庄原市上原町の浄光寺に建立されている「廣島陸軍幼年學校生徒慰霊碑」です。
※『1945(昭和20)年6月上旬ここ庄原地区に学童疎開してきた幼年学校生のうち三名が(広島市に帰省中などで)被爆し死亡したことを知った〔1954(昭和29)年庄原市になった〕市民の世話でここ浄光寺に木製の墓標が建立され故・古川英章師により管理されていました。
被爆30周年・1975(昭和50)年に同期生により木碑が再建されましたがこれも朽ち、
1985(昭和60)年碑文を刻んだ石碑と表題石碑が建立された。』そうです。
庄原市山内町の「(庄原市)原爆犠牲者之碑」を訪ね、
次に訪ねたのがここ浄光寺の「広島幼年学校生徒慰霊碑」でした。
お寺の駐車場から本堂前に行こうとした時、大型犬に吠えられ、その犬が思い切って走ってきたので小心者で目が悪いわたしは慌て慄きましたが、長い紐で繋がれていたのが見え(後から来ていた)息子は大丈夫とわたしに云ってきました。
それにしても泥棒よけにはなるが一般人には何とも物騒な事かと思ったのです。
本堂前で手を合わせ、目的の碑は何処だろうと本堂周りから探しました。
本堂左手の少し下がった処(墓苑)で息子が「広島幼年学校生徒慰霊碑」を見つけて声をかけてくれたので、わたしも下りていき、並んで頭を垂れたのでした。
(裕編集の)(庄原市浄光寺)広島陸軍幼年学校生徒慰霊碑
※『1945(昭和20)年6月上旬ここ庄原地区に学童疎開してきた幼年学校生のうち三名が(広島市に帰省中などで)被爆し死亡したことを知った〔1954(昭和29)年庄原市になった〕市民の世話でここ浄光寺に木製の墓標が建立され故・古川英章師により管理されていました。
被爆30周年・1975(昭和50)年に同期生により木碑が再建されましたがこれも朽ち、
1985(昭和60)年碑文を刻んだ石碑と表題石碑が建立された。』そうです。
庄原市山内町の「(庄原市)原爆犠牲者之碑」を訪ね、
次に訪ねたのがここ浄光寺の「広島幼年学校生徒慰霊碑」でした。
お寺の駐車場から本堂前に行こうとした時、大型犬に吠えられ、その犬が思い切って走ってきたので小心者で目が悪いわたしは慌て慄きましたが、長い紐で繋がれていたのが見え(後から来ていた)息子は大丈夫とわたしに云ってきました。
それにしても泥棒よけにはなるが一般人には何とも物騒な事かと思ったのです。
本堂前で手を合わせ、目的の碑は何処だろうと本堂周りから探しました。
本堂左手の少し下がった処(墓苑)で息子が「広島幼年学校生徒慰霊碑」を見つけて声をかけてくれたので、わたしも下りていき、並んで頭を垂れたのでした。
(裕編集の)(庄原市浄光寺)広島陸軍幼年学校生徒慰霊碑
8月23日(安芸区のわが家付近)天候:くもり
28.8℃、87%
幼すぎて胸が痛みます。
裕さんの眼の代わりを息子さんが助けてくれているのですね。
「広島ぶらり散歩」も息子さんと作りあげていくHPなのですね。
山野辺のわが家ですので、風はあるのですがその風が以前とは違って涼やかでなくなっています。
扇風機で過ごせた数年前とは明らかにちがう残暑ですね。
広島陸軍幼年学校跡の頁を以前に編集した時、生徒たちは軍部へ疎開していて原爆被害にあわなかったという文献を参照して沿う記述していました。
こんかい、疎開先から帰省していた生徒が2名広島市内で被爆し亡くなったこと、一人は、陸軍病院に入院していて被爆し、亡くなっていた。49期の同期の人たちが建立した石碑ですので、原爆で亡くなった生徒が居られたということでした。
わが贔屓チーム、結果しか新聞でみませんが、弱いですね。
ここまで弱くはなかったのですが。
軍人の卵当時13,14歳だったとしていまや90歳にもなった同期の方々、慰霊碑もままならずとも、忘れ去られてはならない出来事だと思います。
随分前になりましたが、廣島陸軍幼年學校跡の頁を編集した時は、被爆して亡くなった生徒はいないと云うようなことでしたので、今回この頁とリンクさせました。
昔は、遠くから石碑などは見逃さなかったのですが、最近は少し離れたら刻まれた碑銘が読めないことも多くなりました。