 めの学問だから、そういう支配がうち出した方策を、国民大衆のほうが無条件に受け入れ、
 大なり小なり忠実にしたがうにちがいないことが前提となっている。

  マルクス主義的な用語でいえば前衛集団が政治や経済の政策をうち出すと、労働者や民
 衆はそれを受け入れ、文句もいわずに実行するだろうことが前提とされている。
  だがわたしの経済データの分析からは、そうはならない。現在の世界でアメリカ、日本、
 EC(フランス、ドイツ、イタリア、イギリス)の三地域、いいかえれば現在の世界で経
 済的にいちばん先進的といえるこの三地域では、むき出しにいってしまえば近縁であれマ
 ル経であれ、支配の学が通用する時代は、すでに終焉してしまっている。その条件は単純
 化してしまえばつぎの二つだ。

  1.個人所得あるいは企業収益のどちらをとっても、所得あるいは収益の半分以上が消
    費または総支出につかわれていること。
  2.しかも、この個人所得の消費または企業総支出の半分以上が選択消費(抑んで自由
    に使っている消費)あるいは設備投資(あるいは択んで自由に増減できるその他の
    支出)につかわれていること。

  現在の世界でこの二つの条件をみたしている国(地域)は、典型的にいえば、アメリカ、
 EC(フランス、ドイツ、イタリア、イギリス)の三地域だといっていい。この三地域で
 はすでに支配の経済学は通用しない。政府または反政府が現在の日本のように不況対策を
 うち出しても、個人や企業が選択消費または設備投資を中心とする選択支出を引きしめる
 ことをやめないとすれば、不況を脱出することはありえないからだ。これではどんな不況
 対策をやっても脱出できないことがわかる。理由は単純化して説明できる。これらの三地
 域で、簡単なために月額所得百万円の個人を例にとる。するとこの個人は50万円以上を
 消費につかっている。そしてそのうち25万円以上を選択消費につかっている。単純化の
 ためにいま全人口の9割1分を占める中流意識の国民大衆が一斉に生活水準は落とさずに
 (つまり必要消費には手をつけずに)、自由に択んでつかっている25万円以上の選択消
 費だけを、せめて年半期だけでも引きしめて使わないと仮定する。すると約六割のウエイ
 トで、日本国の経済規模は4分の2(半分)から4分の3縮小されることになる。個々の
 企業が設備投資を中心とする選択支出を年半期いっせいに引きしめたとすれば、全ウエイ
 トで日本の経済規模は4分の2(半分)から4分の3縮小されることになる。

  そして経済規模が半分から4分の3になってしまう経済恐慌や景気後退に耐える不況政
 策や対策などは、どんな政府(自民であろうが杜共であろうが)をもってきても不可能だ
 ということは言うまでもない。わたしが何を言いたいかははっきりしているだろう。現在
 の世界でこの三地域(アメリカ、日本、EC)では国民大衆の経済的な潜在実力は、どん
 な政府支配をもってきても統御できないレベルに到達しているということだ。もっと露骨
 にいえば近代経済学の理念もマルクス経済学の理念も総じて支配を中心としてかんがえる
 経済理念はこの地域では潜在的に破産しており、国民大衆の自己支配による自己統御のほ
 かにはどんな政府もほんとうは可能ではなくなっていることにほかならない。

  公定歩合の引下げ、国債の発行、減税など、現在政府と反政府によって論議されている
 不況対策などは、いずれもまだ支配の学としての経済学の政策化が通用するとおもってい
 る錯覚にしかすぎない。たしかにその程度の不況対策でも現在の不況を脱することはでき
 るかもしれないが、それは本当をいえば「眠れる」獅子である国民大衆が、じぶんたちの
 経済的実力を自覚していないことを当てにしていることでしかない。わたしの不況認識は、
 これらの政府と反政府の認識とはまるでちがう。この不況は現在の世界の先進地域で「眠
 れる」獅子である国民大衆と「眠れる」高度技術文明の象徴である企業体が、「眠れる」
 というじぶんたちの潜在実力を信号しつつある最初の徴候にはかならないとおもっている。
 政府も反政府も「眠れる」獅子である9割1分の国民大衆と「眠れる」高度技術文明の象
 徴である企業体が、選択消費支出の部分をゆるめなかったら、どんな不況政策をやっても
 不況を脱することは不可能になっているのだという現状を認識しようともしないで、高を
 くくっていることになる。この認識が、現在の不況に言及してみたいわたしの第一のモチ
 ーフだといえる。このモチーフから派生することだが、それならばどこで不況を測ったら
 いいかという指標の問題が、言及してみたい第二のモチーフだといっていい。
  現在経済担当者や専門のエコノミストによって流布されている指標は、便利にはちがい
 ないが、すくなくとも現在の世界の先進的な三地域で通用するものだとは、とうていかん
 がえられない。

   

  経済専門家や学者や経済政策を立案している官庁が、どんなふうに現在の不況の細部を
 とら
えようとしているか、すこし立ち入って、産業別にみてみることにする。はじめに証
 券会社について
挙げてみると、92年9月の時点で、経常損益がプラスになっているのは、
 野村、大和、日興の3社
だけであとはすべてマイナスになっている。そして光世という小
 さな証券会社だけが上位の3社と
いっしょにプラスを示している。東京証券取引所で株式
 の一日平均売買代金が3千5百億円くらい
が損益の分岐点のところで、上期は2千5百億
 円台にとどまり、下期はさらに悪化するかもしれぬ
という予想がこの時点で出されている。
 これが最初に挙げられる不況の徴候として記されたものだ。


  つぎに生命保険会社の92年度の上半期の「株式含み益」は、日本生命、第一生命、住
 友生命
明治生命、朝日生命、92生命、安田生命、千代田生命など上位ハ社では、軒並み
 に前年
の同期との伸び率の比がマイナス50%以上になっている。最大マイナスは住友生
 命のマ
イナス約90%、最小でも明治生命のマイナス約53%である。「株式含み益」と
 いうの
は、この株式利益を財源にして生保会社が株式評価損失の穴うめをしている経営の
 体力を
意味しており、そのマイナスはこれに依存するやり方の不可能を意味すると注記さ
 れてい
る。

  つぎに金融、保険業だけでなく、サービス業、卸・小売業、レストラン外食のような飲
 食業を含めた第三次産業の全体についていえば、業況がどうなっているかをしめす活動指
 数を、85年度を百としてみると、135・8で前年の同期比は0・4%のわずかな増大
 にとどまっていることがわかる。これは第一次石油ショックのあと74年度のマイナス1
 31%につぐ低い伸び率にあたっていることがわかる。
  つぎに電機・通信機器の大手企業は、92年の9月の時点で、経常利益がマイナス50
 %より少ないのはわずかに東芝(マイナス38・9%)だけであり、あとはマイナス50
 %をこえている。この業況をのりきるために各電機・通信機器のメーカーは設備投資の抑制と
 人件費の節約をうち出し、新卒採用者を削ること、採用取消し、そして社員のボーナスや役員手当
 の削減などをおこなっている。

  また関東地域の私鉄は、92年9月の時点で、東武、西武、京浜急行の三社が経常利益
 で、前年同期にくらべてマイナスになっている。
  信託銀行についてみるとおなじ時点で三菱など7社がすべてマイナスの経常利益に落ち
 こんでいる。
  おわりに92年10月~12月の個人の預金残高についていえば前年の同期にくらべて
 わずか122%の増加にすぎなかった。

  これらのデータはいずれも新聞、雑誌などに公開されたものだ。そしてそれぞれの産業
 分野の不況の状態について、だいたいの目安を示している。どのばあいをとってもはっき
 りしている共通点は、一様に経常の利益の伸び率の比が、前年の同時期にくらべてマイナ
 スになっていることで、不況を判断するよすがにしている。だがそれでいいのだろうか。
 たしかに企業の経常利益の伸び率は、不況になったとき前年の同期にくらべてマイナス
 とるだろう。だが逆に経常利益の伸び率が前年同期の伸び率より下回るデータを不況の

