<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

コロちゃん<アッバーーーッ>

2023-06-21 20:15:51 | 「遊去の部屋」
<2009年6月6日に投稿>
 コロが死んだ。家の中が静かになった。新聞をめくる音や畳を擦る音がいやに大きく響くのだ。これまでもこんなに響いていたのだろうか。流しに落ちる水の音、ガスレンジにヤカンを置くときの音、火をつけるときの音も、何もかもが無機的で、あまりにも無機的で、ただ、物体から発せられただけの音。自分とは何の関係もない。
 コロは外にいた。だから、家の中は何も変わらないはずなのに、空気がまったく違うのだ。しーんとしていて物の動く気配がない。コーヒーをすする音、カップを盆に置いたとき、こんなに大きな音がしてたのか?

 コロの死因は窒息だ。牛乳をたっぷり含ませたパンを喉に詰らせた。
「アッバーーッ、アッバーーッ!」
ああ、また、やった。この一週間、食べるたびにこの訴えを繰り返す。私はただ食べ物が喉につかえて、胸につかえて降りていかないために苦しんでいると考えていた。前の晩も、私がコロの体を半分抱き起こし水を飲ませるとコロはごくりごくりと飲んだのだが、その直後、急に叫びながら「アッバーーッ」と訴えた。息が止まるかと思ったが、背中を叩いたり、体を揺すったりしてようやく細い息を確保した。
 コロはもう食べ物を飲み込むために必要な舌の動きも思うようにできなくなっていた。食べ物を飲み込むのも水を飲み込むのも楽ではない。改めて、自分も無意識のうちに凄いことをやってのけていることに気がついた。その前の日までは、一回に3口くらいは飲み込めた。それ以上やるとおかしくなるようだ。だから、回数を増やしてやればいい。だけど、さらにその前の日には、御飯を手で小さく握って、手を皿代わりにして口のところに持っていくとがつがつと食べ、1回に茶碗半分くらいは平らげた。
 変化は日毎にやって来た。昨日良くても今日はだめ。見る見る枯れ木のようになっていく体を見ながら、私は飢えの辛さを思い出していた。
 コロがまったく動けなくなってから3週間くらいだろうか。それまでは立たせてやると何歩か歩くことはできたので、私がコロのドンブリを持ち、立たせたままで体を支えて食べさせた。御飯にスープと牛乳をかけたものなので立たせないと食べさせることができない。朝と晩にドンブリいっぱいをぺろりと食べる。体は動かなくなっていても胃だけは極めて丈夫というところがコロらしい。
 足は後ろ足から崩れ始めた。立っていることができなくて、しゃがむこともできなくて、後ろに倒れこんでしまうのだ。支えようとしてもぐにゃぐにゃでは支えようがない。そうして、ついに、コロは寝たきりになった。ウンコもオシッコも垂れ流すしかないのだが、コロ自身、それが嫌なのだろう、催すと1時間でも2時間でも泣き続ける。昼でも夜でも泣き続ける。そしてとうとう垂れ流し、やっと収まることの繰り返し。それが分かるまでに何日もかかったが、それはそうだろうと私も納得した。
 オムツを使うことを思いついた。人間用のオムツを適当な大きさに切って腰の下に敷いてやる。寝たきりで殆んど動けないので簡単だ。うまく吸い取ってくれるので助かった。寝たきりが便利なこともあるものだと思った。夜は玄関に入れるのだが、朝方になるとまた泣き始める。今度は自分の小屋に入れてくれという注文だ。だけど、まだ、近所は眠っているのでそれはできない。何度も何度もなだめすかすが泣き続ける。周りが日常生活を始めてから小屋に入れてやると、だいたいはおとなしくなる。こんな小屋でも終の棲家か。慣れた所がいいのだろう。しかし、この作業はかなりきつい。とうとう私も腰を痛めてしまった。気をつけていたので軽く済んだのが幸いだった。
 その日、朝、二度目のパンのときだ。例によって3切れを牛乳に浸して食べさせた。それから少しして、「アッバーーッ、アッバーーッ」 背中を叩いても何をしてもだめだった。口を開けて手を突っ込むと指先に何かが当たったので取り出すとさっきのパンだった。奥まで手を突っ込んで3切れ全部取り出したが、すでにコロの息は止まっていた。最後にあんな苦しみを与えてしまったことを考えると心が痛い。あの声が消えることはないだろう。

 その日は、たまたま、1日休みだった。コロを風の通る庭に出して寝かせた。日の光を浴びて眠っているようで、もしかすると息をしているのではないかと目を凝らしたくなる。実際、息をしているように見えるのだ。しばらくすると蟻がやって来た。蝿も何処からかやって来た。昼から埋めに行かねばならない。
 私は簡単に部屋と廊下とトイレを掃除して雑巾で拭いた。帰ってきたとき床がざらざらしていてはあまりにも哀しいではないか。これからは、コロは私の心の中にしかいないのだ。薄汚れたところでコロを思い出したくはない。
 いつもコーヒーの水を取りに行く山に埋めることにした。コロをシーツに包んで抱きかかえ、山道を歩く。腕がしびれる。そのとき、ふと、思い出した。私はこの半年くらい軽く腕立てと腹筋を続けていた。もしかすると無意識のうちにこのことが頭にあったのかも知れない。斜面を登って高台になったところに出た。気持ちのいいところだ。ここならいい。再び、車に戻り、スコップを取ってくる。山の土はかたい。木の根を切り、石を割りながら土を掘る。1時間半ほどかかってやっと穴を掘った。これは体力作りをしてなかったらできなかっただろう。東の方に顔を向けてコロを寝かせた。「お前がいて良かったぞ。ありがとう。」

