極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

税金の世界史論①

2021年11月18日 | 世界歴史回廊



彦根藩二代当主である井伊直孝公をお寺の門前で手招き雷雨から救っ
たと伝えられる "招き猫と、井伊軍団のシンボルとも言える赤備え。
(戦国時代の軍団編成の一種で、あらゆる武具を朱塗りにした部隊編
のこと)の兜(かぶと)を合体させて生まれたキャラクタ。愛称「
こにゃん
」 






〇警戒レベルアップエリア
なし
〇警戒レベルダウンエリア
北海道道北・道東:警戒エリア→注意エリア
北海道道央・道南・青森県:警戒エリア→注意エリア

〇警戒エリア
(数週間にわたり多くのデータに異常変動が見られる)
東北地方
関東地方・山梨県
北信越地方
南西諸島

〇注意エリア
(数週間にわたり複数のデータに異常変動が見られる)

北海道道北・道東
北海道道央・道南・青森県
東海地方
九州南部

〇今週の注目ポイント
・ピンポイント予測:
東北地方:新規のピンポイント予測を発出しました。(ピンポイント
予測参照)
・今週の4cm以上の週間高さ変動は17点でした。特に鹿児島県と宮崎
県に6点集中しています。
・今週は全国的に沈降しています。沈降は地震につながる可能性があ
りますので注意を怠らないでください。前週と比べて急激に1.0cm以上
隆起した点は8点ありました。1.0cm以上沈降した点は3点ありました。
・今週の水平変動は、全国的に東向きの変動が非常に活発に現れてい
ます。

〇今週の使用データ
・R5速報解データ(11月7日~11月13日):週間高さ変動、水平変動図、
前週と比較して1cm以上の隆起沈降に使用。
・F5最終解データ(10月17日~10月23日):隆起沈降図に使用。


以下の予測を発出しました。警戒を怠らないでください。
「東北地方の陸域または海域でM6.0±0.5の地震が12月18日頃までに
起きる可能性があります。」  福島県沖で小地震が起きています。
4cm以上の週間高さ変動が秋田県の「鳥海」に現れました。
東北地方は沈降しています。秋田県と山形県の沈降エリアは拡大しま
した。前週と比べて1.0cm以上急激に隆起した点が山形県の「朝日」に
現れました。
水平変動はエリア全域に概ね東方向の変動が非常に活発に現れていま
す。北側は東南東方向の水平変動、南側は東方向の水平変動がそれぞ
れ非常に活発です。村山のPv観測点に異常が出ています。 


戒エリア:関東地方・山梨県 (東京都、神奈川県、茨城県、栃木
県、群馬県、埼玉県、千葉県、山梨県)
以下の予測が発出されています。警戒を怠らないでください。
「千葉県東方沖または茨城県沖でM6.0±0.5の地震が11月20日頃までに
起きる可能性があります。」
神奈川県西部を震源とする震度3の地震が起きました。
茨城県沖、千葉県北西部で小地震が起きています。
4cm以上の週間高さ変動が神奈川県の「湯河原A」、群馬県の「南牧」
に現れました。このエリアは沈降しています。千葉県中央部の沈降と
茨城県南部の沈降エリアが広がりました。また、三浦半島も沈降が進
んでいます。茨城県の「北茨城」と「下館」との高さの差は6.6cmと
広がりました。 6.0cmを超えるとその周辺にひずみが溜まり地震が起
こる可能性があります。水平変動は東方向に非常に活発に現れていま
す。伊豆諸島の水平変動はややバラバラな方向に変動しております。
小笠原諸島は「父島A」は南方向、「母島」には東北東方向の向きの違
う大きな水平変動が現れています。

警戒エリア:南西諸島(沖縄県・鹿児島県奄美地方)
先週警戒エリアにランクアップ致しましたが、宮古島近海を震源とす
る震度3、M6.5の地震が起きました。震度は3でしたが地震の規模を示
すマグニチュードは6.5と大きな地震でした。このエリアは沈降して
います。南東方向の大きな水平変動が多数現れています。M6.5の地震
の余震も含め、大きな地震に警戒を怠らないでください。


    

 
 
【ポストエネルギー革命序論 370: アフターコロナ時代 180】
現代社会のリスク、エネルギー以外も「分散時代」
 環境リスク本位制時代を切り拓く
環境リスク本位制時代を切り開く  

温度差及び近似ゼロ温度発電モジュ-ル事業
温度差ゼロ発電という非常識技術が続々 太陽電池超えの可能性も
▶2021.7.13 日経クロステック(xTECH)

一見、熱力学に反するような、温度差不要の熱で発電する技術が続々
と登場している。環境との温度差がゼロの室温で発電する素子も複数
ある。多くは、理論よりも先に、発電する素子がでてきた。素子の出
力はまだ低いが、潜在的には太陽電池を超える可能性がある。熱はど
こにでもあるだけに実用化されれば社会的インパクトは非常に大きい.
温度差なしの熱発電、特に室温での発電は一見、永久機関に見える。
研究者も永久機関の存在を否定する熱力学第2法則との関係を完全に
説明できているわけではない。これら温度差なしの熱発電技術は、従
来の熱力学の想定を一部超えていると思われる部分があり、理論的に
肯定も否定もできないグレーゾーンになっている。確かなのは、温度
差によらない熱で発電している素子が既にあり、これらの新技術が実
用化されれば、その社会的インパクトは非常に大きい。日本や世界の
エネルギー問題を解決する可能性さえあとされる。

□「冷源」がないと使えない
これまでも熱で発電する技術はあった。熱電変換素子ともいわれる半
導体技術だ(図1)。具体的には、n型とp型の半導体を並べてそこに
温度差を与えると、半導体中のキャリアが熱で拡散され、それが基で
起電力が生まれるという技術で、熱力学上の疑念はまったくない。最
近はエネルギー変換効率が10%を超えている研究開発の例も出てきて
いる。

❏ 特開2021-111664 熱電変換素子及びその製造方法並びに熱電変換
デバイス(事例1)
次世代型太陽光発電モジュール及びそれを組み込んだ建材、備品・什
器などの実用品の高品位化(①30%超の高効率、②20年超の長寿命・
安定、③軽・薄・大・安、④環境負荷軽減(アップサイクル・サーキ
ュラルブル)などの要件を満たし実用段階に入ったことを受け、温度
差及び近似零発電素子あるいはモジュール事業開発をターゲットとし
て特集。


まず、金属などの電気伝導性の電極を介してp型熱電材料とn型熱電
材料とを電気的に接合したpn接合対を形成することにより作製でき
る。この熱電変換素子は、接合対間に温度差を与えることでゼーベッ
ク効果に基づく熱起電力を発生する素子である。熱電変換素子を応用
した熱電発電は、熱エネルギーを直接電力に変換することができるた
め可動部を必要とせず、体温で作動する腕時計や僻地用電源、宇宙用
電源に用いられる。一般的な熱電変換素子では、p型熱電材料及びn
型熱電材料は層状であるため高温部と低温部を距離的に離した熱電変
換デバイスの作製は難しい。



カーボンナノチューブを導電性材料とするドーパントを含むカーボン
ナノチューブからなる熱電変換材料が提案されている。例えば、特許
文献(特開2016-219513)には、ドーパントの吸着量を向上させるため
カーボンナノチューブ及びドーパントを亜臨界流体中又は超臨界流体
中において混錬して分散する熱電変換材料が提案されている。しかし、
熱電変換材料は不織布状としたものであって、高温部と低温部を距離
的に離した熱電変換デバイスについての開示はない。特許文献(特開
2013-098299)には、導電性高分子、カーボンナノチューブ、及びオニ
ウム塩化合物を含有して、導電率異方性が1.5~10である熱電変
換材料が提案されている。オニウム塩化合物の共存下において特定の
外部エネルギーを付与すると、オニウム塩化合物が酸を発生して優れ
たドーパントとして機能するためである。しかし、熱電変換材料は積
層体としたものであって、高温部と低温部を距離的に離した熱電変換
デバイスについての開示はない。特許文献(特開2013-098299)には、
クロロスルホン酸にカーボンナノチューブを溶解した紡糸ドープから
低抵抗率を有するカーボンナノチューブ繊維を湿式紡糸して製造する
方法が提案されている。しかし、高温部と低温部を距離的に離した熱
電変換材料としての開示はない。導電性カーボンナノチューブからな
る繊維にホール濃度が相対的に低い領域(以下、「p型熱電変換部」
という。)とホール濃度が相対的高い領域(以下、「p+型熱電変換
部」という。)からなる接合対(以下、「pp+接合対」という。)
を形成することにより、作製が簡単で長さに制約がない熱電変換素子、
これを用いた熱電変換デバイスを提供する。下図3のごとく、ホール
濃度が相対的に低い領域であるp型熱電変換部と前記p型熱電変換部
と電気的に接続されたホール濃度が相対的高い領域であるp+型熱電
変換部で構成されるホールドープ化合物を含む導電性カーボンナノチ
ューブ繊維からなる熱電変換素子であって、前記p型熱電変換部及び
p+型熱電交換部は、前記ホールドープ化合物を含むカーボンナノチ
ューブ繊維の一部に導電性被膜を形成した後に通電処理を行い、ホー
ルドープ化合物を含むカーボンナノチューブ繊維内のホール密度に異
方性を付与して形成したものであることを特徴とするホールドープ化
合物を含む導電性カーボンナノチューブ繊維からなる熱電変換素子で
ある。また、熱電変換素子を自立電源としたセンサデバイス、水質モ
ニタリング装置のセンサノードの自立電源にできる。作製が簡単で長
さに制約がない熱電変換素子、これを用いた熱電変換デバイスを提供
する。

図3.導電性カーボンナノチューブ繊維からなる熱電変換素子を自立
電源とするセンサデバイス図

【符号の説明】 1  導電性カーボンナノチューブ繊維   2  ホール 
3  導電性被膜  4  pp+接合対   5 p+型熱電変換部   6 p
型熱電変換部  7  導体  8  温度差起電力電源  9  センサ  10
水面浮上部  11  浮きを兼ねる基板  12  センサノード保護用透
明キャップ  13  センサノード



 特開2018-088444 熱電変換素子 積水化学工業株式会社(事例2)
【概要】
熱エネルギーの回収技術としては、ゼーベック効果(又はペルチェ効
果)に基づく熱電変換デバイスが、温度差発電、熱センサ及び冷却な
どの様々な場面で既に活用されている。熱電変換デバイスは、例えば、
p型半導体とn型半導体との組み合わせである熱電対が多数直列に接
続されたモジュール構造を有する。このような熱電変換デバイスは、
可動部がないことから騒音及び振動が無く、スケール効果が無く、小
さな温度差でも発電でき、様々な機器及び環境に組み込めるという多
くの利点を有する。上記のような熱電変換デバイスの一例が、下記の
特許文献(特開2015-230967)に開示されている。この記載の熱電変
換デバイスは、複数の熱電変換材料を有する。熱電変換材料は、カー
ボンナノチューブ及びドーパントを含む。ドーパントをカーボンナノ
チューブの凝集体の内部にも吸着させることにより、ドーパントとカ
ーボンナノチューブとの接触抵抗が低くなる。複数の熱電変換材料は、
電極を介して電気的に接続されている。
下図1のごとく、本発明に係る熱電変換素子1は、シート状の複数の
熱電変換材料2と、第1の導電接続部3と、第2の導電接続部4とを
備え、複数の熱電変換材料2は、互いに接するように直接積層された
状態であるか、又は、複数の熱電変換材料2は、互いに接しないよう
に間隔を隔てて積層された状態であり、第1の導電接続部3は、複数
の熱電変換材料2を導電接続しており、第2の導電接続部4は、第1
の導電接続部3と離れた位置において、複数の熱電変換材料2を導電
接続してなる、内部抵抗が低く、出力が大きく、かつ柔軟性が高い熱
電変換素子を提供する。

図1 本発明の第1の実施形態に係る熱電変換素子の正面図である。
【符号の説明】
1…熱電変換素子 2…熱電変換材料 2a,2b…主面 2c,
2d…側面 3,4…第1,第2の導電接続部 11…熱電変換素子 
13,14…第1,第2の導電接続部
【発明の効果】
シート状の複数の熱電変換材料と、第1の導電接続部と、第2の導電
接続部とを備え、上記複数の熱電変換材料は、互いに接するように直
接積層された状態であるか、又は、上記複数の熱電変換材料は、互い
に接しないように間隔を隔てて積層された状態であり、上記第1の導
電接続部は、上記複数の熱電変換材料を導電接続しており、上記第2
の導電接続部は、上記第1の導電接続部と離れた位置において、上記
複数の熱電変換材料を導電接続しているので、内部抵抗を低くするこ
とができ、出力を大きくすることができ、かつ柔軟性を高めることが
できる。

特開2018-186260 熱電発電デバイスおよび熱輸送デバイス 国立大
学法人横浜国立大学
【概要】下図2のごとく、熱電発電デバイスを得るには、自然由来の
糸もしくは合成繊維の糸またはこれらの混合糸に、カーボンナノチュ
ーブ(CNT)を含む分散液を含浸または塗布してなるCNT複合糸
10を熱電発電糸とし、その両端に発電電力出力用のリード線20を
接続する。また、熱輸送デバイスを得るには、単層CNTとブと多層
CNTとを用意し、多層CNT(もしくは単層CNT)−単層CNT
(もしくは多層CNT)−多層CNT(もしくは単層CNT)の順に
接続して直列接続体とし、この直列接続体に直流電流を流すことで、
カーボンナノチューブ複合糸により効率のよい熱電発電を可能とした
熱電発電デバイス及びカーボンナノチューブ複合糸によりペルチェ効
果を発現させた熱輸送デバイスを提供する。


                         この項つづく
□マクスウェルの悪魔
1867年ごろ、スコットランドの物理学者ジェームズ・クラーク・マク
スウェルが提唱した思考実験、ないしその実験で想定される架空の、
働く存在である。マクスウェルの魔、マクスウェルの魔物、マクスウ
ェルのデーモンなどともいう。 分子の動きを観察できる架空の悪魔
を想定することによって、熱力学第二法則で禁じられたエントロピー
の減少が可能であるとした。 熱力学の根幹に突き付けられたこの難
問は1980年代に入ってようやく一応の解決を見た。マクスウェルが考
えた仮想的な実験内容とは以下の通り(Theory of Heat、1872年)。 

"分子を観察できる悪魔は仕事をすることなしに温度差を作り出せる
ようにみえる。”

1.均一な温度の気体で満たされた容器を用意する。このとき温度は
  均一でも個々の分子の速度は決して均一ではないことに注意する。
2.この容器を小さな穴の空いた仕切りで2つの部分 A, B に分離し、
 個々の分子を見ることのできる「存在」がいて、この穴を開け閉め
 できるとする。
3.この存在は、素早い分子のみを A から B へ、遅い分子のみをB
 から A へ通り抜けさせるように、この穴を開閉するのだとする。
4.この過程を繰り返すことにより、この存在は仕事をすることなし
 に、 A の温度を下げ、 B の温度を上げることができる。これは熱
 力学第二法則と矛盾する。
                                              この項つづく



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米、来年はコロナ「エンデミック」に移行 追加接種鍵;ロイター

⛨ 長びくコロナ禍――現場から見える10代の困窮
▶ 2021.Yahoo!ニュース
新型コロナウイルスによる社会活動の制限は多くの人たちに深刻な影
響を与えた。10代の高校生や大学生も例外ではない。休業要請や時短
営業のあおりをうけ、アルバイト代は激減。親が定職を離れるケース
なども見受けられ、支援団体には「携帯代や学費が払えない」「食べ
るものに困っている」という相談も寄せられている。

□ 親は休職、3人きょうだいの家に届いた野菜や果物
今年の冬、東北地方の高校に通う林美香さん(17、仮名)の家に、一
箱の段ボールが届いた。送り主は、福島の農家。家族で粘着テープの
封をはがすと、レトルト食材などのほか野菜やお米、果物がつまって
いる。一緒に暮らす母親、高校1年生の妹、小学2年生の弟と一緒に食
材を囲んで見つめ合った。 「野菜を見ながら、『何をつくろうか』っ
て、果物を一緒に食べながら『おいしいね』って、家族で一緒に話し
合える時間ができてうれしかった」
美香さんの家庭と農家をつないだのは、認定NPO法人「キッズドア」(
東京都中央区)だ。2007年の設立以来、子どもの貧困に特化して学習
支援などに取り組んできた。2020年度は緊急のコロナ対策として、文
房具や本、食料などの支援を通じて 全国の家庭を対象にのべ3万4182
人をサポートしてきた。美香さんは中学3年生のとき、学校で配布され
た案内チラシをきっかけに、キッズドアを知った。当初は、学習支援
に通っていたが、昨年4月の緊急事態宣言で状況は一変。キッズドアか
らのメールで食料支援を実施している団体を知り、スマホから申し込
んむ。3人の子を育てる美香さんの母親は保育士だ。保育園で管理職
として働いていたが、昨年の一斉休校により、自宅で子どもの面倒を
見るために出勤できなくなった同僚が増え、勤務態勢の調整などで激
務が続いた。美香さんの弟の小学校入学や妹の高校受験も重なり、日
々のストレスからメンタルに不調を抱えてしまう。職場で役職を外れ、
時短勤務に切り替えたが体調は良くならず、数カ月前に園の仕事を休
職。しばらく家で寝こむ日々が続いた。今年の9月下旬に復職したが、
フルタイムで働けなくなったため、待遇は正社員ではなく嘱託社員と
なり、時給1400円で1日6時間働いている。コロナ禍以前に480万円ほ
どあった年収は、約半分になる見込み。

復職後に傷病手当金は受け取った。それでも、収入が途絶えた休職中
に住民税や年金保険料を支払うのは大きな負担だったという。いま美
香さんは、母親の体調を気遣いながら、学業のかたわら家事を分担し
て、小さな弟の面倒も見る日々を送る。「朝、起きるのは6時半。弁
当を作って着替えて、7時15分に家を出て、7時45分から学校の朝課
題を受けて、その後授業が始まります。通常は午後4時半に学校が終
わって、課題がある日は課題を受けて、午後6時、7時に家に帰ります」

                         この項つづく             

⛨ アベノマスクとは何だったのか(前編)
▶via Wikipedia 及び 2021.10.19 朝日新聞デジタル 
【概要】アベノマスクは、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の
流行下に2020年4月から日本国内で配布されたガーゼ製布マスクの俗称。
急激な需要の増大で発生したマスク不足の解消を目的として、当時の
安倍政権が約260億円をかけて[3]国内全世帯に2枚ずつ配布した。全世
帯向けのほか介護施設などにも配布され、日本国外でもAbenomaskとし
て広く報道された。

□経過:
2020年(令和2年)4月1日に安倍晋三首相は、安倍内閣の新型コロナウ
イルス感染症対策本部の会合において、当日の議論を踏まえて現状の
分析と今後の政府の対策と国民への要望などを語り、そのなかでマス
クについての話題も出た。安倍首相の発言は、以下の通り。

・政府として生産設備への投資を支援するなど取組を進めてきた結果、
電機メーカーのシャープが生産を開始するなど、3月は通常の需要を上
回る月6億枚を超える供給を行った。更なる増産支援により、今後は
月7億枚を超える供給を確保する見込み。
・急激な需要の増加によって依然として店頭では品薄状態が続いてい
るが、全国の医療機関に対しては、先週までに1500万枚のサージカル
マスクを配布し、翌週にはさらに追加で1500万枚を配布する予定。
・高齢者施設、障害者施設、全国の小学校・中学校向けには布マスク
を確保し、順次必要な枚数を配布予定。使い捨てではなく、洗剤を使
って洗うことで再利用可能である布マスクは、急激に拡大しているマ
スク需要に対応する上で極めて有効であると考えてのこと。
・5月にかけて更に布マスク1億枚を確保する目途が立ったことから、

全国で5000万余りの世帯全てを対象に、日本郵政の全住所配布のシス
テムを活用して一住所あたり2枚ずつ配布予定。 そもそもは新型コロ
ナウイルス感染症の世界的な流行によって日本でもマスク入手が非常
に困難になり、医療関係者に優先的にサージカルマスク(不織布の使
い捨てマスク)を回すため、一般の国民には洗剤で洗って再利用可能
な布マスクを使用して欲しいということで配布が決まった。 発案した
のは佐伯耕三内閣総理大臣秘書官であると見られており、首相に対し
て「全国民に布マスクを配れば不安はパッと消えますよ」と進言した
とされる。政府は2020年4月7日に「新型コロナウイルス感染症緊急経
済対策」で閣議決定し、これにより布製マスクの一般家庭への配布が
開始された。また全国の医療機関にサージカルマスクを、高齢者施設
や障害者施設や全国の小学校・中学校向けに布マスクをそれぞれ優先
的に配布することも決めている。安倍首相は4月17日の記者会見で、国
民の高い需要に応じて布マスクを2枚配布したと説明した[。< 以後、
全国で順次配布が進められ、6月25日、菅義偉官房長官は記者会見で、
政府による全世帯向けの布マスクの配布が20日までに全て完了したと
明らかにした。

□費用:
政府は2020年6月の時点で、契約額が総額260億円(調達に184億円、配
送費として76億円)に達したと発表した。1枚あたりの単価は公開さ
れていない。当初、政府は1枚当たり200円程度で1億3000万枚を調達す
る予定で、マスク購入費用として2019年度の予備費約233億円と、2020
年度補正予算案に計上した233億円を合わせた計466億円を使用する計
画だった。この最初の233億円の内訳は、6500万枚の購入費が169億円、
運送・梱包費が64億円と見込まれていた。配布には送り先の住所や名
前がなくても対象地域にある郵便受けに配達される「タウンプラス」
という日本郵政の配達システムが利用され、4月17日より投函が始まる。

□余剰分:
2021年10月に報道された会計検査院の調査によると、政府が調達した
布マスク全体の3割近い8300万枚が配りきれないまま倉庫に保管されて
いることが確認された。この保管分の平均単価は約140円で、総額は1
15億円相当だった。2020年8月から2021年3月にかけての保管費用が約
6億円にのぼることも判明している。 

異物混入による配布の中断・回収問題:
厚生労働省によると、4月14日から妊婦あてに先行配布したマスクにお
いて変色や髪の毛、異物混入の報告が相次いでおり、4月21日時点で
143市町村・計7,870件に上っている。問題を受けて、厚生労動省は妊
婦への配布を中断した。また、小中学校や特別支援学校に配布された
マスクの中への虫の混入も確認され、配布が中断された。この不良品
に関して菅官房長官は、「実際の配布を行う前段階で適切に除外され
ている」とコメントしている。上記問題の原因となった不良品の該当
企業として報告を受けた興和と伊藤忠商事は4月23日に未配布分のマス
クを全て回収すると発表。検品体制を通常よりも強化する方針。毎日
新聞は4月21日、「関係者からの提供」として、政府が全戸配布用に包
装を始めた布製マスクにカビが生えている写真を報じた。また時事通
信社は4月30日、「厚生労働省の内部文書に掲載されたもの」として、
複数のカビの生えたマスクの写真が掲載された文書の写真を報じた。
このカビの生えたマスクに関して、厚生労働省は5月14日の参院厚生労
働委員会で、マスクにカビと確認したケースがあったことを認めた。
全世帯向け、介護向け、妊婦向けマスクの計8500万枚の出荷前に行っ
ている検品は550人体制で1枚ずつ目視しており、検品費用には8億円を
要している。

マスク配布作業が終了するころ、最大の受注企業である「興和」は複
数のメディアで取材に応じた。それらによると、当初は品質を担保す
るため日本国内での検品を強く希望したが、政府側担当者が「質より
量を優先しろ」と断ったと述べている。またマスク確保に関わった政
府関係者への取材では、「マスクが国民に行き渡るようにしろ、とい
うのが官邸の意向だったが、これほどの量を短期間で確保するなんて
元々厳しい目標だった」「『マスクを何とかしろ』という官邸の声の
大きい人が言ったことが通り、無理に無理を重ねた」などの声が紹介
されている。
via Wikipedia                        
                         この項つづく


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【ウイルス解体新書 88】
⛨ 最新新型コロナウイルス



序 章 ウイルスとは何か
第1章 ウイルス現象学
第2章 COVID-19パンデミックとは何だったのか
終 章 ウイルス感染症と戦略『後手の先』


【税金の世界史論 ①】

第1章 日光の泥棒

        課税とは、ガチョウの悲鳴をできるだけ少なく抑え
        つつ、羽毛をできるだけ多くむしりとることである。
                シャン=バティスト・コルベール
             ルイ十四世の治世の財務総監(1661~83)

1690年代前半のことだった。王は資金を必要としていた。
それはウィリアム王その人と議会そのものが招いた事態だった。民心
掌握のため、人びとに忌み嫌われていた税の廃止に踏みきっていたの
だ。やがて現金が足りなくなった。
どうすればいいだろう?
炉はどの家にもあって、イングランドの民は1066年のノルマン・コン
クエストよりも前から、たいていは教会に対し、なんらかの炉税を支
払っていた。当時、この税は「煙税」とか「煙突税」などと呼ばれて
いた。ところが1662年、炉は課税の対象になることが法令で定められ
た。家屋の価値が20シリング(現在の約5000米ドル)を超える場合に
は、ストーブ、炉、あるいは暖炉一つにつき、隔年に1ンリングを納
めなければならなくなった。直接税を課される条件から外れていた人
びとが、突然に納税の義務を負わされた。貧民さえも逃れられなかっ
た。税金の取り立てを委託された徴税人は、「最後の一文まで奪いと
る権利を行使した」。半年に一度、人びとの家にずかずかとあがりこ
み、暖炉がいくつあるかかぞえ、イングランド人の尊重すべきプライ
バシーを侵害したのだ。なお悪いことに、炉税の起源はフランスだっ
た。これがイングランド人に忌み嫌われ、1688年に名誉革命が起こる
ころには、彼らの大きな不満の種になっていた。
君主になって間もないウィリアムとメアリーはそこに目をつけ、民の
心をすばやくつかもうとした。
炉税を廃止し、「王国内のすべての炉に、両陛下の徳を称える記念碑
を建立せしめた」のである。しかし、大きな問題が生じた。イングラ
ンドに侵攻し、前エジェイムズニ世から王位を奪取したウィリアムは、
その際にオランダから金を借り、装備を賄っていた。アイルランドで
の紛争にも、ヨーロッパ大陸での大同盟戦争にも金がかかった。ジェ
イムズニ世派のスコットランド貴族たちを討伐する必要もあった。し
かも、王国内ではちょっとした通貨危機が起こっていた。



1696年、解決策が見いだされた。なんとまたもや新税が導入されたの
だ----「家屋、明かり取り及び窓税」、通称「窓税」である。
徴税人は人びとの家の外から窓の敬をかぞえるようになった。わざわ
ざ屋内に踏みこむ必要はなくなった。プライバシーを侵害せずにすん
だ。納税者とのやりとりも、なんらかの告知もいらなかった。窓をどこ
かに隠すことは不可能なので、税金逃れは容易なことではなかった。
炉税のおかけで、この新鋭を集めるためのインフラはすでに整ってい
た。それに、これは公平な税であるように思われた。概して、窓の敬
が多ければ多いほど、それだけ住人は豊かであり、高い支払い能力を
有するといえたからである。
政府によって定められた恒久法には、導入時には限時法だったものが
いくつもあるが、窓税法もまたそうだった。納付金額は、当初はわず
かなもので、窓数10窓以下の家屋1軒につき2シリングと定められ
ていた。だが、それがだんだんと引き下げられていった。
やがて、税金逃れのため、わが家の窓を塞いでしまう人びとがあらわ
れた。1718年の時点で、窓税は政府の期待どおりには集まっていなか
った。そこで打たれた手は、減税ではなく増税だった。すると、もっ
と思いきった方法で租税回避が行なわれるようになった。家屋は、初
めから窓の数の少ないものがつくられた。なかには、あらかじめ窓の
開目高がレンガで塞がれている例もあった。所有者が希望すれば、あ
とでレンガを取り除き、ガラスをはめることもできた。それから、全
室に窓のない集合住宅もつくられた。電灯もガス灯もなかった時代に
は、明かりといえば獣脂ろうそく、あるいはラッシユライト(アシの
茎を灯心にし、脂に浸してつくったろうそく)の煙たい炎くらいのも
のだった。日光も新鮮な空気も入らないとなれば、犠牲は小さくなか
った。
それから、のちに医学雑誌『ランセット』によって「光に対してかか
る、ばかげた税」と呼ばれることになる新税が登場した。1746年、ジ
ョージニ世の治既にガラス税が導入されたのである。窓税とガラス税
は、ジョン・スチュアート・ミルの言う「建物の変形をもたらす要囚
」になったとはいえ、150年の長きにわたって家屋建築の拠りどころ
でありつづけ、イギリスおよびフランス(やはり窓税があった)の村、
町、都市の外観を決定づけていた----そして、現在も当時の外観を保
っている地域はいくつもある。窓税の課税最低限の水準が、建物に設
けられる窓の数を決めることになった。ウィルトシャーの村入のなか
には、レンガ造りの自宅にもとあった窓の絵を白と黒のペンキで描き
こむ、気概ある人びともいた。1797年、ウィリアム・ピット政権時代
に窓税がそれまでの三倍に増税されると、ある大工は、本人が議会で
証言したところによれば、一本の通りに面したすべての家から依頼さ
れ、レンガ、もしくは板で窓を塞いでやったという。

ガラス税は一つの産業の成長を妨げた。1807年から1857年にかけて、
イギリスの人口は1100万人から2700万人に増えた。ロンドンの住人だ
けでも100万人から270万人、すなわち,1.7倍になっていた。人口の急
増とともに建築ブームがやってきた。ところが、ガラス税の影響で、
ガラスの生産レベルにはほとんど変化がなかった。
たくさんの窓は裕福であることの象徴になった。それは小説にも描か
れている。ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』にはこうある。
「美しいものを存分に見て、エリザベスは喜んだ。しかし、コリンズ
氏の期待とはうらはらに、素晴らしい景色にうっとりとした気持ちに
なることはなかった。コリンズ氏が屋敷の正面の窓をかぞえあげたり、
建築の際に窓ガラスにいくらかかったかを話したりしても、少しも心
を動かさなかった」