 標として振りまわすことに妥当性があるのだろうか? わたしにはそうおもえない。な

 ならば企業体が成立していることは経常利益をもつことを前提としている。いいかえれ

 企業イコール経常利益体だということを意味している。

  それゆえその伸び率の差異は、不況と無関係にありうるものだ。伸び率が減少率に転じ
 て四半期とか半期とか一年とか経なければ、いいかえれば経常利益の損失だけで倒産に追
 いこまれない かぎり、経常利益は厳密には不況を表現しないとかんがえられるべきだと
 おもえる。いいかえれば 企業の経常利益で不況かどうかを判断するのは、粗雑ないい加
 減なものにすぎないといえる。仮に経常利益がゼロでも企業体は存在できるが、企業体の
 存在する目的は消滅してしまうように企業体はつくられている。もっと違う言い方をすれ
 ば被雇用者の命運にかかわりなく、企業体イコール経常利益体という前提を無意識のうち
 に呑みこんでしまうことはできるのだ。 
  


                                      中沢新一 編集 『吉本隆明の経済学』

                                                                                          (この項続く)



 

● 米西部に未曽有の干ばつの恐れ NASAが警告

(CNN) 米航空宇宙局(NASA)はこのほど、温室効果ガスの排出がこのまま続いた場合
米西部一帯が今世紀末までに未曽有の干ばつに見舞われる恐れがあるとの研究結果を発表した。
NASAのチームは樹木の年輪を1000年前までさかのぼって過去の降雨量の変化をたどり、
これをさまざまな気候モデルに当てはめて将来の気候を予測。研究の結果を科学誌サイエンス・
アドバイシズに発表した。
それによると、米国の中央平原から南西部にかけての広い範囲で今
世紀末までに大規模な干ばつが起きる可能性がある(「
米西部に未曽有の干ばつの恐れ NAS
Aが警告」CNN 201502.16)

 

 ●「自衛隊派遣恒久法」公明が容認 手続きの厳格化を条件に

政府・自民党は「派遣のたびに特別措置法を作っていたら緊急の対応ができない」と恒久法の制
定を主張。安倍晋三首相も16日の衆院本会議で「具体的なニーズが発生してから改めて立法措
置を行う考えはない」と答弁し、恒久法の必要性を強調していたという。これに対し、公明党内
は当初、特措法で対応すべきだとの意見が根強かった。しかし、首相の方針が揺るがないこと
を踏まえ、
恒久法を条件付きで認めざるを得ないとの判断に傾いた。同党幹部はここにきて「迅
速な対応ができれ
ば国際社会での貢献度をより高めることができる」と恒久法に理解を示してい
る。歯止め策としては、自
衛隊派遣に国会の事前承認を義務付けることが検討されている。緊急
の場合には事後承認を認めるも
のの、国会が速やかに関与できる仕組みを整える方向だ。テロ対
策特措法とイラク復興特措法は「対応
措置を開始した日から20日以内に国会に付議して、国会
の承認を求める」と定めたが、公明党はより短
期間での国会承認を政府・自民党に求める構えだ
という(毎日新聞 201502.18)。


これで、公明党は、原則なき「公準」なき既成事実追認の保守反動に転じたことになる。反戦平
和をすて、自動的にイスラム教圏の衰退による自己宗門の拡大を図る方針に転じたと考えられな
はない(これはうがち過ぎか?!)。残念ではあるがわたし(たち)が考える「積極的平和主
義」と決別することとなった。

                             

                                 人命は地球より重し

 

  

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イタリアン・ライスサラダ

2015年02月17日 | ネオコンバーテック

 

 



● イタリアン・ライスサラダ

今朝は、午前中から青森の地震やリビアでのイスラム国の惨殺ニュースがあり、最新の太陽
エネルギー変換素子技術の調査作業をこなした時点でキャパピークを超えていた。それから、

前田昌信 箸の「はじめての流体力学」(オーム社)の電子ファイリングでピークアウト。
画『史上最大の作戦』をテレビ鑑賞したこともあり、入浴を済ませた時点で完全にアウト。

日本酒を飲みながら、心休まるものはないかとイタリア料理の本をぼんやりと眺めていたら
『米サラダ』(室井克義 箸)のレシピの「日本人は銀シャリにこだわりすぎだと思う。こん
な料理も農耕民
族の包容力で受け入れてほしい」というフレーズがなぜか気に入り、ネット検
索していた。

 

 

上の左上写真のレシピは、材料(4人分):米/150グラム、酢漬けの野菜(ピクルスなど)/
グラム、ウィンナーソーセージ/5本、シメジ(他のキノ⊃でも)/50グラム、マヨネーズ/
大さじ2、
基本のドレッシング/50ミリリットル、ブイヨン/1リットル。作り方:①米は、
塩少々を加えたブイヨンの中で12分茹でてから、ざるに移し、水気を切る。さらにパットなど
に広げ、ペーバータオルで完全に水気をとり、冷ます。②ポールに基本のドレッシング、酢漬
けの野菜のみじん切り、小さく切ったウィンナーソーセージ、シメジ(生のまま)、マヨネーズ
を入れ、米と混ぜる仕上げると極めてシンプルなもの。尚、これは残りのご飯を使うのではな
く、必ず12分間茹でた米を使うこと。プツプツした食感――アルデンテがこのサラダの特徴で、
米の別の魅力が体験できるはずだ。マッシュルーム、ツナ、茹でて卵など具をたくさん入れ、
バージンオイルをかければ、さらにグレードアップする。こういった米の使い方はどっぷりと、
"シャリ思想"に浸っている日本人には、面白い爽やかな米の料理調理法を教えてくれた気がし
たが、これは精神的癒されて有り難たかった。

● 日中食品汚染 Ⅶ 第1章 見えない食品の恐怖

 

                               ナマモノから加工品ヘ 
                      
   

  さて表3をもういちど振り返ってみよう,食品モジュール化はとくに21世紀に入ってか
 ら顕著になった食品の姿だが、日本にとって、もっとも便利なのは日本で作るよりも近く
 の国から輸入することだった。農林畜水産物資源が豊富で、加工良品を生産するための賃
 金が安い中国が最適なパートナーとして認識されていったためだ。
  中国から輸入される食品の内容は、時代とともに変化してきた。1980年代までは
 「界」や「門」、つまりは農林畜水産物の原形が目で見てわかるもの(たとえば鶏肉、生
 鮮ホウレンソウなど)が大部分を占めていた。

  しかしこのような範囲にとどまっていた時間は短く、90年頃からは冷凍・冷蔵技術や食
 品添加物の発達が食品の保存明問を長くし、それにともなって食品の包装や形自体も変化
 し始めた。固形物から半固形物原材料と、農林畜水産物を熱したり、混ぜたりすることが
 起きた。「綱」の時代の到来である(冷凍野菜、そば粉など)。

  さらにこの頃から、進んだ技術を持つ日系食品メーカーの中国進出が加速し、現地の安
 価な農 林畜水産物を原材料に、高度な加工を施して日本に輸出するというビジネスモデ
 ルが定着し始めた。当時は、あらゆる産業が中国を目指し、中にはこんなはずではなかっ
 たと撤退する企業も後を絶たない有様だった。この中国ラッシュがピークを迎えるのが概
 ね1990~2000年頃だった。この時期には中国からの輸入食品が「綱」
から「目]
 へと徐々に細かくなっていった。このようにして食品のモジュール
化が進み、時期的には
 中国がWTOに加盟(2001年)した頃から「科」(
餃子、ニンニクの粉、カラメルな
 ど)から「属](スープ、ピザ、油脂など)
「種」(肉エキス、野菜エキス、昆布エキス
 など)へと絹分化する時代となっ
た,原材料の農林畜水産物は互いに混ざりながら質の異
 なった要素を加えたり、
あるいは逆に分解するようなモジュール化が起きて、さらに進化
 していった。

  スーパーやデパ地下などに並ぶ弁当から、ひとつを選ぶ場合、決め手になるのが惣菜だ。
 サバの塩焼き、サバの煮つけ、焼き鮭や肉団子、野菜煮物やサラ
ダ、コロッケやハンバー
 グ、エピフライや野菜天ぷら、そしてキンピラや煮豆
など、色とりどりの惣菜を眺め、迷
 いながらも手に取る。そして、家や会社にもどってからの楽しみとする。このとき、我わ
 れ消費者が利用できる情報は、目に見える惣菜だけだ。
  しかし、本当に参考にすべき情報は、弁当箱の表か裏に貼ってある食品表示法に従った
 食品名や食品添加物の明細のはずだ。