 家に帰るとしーんとしていた。何だ、この静けさは。腕が疲れて手に力が入らない。風呂に入って早く寝た。夜中に時々目を覚ましたが充分に寝たはずだ。それなのに、早朝からまったくすっきりしない。腰もガタガタだ。みそ汁を作ったが、水で戻したワカメを刻むのを忘れていた。こんなことは初めてのことだった。味は悪くないのだが、あまり食べたいという気持ちが湧いてこない。しかし、仕事があるから食べなくてはいけない。意識できないことが自分の中で起こっている。16年もいたものがいなくなれば変わらない方がおかしいだろう。これからはもう自分の心の中でしか生きられないのだから、忘れないようにしなくてはいけない。コロの前にいたリンやクリや、しばらくいて何処かに行ってしまったポン太のことも忘れてはいけないと思う。みんな一緒にいて、私の時間に彩りを与えてくれた仲間なのだから。
2009.6.6


★コメント
 コロが死んだのは6月4日なので、この記事はその2日後ということになる。それから14年が経った。その間、私はこの記事を一度も読んだことはない。それは葛藤のためだった。
 最期の時、コロは息を吸おうとしたのだが、そのとき牙が剥き出しになったのだ。凄い牙だった。私は一瞬ためらった。3秒くらいか。そのあと意を決して手をコロの口の中に突っ込んだ。パンを一切れ取り出したときコロはまだ息を吸おうとしていた。私はあわててまた手を突っ込むとそこにはまだ別のパン切れがあったのだ。それを取り出す途中でコロは息を吐き出し、諦めた。もう一度手を突っ込むとさらにもう一切れが残っていた。その後で何とか息をさせようとしてみたがだめだった。まだ死んではいないだろうと思ったが再び息を始めることはなかった。
 私がためらった3秒間。これがなければコロは死ななかったのではないかという思いが私の心の奥深くに刻まれた。このとき、確かに、噛むかも知れないと思ったことは事実だが、私は同時にここで死んだ方がラクなのではないかという考えが頭に浮かんだことも事実なのだ。結果的に、苦しそうなコロの様子を見ていることに耐えられなくなって手を突っ込んでみたのだが、コロは噛まなかった。そしてパンを一切れ取り出したとき、これでコロの苦しみはまた続くなと思ったのだ。このときどうするべきであったのか。自分の心の底を覗くとき、そこには自分で未だに受け入れられないものがある。

 25年前に父が亡くなった。90歳でした。容体が悪くなって入院させたとき、医者から延命治療をするかと聞かれたが、父の意思でもあり、兄弟でも相談して「しない」と医者に告げた。ところが容体が悪くなった段階で病院は救急治療室で延命治療を始めていた。連絡を受けて病院に行ったときは既に人工呼吸器が装着されていた。医者に事情を尋ねたところ、自分はそのとき病院にいなかったので別の医師が対処したという。そして一度装着したら外すことはできないとの説明と受けた。
 それから父は打ち続ける点滴で水膨れのようになり「生きている」だけの状態が続き、私は「溺れて浜に打ち上げられた豚」のようだと思いました。中学生のときに浜辺で見た光景が甦ったのです。それが1カ月くらい続きました。人工呼吸器の酸素濃度は少しずつ高くなって行きました。もちろん意識はありません。私はまだ耳は聞こえるのではないかと思ってMDに録音した音楽をイヤホーンで聴かせていましたが、ずっと反応はありませんでした。
 あるときたまらなくなり早く死んでほしいと思い、チェロの演奏でレクイエムを聞かせました。そうしたら頭がぐらぐらと動いたのです。反応したことに驚いたのはもちろんですが、そのとき私は音楽を続けるべきかどうかの選択を迫られた形になりました。それまでは父の喜びそうなものを掛けていたのです。心を読まれたのではないかと思いました。私は続けました。2,3秒で反応はなくなりました。そのとき、父は止めてほしい、聞きたくないと思ったのかも知れないという思いが私の中に残りました。

 母が死んだのは私が18歳のときです。もう50年以上も前のことですが、最期の時、近親者が詰めかけている病室に医者が呼ばれました。医者は周りに者に母の体を押さえるように指示し心臓にカンフル剤を打ちました。私は母の腕を押さえたときぎょっとしました。どこにこんな力あるのかと思うほどの抵抗をしたのです。みんなが押さえている間に医師は注射を終えましたが、その直後に母は亡くなりました。あれは「もう何もされたくない」という母の意思表示だったのでしょう。押さえるべきではなかったという後悔の念が今も心の奥底に残っています。

 コロの話からとんでもないところに飛んでしまいましたが、自分で処理できない思いを残してしまったからこそ、今も自分の中で生き続けているのかも知れないと思います。終わりにならないということなのでしょう。
2023年6月21日