アメリカで窓税が導入されることはなかったが、1798年、その可能性
を懸念した人びとが暴動を起こした----フリーズの暴動である。ペン
シルヴェニア州の役人の一団が直接住宅税の課税対象の調査にやって
きたとき、ドイツやオランダからの人植者たちは窓税を取り立てられ
るものと勘違いした。彼らは武器を取って立ちあがり、暴動は州の全
土に広がった。ジョン・アダムス大統領指揮下の連邦軍が出動したが、
鎮圧にはほぼ二年かかった。(➲フライの反乱
窓税は、実際には累進課税とはいえなかった。アダム・スミスがこう
記している。「賃料10ポンドの田舎の住宅は、賃料500ポンドのロン
ドンの住宅よりも窓の数が多いことがある」。田舎の家のほうがみす
ぼらしくとも、より多くの税金を納めなければならなかった。田舎の
住人にとっては大打撃だった。とはいえ、もっとも割を食ったのは都
会の貧乏人たった。彼らは大規模な共同住宅に住んでいたが、建物に
窓がたくさんついていたので、納税額がどうしても高くなった。家主。
----窓税を実際に納める者----は経費削減のために窓を板で塞いでし
まった。このため、窓税によって思いがけない、たいへん有害な結果
がもたらされた。住人たちが病気にかかったのである。産業革命のこ
ろ、都市部ではたびたび伝染病----とりわけチフス、天然痘、コレラ
----が流行したが、狭苦しくて湿っぽい、窓のない住まいが感染者の
増加に拍車をかけた。窓税について、『ランセット』誌は「伝染病の
蔓延をじかに促した」と述べた。公式の科学的調査の結論によれば、
「なんとしても課税を免れたい家主がいくつもの窓を塞いでしまう例
はいっそう増え、病人および死者の増加のおもな要因にもなった」。
それでも、窓税が廃止されることはなかった。

十九世紀に入ると、抗議の声がそこかしこから上がるようになってい
た。「『空気のように、なんの束縛もない』という言い回しは時代遅
れになった」と、チャールズ・ディケンズも慣った。「窓に課税され
るようになってから、空気も日光も、なんの束縛もないとはいえなく
なった」。窓税反対運動は何十年も続いた。運動家たちは反窓税の小
冊子を配り、歌をうたい、演説をした。ロバート・ビール政権時代、
所得税が再導人された直後の1845年にガラス税は廃止されたが、窓税
は継続して徴収された。
1850年、ついに議会において窓税廃止動議が提出された。この動議の
審議中、議員から「日光の泥棒だ!(Daylight Robberry!)」
のヤジ
が飛んだといわれている。以後、英語の「Daylight Robbery」は「ぼ
ったくり」を意味する慣用句になった。しかし、動議は否決された。
窓税がようやく廃止されたのは1851年、ふたたび全国的な反対運動が
発生してからのことである。フランスの窓税はその七五年後に廃止さ
れている。
窓税はあまたある税の一つにすぎず、歴史上とくべつ長く続いたわけ
でもなかったが、税はどのように生まれ、どのような影響をもたらす
かを教えてくれるよい例である。その導入から廃止までの経過をたど
れば、税の典型的なライフサイクルがわかる。

税は資金が必要なときに設けられる。たいていは戦費を賄うためであ
る。臨時税として設定されるが、後目にその開眼が撤廃される。税は
基本的自由を侵害する。窓税の場合、目先や新鮮な空気を取りこむ権
利を損なう。多くの人が税金を逃れようと躍起になるので、税は、人
びとの行動や決断を歪めてしまうといえる。すると、さまざまな形で
思いがけない影響があらわれる。その税の制度が複雑になるにつれ、
今態はいっそう悪化する。集められた税金の多くは、無駄にされたり、
納税者から同意を得られないような今泉に使われたりする。しまいに
は、うんざりした人びとが廃止を求めてなんらかの行動を起こす----
反対運動、抗議運動、さらには革命。ところが、政府は腰が重く、な
かなか動こうとしない。



窓税については、良し悪しを安易に断じることはできない。窓税は、
しばらくは機能したが、やがてそうではなくなった。集められた税金
は、何よりも、国防という必要不可欠な事業の費用の一部となった。
この税は、その他のさまざまな税と同じく、本質の部分に道徳上のジ
レンマを抱えていた。一方では、それは私有財産権を侵害する税であ
り、思いがけない、由々しい結果を引き起こした。だがもう一方では、
政府のきわめて重要な機能であるともいわれる事業の費用を賄う、当
時もっとも現実的な対応策でもあった。税を「必要悪」ととらえた人
びとは数多く、ウィンストン・チャーチルもその一人である。彼らが
そう考える理由はわれわれにもよくわかる。だが、一つ大きな疑問が
ある。それは、どの程度の悪が必要なのかということだ。

                                               この項つづく

風蕭々と碧い時代

 

● 今夜の寸評:沸騰する欲望と対峙する知恵

 

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ブレイクスルーは私達だ。 ④

2021年11月12日 | 世界歴史回廊



彦根藩二代当主である井伊直孝公をお寺の門前で手招き雷雨から救っ
たと伝えられる "招き猫と、井伊軍団のシンボルとも言える赤備え。
(戦国時代の軍団編成の一種で、あらゆる武具を朱塗りにした部隊編
のこと)の兜(かぶと)を合体させて生まれたキャラクタ。愛称「
こにゃん


 

檸檬はまだ色づいてはいないが、柚子が撓わに色づき、山茶花は薄桃
色に咲き始めました。(2021.11.13 9:50 撮影)


1.イチイモドキ(セコイヤ)
2.アケボモノスギ(メタセコイア)
3.スギ
4.ヒノキ
5.サワラ

【樹木×短歌トレッキング】

 見よかしと契りし日暮れ松阪や 踊り繰り出せ強ひて障らじ
                    六九四。浜辺黒人

是非見よと約束した日が暮れ、松阪踊り(伊勢国松阪から流行した踊
り)を繰り出せ。しいて邪魔になるまい。

※江戸狂歌の最初の選集である四方赤良(太田南畝)編の天明三年(178
3)刊『万載狂歌集』の物名の部の四首から「木名十」という題のもの
に「樫(かし)・橡(とち)・桐・檜(ひ)・榑(くれ)・松・栢(かや)・栗・
椎・椹(さわら)」と詠み込みあり。



サワラ(椹、学名:Chamaecyparis pisifera)は、ヒノキ科ヒノキ属
の1種。日本特産の針葉樹]。ヒノキ科ヒノキ属。日本を代表する林
業用樹種であるヒノキ(C. obtusa)とは同属で、形態的にもよく似
ている。遺伝的にもヒノキに近く、両者間では繁殖能力のある雑種を
作る。この雑種については DNA解析などの結果、雄親を本種、雌親を
ヒノキとするものが良く知られていたが、逆の組み合わせもあること
が報告されている。ヒノキ以外に、天然分布が重ならないローソンヒ
ノキ(Chamaecyparis lawsonia)とも交雑し、充実種子(中身が詰ま
り、発芽できると思われる種子)が得られるともいう。この種子を発
芽試験に供した結果、雑種実生は葉緑体に異常があり多くは発芽直後
に枯死。日本固有種で、岩手県早池峰山から長崎県島原半島にかけて
の山地に自生。日本海側の地域には分布しない。樹高は40m、 胸高直
径は100cmになることも。主幹形であり外見はヒノキ(C. obtusa)に
よく似るが、枝はヒノキほど茂らず、枝と枝の間隔が広くなるため、
遠くからでも幹がよく目立つ。葉の付き方をみるとヒノキよりも隙間
が多い。葉の形状もヒノキの葉の先端は丸く葉裏の白い気孔腺がY字
なのに対し、サワラの葉は先端が尖っていて葉裏の白い気孔腺がX字
である。日本国内最大のサワラは、福島県いわき市にある国の天然記
念物「沢尻の大ヒノキ(サワラ)樹高29 m、幹周10 m、推定樹齢800
年」。天然記念物としての指定名称からもサワラとヒノキが似ている。
ヒノキよりも軽く軟らかく建築材や器具材に利用される。サワラの語
源もヒノキよりもさわらか(軽軟)であることに由来。水湿に強く桶
やたらいなどに用いられる。木曽五木の1つで、殺菌作用があるため、
松茸など食品の下の敷物としても使われる。 

    

 
 
【ポストエネルギー革命序論 367: アフターコロナ時代 177】
現代社会のリスク、エネルギー以外も「分散時代」
 環境リスク本位制時代を切り拓く
環境リスク本位制時代を切り開く  


図 再エネが化石燃料由来の火力発電よりも安くなる:2027年以降は
出力を安定化させる蓄電池のコストを加えても化石燃料由来の発電コ
ストよりも安くなる。(図:Carbon Trackerの資料に日経クロステッ
クが日本語訳をつけて作成)

太陽光発電コスト逓減続く、50年に2円/kWh割れか
▶ via 2021.10.25 日経クロステック(xTECH)
世界各地で石炭が逼迫し、それらの調達コストや石炭由来の火力発電
(石炭火力発電)の発電コストが急騰し、中国では電力供給が不足、
計画停電が頻繁に実施されている。その原因が、①新型コロナウイル
ス感染症で落ち込んだ経済が再開して電力需要も急増、②る一方、欧
州で偏西風が蛇行し、風力発電の発電量が想定の2~3割も減少したこ
と。③オーストラリアと中国の対立で石炭の需給がタイトになった、
④2022年2月に北京とその近郊で開催予定の冬季五輪前までは中国政
府が大気汚染対策のために石炭火力発電を抑制している。⑤中国政府
が五輪期間中の電力需要増に備えて、石炭の供給を強化しているとい
う情報が取り出さされているが、一時的な事象で中長期的には、再エ
ネ、特に太陽光発電の発電コストが急速に低下➲2019年には石炭火
力発電のコストを割り込む➲このことは、再エネを過小評価し続け
てきた国際エネルギー機関(IEA)も事実追認を余儀なくさせた。

 過去10年間にコストが大幅に低減したことで、太陽光発電はほと
 んどの国々で、新規の石炭火力、ガス火力発電所よりもコストが
 低くなり、太陽光プロジェクトはこれまで見られなかったほど低
 コストの電力源となっている。STEPS(STated Policies Scenario、
 政策シナリオ)では、2030 年までの世界全体の電力需要の増加
 分の80%を再生可能エネルギーが供給すると見込む。水力は、引
 き続き最大の再生可能エネルギーの電源であるが、太陽光は、22
 年以降毎年普及率の新記録を更新すると予測され、再生可能エネ
 ルギーの成長をけん引する。

              「World EnergyOutlook 2020」の
             エグゼクティブサマリー(日本語版)

さらにその一方で、IEAは石炭火力発電について同じ文書で、「発電
目的の石炭利用は電力需要の下方修正の影響を大きく受け、石炭の産
業利用も経済活動の停滞によって抑えられる。石炭のフェーズアウト
政策、再生可能エネルギーの台頭、天然ガスとの競合により、2025年
までに世界全体で 275GWの石炭火力発電が運転停止となると見込まれ
る(2019年合計の13%相当分)。この内、米国が100GW、欧州は 75GW
である」と、太陽光発電と石炭火力発電の主役交代を明確にする。 
発電事業者にとって、より発電コストの低い電力源が急増している中
二酸化炭素(CO2)対策を 迫られて発電コストが上がりかねない石炭
火力発電はこれ以上新たな投資はできない存在。下手に投資を増やせ
ば近い将来、「座礁資産」といわれる事実上の大きな負債になる可能
性が高い。石炭火力発電からはできるだけ早く足を洗いたいというの
が多くの発電事業者の本音だろう。その結果として、短期的な電力の
需給バランスの変動に対応できないほどに、石炭の備蓄や石炭火力発
電設備を減らした、あるいは需給バランスからみると必要だった投資
や増設を抑制してしまった、というのが今回の石炭逼迫の背景になっ
ている可能性が高いとみている。こうみると、直近の化石燃料高騰は
化石燃料(原子力発電も含め)から再エネ分散型発電への切り換えを
早め自らの首を絞めるかのように見える。
※【参考】再エネで電力代がタダに!? - チリの家づくりブログ〜
WELLNESTなマイホーム計画〜  



図 Renewables on the Rise 2021
【米国のクリーンエネルギーは35年に百%供給できる】
▶2021.11.11 Renewables on the Rise 2021.
今週発行された新しいレポートは、米国における太陽光、風力、電気
自動車、その他のクリーンテクノロジーの爆発的な成長に焦点を当る。
9つの州が百%クリーン電力を約束する法律をすでに制定している。
 風力や太陽エネルギーなどの再生可能エネルギー源は、米国のエネ
ルギーの未来において主役となる準備ができていると、米国環境研
究政策センタのクスーザンラコフ氏は離す、これらのクリーンエネル
ギー源が電力をますます生成するにつれて、電気自動車やヒートポン
プなどの他の新しいテクノロジーでクリーン電力に移行する、このレ
ポートによれば、2011年から2020年までの太陽光、風力、効率、電気
自動車、バッテリーストレージ、電気ヒートポンプの6つの分野にお
ける進捗状況について詳しく説明する。主要点は次の通り。

1.クリーンエネルギーは、2035年までにの電力の百%を供給できる。
2.太陽光発電の容量は2011年以来23倍に増加、平均的な住宅1,200
 万世帯以上の電力供給できる。
3.風力発電は2011年以来ほぼ3倍になり、3,100万世帯以上に電力
 供給できる。2020年には、風力が国の電力の8.4%を占める。
4.エネルギー効率は現在、250万以上の家庭に電力供給できる電力
 を節約できている。
5.2011年から2020年にかけて、米国で販売されたバッテリー式電気
 自動車とプラグインハイブリッド車の累計販売台数は100倍に増加
 して170万台近くとなり、プラグイン電気自動車の販売は2021年に
 200万台を超えた。
6.バッテリーの貯蔵容量は、2011年から2020年にかけて18倍以上に
 拡大、2020年だけで67%増加した。
7.ヒートポンプの効率が向上し続けるにつれて、ヒートポンプは全
 国的に魅力的な選択肢になった。効率的な空気熱源ヒートポンプの
 出荷量は、2011年から2020年の間にほぼ2倍となり、2020年だけで
 10%増加。現在、米国の住宅の約10分の1にヒートポンプが搭載さ
 れている。


Air source heat pump technology. Credit: Slavo Valigursky

全国的な概要とともに、レポートは、太陽エネルギーと風力エネルギ
ーの採用で最も進歩した個々の州を強調。バッテリーの貯蔵容量を増
やす。エネルギー効率の改善; 電気自動車への移行する。州はクリー
ンエネルギー競争のトップに固執していると百%再エネキャンペーン
担当のエマ・サーソン氏は話し、州はクリーンエネルギー技術を優先
のメリットを実感し、近隣諸国、そして国にペースを上げるよう促し
ていると言う。カリフォルニア州、テキサス州、ノースカロライナ州
では2011年から2020年にかけて最大の太陽光発電の伸びが見られ、テ
キサス州、オクラホマ州、アイオワ州では風力発電のチャートでトッ
プを達成。カリフォルニア、テキサス、およびイリノイは、2011年以
来最も多くのバッテリーストレージを追加。エネルギー効率プログラ
ムに関しては、メリーランド州、ロードアイランド州、マサチューセ
ッツ州が最も改善されている。カリフォルニア、フロリダ、ニューヨ
ークは、電気自動車の累積販売台数と公共のEV充電ポートの両方でラ
ンキングのトップに立っている。この10年間で、米国は私たちが家庭、
企業、産業にクリーンエネルギーで電力供給できることを実証。私た
ちは汚染のない電力への劇的な転換の最前線にいるが、魔法でここに
到着したのではなく、先見の明のある人々とその立法府はそれを要求
してきたものであり、国の指導者が私たちの国の未来に投資する最善
の方法を議論するとき、これらの州から手がかりを得て、クリーンエ
ネルギーの促進に集中する必要があると話している。



人為的気候変動説を研究の99.9%が同意
88,125の気候関連研究の新しい調査によると、査読された科学論文の
99.9%以上が、気候変動は主に人間の活動によって引き起こされてい
ると結論付けている。この研究は、1991年から2012年の間に発表され
た研究の97%が人間の活動が地球の気候を変えているという考えを支
持していることを明らかにした同様の2013年の論文を更新。現在の調
査では、2012年から2020年11月に発行された文献を調べ、コンセンサ
スが変化したかどうかを調査している。アライアンス・フォー・サイ
エンスの客員研究員であるマーク・ライナスは、次のように述べてい
る。コーネル大学と論文の筆頭著者。「新しいソリューションを迅速
に動員できるように、温室効果ガス排出の主要な役割を認識すること
が重要です。気候関連の災害が企業、人々、経済に与える壊滅的な影
響をすでにリアルタイムで目撃している」とコーネル大学農業生命科
学部の学部長であり、この研究の共著者であるベンジャミン・ホール
トンはジャーナルEnvironmental ResearchLettersに掲載されている。
地球温暖化は人間の活動の結果であるという気候科学者の間のほぼ満
場一致の見解にもかかわらず、世論調査は、この信念が一般の人々の
間で著しく弱いことを示す。政治家や公的代表者も、一部の国では非
常に党派的な問題になっているが、気候変動への懸念は時間とともに
高まっている。ピュー研究所 は調査した人々が、気候変動が自国にと
って大きな脅威であると考えている人々が、2013年の平均55%から、
2020年には76%であったことを報告している。「コンセンサスがどこ
に存在するかを理解するには、それを定量化できる必要があります」
とLynas氏は語る。 「それは、厳選された論文の取引を避けるために、
首尾一貫した非恣意的な方法で文献を調査することを意味する。
これ
は、これらの議論が公共圏で行われる方法であることがよくある」



Lynasと彼のチームは、2012年から2020年の間に発行された88,125の英
語の気候論文のデータセットから3,000の研究のランダムなサンプルを
調べることから始めました。彼らは、3,000の論文のうち4件だけが人
為的な気候変動に懐疑的であった。 「[scepticalpapers]は発生の点
で非常に小さいことはわかっていたが、88,000にはまだまだあるはず
だ」とLynas氏は語る。英国を拠点とするソフトウェアエンジニアであ
り、Alliance forScienceのボランティアである共著者のSimonPerryは、
「太陽」、「宇宙線」、「自然循環」など、チームが懐疑的であると
わかっている論文からキーワードを検索するアルゴリズムを作成。」
次に、アルゴリズムが88,000以上のすべての論文に適用され、プログ
ラムがそれらを注文したため、懐疑的な論文の上位となる。予想通り、
これらの反対意見の論文の多くを上部近くに見つけ、リストのさらに
下の方で収穫逓減を示す。全体として、検索の結果、暗黙的または明
示的に懐疑的な28の論文が得られ、すべてマイナージャーナルに掲載
された。2013年の研究の97%の結果が、気候に対する人間の影響に関
する科学的コンセンサスに疑問を残している場合、現在の調査結果は
さらに不確実性を和らげる、とLynas氏は語る。



【ブレイクスルーは私達だ。④】


図1.(a)Liの安定化に対する電圧パルスの影響を示す概略図|
LALZOインターフェース。 (b)対称LiのEISスペクトル| LALZO |
電圧パルスを印加する前後に得られたLiセル。ここで、電圧パルス
とは、カットオフ電圧を10Vおよび10Vに設定した高電流(10 mA cm-2)
を20サイクル印加することを指します。 (c)対称Liの分極曲線|
LALZO |初期サイクル、電圧パルス、および電圧パルス後のサイク
ルを示すLiセル。セルは室温で動作。

❏ 全固体型リチウム電池の界面接触抵抗改善で性能向上
Anand Parejiya, Ruhul Amin, Marm B. Dixit, Rachid Essehli,
Charl J. Jafta, David L. Wood, Ilias Belharouak. Improving
Contact Impedance
via Electrochemical Pulses Applied to Lithium–Solid Ele-
ctrolyte Interface in Solid-State Batteries
. ACS Energy
Letters, 2021; 6 (10): 3669 DOI:
10.1021/acsenergylett.1c01573
---------------------------------------------------------
全固体電池(SSB)のインターフェースを安定させることは、高エネ
ルギー密度電池開発には重要。この研究では、Liの界面での界面イン
ピーダンスと接触改善の簡単な電気化学的技法を報告する。
Li 6.25 Al 0.25 La 3 Zr 2 O 12(LALZO)。形成が不十分な界面に短時
間の高電圧パルスを印加すると、接触インピーダンスが低下。理論的
模擬電算でサポートし、界面細孔の近くでパルスから生じる局所的な
高電流密度は、局所的なジュール加熱のために、LiとLALZOの間の良
好な接触をえる可能性があることが分かった。Liにも適用するパルス
技術| Li
6.4 La 3 Zr 1.4 Ta 0.6 O 12(LLZTO)| LiNi 0.6 Mn 0.2 Co 0.2
O
2(NMC622)セルでは、電荷移動抵抗が大幅に減少し。X線光電子分
光法および走査型電子顕微鏡法を含む
エクスサイチュ(excise:切除)
特性評価は、カソードおよび固体電解質のバルクおよび界面にパルス
の有害な影響のないことを示す。この電気化学的パルス技術は、全固
体電池構成の界面接触を大幅改善する可能性があり、簡単で非破壊的
な方法を解明。


図2 (a)対称LiのEISスペクトル| LALZO |複数の電圧パルスの前後
に得られたLiセル。(c)対称Liの分極曲線| LALZO |複数の電圧パル
スによる初期サイクルとサイクリングプロファイルを示すLiセル。こ
こで、電圧パルスとは、カットオフ電圧を10Vおよび10Vに設定した高
電流(10 mA cm-2)を20サイクル印加することを指す。セルは室温で
動作。  

全固体電池(SSB)のエネルギー密度と安全性の利点は、Li金属アノー
ド(-3.04 V vs SHE、3860 mAh g –1)の実装と、リチウムイオン電池
に存在する可燃性溶媒の排除で実現できる。(SSBの商用アプリ
ケーションは、大きく2つのカテゴリに分類できるいくつかの課題に
(1)バッテリコンポーネントの界面抵抗と安定性及び(2)電極処理
とセル製造の課題に直面している。
実際、界面抵抗、固体電解質(SE)に対するLiの化学的安定性、加工
性、およびSEの機械的堅牢性は、製造および統合の重要な課題の1つ
で、電気化学的安定性、相間形成、デンドライト形成および伝播は、
バッテリーの操作と管理に関する他の課題である。さらに、電極での
密接な接触のエンジニアリングと維持| 電解質インターフェースは、
高性能SSBの重要な要件。ただし、SEでのボイドの生成リチウム金属
界面は、安全性だけでなくバッテリーの寿命にも影響を与える化学機
械的劣化を引き起こす可能性がある。界面ボイドは、不適切な組み立
て、不均一な空間動力学、低いスタック圧力など、いくつかの要因に
より生成され、ボイドから生じる不均一な界面接触は、高い接触抵抗
のために劣化経路の形成につながり、その結果、フラックス/応力の
ホットスポット、Liフィラメントの成長、および亀裂が発生する。
いくつかの研究では、Liでの接触抵抗を下げるためにアノード中間層
が導入されている。SEインターフェースとLi電着/溶解のクーロン効
率を改善。最近、スタック圧力も、高速で安定したLiサ​​イクリングを
可能にするパラメータとして特定された。高いスタック圧力は、Li金
属の界面へのクリープ支援輸送を促進により、密接な接触を可能であ
が、理論的および実験的結果では、スタック圧力が高いと、固体電解
質の細孔を介したリチウム金属伝播が良くなるため、セルの故障につ
ながる。リチウムアノード界面の安定化を目的としたほとんどの戦略
には、追加の処理ステップ、新しい材料の導入、または動作条件の変
更が含まれ、最終的にシステムのコストと複雑になることに要注意。
全体として、Li金属での物理的接触損失-SE海面は、SSBの運用にお
ける主要な技術的課題であり、実験と理論によって裏付けられた物理
的接触損失についての豊富な説明にもかかわらず、文献で報告された
問題解決戦略は皆無である。したがって、SSBの長いサイクル寿命と
高速パフォーマンスの確保には、予防策または問題解決戦略が必要。
ここでは、SSBのSE表面のリチウム金属の接触抵抗改善の電気化学的
戦略を報告する。


図3 図3.(a)Li?|?LALZO界面の細孔付近の電流の流れを示す概
略図。 (b)ジュール加熱によって考慮される細孔サイズおよびシェ
ルサイズの関数としての、細孔付近のリチウムの温度変化。 (c)細
孔領域付近での電流密度の増加を示すCOMSOLシミュレーション。


図4(a)対称Liの直列抵抗と電荷移動抵抗| LALZO |電圧パルスを印
加する前後に得られたLiセル。 (b)対称Liの分極曲線| LALZO |初期
サイクル、電圧パルス、および電圧パルス後のサイクルを示すLiセル。
(c)対称Liの直列および電荷移動抵抗| LALZO |セルを通過した累積
電荷の関数として、複数の電圧パルスの前後に取得されたLiセル。
(d)対称Liの分極曲線| LALZO |複数の電圧パルスによる初期サイク
ルとサイクリングプロファイルを示すLiセル。ここで、電圧パルスと
は、カットオフ電圧を10Vおよび10Vに設定した高電流(50 mA cm-2)
を20サイクル印加することを指す。セルは60°Cで実行されます。



図5 (a)室温での電圧パルスサイクル前後のフルセルのEISスペク
トル。ここで、電圧パルスとは、カットオフ電圧を10Vおよび10Vに設
定した高電流(40 mA cm-2)を10サイクル印加することを指す。(b)
パルスサイクル後の70°Cでのフルセルの定電流充放電プロファイル。
パルスサイクル後の(c)NMC622カソード二次粒子および(d)カソー
ド-SE界面およびアノード-SE界面のSEM顕微鏡写真。パネルcのスケー
ルバーは2μmで、パネルdの場合は50μmです。(e)C 1sのパルスサイ
クル(黒)後の元のカソード(赤)とカソード、(f)C1sのパルスの
適用前後のLLZTOのXPSスペクトルの比較。パルスSEの場合、アノード
側とカソード側のXPSプロファイルが視覚化される。

結果は、公称圧力(〜1 kPa)で(0.1〜0.5 s)の短時間パルス内で
界面抵抗(15〜58%)が大幅に改善される。
提案された電気化学的安
定化経路は、SSBセルの形成ステップとして、またSSBのサイクル寿命
を延ばす制御/管理技法を提供できる。対称Li | LALZO | Liセルは、
Swagelok構成を使用してグローブボックス内で組み立てた。詳細な実
験手順は、補足情報に記載。SSBの長期サイクリング中に発生する不
均一なLi形態とボイド形成を再現に、セルは界面が最適でないように
調整。界面での不完全な物理的接触が2.58kΩのの界面抵抗を示し、
室温での電気化学インピーダンス分光法(EIS)測定によって検証。
比較して、LALZOとLiとの間の良好な接触を持つ最新セルの典型的な
インピーダンス値は10~100sΩ・cm以下の範囲で通常。40μAcm –2
の定電流サイクリング中、平均セル極性は0.12 V(1c)。めっきお
よびストリッピングサイクルの30分後の平均分極の増加は、約3mVで
あることがわかった。サイクリング時の分極の増加は、界面反応また
は界面でのボイド形成から生じる可能性がある。LALZOはLi金属に対し
比較的安定し、印加電流密度下でのサイクリング時にボイド形成が発
生する可能性がある。5サイクル後、カットオフ電圧を10Vおよび-10
Vに設定して大電流(10 mA cm –2)を印加、セルに20回、電圧パルス
を印加。 100ms以内の高電流パルスの印加。パルス後のEISスペクト
ルは、界面抵抗の大幅な減少を示す(1b)。EISスペクトルからわ
かるように、セルの界面抵抗のみが減少し、バルク抵抗は一定のまま
である。バルク抵抗に変化がないということは、固体電解質のバルク
にデンドライトの形成または伝播がないことを示す。界面抵抗の減少
は、Li金属での界面接触の改善を示唆。SE海面への20個のパルス後の
界面抵抗がkΩの1.90・cmであった元のセルに比べ26%低下(図1 B)。
Liでのボイドの存在| SE界面は、より高い局所電流密度(電流集束)
を持つ領域につながるイオンおよび電子経路がないため、電気化学的
に活性な領域を減少させる。パルスを印加すると、細孔の端に高いリ
チウムが堆積し、接触インピーダンスが向上(図1a)。40μAcm –2
初期電流密度で実行されたその後の定電流サイクリングは、平均セル
極性が0.12から0.09 Vに減少したことを示す(1c)。改善されたEI
Sスペクトルとより低い分極により、界面抵抗の改善の電圧パルス制
御条件の有効性を明確にした。(後略)


【ウイルス解体新書 88】
⛨ 最新新型コロナウイルス


序 章 ウイルスとは何か
第1章 ウイルス現象学
第2章 COVID-19パンデミックとは何だったのか
終 章 ウイルス感染症と戦略『後手の先』

家庭の法律事務室 
------------------------------------------------------------

坪多 聡美(著/文)坪多 晶子(著/文) :日本法令
ISBN 978-4-539-72732-4
最終更新日2020年5月21日

もめない相続だけでなく、相続税の節税・納税もきちんと考慮した
遺言書作成のポイントを解説! 相続発生後、相続人の前に立ちはだか
る問題が、遺産分割をめぐるトラブルと相続税をめぐるトラブル。
この2つの問題を未然に解決する手法として最も有効なのが、被相続
人の生前に「遺言書」を残しておくこと。しかし、各相続人に公平に
分割しようとして、相続税が高くついてしまったり、その反対に相続
税の節税や事業承継対策を優先するあまり、遺留分侵害をめぐる訴訟
などを誘発してしまう危険もあります。
大切なのは、遺産分割と節税・納税、さらに家の承継や事業承継を、
いかにバランスよく遺言書に盛り込んでいくか。そこで本書では、弁
護士・税理士それぞれの視点から有効な遺言書の作成ポイントを提示
し、トラブルを未然に防ぐための手法を解説していきます。
目次
第1章 相続法大改正後の相続のしくみと遺産分割
第2章 相続法大改正後の遺言のしくみ
第3章 遺言書の作成方法
第4章 遺言書作成における相続税法上の留意点
第5章 ケース別 遺言書の上手な作り方
第6章 相続発生前後の留意点
--------------------------------------------------------------

  風蕭々と碧い時代

曲名:I Swear(1984年) 唄:All-4-One ジャンル:カントリー
作詞&作曲:ゲイリー・ベイカー、ランク・J・マイヤーズ 



モンゴメリーがオリジナルバージョンをリリースしてから数か月後、
All-4-Oneはレコードプロデューサーのデイヴィッドフォスターと独
自のバージョンを録音。All-4-Oneバージョンの曲は、2番目の詩の
「そしてあなたの髪に銀があるとき」という行が「そして私たち2人
だけがそこにいるとき」に置き換えられたという点で、元の曲とは
少し異なる。 All-4-Oneのバージョンは、米国のBillboard Hot 100
を含む多数の音楽チャートで1位になり、11週間連続で1位を維持し
ました。 全英シングルチャートで2位にピークを迎え、7週間連続で
滞在し、Wet WetWetの「LoveIsAll Around」で1位を獲得し、15週間
を1位をランクを記録。このバージョンは、UKシングルチャートで
合計18週間を費やす。このバージョンは、ビルボードの史上最高の
100曲のリストで88位にランクされていた。



● 今夜の一枚の写真
激レアのケースとモニター付き初代「Apple I」が5700万円超で落札。
▶2021.11.11 GIGAZINE
via Lot - The "Chaffey College" Apple-1 personal computer

● 今夜の寸評:沸騰する欲望と対峙する知恵
『夢七訓、夢なき者は理想なし、理想なき者は信念なし、信念なきは
計画なし、計画なき者は実行なし、実行なき者は成果なし、成果なき
者は幸福なし、故に幸福を求むる者夢なかるべからず』、渋沢栄一の
名言----NHKの大河ドラマ『晴天を衝け!』の『論語とそろばん』の録
画を観て、アダム・スミスの『道徳感情論』『国富論』がここに生き
ていることを知る。面白い!

