ここで取り上げた久蔵は、『江戸末期の人で、大野村高畑に住み孝子の誉れが四隣に高かった。
殊に父の死後盲の母に仕えては自らの食を減じてその好物をもとめ常に母を背負って寺院に参詣する等母の喜びを以て己が喜びとした。・・・』とこの石碑に刻まれていました。
(旧大野町の)孝子久蔵の遺跡・碑
広島ぶらり散歩「旧(佐伯郡)大野町」編
広島ぶらり散歩
殊に父の死後盲の母に仕えては自らの食を減じてその好物をもとめ常に母を背負って寺院に参詣する等母の喜びを以て己が喜びとした。・・・』とこの石碑に刻まれていました。
(旧大野町の)孝子久蔵の遺跡・碑
広島ぶらり散歩「旧(佐伯郡)大野町」編
広島ぶらり散歩
11月28日 、晴れ
こうして孝行息子の事を碑に残すと
言うことですから、かなりの方だっ
たのでしょう。何か大きな出来事が
あってという場合は考えられますが、
何か人をそうさせる姿があったので
すね。
士農工商、武家社会の安泰一番という・・・
以前オヤジが生まれ育った(広島)仁保島の役場が発行した『仁保村志』(昭和4年発行)をみたとき24章ある中で第8章に「篤行者と義人」をもうけわざわざ孝子を取り上げていたのです。
篤行を奨励していたのだなと思ったのです。
この久蔵は、寛政五年七月藩主(浅野重晟)から米三俵を贈り孝子の鑑とされたそうです。