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コロちゃん<どんぶり返し>

2023-05-20 14:31:20 | 「遊去の部屋」
<2010年1月17日に投稿>
 この話は、コロがまだ生きているときに、書きかけのままで放ってあったものですが、今見るとこういうこともあったなあと懐かしい気がします。印象は長く保持されますが、具体的な事柄は日を追うにつれ、次第に忘れてしまいます。そういう点では書き留めておくことは有益です。
 私は21歳のときに、それまでの日記や手紙類をすべて焼いてしまいました。多少迷いがなかったわけではありませんが、どちらかというとそういうまねがしてみたかったということなのでしょう。音と言葉を組み合わせた話を書き出して10年ほどの年月が経ち、今、ようやく気付いたことは、自分の体験を通したものでなければ自分の心にぴたりと来るものは書けないということです。といってもまだ数ヶ月前のことですが。
 自分の体験が如何に大切かということに気付いた今になって、馬鹿なことをしたなと悔やむのはあの面白半分の「焼き捨て」事件です。書いたものがあれば思い出せるものの量は比較になりませんから。コロのことも今のうちに書き留めておこうと続きを書くことにしました。
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 いつからか、コロは奇妙な行動をとるようになりました。御飯をやると、それをどんぶりごとひっくり返すのです。4,5年前からではないかと思いますが、それ以前にはそういうことはありませんでした。
 コロの食事は朝夕の2回です。基本的には、麦飯に、野菜と肉のスープを掛け、そこに牛乳を加えたもので「牛乳御飯」と呼んでいます。麦飯といっても白米(7分搗き)に大麦を2割混ぜたもので、味はそんなに悪くありません。炊き方によっても味は変わりますが、炊いたときには、私も、つい、食べてしまうくらいです。スープは毎回、中華鍋で作ります。肉は主に豚肉が中心で、小間切れかバラ肉を使いますが、鶏肉や魚になるときもあります。野菜は畑で取れたものを刻んで使っています。それから塩分に少しの味噌か醤油を加え、最後に牛乳でカルシウム等を補うので、「牛乳御飯」はスープの中に御飯が入っている形になっていて、水分は雑炊よりはるかに多いです。それをひっくり返すとどうなるか。
 ひっくり返すといってもいつもいつもひっくり返すわけではありません。ひっくり返すのは腹の空いていないときだけです。どうしてそんなときがあるのかわかりませんが、確かにそういうことはあるようです。私にしてみれば、きっと腹を空かせているだろうと思って御飯の準備をしているので、それを喜んでがつがつ食べてこそ、それにかかる手間も報われるというものですが。
 コロの態度ははっきりしています。食べたくないときには見向きもしません。それならそれでいいのです。後で腹が空いたとき食べればいいだけのことですから。それで、どんぶりをそこに置いたままにしておくと、すぐに屋根からスズメが舞い降りてきてどんぶりの縁に止まり、御飯をつつき始めます。コロはスズメが来ても基本的には知らん顔です。スズメにしてみれば莫大な量のエサですから興奮気味にちゅんちゅん鳴いて大騒ぎ。つついた御飯粒があちこち飛ぶのでそれを追いかけて2羽でアクロバット飛行です。
 それが、あるときからそのどんぶりに異変が生じるようになりました。どんぶりの中に石が入っていたり土が被っていたりするのです。そんなことをするのはコロしかいません。
 犬には食べ物を土に埋めて隠す習性があります。前足で穴を掘って、食べ物をそこに入れると、周りの土を鼻で押しやって食べ物の上に被せるのです。鼻先が痛くないのかなぁと思いますが、何ともないようです。鼻の上に乾いた土が付いたままなので何かを隠したことはすぐに分かります。見ると、たいていは端っこが出ていたりするので形式化しているところもあるようです。

 あるときどんぶりの中に握り拳くらいの石が入っていることがありました。それを見ながら私は考え込んでしまいました。とても咥えられる大きさではありません。手で入れることは考えられないし、コロに出来るのは鼻の頭で押すだけです。そうなると石を押してもどんぶりの縁にぶつかるだけで縁を乗り越えることはできないでしょう。すこし離れたところから、シュートをするように鼻先で石を空中に飛ばしてどんぶりの真ん中にすとんと落とすというような芸当ができれば別ですが、まさか。確かめようとしましたが、コロがいつそれをするかが分かりません。ずっと見ているわけにはいかないので私も忘れてしまいます。それで長い間その現場を押さえることができませんでした。
 あるとき、外でがたがた音がしました。はっと思い出して音のしないように少しだけそっと戸を開け覗きました。まさに、コロがどんぶりに向かって土を被せている真っ最中でした。
 最初、土は周りからどんぶりの下の方に押し込まれます。さらに押し込む土はその上に積み上げられるのでどんぶりに向かって緩やかなスロープができ上がり、さらに押し込むと、スロープの中に埋まっていた石が掘り出され、それがスロープの上を押し上げられて行くのです。そして、どんぶりの縁にぶつかるとスロープのため石の半分は縁の上に出るので、どんぶりの縁が支点になって「よっこいしょ」というように石はごろりとどんぶりの中に落ちました。
 人類の遺産であるエジプトのピラミッド。あの大きな石をどのようにして積み上げたかについては諸説ありますが、その一つ、ピラミッドに向かって長いスロープを作り、その上を引きずったのだという説を聞いたときには感動しました。そのわけは、問題に直面し、それを解決するための方策を考えるとき、えてして、問題の周辺でうろうろすることが多いのです。そこから遠く離れたアプローチを考えるには物事に捕われない精神の自由さが必要です。ピラミッドの石積みの話を聞いて感動したのはそのようなものを感じたからでした。
 コロは考えてやっているわけではありません。ただひたすら生まれつきの習性を実行しただけです。その結果が人類の築き上げた文明の工法に類似するというのは驚きでした。しかし、考えてみれば、人類もピラミッド建設の前には長い歴史があるわけで、初期の人類も無我夢中で生活するうちに役に立つ方法を見つけて、それを発展させてきたのでしょう。コロもその後は、間違いなくどんぶりに石を入れる技術をマスターしたのですから。