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徐福伝説は真実だった?

2016年09月27日 | 世界歴史回廊

 



             人間は死ぬべきときには死ぬべきだ / ニーチェ『偶像の黄昏』

 

                                                                        

                                                        F.W.Nietzsche 
                                                                                                                       Oct. 15, 1844 - Aug. 25, 1900     

 

 

● 徐福伝説は真実だった? 長生不老の霊薬発見?

これはもう旧聞になるが、老化を抑制する効果が動物実験で判明しつつある物質を人間に投与
し安全性や効果の有無を調べる臨床研究を、慶応大と米ワシントン大(ミズーリ州)が来月に
も国内で開始する計画であることがわかった。慶応大の倫理委員会が近く、計画の妥当性など
を審査する。承認されれば、まずは10人程度の健康な人への投与で安全性を確認し、その後
数年かけて、体の機能の改善効果の有無を調べる。
この物質は「ニコチンアミド・モノヌクレ
オチド(NMN)」。ワシントン大の今井眞一郎教
授(老化学)らの研究で、NMNが老化を抑
える役割を持つ遺伝子サーチュインを活性化する
ことが判明。マウスにNMNを投与する実験で
は、老化にともなう代謝や目の機能などの低下
が改善されることもわかってきた(毎日新聞
2016.06.21)。


Nicotinamide Mono Nucleotide

11年、ワシントン大学教授の今井眞一郎が、マウス実験で糖尿病に劇的な治療効果を上げた、
ある物質の存在を世界で初めて報告――実は日本から始まった研究である。転機は今井氏のも
とに飛び込んだ日本企業のEメール。8
、9年前に、オリエンタル酵母工業の若い研究者が、
NMNがつくることはできないか。もしくはつくったとして、なにか面白いことができないかと
いうも。ちょうどわたしもパートナーを探していた時期で、まさに渡りに船の提案となる。

がてオリエンタル酵母工業によるNMNの開発と大量生産の実現に結びつく。その効能をマウス
でテストしてきた。NMNは日本人と日本企業が密接に協力し合った成果――
その物質「NMN
は糖尿病に限らずさまざまな臓器や眼さらには脳などの老化に伴う症状を改善すると判明。こ
の物質を投与されたマウスの器官は、若いころの状態にまでほとんど修復されていた。
NMN
現在、「若返りの薬」としてさまざまな分野で注目を浴びている。例えば、米国でこの物質を
研究するハーヴァード大学博士のポーヘン・アーは、美容業界から
NMNには実際に若返りの
効果があることが判明している
NMNを酵母で生成すれば、毒性はない。皮膚につけることも
食べることもできる。石鹸やローションのような日用品として使えるとして、同博士
の研究室
は、企業とのコンタクトを始めている。美容製品なので、薬のように認可のハードルも高くは
なく、早期の出荷が見込まれる。

 オリエンタル酵母工業

NMNとは、ニコチンアミド・モノヌクレオチドという物質の略称。ビタミンB3からつくられ
る物質。わたしたちが身体の機能を保つのに必要なNADという物質に変換される。老化すると
NADという物質が各臓器で減少する一方で、NMNを体内でつくる能力も減少していく。
つまり、
NMNという物質は人体の臓器を修復する上で重要なのに、これが加齢によって減少してしまう。
NMNの投与は、その低下を補っているに過ぎない。したがって、その治療は通常の薬物による
それとは少し違い、いわば身体能力を全体的に高めて機能を補正・補助する働きをする。




● すべての病気効用がある、老化がなくなると断言できない

具体的な使用シーンとしては、(1)病気になったときに、多量のNMNを使い病気の症状を改
善させる『治療薬』として、(2)日常的にNMNを摂取することで、老化とともに自然と低下
する身体機能を補正する『予防薬』としての使いうという2つ。そこで、
マウスでの結果を踏
まえると、人間は50~60代のあたりでNMNをつくる能力が落ちてくるその少し前から補充
するのがよいかと考えている。逆に、20代~30代には必要ない。
ただし、この薬は「万能
の薬」とはみなしていない。すべての病気に効用があるとか老化がなくなるとも断言されない。
例えば、ある種のがんを抑える働きはあるが、白血病の細胞に与えるとむしろその活動を活性
化し増殖を促す。また、健康な期間を長くできるが、寿命を何倍にも飛躍的に伸ばしたり、不
老不死が望めたりということはありえない。また、マウスでは明らかな副作用は認められてい
ないが、できる限りヒトでの安全性や効能を確認が必要だと話す。

日本は現在、世界でも類を見ない超高齢化社会に突入しつつある。その日本からNMNが誕生し、
世界に広がっていく。そこに大きな意義があると今井は考える。
年寄りになってもより健康的
で活発な時間を過ごし、人生を充実させるために使っていただける。そして生き生きとしたお
年寄りの姿を、次世代の人々が目にすることで
社会を明るくなり、貴重な体験や知識は次世代
へと伝わっていき活気ある社会になっていくと確信する。
この言葉の背景には、今井の哲学が
あり、
人間が死から免れることは研究の目標でなく、老化という現象を完全になくせるとも思
っていない。彼が自らの研究の究極の目標にしているのは、人間が充実した、健康かつ幸せな
人生を送ることにある。ニーチェは、『偶像の黄昏』という作品のなかの、『人間は死ぬべき
ときには死ぬべきだ』を引用し。ある意味においては、いずれ人生を全うしてこの世から去る
ということは重要なのではないかと問いかける(「未来の“若返り”サプリメント NMNの研
究」ワイヤード・ジャパン 2016.02.16)。 少々強引なヘッドラインではあるが、徐福が始皇
帝の命を受け「長生不老の霊薬」を求め東方に船出し、二千二百数年にして、その霊薬が発見
されたと後世に伝えられるのではと思わせるニュースを思い出し
ここに記載する。

  今井 眞一郎

    

 ● 又吉直樹 著 『火花』20 

  その日のネットニュースに「スパークス解散!」という記事が出た。それを見た実家の
 母親から、「お疲れさん]というメールが届いた。この十年間、親には仕事のいい
知らせ
 しか聞かせていなかった。これから死ぬ気で恩返しをしよう。両親も、僕を漫才師にして
 くれたのだった。記事を開きコメント欄に眼を通した。

 「誰だよ!」

 「知りません。芸人多過ぎ!」
 「面白くない芸人が解散したことを何故伝える必要があるのか?」
 「一瞬テレビ出てたけど、つまんないからすぐに消えたね。がんばれ!」
 「知らない! って人がほとんどじやない?私もその一人だけど」
 「芸のない人は芸人ではありません」
 「こいつら、面白くない。もう、昔みたいに面白い漫才師は出て来ないのかね?」
 「写真占いですね,これしかなかったの?」
 「銀髪の印象しかない。すみません」
 「もっと早い方がよかったと思います]
 「素人の俺の方が絶対に面白い」
 「スバークスの漫才好きでした」
 「町内会のコンビでしょ?最近は誰でもなれる]
 「髪染めて、チャラチャラやってんじやねIよ、カスがっ!こ
 「お疲れさまでした。(誰?)]
 「最後にネットニュースに載れただけでもよかったんじやない?」
 「誰? とか書くと、わざわざそんなこと書き込むな! みたいなレスあるけど、この人
 達に関しては大丈夫そうだね。うん。私も知らない」

 「知らねえよ! どの基準で記事書いてんだ?」
 「最近の若手は、ちっとも面白くない]
 「修業もせずに世に出るから、淘汰される」

  僅かながらの肯定的なコメントには本当に感謝した。救われた。僕達を含め、若手芸人
 全体に対する否定的な意見には、笑わせてあげられなくて申し訳ないと思った。
常に芸人
 が面白いという幻想を持たせてあげられなくて残念に思った。

  僕は小さな頃から漫才師になりたかった。僕が中学時代に相方と出会わなかったとした
 ら、僕は漫才師になれただろうか,漫才だけで食べていける環境を作れなかった
ことを、
 誰かのせいにするつもりはない,ましてや、時代のせいにするつもりなど
更々ない。世間
 からすれば、僕達は二流芸人にすらなれなかったかもしれない。だ
が、もしも「俺の方が
 面白い」とのたまう人がいるのなら、一度で良いから舞台に上
がってみてほしいと思った。
 
 「やってみろ」なんて偉そうな気持など微塵もない。世界
の景色が一変することを体感し
 てほしいのだ。自分が考えたことで誰も笑わない恐怖
を、自分で考えたことで誰かが笑う
 喜びを経験してほしいのだ。

  必要がないことを長い時間をかけてやり続けることは怖いだろう? 一度しかない人生
 において、結果が全く出ないかもしれないことに挑戦するのは怖いだろう。無駄
なことを
 排除するということは、危険を回避するということだ。臆病でも、勘違いでも、救いよう
 のない馬鹿でもいい、リスクだらけの舞台に立ち、常識を覆すことに全力で挑める者だけ
 が漫才師になれるのだ。それがわかっただけでもよかった。この長い月日をかけた無謀な
 挑戦によって、僕は自分の人生を得たのだと思う。

  吉祥寺ハーモニカ横丁の美舟に行くのは随分と久しぶりだった。二階に続く急な階段が
 懐かしかった。二階の座敷には人が溢れていた。小さなテレビの横に置かれた招き猫もま
 だあった。僕の眼の前には油‥谷さんが座っていて、肉芽をつつきながら焼酎の水割りを
 召んでいる。

 「スパークスの漫才めっちや面白かったな」

  神谷さんは、嬉しそうにそう言うと焼酎を一気に飲み干した。

 「神谷さん、泣いてたでしょ?」思い出すと笑えてくる。
 「確かに泣いたけど、あんな漫才見たことないもん。あの理屈っぼさと、感情が爆発する
 とこと、矛盾しそうな二つの要素が同居するんがスパークスの漫才やな」

  神谷さんは僕の方を見ずに太い声を出した。

 「誰も笑ってませんでしたけど、神谷さんに褒められるのが一番嬉しいです

  これは紛れもない僕の本心だった。

 「毎回、出てきていい話ばっかりする漫才師が一組だけおっても面白いと思うんやけどな。
 そんなん見たいもんI

  神谷さんは、呑み始めてからずっと僕のことを褒めてくれていた。あの頃と同じように、
 安い総菜達が僕等を癒してくれた。僕は神谷さんに何かを謝らなければならないような気
 がしていた。

 「神谷さん、すみません」

  神谷さんは、特に返事もせず美味しそうに肉芽を食べている。神谷さんは漫才を辞める
 僕のことをどう思うだろうか。神谷さんは生れてから死ぬまで自分は漫才師であると公言
 するような人だから、スパークスが解散したとしても僕が芸人を辞めることなんて考えて
 もいないのではないか。たとえ幻滅されたとしても、一番世話になった神谷さんに、話さ
 なければいけない,逃げてはいけない,

 「神谷さん、僕まだ何やるかは決めてないんですけど、芸人辞めようと思ってます」
 「うん」

  神谷さんは、柔らかい表情で僕を見ている,店が騒がしくてよかった,

 「もう、決めたんやろ?」
 「はい。僕、山下としか出来ないんで。あいつが辞めるって決断したということは、そう
 いうことやと思うんです」

  僕は神谷さんの優しい声に弱いのだ。神谷さんと毎日のように遊んでいた濃密な日々
 あって、僕は今日まで漫才師でいられたのだなと強く思った。仲谷さんとの出会いは、僕
 にとって本当に幸運だった。師匠の神谷さんに相談もせず、違う世界に行くという決断を
 したことを後悔はしていない。神谷さんのおかげで、僕は早口で話すことを諦められた。
 不良でないことを後ろめたくも思わなくなった。神谷さんから僕が学んだことは、「自分
 らしく生きる」という、居酒屋の便所に貼ってあるような単純な言葉の、血の通った激情
 の実践編だった。僕は、そろそろ神谷さんから離れて自分の人生を歩まなければならない。

 「徳永」

  肉芽を呑みこんだ神谷さんが、顔を上げた。
 
 「はい」
 
  この話は笑って聞こうと思った。

 「俺な、芸人には引退なんてないと思うねん。徳永は、面白いことを十年間考え続けたわ
 けやん。ほんで、ずっと劇場で人を笑わせてきたわけやろ」

  神谷さんの表情は柔らかかったが語調は真剣だった。

 「たまに、誰も笑わん日もありましたけどね]
 「たまにな。でも、ずっと笑わせてきたわけや。それは、とてつもない特殊能力を身につ
 けたということやで。ポクサーのパンチと一緒やな。無名でもあいつら簡単に人を殺せる
 やろ。芸人も一緒や。ただし、芸人のパンチは殴れば殴るほど人を幸せに出来るねん。だ
 から、事務所やめて、他の仕事で飯食うようになっても、笑いで、ど突きまくったれ。お
 前みたいなパンチ持ってる奴どっこにもいてへんねんから」

  急にボクシングで例え出したことを指摘したら、神谷さんは怒るだろうか。「笑いでど
 突きまくったれ」とは、なんと格好悪くて、なんと格好良いんだろう。

 「漫才はな、一人では出来ひんねん。二人以上じゃないと出来ひんねん。でもな、俺は二
 人だけでも出来ひんと思ってるねん。もし、世界に漫才師が自分だけやったら、こんなに
 も頑張ったかなと思う時あんねん。周りに凄い奴がいっぱいいたから、そいつ等がやって
 ないこととか、そいつ等の続きとかを俺達は考えてこれたわけやろ?ほんなら、もう共同
 作業みたいなもんやん。同世代で売れるのは一握りかもしれヘん。でも、周りと比較され
 て独自のものを生み出したり、淘汰されたりするわけやろ。この壮大な大会には勝ち負け
 がちゃんとある。だから面白いねん。でもな、淘汰された奴等の存在って、絶対に無駄じ
 ゃないねん。やらんかったらよかったって思う奴もいてるかもしれんけど、例えば優勝し
 たコンビ以外はやらん方がよかったんかって言うたら絶対そんなことないやん。一組だけ
 しかおらんかったら、絶対にそんな面白くなってないと思うで。だから、一回でも舞台に
 立った奴は絶対に必要やってん。ほんで、全ての芸人には、そいつ等を芸人でおらしてく
 れる人がいてんねん。家族かもしれへんし、恋人かもしれへん」

  僕にとっては相方も、神谷さんも、家族も、後輩もそうだった。真樹さんだってそうだ。
 かつて自分と関わった全ての人達が僕を漫才師にしてくれたのだと思う。

 「絶対に全員必要やってん」

 
 神谷さんは小指でグラスの氷を掻き混ぜていた。

 「だから、これからの全ての漫才に俺達は関わってんねん。だから、何をやってても芸人
 に引退はないねん

  神谷にさんは、そう言って、氷しか入っていないグラスを口につけ、少し照れ臭そう
 した。

 「ありがとうございます,どんな環境に肘っても、笑いで、ど突き回してきます」
 と、笑いという箇所を誇張して言うと、仲谷さんは、「お前、おちょくってるやろ」とい
 
った。

    *

  僕は芸人を辞めて、取りあえずは二軒の居酒屋で休みなく働き生計を立てた。相方は大
 阪の実家に帰り、携帯ショップに就職が決まったようだった。神谷さんとは
時々、連絡を
 取った。神谷さんの伝記のために書き溜めたノートは二十冊を超えてい
た。その半分以上
 は自分やスパークスや恋愛に纏わることだった。この中から、神谷
さんを神谷さんたらし
 める逸話だけを集めれば、もしかしたら伝記になるかもしれな
だけど、僕は未だ伝記とい
 うものを一冊も読んだことがなかった。神谷さんに絶対
に載せるようにと言われた自作の
 ポエムなども取ってあったが、伝記にはそういうの
も載せるものだろうか。

  11月の半ばを過ぎ、本格的な冬の到来を感じさせる風が吹いた頃、神谷さんの居
場所
 を知らないかと大林さんから電話があった。急に連絡が取れなくなり、仕事にも
来ないの
 だと言う。僕もすぐに神谷さんに電話をかけてみたが繋がらなかった。その
日のうちに、
 三宿のアパートにも行ってみたが、ドアノブには入居者用の電気とガス
のお知らせがかか
 っていたので、もうここには住んでいないのだろう。ふと、三軒茶
屋の由貴さんの家にい
 るのではないかと思ったが、神谷さんの意志で出てこないので
あれば無闇に訪ねて行くべ
 きではないと思った,大林さんの話によると、借金が一千
万近くまで膨らんでいたらしい。
 アパートを後にして246に出ると冷たい風が間断
なく吹きつけてきた。空車のタクシー
 が何台も連なって走っていた。一台一台が僕の
横に来ると様子を窺うように徐行する,そ
 れは僕を喰おうと物色する何か巨大な生き
物のようにも見えた,神谷さんは、一体どこに
 行ってしまったのだろう。


    *

  僕は知り合いに紹介して貰った下北沢の不動産屋で働くことになった。事務的な作業は
 決して得意ではなかったが、接客では芸人をやっていたことが大いに役立った。男性二人
 で部屋を探しに来た若者が、芸人としての僕のことを知っていたことがある。彼等は家が
 決まったら来年の春から上京し、芸人を目指すのだと言った。彼等は物件を一緒に見に行
 った時も隙があれば面白いことを言って、僕の反応を窺っていた。僕は終始微笑んでいて、
 本当に面白い時だけ声を出して笑った。自分達の才能を全く疑わず、お互いの面白さを誇
 らしげに見せつけようとする彼等が眩しかった。少しだけ知っている漫才師の僕は彼等か
 らすれば、最適な試験紙だっただろう,いつでもネタ合わせが出来るように和田堀公園の
 近くにある物件を紹介した。

  神谷さんは行方不明のままだった。借金が大きくなり過ぎたので、強制的にどこかで働
 かされているのだとか、変なビデオに出演させられているのだという噂が流れたが、どれ
 も信憑性に欠けるものばかりだった。
  その日、僕は下北沢で仕事を終えて、鈴なり横丁でモツ煮をつつきながら一人で呑んで
 いた。二杯目の焼酎を呑み始めた時に、知らない番号から着信があった。直観的に神谷さ
 んからだとわかった。紬‥谷さんの声を聞くのは一年振りだった。漫才しか出来ない人が
 一年間もどこで何をやっていたのだ。呑みかけのグラスを一気に空にして、タクシーに飛
 び乗り池尻大橋まで向かった。駅前の居酒屋「花しずく」に入ると、既に顔を赤くし、ジ
 ャンパーを椅子の背もたれにかけ、ゆったりしたセーターの袖を捲りあげた神谷さんが奥
 の方の席で僕に向かって手を上げた。少し痩せたような気がするが一年前よりも精悍に見
 えた。だが、姿が見えた瞬間から妙な違和感があった。途轍もなく嫌な予感がする。

 「神谷さん、一年も何してたんですか?」

  僕の言葉には尋問のような響きがあった。

 「なんか探してくれたらしいな。大林が言うてた。あいつに、思いっきり顔面どつかれた
 わ一と神谷さんが痛そうに頬を抑えた。 大林さんは、関係者に頭を下げに回り、服務所
 に籍を残したまま神谷さんを待ち続けていたのだ。しかし、この違和感はI体なんだろう。

 「徳永、聞いてくれ。最悪やねん。今日な事務所に謝りに行ってんけどな、もうアカンら
 しいわ」
 「そら、そうですよ」

  仕事を飛ばした挙げ句、一年も音沙汰なしでは、事件に巻き込まれたとか、何らかの理
 由がない限り、どんな職鮪でも解雇されるのは当然のことだろう。

 「借金でかなってな、ほんまにどうしようもなくなって、大阪帰って走り回って金作って
 んな」

 「返せたんですか?」

 「結局、自己破産して、危ないとこだけなんぼか返した。徳永、絶対借金すんなよ。借金
 取り怖いで。ずっと電話ぶちってたらな、留守電にな「俺達が、どうせ取り立てに行かな
 いと思ってるんでしょ。捕まるから。キミ煙草吸ってる? 明日、それと同じ吸殻家の前
 に置いとくから、あんまり砥めんなよ!』って入っとってん。めっちや怖いやろ。ほんで、
 次の日、玄関開けたら、ほんまに吸殻あってん。いや、青ざめで。ただな、銘柄見たら、
 俺の吸ってるショートホーブやなくて、ピアニッシモのメンソールやってん。お前が砥め
 んな! って思わず叫んでもうたわ。ピアニッシモのメンソールって女子やないか」

この後、漫才をやめた徳永が、再会した神谷の変貌に驚き、幻滅していく様子が綴られていく
が、今夜はこの辺で切り上げ、次回でこの読書も最終となる。


                                  この項つづく 

 

  ● 今夜の一品

黒龍 酒杯 深澤直人デザイン

 

  

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帝國のロングマーチ Ⅸ

2016年06月13日 | 世界歴史回廊

    

    
              国民国家というのは歴史的産物であり、決して普遍的なものじゃないですよ。現に
              EU(欧州連合)はすでに通貨を統一するなどして、国民国家の枠を超えようとして
             いるじゃないですか。         

  

                                         

                                Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924 - 16 Mar, 2012  

 

【帝國のロングマーチ Ⅸ】  

   

● 折々の読書  『China 2049』30    


                                  秘密裏に遂行される「世界覇権100年戦略」     


                                                    マイケル・ピルズベリー 著
                                                    野中香方子 訳   

ニクソン政権からオバマ政権にいたるまで、米国の対中政策の中心的な立場にいた著者マイケル・ピルズベリーが
自分も今まで中国の巧みな情報戦略に騙されつづけてきたと認めたうえで、中国の知られざる秘密戦略「100年マ
ラソン( The Hundred-Year Marathon )」の全貌を描いたもの。日本に関する言及も随所にあり、これからの数十
年先の世界情勢、日中関係そして、ビジネスや日常生活を見通すうえで、職種や年齢を問わず興味をそそる内容と
なっている。 
   

 【目次】

  序 章 希望的観測
 第1章 中国の夢
 第2章 争う国々
 第3章 アプローチしたのは中国
 第4章 ミスター・ホワイトとミズ・グリーン
 第5章 アメリカという巨大な悪魔
 第6章 中国のメッセージポリス
 第7章 殺手鍋(シャショウジィエン)
 第8章 資本主義者の欺瞞
 第9章 2049年の中国の世界秩序
 第10章 威嚇射撃
 第11章 戦国としてのアメリカ
 謝 辞
 解 説 ピルズベリー博士の警告を日本はどう受け止めるべきか
     森本敏(拓殖大学特任教授・元防衛大臣) 
 

    

    第6章 中国のメッセージポリス    
 

                                   樹上開花-樹上に花を開す

                                  『兵法三十六計』第二十九計    

  中国政府が国内のメディアに通達した公式な手引きが強調するのは、「レッド・チーム」のメンバー、つま
 り、中国政府の描写によれば、「中国と親しく]「中国のPR
における良い助手」になれるアメリカ人を支援
 しなくてはならない、ということだ
(注18)。中国政府はアメリカで「良い助手」をたくさん見つけていた(
 注19)。彼らは
中国へ招待され、さまざまな指導者や学者との面会を許され、メディアで賞賛され、いくつか
 の事例では、仕牡の契約や投資の機会を与えられる。対談の相手は、アダ
ム・スミスやトマス・ジェフアーソ
 ンについて情熱的に語り、外国政府や国内の反体
制者から強い圧力や批判を受けたら中国はひとたまりもない、
 と嘆いてみせる。言い
たいことははっきりしている,中国は脅威ではない,中国が平和的に成長し、大国に
 るのをアメリカは支援すべきである、ということだ,

  北京の官僚は、アメリカのある腫の中国専門家を、中国政府の代弁者として重視している,そのことはわた
 しもよく知っている。というのも、わたし自身、かつてはレ
ッド・チームのひとりだったからだ,もっとも、
 その言葉ができるずっと前のこと
だ。一時、わたしたちはチームの他のメンバーとほぼ面識があり、全員を集
 めても、
標準的なホールがかろうじて埋まる程度の人数しかいなかった。現在も中国は比較的容易に、アメリ
 カ人の議論や著作物を監視し、誰が仲間で、誰がそうでないかを決め
ている。そして中国の指導者は、十分な
 数の学者に影響を及ぼすことができれば、そ
の人々の見解は、中国政府に詳しい専門家を探している他の学者、
 アナリスト、政策立案者、記者に広まることをよく知っている。

  Professor Ross Terrill on China

  中国は多くの方法を用いて、アメリカの思想や意見の中心部に到達している。ハーバードの歴史家、ロス・
 テリルはそのプロセスを詳述する。

 「中国とのピジネスで成功しているアメリカ人と、中国を研究するアメリカの機関は共存関係にある。中国に
 すばらしいコネを持つビジネスマンは大金を持っており、中
国での調査資金を必要とするシンクタンクにとっ
 て、寄付の申し出を辞退するのは難
しい(注20)。
  中国の企業はアメリカのシンクタンクや大学に多額の寄付をし、中国政府の見解を支持する中国政策研究を
 資金面で支えるようになった。それは、共産党政治局が糸を
引く巧みな情報操作の一環であり、マラソンの勝
 利に大きく影響するはずだ。

  協カ者をさらに増やすため、2004年、中国政府はさらに巧妙な作戦を開始する。それは財界中に孔子学
 院を設立しはじめたことだ。中国政府がその組織をいかに
重脱しているかは、国務院副総理で、女性で初めて
 中央政治局のメンバーとなった
延東をトップに据えたことを見ればわかる。孔子は、親切で充足している中
 国のイメ
ージを伝えるには完璧な象徴だ。西洋人が「孔子学院」という名を開いて思い浮かべるのは、賢明な
 格言で知られる、思慮深く温和な哲学者、孔子である,

  Epoch Times Oct, 1, 2015

  公式には、その国の人々に中国語と文化を学ぶ場を提供しており、しばしば地元の大学と協力 している。
 しかし、彼らは中国の歴史の上塗りも行ってお
り、中国は孔子を文化理解の案内人と見なす平和主義の幸福な
 国だ、というイメージ
を外国人に植え付けようとしている。学院では、孫武の『孫子』を、非暴力を説く物
 として再解釈することが奨励される。学生は、誠実で尊敬すべき行動をとる幸福な
孔子一門や文化的哭雄の物
 語を大いに楽しむ。平和主義と誠実さが、中国文化の軸と
して強調される。中国政府のウェブサイトの広告に
 よると、学院は「中国と世界の
国々との友好と協力を強化する架け橋であり、世界中で熱烈に歓迎されている
 (注21)


  過去10年間に、学院は世界中の350の大学で歓迎され、その中にはスタンフオード大学、コロンビア大
 学、ペンシルヴァニア大学も含まれる(注22)。中国がアメリ
カヘの接近を重視している証拠に、世界の孔子
 学院の五分の一はアメリカにある(注23)。
他の国より4倍も多い(注24)。「財政難の大学の運営者にとっ
 て、学院は天の助けのようなものだろう」と、201
2年、ニューヨーク・タイムズは報じた。
 「教科書と北京で訓練を受けた語学教師が無料で提供されるだけでなく、管理者の給料や公的イベントの資金
 も中国側がもってくれる(注25)のだから」

 Criticisms of Confucius Institutes 孔子学院批判 /Wikipedia

    大学は数十万ドルを受け取り、さまざまなブログラムに必要なら、さらに多くの資
金が提供される。その資
  金はすべて「漢辧(訳注*国家対外漢語教学指導小組か公室)」から
出資されるが、ある出版物によれば、漢
  辧は「教育大臣が統括する中国政府の一部門」で(注26)、劉延東を長とし、12の省庁と委員会に属する上
 級官僚が管理運営している。「率直に言って、漢聯は外国人を教育するための党が経営する組織だ」と、ネー
 ション誌の記事は解説している(注27)。

  2011年、中国政府の英字新聞チャイナ・デイリーは、ニューヨーク・タイムズに2ページの広告を載せ、
 学院の利点を大げさに宣伝し、学院は「総力をあげて、外国人学習者の要求を満たし、多文化主義の発展に貢
 献する」と主張したその広告によれば、学院は「文化とコミュニケーションに関するプログラム作成に集中し、
 イデオロギーに関する内容は避ける」としている(注28)。これは、真実ではない。
  マウント・ホリヨーク大学の中国文学教授、ジョナサン・ジッブマンは、こう警告する。
 「孔子学院は、わたしたちが欲する商品、つまり中国語学習の機会を売り歩くことによって、アメリカの学会
 に中国政府を強引に持ち込んでいる(注29)」
  同様に、マイアミ大学のある教授は、「中国の気前の良さは条件つき」だということに気づく。
 「ダライ・ラマについて語ったり、ダライ・ラマを大学に招待したりするのは厳禁だ。チベット、台湾、中国
 の軍備増強、中国の指導者内での派閥争いべて、触れてはならない話題だ(注30)」

  これらはブルームバーグーニュースが報じたように、「中国政府と密接な関係にある北京の組幟が、スタン
 フォード大学に、孔子学院の設立資金と教授の給与として400万ドルの支援を申し出たとき、一つの警告が
 付されていた。教授はチベットのようなデリケートな問題について語ってはならないというものだ(注31)」。
 シドニー大学は、オーストラリアで最も評価の高い大学の一つだが、中国との結びつきと、孔子学院のための
 資金供給が断たれることを恐れ、予定されていたダライ・ラマの訪問をキャンセルし、厳しい批判を受けた(
 注32)。