  これを見れば、どの弁当を買うかの決め手には、おいしそうかどうかに、食べても安全
 かどうかという、別の基準が加わることになる。

  問題は、そこに記載されている明細には、食品や食品添加物がどのような役割をし、一
 方でどんな問題が指摘されているかなど、本当に知りたい情報が書
かれていないことだ。
 表示されている食品や食品添加物の中身を知りたいのに、
それを作るための、さらに多様
 な種類の原材料がまったく見えないままになっ
ているのである。 
  食品モジュール化の進展は、見えない食品を膨大な数に増やす。目に見える食品や記載
 された食品添加物の背後には、消費者が知るべきなのに、その存在
すらも知ることのでき
 ない食品や食品添加物が隠されているのだ。


                                「変装食品」の輸入

  今日参は空前のラーメンブームで、どの地方へ行ってもご当地ラーメンが花盛りだ。
 ーメンの本場は中国で拉面とμく。手打ち麺という意味で、発音はラーミェ
ンだ。ラーメ
 ンという料理はこれに基づいている。しかし、今ではスープの味
も麺もまったくといって
 
いいほど別ものだ。本場も認めるのが日本のラーメンの味で、ブームが起きるのも納得が
 いく。これ自体はいいことだと思うが、心の底から喜んでいいのだろうか?

  
  そのラーメンブームを陰で支えているのが、チキンエキス、牛肉エキス、豚肉エキス、
 魚介エキス、野菜エキスや昆布粉末やチキン粉末などの液体と粉類食品である。エキスは
 ラーメンのほかにも用途は広く、和食鍋物料理から洋食スープ類、中華料理まで幅広い使
 い道がある。

  ラーメンのスープは味を左右するほど大事な素材だが、以前のように鶏ガラや豚や牛の
 骨を何十時間も煮込んで、エキス抜きでじっくりと手間をかけてそ
 の店独特の味を作
 り出す店は少な
くなった。エキス卸業者から買ったエキスを元に、多少の工夫を加えるく
 らいで済ませようとする店が多くなった。だしの
元になる素材を煮込み、自然の風味と味
 で勝負し、食品添加剤を一切使わない
ラーメンスープを作る店はどこへ行ってしまったの
 か。しかし、このような本
来のラーメンスープだけで営業しようとすれば、その店は1日
 50食も売ればネ
タ切れになるだろう。大きな商売にはそもそも不向きなのだ。

  今やエキスは、消費者の誰にとっても身近な存在になった。最近スーパーで見かけるよ
 うにな
った食品に「ちゃんこ鍋の素」、「カキと豆腐の鍋の素」、「いなか芋煮の汁の素」、
 「自家製ラーメンの素」、「鶏がらだし汁]などと
銘打ったやや硬いビニール袋に入った
 スープ、粉末状のワカメ汁の素や昆布ス
ープの素の入った小袋などがある。
  これらの袋の白抜きのスペースには、食品表示法の規定による成分表示がある。必ずと
 いっていいほど、そこには牛肉エキス、豚肉エキス、チキンエキス、
卵エキス、野菜エキ
 ス、吸物エキス、キノコエキス、昆布エキス、ワカメエキ
ス、魚介エキス、エビエキス、
 カニエキス、酵母エキスなど正体不明の食品が
記されている。

  これらのエキス類は、食品を構成する最末端、モジュールの「種」の部分に位置する。
 この「種」の下に位置するのは糖分や塩分、各種のビタミン類で、
それはもはやモジュー
 ル食品の枠の外だ。

  さまざまな家畜や野菜、魚や果物の名が付いたエキスのほとんどは粉末状の製品として
 流通している。たとえばA社の酵母エキスは粉末1キログラム入り
10袋が流通の最少単位
 だ。だから中国やその他の国から輸入しても荷造りや運
賃は安くつく、税関を通過して、
 国内の食品メーカーの加工工場に到着してか
らスープやだし汁として液体化すればよい。
 メーカーにとってこんなに便利で
効率的な食品はないだろう。


                                    エキスの安全性

   各種のエキスの安全性については、原材料、食品添加物、製造方法などをめぐって賛否
 両論がある。危険論者の言い分をまとめるとこうだ。

  まずは、その形態についての批判。たとえば、粉末にしてしまうのだから、本来廃棄処
 分されてしかるべき肉、野菜、魚介類くずやゴミが原材料であって
も不思議ではない。実
 際に、わたしがいくつかの工場で調べた範囲でも、エキ
スの原材料としてこういった不衛
 生なものが使われている可能性は高いと感
た。
  また、塩、化学調味料、蛋白加水分解物の3つの成分に各腫のエキスを加えるだけで、
 お菓子も惣菜もどんな加工食品でもおいしくなり、その食品が本来
持っている風味や味を
 作ることができる。だから邪道な食品の製造を許す基盤
を提供している点で悪いという主
 張だ。メーカーはエキスの原材料や製造方法
を可能な範囲で公表すべきだが、実態は閤の
 中だという。

  一方メーカーの言い分はこうだ。中国の自社工場で製造した豚肉エキスを使用している
 A社は、現地の栽培・飼育記録や工場での原材料受け入れ記録、生
産日報、出荷に至る記
 録類により、原材料から製品まで追跡できる体制を構築
しているという。担当者が年数回
 現地に赴き、調査と指導を行っている。現地
加工工場でも、NASRAD-550(約4
 50腫の農薬、約100種の飼料
添加物や動物医薬品を分析する検査システム。食品メー
 カーなどでは一般的に
利用されている)による検査体制を確立し、検査に合格したものの
 みを日本に
出荷している(同社のホームペ-ジによる)から安心だというものだ。
  
  わたしの意見はこうだ。メーカーの言い分はもっともらしいが、この場合の問題は検査
 しているかどうかではなく、検査方法そのものにある。たとえば中
国では政府が禁止した
 農薬のみならず、常に新しい農薬や飼料・食品添加物が
開発利用されているので、450
 種や100種類ではとうていカバーしきれな
いケースがあること。ヒ素、水銀、カドミウ
 ム、クロムなどの重金属、約3千
種ある。食品添加物も同様に、検査からはみ出る恐れが
 否定できないのではな
いか、ということだまた、年に数回現地調査と指導をしていると
 いうが、抜き打ち式ででも行わない限り、不正を見抜くことは難しい。現地は学習を積み
 重ねているので、検査への準備はあらゆる面  で万端だ。しかも検査の方法、その数、検
 査サンプル数と各農場におけるサンプル採集の仕方などが、科学的であると説得できる資
 はいっさい公開されていない。

  ジェトロ(日本貿易振興機構)によると、アメリカは牛肉エキスの輸入自体を禁止し、
 豚肉エキス、チキンエキスに関しては、高熱処理した製造工場の検査証明書に加え、動植
 物検疫所が発行する輸入許可書の提出が求められ、すべての家畜エキスを含む食品の輸入
 には、輸入先の動物検疫所が発行する輸出検疫証明書が必要だという。なんと厳しい姿勢
 であることか。それはそのまま、エキスの危険性を認識していることを証明している。
 の点、日本は無防備で、どんな原材料を使ったエキスでも輸入自体は自由で、一般の品目
 と同
じ検査が行われるだけだ。

  またスーパーで買う製品には、「チキンエキス」などと記載されているだけで、産地表
 示がないのが普通だ。これには制度的な理由があり
、メーカーの責任とばかりはいえない
 面がある。エキスは混合食品、つまり多国籍・多種類の原材料を国別・成分比率の混合率
 がわからないような方法で作っていること
そしてその国別・成分の混合率がいずれも5
 %
未満ということにすれば、食品表示法上、原産地は記載する必要がないからだ,これで
 はどこの
国の何でできているかもわからない。この意味では「変装食品一だし、さまざま
 な顔を持つという点で「百面相食品」ともいえよう。

 
  成分もその混合率も不明な食品が、仮に危険因子によって汚染されていると判明すれば
 評判が
落ち、国内では売れずに困る輸入業者や輸出業者が出ることもある。これら業者が
 こうむる
経済的損失をカバーするために、こんどは別の方法で食品の製造コストを下げ、
 あるいはそのものに付加価値を付けるなどによる対応策がとられるが、根本的な解決には
 つらがらない。
  