 コロの場合、「押し込み」は回を重ねるごとにエスカレートして行きました。だんだん離れた所から土を集めるようになり、どんぶりは周りを埋められて、さながら富士山の噴火口のようになっていきました。当然のことながら噴火口の中にも多量の土が入ります。食べ物の中にそんなに土や石が入っていては食べにくいだろうと思いましたが、元々、穴を掘って埋めるくらいだからそんな土くらい何ともないのかもしれません。私は、コロが作業終了の目安をどのように考えているかを知りたいと思いましたがそれは想像するしかありません。
 「押し込み」はますますエスカレートして行きました。押し込みすぎてどんぶりが傾き始めたのです。そうなると大変、スープがこぼれてしまいます。あーあーあーっ。せっかくのスープがこぼれて回りの土に吸い込まれて行きました。かなしい思いをしたのは私だけで、コロの押し込みはこれでも止まらずさらにエスカレートしていったのです。
 コロはついに小さなブルドーザーと化しました。そして、押し込まれたどんぶりの縁はだんだん高く持ち上がり、中身は外に流れ出し、そして、横向きになると、とうとうこぼれ出た中身の上に覆い被さるようにどんぶりは裏返しになりました。そこでようやくコロは満足したようです。腹が空くとそのどんぶりを押しのけて中身を食べるのですから私がとやかく言うことはないのですが、私としては、心はスープの方にあるのです。それを全部ひっくり返して一仕事やり終えたような顔をしているコロをみると憎たらしいと思わないではいられませんでした。
 そこで、私が打った手はどんぶりの周りに大量の枯葉を置いておくことでした。案の定、コロは土の代わりに枯葉を押し込み出しました。あっという間にどんぶりは枯葉で埋まってしまいます。これならいい。しばらくはこうしていたのですが、これだと枯葉がスープの上にべちゃべちゃくっついてしまいます。私はこれが気になりました。もちろん、コロは気にしていません。そこで、次は枯葉の代わりに枯草を置きました。これなら長いのでどんぶりの中に乗るだけでしょう。これで大丈夫と思ったのですが、事態はこれで終りませんでした。コロはどんぶりを枯草で覆い隠した後、今度は、念には念をというように鼻先で枯草の上からぐいぐい押し込み出しました。結局、枯草はスープの中に浸かってしまうことになりましたが、この辺りが妥協線かなと考え、私もここで干渉するのを止めました。コロは腹が空くとどんぶりの上の枯草を左右に押しのけ、鼻先を突っ込んで御飯を食べます。枯草の山の真ん中にちょうど口のサイズの穴のある風景ができました。
 毎月やってくるガスや電気の検針員はこれを見て何と思ったことでしょう。私も「形の生まれるプロセス」というものを体験することができました。これからは何かの「形」を見たとき、そこに至る過程にはドラマのあることを想像することができるでしょう。これはきっと世界を、より深く魅力的に見せてくれるに違いありません。そうしているうちに人生が幕切れになることは間違いありませんが、そういう終り方も悪くはないなと思います。
2010.1.17


★コメント
 今もコロの夢はよく見ます。基本的に、前の家の夢を見るときにそこにコロがいるのです。引っ越しのとき、荷物がなかなか運び切れず、焦って、焦って、それで今も残りの荷物を運ぼうとしている夢を見ます。その時点でコロは既に死んでいたのですが、夢の中では生きているのです。
 つい先日も夢を見ました。私が車で前の家に戻るとコロは嬉しそうに飛び出してきました。しばらくして私が車のドアを開けると、コロは寂しそうに自分の小屋の方へ歩いて行ったのです。私がまた出かけると思ったようでした。私はコロを今の家に連れてくるために前の家に迎えに行ったのですが、コロはこうしてずっと留守番をしていたのかなと思うと心が痛みました。
 この記事はコロが死んでから半年後に書いています。ようやく書く気になれたというところでしょう。実は、コロにはもう一つ話があります。死んだ直後に書いたものですが、コロの話を再掲し始めたとき、これだけは載せるのを止めようと思いました。読むのも避けてきました。今、読んでみて、やはりこれを載せてコロの話を締めくくるかなと思い始めています。自分もいつまでこういうことを続けられるか分からないし、そろそろ物事を一つずつ片付けていくことを考えるのがいいだろうと感じています。
2023年5月20日