  ワシントンD.C.の孔子学院を訪れたわたしは、そのカリキュラムに、五つの「儒教の教典」の、「望ま
 しくない」五つ目の経書が含まれていたのを見て驚いた。それは『春秋左氏伝』で、戦国時代の五つの覇権国
 の隆盛と凋落が記されている。カナダの教授、テリー・ラ
ッセルが務める大学は、中国の資金援助による孔子
 学院の設立を断った。ラッセルはこう述べている。
 「孔子学院はプロパガンダの道具であり、大学という枠組みを利用したPR活動にすぎない(注33)」
  孔子学院の大学に対する要求を正確に知るのは難しい。というのも、交渉の大半は秘密裏に行われているか
 らだ。ネーション誌の記者は、合意文書の一部を人手したと主張する。それは次のようなものだ。
 「合意に至る二者は、この同意を秘密とし、いずれからも書面による承認はなく、いずれも公表、暴露、周知
 をしない。また、もう一方から知り得た資料や情報を第三者
が公表、暴露、周知することを認めない。ただし、
 その合意意のもとで義務を果たすた
めに公表、周知が必要な場合を除く(注34)」

  批評家たちは、孔予学院は中国に関する学問を検閲する手段となるだけでなく、「産業、軍事スパイ活動や、
 海外の中国人に対する監視、台湾勢力への妨害」の隠れ蓑に
なる恐れがある、と警告する(注35)。スウェー
 デンでは、ストックホルム大学の数名
の職員が、北欧孔子学院との関係を断つことを大学に要求したが、その
 理由は「スト
ックホルムの中国大使館は孔子学院を利用して、政治的監視や密かな宣伝を行い、また、法輪功
 などのデリケートな問題に関する研究を禁じようとしている」というもの
だった(注36)。カナダ、マニトバ
 大学の教授は、学院は雇用した中国人教授に、「
こで学習する中国人学生の活動を監視させる」つもりだと
 いう懸念を表明した(注37
)。 

  中国政府は学院の広がりを誇りとし、中国がアメリカに肩を並べつつある証拠だとして大いに自画自賛して
 いる,人民日報は2011年にこんな自慢をした。
「なぜ今、中国にこれほど多くの注目が集まっているのだ
 ろう? それは、その力が
増大する一方であるからだ……われわれと世界や西洋との関係は以前とは異なる。
 も
はやわれわれは、彼らが優しく慈愛をもって見守る対象ではない。われわれは徐々に力を増し、彼らと対等
 になろうとしているのだ(注38)」

  西洋から批判された時によくやるように、中国の指導者は、孔子学院を批判する人々を戦争挑発者、あるい
 は有害な時代錯誤者として退ける。「孔子学院の急激な成長
を快く思わない者もいる」と、2012年に英国
 の中国大使は述べた。

 「彼らは、時代遅れの『冷戦』時代の考え方にしがみついている(注39)」
  孔子学院は、大学のキャンパスでの成功に勢いづき、現在、世界中の高等学校や初等学校に同様の手法で勢
 力を拡大している。オーストラリアでは、中国の「言語と文
化」の学習を促すため、地元の学校に20万ドル以
 上の援助を申し出た。その融資は条
件付きだった。天安門の虐殺問題や人権問題などについて議論することを
 学生たちに
許可しないのが「最も望ましい」というのだ(注40)。学生はその代わりに、中国政府が認める見
 方だけに関心を持つのがよい,中国は全世界との調和を求める平和的な国
家である、と,

 
Focus on China: BIG Science in a BIG Country


ここまで読み続けて、この長征は、ロシアマルクス主義の一国社会主義理念崩壊後の「漢民族帝國主義?」に変質
したロングマーチというのが相応しいのじゃないかとの思いを強める。そして、その先は?ブログで既に掲載して
きた通りになるのでは。と、今夜はそのことに触れず読み進めて行こう。


注18.China's Propaganda and Influence Operations, Its Intelligence Activities That Tharget the United States, and the 
          Resulting Impacts on U.S. National Security: Hearing Before the U.S-China Economic and Security Review Commission,
    111th Cong. 88(Apr. 30, 2009)、statment of  Dr. Jacqueline Newmyer, president and CEO, Long-Term Strategy Group,
    Cambrige、MA, 以下のサイトで入手可能。 
          http://origin.www.uscc.gov/sites/default/files/transcripts/4.30.09HearingTranscript,pdf. 2009年2月、Reference  News(
           Cankao Xi
aoxi)の記事より引用、American Open Source Center 翻訳によるニューマイヤーの言葉。
注19.Friedberg,Content for Supremacy, 194-95.
注20.  Chaina's Propagandea and Influence Opreretion, Its Intelligence Activites That Target the United States, and the Resulting
           Impacts on US National Security: Hearing, Before the US-China Economic and Security Review Commission, 11 th
           Cong, 67 (Apr.30,2009),statement of Dr. Ross Terill,associate in research,John K. Fairbank Centcr for Chincse
           Studics, Harvard univcrsity,Cambridge. MA, 以下のサイトで入手可能。
           http://origin.www.uscc.gov/sites/default/files/transcripts/4.30.09HearingTrans.pdf.
注21.Confucius lnstitutc/Classroom wcbsitc, 以下のサイトで入手可能。http://cnglish.hanban.org/nodcj0971.htm.
注22   D.D.Guttcnplan, “Critics Worry About lnfluencc of Chinese lnstitutes on US Campuscs," New York Times, March 4,
           2012,以下のサイトで入手可能。
           http://www.nytimcs.conl/2012/03/05/us/critics-worry-about-infuence-of-chinese-institutes-on-us-campuses.html?pagewanted=all&_r=0.
注23.  “China’s Confucius lnstitutes: Rectification of Statues,”Economist, January 20, 2011, 以下のサイトで入手可能。
    http://wwwecononlist.com/blogs/asiaview/2011/01/china%E2%80%99s_confuciusinstitutcs.
注24.  DanicI Goldcn,“China Says NO Talking Tibct as Confucius Funds U.S.Universitics,”Bloombcrg Ncws Scrvice,
           Novcmbcr l,2011,以下のサイトで入手可能。
           http://www.bloombcrg.com/ncws/2011-11-01/china-says-no-talking-tibet-as-confucius-funds-u-s-universities.html.
注25.  Guttenplan,“Critics Worry About lnnucncc of Chincsc lnstitutes on U.S・ Campuses.”
注26.  Josh Dehaas,“Talks End Bctwccn Confucius lnstitutes and U Manitoba,”Mαclean's June 21, 2011,以下のサイト
           で入手可能。
    http://www.maclcans.ca/education/uniandcollege/talks-end-between-confucius-institutes-and-u-manitoba/.
注27.  MarshaII Sahlins/‘China U.,"jVαΓf0,7,0ctober 29, 2013,以下のサイトで人手可能。
           http://xnvw.thenation.com/article/176888/china-u.
注28.  Golden,“China Says No Talking Tibet as Confucius Funds U.S.Universities.”
注29.  Do ↑
注30.  Guttenplan, "Critics Worry About Influence of Chinese Institutes on U.S. Campuscs."
注31.  Golden,"China Says No Talking Tibet as Confucius Funds U.S.Universities. ”実際、チベット問題は孔子学院のウェ
           
ブサイトでは一切言及されない。それについては次のウェプサイトで入手可能。
    http://ealc.stanford.edu/confucius_jnstitute/  2013年1月10日、スタンフォード大学国際部(Omcc of lntcmational Affairs)
    によるインタビューを受けて、王斑教授は次のように述べた。「過去2年間、漢榊や北京大学などの人々と意見が異
    なった時にはいつでも、チャオ教授とザラー学部長とわたしは北京へ赴き、じかに会って交渉した。その時には、学
    院の運営についてスタンフォード大学が決定権を持っていたことを彼らに思い出させた。結果的にその状況はわた
    したちにとって都合が良かった(略)」。スタンフォード大学の孔子学院については、以下のサイトで入手可能。
    https://oia.stanford.edu/node/14779. David WiseTiger Trap : America's Secret Spy War with China (Boston,MA:
           Houghton Mimin Harcourt, 2011),同書14章も参照。

※ 脚注で書けなかった項目(番)は後日適宜掲載。

                                                                   この項つづく
 

 

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帝國のロングマーチ Ⅶ

2016年06月03日 | 世界歴史回廊

    

  

      日本人の欠点は、物事をなんでも『役に立つかどうか』で表面的に判断し、役に立たないことはや
      りたがらないことだと思います。そして誰もが自分のやっていることは、世の中の役に立っている
      と思い込んでいる。往々にして、他人からすると傍迷惑なだけですが。だいたい人の人生が有意義
      か無意義かなんて、誰に決められるんか。本当は他人の目を気にしているだけで、自分がないんで
      すね。
 

                                        

                               Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924 - 16 Mar, 2012    

 

  

● 折々の読書  『China 2049』28    

                                  秘密裏に遂行される「世界覇権100年戦略」     


                                                    マイケル・ピルズベリー 著
                                                    野中香方子 訳   

 ニクソン政権からオバマ政権にいたるまで、米国の対中政策の中心的な立場にいた著者マイケル・ピルズベリーが
自分も今まで中国の巧みな情報戦略に騙されつづけてきたと認めたうえで、中国の知られざる秘密戦略「100年マ
ラソン( The Hundred-Year Marathon )」の全貌を描いたもの。日本に関する言及も随所にあり、これからの数十
年先の世界情勢、日中関係そして、ビジネスや日常生活を見通すうえで、職種や年齢を問わず興味をそそる内容と
なっている。 
   

 【目次】

  序 章 希望的観測
 第1章 中国の夢
 第2章 争う国々
 第3章 アプローチしたのは中国
 第4章 ミスター・ホワイトとミズ・グリーン
 第5章 アメリカという巨大な悪魔
 第6章 中国のメッセージポリス
 第7章 殺手鍋(シャショウジィエン)
 第8章 資本主義者の欺瞞
 第9章 2049年の中国の世界秩序
 第10章 威嚇射撃
 第11章 戦国としてのアメリカ
 謝 辞
 解 説 ピルズベリー博士の警告を日本はどう受け止めるべきか
     森本敏(拓殖大学特任教授・元防衛大臣)   

   

    第6章 中国のメッセージポリス    

                                   樹上開花-樹上に花を開す

                                  『兵法三十六計』第二十九計   

  彼女は、中国政府がいかにして国民の政策への批判を日常的に監視(そして抹殺)しているかを教えてく
 れた。特別なメッセージを考案する際にはタカ派とハト派の衝
突がしばしば起きた、と彼女は言う。これは
 ホワイトがもたらした情報と一致した。

  ホワイトによると、1980年代、タカ派が共産党の宣伝局を掌握し、国内の聴衆に向けてアメリカをど
 れほど悪党として描くかをめぐってハト派と論争していたそう
。彼らは海外の大使や中国の諜報機関から
 フィードバック情報を集め、一睡のフィ
ードバック・ループの中でメッセージを調整し直すようにしている
 という。


  ミズ・リーによると、その作戦には120億ドルの年間予算が充てられ、党の常務
委委会によって運営さ
 れていた。メンバーは毎週、北京の密室で集まり、多くの時間
を費やして、宣伝システムに流すメッセージ
 を作成した。そのシステムには、中国の
新聞、テレピ番組、海外で出版された雑誌、それに、中国のインタ
 ーネットが含まれ
た。この作戦のもう一つの部門は、党の本部がある地区から道路を隔てたところを拠点と
 する秘密組織で、1000人以上のスタッフが働いていた。そこは「統一戦線工
作部」と呼ばれ、独自に情
 報を収集し分析している。わたしは1999年にそこを訪
れた。責任者はわたしに、当組織の関心は「国内」
 問題にある、と言った。当時のわ
たしたちは、その衷の意味を理解していなかったが、中国の指導者が直接
 管理するこ
の集団は、確実に「正しい」メッセージだけが、まずは国内へ、そして海外へと発信されるよう
 にしようとしているのだ。このことは、中国のプロパガンダの多くが、中
国人にはわかるが、外国人にはわ
 からない奇妙な諺やスローガンを伴っている理由を
説明するかもしれない。

  このプログラムの成果としてミズ・リーがまず挙げたのは、中国とアメリカとの貿易正常化と、中国の世
 界貿易機関(WTO)への正式加盟を決めた2000年の米議
会投票への影響だった。いずれの決定も、中
 国経済を大いに後押しした。この件に関
して中国の戦略は、国内でも国外でも、中国に社会主義経済を放棄
 するつもりはまっ
たくないという情報を打ち消し、代わりに、中国のハト派の改革論者は自由市場への移行
 を望んでおりそれが成功しそうだ、とほのめかすことだった。疑い深いアメリカ
議会を味方に引き入れるに
 は、どうしても必要な戦略だったのだろう。

  
彼女が示した次の例は、ダライニフマのチベット帰還を巡る交渉で、ピル・クリントン大統領が圧力をか
 けようとするのを中国が回避したことだ。中国は、ダライニフ
マの政治的要求を誇張し、また、彼を「僧衣
 をまとったジヤッカルーと呼ぶことで、
宗教的指導者ではなく政治家なのだというイメージを強め、別の人
 間をチベットの指
導者の地位に据えようとした(注15)。

 China to meet Dalai Lama aides amid Tibet tension

  三つ目の例として彼女は、中国の人権活動家や、亡命した元上級官僚へのアメリカの支援を、中国政府が
 どのように妨害したかを詳しく語った。以上、三つの事例のうち、最も成功したのは、中国のWTO加盟を
 決める投票の操作だった、と彼女は言った。

  ミズ・リーの説明を聞いて、わたしたちは大いに驚いたが、アメリカ政府の内外には、中国がアメリカ議
 会とホワイトハウスに手を伸ばしていることを疑う者もいた。しかし、上院議員のフレッド・トンブソンと
 ジョン・グレンが率いた1996年の調査では、アメリカの政治プロセスに直接影響を及ぼそうとする中国
 の試みが明らかになった。「ザ・プラン」と呼ばれるその計画では、アメリカの選挙資金法を無視して、中
 国の現金が直接、親中派の選挙活動費に投入された(注16)。2000年3月、FBIとCIAによる、機
 密扱いでない議会宛ての報告書には、北京は「世界の中国観を……監視し、それに影響を及ぼしている」と
 記されていた。その報告書によれば、中国は、「中国の利益に影響する国の動きと重要人物に関する情報」
 を集めようとしており、「アメリカの諜報機関への潜入を重要な目標としている(注17)」。ミズ・リーに
 よると、2000年までに中国は、アメリカの政治家への違法な選挙資金の提供をやめたそうだ。上院の調
 査を受けてのことだ。しかし、アメリカの政治を操ることをあきらめたわけではなく、別の合法的な方法を
 見つけたのである。中国のメディアやシンクタンクからワシントンにいる復中派に送られるメッセージを操
 作し、好ましくない思想を排除したり、覇権国を警戒させそうな情報を流さないようにしたりするやり方だ。
 ミズ・リーの説明は、わたしたちが考えていたよりはるかに中国が有能であることを示していた。

  Books: The China Threat - How the People's Republic Targets America, Bill Gertz

  ミズ・リーによると、中国は何年もかけて、自分たちに都合のいいメッセージを発信する程度に応じて、
 外国の重要人物をさまざまなカテゴリに分類したそうだ。主要国の中国大使館は、これらの人々を追跡する
 ための「友愛委員会」をつくり、主な政治家、財界指導者、メディアで影響力のある人物を評価し、「友好
 的」から「敵対的」までのランク付けをした。そして特に友好的な人物を中国の「親友」と呼んでいる。ア
 メリカの「親友」のリストには、多くの学者、政府官僚と元政府官僚、それに両政党の国家安全政策アドバ
 イザーが含まれている。 ウィリアムC・トリプレットニ世は上院外交委員会の前顧問で、中国に関する2
 冊の本を共著し、アメリカの親中派を表す「レッド・チーム」という新しい言葉をつくった,実際のところ、
 レッド・チームの大半は、人民解放軍の共産党的本質を理解できていないか、あえてそれを無脱しているか
 のどちらかだ。レッド・チームに対抗するグループを、トジプレットは「ブルー・チーム」と名づけた。親
 中派とのイデオロギー上の戦いに巻き込まれた人々である。当然ながら、レッド・チームというレッテルを
 貼られた人々は憤慨し、中国の傀儡であることを否定する。彼らは、中国政府は彼らにも、他の誰に対して
 も、嘘をついていないと断言する。

  中国政府が国内のメディアに通達した公式な手引きが強調するのは、「レッド・チーム」のメンバー、つ
 まり、中国政府の描写によれば、「中国と親しく」「中国のPRにおける良い助手」になれるアメリカ人を
 支援しなくてはならない、ということだ(注18)。中国政府はアメリカで「良い助手」をたくさん見つけて
 いた(注19)。彼らは中国へ招待され、さまざまな指導者や学者との面会を許され、メディアで賞賛され、
 いくつかの事例では、仕事の契約や投資の機会を与えられる,対談の相手は、アダム・スミスやトマス・ジ
 ェフアーソンについて情熱的に語り、外国政府や国内の反体制者から強い圧力や批判を受けたら中国はひと
 たまりもない、と嘆いてみせる。言いたいことははっきりしている,中国は脅威ではない,中国が平和的に
 成長し、大国になるのをアメリカは支援すべきである、ということだ,

 "A Contest for Supremacy" by Dr. Aaron L. Friedberg

  北京の官僚は、アメリカのある腫の中国専門家を、中国政府の代弁者として重複している。そのことはわ
 たしもよく知っている。というのも、わたし自身、かつてはレッド・チームのひとりだったからだ。もっと
 も、その言葉ができるずっと前のことだ。当時、わたしたちはチームの他のメンバーとほぼ面識があり、全
 員を集めても、標準的なホールがかろうじて埋まる程度の人数しかいなかった。現在も中国は比較的容易に、
 アメリカ人の議論や著作物を監視し、誰が仲間で、誰がそうでないかを決めている。そして中国の指導者は、
 十分な数の学者に影響を及ぼすことができれば、その人々の見解は、中国政府に詳しい専門家を探している
 他の学者、アナリスト、政策立案者、記者に広まることをよく知っている。

  中国は多くの方法を用いて、アメリカの思想や意見の中心部に到達している。ハーバードの歴史家、ロス・
 テリルはそのプロセスを詳述する。「中国とのビジネスで成功しているアメリカ人と、中国を研究するアメ
 リカの機関は共存関係にある。中国にすばらしいコネを持つピジネスマンは大金を持っており、中国での調
 査資金を必要とするシンクタンクにとって、寄付の申し出を辞退するのは難しい(注20」
 
  中国の企業はアメリカのシンクタンクや大学に多額の寄付をし、中国政府の見解を支持する中国政策研究
 を資金面で支えるようになった。それは、共産党政治局が糸を引く巧みな情報操作の一環であり、マラソン
 の勝利に大きく影響するはずだ,

  協カ者をさらに増やすため、2004年、中国政府はさらに巧妙な作戦を開始する,それは世界中に孔子
 学院を設立しはじめたことだ。中国政府がその組織をいかに重複しているかは、国務院副総理で、女性で初
 めて中央政治局のメンバーとなった劉延束をトップに据えたことを見ればわかる。孔子は、親切で充足して
 いる中国のイメージを伝えるには完璧な象徴だ。西洋人が「孔子学院一という名を聞いて思い浮かべるのは、
 賢明な格言で知られる、思慮深く温和な哲学者、孔子である。 

  公式には、孔子学院は、その国の人々に中国語と文化を学ぶ場を提供しており、しばしば地元の大学と協
 力 している。しかし、彼らは中国の歴史の上塗りも行っており、中国は孔子を文化理解の案内人と見なす
 平和主義の幸福な国だ、というイメージを外国人に植え付けようとしている。学院では、孫武の『孫子』を、
 非暴力を説く物語として再解釈することが奨励される,学生は、誠実で尊敬すべき行動をとる幸福な孔子一
 門や文化的英雄の物語を大いに楽しむ。平和主義と誠実さが、中国文化の軸として強調される。中国政府の
 ウェブサイトの広告によると、学院は「中国と世界の国々との友好と協力を強化する架け橋であり、世界中
 で熱烈に歓迎されている(注21)」。



Critics Worry About Influence of Chinese Institutes on U.S. Campuses

  過去10年間に、学院は世界中の350の大学で歓迎され、その中にはスタンフオード大学、コロンビア
 大学、ペンシルヴァニア大学も含まれる(注22)。中国がアメリカヘの接近を重複している証拠に、世界の
 孔子学院の五分の一はアメリカにある(注23)。他の固より4倍も多い(注24)。「財政難の大学の運営者
 にとって、学院は天の助けのようなものだろう」と、2012年、ニューヨーク・タイムズは報じた。
 「教科書と北京で訓練を受けた語学教師が無料で提供されるだけでなく、管理者の給料や公的イベントの資
 金も中国側がもってくれる(注25)のだから」 大学は数十万ドルを受け取り、さまざまなブログラムに必
 要なら、さらに多くの資金が提供される。その資金はすべて「漢榊(訳注*国家対外漢語教学指導小組弁公・
 M)」から出資されるが、ある出版物によれば、漢辨は「教育大臣が統括する中国政府の一部門」で(注26
 )、劉延束を長とし、12の省庁と委員会に属する上級官僚が管理運営している。「率直に.言って、漢聯
  は外国人を教育するための党が経営する組織だ」と、ネーション誌の記事は解説している(注27)。
 



Rectification of statues Confucius as soft power, but the message gets confused at home

  2011年、中国政府の英字新聞チャイナ・デイリーは、ニューヨーク・タイムズに2ページの広告を載
  せ、学院の利点を大げさに宣伝し、学院は「総力をあげて、外国人学習者の要求を満たし、多文化圭義の発
 展に貢献する」と主張した。その広告によれば、学院は「文化とコミュニケーションに関するプログラム作
 成に集中し、イデオロギーに関する内容は避ける」としている(注28)。これは、真実ではない。
   マウント・ホリヨーク大学の中国文学教授、ジョナサン・リップマンは、こう警告する。
 「孔子学院は、わたしたちが欲する商品、つまり中国語学習の機会を売り歩くことによって、アメリカの学
  会に中国政府を強引に持ち込んでいる(注29
)」 同様に、マイアミ大学のある教授は、「中国の気前の良
 さは条件つき」だということに気づく。
 「ダライ・ラマについて語ったり、ダライ・ラマを大学に招待したりするのは厳禁だ。チベット、台湾、中
 国の軍備増強、中国の指導者内での派閥争いべて、触れてはならない話題だ(注30)]

  これらはすブルームバーグ・ニュースが報じたように、「中国政府と密接な関係にある北京の組織が、ス
 タンフオード大学に、孔子学院の設立資金と教授の給7として400万ドルの支援を申し出たとき、1つの
 警告が付されていた。教授はチベットのようなデリケートな問題について語ってはならないというものだ(
 注31)」,シドニー大学は、オーストラリアで最も評価の高い大学の一つだが、中国との結びつきと、孔子
 学院のための資金供給が断たれることを恐れ、予定されていたダライこフマの訪問をキャンセルし、厳しい
 批判を受けた(注32)。

注15.Nick Mulvennev,“China to Meet Dalai Lama Aides amid Tibet Tension.” Mail & Guardian,April 25,2008, 以
    下のサイ トで入手可能。http://mg.co.za/article/2008-04-25-china-to-meet-dalai-lama-aides-amid-tibet-tension
注16.Brian Duffy and Bob Woodward、 “FBI Warned 6 on Hill About China Money. ” Washinton Post, March 9, 1997,
    以下のサイトで人手可能。https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1997/03/09/fbi-warned-6-on-hill-abo
           ut-china-money/5445c4ea-d24b-4007-818c-21a675322519/

注17.Bill Gertz,The China Threat: How the People's Republic Targers America(Washington,DC: Regnery, 2000),45.
注18.China's Propaganda Influence Operations, Its Intelligence Activities That Target the United States, and the Resulting
           Impacts on U.S National Security: Hearing Before the U.S.-China Economic and Security Review Commision, 111th
           Cong. 88(Apr. 30. 2009),statement of Dr. Jacqueline Ncwmyer, President and CE0,Long-Term Strategy Group,
           Cambridge, MA, 以下のサイトで入手可能。
           http://origin.www.uscc.gov/sites/default/files/transcripts/4.30.09HearingTranscript.pdf.  2009年2月、Reference News
           (Cankao Xiaoxi)の記事より引用、American open Source Center 翻訳によるニューマイヤーの言葉。
注19.Friedberg,Contest for Supremancy, 194-95.
注20.Chaina's Propaganda and Influence Opereation, Its Intelligence Activities That Target the United States, and the 
           Resulting Impact on US National,Security: Hearing Before the US-Chain Econmic and Security Review Commission
           111th Cong. 67(Apr. 30,2009).statemcnt of  Dr. Ross Terrill, associate in rescarch,John K. Fairbank Centcr for
           Chinese Studies, Harvard univcrsity,Cambridge,MA,以下のサイトで人不可能。
           http://origin.www.uscc.gov/sites/default/files/transcripts/4.30.09HearingTranscript.pdf
注21.Confucius lnstitute/Classroom website, 以下のサイトで人手可能。http://english.hanban.org/node_10971.htm.
注22.D.D Guttenplan,“Crities Worry About lnnuence of Chinese lnstitutes on US Campuses, ”New York Times, March
           4, 2012,以下のサイトで入手可能。
    http://www.nytimes.com/2012/03/05/us/critics-worry-about,innuence-of,chinese-institutes-on-us-campuses.html?page
    wanted=all&_r=0
.
注23.“China’s Confucius lnstitutes: Rectiflcation of Statues,” Economist, January 20, 2011,以下のサイトで人手可
    能。http://www.economist.com/node/17969895
注24.Daniel GOlden, “China Says No Talking Tibet as Confucius Funds U.S.Univcrsitics,”Bloombcrg Ncws Scrvicc,
           Novcmbcr 1,2011,以下のサイトで入手可能。http://www.bloomberg.com/news/articles/2011-11-01/china-says-n
           o-talking-tibet-as-confucius-funds-u-s-universities

注25.Guttcnplan,“Crities Worry About lnfluence of  Chinese lnstitutes on U.S.Campuses.”
注26. Josh Dehaas, “Talks End Between Confucius lnstitutcs and U Manitoba,” Maclean's, June 21, 2011,以下のサイ
           トで入手可能。
           http://www.macleans.ca/education/uniandcollege/talks-end-between-confucius-institutes-and-u-manitoba/
注27.Marshall Sahlins, “China U.,”Nattion , October 29, 2013,以下のサイトで人手可能。
           http://www.thenation.com/article/176888/china-u.
注28.  Golden,“China Says No Talking Tibet as Confucius Funds U.S.Universities.”
注29.Do ↑
注30.Guttcnplan,“Critics Worry About lnfluence of  Chinese lnstitutes on U.S,
注31.Goldcn,“China Says No Talking Tibct as Confucius Funds U.S.Univcrsities.”実際、チベット問題は孔子学院の
    ウェプサイトでは一切言及されない。それについては次のウェブサイトで人手可能。
    http://calc.stanford.cdu/confucius_institutc/.
           2013年1月10日、スタンフオード大学国際部(Omcc of lntcmationaI Affairs)によるインタビューを受けて、王斑教
    授は次のように述べた。「過去2年間、漢榊や北京大学などの人々と意見が異なった時にはいつでも、チャオ教
    授とザラー学部長とわたしは北京へ赴き、じかに会って交渉した。その時には、学院の運営についてスタンフオ
    ード大学が決定権を持っていたことを彼らに思い出させた。結果的にその状況はわたしたちにとって都合が良か
    った(略)」。スタンフオード大学の孔子学院については、以下のサイトで入手可能。
            https://oia.stanford.edu/node/14779.  David Wise,Tiger Trop: America's Secret Spy War with China(Boston,MA:
            Houghton Miffin Harcourt, 2011),同書14章も参照。
注32."Sydney university Criticised for Blocking Dalai Lama visit,” Guardian ,April 18, 2013,以下のサイトで人手可能
           http://www.theguardian.com/world/2013/apr/18/sydney-university-dalai-lama.
                                              
ボリュームが多いので今夜は記載のみとする。
        
                                                                この項つづく


 

         

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帝國のロングマーチⅣ

2016年04月02日 | 世界歴史回廊

 

 

           ぼくはきみたちの標本箱のなかで死ぬわけにはいかない。     


                                   吉本 隆明『その秋のために』


                                     

                                                 Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924-16 Mar, 2012 

 

 

 

● ロ-リングストーズ・イン・キューバー

 



The Rolling Stones are coming to Cuba!