                       高橋五郎 箸 『日中食品汚染』
                   
                             (この項つづく) 
                                                                              

 

 ● 最新の太陽エネルギー変換素子技術

オールソーラーシステム完結論を考察し終わったが、関連技術情報の調査はいままで通りで、
一番の関心事は変換効率のトップランナーが保有する技術情報であることに変わりない。理由
は簡単だ。薄膜の太陽光エネルギー変換素子の変換効率が25%超が実現(現在は15%程度)
すれば、地球温暖化が解決し、贈与経済社会が実現するからだ。


【符号の説明】
10 光電変換デバイス 11,111 ガラス基板  12 機能層  13 光吸収層  15 負電極  16 正電
極  17 i層  18 n層  19 n+層  50 真空成膜装置  53,54,62,63 スパッタ処理部  55,
64 アニール処理部  112 テクスチャー構造  NR 負極領域  PR 正極領域  UC 基本セル

上の新規考案は、透明なガラス基板上に酸化チタンの機能を成膜し、その上にCIGSの光吸
収層を成
膜。光吸収層の一方面に負電極と正電極を形成させ、光吸収層のダングリングボンド
(結合に関与し
ない電子)を終端化する。光入射による光吸収層に生じたキャリアの再結合が
抑制され、キャリアの寿
命が延び、光吸収層の一方面に両電極を形成していてもキャリアが両
電極にまで移動することができ
この層の一方面に両電極を形成しているので、発電に寄与しな
い部位を最小限に抑制し、発電量の
低下を防止する構造とその製法の提案である。

また、上の新規考案(図の上をクリック)は、導電性基板上に、色素増感された多孔質半導体
微粒子とジカルボン酸からなる光電極層、電解液層と対向電極層をこの順で有する色素増感型
光電変換素子で、このジカルボン酸はカルボニル炭素間の直鎖炭素原子数が1~4の飽和脂肪
族、または飽和脂環式ジカルボン酸を特徴とする色素増感型光電変換素子。光電極層1へのカ
ルボン酸の導入は、酸単独溶液や酸色素混合溶液への浸漬法、多孔質半導体微粒子分散液への
添加することで、実質的にバインダーを含まない低温製膜法のフィルム型色素増感型太陽電池
で、プレス処理等の新たな工程を設けることなく、光電変換効率の高い光電極層を提供する新
規考案である。尚、ここでの呈示例では、色素増感型の光電変換素子の変換効率は、7%程で
ある。

以上、2例のみ掲載したが、膨大な資料調査作業が、翻訳作業と同様に神経がやられるもので
あることは村上春樹の『羊をめぐる冒険』の本を読めば理解の一助となるだろう。特許だけで
はなく判決例などの情報検索も同様であるが、米国ではこの作業ですらビックデータ数理推論
手法で作業者を管理しようとしているから、搾取される立場のストレスが如何ばかりか推して
知るべしだろう。おっと、話は逸れた。

 

● チンアナゴなど産卵の撮影成功 世界初

これまで謎に包まれていたチンアナゴやニシキアナゴの産卵行動の撮影に、東京の観光地に3
年前に完成したばかりのすみだ水族館が成功したことに、関係者の間では、驚きと喜びの声が
上がっています!うなぎの稚魚の完全養殖が可能となると期待されている。

 

コメント (1)
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帰っちゃおかな。

2015年02月16日 | 時事書評

 

 

 

 

● 日中食品汚染 Ⅵ 第1章 見えない食品の恐怖

 

                                  食品業者・周の予言

  中国には日本向けの食品輸出を専門とする業者が多数ある。上海、北京、青島、煙台、南通
 (江蘇省)、広州、大
連など、日本とゆかりの深い地区に多く、経営者は日本での留学経験が
 あり、個人営業者程度の規模といった共通点
がある,日本の業者と組んで中国産食品を輸出す
 る企業も
ある。しかし、最近はあまりいい商売ではなくなってきたと嘆く声を聞くようにもな
 った。

  これから登場する人物は、現地で日本向けにあらゆる食品の輸出をf掛ける周平華(仮名・
 43歳)だ。周は日本の
大学に留学した経験があり、日本語もうまいし、日本の食生活や味付け
 好みや素材の選び方などもよく心得てい
る。

  というのは、日本諸学校での勉学期間を含む日本滞在期間6年間のうち、大学生時代の4年
 間
は飲食店でアルバイトをして生活し、たまに調理の手伝いや早朝の市場通いまで手伝わされ
 た経験があるからだ。卒業後は日本の小さな食品メーカーに就職したが、あるとき思い立って

 中国へ帰国し、日本との貿易で身を々てることにした。その仕事が今の生活を支えている。性
 格はおだやかで、頭脳も切れる万たったので細かいところにも気が付く。

  周は、儲かりそうな食品があれば何にでも手を出すという。小さな会社だからできることで、
 その分、忙しさも半端ではない。そんな周と久しぶりに会ったのは、北京の高級中華料理店で、
 小部屋に2人きり、丸いテーブルに向かい合って座った,その晩の会計は、彼が持ってくれた。
 まず冷たいビールを注文、その隆は赤ワインを飲もうということになった。最近は白酒は年配
 の飲みものというイメージが定着し、赤ワインを飲む人が急増している。回鍋肉、青椒牛肉絲
 ビータン、スープ、万頭・・・・・・など、わたしの好きな庶民料理が並んだ。

  私が北京を訪れたのは、日中間の食品貿易で進む「食品モジュール化ーの実態を探るためだ
 った。食品モジュール化とは、パソコンの組みをてのように、さまざまな産地から集めた原材
 料を、これまた同カ国にもまたがって加工し、商品化することで、わたしの造語である。
  「食品モジュールとはいい言葉を見つけましたね。中国語にすると"食品模組"でしょうか。
 今、原産国が中国だと日本人消費者は敬遠しますよね。それでわたしも困っているんです。も
 し、そのモジュール化か進むと、中国産という文字は食品から消えるかもしれません。生食用
 の吸物や野菜、肉類や魚は重くて、輸送代がばかになりませんが、スープやエキスの粉といっ
 た形にすれば、軽くなってどこへでも運べろし、儲かります。何よりも残留農薬検査が不要で
 しょう。粉末になってしまえば険査のやりようがないじやないですか、逆に日本の水をエキス
 にして、中国に輸入して第二の娃哈哈(中国最大のウォーター事業が大当たりした)にでもな
 りましょうか」

  周によると、食品モジュール化は食品加工技術次第では日中双方で想像できない食品スタイ
 ルを生み出すかもしれず、食品の工業化を超えて、食品ソフトウエアー化(さまざまな食品モ
 ジュールを買っておき、食べたいものをパソコン上で仮想調理し、必要な食材を特殊な鍋に入
 れて火を
通すと"マイめし"が完成する)が進む可能性があるという。あまり食べたくないもの
 だが、そういう時代が来るの
かもしれないとも思った。


                               進む「食品モジュール化」

  食品のモジュール化とは何か?そして中国からの輸入食品とどんな関係にあるのかについて、
 あらためて説明し
たい。
  食品もパソコンの部品のように、形も色も中身も、味も香りもみな複雑に進化して、細分化
 し、それらが絡み合っ
てひとつの食品としての品目を形成するようになった。パソコンは各国
 が得意とする部品を別の部品に変えるために、方々の国を行ったり来たりして、最後に組み立
 てる国
へ集まって完成品となる。
  
それと同じようにしてできた食品は、汚染リスクの高い原材料が見えにくく、あるいは汚染
 が発見されにくい形で
輸入される。姿を変幻自在に変え、いかに検査の目をくぐりぬけるかを
 意図した輸入加工食品が増えている。