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コロちゃん<雷>

2022-12-20 09:15:11 | 「遊去の部屋」
<2006年1月7日に投稿>
 この夏、とうとう自転車がダメになりました。また修理しなくてはなりません。この5,6年、何とかごまかしながら乗ってきたのですが、昨日の雷で、ついにギアーを替えるワイヤーが食いちぎられてしまったのです。とはいえ、雷がワイヤーに噛み付いたわけではありません。噛み付いたのはコロですが、コロは雷が鳴り出すと怖がってガタガタ震えだし、最後は狂ったようになって自転車に噛み付く犬なのです。「雷が鳴ると自転車が壊れる」、つまり、「風が吹けば桶屋が儲かる」のコロ版というところでしょうか。
 雷を怖がる犬は多いと思いますが、逆に、凄い雷雨の中でもまったく平気な犬もたくさんいます。その違いが生まれるわけは分かりませんが、いろんな段階の犬がいることから考えると雷雲が空間に及ぼす物理的環境の変化を捉える感度が犬によって大きく異なる、つまり、鈍感な犬もいれば敏感な犬もいるということなのかも知れません。
 コロの前にも犬が2匹いましたが、最初の犬は雷が鳴っても何ともありませんでした。2匹目は雷が鳴り出すとうろうろ歩き出し、そこらに積んである枯草やガラクタなど、何でもいいからとにかく何かの下に頭を突っ込む犬でした。これを見て、私は「頭隠して尻隠さず」の表現には実態のあることを知ったのです。それでもこの犬の場合にはまだ悲鳴を上げるということはありませんでした。ちょっと隠れてやり過ごそうという程度で、まだ犬としての体裁は保っていて、見ていても微笑ましいくらいのものでした。ところが、コロの場合は様子がまるで違います。とても笑って見ていられるようなものではありません。
 コロは普段あまり吠えません。新聞入れや郵便受けはコロの日向ぼっこの場所のすぐ横にあるのですが、配達の人が来ても吠えることはありません。ガス屋さんも大きなプロパンガスのボンベを運んでコロの横を通り過ぎるのですが、そのときにもコロは自分からちょっと横にのいて場所を譲るくらいで、決して吠えることはありません。
 コロが吠えるのは家の前をよその犬が通るときです。これはまあ犬だから仕方がないでしょう。吠え方は相手によって違うので、私は家の中にいても、それを聞いているだけで誰が散歩しているのかだいたい見当をつけることができるくらいです。が、これも犬が通りすぎてしまえば終わるのでそんなに長く吠え続けることにはなりません。それで『少し長いな』と思うときには、表に出てみると、コロがすさまじい表情でがたがた震えていることがよくあるのです。
 こういうときには、たとえ、そのとき空が晴れていてもすぐに布団や洗濯物を取り入れた方が無難です。30分もすればたいてい雷雨になるからです。そういうわけでコロは「雷予報士」でもあるのですが、どうして分かるのかは不明です。雷雲は遠くの方から近づいてくるわけだから、コロの耳には人間には聞こえないような雷鳴が聞こえているのかも知れません。あるいは雷による電場や磁場の乱れを感じて不安になり、それがさらに得体の知れないものへの恐れにまで発展するのかもしれません。

 私がこう考えるのにはそれなりのわけがあるのです。気功は、「雷が鳴っているときにはしてはいけない」とされています。理由はいろいろ考えられますが、とにかく古くからそう言われてきたわけなので私もそれに従っています。
 気功をするとき、まず最初にすることは体の向きを決めることなのです。北向きと南向きの2つあるのですが、武術としての気功をするときは北を向いて立ち、健康のため、つまり内臓の機能を整えるためのときは南を向いて立つことになっています。これは地磁気と関係があるのではないかと思っています。南北方向に立つということは地磁気が体を前後に貫くように立つことを意味し、この方向は最後まで維持されます。つまり、「体の前後方向に地磁気を安定して保つこと」、これが気功の基本姿勢になっているのです。
 雷が発生すれば、雷は電流ですから、電流が流れれば磁界が発生し当然磁場は乱れます。そんな乱れた磁場のもとでは体を整えるどころか、かえって損なうことにもなりかねないということなのではないでしょうか。
 そういうわけで、気功をしているとき、コロの吠え方がおかしいと思ったらすぐ中断モードに移るようにしています。というのも、気功は体の中を一定の道筋に沿って気を巡らすのですが、一度始めると一時間くらいかかることが多く、中断するにもその巡らしている気をきちんとどこかに収めてからでないと止めにくいという事情があるのです。そのためにも10分くらいの時間は欲しいのですが、雷鳴を聞いてから気を収めようとするとその10分の間に雷がどんどん激しくなってくることもあるので、こんなときにはコロの「雷予報士」も役に立つわけですが、役に立つといってもといってもせいぜいこのくらいのことでしょう。

 コロが吠え出したときは、実は、もうかなり症状が進行しています。それまでコロは一人でおろおろしているのですが、この段階で気付かれることはあまりありません。たまたま表に出たときに様子がおかしいことに気付くことはありますが、それを見ているとコロもコロなりに耐えているんだなあということが分かります。
 第一段階。コロは落ち着きがなくなり、何となくそわそわしてくる。息遣いがだんだん荒くなり、腹ばいになったかと思うとすぐ立ち上がり、1mほど移動するとまた腹ばいになるというように寝そべっている場所を次々と換え始める。
 第二段階。ヨダレを垂らし始める。その量は次第に増え、やがて地面のあちこちに「ヨダレ溜まり」ができる。このとき既にコロの目は怯えて、体はぶるぶる震え、尻尾は当然下に巻いている。
 第三段階。吠え始める。一度吠え始めるとそれまで耐えていた気持ちが一度に崩れるのか、それとも自分の泣き声によって恐怖心が増幅されるのか、一気にコロの形相が変容する。毛は逆立ち、目は色を失い、口の周りはヨダレでズルズル、ツララのようになっている。体は胴震いでわなわなと揺れ、立っていることもおぼつかない様子。
 第四段階。立ててある自転車の下にもぐり込み、背中で自転車を持ち上げようとする。自転車のフレームは金属でできているから電磁波を遮蔽する効果がありそうだとも考えてみたが、どうも関係なさそう。
 第五段階。後ろ足を踏ん張って立ち上がり、前足で自転車にしがみつこうとする。ハンドルやサドルに手をかけ、その姿勢のまま叫びつづける。
 第六段階。自転車に噛み付く。ハンドルでもフレームでも何にでも噛み付く。よく歯を傷めないものだと感心する。ワイヤーに噛み付いたときはワイヤーがボロボロになる。このとき体中の筋肉は痙攣したようにカチカチにこわばっている。