 

さすが、ヘミングウェイが愛したキューバ。何でも気楽に受け入れる国柄。キューバ危機はいまや隔世の感。劇的に変わっ
ていくのだろうか?所得格差や環境破壊や犯罪がだけがガン細胞のごとく浸潤していく社会になっいくのか?そんな心配
事はさておき50万人の観客が熱狂する。 


 【中国の思想: 戦国策Ⅱ】
 

  ● 目 次

   解題

   
   
   
   
   
   韓
   燕
   西周・東周・宋・衛・中山 

 

   魏

 中原にあって"天下の枢(くるる)"と称された魏は、戦国初期、他国に先がけて国内の改革に着手した結果、当
 時最強の国にの
しあがった。最初、安邑に都したが、前三六一年、大梁に遷都してからは、"梁"とも呼ばれる
 ようになった。
中原は文化も開けていたが、反面、戦乱に巻き込まれる回数も少なくなかった。魏はそれで急
 速に国力を消耗する。と
くに決定的な損害を受けたのは、斉に大敗した「馬陸の戦い」(前三四一年)である。
 その翌年には、商君の率いた秦の軍
にも敗れ、時代の指導権を秦、斉にあけわたした。

 「悖(もと)れる者の患(うれ)いは、まことに悖らざる者をもって悖れりとなすにあり」
 「王の動いよいよ数(しばしば)せば、王を離るることいよいよ遠からのみ。楚に至らんとして北行するがご
 とし」
 「天子の怒りは、伏屍百万、流血千里なり」


  ● 無茶な話

 魏の公叔痤(こうしゅくざ)病む。恵王往きてこれに問いて曰く、「公叔、病もし諱むべからずんば、まさに
 社稜をいかんせんとする」。公叔痤対(こた)えて
曰く、「痤に御庶子(ごきょし)・公孫鞅(こうそんおう)
 あり。願わくは王、国事をもってこ
れに聴け。もし聴くこと能わずんば、境を出でしむるなかれ」。王応えず、
 出でて左右に謂いて曰く、「あに悲しからずや。公叔の賢
をもってして、寡人に、必ず国事をもって鞅に聴け
 と謂う。悖
らずや」。公叔痤死す。公孫鞅これを聞きて出奔し、西して秦にとく。孝公受けてこれを用う。秦
 果して日にもって強く、魏、日にも
って削らる。これ公叙の悖れるにあらず、恵王の悖れるなり。悖れる者の
 思いは、まことに悖らざる者をもって悖れりとなすにあり。

  大秦帝国


 〈公叔座〉 魏の功臣で、宰相の地位にあった。公孫骸の才能を見込み、いずれ恵王に推薦するつもりで自分
 の手元に引き留めておいたのである。このころが魏の全盛時代で、これ以後魏の勢力は下降線をたどって行く。


 〈公孫鞅〉 のちの商君。衛の国王の一族、衛鞍ともいう。かれが魏を出奔したことによって、かれ自身の運
 命だけでなく、その後の歴史を大きく変えた。すなわちかれはこのあと秦に行って孝公に仕えるが、そのとき
 行なった改革は"商君の変法"といわれ、法治主義の立場に立って、強力な中央集権国家をつくりあげたもので、
 後年、秦が富強をなす礎石となった。しかし、あまりにも厳しく法を執行したので、人々の恨みをかい、次の
 恵王の代に、謨言にあって車裂きの刑に処せられる。前三三八年のことである。

 

 


● 折々の読書  『China 2049』22 


                                  秘密裏に遂行される「世界覇権100年戦略」     


                                                    マイケル・ピルズベリー 著
                                                    野中香方子 訳     

ニクソン政権からオバマ政権にいたるまで、米国の対中政策の中心的な立場にいた著者マイケル・ピルズベリーが
自分も今まで中国の巧みな情報戦略に騙されつづ
けてきたと認めたうえで、中国の知られざる秘密戦略「100年マラ
ソン( The Hundred-Year Marathon )」の全貌を描いたもの。日本に関する言及も随所にあり、これから
の数十年先の
世界情勢、日中関係そして、ビジネスや日常生活を見通すうえで、
職種や年齢を問わず興味をそそる内容となって
いる。 


【目次】

  序 章 希望的観測
 第1章 中国の夢
 第2章 争う国々
 第3章 アプローチしたのは中国
 第4章 ミスター・ホワイトとミズ・グリーン
 第5章 アメリカという巨大な悪魔
 第6章 中国のメッセージポリス
 第7章 殺手鍋(シャショウジィエン)
 第8章 資本主義者の欺瞞
 第9章 2049年の中国の世界秩序
 第10章 威嚇射撃
 第11章 戦国としてのアメリカ
 謝 辞
 解 説 ピルズベリー博士の警告を日本はどう受け止めるべきか
     森本敏(拓殖大学特任教授・元防衛大臣)   

 第4章 ミスター・ホワイトとミズ・グリーン

                 趁火打却(ちんかだこう)――火に趁(つけこ)んで却(押し込み)を打(はたら)く

                                                                     『兵法三十六計』第五計
 

  ニクソンが1972年に対中交渉を始めて以来、アメリカは、中国に対する立ち位置を変え、それほど薔薇
 色でもない光の中で中国のリーダーシップを見つめ直す機会を得た。しかし、アメリカ政府はその機会を生か
 そうとせず、安定した米中関係をできるだけ早く取り戻そうとした。学生たちが虐殺され、リベラルな改革派
 が排除され、穏健派のトップが失脚した後でさえ、ブッシュ大統領は以前からの誤解にしがみついた。自宅軟
 禁に置かれているかつての改革派指導者、趙紫陽や、趙に先立つ機知に富む指導者、胡耀邦を讃えようとする
 人は、アメリカ政府にはいなかった。両者がそれぞれ亡くなった時も、アメリカ政府はその悲運を嘆こうとは
 しなかった。彼らこそ真の改革者だったのでは、と推測する人はいなかった。そもそも、彼らがトップにいた
 時に進めようとした改革の内容を誰も知らなかった。その情報は後に、かつて胡と趙のもとで政治の民乳化に
 取り組んだ亡命者によってもたらされた。

  当時のわたしは相変わらず、小平と江沢民は真の改革者だと思っていた。だがまもなく、偽の改革者を支
 援し、真の改革者を事実上見捨てたことは、アメリカにとって取り返しのつかない過ちだったことを悟った。
  報告を完全なものにするため、わたしはパリに派遣された,逮捕を逃れ、フランス政府に保護されている多
 数の党幹部に会って話を聞くためだった。彼らは天安門事件の後に国外に亡命し、反体制組織を築いて、「
 主中国陣線」と命名した。民主中国陣線は、10カ条の綱領を採用し、亡命政府として西側諸国に受け入れら
 れることを夢見て指導者を選出した。しかし、ブッシュ大統領は、その組織も、10カ条も、その指導者の厳
 家其も無視した。厳は回想録の中で、政治改革を求める苦闘や、アメリカ式のシステムを採用しようとする努
 力について、詳しく述べている(注17)。嚴は趙紫陽直属の部下であり、彼の記述は別の亡命者で、胡耀邦直
 属の部下だったk銘の回想録の内容と一致する(注18)。だが、彼らの声はあまりに小さく、また、アメリカ
 に届くのがあまりに遅かった。結局のところ、鄭小平はフォード、カーター、プッシュ大統領をもてなし、タ
 イム誌の表紙を二度飾った。ミズ・グリーンによると、が選んだ後任者は、エルビス・プレスリーの歌まで
 歌うという。

 「民主主義の力は、天安門広場での不幸な出来事を乗り越えると確信する」と、ブッシュ大統領は語り(注18)
 さらには国防総省に中国への魚雷、レーダー、その他、契約済みの軍需品の出荷を命じた。ニクソンの中国政
 策と深く関わっていたため、ブッシュには中国を新たな光の中で見ることができなかった,その立ち位置をア
 メリカのピジネスリーダーはよしとした。彼らは、いずれ世界最大の市場になるはずの中国とのつながりを深
 め、ピジネスの機会を拡大することを熱望していたからだ。

  中国の「擁護者]というブッシュのスタンスを、後任のビル・クリントンは痛烈に非難した。1992年の
 大統領選でクリントンは、就任した暁には、中国に対し、ブッシュより厳格な姿勢をとると約束した。そして、
 ブッシュに勝って大統領になると、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン以来、どの大統領より強硬な対中
 路線を敷いた。
  クリントンは、中国を訪れたことがなく、アーカンソー州知事時代に、四度、台湾を訪れている。大統領選
 のさなかには、「ブッシュ大統領は北京の肉屋を甘やかしている」と攻撃した(注20
)。クリントンが大統領
 に就任するとすぐ、国務長官のウォーレン・クリストファーは、上院外交関係委員会でこう宣言した。
 「わたしたちの政策は、経済力の強化と政治の自由化を後押しして、中国における共産主義から民主主義への
  広範で平和的な移行を手助けすることだ」
  このような取り組みに、前大使、ウィンストン・ロードも加わったが、彼は大安門の大虐殺と、中国のリー
 ダーシップについての長きにわたる自らの読み違いに大いに衝撃を受けており、アメリカにおける最も容赦な
 い中国批判者のひとりになった。当時、国務次官哺(東アジア・太平洋担当)だったロードは、中国に厳しい
 条件(人権擁護と民主的選挙の面で進歩が見られなければ、貿易上の特別待遇はなくなる)を突きつけること
 を、上院外交関係委員会に約束した。1993年、下院のナンシー・ペロシと上院のジョージ・ミッチェルの
 ふたりの民主党員の尽力により、中国に対する一連の条件が定められた(注21)。1980年代に見られた、
 中国の改革に対する楽観的期待は消滅したように思われた。

  1993年5月28日、クリントン大統領はホワイトハウスにダライ・ラマの代理人と、天安門広場で抵抗
 した学生のリーダーを含む40名の反体制派中国人を招待し、クリントン政権の中国に対する厳しい姿勢はピ
 ークに達した。中国政府はこれを、中国繁栄に必要な米中関係のすべてを脅かす、前例のない批判と見なした。
 そこで彼らは仕事に取りかかった。

  中国の情報源との接触を維持していたミスター・ホワイトによると、中国の諜報局はクリントン政権内部に
 中国の扱いを巡る対立があることに気づいていたので、アメリカ政府内に強力な親中派グループを築く戦略
 立てた。そして、中国に対して好意的な国家安全保障担当補佐官のトニー・レイクと、副補佐官のサンディー
 バーガーに目をつけた,また、当時、国家経済会議議長だったロバート・ルービンを、グローバリゼーション
 と自由経済を擁護するその立場ゆえに味方と見なし、経済諮問委員会議長のローラ・タイソン国際問題担当の
 財務次官でハーバード大学の経済学者、ローレンス・サマーズもその同調者だと判断した。

  中国はあらゆる手を使って、これらの人々を中国寄りの財界人と接触させた,合わせて、影響力あるアメリ
 カの財界人に、商取引をちらつかせた。クリントンの選挙戦を経済的に支援した有力者たちは、クリントンに
 直訴して、中国にボーイング航空機を売り込むのを邪魔したり、アメリカの商業衛星を中国のロケットで打ち
 上げる計画(アメリカにとって数百万ドルの節約になると見込まれた)を妨げたりしないことを求めた。有権
 者の経済的利益を守るという名目のもと、アメリカ連邦議会では、中国に味方する議員が増えていった。

  そしてついに1993年末、中国が現在、「クリントン・クーデター」と呼ぶものが起きた。中国に同調す
 る面々が大統領に、反中姿勢の緩和を認めさせたのだ。クリントンがかつて約束したダライこフマとの新たな
  会談は実現しなかった。対中制裁は緩和され、後に解除された。クリントン政権内の親中派の多くは、先見性
 のある政治的手腕と、中国の意思決定者たちとの接近により、中国政府に「中国の友人」と呼ばれるまでにな
 った。その間、中国では静かに、反体制派に対する厳しい弾圧が進んでいた(注22)。


  すべてが元通りになった、あるいはそのように見えた,再び、アメリカは中国を同盟国らしきものと見なす
 ようになった。アメリカ側は、大安門の弾圧は不幸な、そして一時的な後退にすぎないと解釈した。必要なの
 は、あとしばらくの辛抱だ、と。しかし中国側の反応はまったく違っていた。彼らは、いにしえより覇権国が
 挑戦者をどう扱うかを熟知していた。

  United States bombing of the Chinese embassy in Belgrade,  May 7, 1999

  クリントン政権の2期目の終わりに近い1997年5月7日金曜日、アメリカはNATO同盟国を率いて、
 セルビアとその代理国に軍事攻撃をしかけた。2機のB2爆撃機がミズーリ州ノブ・ノスターのホワイトマン
 空軍基地を離陸し、セルビアの首都、ベオグラードに向かった。パイロットは、「ベオグラードー番倉庫」と
 (表示?)されたものにJDAM(衛星誘導爆弾)を5発、投下した。標的のデータを提供したのはCIAで、
  データは二度検証されていた。しかし、その情報は残念ながら、そして悲劇的に、誤っていた。爆弾は深夜、
 ベオグラードの中国大使館の南側に命中し、3名の大使館員が亡くなった。

  この誤爆が起きたのは、わたしがミスター・ホワイトと出会ってから10年ほどたった頃だった。彼はミズ・
 グリーンほど信頼性は高くなかったが、愉快な人なので、わたしは好ましく思うようになり折に触れて会って
 いた。中国大使館が爆撃を受けた夜、クリントン大統領の謝罪に中国がどう反応するか、見通しを尋ねるため
 にミスター・ホワイトに接触した。
  ベオグラードでの誤爆は、言うまでもなく悲劇的な事故だった。わたしには、それが中国政府からある補の
 反応を引き出すことはわかっていた。だが、その大きさまでは予測できなかった,アメリカ側の情報アナジス
 トの大半もそれを予測できず、中国の意図について別の筋から警告を受けたが、無視した。

  ミスター・ホワイトは即座に、その誤爆は、かつて彼が語っていた新たな超ナショナリズムを実行するため
 の絶好の機会を中国政府に提供した、と言った。「反米の暴動が起こり、何日も続くでしょう」と彼は予測し
 た。
  暴動? まさか。事故だったことが、これほど明らかなのに? すでに、アメリカ高官は謝罪していた。
  しかし、ホワイトの確信は揺るがず、それには十分な理由があった。かねてより彼は中国政府内部で反米勢
 力が力をつけつつあることを知っており、わたしたちにそれを警告していた。その頃、駐中国大使のジェーム
 ズ・サッサーは、自分が包囲されていることに気づいた。

  ミスター・ホワイトは、中国は誤爆を事故と見なさず、覇権国による「鼎の軽重を問う」行為として見ると
  読んでいた。「中国側はこれをアメリカによる警告、中国の決意を問う行為と見るでしょう」と彼は語った。
  暴動が始まったときサッサー大使は、ミスター・ホワイトの予測、つまり中国のタカ派と戦国時代から続く
 考え方を軽視してはならないという信念に基づく予測について、何も知らなかった。またサッサーは、3マイ
 ル西にある共産党中央政治局の秘密会議室で何が起きているかも、まったく把握していなかった。そこでは、
 アメリカによる大使館の「攻撃]は、抗しがたい「開の声」であると結諭づけられた。爆撃から数時間のうち
 に、何百人もの中国の市民が、アメリカ大使館の門前に集結し、その多くが石や卵、トマトを投げ込み、アメ
 リカとNATOへの「復讐」を叫んだ。

  その土曜の午後、サッサーは執務室にいた。まもなく彼は、大使館から安全に脱出できないことを悟った。
 数日間で外の抗議者は数万人に増え、中国で最も高位にあるアメリカ人は事実上、中国大衆の囚人となり、着
 替えもシャワーもできなかった。執務室に閉じ込められたまま、フリーズドライの軍用食を食べ、毛布もなし
 に床で寝た。
  翌5月9日、日曜の夜、デモ隊が大使館の割れた窓から火炎瓶を2本、投げ込んだ。燃え上がった火は、海
 兵隊保安警備隊(各国の米大使館の警備にあたる部隊)が消火器で消した。さほど遠くない部屋には、コンク
 リートの塊が投げ入れられたが、そこは大使の妻と息子が逃げ込んでいた居間だった。大使は、中国高官と電
 話で話せないことに困惑していた。サッサーがニューヨーク・タイムズ紙に語ったように、「大使館の前で何
 が起きているのかを、彼らが知っているかどうかもわからなかった(注23).

   大使の主張、少なくとも希望に反して、中国の指導者たちは何が起きているかを正確に知っていた。中国で
 抵抗運動が自発的に起きることは稀であり、10年前に起きた天安門広場での示威行動が、国の指導者たちを
 怖がらせたのもそのためだ。大使館前の抗議行動を衷で操っていたのは中国情報部だった。その証拠に、多数
 の僧侶、チベットの僧侶、道学者、カトリック、プロテスタント、イスラム教の指導者といった政府公認の主
 要な宗教の代表もやってきて、デモ行進を始めた。

  5月10日月曜は終日、警官が行進の参加者をアメリカ大使館の25フィート内に誘導した。多くの人が「
 打倒、アメリカ帝国主義」と叫び、中国の国歌を歌った。若い男たちがヘルメットをかぶった民兵越しに大使
 館の中ヘコンクリート片を投げ入れた(注24)。ある時点で、大使館貝は、抗議者たちが突入するのを恐れて、
 重要書類をシュレッダーにかけはじめた。ついにその日の午後、中国外相の唐家蔵は、当惑するアメリカ大使
 に電話をかけた。唐は「アメリカ率いるNATO」に四つの要求を突きつけた。それには誤爆に対する「公式
 の謝罪」も含まれていた(注25)。
 

                                                                                 この項つづく

注18.Ruan Ming、with Nancv Liu. Peter Rand. and Lawrence R,Sullivan,eds.,Deing  Xiaoping: Chronicle  of an Empire
           (Boulder,CO: Westview Press, 1994),140,50.
注19."Thc Prcsidcnt's N(nvsConfercnce," June 5、 1989,Thc Georgc Bush PresidentiaI Library, 以下のサイトで人手可能。
           http://bushlibrary.tamu.edu/research/public_papers.php?id=494&ycar&month.
注20.Mann, About Face, 262.
注21.例えば次を参照。Constantine Menges,China: The Gathering Threat (Nashville,TN: Nclson Currcnt, 2005),124-25.
注22.Tylcr,Great Wall, 381-416.
注23.Elisabeth Rosenthal, “Envoy Says Stoning Will End. Ties Won’t, "New York Time, May 11, 1999, 以下のサイトで入
    手可能。http://partners,nytimes.com/library/world/euroPe/05H99kosovo-china-sasscr.html.
注24. Erik Eckholm ”China Raises Then Lowers Tone in Anti-U.S. Protests at Embassy,¨New York Times,May 11. 1999,
            以下のサイトで入手可能。 http://www.nytimes.com/1999/05/11/world/crisis-balkans,china-china-raises,then-lowers-
            tone-anti,us-protests'embassy.html
.
注25.同上。

 



終結合唱「われらは涙流してひざまずき:Wir setzen uns mit Tränen nieder

昨日、安土駅に所用で車を走らせる。カーステの選曲は自動選曲で、何が出てくるかわからないが、偶然に、バッ
ハの『マタイ受難曲』が流れる。"心の中の乾き"に津波のごとく流れ込み聞き入る(運転のの不注意にならぬよう
にBGM感覚で)。

マタイ受難曲 (Matthäus-Passion) とは、新約聖書「マタイによる福音書」の26、27章のキリストの受難を題材にし
た受難曲。バッハのマタイ受難曲 (Matthäus-Passion) は新約聖書「マタイによる福音書」の26、27章のキリストの
受難を題材にし、聖句、伴奏付きレチタティーヴォ、アリア、コラールによって構成された音楽作品。正式なタイ
トルは「福音史家聖マタイによる我らの主イェス・キリストの受難 Passion unseres herrn Jesu Christi nach dem Evan-
gelisten Matthäus
」となる。バッハが作曲したとされる受難曲は、マタイ受難曲(2作あったとされるが、2作目は
合唱が2組に分けて配置される)のほか、ヨハネ受難曲、ルカ受難曲、マルコ受難曲の4つあり、ルカ受難曲は真
作と見なされておらず、マルコ受難曲は台本のみが現存し、他は消失している。



ヨハネ受難曲(Johannes-Passion)は、新約聖書「ヨハネによる福音書」の18-19章のイエスの受難を題材にした受
難曲。多くの音楽家が作曲してきた。このうち最も有名なものはバッハ作品(BWV245)である。この二曲とも合唱
迫力に圧倒されてしまう。飽きるまでオペラや賛美歌など聴きいることに。
 

著作権法が改定あるいは強化され、ユーチューブも何となく疎遠な感じになっている。以前なら、作業の合間気分
転換に鑑
賞できた楽曲類も素人がカバーする曲しか聴けなくなるわびしくなる。車のBGM用に本格的に聴くなら、
ダウンロードするか
レンタルCDで簡単に聴けたのだが、これから、そうも行かなくなるのだろうか?不安だ。、

著作権が彼の創作した著作物に関して有する枠利には次の2種煩のものがある。 その1は、複製権,上演権,翻
訳権など著作
者が著作物に対しもつ財産的利益を保護する権利――総称して著作財産権という。その2は、公表権,
氏名表示権,同一性保持権など制乍者がノ著作物に対して有する人格的利益を保護する権利――総称して著作人格権
または著作人格権という。この2種の権利相互の関係およびこれらの権利と著作権との関係いかんをめぐり、3つ
の見解が対立しているという。

  1. 著作権を財産権と解し,著作財産権として総括される各種の権利はこの著作権から派生するものととらえる
    見解。この説によれば,制乍者人格権は著作権の概念には包含されず、これとは全く別個の権利ということ
    になる(a)。
  2. 著作者人格権を著作権の概念の中に含めはするが,その中で著作財産権と対立・併存するものと解する見解。
    この説によれば,著作権は著作財産権と著作者人格権という性質の相容れない2種の権利の複合権となる(b)。
  3. 著作者人格権を著作権概念の中に含める点では第2説と共通であるが,著作財産権と著作者人格権とは相互
    に密接な関係にあり、分離することは不可能であるとする見解である。この説によれば、著作権とは著作財
    産権と著作者人格権権とが渾然一体となった単一の権利であるということになる(c)。

これらの3つの説は、a、bは二元的構成論、cは一弦的構成論として整理できるが本来的に一致できず、著作権
概念の統一的把握がいかに困難であるかを如実に物語っている
と、『著作権概説』の著者は指摘しているが、粘り
強く合意形成しなければならない?ということらしいしい。

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ハイアワサ物語

2016年02月28日 | 世界歴史回廊

 

 

 

      もし敵の秘密の歴史を読むことができたら、互いの生活の中に、
            すべての敵意を捨てさせるに
十分な悲しみと苦しみとを、見出
            すであろう。  
                               『漂木』

                                        ヘソリー・ワッズワス・ロングフェロー

                                                                                                                                                               

              lf we could read the secret history of our enemics,we should
         find in each man's life sorrow and sufering i enough to disarm
                        all hostility.
                                      Henry W . Longfellow

                                                                            
                                                                                 Feb 27 1807 - Mar 24 1882

                      ※  lf we could,.・・・,we should~仮定法過去だから「もしも・・・できたら~
           だろうに」。sorrow and suffering enough to ・・・「・・・
するに足りるほどの
           悲しみと苦しみ」。disarm 「
武装を解除する」        

    The Song of Hiawatha                                  

 

  


   僕が書かなかった詩


   以前書きかけだのだけれど、

   書かなかった詩がここにある。

   それというのも君がもそもそと勤く音が聞こえたからだ。

   僕はそのときチューリヒでの最初の朝の

   ことをもう丁度思い返していた。

   夜明け前に僕らが目覚めたときのことを。

   一瞬そこがどこだかわからなかった。でも

   バルコニーに出ると、そこからは何と旧市街が見渡せる。

   そして言葉もなく、ただそこにじっと立ちすくむ。

   まっ裸で。空か白んでいくのを見守る。

   胸がすごくどきどきして、幸福だ。僕らは

   なんだか今の今、

     ひょいとそこに置かれたみた

                                   The poem I didn't write

    Here is the poem I was going to write
    earlier, but didn’t
    because I heard you stirring.
    I was thinking again
    about that first morning in Zurich.
    How we woke up before sunrise.
    Disoriented for a minute. But going
    out onto the balcony that looked down
    over the river, and the old part of the city.
    And simply standing there, speechless.
    Nude. Watching the sky lighten.
    So thrilled and happy. As if
    we’d been put there
    just at that moment.

 

 

 

● スタートアップは竜王山

4月16・17日の土日に合わせ――メンバー、天候により変更――金勝山(竜王山)へのナショ
ナルトレッキングコース調査のスタート・アップ。ポイントは以下の3つのルートコースと綿向山
ルートからその先の箕作山――中間に三重県の御在所岳を絡めるのか否かの選択など――へのルー
トをスケッチなど行う。いずれ連載となっていくので、専用ブログ(守る会)に情報を集約する。

1.サンロード・ルート:誰も参加しやすいリスクの少ないクロスカントリー・ロード・コース
2.アドベンチャー・ルート:渓流釣り・ロッククライミング・渓流下りなどが楽しめるコース
3.ワンダー・ルート:野鳥・森林植物など自然観察などの多様な環境を楽しむコース





  ● 今夜の一曲

Dvořák: Symphony №9 in E minor, Op. 95 "From The New World"

Antonín Leopold Dvořák (1841 -- 1904) Composer
Herbert von Karajan (1908 -- 1989) Conducts
Wiener Philharmoniker -- 2/1985 Record at Vienna, The Großer Saal des Wiener Musikvereins.

『ハイアワサの歌』は、インディアンの英雄を謳った英雄譚であるヘンリー・ワーズワース・ロン
グフェローの叙事詩なのだが、ハイアワサは、実在した16世紀のモホーク族インディアンの男性
戦士の調停者。当時、五大湖南側ではカユーガ族、モホーク族、オナイダ族、オノンダーガ族、セ
ネカ族の5部族が交戦状態にあったが、1555年に五大湖の北側のワイアンドット族に生まれた
デガナウィダが、和平調停に乗り出す旅に出る。五大湖の東にあるモホーク族の村を訪れた時、大
戦士ハイアワサと会う。打ち続く戦いでハイアワサは厭世感にさいなまれていたので、家族ととも
にデガナウィダの話に耳を傾け和平を受け入れる・・・という展開を経てやがて全部族間の和平を
成功させる。

しかし、主人公の「ハイアワサ」は、イロコイ連邦をまとめ上げ実在のモホーク族インディアンの
戦士、酋長
だが、実際のストーリーはハイアワサの部族とは関係なく、オジブワ族のトリックスタ
ーである「ナナボーゾ」
の神話をベースとし、19世紀中頃にこの詩を編纂したヘンリー・スクー
ルクラフトによる混同がもととなって
いる。つまり、ロングフェローは「ナナボーゾの歌」のつも
りであったが、いつの間にか「ハイアワサの歌」にすり替わり、現在も誤解されたままになたとい
う(Wikipedia)。このため、
イロコイ連邦国のひとつ、タスカローラ族のエリアス・ジョンソン酋
長はこの「ハイアワサの歌」が植え付けるインディアンへの「悪いイメージ」について――ありと
あらゆるインディアンの肖像が、手に頭皮剥ぎのナイフとトマホークを持った姿で描かれて、まる
で野生の蛮人の象徴扱い
にされている。 それはキリスト教徒たちの国が、彼らの仕事、正義の象
徴として、常に大砲や弾丸、剣、およびピストルを伴っているのと同じような具合で行き渡らされ
ているように思える――として抗議している※。

Legends, Traditions and Laws of the Iroquois, or Six Nations, and History of the Tuscarora Indians.(1881)

ゆずが13年下半期の連続テレビ小説「ごちそうさん」の「雨のち晴レルヤ」の間奏にも使用して
いるドヴォルザークの作品95『新世界より』の交響曲第9番ホ短調は、アメリカの黒人やインデ
ィアンの民族音楽の旋律を多く主題に借りているという誤解に対し、ドヴォルザークはこれらの国
民的なアメリカの旋律の精神をもって書こうとしたと否定しているが、"
よく似ている"ことを否定
してはいない(しても意味がないと思う)。というわけで、今夜の『ハイアワサ物語』の主題曲と
してこれをカラヤン指揮で聴くことにする。

                                          



 

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帝國のロングマーチⅡ

2016年02月26日 | 世界歴史回廊

 

 

 

   日本人はウォール街でアメリカの会社を買い、ニューヨークで不動産を買っている。多分、
         マンハッタンを自分たちのものにしたいんだな。日本人と競り合っても勝てる見こみはな
         い。どうみても彼らはこちらをコケにするためだけに法外な金額を払っているとしか思え
         ない。
                                        ドナルド・トランプ 19 March, 2015

 

 

● 中国 地対空ミサイル配備の島に戦闘機を派遣 
    China deploys fighter jets to contested island in South China Sea 21 Feb 2016

 


● 折々の読書  『China 2049』16


                秘密裏に遂行される「世界覇権100年戦略」     


                                 マイケル・ピルズベリー 著
                                 野中香方子 訳   

ニクソン政権からオバマ政権にいたるまで、米国の対中政策の中心的な立場にいた著者マイ
ケル・ピルズベリーが、自分も今まで中国の巧みな情報戦略に騙されつづ
けてきたと認めた
うえで、中国の知られざる秘密戦略「100年マラソン( The Hundred-Year Marathon )」の全貌
を描いたもの。日本に関する言及も随所にあり、これから
の数十年先の世界情勢、日中関係
そして、ビジネスや日常生活を見通すうえで、
職種や年齢を問わず興味をそそる内容となっ
ている。 

  序 章 希望的観測
 第1章 中国の夢
 第2章 争う国々
 第3章 アプローチしたのは中国
 第4章 ミスター・ホワイトとミズ・グリーン
 第5章 アメリカという巨大な悪魔
 第6章 中国のメッセージポリス
 第7章 殺手鍋(シャショウジィエン)
 第8章 資本主義者の欺瞞
 第9章 2049年の中国の世界秩序
 第10章 威嚇射撃
 第11章 戦国としてのアメリカ
 謝 辞
 解 説 ピルズベリー博士の警告を日本はどう受け止めるべきか
     森本敏(拓殖大学特任教授・元防衛大臣)  

  第3章 アプローチしたのは中国 


       東の呉と組み、北の魏と戦う-『三国志演義』(配元前200年)

                     毛主席への覚え書き(1969)より引用  

 

   わたしとイクレは、米中が具体的にどう協力していくかを検討した。イクレはキッ
  シンジャーに「正式な関係」(つまり、公的な同盟)は避け、一方的な「技術的性質」
  の支援にとどめることを提案した。例えば、中国との問に「ホットライン」を設けれ
  ば、ソ連が軍事行動に出た際に、早々と中国に警告することができる。「今後も中国
  の
軍事力が主に爆弾投下による攻撃になることを考えると、数時間早い警告は、彼ら
  の
脆弱さを著しく低減できるだろう」と、イクレとわたしは覚え書きに書いた,
  「ホットラインでソ連の攻撃を事前に警告できるようになれば、大きな支援になるだ
  ろう」

   わたしたちはまた、ソ連の攻撃を警告するためのハードウェアや技術を中国に売る

  ことを勧めた。さらには中国がソ連に爆弾投下する際の標的を絞るために、高解像
  の衛星画像を提供することを提案した(注44)。
   キッシンジャーはわたしたちの提案に同意した。当時、彼が協力の具体的な内容を
  中国に伝えたことを知る人はほとんどいなかった。1973年H月に北京を訪れたキ
  ッシンジャーは、ソ連が攻撃してきた場合、アメリカは「装備や他のサービス」を提
  供できると中国の要人に語った。北京と爆撃基地との連絡線の改善を「何らかの形
  で」手助けできるし、中国が「ある腫のレーダー」を作るための技術も提供しよう、
  と彼は持ちかけた(注45)。つまり、密かに人民解放軍への支援を申し出たのだ。平
  時
にも、ソ連が攻撃してきた時にも、アメリカは軍事資源を補給する用意がある、と。

   だが、驚いたことに、中国はこの七つ目のプレゼントに尻込みし、検討する時間を
  求めた(注46)。早期警告を含むアメリカの協力は「大きな技術支援になる]はずだ
  
が米中の協力は、「誰にも察知されない」流儀で行われなければならないと、彼らは
  語った。キッシンジャーの提案は、戦国時代の冷酷で変わりやすい同盟そのままに、
  ソ連との戦争に中国を巻き込むための策略ではないか、と中国の指導者は疑ったのだ。

    中国には、ニクソンとキッシンジャーがどれほどのリスクを負ってこの提案をした
  のかがわからなかったのだろう。中国に関してキッシンジャーが最も頼りとする側近、
  ウィンストン・ロードは、キッシンジャーヘの覚え書きで、(幅広い層から反対さ