  日本は中国から、2012年に1兆830億円もの農林水産物を輸入した,ひとり当たり、
 なんと8万6000円
の勘定だ。ただし、その一方で輸出もしている。その額、たったの40
 6億円。差し引きすれば1兆424億円の大
赤字だ。中国の中継貿易港である香港へは986
 億円、中
国本土の2倍以上に当たる金額を輸出している。香港の人目は約700万人だから、
 そんなに日本の農林水産物は必
要ないはずだ。日本から輸入された農林水産物の相当部分は、
 香港を経由して中国へ向かっていると見ていいだろ
う。それでも日本の大赤字に変わりはない。
 現在、貿易上の取り決めで、日本から中国へ輸出できる農産物はリンゴ、ナシ、コメ、緑茶に
 限られている。こんな制限があるため、日本産の果物や食品加工品、その他安全と思われてい
 る食品が、香港経由で中国本土の富裕層のもとへ届けられている。さらにもし中国との問でF
 TA(自由貿易協定)が実現するようなことになれば、中国へ本土の良品が届けられるに違い
 ない,
  
  といっても、今はまだFTAの交渉さえ人口で立ち止まったままの状態だから実現はかなり
 先のことだ。現状を念頭におくしかないのだが、ではわたし達は中国のどんなものを輸入し、
 食べているのだろうか?上位5位の品目はすでに紹介したので、こんどはもう少し細かく見て
 いくとしよう。


                                   食品の実態を探る

  ただ品目を並べるだけではわかりにくいので少し工夫をしてみる,生物の発展・分化の仕方
 によって分類する方法を真似てみるという手法だ。

  生物はその発展の程度によって、ドメイン、界、門、綱、目、科、属、補の8つに分類され
 る。たとえば、ヒト(学名、ホモ・サピエンス)は真核生物(ドメイン)、動物界(界)、脊
 索動物門(門)、哺乳綱(綱)、霊長目(目)、ヒト科(科)、ヒト属(属)、ヒト(腫)と
 分類され、最後の腫の段階ではじめて人間として現れる。では、この分け方をどうやって食品
 に応用したらいいのか。私が参考にしたのは、HSコード(日本では貿易統計や関税率表に使
 われている)という分類法だ。

   既述のように食品は進化しており、原材料から高度な加工を経由しているため、従来の分類
 法では現在の複雑化した需要に応えられなくなってきているのだ。厚労省が定めた「食品分類
 法」(ひとつの分類や食品群に似たようないくつかの農産物を含めて分類する)や、栄養成分、
 タンパク質、脂肪、炭水化物、ビタミンC、カロチン、無機質の6つの要素を基礎食品群とす
 る区分方法では、本質的な実態は見えにくい。しかし、この分類方法を使えば、絢爛豪華なお
 膳にのった上品そうに見える和食も、所詮は日本以外の産地から寄せ集められた「パーツ」を
 組み合わせたり、飾り付けたりして、もっともらしく"調理"したものであるという正体が見え
 てくるのだ。

  国際的に定められているHSコードという分類方法は、"
Harmonized Commodity DescriPtion
     and Coding Systcm
”(「商品の名称および分類についての統一システム」)の略で、世界税関
 機構という組織が世界に呼びかけて作ったシステムだ。
  鶏肉のくず、乾燥キクラゲ、砂糖の入った緑茶、砂糖の入らない茶、インスタント茶など、
 これ以上細かくできない段階まで商品を分類する方法である。食品だけでなく、工業製品や天
 然資源などもこの方法で分類されている。日本から輸出したり輸入された商品の種類・金額・
 量を記した「貿秘統計」はこの分類方法によるものだ。

  日本が中国から輸入している食品は、以前は収穫したままの野菜やとったばかりの魚など、
 未加工の形が多かったので品目数は少なかったが、今やその数はどんどん増えている。
  これにはWTO(世界貿易機関)やFTAなど2国問の貿M自由化交渉に際して、関税ルー
 ルを定めるために品目名を統一する必要があるという背景もある。


                                食品モジュール表の考案

  この輸入食品の品目を生物分類法を利用して分類すると、中国からの輸入食品がいかにモジ
 ュール化しているかという実態がわかりやすい。2012年に中国から輸入した食品群を例に
  「輸入中国食品モジュール表」
を作ってみたのが表3だ。

 

  右へ行くほど元の形から遠ざかり、ついには形が消えてしまう食品になることを示している。
 たとえば収穫したすぐの段階では「門」に分類されるホウレンソウ(野菜)も、「綱」の段階
 に移ると加工され乾燥ホウレンソウや冷凍ホウレンソウとなって日本にやって来る。日本では、
 湯に浸けられたり解凍されたりして調理される前の段階の「目」の分順に移る。その後、「科
 」の段階に移り、味付けされたり油揚げやゴマなどと混ぜられ弁当のおかずやスーパーの惣菜
 コーナーに並ぶ。さらには、味噌汁やスープの具、あるいは木っ瑞微塵に切り刻まれて他の材
 料や調味料と混合され野菜粉末などに姿を変える。最後の姿は「種」に移ることだ。そこでは、
 機械で絞り上げられ、あるいは乾燥させられて野菜エキスヘと姿を変える。

  ホウレンソウに限らず、あらゆる食品は形を変え続け、「種」の段階になると元が野菜だっ
 たのか海藻だったのか、匂いでも嗅いでみるか、極端なことをいえばDNA鑑定でもしない限
 り、区別できないくらいに変化する。
  現代の農林畜水産物のほとんどがこのようにモジュール化されている。このうちの「綱]あ
 るいは「目」の段階あたりまでは、以前は家庭で加エされ、食卓を飾ったものばかりだ。それ
 がどうしたことか、家庭ではこうした調理はぱったりとされなくなり、ビニールや銀色の袋に
 入った加工食品が幅を利かすようになっていった。

  とくにスープやエキスとなると、食品モジュールの極限にたどり看いたようなもので、原材
 料は不明、産地も不明、謎だらけのつかまえどころのない食品となる。これらは日本でも中国
 でも製造され、両国で使用されている。中国に進出した日系食品メーカーが現地で製造し、日
 本へ輸出する食品に使ったり、原液を日本へ輸出したりするケースもある。それを輸入した日
 本の食品メーカーはカップラーメンやスープ、さまざまな調理の味付け、香り付けのための液
 体として利用している。また中国の食品メーカーが日本へ輸出するケースもある。

                                             高橋五郎 箸 『日中食品汚染』


ということは、トレーサビリティ(追証)が難しいということになるが、これは、技術者や工学者、起業家にとっ
ては、大きなチャンスとなる。これについては残件扱いとしておこう。

                                                       (この項つづく)

 ● 今夜の一曲

 

   敷石道の曲がり角 その敷石を蹴ってみても

   まだ来ない まだ来ない

   あなたのために抱いてきたバラ

   その花びらをみんなみんな ホラむしっちやって

   なんだか辛くなっちやった

   帰っちやおうかな ……ああ 帰っちやうから


                                                        小椋佳 『帰っちやおうかな』




  私の初期の特別含みのない他愛ない、「待ち人来たらず」を悔しがる歌である。
  サミュエル・ベケットの不条理劇『コドーを待ちながら』でもゴドーは結局現れないのであ
 るが、この歌をそんなに難しく考えていただく必要もない。別役実作『やってきたゴドー』と
 いう芝居を観たが、そもそも日本人はゴドーなど待つ心も歴史もないから、やってきてさえそ
 れが何なのか分からない、あるいは関心を示さない、という事態が良く描かれていると私は解
 釈した。私の場合、ここで歌おうとした待ち人なんてそもそも居ないのだと分かるまで、大分
 時間がかかってしまったのだけれど……。この歌を創ったころ、色紙に「待つということは本
 当は素晴らしいことなんです、それは何かが始まろうとしていることなんです」などと、「帰
 っちゃおうかな」の歌とは逆主張の無責任なことを書いていたことを思い出す。言葉は言い回
 し次第でさまざまな響き方をするものである。




 
 「なるようになりますよ」という言い方と「なるようにしかなりませんよ」という言い方。こ
 の二つは結局まったく同じことを言っているのだが、「なるようになりますよ」はポジティブ
 な響きがあるのに、「なるようにしかなりませんよ」はどちらかというと捨て鉢なネガティブ
 な響きで伝わる。妙なものである。
 