 私はコロを自転車から引き離し横に移動させて、それからコロの体を擦ってやります。そうすると安心するのか泣き叫ぶのは少し収まるのですが、それでも胴震いは続きます。結局、雷が収まるまでは何をしてもだめなのです。だいたい30分、ときには1時間近くかかることもあります。その間、私もそこを離れるわけにはいかないのでフルートやらリコーダーやら楽器を持ち出しては時間つぶしに吹いています。足元ではコロが悲鳴のような泣き声を上げ、その横で私がフルートを吹いている…。
 道を通る人の目にこの光景はいったいどう映るでしょうか。いくつかの解釈が可能でしょう。実際、前の道を通り過ぎる人の目からは様々な表情が読み取れます。
 1つ目。雷に怯えている犬の心をフルートで落ち着かせている。牧歌的な解釈で、好意的な見方といってもいいでしょう。こういう受け取り方をする人は夢見がちなタイプで、暮らしの中では風呂の水などを止め忘れる傾向があります。
 2つ目。フルートの音を犬が嫌がって泣き叫んでいる。これは虐待しているということですね。こう解釈されると訴えられる危険も生じます。このタイプの人は被害妄想のところがあり、いくらそうじゃないと説明しても他人の考えは受け入れないところがあるので対応に慎重さを要します。
 3つ目。フルートに合わせて犬が即興で歌っている。つまり、近頃、はやりのインプロヴィゼーション(improvisation)ということになりますか。いつも何か気の利いた話の種を探している職業病の気があります。
 4つ目。 犬の泣き声に合わせてフルートを吹いている。これは3つ目の逆ですね。こちらは自分が話題になりたいのかも知れません。
 5つ目。雷雨のせいで犬も人間も少々気がおかしくなった。明るい兆しさえも否定することで自己の確認をする怒りっぽいタイプの人ですね。
 他にもまだありそうですが、本当の理由を見抜く人は極めて少ないのではないかと思います。多分、その人は自分のところにいた犬がきっとそういう犬だったのでしょう。コロのようなひどい雷恐怖症の犬は滅多にいないからそのような犬を飼ったことのある人も極めて少ないということになりますが…。

 前に、コロが噛み付いて壊れた自転車を修理するのに自転車屋に持っていったことがあります。そこの主人は自転車を見るなり、『いったいどうしたんや、これは。』という顔で私を見ました。自転車屋は新しい自転車を売ったり、故障を直してまた使えるようにしたりするのが仕事ですから、つまり、自転車の味方です。その自転車をひどい目に合わせる人には、たとえ客といえども愛想よくする気にはならないのでしょう。私がそれを察して簡単に説明すると、ぼろぼろになって、中から、切れたワイヤーがぷちぷち飛び出したところを手に取って、「ひどいなあ、うちにも犬が10匹いるが、こんな凄まじいのはおらんなぁ…。」驚きとあきれ返りの入り混じったような表情でガチャガチャやりながら新しいものと取り替えてくれました。修理代金1000円也。コロはそのくらい珍しい犬なのです。
 家に帰るとコロがおすわりをして待っていました。自転車を元の場所にしまうと、コロは新しいワイヤーのところをしばらく嗅いでいましたが、すぐに興味を失うといつもの自分の場所に戻り、だらしなくずるずると腹ばいになりました。私はそれを見ながら、自分にできることは、新しいワイヤーが一日でも長くもつように雷が来ないことをただ祈るだけだと悟ったのです。
2006年1月7日

★コメント
 ちょうど昨日、コロの墓に行ってきました。小さな尾根の肩にあります。コーヒー用の水を取りに行く所の近くなのでその度にそこまで足を延ばします。いつも思うことはコロがうちに居てくれて良かったということです。今は私の心の中にいるようで、思わず「コロ」と声に出してしまうことが度々なので、外出したときには呟かないように気を付けています。
 この<雷>の話も、書いたことすら忘れていました。見つけたときには『長いなあ』と思ったのですが、読み始めると全くこの通りで、よく書いたなあと思いました。自分にもエネルギーがあったようです。そのお陰で私は自分の過去の出来事に再会することが出来るわけで、これはまさに自分へのタイムカプセルになっていたことを実感しています。日記もあるのですが、こちらは何のことを書いているのか分からない部分があったりもするし、やはり一度「話」の形にまとめたものの方がいいようです。
 そして今、タイムカプセルを開ける時期になったようで、その感想をまとめていくことが自分の人生を振り返ることになるのでしょう。たっぷりありますから楽しみです。
2022年12月20日


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サンスのパバーナ

2022-08-20 12:52:54 | 「遊去の部屋」
☆これは2002年1月頃、「遊去の部屋」に載せた話です。このホームページに掲載した3つ目の話で、方向性も対象もはっきりしない手探り状態のときに書いたものなので、クラシックギターをやってない人には混乱するところがあるかも知れません。