  るのはもちろんのこと)憲法に違反する恐れがあり、ソ連を憤激させるだろうと、

  の方針に強く反対した。キッシンジャーはロードの反対を退けたが、ロード自身は

  中国との関係改善を強力に支持していた。

   米中関係は1970年代に最も改善されたが、それは男小平が力を強め、中国の対
  外的な顔になった時期だった。西洋人にとって郵は、理想的な中国の指導者だった。
  物腰が穏やかなおじいさんのようでありながら、改革精神に富むバランスのとれた指
  導者。要するに、西洋人が会いたいと思う人物だったのだ。
   だが、郵はおとなしい老人ではなかった。政治局内部の私的な集まりでは、西洋に
  比べて中国が遅々として進歩しないことへの怒りを側近や顧問にぷつけた。彼は、毛
  とその怪しげな「改革]のせいで、アメリカの覇権を覆すためのスタートが30年遅れ
  たと考えていた。

   はアメリカと協力関係を結ぶことに熱心だったが、その主な理由を公表するつも
  りはなかった。ソ連の経済モデルをたどったのは誤りで、中国は今その代償を支払っ
  ていると、彼は見抜いていた,ずいぶん後にアメリカ情報当局が入手した中国の内部
  文書によると、当時、中国の指導者は、ソ連との同盟は崩壊しかけており、結局中国
  はそこからたいしたものは得られなかった、と考えていたようだ。郵はアメリカを相
  手に同じ失敗を繰り返すつもりはなかった。中国がマラソンで前に出るには、アメリ
  カから知識とスキルを獲得するしかない。つまり、先頭を満足げに走るアメリカから
  エネルギーをこっそり抜き取り、それで遅れを取り戻して了フソンに勝とうと彼は考
  えていた。
 
   政治局内部では、は「韜光養晦(野心を隠し、力を蓄える)」の引用で知られて
  いた。鄭はまた、一見曖昧で無害な物語を通して敵にメッセージを送ることもあった。
  1975年12月に初めてジェラルド・フオード大統領と会談した折、彼は『三国志
  演義』からある物語を引用した。フォードにはわからなかったが、そこには重要な意
  味が込められていた,その物語は、先の章で述べた、中国史上、最も暴虐な君主の一
  人とされる曹操に関わるものだった。曹操は古代中国文学に見られる「覇」の典型と
  言えるだろう。
 
   ある場面で、鄭はフォードに、曹操はライバルの劉備を破り、覇者でありつづけた
  と語った。戦いの後、劉備は曹操に仕えることを申し出たが、曹操は劉備の忠誠心を
  疑った。は有名な曹操の言葉を引用した。
  「劉備は鷹のようであり、飢えたときはあなたのために働くが、腹が満たされると飛
  び去るだろう」
   明らかに、「鷹」とはソ連のことで、ソ連を取り込もうとするアメリカの試みは失
  敗する、ひとたび欲しいものを手に入れたら、ソ連は劉備のように自らの利益を追う
  だろう、と警告したのだった,アメリカ人が気づかなかったのは、同じことは中国に
  ついても言えたことだ。ひとたびアメリカが中国を対等な地位に引き上げれば、中国
  は同盟を解消し、「飛び去る」だろう。

   もっとも、郵は、曹操と劉備にまつわる最も有名な話は、あえて語ろうとしなかっ
  た。そんなことをすれば、中国の真の狙いを漏らすことになるだろうから。中国の強
  硬派はこうした古代の物語に込められた寓意を明かさなかったが、中国の戦略を読み
  解くには、どうしてもこの鍵がいるだろう。
   中国の戦略では、覇者を倒すために自分の真意を隠すことを重視するが、その象徴
  と言えるのが、先に述べた「鼎の軽重を問う」という言葉だ。もっとも、三国時代の
  別の物語は、ただ真意を隠すだけに終わらない、中国の野望を体現している。

    赤壁の戦いの数年前、劉備は曹操に招かれた。曹操を倒すことを企てていた劉備は                                         
  「目端の利く曹操に本心を見破られないようにした」。劉備が着くや、曹操は彼を李
  の
本の下のテーブルに誘い、ふたりで座って、温めた果実酒を味わった,そうしてい
  る
間に、空を厚い雲が覆い、嵐の気配がしてきた。曹操の家臣の一人が竜に似た雲の
  形
を指さした。皆がその雲に注目した。曹操は劉備に、竜の進化を知っているかと尋
  ね
た。

  「詳しくは存じません」と劉備は答えた。
  「竜はどんな大きさにもなることができ、栄光のうちに上昇することも、あるいは姿
  を消すこともできる」と瞥操は言った,
  「春の盛りの今を選んで、屯は変容しようとしている。自らの望みを悟り、医界を手
  中に収めようとする人のように。動物のなかの竜は、人間で言えば英雄だ。将軍よ、
  そなたはあらゆる川と湖を旅してきた。当代の英雄が誰であるかを知っているに違い
  ない。誰が英雄と呼ぶにふさわしいか、教えてほしい」
   劉備は当惑したふりをした。
  「わたしはどこにでもいる愚者にすぎません。どうしてそのようなことがわかりまし
  「そなたは彼らの顔を見上げていないかもしれないが、その名は聞いているはずだ」
  と曹操は答えた。
  劉備は尋ねた。
  「淮河の南の袁術、強い軍隊と豊かな資源に恵まれたこの男でしょうか」
  曲目操は笑った。
  「袁術など墓場で腐りかけている骸骨だ。わたしがさっさと片づけてやろう」
  「では、袁紹は?」と劉備が挙げた。
  「乱暴粁だが、臆病だ」
  「荊州の劉表はいかがでしょう」
  「うわべだけの評判倒れの男だ。やつではない」と曹操は答えた。
  劉備は尋ねた,
  「孫策は頑強な男で、南部全上を収めています。彼が英雄では?」
  「孫策は父孫堅の威光を笠にきている。あれも本物の英雄ではない」
  「益州の劉埠はいかがですか」
  「王族だが、番犬にすぎぬ」
  最後に、劉備は尋ねた。
  「張繍、張魯、韓遂や他の支配者はどうでしょう?」
  「やつらのようなつまらぬ人間は言うに及ばぬ」と曹操は切り返した。
  「他に、思い当たる人はいません」と劉陥は言った。
  「英雄とは胸中に高邁な理想を抱き、それを成し遂げる計画を持つ者だ。英雄はあら
  
 ゆるものに及ぶ構想を抱き、全世界がその情けにすがる」

  劉備が尋ねた。

  「それはいったい誰なのでしょう」
  曹操は劉備を指さし、それから自分を指さして言った。
  「この匯界で英雄たる者は、そなたとわたしだけだI
  劉備は息をのみ、箸を床に落とした,ちょうどそのとき、雲間から雷鳴が轟いた。
  箸をとろうと身を屈めていた劉備は叫んだ。
  「驚いた!すぐ近くに落ちたようだ」
  曹操は驚いた,
  「なんと!そなたは雷が怖いのか」
  いったいどこに雷ごときを恐れる英雄がいるだろう。こうして劉備は「覇」に挑戦
  しようとする野心を隠すのに成功した。
  まもなく、劉備はふたりの親密な仲間にこの経験を詳しく話し、自分の目的は「曹
  操に自分はまったく単純で、いかなる野心もないと信じ込ませることだったが、不
  意
に英雄のひとりとして指さされ、当惑した。いささか疑われたかと思ったのだ。
  運の
いいことに、雷鳴が轟き、必要な口実を与えてくれた」と言った。
  「実にあなたは聡明だ」と仲間は言った。
  その後は歴史が語る通りだ。まもなく劉備は曹操から独立し、国の支配を巡って長
  く曹操と戦った(注47)。 
 

   中国との新たな関係にのぼせあがり、ニクソンとフォード政権は、中国の喫緊の政
  治課題にあれもこれもと進んで支援していった。こうしたプレゼントのすべて(そし
  て、それに続くさらに多くのプレゼント)は、少なくとも30年間、アメリカの一般市
  民には秘密にされていた。アメリカは、中国が民衆の第一の敵と見なすダライニフマ
  に対するCIAの秘密支援を打ち切っただけでなく、台湾への肩入れの象徴だった、
  海軍による台湾海峡の定期的なパトロールも中止した(注48)。そして、自ら進んで、
  中国の力を強めていった。

     1975年、まだランド研究所にいたとき、わたしはソ連を牽制するために中国と
  軍事的なつながりを持つことを擁護する記事を、外交専門誌、フォーリン・ポリシ
  ーに寄稿した。当時は、かつて外交官で、後にまた外交官になるリチャード・ホルブ
  ルックが、同誌の編集者を務めていた。彼はその記事を強く支持し、わたしの見解を
  「大型爆弾」と呼んだ。それを彼が他の編集者に伝えたのがきっかけで、わたしの長
  い記事、「北京のための銃?」がニューズウィークに掲載された。他のメディアもわ
  たしの提案を取り上げたが、ソ連の報道機関は、その主張だけでなく、わたし個人も
  攻撃した(注49)。そもそも、そのアイデアをわたしに吹き込んだのは、国連にいた
  中国の軍の高官だった。わたしは1973年から、中国軍部の強硬派と接触するよう
  になり(彼らとの対話は、その後40年にわたって続く)、覇権国の扱いにまつわる戦
  国時代から伝わる教えを字んだが、当時のわたしは、覇権国とはソ連のことだと思い
  込んでいた.

   1976年初め、共和党の大統領候補の座をフォードと争っていた前カリフォルニ
  ア州知事、ロナルド・レーガンがその記嘔を読んだ(ホルブルックの命を受けて、わ
  たしはその記事をレーガンに送っていた),レーガンから、ソ連を牽制するために中
  国と緊密に連携するという案に賛成するという趣旨の、手書きの手紙が届いた。しか
  し彼はまた、中国には気をつけろと警告し、アメリカが台湾との民主的な同盟を放棄
  することを懸念していた。わたしはパシフィック・パリセーズのレーガンの自宅を訪
  ねた。レーガンは、「現在、64歳、無職だ」とおどけて見せた。そして、これからも
  中国に関する記事を送ってほしい。演説に使うかもしれないから、とわたしを励まし
  た。


長々と著者が引用するのはなぜか?それは自国の成り立ちの心象の投影に他ならないエキゾ
チシズムなのだろと邪推?する。中国文化に慣れ親しんできた日本人なら「レッド・クリフ」
を引用しなくても中国の政権中枢が考えていることは容易にわかっている。わたしがキッシ
ンジャーなら独立自尊を重んじるベトナム共産党と早期に和平締結し、水面下で戦後復興を
約束し、中国共産党政権に手をさしのべないことをニクソンに促し、「一国社会主義」
の中ソ対立を傍観し、周辺アジア国家の独立自尊を目指す政権を支える(非包囲戦略下で)。
それが成功すれば
すればどうなるのか?厳寒をウオッカを飲んでやり過ごすしかないロシア(旧ソ連
)はやがて戦車部隊を南進させ一時的な戦闘事態に陥ることは避けられられず(内ゲバ)、
台湾の国民党や非漢民族の蜂起、二度目の朝鮮動乱が起きるだろうが、ロシアも多方面展開
する余裕はないため南朝鮮(韓国政権)による統一が成功するかもしれない。また、いった
んは南進したロシア軍部隊は毛沢東の中国部隊との持久戦に入り泥沼化する。あるいは偶発
的局所的ななロシア側からの核兵器使用も起こりうるかもしれない。ただし、米国の植民地
主義の反動勢力を排除しつ国連機能の崩壊を避け、困難な軍事的支援あるいは局所的介入を
行うことの至難さに耐えうるかどうか? それは誰にも解らぬが、中国内部での動乱が長引
けば住民の生命財産は失われ、現在とは全く異なった事態となっていると夢想した。

                                  この項つづく

注44. Kissingcr-Zhou Mcmcon,Novcmbcr 10,1973,in Burr,KI’ss油gerTrαylscrφΓs. 171-72.
     Zhou-Kissinger Memcon, Novembcr 13,1973,DigitaI NationaI Security Archives Online,
     Documcnt 283. Menlorandum,Frcd Iklè to Hcnrv Kissingcr, National Archives,RG 59,
            Policy Planning Staff (S/P),Director’s Files (Winston Lord)1969-1977,Lot 77D112、 Entry 
           
5027, Box 370, Secretary Kissinger’s Visit to Peking, October 1973, S/PC, Mr.Lord,vol.
            11,Collcgc Park, MD.
注45.  Goh,Constructing the US Rapprochement with China, 242, 以下も参照。Kissinger-Zhou Me-
            mcon, November 10, 1973,in Burr,Kissnger Transcripts,171-72.
注46. Zhou-Kissinger Memcon. November 14. 1973,National Securitv Archivc onlinc, Documcnt
            284.
注47. Luo Guanzhong. Romance of the Three Kingdoms, chapter 21: "In a Plum Garden, Cao Cao 
            Discusses heries," trans, C, H, Brewitt-Taylor (Beijing: Foreign Languages Press, 1995), 以下
     のサ入手可能。http://kongming.net/novel/events/liubei-and-caocao-sPeak-of-heroes.php.
注48. 台湾海峡におけるアメリカと中国の脅威についてさらに詳しい情報は次を参照,Michael    
            Pillsbury,“China and Taiwan - the American Debate,” RUSI Journal 154, no. 2(April 2009)
            :82-88.
注49.  “Guns for Peking,”Nlslμe4,September 8, 1975; Reagan gave a Prcss confcrcncc on May 28,
            1976 .ロサンゼルス・タイムズ紙によると「レーガンは、アメリカから中国本土への武器輸出は、
            ソ連に関する両国に共通する利益を考えると自然な展開だ、と言った」。Kenneith Reich,
            “Reagan Tells of Rurnors Administration Plans to RcnounccTaiwan Aftcr Elcction,”Los
             Angele Times,



● 積み上げられた汚染土 竜巻に直撃されたら ?

不安を煽るつもりはないが、それを考えると夜も寝られませんね ?! 

                                                               

                                                                  

 

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現代浄土信仰考

2016年01月20日 | 世界歴史回廊

 

 

   山を越え、野を越え、牛と私は村里の近くにきた。今まで雲に覆われた月も、そのまろ
               やかな姿を雲の間から見せ始めた。牛はおとなしくなり、私は牛の背の上で心も軽く、
               歌を歌ったのである。楽しきかな人生である。 

                                                                        「騎牛帰家」(『十牛図』) 

                                                                                  

 

 

  

● 折々の読書 『法然の編集力』 13 松岡 正剛 著      

 第三部 特別対談 松岡正則×町田宗鳳  

                                                  「悪人」とは誰か

 松岡――さて、ここでふたたび法然さんに戻ってお話ししたいことがあります。まずは「悪」
 についてです。よく親鸞が悪大正概説を説いたといわれていますが、これはあきらかに法然の
 ほうが先に言っていることですね。それでは、いったい法然によって何が「悪」と見られるよ
 うになって、それを現代でどう継ぐべきなのか。まずはそのあたりから町田さんのお考えをお
 聞かせください。

 町田――勘違いされている方も多いようですが、悪人正機説における「悪人」というのは、何
 か倫理的に悪いことをした大という意味ではありません。自分の中の「悪」に気がついた大の
 
ことを「恋人」というのです。

  信仰のなかに「恋」を取り入れることは、一神教にはないものです。たとえば、キリスト教

 信仰の中心にあるのは、父と于と聖霊を.休猷するハ泣.体説ですが、サタンという存在はこ
 の三位一体から疎外されているから、キリスト教には-悪にの居場所かおりません。
 ところが、ユングに言わせればそれは間違いで、同位.体こそが正しいとド張します。三角
 ではなくダイヤモンド型ですね。この理解において、神は,完璧なる存在」ではなくて「完

 なる存在」です。パーフェクションではなくコンブリージョン。そうすると悪は陣の一部と

 るので、これを疎外してはいけない。


 松岡――ドストエフスキーなどは気がついていましたね。

 町田――そうそう。ユングは臨床セラビストとしてそのことに気がついた。人間の意識と無意
 
識の分裂が精神不安定を呼ぶのだから、意識と無意識の統合が精神を安定させるし、そこで、
 は
じめて全人性というものが出てくると指摘した。となると、ダイヤモンドのド半分の三角形
 の
サタンの部分が無意識の領域なので、これを無現したり抑圧してはいけない。これは心理学
 的
には臨床からあきらかなことだ、と。ところが、キリスト教はいまだにLヤ分の三角形が善
 で
あり光の世界だといっている。これに対してユングは、闇の世界も当然あるわけだから、こ
 れ
を信仰のなかに取り込むべきだと言ったわけです。

  私はここからヒントをもらって、法然や親鸞が言った「悪人」というのは、ダイヤモンド全
 体を白分のなかに見ている人のことだと解釈した。親鸞はみずからのことを「蛇蝸のごとくな
 り」と言ったけれども、彼は自分のなかに潜むサタンをちゃんと貼ている。そういう自分かい
 て、どうしようもないものと思い、業の深さを感じる。そこに気がつかないと、「悪」を抱え
 る自分でも救ってくださる阿弥陀さんがおられるという信仰の世界には入っていけないはずで
 す。この自覚ができる人のことを「悪人にとよぶのです。だから、みずからを善良な人間、親
 切な人間、嘘をつかない人間だとjっている人は、自分という人間を上半分の三角形のなかで
 皮相な自己理解をするしかできない人だと思います。




 松岡――その「悪」の理解は刺激的ですね。私も日本における「悪]は[過ぎたるもの」とい
 
う意昧だったと見ています。トウー・マッチです。この時代の「悪」とか[悪人」は、憎々し
 
いとか憎むという使い方くらいなのに、そのトウー・マッチな「悪」というカテゴリーを信仰
 
のなかに入れてしまったというのは画期的です。

 町田――法然という人は「悪」というものを徹底的に見つめました。それはもちろん、自分
 なかの「悪」だけではなかったでしょう。彼の生きた時代は、人間の「悪」が露骨に出てい

 時代だった。目の前で殺し合いをしている、路上で強姦もしている、そんな光景を毎日のよ

 に見ていたわけですから、このとてつもない光景が救われるためにはどうしたらいいのか
と徹
 底的に考えることができた。


 その思索の末にたどり着いたのが悪人正機説ですから、これは一神教を信じる人たちにもぜ

 聞いていただきたい。彼らは、信仰のなかに「悪」をもたない、いい換えれば、信仰をもつ者
 はみな善人だと考えている。そうすると、このすばらしい信仰を共有しないやつはサタンだか
 ら、原爆を落としてもいいとかミサイルをぶち込んでもいいという発想ないんです。


 松岡――「悪」が敵になってしまう。

 町田――仮怨敵をつくって攻撃する、そして軍事力や経済力を高めていく。これが近代文明の
 本質ですからね。なので、もし文明のパラダイム・シフトがあるならば、まさに「悪人」を取
 り込むようなコミュニティをつくっていく必要がある。

 松岡――おっしやるように、キリスト教において[悪」が下半分に隠されてしまっていて、き
 っちりと信仰のなかに組み込まれなかったのは大きな問題ですね。だからドストエフスキーや
 メルヴィルやトーマス・マンのような天文学も出てきたのですが、ところが、そこでもうひと
 つ問題になってくるのは、「悪」が行為として裁かれる対象になってしまっていることです。

 仏教では「悪人」であるかどうかは、カルマとしての「悪」をどう感じるかが問題になってい
 ます。誰にでもあるものが、いまは自分のところにやってきて宿ってしまった。そういう「悪
 」ですから、必ずしも行為としての「悪」、裁かれる[悪」であるとはかぎらないのです。悪
 人正機説という独自の思想が生まれた理由は、ここにあるような気がします。

 町田――そのとおりです。しかし、本来はキリスト教だってそういうものだったかもしれない。
 キリスト教には、群衆が姦淫を犯した女性を.石打ちの刑にしようしているところにイエスが
 やってきて、「このなかで罪のない人から彼女に石を役げなさい」という話がありますね。そ
 の言葉を間いた群衆がひとり去り、またひとり去り、ついにはだれも石を投げることができな
 かった。そしてイエスは黙って地面の砂に字を書いた、という話です。ここからもあきらかな
 ように、やはり、イエスという人は自分の罪に気がついていた。姦淫を犯した女性と同じだけ
 の罪と弱さを自分の中に見つめてきた。だからこそ彼女を裁けないのです。

 松岡――ところが、その後の歴史を見るとそうではないですね。政治的な都合で宗教会議と異
 異端裁判をやりすぎた。やはり法然が
「善」と「悪」を同質的にとらえたことは、世界の宗教
 史上でもきわめて画期的なことでした。そもそも日本における「善知識」とか「善」というの
 はヨーロッパ的な「善」や「悪」とはちがってきますね。「善」と「ブッドネス」とば意味合
 いがちがってきますね。「善」と「グッドネス」では意味合いがちがう。さきほどのダイヤモ
 ンドでいえば、仏教における「善」は三角形ではなく、もうすこしネットワーク的な広がりを
 もっているように思います。

 町田――倫理的な「善」とはすこし異なります。「善知識」というのはサンスクリット語の直
 訳だったと思いますが、プラジョーナ(智慧)に目覚めた人という意味に近いでしょうか。

 松岡――法然は『一紙小消息』のなかで「罪人なお生まれる況や善人をや」と言っています。
 この「罪人」というのも、おそらく当時は「悪」と結びついていたのでしょうね。

 町田――自分のなかのカルマに気づいた人と、実際に非を犯した人。二重の意味があったと思
 もうひとつ、法然思想から現代に継ぎたいのは[死」についての思想です。法然は死近代に生
 きるわれわれは、生物学的な個体生命だけが命であると考えていますね。脳いますね。当時は
 人殺しや盗みが横行していた時代ですから、そういった非を犯した人も少なくなかった。しか
 し、罪人であっても本当に心底から恨悔して、つまり自分の「悪」に気づいて、「南無阿弥陀
 仏」とさえ称えれば、阿弥陀さんは捨てませんよ、と。そういうメッセージもあったはずです。

 浄土信仰の象徴 平等院



                                  仏教における死
 

 松岡――もうひとつ、法然思想から現代に継ぎたいのは「死」ついての思想です。法然は死
 いかに扱ったのか。あるいは、これから再統合される仏教のなかでどう扱えばいいのか。仏

 における死、日本人と死はどうなっているのかを考えたい。 
  法然の時代には「類の死」を「個の死」によって乗り超えたり、いちいち「類の死」を問題
 にせずに、個の念仏から往生という死の対比がつくられた。そして、3・11という未曽有の
 大災害で、日本人はふたたび「類の死」と[個の死」を同時につきつけられた。やはり「悟り
 の仏教」に対して「救いの仏教」というものが必要とされるのでしょう。

 町田――近代に生きるわれわれは、生物学的な個体生命だけが命であると考えています。脳

 の問題はその典聖で、かなりプラグマティックな生命の理解しかしていない。そうすると、

 端医療が発達してきたら、長生きさせるために何をしてもいいということになってしまう

 かし、仏教はそうではありません。仏教はつねに永遠を見ているわけだから、人間の生
死には
 関係ない。法然さんが本当にしつこく口癖のように使う言葉に「生死を離る」とうも
のがあり
 ます。人間が生きるとか死ぬとかはあまり問題ではない。さきほども言ったように
トイレで死
 んでもいい、人通りで死んでもいい、みんな永遠の命に還っていくのだ、という感
覚をもって
 いた。
 

  ギリシャ語のビオスとゾーエという言葉を使って説明すると、さらにわかりやすい。ビオス
 は個体生命です。お数珠でいえば一粒一粒がピオスで、つないでいる糸がゾーエです。近代で
 はこのビオスしか見なくなっているから、この粒が死んだら終わりだということになってしま
 う。けれどもゾーエを見てていたら、一粒が二十で死んでもいい、百歳で死んでもいい、
なぜ
 ならみんなが同じところに還るのだから、と思えてくる。宇宙生命的な空間に戻っていくわけ
 です。仏教にはそういう安心感がある。これをもっと科学的に論じられたらいいと思いますね。 

 松岡――「メメント・モリ」のような言葉もありますが、西洋では死は敗北や敗走とされます
 
ね。だから、死生観が生と死においてつながっていない。切れている。仏教のいいところは、
 
生もつながっているし死もつながっているところです。弘法大師が「秘蔵宝鏡」に残した言葉
 
に、「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わり
 に冥し」
というものがあります。生と死は数珠のようにつながっている、と。ここが仏教の
 重要なとこ
ろです。この死生観がまさに教いです。

 町田――私がよく言うことですが、西洋における理想的な人間は聖人です。道徳的にまった
 く
傷がなく、独身で、神に近いような高いところで崇め奉られる人のことです。ところが、
 東洋
の理想的人間像は[十牛図」に出てくるような痴聖人です。「やまいだれ」の付いた「
 ]です。
教養があるかどうか、修行したかどうかもわからない、それでいて安心立命の世
 界に生きてい
るような普通のおじちゃん、おばちゃん。ここでもやはりゾーエ的な生命を直
 観している。



 松岡――手ぶらのすごさみたいなところがありますね。

 町田――そうです。この「痴」があるかないかは大きなちがいで、これもわれわれが強く発
 信
していかなければいけない。
 私は「十牛図」の英語版をつねに持ち歩いていて、イスラム圈でもよく見せるんです。あな
 たたちは「アッラーは偉大なり」と言い続けて、ずっとコーランを読んでいる。だけど失礼
 で
すが、アッラーというのは「十牛図」における牛ではないのですか、あなたたちは牛を追
 いか
けているだけでしょう、と。しかし、牛は第六図までで消えてしまう。第七図の「忘牛
 存人」
ではもう人間の主体性だけで、第八図の「人牛倶忘」になると、牛も人もいない「空
  」の世界
になっている。第九図の「返本還源」では、梅の枝が描いてあるだけです。ここま
  できて宗教を論じてくれないと、説得力をもたない。うちの牛がいちばん大きくて、色艶が
 いいと言っているけれど、それは本来、第六図で消えてしようべきものです。

 

 松岡――それがきょうの結論かな。討談のい目頭では、日本の文化の阻個は「追放と復活」
 にあ
って、福島原発の事故がその折り返し点になるというた発言がありました。「十牛図」
 を見てみ
ると、第六図で白黒を一回入れて、さらに先に行く。ここには見過ごすことのでき
 ない東洋的
な共通点がある。ところが西欧というのは、このダイコトミー(二者択一)、そ
 の白黒のところ
で終わってしまうんですね。

 町田――おっしやるとおりです。俺はすばらしい牛を手に入れたというところで終わる。ま
 さにアメリカンドリームの世界です。ところが、本当の人生、本当の宗教が始まるのは、牛
 が消えてしまってからですよ。そして、それを語れるのが東洋であり仏教です。しかも、中
 国は当面、拝金主義から抜け出せないでいるから、過去からの精神遺産としての東洋の知恵
 を語れるのは日本だけだと思います。

 松岡――法然も激しい批判にさらされたうえに法難を受けますが、まるで平気でしたよね。
 普通だったらそこでギブアップと言いたくなるところを、それも受け入れなきやならないも
 のだと言ってのける。いわけ「十牛図」でいうところの七、ハ、九をやってしまうのでしょ
 うね。

 町田――そして最後は痴聖人になって死ぬ。そこもまた法然さんのすごいところです。

                                     あとがき

 この本は、私がNHKの特別番組「日本最大の国宝絵巻 法然上人絵伝」にナピゲーター役
 として出演した機縁から生まれた。番組制作中に3・11東日本人雲災がおこり、その後も
 福島
第一原発の事故が激しく乱打されていた。この本はそうした異様な余波の中から立ち上
 がった
のだが、そうであればこそ、私にとっても関係者にとっても、地震-津波-原発-被
 災-法
然-喪失-念仏-死者-家族-阿弥陀仏―鎮魂-浄土-南無阿弥陀仏」は、事の当初
 から分か
ちがたくつながっていたのである。

 法然を考えることについては、私が「選択本願念仏集」を追い読みしているときから始まっ
 ていた。そこには驚くべき編集術が駆使されていた。レトリカルなのではない。多少アクロ
 バ
ティックではあるが、信仰の根拠を求めるための構造的編集が徹してなされていた。専修
 念仏
を正当化するための辻褄合わせの編集でもない。まるで「思想のミラーニューロン」を
 複合的
に活用したかのような編集力なのだ。しかし、なぜ法然がそのような複合編集に長け
 たのかと
いうことをさぐるには、いろいろ当たってみなければならないことがあった。

  第一部ではその推理の一端を示しておいた。たいへんな読書家であった法然が、長きにわ
 た
った浄土三部経の学習から抜け出して善導や水観の言葉に出会い、これらを合わせ鏡にし
 つつ
「弥陀の本願」による六字名号の決定に及んでいったプロセスを編集部のインタヴュー
 に応
じながらできるだけわかりやすく書いておいた。

  第二部はテレビ番組でもとりあげた土人絵伝のハイライトを、実写の風景をまじえて紙上
 で
案内した。法然の意外な生涯がざっと追えるようにもなっている。第三部ではこの本が生
 まれ
た原点に立ち返るために、それには最もふさわしいと思えた町田宗鳳さんにお願いして、
 「3・11から法然へ」という逆旅を先導してもらうことにした。私は町田ファンなのだ。
 たい
へん刺激的で示唆に富むものになったと思う。

  法然を知ることや、法然を媒介にして日本仏教やその背後のアジア仏教のさまざまな突起
 と
深淵を覗きこむことは、現在の日本人が本気で立ち向かうべき大切な宿題になっている。
  その
宿題を解くことは、いまや決して容易なものではないだろうが、こういうときこそ、
 法然の相
互作用型の編集力が大いなるヒントになるにちがいない。
  この本も、むろんそういう「編集の産物」である。もともとの番祖プロデューサーだった
 河
邑厚徳さん、そのときのディレクターの高橋才也さん、NHK出版の原田親さん、とりわ
 け
この本の「選択本願]作業を一手に引き受けてくれた粕谷昭人さんに感謝したい。


この『法然の編集力』は「松岡正剛の編集力」とし読み進めてきたが、第三部の町田宗鳳との対
談は圧倒される。すさまじい読書量と実践量だ。特に町田宗鳳の経歴から湧き出す言の葉の数々
に、そのパワー・思想的フィールドが加わることで重みと深みが逓増してい行くかのようである。
さて、末尾の松岡正剛の、現在の日本人が本気で立ち向かうべき大切な「宿題」にわたし(たち)
がどのように応えるのかという課題が残された。


                                      この項了

 

 

