中区中島町の本川(旧太田川)沿いの緑地帯に建立されている「広島県立広島工業学校動員学徒原爆遭難の碑」です。
当時の広島県庁付近で建物疎開に動員されていた1年生187人、教師3人※はこの碑近くで原爆により尊い命が奪われました。
被爆当時、学校は今の千田町二丁目、(現在の)千田公園の北にあったと聞きます。
※広島市の資料では、『生徒210人は、4人の教師の引率の下、建物疎開作業のため、中島新町(現在の中島町、爆心地から600m)に出動中被爆し、全滅しました。』とあります。
広島県立広島工業動員学徒遭難の碑
「原爆関連慰霊碑・平和祈念碑等」編
きょうの頁:(西区)高須台第一公園からみる広島の街
当時の広島県庁付近で建物疎開に動員されていた1年生187人、教師3人※はこの碑近くで原爆により尊い命が奪われました。
被爆当時、学校は今の千田町二丁目、(現在の)千田公園の北にあったと聞きます。
※広島市の資料では、『生徒210人は、4人の教師の引率の下、建物疎開作業のため、中島新町(現在の中島町、爆心地から600m)に出動中被爆し、全滅しました。』とあります。
広島県立広島工業動員学徒遭難の碑
「原爆関連慰霊碑・平和祈念碑等」編
3月25日(安芸区のわが家付近)天候 :はれ
きょうの頁:(西区)高須台第一公園からみる広島の街
被爆の体験をしたお袋の世代から、
その子である被爆を経験していなわたしの世代、
おばあちゃんから直接話を聞いているわたしの子どもの世代、
(わが家の場合は)まだ結婚をしませんが、その子・曾孫の世代へと・・・
悲惨でしかなかった被爆の惨状どこまで伝えていけるかが、
戦争が出来る国にしようとしているいまの政治状況から平和国家への道に戻る力になるのではと思うのですが・・・
やはりこうして学び舎にいたはずの
若者たちと戦没という言葉が重なり
ますと、勝手に想像が膨らんでしま
います。現代の若者たち。そして、
大人世代としての自分。その「記憶」
をたまにたどることは未来に向けて
必要なこと。戦争という記憶に対して
は、平和という期待を胸に、今を生き
たいと思うばかりです。