            サンスのパバーナ
 <ガスパル・サンス>
スペインの作曲家、ギタリスト、オルガニスト。1640年アラゴンのカランダに生まれ、1710年マドリードに没する。音楽と古典文学の研究を行い、サラマンカの大学で神学と哲学を学んだ後、イタリアに行きオルガニストとして活躍する。同時に、ローマやナポリの音楽学校で有名なギタリストに会い、技法を学ぶ。帰国後はスペイン国王フェリペ4世の庶子のドン・ファン・デ・アウストリアのギター教師となる。
  ~~~~~~~      ~~~~~~~     ~~~~~~~

 サンスの残した「パバーナ」は、クラシックギターをやる人なら誰でも知っている曲である。この曲は3つの部分からできているのだが、弾かれるときは、たいてい前の2つの部分だけで、3つ目が弾かれることは殆んどない。曲集にも3つ目の部分が載っているものは少ない。なぜだろうか。

 私が、はじめてこの曲を聴いたときの印象はかなりひどいものだった。10代の終わり頃のことと思う。もしかすると楽譜で見て弾いただけだったかもしれないが、重く、暗く、どちらかというと葬送行進曲のような印象を受けた。
『一体、誰がこんな曲を弾くんだろう。こんなものを弾いて、ひとり、ため息をついているとは、……。』
 その頃は、まだ自分自身の能力も、もちろん限界も知らなかったから、やれば何でも出来そうな気がしていた。だから、こんな挫折感を漂わせるような曲に心を惹かれることはなかった。
『こんな曲を載せて。スペースの無駄だ。』
果ては曲集にまで文句をつける始末であった。しかし、そう思いながらも、その、殆んど音階のようなメロディーラインは一度頭に入るとなかなか取り除くことが出来ず、そのまま心の片隅に残ることになってしまった。

 サンスの曲で最初に心を惹かれたのはスペイン組曲の中の「エスパニョレータス」だった。そのとき、すでに30代後半、その間、いくつか挫折も体験した。そのためか、どちらかというと、はかないものの方に心を惹かれるようになっていた。この曲は、ぜひ、ランプの光の中で弾きたいと思い、家でそんなコンサートを開いたこともある。ちょうど骨董のランプを買ったので思いついたのだが、実は、これが大失敗。
この曲は楽譜がやさしいのでかえって暗譜しにくいところがある。それで本番も楽譜を見て弾くつもりでいた。今から考えれば本番の前に一度リハーサルをやっておけば何も問題はなかったことなのだ。
 この日のコンサートは昼間だったのでカーテンを閉めてランプをつけるつもりでいたのだが、実際にやってみるとカーテンだけでは夜のように暗くはならない。それで仕方なく雨戸を閉めた。中は真っ暗。外は3月、早春の健康な光に溢れていた。ランプをつけたが暗かった。昼の明るさに慣れた目にはランプの明かりでは何も見えない。部屋の中はいっぺんに病的な空間になった。全体に何となく緊張感が広がった。お互いに知らない人たちが何人かずつ、雨戸を閉ざした部屋の中でランプの周りにじっと座っている。お互いに、まずいところに来てしまったという様子が見て取れた。まるで秘密結社か何かの儀式のようだった。
 ランプは一つしかなかったので、客と演奏者の間に置いた。楽譜を立てて弾こうとすると楽譜が見えない。ランプが楽譜の向こう側にあるからだ。こんなことならコピーを取っておいたのだが、曲集のままではどうすることもできなかった。コピーなら行灯の紙に書いた絵のようにランプの光に透かして読めたかも知れないが、それにしても異様だろう。ランプを楽譜の前に置けば、観客は、闇の中に赤く浮かび上がった私の顔を見るだけである。そうなればもう音楽どころではない。それでランプはそのままにして、楽譜を壁際に立て、私は体を壁に向けて演奏した。

 サンスの曲が気になるようになったのはその頃からだ。それまでの、色彩豊かに光り輝くルネッサンスの世界とはまた違ったバロックのモノクロームの語り口にも魅力を感じるようになった。それにサンスの音楽にはルネッサンスの名残があった。ちょうど祭りの終わった後の無人の広場を眺めているような気分がある。そうしてだんだんとサンスという人物に親しみを感じるようになった。
 例のパバーヌをもう一度見てみようと思ったのはそんなときだった。特にむずかしいところもないのですぐに弾ける。しかし、弾いてみるとやはり重い。暗い。いい曲だなあとはとても思えない。だけど、サンスが書いているからには、ただ重い、暗いだけではないはずだと思った。弾きながら音に耳を澄ますと何かサンスの言葉が聞こえてきそうな感じがあった。それを体で受け止めながら弾き続けるうちに体の方がだんだん馴染んでいくようだった。やはりサンスはいいと思った。

 1つ目、2つ目は何も問題はない。ところが3つ目になると様子がまるで違っている。異質なのだ。実際、曲は前の2つの部分で完結している。そのせいもあるのか、続けて3つ目を弾くと、まるで間が抜けたように聞こえるのだ。まさに蛇足としか思えない。3つ目にどういう意味を持たせればいいのか分からないから,どう弾き出せばいいのか決まらない。それで、試しにプレリュードのように一番前に置いてみたが特に意味があるようには聞こえなかった。それで速く弾いてみたり、ゆっくり弾いてみたり、いろいろテンポを崩してみるのだが、なかなかこれだという所には行き着かない。どの曲集も3つ目を載せてないのはこういうことかと合点がいく。もしかすると、3つ目は元々ここになかったのではないかと疑ってみるのだが、バロックを研究している人が現にこの形で演奏しているからその可能性は低いだろうと思う。しかし、実際、そう思いたくなるほど違和感があるのだ。