【最新ナノ電子工学 2016】

● 高効率ペロブスカイト型太陽電池製造コスト大幅逓減

スイスの大学 Ecole Polytechnique Federale de Lausanne(EPFL)の研究者は、変換効率20.2%と
高いペロブスカイト太陽電池をこれまでより大幅に低い製造コストで作製す
る技術を開発。ベー
スとなったのは、酸化チタンと色素などから成る従来の色素増感型太陽電池だ。ぺロブスカイト型では、
“色素”の代わりにペロブスカイト材料を用い、正孔輸送材料としてのヨウ素溶液の代わりに、
Spiro-OMeTAD などの特殊材料を用いたものが多い。
実はこの正孔輸送材料が大きな課題だっ
た。ここで利用するぺロブスカイト材料は鉛と有機材料から構成、
安価だった一方で、正孔輸送L
材料は1グラムあたりでおよそ4万円弱するなど非常に高価。今回、EPFLは既存より1/5と
比較的安価な材料「FDT;非対称フルオレン - チオフェン
」を使用し、変換効率20.2%を実
現したという。後は堅牢性・寿命性・安定性・安全性が課題のみとなるはず。

  2,2'-(9,9-Dihexyl-9H-fluorene-2,7-diyl)dithiophene

 

Cheaper solar cells with 20.2% efficiency

※Saliba M, Orlandi S, Matsui T, Aghazada S, Cavazzini M, Correa-Baena J-P, Gao P, Scopelliti R, Mos-
coni E, Dahmen KH, De Angelis F, Abate A, Hagfeldt A, Pozzi G, Graetzel M, Nazeeruddin MK. A mol-
ecularly engineered hole-transporting material for efficient perovskite solar cells.Nature Energy 15017, 18
January 2016. DOI: 10.1038/NENERGY.2015.17

 

 

 

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アジア巨大遺跡回廊Ⅰ

2015年10月19日 | 世界歴史回廊

 

 

 

    チャンスとは、ひとつのことに心に集中することに
          よって、かろうじて見つけることができるものである。

                  ピーター・ドラッカー

 
 
 
 
  
 
【アジア巨大遺跡回廊Ⅰ】 
 
● 謎に包まれた文明崩壊の原因 アンコールワット
 
歴史好きな視聴者にたまらないシリーズがはじまった。『NHKスペシャル アジア巨大遺跡』だ。
イントロの番組概説は次のように語る。

     数千年、あるいは1万年以上昔からアジアに花開いてきた文化や文明。その多くは滅び、 
    記録は失われ、歴史の表舞台から消え去っていった。在りし日の華やかさを伝える巨大な遺
    跡だけを残して…。

    アジア各地に残る巨大遺跡。それは人々を魅了し続ける一方、多くの謎に包まれてきた。

    ところが最新研究の結果、そこに存在した文化や文明の脅威の姿が浮かび上がってきてい
   る。密林の中に作られた世界最大規模の巨大都市、西洋に2000年近くも先駆けた驚きの統
   治システム、冨をくまなく循環させる奇跡の社会…。アジアの人々は従来の想像をはるかに
   超えた高度な文化や文明を築いていたのである。

    そしてそこからは、かつてアジアが大切にしてきた重要な価値観が見えてくる。信仰や考

   え方の遺いにとらわれす、自由に交流を深め共に栄えようとする精神。多民族を―つにまと
   
め、共存してゆく叡(えい)徊。さらに周りの環境を最大限に活用し、自然を破壊するこ
   なく持続的な繁栄をもたらす暮らし…。それは、西洋型の近代国家の発想とは全く異なる

   ジアならでは知恵である。


クメール帝国アンコール。高度な治水技術で「水」を制し、最盛期には75万人が生活した都市が
15世紀に滅んだ理由が見えてくる。遥か千年前に建立された寺院が、幻のように現れては消える。
ここはカンボジア北西部の森林地帯。超軽量の飛行機で上空を飛んでいると、茶色い点がぽつんと見
える。失われた都、アンコールだ。今ではすっかり廃虚と化す。
遺跡の30キロ南には東南アジア最
大の淡水湖、トンレサップ湖があり、北にはクーレン丘陵がそびえ、一帯に広がる氾濫原は、雨期に
は水浸しアンコール周辺に点在するクメール人の村落はどれも細長い木柱に支えられた高床式住居と
なる。
しばらくすると、森のなかに堂々たる石造伽藍が姿を現した。12世紀に建立されたヒンドゥ
ー教のヴィシュヌ神をまつる寺院バンテアイ・サムレだ。1940年代に修復され、アンコール王朝
が最も栄えた中世の華やかさを今に伝える。寺院は、大きさの違う同心方形の石壁が建物の中央を二
重に囲む構造になっている。
もっともバンテアイ・サムレは、アンコール王朝がこの地に次々と建て
た千を超える寺院の一つに過ぎない。寺院建立に傾けたエネルギーとその規模は、エジプトのピラミ
ッド群に比肩する。



寺院群のなかで最も豪華で、世界最大の宗教建築と称されるのがアンコール・ワットだ。ハスの花を

かたどった美しい高塔を、ポルトガル人宣教師たちが見つけたのは16世紀後半、その頃のアンコー
ルはすでに往時の輝きを失い滅亡し南に逃れた人たちが細々と王朝を継承していく。侵略、改宗、海
交易の発達。アンコール王朝が滅び理由には諸説あるが、アンコール・ワットをはじめ各石造寺院
の扉の側柱
や石柱には1300もの碑刻文が刻まれているが、王国の崩壊を説明するようなものは残
されていない。
たくさんの小さな首長国を束ねて一大王国を築き上げるには、東南アジアを襲う季節性の豪
雨(モンスーン)を管理することが不可欠だった。高度な技術によって、アンコール王朝は最も貴重な資源であ
る雨水を管理したが、そのコントロールを失うと同時に、衰退せざるを得なかったという説が最新の
調査で浮
上している。

  Tonlé Sap

そこでは、何世紀もの歳月と近年の戦火を耐え抜いたアンコールの彫刻が、往時の人々の日常が今も
息づいていことを伝える。寺院正面の浮き彫りには、将棋に興じる二人の男性や、出産する女性の姿
が描かれる。だが、調和と悟りに満ちた地上の楽園の光景とともに、戦闘の場面も登場し、近隣のチ
ャンパ王国からトンレサップ湖を渡って迫りくる兵士たち。だがこうした場面が回廊の壁面に刻まれ
て残っているということは、勝利したのはアンコール王朝だと語る。

東のチャンパ王国と西の強大なアユタヤ王国にはさまれて、アンコールは絶えず外からの脅威に翻弄
された。また歴代の王は一夫多妻の
ため(その数千人とか?)、王位継承権を巡っり争い、王子たち
は常に策謀を巡らせる。「大アンコール・プロジェクト(GAP)」と名づけられた調査の共同責任者の
ローランド・フレッチャー・シドニー大学の考古学者は、アンコール王朝では政治的に不安定な時期
が何度もあったと語っている。



アンコール王朝は数々の戦いを切り抜け、最後は戦いに敗れて消滅したという説もある。アユタヤ王
国の年代記には、同国の戦士たちが1431年にアンコールを「奪取した」と記録があり、今から百
年前、フランスの歴史家たちはアンコールの繁栄を伝える逸話と西洋の旅行者が見た遺跡の荒廃ぶり
を結びつけアユタヤ侵略説を唱える。これに対し
王朝内でどれほど陰謀が渦巻くとも、人々の生活の
中心に根付いた宗教――
アンコール王朝の歴代の王は、ヒンドゥー教が伝える神の化身としての“世
界の王のなかの王”であると主張し、自らのために寺院を建てた。ところが13~14世紀に(上座
小乗)仏教が勢力を広げると、ヒンドゥー教と大乗仏教の影響力が低下し、社会的な平等を説く上座
仏教は、アンコールのエリート階級にとって脅威だったかもしれない――
がさほどの影響はなかったと
考える説が有力である。

宗教改革が始まったことで、王族の権威にも陰りが見える。アンコール王朝では米穀が実質的な現物
通貨(稲作4、5期作をベースとした米本位制経済)とされいる。タ・プローム寺院に残る碑刻文に
よると、この寺院だけで、僧侶、踊り手、下働きの者を含む1万2640人が仕え、彼らを養うため
に、6万6千人以上の農民が年間約2500トンものコメを生産していた。タ・プロームと同規模の
寺院、プリヤ・カンと、さらに大きいアンコール・ワット、バイヨンの三つの寺院を合わせると、食
料生産に必要な農民の数は30万人。大アンコール都城周辺の推定人口の半分近い。平等を説く上座
仏教のような新しい宗教が広まったことで民衆の反乱が誘発されたという説。

あるいは、王朝がアンコールを廃都――アンコール王朝の歴代君主たちは、新しい寺院群を建設する
と、古い寺院の手入れをしなくなる。新天地を好む傾向に加え、東南アジアと中国の、大航海時代の
海洋交易の始りも、王朝の衰退に拍車をかけ、権力中枢がカンボジアの現在の首都プノンペン付近に
移し経済を優先した――説もある。

 

また、人口百万を支える農業生活水路の跡がアンコール王朝衰退の手がかりとなる。時代が進むにつ
治水システムが複雑化し手に負えなくなっていき、修復に追われる毎日だったのかもしれないという。
周辺にダムの石が積み上げられ、石壁には大きな穴が開いていることからダム崩壊したと推測されて
いる。
ダムは川の流れに少しずつ浸食され、構造的弱体化、あるいは百年ないし5百年に一度という
大洪水で崩壊、残った部分を解体し、石材を回収して別の目的に転用したと考えられている。

さらに、アンコールの最盛期にも、貯水池が一つくらい干上がった時期――アンコールの治水システ
ムは破綻をきたし、水利設備が劣化したアンコールは、当時、予測不可能だった自然の大災害に対し
無力だった。ヨーロッパでは14世紀以降、気候が寒冷化し、冷夏と厳冬が頻繁に起きる小氷期が数
世紀続く。東南アジアでも大きな気候変動が起きていた。
 アンコールの一部では、年間降水量の90
%近くが、5月から10月まで続く夏のモンスーンで賄われている。東南アジアの森で年輪のある樹
木を探しだがこの地域の樹木は、はっきりわかる年輪がなかったり、年輪があっても1年ごとではな
い場合がほとんどだが、チークやラオスヒノキなど年輪のある古い樹木で9百年の大木から、アンコ
ールの栄枯盛衰――1362~92年と、1415~40年の2回にわたり、アンコールでは深刻な
干ばつが起きていた。これらの時期にはモンスーンの威力が弱かったり、降雨の到来が遅れたり、一
度もモンスーンが発生しない年もある。それ以外の年は、巨大モンスーンに幾度も襲われた――が推
測できる。

傾国王朝にとって、極端な気候変動はとどめの一撃になる。西バライの荒廃した状況からすでに王朝
後期頃にはアンコールの水利設備は機能不全であった。
治水システムが本来の機能を十分に果たせな
くなった理由は謎っだが、ともかくも農業生産を基盤とする国力は失われ、ちょっとした干ばつにも
耐えられなくなり、
長引く深刻な干ばつと、その合間に襲ってくる集中豪雨によりアンコールの治水
システムは完全に崩壊する。
ただ、アンコールが砂漠になったわけではなく、アンコールの主要な寺
院群の南にある、トンレサップ湖の周辺には氾濫原には、メコン川のおかげで最悪の事態を免れる―
―チベットの氷河を源流としたメコン川はモンスーン気候変動による影響をさほど受けない。

● 王朝を滅ぼした気候変動

このように、アンコールは人類史上まれに見る規模の文明興亡の舞台となる。9世紀から15世紀ま
で続いたアンコール王朝は、最盛期にはインドシナ半島のほとんどを席巻し、西はミャンマー(旧ビ
ルマ)から東はベトナムまでをその版図に収めていた。首都アンコールは、現在の米国ニューヨーク
市に相当する面積に75万の人々が暮らし、18世紀の産業革命以前としては最大規模の都市圏を築く。

気候変動に加え、政治と宗教の風向きが変わったとなると、アンコールの運命は定まった――アンコ
ールを取り巻く世界は変化してい、王朝が滅びても不思議ではない――
もっとも気候変動の犠牲にな
ったのはアンコール王朝が最初ではない。地球を半周した所で似たような現象が起きている。
現在の
メキシコおよび中米で栄えたマヤ文明の都市国家が、やはり環境の均衡が崩れ滅びる。マヤ人に決定
的な打撃を与えた9世紀に3回も起きた深刻な干ばつと人口過剰、そして環境の悪化である。アンコ
ールに起こった事態は、基本的に同じである。

アンコールの終焉は、人間の創意工夫にも限界があるということを私たちに突きつける。アンコール
王朝は技術と人的資源を投入して国土をすっかり造り変えた。だがその投資があまりに莫大だったた
め、王朝関係者たちは引くに引けなくなる
アンコールの治水システムは驚異的な仕組みであること
は確か。国を治める機構は学術的にも貴重だが、クメール文明を代表する治水システムは優秀な土木
技に支えられ、6世紀ものあいだ維持される。だが最後には、人智をしのぐ自然の脅威を前に、なす
すべがなかったのかもしれない・・・・・・。アジアの巨大遺跡回廊をみたときはじめてそのことに気が付
くことになる。これはいかにもスケールが大きく、懐の深い人類遺産だ。

 

 

【縄を捨てまじ!】

● 辺野古の環境監視4委員、業者側から寄付・報酬
 
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の同県名護市辺野古への移設計画で、国が進める工事を環境面
から監視する専門家委員会の委員3人が、就任決定後の約1年間に、移設事業を受注した業者から計
1100万円の寄付金を受けていた。他の1委員は受注業者の関連法人から報酬を受領していた。朝
日新聞の調べでわかったという(朝日デジタル 2015.10.19)。

それによると、4委員は取材に対し、委員会の審議に寄付や報酬は影響していないとしている。違法
性はないが、委員の1人は受領を不適切だとして、委員辞任を検討している。この委員会は「普天間
飛行場代替施設建設事業に係る環境監視等委員会(環境監視委)」。沖縄県の仲井真弘多・前知事が
2013年12月、辺野古周辺の埋め立てを承認した際に条件として政府に求め、国が14年4月に
設置した。普天間移設事業を科学的に審議し、工事の変更などを国に指導できる立場の専門家が、事
業を請け負う業者側から金銭支援を受ける構図だ指摘している。

この問題の解決法の1つとして『縄すてまじ』(2012.12.15)で、「浮体空港案」を掲載(上図)ク
リック)。移動可能な、多目的浮体空港であるため「空母」と見なそうとする勢力の標的にはなるが
これ一番現実的である。また、辺野古建設反対は、「普天間基地の固定化」につながると、保守(反
動=極右)勢力からの言論封殺や疑念(経済効果は計り知れない)を相殺できるものである。それに
しても、自由と民主主義を封殺した、戦前の「軍・顔・官」体制の蘇生を暗示させるなようなニュー
スだ。
 
 
 
 
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緑寿に短歌行

2014年12月30日 | 世界歴史回廊

 

 

● ルート66は緑寿だった。

明日は大晦日。ことしを振り返ると母が他界したこともあり、疲労の色に支配された年だった。そん
なこともあり百名山登破は一岳のみ終わったが、時の趨勢にも助けられテーマの再生可能エネルギー
のミッション(調査研究領域)は一応達成された(参考『オールソーラーシステム完結論 35』)。
ところで、今年で緑寿を向かえていたこについ最近気ついた。緑寿は他の長寿の祝いと異なり、2002
年9月に日本百貨店協会から提唱された商業主義的なお祝いとか。
数え年の66歳は高齢世代で介護
も必要な<、現役世代と高齢世代の節
目と世間では考えられているといるため、新たな社全活動への参
画を促すスタートラインに泣置づけられ21
世紀が「環境の世紀」といわれることから「緑」をイメージ
し、66歳なので「緑縁寿」
となるところを簡潔にしたものであると説明されている。長寿大国の日本
では、長寿祝いを行う機会も多く、一言で長寿のお祝いと言っても様々だが、ニューカマーな
祝いだ
が、現代社会にマッチし、どんどん浸透していきそうだとも言う。

"66"から最初に連想したのは米国のテレビドラマ「ルート66」(米国では1960年のCBSテレビ
で放映)。この時の主題歌が
ジャズ・ピアニストでソングライターのボビー・トゥループが1946年に
作詞・作曲。
もとはナット・キング・コールがヒットさせたスタンダード・ジャズだ。「ルート66」
とは、イリノイ州シカゴとカリフォルニア州サンタモニカを結ぶ国道66号線。テレビではルート6
6をひた走るコルベット・スティングレーで突っ走る二人の若者が、
途中の町々での出来事を様々に
物語る、友情・愛・恋をテーマにしえいる。尚、
ローリング・ストーンズはデビューアルバムA面の第1曲
目に挿入している。その次に浮かんだのが、近年、『三国志演義』の影響によって悪役としての評価
が定着し
た曹操であるが、1950年代以降に入ってからは逆転し再評価されているという。 




● 揺れ動く評価 曹操は英傑?!

近代の中国においては、西欧の進出に対してその劣位が明白になり、幾度となく近代化を目指しては失敗した
背景として、思想的な儒教・華夷思想への偏重などがあったと反省され、思想的な枠組みを超えて合
理性を追求した曹操の施策が、魯迅など多くの知識人によって再評価されてくる。特に曹操再評価を
盛り上げたのは毛沢東で、彼の主導の下、曹操再評価運動が大々的に行われた。郭沫若が戯曲におい
て曹操を肯定的に評価したのもこの頃である。また、文化大革命の時の批林批孔運動でも、反儒教の
人物として肯定される、永寿元年 - 建安25年にかけ活躍した中国後漢末の武将、政治家。詩人、兵法
家の曹操が没したのも66歳といわれている。

歴史学的には、まず郭沫若らの曹操論争があって文学的な評価が進み、その流れを受けて日本で、京
都大学の谷川道雄、川勝義雄らによる曹操集団および曹魏政権に対する再評価が進む。曹操の政策と
して知られる九品官人法は魏晋南北朝時代の貴族制度の前史として言及されることが多く、川勝らの
曹操(曹魏政権)、魏晋南北朝理解に対し、1950代~1970年代の間に議論があり、後漢が建国の経緯
から豪族・知識人糾合政権であり、統治機能が失われた黄巾の乱以降に、いち早く豪族・知識人を糾
合に成功させた曹操と袁紹であり、曹操が袁紹に勝利した要因には上述の九品官人法のような現実的
な人材登用制度の採用がある。また屯田制は豪族による土地と農民の所有制度の対抗のために導入。
結果、全ての土地が曹氏に収奪される(=地公民制度の端緒)。しかし、1990年代以降、行き過ぎた
曹操の再評価に対して抑制がかかる。

 

さて、建安25年(220)、病のため死去。「戦時であるから喪に服す期間は短くし、墓に金銀を入れ
はならず」との遺言を残した曹操。死後、息子の曹丕が後漢の献帝から電城禅譲を受け皇帝となり、
太祖祖武帝と追号された。そして。2009年に曹操の陵墓が発見、その真偽を確かめるために、復旦大
学では、被葬者の男性のDNA
と全国の曹姓の男性のDNAを照合するが、漢民族では姓は男系で継承され
るため曹姓の男性は曹操のY染色体を継承する考えられるためである。
曹髦の66代目の子孫、曹操か
ら数えて70代目の直系子孫にあたると伝えられる曹祖義が遼寧省東港市に住む。最近発見された曹操
の墓の真偽判定のため、復旦大学で DNA鑑定を受ける
一方、曹操の墓の発見を受けて曹操の子孫を名
乗る人々も現れている。なかには司馬氏の迫害を逃れるために「操」姓に改姓したという「操氏」の
人々もいるとか。



● 曹操のイメージを変えた 西高穴2号

西高穴2号墓は、中国の河南省安陽市安陽県安豊郷西高穴村に位置する後漢末期の墓。2009年12月27
日、河南省文物局によりその発見が公表、後漢末の権臣曹操の墓であると認定。曹操高陵とも称され
る。2010年6月11日、国家文物局により
西高穴村墓は2007年12月に盗掘に遭い、2008年秋に盗掘団が
摘発されて画像石などの遺物が押収された。同年11月、河南省文物局は地下文物の保護のために緊急
発掘をおこなうことを決定し、国家文物局の認可をえた。同年12月6日より河南省文物考古研究所に
よる発掘が開始された。2009年4月、発見された2基の墓に1号墓・2号墓と番号がふられた。同年11月、
河南省文物考古研究所は専門家を招聘して発掘成果について協議した。同年12月、西高穴後漢大墓発
掘専門家論証会が開かれ、討論の末に西高穴2号墓の墓主は曹操であろうと結論される。

2号墓の墓葬平面は甲字形を呈し、スロープ状の墓道をもつ多室磚室墓である。西から東向きで、方
向は110度。墓道・墓門・甬道・前室・後室および4つの側室からなる。墓道の長さは39.5メートル、
幅は9.8メートル、最深部は約15メートルの深さがある。墓口平面は梯形で、墓室の面積は約380平方
メートル、墓の総面積は約736平方メートル。前室は方形で、四角錘状の天井をもち、平面長方形の南
北側室がある。後室平面も方形で、四角錘状の天井をもっている。平面長方形の南北側室があり、ド
ーム状の天井をもつ。側室はみな石門で封じられていた。

2号墓の墓室からは3人分の遺骨と3組の棺材が発見されており、遺骨の内訳は男性1人と女性2人で
ある。男性の頭骨は前室の前部から出土し、中国社会科学院考古研究所の王明輝の鑑定では60歳前後
あるいは60歳以上である。ひとりの女性の頭骨は後南側室付近から出土し、鑑定では50歳あるいは50
歳以上である。もうひとりの女性の頭骨は後北側室付近から出土し、鑑定では20歳から25歳である。
女性ふたりには出産経験の痕跡が認められる。2号墓の副葬品は男性用のものが主であり、墓主は男
性であると考えられるという。
 

● 文人・詩人としての曹操

曹操は「槊を横たえて詩を賦す」と後世に言われたように、政治・軍事に多忙な中、多くの文人たち
を配下に集めて文学を奨励すると同時に、自身もすぐれた詩人であった。彼は建安文学の担い手の一
人であり、子の曹丕・曹植と合わせて「三曹」と称され30数年間、昼は軍略を考え、夜は経書の勉強
に励み、高所に登れば詩を作り、詩ができると管弦にのる。曹操は軍隊を率いることせ音楽の歌詞に
したという。その記述の通り、現存する曹操の詩は、いずれも楽府という音楽の伴奏を伴った歌詞で
あり、代表的な作品として『文選』27巻 樂府上 樂府二首に収録された下に記す天下泰平に望み、そ
のため逸材を欲する歌である「短歌行」が有名である。


   對酒當歌     酒に対して当に歌うべし
   人生幾何     人生 幾何ぞ
   譬如朝露     譬えば 朝露の如し
   去日苦多     去りし日は苦だ多く
   慨當以慷     慨して当に以て慷すべし
   幽思難忘     幽思 忘れ難く
   何以解憂     何を以て憂いを解かん
   唯有杜康     唯だ杜康 有るのみ 

   青青子衿   青青たる子が衿
   
悠悠我心   悠悠たる我が心
   但為君故   但だ君が為の故 
   沈吟至今   沈吟し今に至る
   呦呦鹿鳴   呦呦と鹿鳴き

   食野之苹    野の苹を食す 
   我有嘉賓   我に嘉賓有らば、  
   鼓瑟吹笙   瑟を鼓し笙を吹く

   
明明如月   明明として月の如きも、  
   何時可採    何れの時にか採るべし
   憂従中來     憂いは中より来たりて
   不可断絶      断絶すべからず
   越陌度阡      陌を越え阡を度り
   枉用相存   、枉げて用って相存す
   契闊談讌      契闊談讌し、心念旧恩

   月明星稀   月明らかに星稀に、   
   烏鵲南飛    烏鵲南に飛ぶ
   繞樹三匝      樹を繞ること三匝、
   何枝可依      何れの枝にか依るべき
   山不厭高      山は高きを厭わず
   海不厭深      海は深きを厭わず
   周公吐哺      周公哺を吐きて
   天下帰心      天下心を帰す

   

 

以上、"66”に拘った「ルート66と曹操」の話だが、天下統一を担える人物は、日本の源頼朝や
田信長などと漸近すると言えよう。いや、寧ろ時代を、状況を切開しうる歴史上の英傑像とは、
いかなる場合も同じだと言えるのではないか?
ならば、政治権力の中枢の劇場外の、齢66とはい
かなるものだろう
かと考え、齢69で「生前葬コンサート」を行った小椋佳(神田紘爾)は自分のこ
とを次のように語っているので参考にする。


 いま、私自身が人生から過く時が来ている。資産のことでいえば、すでに妻や息子たちにその内
 容を開示し、どう振り分けるべきかも言い伝えてある。妻も息子たちも、その人間としての誠実
 さと優しさに私は満足している。一方で、私から見ると、それぞれ生きてゆくことに鷹揚過多で、
 緊張感と貪欲さに欠けている点が少なからず心配であるが、いまさら私の説教など効果があると
 も思われず、まあ「なるようになるさ」か、「なるようにしがならないさ」のいずれにせよ、こ
 こにだけは、運命論とか決定論とかを採り、諦観達観を獲得しておくことにしよう。妻、息子そ
 してその嫁さんたちに幸運が降り続きますように。


   「落日、燃え」

   西の空を紅く焦がし ことさら輝くあの落日

 

   若い日なら顔を上げて 明日の憧れ映したもの

   今はどこか舞い散る花 浴びる時の感傷のように


   命ひとつ尽きる前の 名残りの祭りと視る



                                              小椋 佳 箸 『前葬コンサート』


ある水準を持った個人が目標を達成し充足感に包まれ、放物線の落下を意識する。これを言い換える
と――往く道は精進にして、忍びて終わり、悔いはなし(酒井阿闍梨)――であり、侘び、寂びの非
対称的な欠落感覚と結界に匂う抹香の世界を強く意識する。それを彼は運命論と決定論とを採り語っ
ているが、わたしも、抹香臭くなっているのだろうか? それは自分でも分からない。

   ● 今夜の一曲 

   「便り届くなら」

   ・・・・・・・・・

   
今 僕の周りに 仲間もいるし 恋する人もいるよ

   
   今 僕の心に 幾つか夢も 見えている けれど

   時折眠い朝 あなたの声は無くて 僕を起こすよ 目覚まし時計

   ・・・・・・・・・

   全てを僕の為に生きたあなたに便り届くなら

   あなたにたった一言でも 幸せですと ただ一言でも



   「便り届くなら」は、若い日、母の死を悼んだ歌である。いまさら母を懐かしむ歳でもない
  が
今福ではいままであまり触れなかった母の一面について記そう。それは意図せず母の身に備
  わ
った特技というべきもの。母は霊媒であった。 
   母にいわせればそれは彼女が19の厄年の折、厄落としにどこかの寺にお龍りをした折から身
  についたものとのこと。母の場合、それは、目を閉じ20分ないし30分ほど手を合わせていると、
  霊と呼ぶべきものが母の身体の中に入ってくるという現象。したがって母は、誰か特定の霊を
  呼ぶという能力はなかった。なぜかということも、区別の基準も、私には分からないが、合わ
  せた手が上へあがるといわゆる「偉い」人の霊が乗り移り、手が下がると、さほどでもない人
  の霊、時には生霊であったりする。母のこの霊媒行為は、我が家では疑問ももたれずごく自然
  に月にI度、多い時で数回行われていた。母は家族以外の人に頼まれてこの霊媒行為をやるこ
  ともあったが、決して、それを商いにしたことはないし、礼金を取るということもなかった。
  私はこの「憑依」という特殊超常現象を格段に異常なこととも思わずに何度となく体験して育
  った。なかには、盗人の判明であったり、失踪人の居場所割り出しであったり、滑稽な死亡者
  からの墓造り請求であったり、事件の予知であったり・・・。母の霊媒行為とその観察を通し
  て私の中には、「通常われわれが魂と呼んでいるようなものが、現世の人には不可視状態で、
  空間にうようよしていること、人間の魂はなぜか死後2年間くらいはこの世をうろうろしてい
  るが、その後はとこか別の地へと移り行くこと」などの妙な感覚が植えつけられてしまってい
  る。それはちょうど幼い日から毎週日曜日、教会に通わされる西洋人の多くが、知らぬ間にキ
  リスト教徒になり、絶対神の存在を信じてしまうのと同じようなことであろうか。
   私は、自分が特異な心情にとらわれている人間であることを告白したわけであるが、それで
  もなお不可知論者であるといいたい。信仰の自由を否定する者ではないし、信仰者を蔑視する
  者でもない。ただし、これからの日本人社会については、宗教信似非依存型社会の構築を、そ
  れも言語練磨の上での独自の国民総意としての、曖昧でない「理」をもった社会の構築を標榜
  したい。


  「甘いオムレツ」


   「ため息なんて、おつきじゃないよ」それがあなたの口癖だった

   泣き虫を責められて 物置に閉じ込められて あなたを恐れていた7歳

   酒と祭りと喧嘩大好き 絵に描いたような江戸っ子だった

   宵越しの企もたず 計画を立てぬ買い物 あなたに はらはらした10歳

   子供らが喜ぶという理由だけで 料理にはやたら砂糖を注ぎ込んでた
  

   甘いカレー 甘いオムレツ

   母として理想的かは知らないけど 懸命に愛のしるしを注ぎ込んでた


   甘いカレー 甘いオムレツ


   甘くなければカレーじゃないし 甘くなければオムレツじゃない


   そう思う僕たちは紛れなくあなたの息子 あなたを失ってた25歳


    ・・・・・・・・・

   
何かしら疲れ感じて肩落とすとき 心にはため息つかない母の声

   甘いカレー 甘いオムレツ

   ・・・・・・・・・


 「甘いオムレツ」は母を歌った比較的長い詩の歌である。母は感情豊かに精一杯生命力を溢れ
 せて生きる様を息子らに遺して逝った。父は地味に思慮深く生き、母の死の10年後、こつこ
つと
 貯めたしかるべき財産を(自らの愉しみに浪費すること一切なく)子どもたちに繋いで死ん
だ。
 思えばありかたい父母であった。

                            小椋 佳 箸 『前葬コンサート』



今夜はこの歌を聴くことで、母と父の思いと彼の父母への思いを重ね、己の至らなさを思い知るこ
ととなった。
  
                                                                                合掌


  

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七本槍浪漫回廊

2014年02月24日 | 世界歴史回廊

 