  歳を取って、ひとつの同じ言葉を、若いころとはまったく異なる響きで受け止めていると自
 覚される体験をしている。その言葉とは「頂事ないし些事」のことである。「些事」とは辞書
 には「ささいなこと、つまらないこと」とある。些事の反対語は何だろう。正確な反対語ほと
 りあえず見当たらないが、事件とか大事とかがそれに当たるだろうか。些事すなわち朝起きて
 寝るまで、起きることも寝ることも含め、歯を磨き顔を洗い食事をし、その他、日々ルーティ
 ンとしての洗濯やら掃除やら鉢への水やりやらちょっとした日用品の買い物やら。そうしたも
 のはすべて若い日にはできればやらずに済ませたいものであったし、辞書にある通りつまらな
 いことであった。そんなことだけで一日が過ぎてしまうと、その日は無駄に過ぎた一日という
 位置づけたった。歳を取ってみたら、近年は、そうした些事を平穏にひとつひとつやっている
 自分が結構愛しくて、生きている実感がもてて、まさに些事こそが大事になっている。不思議
 な変化ではある。これこそ老化・老衰の兆候だろうか。
 
  生前葬などをやってしまって、その後生き延びていたら何をするんだと尋ねられる。そこで
 言う「何」とは、つまり「事件」とか「大事」のことなのだろうが、その意味でなら、何もし
 なくてもいいではないかといまは思う。隠遁生活は私にはできないだろうが、俗に言う「楽隠
 居」であればそれで結構ではないかと思う昨今ではある。また嘘をつくことになるかもしれな
 いが……。


                           小椋 佳 箸 『前葬コンサート』

 


ここで、わたしは「また嘘をつくことになるかもしれないが……。」というフレーズが引っかかった。そこで少し
「嘘」について考えてみた。

米国の哲学者で『Love and Lie(愛と嘘)』の著者でもあるクランシー・マーティン(Clancy Martin
は常に正直でいるなどとんでもない。良好な関係を築くためにはウソは必要不可欠だと言っている
という。ある研究によると、通常の会話において、私たちは10分毎に平均で2、3回ウソをついて
いるという("Good Lovers Lie", The New York Times 2005.02.07)。これを翻訳した白石里美は、
米国は、日本のような追体験文化(哲学者 三浦つとむ)がない国だと思われているが「実は大変
なことがあってね」などと、長々と自分の話をしないのが暗黙のルールになっています、相手の気
持ちや都合を考えず、自分の感情を表すよりも、負の感情をコントロールして常に穏やかでいる方
が品格があると考えられているようです。他人の気持ちを貶しめてまで自分を良く見せるためのウ
ソは問題外ですが、相手を傷つけず、人間関係を円滑にするために、ネガティブな感情を取り繕う
......。そんなウソを上手につくのは大人のたしなみと言えそうですと結んでいる(正直でいるよ
りウソをついた方が人間関係はうまくいく?」cafeglobe 2015.02.12)。

 嘘は犯罪から発する音無しの屁だ。――中略――嘘は酒とおなじようにだんだんと適量がふえ
 て来る。次第次第に濃い嘘を吐いていって、切磋琢磨され、ようやく真実の光を放つ。これは
 私ひとりの場合に限ったことではないようだ。人間万事嘘は誠。ふとその言葉がいまはじめて
 皮膚にべっとりくっついて思い出され、苦笑した。ああ、これは滑稽の頂点である。

                                           太宰 治 『晩年』 


また、太宰は、「太宰治全集8」ちくま文庫、筑摩書房 」で『嘘』(インターネットの図書館、
空文庫(http://www.aozora.gr.jp/
)を書いている。





それでは、嘘をつく機構を脳科学的側面から看るとどうなるのだろうか。『「サイコパス」の脳内構
造はこうなっている』(内藤 順, 東洋経済オンライン 2015.02.14)で  ジェームス・ファロン箸
『サイコパス・インサイド―ある神経科学者の脳の謎への旅』の紹介でとして次のように述べる。
「山積されたスキャン写真の最後に読影した脳スキャン画像はひどく奇妙なものであった。それま
で私が記載してきたスキャン画像の中でもまさしくもっとも異常なものに思えた。この画像のかわ
いそうな持ち主はサイコパスであるか、少なくともこれとかなり一致する画像特徴を有しているこ
とを示していた。このスキャン画像の主が誰かに気づいた時に、なにかの間違いであろうと思いこ
まないではいられなかった……。しかし間違いではなかった。あろうことか、このスキャン画像の
持ち主とはなんと私(本書の著者、神経科学者のジェームズ・ファロン)であった」(原書「解説
より」)。


「人間の生物学的要因は,その行動にどの程度影響を与えるのであろうか?」

 サイコパスの定義とは今日の科学の進展をもってしても、いまだ不確かなものである。一般的
 に「精神病質」と表されるサイコパスの特徴は「平板な感情の動き」に代表される対人関係に
 おける共感性の欠如である。映画『羊たちの沈黙』『ハンニバル』に登場するレクター教授の
 ような、古典的なサイコパス像を思い出される方も多いだろう。
 

  だが決して凶悪な殺人犯だけを指すわけではなく、人を思い通りに操縦しようとしたり、ウソ
 に長け、口がうまく、愛嬌たっぷりで、人の気持ちを引きつけたりといった特徴も含むものと
 される。

                    -中略-

 そもそもサイコパスと言われる人達の脳には、いったいどのような特徴が見られるのか。これ
 を著者は、自身の画像も使いながら説明していく。スキャン画像を眺めることで明らかになる
 のは、健常な人の脳と比べた場合に眼窩皮質と扁桃体周囲の活動が低下しているということで
 あった。この領域の活動が低下すれば、人は衝動的になるとされ、他者の感情を共有すること
 に大きな障害を有する可能性が高い。

 つまりサイコパスは、情動にかかわる認知(=熱い認知)のために使用される<前頭前皮質>
 腹側システムの機能に乏しいが、理性的な認知(=冷たい認知)のための<前頭前皮質>背側
  システムは活発なままである。そのため良心の呵責や共感を伴わず、冷静な計画の元に他人を
  操ることができるのだ。

                    -中略-

 彼は発育過程で環境と遺伝子とは数多くの仕方で相互に作用し合う、いわゆるエピジェネティ
 クスに注目する。たとえば三世代以上に渡り幼児のうちに社会的暴力を経験していると、好戦
 的な戦士文化が形成されてしまうため、暴力的になる可能性が高いという。いわゆる戦士の遺
 伝子と呼ばれるものだ。
 
 これらの研究結果を元に、著者は「三脚スツール」という名の理論を確立していく。サイコパ
 スの要因
となる3本の脚とは、①前頭前野皮質眼窩部と側頭葉前部、扁桃体の異常なほどの機
 能低下、②いくつかの遺伝子のハイリスクな変異体、③ 幼少期早期の精神的、身体的、ある
 いは性的虐待、以上である。それは著者自身の人生との間にも、十分に折り合いをつけられる
 ものであった。


しかし、この考え方に、双極性障害を患っているのではないかという指摘を医師から受け、やがて
著者は、自分自身が向社会的サイコパスであることを受け入れるという逆転が解説されるから
やゝ
こしい展開を見せるが、「第九章 サイコパスの脳を変えることはできるのか?」「第十章なぜサ
イコパスは存在しているのか?」としてサイコパスをめぐる科学の書として集約され、そして自由
への意志を語った希望の書となっていると解説されている。

さて、話はひろがった。嘘はさまだまだが、どのような嘘であろうと利害関係が絡めばその結果責
任が問われるが、それ以外は寛容さに委ねられ許されるというのが今夜の落ちである。
 

  犬の生存戦略にはかなわない?!