【慶長遣欧使節団の派遣の浪漫】




牡鹿半島にあった港・月浦(つきのうら)を、遠くイタリア、ローマへ向けて「サン・フアン・
バウティスタ号が出帆したのは、今から四百年前、1613年10月28日(慶長18年9月15日)のこと。
サン・フアン・バウティスタ」とは、「洗礼者聖ヨハネ」から名づけられ、その由来は造船に
携わったスペイン人ビスカイノと伊達政宗の江戸市中での出会いの日が、洗礼者聖ヨハネの祭日
に当たっていたからだといわれている。サン・フアン・バウティスタ号は「慶長遣欧使節」と称
される総勢180人を乗せ(仙台藩士の支倉六右衛門常長、今泉令史、松木忠作のほか、幕臣向井
将監の家来10人、宣教師ルイス・ソテロ、司令官ビスカイノをはじめとする南蛮人約40人、商人
などが乗り込む)スペイン・ローマを目指す。奥州仙台藩の初代藩主・伊達正宗からスペイン国
王・ローマ教皇にあてた親書に、仙台藩領内でのキリスト教の布教を許可し宣教師派遣の要請と、
スペインの植民地メキシコとの通商許可を目的てした。また、スペイン王国宛の協定案にはスペ
イン人に対する治外法権を認め、スペインと敵対関係にあるイギリス、オランダ人らが領内に渡
来した場合は崇敬しないとすることなどが記されていたという。

1614年10月5日、一行はスペインのサンルカールに無事入港。ソテロの出身地であるセビリアや、
首都マドリードなどでも、大歓迎され盛んなもてなしを受けた。翌1615年1月30日、スペインと
ポルトガル両国に君臨していたフェリーペ3世から、王宮で謁見を賜り、支倉常長は2月17日に
洗礼を受け、フィリッポ・フランシスコ・ファシクラとの洗礼名を受ける。
しかしマドリードに
は、日本の宗教弾圧の様子などが伝わっており、フェリーペ3世は、「宣教師の派遣は可。寄宿
舎、神学校の設置に関わる費用負担は不可。通商の件についてはオランダ人との交通や保護をし
ないことを前提に前向きに検討する」と返答し、使節らのローマ行きを許可。
ようやく地中海を
イタリアへと船を進めた使節は、ジェノヴァからローマに到着。10月29日、華々しいローマ入市
式の後、11月3日、教皇パウロ5世との謁見を果たしたのは、スペインに上陸してから1年余の
ことだった。

一行は、1618年4月にメキシコのアカプルコ港から、迎えのために再び太平洋を越えてきたサン・
フアン・バウティスタ号に乗ってマニラまで帆走。しかし、マニラについた一行は便船の都合も
つかず、長期間の滞在を余儀なくする。その間、スペインとオランダの衝突にまきこまれ、サン・
フアン・バウティスタ号はスペインに買い上げられ、スペイン艦隊に編成される。1620年9月22日、
政宗への良い知らせを持たないまま、ようやくの思いで支倉は日本にたどりつく。出帆400周年を
控えた2011年、東日本大震災による大津波が復元船サン・フアン・バウティスタ号とミュージア
ムを襲う。復元船の周囲を囲むドック棟が破壊され展示物の多くが流出。さらに復元船は4月末
の暴風の影響でマストが折れ、修復が始まるまでの間に本体の腐食が進み大規模な修復が必要な
状態になる。がれき撤去後の2012年4月には募金活動が始められ、この頃から復旧に向けた取組み
が本格化。同年6月からはサン・ファンパーク、ドック棟の工事が開始、復元船に使用される木
材も次々運び込まれ、ドック棟、復元船は、2013年秋の完成を目標に修復が進められる。同年6
月19日、仙台市博物館が所蔵する国宝「慶長遣欧使節関係資料」のうち3件が、ユネスコ記憶遺
産に登録された。




【シェリー樽熟成純米酒の誕生】

シェリーは世界で唯一、スペイン南部、アンダルシア州の南西の端にあるへレスという町を中心
にした限定地域で造られる白ワイン。へレス一帯で、原産地呼称の規定に従って、パロミノ、ペ
ドロ・ヒメネス、モスカテルの3種類の白ブドウを使い、アメリカン・オークの樽で最低3年、
特有のソレラ・システムによって熟成される酒精強化ワインである。シェリー(Sherry)とは英語
名で、スペイン語ではビノ・デ・へレス(Vino de Jerez)、つまりへレスのワインと呼ばれていた。

ヘレスのワインに関する最初の記述では、ヘレスのぶどうは紀元前1100年頃にフェニキア人によ
りこの地域にもたらされ。現在ヘレスがある地域をフェニキア人はセラと名づけましたが、この
ヘラから商売人のフェニキア人たちはワインを造り、ローマをはじめとする地中海地域全体に広
がる。紀元前138年頃、エスシピオン・エミリアノがベティカ(現在のアンダルシア地方)を平定。
そして、セレット(ローマ時代のヘレスの呼び名)地域と本国の首都ローマとの間の交易の流れ
も重要になり“セレットのワイン”の評判は国境を越える。711年、スペインではアラブの支配が
始まり、ヘレスでは5世紀以上も続くが、シェリシュ=アラブ人がヘレスにつけた名前=は、コ
ーランで禁止されていたにもかかわらず、ワイン生産の重要な中心地であり続ける。干しぶどう
の生産と医療目的のアルコール確保がある意味でぶどう栽培とワイン生産を維持がその口実とな
っていたという。
1264年に賢王といわれたアルフォンソ10世がヘレスを奪回し、ヘレスのワイン
は劇的に変化する。国王はヘレス・デ・ラ・フロンテラに自営のぶどう畑を持ち、自身で手入れ
していたという。
ヘレスのワインの輸出は増加し続け、ヨーロッパだけでなく、アメリカ発見に
ともない、ジェノバの商人たちは新大陸との交易目的ににヘレスのワイン産地に居を定め、マゼ
ランにヘレスのワイン=シェリーを417袋と253樽買い込み旅立たせが、その結果シェリーが世界
を一周した最初のワインとなる。

ぶどう栽培者に支配されたワイン関係業者のギルドは異なる収穫年のワインの貯蔵を規則で禁じ
ていたため、ワイン熟成できすにいたが、1775年、出荷業者の訴訟が起こり、何10年もかけた後、
ギルドによる厳しい活動制限規則が消滅し、これがワインの製産と交易上、最もこの地域のワイ
ンのアイデンティティを決定つけることとなった。シェリーの需要は19世紀を通して増加の一途
をたどり、1933年には原産地呼称統制委員会が生まれた。
 

  

【七本鎗 セブンスピアズ

賤ヶ岳合戦の武勇伝として語られる七本槍。これ以外にも、日本槍柱七本とか、小豆坂七本槍
どあるが、賤ヶ岳七本槍以前にも、この近江には姉川の七本槍というものもあったとか。これは
浅井・
朝倉軍と織田・徳川軍の間で大規模な戦闘が展開され、多数の死者が出たという激戦で、
地元では「三田村合戦」「野村合戦」と呼ばれていたものが、徳川時代になってから「姉川合戦」

と変えられているが「姉川合戦」の2ヶ月後、浅井・朝倉軍は大津まで遠征し「志賀の陣」を戦
っているこ
となどからこの戦いは小競り合い程度だったととの見方もある。ところで、徳川軍の
先陣を切った酒井隊
に続いて、小笠原隊が姉川を渡り、朝倉軍へと突入。その中で渡辺金大夫が
合戦も終った夜、信長は金
大夫を呼び寄せ、褒美を手渡たすが、その他の六名の門奈左近右衛門
・伊達与兵衛・伏木久内・中山是
非之助・吉原又兵衛・林平六が抗議し、結局、信長は後日この
六人にも褒美を出したといわれこれが先行し広まったとの説がある。このように七本槍伝説はこ
の地方か
ら広まったことには違いがないが、長浜は木之本町の冨田酒造の『七本槍』、特に山田
錦40%の袋吊り斗瓶取り、タンクの
両端に棒を渡し、モロミの入った酒袋をその棒に括りつけて、
酒袋から滴り落ち
る雫だけを18リットル瓶に集める手間隙の掛かる方法)大吟醸はメロンの芳香
があり「日本酒の会」も一押しだという。創業が天保年間、創業450年以上という歴史のある蔵で、

かの北大路魯山人も愛しラベルの文字も彼の篆刻を使っている。

    

【七本鎗 「純米 シェリー樽熟成 2010 純米」を注文!】

清酒「七本鎗」シチホンヤリは、天文年間(16世紀半ば)より地元の江州米を使った酒造りをし
てきました。今で言う地産地消、スローライフを地で行くような酒蔵の歴史。21世紀の今、井の
中の蛙も15代目となり漸く外界へ目を向けなんとしていると当主が語る
七本鎗。手間のかかる木
槽で搾ってこその旨さが七本鎗にある。共通しているのは香りを押さえてふくよかな味わいと切
れの良さ。そして冷やでもお燗でも美味しい辛口タイプで純米酒は幅広く料理に合う。


その冨田酒造が三年前、スペインから輸入したシェリー樽(オロロソ)に火入れの七本鎗純米を
入れ熟成させる。洋酒のBARのオーナーと話をしていた時に出た話題をきっかけにスタートした
挑戦だという。シェリーの香りと純米酒の旨味がバランスよく融合し新たな感覚のお酒になった
ということだ
。純米酒は2011年6月より数ヶ月の間樽熟成しその後瓶貯蔵していたもの。早速、
通販「酒のかわしま」にワンクリック注文する。配達され早速開封し頂く。辛口だが甘い!それ
が第一印象、そして、ボデガス テレサ・リベロ社のマンサニージャサンケーニャのようなワイ
ンの表面に浮かぶ酵母の膜独特のフロール香と酸味がしスムーズかだが、どのように表現して良
いのか独特の刺激が残る(少し改良の余地があるかな?)。勿論、ワインではなく、淡い琥珀色
の冨田酒造産日本酒であるが、シェリー酒と日本酒のコラボ意図の創作日本酒は成功したと思う。
これで日本酒のイメージが変わりアジアだけでなく欧米にも拡販できるだろう。

この創作日本酒に合う料理はと考えてみたが、冷蔵庫から市販のプロセスチーズとおかめ納豆を
とりだし肴として試食。チーズは想像していた通り違和感なし。納豆は出汁と芥子を和えて飲ん
でみたが、これは想像以上に美味いという感想だ。また、このお酒にはオリーブオイル(キャノ
ールオイルでも良い)たっぷりのスペイン料理のアヒージョや日本の一夜干しなどの魚介類の干

物との相性は良いだろう。左下の写真は、定番のエビのアヒージョだが、ブラックタイガー、に
んにく、
鷹の爪、アンチョビー、オリーブオイル、ローズマリー(タイム)、塩コショウ、パセ
リで簡単に調理できちゃうから、冷蔵庫にストックしておけば楽しめる。また、そのアレンジで
「味噌アヒージョ」(右下の写真)である。アンチョビ・塩胡・椒の替わりに八丁味噌の味
をつ
けた和風アヒージョ

  

勿論、特に近江の国の地酒は滋賀あふるる銘酒揃いだから日本酒に事欠かないことも大きな特徴
だが、今夜は。七本鎗 「純米 シェリー樽熟成 2010 純米」を1本頂きました。

 

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砂漠のタタウイヌの嘆き

2013年08月31日 | 世界歴史回廊

 

 

 

 

【スターウォーズデザイン エピソードⅠ】
    

すべてはデザインで決まる。 

タトゥイーン:砂漠の惑星

『スター・ウォーズ 新たなる希望』でラルフ・マクォーリーが描いたそもそも最初のプロダクション
・ペイン
ティングから、ダグ・チャンやギャヴィン・ボケーの最新作にいたるまで、タトゥイーンはいつ
でも、ギャングや海
賊たちの群れる無法地帯として、銀河のバーバリー・コーストに喩えられてきた。
容赦なく照りつける二重太
陽、陽射しに灼かれる不毛の大地、肺を焦がす大気、褐色の砂に覆われ
目を灼く地平線。気候に厳しく資源
に乏しく、ために日々の生活は環境との闘いとなる。トゥキジ
デス(古代ギリシャの歴史家)の言葉を引用する
までもなく、タトゥイーンでは「強者は強きがゆえに
強き
をなし、弱者は弱きがゆえに弱きに嘆く」ことになるとい設定で、中東産油国を除く、広漠とし
たアフリカ砂漠を想像させるものである。
タトゥイーンの建築物は以下の2点を反映した特徴を持っ
ているという。情け容赦のない熱波を避けるための
シェルターとして、また、情け容赦のない人間か
ら身を
守る防御として。旧三部作と同じように、タトゥイーンは北アフリカのチュニジアで撮影され
ることになっていた
ため、それに相応しいチュニジア風の建築様式が改めて仔細に研究された。


『新たなる希望』でルーク・スカイウォーカーの住んでいた穴居式住居は、ベルベル・トログロダイト
がもと
になっている。北アフリカのベルベル人が築いたトログロダイト穴居式住居は、地表からはほ
とんど見えな
い地下住居の体を成しているため、日中は灼熱の太陽光線を避けて涼しい安息の場所と
なり、夜間は日中の
熱を保って凍りつく冷気を遮るという効果がある。ルーカスは『ファントム・メ
ナス』の製作初期から、こ
のアイディアを拡大し、街全体を巨大なな穴の底に作ろうと考えていた。
縦穴の底はそのまま渓谷の壁に連なり、
アメリカ南西部のアナサジ・インディアンの居留地のように
街々を取り囲んでいる形だ。近在の街との連絡は、
いくつもの人工渓谷でつながる予定だった。この
穴居
式都市はスケッチには起こされたが、現実にセットを組むにしても、デジタル処理するにしても、
予算も時間も
かかりすぎるため、早々に見送られたが、そのイメージは捨てられることなく、ポッド
レース・アリーナや
ベガーズ・キャニオンに盛り込まれたという。

     

ルーカスはその代替案として、アナキンの故郷モス・
エスパを、ルークのいたモス・アイズリーの街を大
きく
したものとすることに決める。モス・アイズリーの建物は、チュニジア沿岸の島ディエルバに住
むイバダイト人
の家々がもとになり、イバダイト人の建物はたいていの場合、陽光に洗われた壁や円
屋根に、窓のほと
んどない家としておなじみだ。多少の変化をつけるため、今回はこれにクサールの
様式も取り入れた。クサールもベルベル人の建てたもので、材質は土と石から成り、蜂の巣式の複数の
部屋に分かれ、要塞であり穀物倉でもある。タトゥイーンの砂漠はポッドレースの舞台にもなった。
ポッドレースの設定が完成した時点で、次のようなことがわかった。時速数百マイルで走り抜けるよう
な乗り物なら、果てしない大地の広がりも広すぎるということはない。ルーカスは美術部門に、でき
るだけ多種類のクリーチャーを風景のそこかしこに登場させるよう要求した。こうして、コンセプト・
アーチスト兼クリーチャー・デザイナーのテリル・ウィットラッチ率いるアーチストたちは、タトゥイ
ーンの生態系と食物連鎖を考え出した。ちょっと並べるだけでも、アルマジロや野ウサギ、プレーリ
ードッグやコヨーテなどの動物たちがタトゥイーン版にアレンジされて登場する。

その一方でタトゥイーンは、誰にも発見されたくない者たちが逃げ込んでくる場所でもあり、タトゥ
イーンの
「居留民」たちは実に種々雑多である。しかし、どんな者も自然と対峙していかなければなら
ないことは確か
だ。そしてまずほとんどの者が照りつける太陽から身を守るため、使い占した革のよ
うな素材を身に着けて
いる。こうした特異な外装を作りIこげるため、アーチストたちはアラブ、中央
アジア、アフリカなどの服装文化
をもとにデザインし、必要に応じてアメリカのバイク・ギャングたち
のファッションも取り入れている。
ポッドレーサーやスピーダー、ドロイドに関しては、タトゥイー
ンの生き物にとって永遠不滅の3要素、資源
の不足、灼熱の太陽、舞い上がる砂に対応できるよう作
られているという設定にある。C-3POの構造か
らもわかるように、タトゥイーンのテクノロジーは、
まる
で機械廃品から成りたっているように見え。余りものを組み合わせ、厳しい天候にさらされ、核戦
をくぐり抜けてきたような印象を与える。そう、タトゥイーンは、ひとつの広大な廃品処理場-ジ
ャンクヤード惑星だ。
そこには数々の驚きや予期せぬ宝物が待ち構えているという「アリババと四十
人の盗賊」を連想させるかのような設定になっている。その宝石のひとつが
アナキン・スカイウォーカ
ー。
幼い奴隷の少年は、遠くはなれた惑星ナブーをトレード・フェデレーションの脅威から解放するた
め思いもよらぬ活躍をはたすヒーローとして描かれている


ところで、前述した「強者は強きがゆえに強きをなし、弱者は弱きがゆえに弱きに嘆く」のトゥキジデ
スらの著書『ギリシャ史』の舞台のペロポネソス戦争(Peloponnesian War)は、紀元前431年~ 紀元
前404年)のアテナイを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟との間に発
生した古代ギリシア世界全域を巻き込んだ戦争。紀元前405年、ケルソネソス半島(トルコ領ゲリボ
ル半島)を流れるアイゴスポタモイ川の河口付近でアイゴスポタモイの海戦が勃発。この海戦では、
食料調達のために上陸。休息を取っていたアテナイ軍をリュサンドロス率いるペロポネソス同盟軍が
急襲し勝利を収めた。この勝利により黒海方面の制海権を完全にペロポネソス同盟が掌握、同時にア
テナイ市への食料供給路を断った。翌紀元前404年にはアテナイ市が包囲され、アテナイの降伏を以
ってこの“三○戦争”は終結した。

“三○戦争”では終わらぬ理由

“三○戦争”?!まてよ、1978年にエジプトがイスラエルとの単独和平に踏み切った(キャンプ・デ
ーヴィッド合意)し、一方で、1979年にイランはイラン・イスラーム革命を成就、それまでの親米・
新イスラエル路線から反米・反イスラエル路線へと180度転換する。その後、イスラエルとの戦争状
態にあったシリアは、エジプトに代わる新たな同盟者としてイランへと接近する。こうして
エジプト
を中心としたアラブ諸国がイスラエルに対峙する構図から、イランとシリアの戦略的同盟関係がイス
ラエルとその最大の支援国である米国の覇権拡大を阻止しようとする構図へと変わり、イラン・イラ
ク戦争(1980~88年)とレバノン戦争(1982~85年)のなかで、「敵の敵は味方」の論理に基づき強
固になり、アラブの春にはじまるシリア騒動(内戦)を“シリアをめぐる三○戦争”と末近浩太は呼
んでいることに気付いた(『シリア「内戦」の見取り図  / 中東地域研究』)。

     

オバマ米大統領は、単独でも限定的な武力懲罰行動(過去の事例では、“限定的”=“長期化”)に
出ると主張している
が、ビジョンなき軍事行動が成功するとは思えない。四年前の“イエス・ウイ・
キャン“は、果たして“イエス・ウイ・キャノ
ット”に終わることを見透かしている。わたし(たち
)は早くからこの広域動乱に匙を投げているが、この地
区の権力者ら(教祖・軍人・族長)は、千年
戦争を覚悟して戦っているのかもしれない。それは、この動乱の収束方法を知る、わたし(たち)極
東の島国に
住む日本人には図り難いものでもあるが、“砂漠のタタウイヌの嘆き”をなくさなければ
と祈るばかりだ。

ひれを小さな足のように使って海底を移動する新種のサメが、インドネシア東部の沖合で見つかった
という。環境保護団体コンサベーション・インターナショナル(Conservation International)の科
学者らによると、茶と白色のこのサメはイヌザメの一種で、夜に海底をひれで押しながら進み、餌と
なる小魚や甲殻類を探す。体長は最大で80センチにしかならず、人間に危害を加えることはないとの
こと。ニューギニア(New Guinea)島の西に浮かぶマルク諸島(Maluku Islands)の一つ、ハルマヘ
ラ(Halmahera)島沖で発見。イヌザメは「ロングテール・カーペット・シャーク」として知られ、他
の近縁種と比べ小型で、成魚でも体長は約120センチにしかならないという。尻尾は非常に長く、体
長の大半を占める。インドネシア、オーストラリア、パプアニューギニア周辺の熱帯海域に生息して
いると
このと。これは変態形態なのか、突然変異なのか知るよしもないが、なんとなく気持ちが和む
新聞だ。明日か
ら長月。この季節になると、深夜に「九月の雨」の歌とともに彼女たちの哀切の思い
出の雨となり降り注ぎ心を
濡らす。

 

 

 

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三次元アミニズム巡礼の明日

2013年06月12日 | 世界歴史回廊

 

 

 

【スターウォーズ・デザイン】

 

アニミズム(animism)は、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、霊が宿って
いると考える。19世紀後半、イギリスの人類学者、E・B・タイラーが著書『原始文化』で
はじめて使い広まる。日本語では「汎霊説」「精霊信仰」「地霊信仰」と訳され。この語
は気息・霊魂・生命の意味するラテン語のアニマ(anima)に由来する。
タイラーはアニミ
ズムを「霊的存在への信仰」とし宗教的なるものの最小限の定義とした。彼によれば諸民
族の神観念は人格を投影したものという(擬人化、擬人観、エウヘメリズム)。現在でも
宗教学上、抜きにしては考えられない言語とされる。一方タイラーのアニミズム観に対し
て、マレット(Robert Ranulph Marett)が「未開」民族の間では人格性を欠いた力、ある
いは生命のような観念もあり、アニミズム以前の状態をプレアニミズム(pre-animism)と
呼び、同様の概念はアニマティズム(animatism)、ヴァイタリズム(vitalism)、ダイナ
ミズム(dynamism)などと称した。霊的存在が肉体や物体を支配するという精神観、霊魂
観(「依り代」に近い観念)は、世界的に広く宗教、習俗に存在している。キリスト教が
先進的であるという欧州の視点から、アニミズムはかつて原始的な未開社会のものと考え
レヴィ=ブリュールの『未開社会の思惟』など、民族学や文化人類学の南太平洋(トロブ
リアンド諸島)やアマゾンの先住民のその根本的な考察観にみられるとされる。スターウ
ォーズ・デザインには、このアミニズムが色濃く投影されている。

 

 
上の図はダグ・チャンによって描写されたプロダクション・ペインティングの1つ「イオピ
ィーに乗って廃品を牽引するアナキン」。完成した映画にはほとんど現れないが、タトゥ
イーンには詳細な生態系が用意された。飢えたコヨーテやハイエナがポッドレースの負傷
者を喰らおうと待ちかまえているところである(それらはのちにタスケン・レイダーに置き
換えられる)。タトゥイーンの自然環境は過酷なので、たとえそれが「プレーリードッグ」
(北米大草原に生息するリス科の動物)や「ジャックラビット」(北米西部産の野ウサギ)
のような動物でも、「可愛いくてふわふわ」であることは許されず、いきおいそれらは「
地獄からやってきた」ような外観を持つことになる。一方、「アルマジロ」などそのほか
のクリーチャーには、捕食動物や過酷な自然環境から身を守るために、頑丈で骨ばった甲
殻を発達させたのものが見受けられる。

さて、ここで映像あるいは画像、図像のプロトタイプのデザインに対する認識がグローバ
ルに変わってくる、この図像で得られたピントを元に知的財産の創生に繋がるというもの
だ。実際に繋がるどうかはともかく、商品化されたとたん付加価値が生じる。よって、そ
れを前もって明察し囲い込もうとする流れだ。しかし、図像のクリーエイトの源泉にアミ
ニズムがあることをスターウォーズ・デザインは教えてくれているのだが、その資質環境
に恵まれていることを自覚させてくれているのだ。それがわたし(たち)というのだが。



【3Dプリンタ開発の光陰】 

このところ3Dプリンターが話題となっているが、オアバマ大統領の肝いりの「製造業の
復権プロジェクト」提示によるところが大きい。しかしなが、インクジェットプリンター
産業とオーバーラップしているところでもあり、「ネオコンバーテック」でも再三指摘し
てきていること
でもあるが、マテリアル革新とセット考えなければ所詮絵に描いた餅の図
は避けられない。 『チョコレートモールドなひこにゃん』で3Dプリンターを使いチョコ
レートで彦にゃンを商品化するようなこと
を掲載したことがあったが、工業化面では「
作レス
」のプラットフォーム化の応用展開が有力だ
とも指摘してきた記憶があるが、過大
な期待は捨てて、ここは総合的なものづくり手法で、着実な一歩を考えた方がよい。

 

【特効薬を考える】 

花粉症、日常の作業のハードさも、異常気象の影響もあり、歯痛、眼底痛、肩こり、扁桃
腺、胃腸
変調などなど少しも良いところがない。そこで眼精疲労用ドリンクを買いに出か
けようとするが、ちょっとまてよ「ニンニクパワー」があるじゃないかと思い立ち、この
間、黒壁市場でかったガーリックを1片の皮を剥き、直接4百ワット電子レンジで30秒加
熱し柔らかにし、コップに牛乳を約百ミリリット入れニンニクを放り込み、約1分半程度
加熱。このとき突沸に注意すること!、できあがりのミルクとガーリックを頂く。熱すぎ
ないように野菜ジュースを加え呑むのもよい。その効き目はというと、わたしには「効果
有り」という結論となった。
 

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エベレスト巡礼の明日

2013年05月27日 | 世界歴史回廊

 

 

 

三浦 雄一郎が世界で初めて八十歳という高齢でエベレスト登頂に成功したというニュースに、今日は
五十一歳の井戸木鴻樹が通算11アンダー、273でシニアゴルフメジャー大会制覇したというニュー
スが届き高齢者も頑張っているんだという力を与えてくれているようだ。と、いうことで日本百名山
立山登頂を付和雷同するかのように決める。

ところで、エベレスト(英: Everest)はチョモランマ(チベット語:Chomolungma)、サガルマータ(
ネパール語:Sagarmāthā)は、ヒマラヤ山脈にある世界最高峰の山。英名はインド測量局の長官を務め
たジョージ・エベレスト (George Everest) にちなんでいる。1920年代からの長きにわたる挑戦の末、
1953年に英国隊のエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイによって初登頂がなされた。
また、エベレストの標高については諸説あり、1954年にインド測量局が周辺12ヶ所で測定しその結果
を平均して得られた8,848 mという数値が長年一般に認められてきた。1975年には中国政府が雪面を含
む標高を8,849.05m(8,848.13 m+積雪0.92 m)と測定した。1999年、全米地理学協会はGPSによる測定
値が8,850mだったと発表した。2005年10月9日、中国国家測量局が2005年5月時点での標高は8,844.43
 m(3.5mの氷雪は標高に含まず)と発表。ただし、ネパール政府は現在もこれらの測定結果を認定せず
公式には8,848 mとしている。地殻変動、地球温暖化による影響などもあり、標高は年々変動している
と考えられている。さらに、エベレストの南麓に位置するネパールのサガルマータ国立公園はユネス
コの世界遺産に登録されている。度重なる登山の遺留物、廃棄物で周囲はかなり汚れていることが指
摘されており、野口健らによる清掃登山も行われている。



地質的には、山体はチョモランマ層、ノース・コル層、ロンブク層の3つに区分される。それぞれが低

角度の衝上断層で境される異地岩体である。ゴンドワナ大陸の一部であったインド亜大陸が白亜紀に
マダガスカル島から分離し、新生代にユーラシア大陸に衝突しヒマラヤ山脈ができた。頂上から8,600
mのチョモランマ層はエベレスト層とも呼ばれ、石灰岩、ドロマイト、シルト岩から成る。オルドビス
紀を示す三葉虫やウミユリの破片を含む。8,600 mから7,000 mのノース・コル層のうち、上部8,200m
までが有名な「イエローバンド」で、エベレストの写真にはっきり写る白い帯である。大理石が風化
して黄褐色になったもので、ウミユリを含む。8,200 mから7,600 mは千枚岩と片岩から成る。7,600m
から7,000mは片岩に大理石薄層が挟まれる。以上の変成岩は泥岩、頁岩、砂岩、石灰岩などから成る
フリッシュが変成作用を受けたものである。7,000 mより下のロンブク層は片岩と片麻岩で、様々な厚
さの白粒岩の岩脈と岩床が無数に貫入している。

登頂史の始まり、1893年、東アジアで軍人として活躍したフランシス・ヤングハズバンド (Francis
Younghusband) とグルカ連隊の勇将チャールズ・グランヴィル・ブルース准将 (Charles Granville
Bruce) がエベレスト登頂について話し合ったのが具体的なエベレスト登頂計画の嚆矢であるといわれ
ているが、エベレストに登頂するにはネパール政府に登山料を支払わないと登れないシステムになっ
ている。ルートは15種類あり、そのうちの最も安い「ノーマルルート」は1人25,000米ドル(日本円で
約240万円)である。ただし「ノーマルルート」は人数が多くなると割引があり、最大の7人参加の場
合70,000米ドル、1人あたり10,000米ドルとなる。登山料は一度払うと2年間は登る権利があるが、キ
ャンセルした場合でも一切返還されないといわれているまた、年齢制限は、ネパール側の登山ルート
では成人(16歳以上)のみ登山ができる年齢制限がかかり、2010年9月よりチベット側登山ルートによ
る登山が18歳から60歳に年齢制限がかかる。このため、2010年6月現在の最年少登頂者(13歳)の記録
を更新するのは不可能になる。制限導入の背景は、従来より若年層による登山にはより大きな危険が
伴うと批判が出ていたこと、最年少記録更新のヒートアップが予想されたことなどがあるという。

 

 

 

         
      蒼天落ち来たりて もの皆すべてを押しつぶさぬ限り、
    豊饒なる大地引き裂かれ もの皆すべてを飲み込まぬ限り、
    波立つ海原干上がりて もの皆すべてを涸らしめぬ限り、
    この誓い 破らるることはなし。
    我ここに誓う。
    汝仮初めの巫女なれば その意その志 我は妨げんことを。

                                                                            『ケルト神話』


 

スコットランドにはスカイフォールという場所は実在しないが、スコットランドで撮影されたことは
事実という。長い間、スカフォールがボンドの出生の地であることを知らずに中国の「杞憂」由来だ
と思いこんでいたことが間違えであることを今夜DVD『スカフォール』を観て知る。いろいろと細
かく観ていくともっと面白いことが、深みのあることが分かるだろうが今夜はこれが限界でこの続き
はまた別の日に考えてみたいが異なった考えを膨らませてしまっていたことに心が揺れていた。






本当は、別のテーマ掲載したかったのだが、昼間の作業がこたえている。朝日新聞では福島原発の国
連科学委員会が国民全体の甲状腺被爆量の算定結果を掲載していたが、薄氷を踏む状態に不気味さと
苛立ちを感じているのは何もわたしだけでないだろうと思う。ひとりで出来ることを精一杯、余裕を
もってやり遂げるしかないと確認したところで、今夜はこの辺で。 

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