 

● 今夜の一品 デジタル認証ジッパー

 


昨夜から、ちょっとした波紋が生じている。彼女が短歌を書き始めだしたからだ。英会話の勉強だ
けでも迷惑なのに?書いたものを披露し感想を求めてくる。そうかと思うと、もうすでに、作品を
商業新聞社に投稿したともいうのだ。彼女はカメラ頭脳型(ずば抜けた記憶力?で数学頭の持ち主)
だが、アート頭脳型ではない。それで?秘書なら有能だったろうが、センスがない。作業中にあれ
これ聴いてくることが増えるだろうが、これは諦めるしかない。




● 引き寄せられる混沌 軍事紛争に加担する愚

それにしても、急進的なイスラム教(原理主義)信者によるテロが頻発している。どうやらパンドラ
の箱を開けてしまい、「希望」が残らず「千年戦争」が箱に残った感がする。それでは日本人はどう
すればよいのか? 答えは簡単だ。人道支援の基本原則――(1)人道原則、(2)公平原則、(3)中
立原則、(4)独立原則の4つ――を堅持することだ。

 

 

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三浦農園の玉レタス

2015年02月15日 | 新弥生時代

 

 

 



              橿鳥かけす鳴き 老いたオークの 存在を 山駈ける風 知らせ過ぎ去る 

 

 

● 人はなぜふるえるのか 本態性振戦考

人間は身体のある部分を動かす時、その周りの筋肉を収縮させているが、一定の位置にとどめると、筋肉が力を
出し合い拮抗する。これは筋肉同士が綱引きをしているような状態で、この時目に見えないレベルの細かなふる
えが起こっている。年配の方がふるえやすくなるのは、この筋肉の綱引きのバランスの乱れが原因という(TB
Sテレビ「ゲンキの時間」2015.02.15)。また意識して緊張することで起こるふるえもともいう。対策には、白
子を食べると緊張を和らげてくれる核酸という物質が豊富に含まれているためだ。さらに深呼吸も良いと。横隔
膜には副交感神経がきくため、お腹をふくらませて横隔膜を動かすとリラックスできる。また開き直りも有効だ
とも解説している。緊張の他にも不安や恐怖、怒りや寒いときなどのふるえは生理的で、アドレナリンが大きく
関係し、アドレナリンが脳が分泌されるからだが、どうして気になるのか?通販で「マイ3Dプリンター」や「
スカイライダー・ドローン」を組み立てだして、手元が震えるので、アルコール中毒症?ではないかと心配して
いるのだ。といっても、拡大鏡ハットを着用し、M3ボルトナット装着などの細かな作業を行う時だけで、それ
以外は支障ない(視力老化によることは否定しないが)。

    

だから、難病のパーキンソン病については恐れていないのだが、「本態性振戦」という症例という目新しい言葉
が気になる。
本態性とは、原因不明という意味。早い人は40代で発症し70代以上になると増加する傾向にあ
り、発症の詳しい理由は
わかっていない。治療法はドリルで頭蓋骨に穴をあけ、電極を挿入して刺激を与えるが、
高齢者の負担が大きく、超音波収束装置で、MRIを見ながら病巣に超音波で、脳に過剰に反応する部分のみを
集中し刺激治療する治療法が開発させている。予防策のポイントは筋肉をつけ身体を動かす神経を鍛える――野
球やテニスなどの球技が有効だとという。

  超音波式脳深部刺激療法「エクサブレート・ニューロ」

 

 

 
● 三浦農園の玉レタス

JAの玉レタスを見せ彼女が、生産者の名前を見せながら、Mさんがつくっているのようねと尋ねる。なるほど
10数年前な
るだろうか、かって同町内で住んでおられたが大手、電機器機メーカを早期退職し、同じ彦根市内
で家族で農作物の自営販売しておられ、たまに立派な作物を戴いたことがあった、盆栽生産や彦根でも指折りの
琵琶の師範でもある方だが、温和しい性格だが心のしっかりした几帳面な方だから商品も立派なものだと感心す
る。こういった新鮮な野菜などは「地消地産」(10キ平方キロメートル以内)の地元メーカに限るねと話し返
した。因みに、税込みで1個160円だった。但し、無農薬や有機野菜かどうかの確認はできていないがたぶん
農協の規定に定めてあるのだろうが、最低限の低農薬?は守られているのだろうと思った。最も、人工光型植物
工場での結球レタスはどのぐらいだろうと考えたがこれは残件扱いとした。

● 地域(郷杜)興しのトリュフ栽培構想は何処に?

残件扱いといえば、4年前、地域おこしとしてトリュフの栽培販売と、「オークの里」づくりを構想していた
が(『オークと緑のダム』2010.12.06)、2日前から中間総括しなきゃと考えまとめの作業に入った。結論的を
先に言うと、トリュフ(西洋ショウロウ)は、芳香きのこ類であり、人工的な栽培は可能。海外では、既に半人
工的大規模農園方式(温室)で生産されていて、主要生産国であるフランス・イタリア・スペイン3カ国の合計
年間生産量は、19世紀には推計1000─1600トンだったが、現在は100トン前後に落ち込んでいるが
これの約50倍程度の潜在的な生産量が見込まれる。但し、自然農法では地球温暖化で生産は寧ろ逓減していく
だろうと危ぶまれている――トリュフの需給ひっ迫を背景に、卸売業者は一部の不足分を中国からの輸入で賄お
うとしている。中国産はヨーロッパ産の黒トリュフに外見は似ているものの、芳香が弱く、フランス産に比べて
価格は非常に安い。欧州では中国産トリュフに対する厳しい意見もあり、トリュフ生産者団体は欧州連合(EU)
に対し、輸入を禁止するよう呼び掛けている。
生産者側は、供給不足の問題を科学の力で解決しようとしており、
候の変化に適応させたトリュフによって収穫量を増やす方法を研究者らと模索している。これまでのところ、
干ばつや霜か
らトリュフを守る方法などが中心に研究されているという。しかし、栽培開始から実際のトリュフ
生産までには約10年が必要とされ、こうした研究には時間がかかることも事実。2007年にはフランス全体
で、トリュフ栽培のために合計30万本の樹木が植えられたが、実際にトリュフができるようになるのは、その
うちの10─15%に過ぎないとみられるというが
(ロイター「フランス産黒トリュフ、地球温暖化でますます
入手困難に」2008.05.19)、生物工学的手法と環境制御工学の進化により、高度な栽培加工技術で問題は解決さ
れるだろう。と考えている。




下図は、そのトリュフあるいはキノコ類の人工栽培と芳香成分の製造法に関する新規考案事例ごく一部を掲示し
たものである。問題(または課題)は、これを人工栽培する環境構築と(上図の「オーク里山構想」というプラ
ットフォーム)と販売路の確保・安定化というソフトウエア(システムとしてはよりハードなソフトになるが)
と販売商品(医療品、トリュフ料理、作用食品、雑貨品、関連サービス)のコンテンツ開発ということになる。

特開平10-127164|白トリュフの栽培方法


特開2012-090625|キノコ栽培用培地組成物



特開2002-212588 白トリュフ香気成分の組成物ならびに製造方法

 トリフ/トリュフ/セイヨウショウロ(「図解|生活百科事典」)

 創作料理事典

  ● ポルチーニと黒トリュフのキタッラ

  西洋松露とはなにか

この中間総括はネット検索によるプロジェクトのイメージ獲得が主な目標で、プロジェクトファイナンス作成ま
ではほど遠
いものであるが、「イメージ形成」の有無は決定的に重要な作業である。プラットフォーム、コンテ
ンツ、ソフト&ハードの検討は時間勝負ということになる。オークのなる杜で木質バイオマスを利用した様々な
産出物、産出エネルギー、産出サービスの構想するための準備作業が次に目標となる。

                                               以上 

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モーニングをジュブリルタン

2015年02月14日 | びわこ環境

 

 

● モーニングをジュブリルタン

最近は、家での朝食が中心。近くの小川珈琲でモーニングを取るこ頻度も少なくなっている。そこで、月に一度
の頻度で松原まで足をのばし、「ジュブリタン」でモーニング(平日]9:00~11:00[土日祝]8:00~11:00)
を取ることに決めている。ここでのお勧めはパニーニ――パニーノ (Panino) は、パンで具材を挟んだイタリア
料理の軽食
。パニーノは単数形で、複数形はパニーニ (panini) ――セット(税込650円)だ。ところで、イタリ
ア語ではハンバーガー、ホットドッグも含むパンで具材を挟んだ軽食のサンドイッチにあたるが、パンを薄く切
り間に具材を挟んだ物はトラメッツィーノ(tramezzino)と区別し、狭義ではサンドイッチやハンバーガーを除き
チャバッタやロゼッタなど伝統的なイタリアのパンに具材を挟むものをさすというからややこしい。

具材は、トマト、モッツァレッラなどのチーズ、ハムやローストビーフなどの肉製品の薄切り、レタスなどの野
菜を組み合わせ、マヨネーズ、ケチャップ、マスタードは基本的に用いない。ホットサンドメーカーを使って表
面をグリルしたパニーノは、イタリアでは俗にトースト(toast)と呼ばれる。食パンの一種パーネ・イン・カッ
セッタ(pane in cassetta)の薄切りが用いられ、プロシュットとプロセスチーズをはさむことが多いとか。

  ● お魚のココット


ところで今日のランチは、菜花とブロッコリーと蕪野菜スープに柚子ピューレの香りつけの鯛とムール貝の「お
魚のココット
」を戴いたが、あっさりとした魚介をベースとした野菜スープが暖かく大変美味しいもであったが、
雪が降っていたら松原で"海雪"、いや"湖雪"を背景に写真を撮ろうと言って出てきたものの天気が回復に向かい
それは諦めることにし、スペイン製の石窯やオーブンで焼き上げらたパンを買ってそのまま帰ってきた。

 

 
● 異常気象とサバイバル術 Ⅰ

横浜地方気象台は13日午後3時42分、厚木市内で竜巻とみられる激しい突風が発生したという目撃情報があ
るとして
神奈川県西部に竜巻注意情報を発表。雷や急な風の変化など積乱雲が近づく兆しがある場合には、頑丈
な建物内に移
動するなど安全確保に努めるよう呼びかけた。 神奈川県警によると、午後5時現在、けが人の情
報はない(「神奈川新聞」)。「初めて死ぬかと思った。すげぇ音がしてドア開けたら竜巻来てんだもん」と、
ツイッターには周辺住民らによる緊迫した報告が多数寄せられ、投稿された写真や動画からは、竜巻の巨大さが
伝わってくる。竜巻の発生により、「電柱で火花が出ている」「屋根や看板が飛んだ」などの通報が厚木署や厚
木市消防に相次いだという(「ライブドアニュース」)。

2月に太平洋側でこのような竜巻、それも都心部で発生するのは希だ(わたしの記憶にはない)。これは明らか
に人為的
な地球温暖化によるもので、今後も予期せぬような局所的で甚大な気象変動が頻発すると予想している。

例えば竜巻が発生したときに、建物のどこにいればいいのか。どうすれば安全だと確認できるのか。ホワイトア
ウトした中で進まざるをえない場合はどうするのか。どんなに気をつけて暮らしていても、夏のゲリラ豪雨、大
雨、大雪、雪崩など、自然災害に遭遇することは多くある。気象の変化にともなって、従来の常識では対応でき
ない災害が増えているだろう。昨日までは無事だったけれども、では次も無事にしのげるだろうか。トーマス・
M・コスティジェン著 『世界のどこでも生き残る 異常気象サバイバル術 』(2月23日発売予定)――ゲリラ
豪雨や台風、洪水、雪崩、酷暑や厳冬など、頻発する異常気象や自然災害。その仕組みを理解し、日頃の備え、
災害に遭遇したときの対処法、災害からの復旧といった必須情報などを実例を交えて解説。各災害への備えに関
するチェックリストや、家族の一員であるペットを守るための対策も随所に紹介。一家に一冊常備しておく必携
のサバイバルガイドだという。

 
【目次】

PART1 雨による災害

 CHAPTER 1 雷雨
 CHAPTER 2 洪水
 CHAPTER 3 ハリケーン・台風
 CHAPTER 4 竜巻

PART2 乾燥による災害

 CHAPTER 5 干ばつ
 CHAPTER 6 山火事

PART3 猛暑による災害

 CHAPTER 7 気温上昇
 CHAPTER 8 熱波

PART4 寒さ・雪による災害

 CHAPTER 9 寒波
 CHAPTER 10 ブリザード

 

 

● マグロ大量死原因分からず!

葛西臨海水族園の大型水槽で昨年12月以降、展示中の個体の死亡が続いた問題。同11月にはクロマグロ、ス
マ、ハガツオの計159匹がいたが、先月26日にはクロマグロ3匹を残すのみとなった。死因はまだ明らかに
なっていないが、これまでに死んだマグロ2匹とスマ1匹からウイルスを検出。同園は病原性かどうかも含め、
ウイルスの特定を進めているが、何のウイルスかわかっていない上に、ウイルスと大量死との因果関係もわかっ
ていない。大量死の波紋は、食卓に上る機会が増えている養殖マグロにも及んでいる。これは、養殖の現場でも、
将来、水族園と同じ大量死が起きかねないと危惧しているためだ。葛西臨海水族園は、クロマグロ飼育のパイオ
アとして知られ、16年前に世界で初めてクロマグロの水槽での産卵に成功している(「NHKニュース」)。

水槽の水は、水族園の沖合、およそ300キロメートルの八丈島付近の水を輸送して使用。東京湾の海水に比べ
本来の生育環境に近く、病気の原因となる細菌などが少ない。さらに、水は24時間循環させ、不純物や細菌を
取り除くため、2つのフィルターとオゾンでの殺菌処理を施している。
詳細な検査の結果、水質に異常はみられ
ず、次に水槽を取り巻く環境の影響――クロマグロは周りの環境に敏感で音や光が変化すると、暴れて死に至る

ことがある――を調査。隣の水槽で行われていた工事の音が影響しているのではないかと考え、工事の時間を変
更したり、さらに、明るさの変化をなくすため、照明も24時間つけっぱなしにしたがマグロは死に続ける。水
質検査ではわからない毒やウイルスの可能性も疑ったが、同じ水槽にタイやウミタナゴの仲間を入れ比較観察し
たが魚には変化はなかったとのこと。

それ以外で考えられる原因としては「地震の前兆」「エサのベータ崩壊するストロンチウム90汚染が指摘
され
ている(上表の上を、クリック)。特に後者は、「背骨の骨折が他の2つの記事には記載されていません。
ストレスで背骨の骨折が起きるはずもありません。そもそも、回遊魚が背骨を骨折することが今まであったので
しょうか。一番容易に考えられるのは、ストロンチウムが骨にたまって、骨折が起きてしまったというストーリ
ーでしょう。事実人間でも、骨折の増加が見られていますから、魚に出てきてもなんの不思議もありません」
(「1140.東京の水族館で、マグロ大量死(院長の独り言)」2015.01.17)という。

 

そもそも、このストロンチウム90による汚染は、 1954年にビキニ環礁で行われた水爆実験では多量の放射能が
放出され、130キロメートル 以上離れた場所で操業していた第五福竜丸が死の灰を浴び、乗組員や水揚げされた
マグロから検出されたストロンチウム90が脚光を浴びた。その特徴は、ストロンチウムはカルシウムと化学的性
質が類似するため、動物体内では摂取されると一部は排泄されるものの大部分が骨に取り込まれて体内で90Srと
その娘核種の90Yがβ線を放出し続ける。崩壊時にγ線は殆ど放出しないが、90Yの崩壊において極一部、90Zrの
励起状態の核種である1.761 MeV順位(スピン0+, 0.01%)および2.186 MeV順位(スピン2+, 1.4×10-6%)への崩
壊に進み、半減期が比較的長いため放射線を長期間に亘って出し続けることになる。特に内部被曝による骨腫瘍
の危険性がある。また、放射性ストロンチウムの分析が煩雑で難しい点も指摘されている(上表の上クリック)。
これが原因とすれば、福島原発事故の影響として話題集中していくだろう。

 

 

  ● 今夜の一曲

 

   冬がやって来る往iの佐も変わる粉雪舞う

   君にせかされて手をつないでみても

   何か足リなくてそんな風が続<うちにいつの聞にこんな

   白い吐息と街の佐賀を抱いて歩けずに君を不安にさせた 

   けれど

   冬の寒さ味方につけて今日から歩けるよ

   街のとこからか聖なる鐘の音が響きわたる


   今年は二人でキャレドルの光に愛を映そう



   一人でいた冬はいつもさみしくて


   今日はそばに君というぬくもりが


   海に降ろ雪の様に消えてなくなった恋もある


   いつか消えてしまうのならばあなたの心で溶かして


   空に浮かぶ雲の行<末は見えない


   誰にも風のみそ知ること

                                    
                                                                                                『海に降る雪』      

                                        歌      コブクロ    
                                          作詞/作曲 小渕健太郎                                                                                                                                  

 

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