 では、なぜ、私がこれほどこだわるかというと、実は、それが、単に、サンスがそんな意味のないことをするはずがないというだけのことなのだ。信念というほどのことではないのだが、そんな気がするというだけのこと。それだけで10年以上もこんなことを続けている。私は、小説を読むときも、絵をみるときも、もちろん音楽を聴くときでもそうなのだが、いつも、作品の向こう側にある作者の顔を見ることを楽しむところがある。作品そのものを味わうのはもちろんなのだが、作者にはみんな癖があって、それが作品の端々に顔を覗かせる。それを見つけると、『ああ、またやっとるわ』と思ったり、『まだやっとるわ』と思ったりする。そうしてだんだんと作者の人となりに親しみを覚えるようになってくると、今度は欠点までも好意的に見ようとしてしまう。
 サンスの場合も同じだ。一度好きになると、たとえ少々おかしなところがあっても、これにはきっと何か理由があるにちがいないと考えて、それで見落としているところがないか捜したり、あるいは、その曲を書いた背景を知らないからではないかと思ったり、つまり、おかしいのは自分の方に原因があるように思ってしまうのだ。今回もそんなことを考えながら何年も過ぎてしまった。そしてようやく今の自分の形になったのだが、これが、また、大変な代物になってしまった。作りたいイメージはあるのだが、実際に弾いてみるとそうはならない。自分でも何をやっているのか、どこを弾いているのか、わけが分からなくなってしまう。

 ギターの場合には下の弦ほど音が高く、押さえる位置はボディーに近づくほど高い音が出る。ところが低い弦の高い音を使うと高音弦より高い音が出てその音色にも違いを持たせることができるのでギターでは良く使う。今回は同じ音やその近辺の音を違った弦で出すことによって音の重なりを作ろうとした。それで高い弦を弾いたときに低い音が出たり、低い弦を弾いたときに高い音が出たりすることが頻繁に起こるようになってしまった。
 鍵盤の場合には、右の方を押すと高い音が出て、左の方を押すと低い音が出る。だから、右のキーを押すときは自然に高い音を期待する。体はそのように馴染んでいる。このとき、もし低い音がしたらどうだろうか。分かっていても恐らくハッとするだろう。重いと思って持ち上げたヤカンが空だったときのように拍子抜けするに違いない。右に行くとパラパラと音が上がっていくという感覚が体に染込んでいるから、途中で突然低い音が鳴ったりすると、物にでも躓いたような気分になってしまう。それがあちこちで出てきたら、それこそ階段を踏み外したようなものである。目に飛び込んでくる階段の断片を何とか捉えて体勢を立て直そうとしているうちに板が目の前いっぱいに広がってそのまま真っ逆さまに床に激突。もう音楽どころではない。一体今までの練習は何だったのだ。そんなことを呟いてももう遅い。勝負は決した。後の祭りである
 それなら楽譜を見て弾けばいいようなものだが、これがなかなかそうは行かない。音の重なりを生むために通常使わない弦ばかり使うのでとっさの判断が利かないのだ。だから、ただひたすら覚えるしかなかった。円周率の3.14159265358979…を暗記するのと似ている。ようやく覚えたと思っても元々自然な流れじゃないから突然忘れてしまったりする。さっきまで弾いていたのに全く思い出せないということがどれだけ練習しても起こってくる。ましてや本番ともなれば緊張するから、それこそ、いつ、どこで抜けてしまってもおかしくはないのだ。ここは最後まで辿り着くことをただ祈るのみである。

 先日、この形で「パバーナ」を弾く機会があった。手が冷えていたので摩擦をして温めた。犬の散歩はもっと前に行くのだったと思いながら弾き始めた。最初の和音がかすれた。一度に弾くかアルペジオにするか迷いながら弾いたのが悪かった。こんなことを考えたためか次のトリルで指が当たらなかった。早くもちょっと焦ったが気を取り直し次の8分音符4つを弾きにかかった。この流れが曲想を決める。それでちょっと誇張しようとしたら爪が引っかかってリズムを崩すつもりが崩れてしまった。こうなると弾きながらも気持ちの不貞腐れてくるのが分かる。何とか1つ目が過ぎ2つ目も終わりに近づいた。今日はここで止めとこうかなという気持ちが湧いてくるのを押さえながら、次のテンポをイメージした。3つ目に入ってすぐに速すぎると思った。そう思った瞬間、どこを弾いているのか分からなくなった。分からなくなったが指は動いていた。やはり練習は積むものだと思った。ピンチは脱したものの気分は重かった。やろうと思ったことの半分もできなかったのだから当然だ。再び最初の1つ目に戻り、今度はさらりと流したが、やはり葬送行進曲のようだった。

 家に帰ってからもう一度弾いてみた。確かに重く暗いがいい曲だ。またやってみようと思った。何といってもサンスの書いた曲だから……。


★コメント
 これは20年前の記事になります。知人が、私のために「遊去の部屋」というホームページを作ってくれました。「何か文章を書いたらここに載せるから送ってくれ」と言われ、私の投稿が始まったのでした。
嬉しかったです。それまで個人の書いたものが不特定の人の目に触れるということは出版でもしない限り無理でした。これ以来、書くことを楽しんでいます。

 一つ目が「夢のコンサート!」、二つ目が「駅伝にはご用心!」で、この2つは既に掲載しています。そして次が今回の「サンスのパバーナ」です。この曲は、その後、ギター朗読作品の「人知れず山懐に花は咲き」に使いました。「エスパニョレタス」もここで使っています。サンスの曲は心に原風景のイメージを呼び起こすようなところがあり、それが「話」になったと言ってもいいでしょう。出来ればこれも録音してユーチューブに上げたいと思っていますが、何しろ70分もあるので厳しいです。だけどこのような形で自分の人生を整理できる方法のあることは感謝しなければならないと思っています。
2022年8月20日


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フトンがふっ飛んだ!

2021-11-30 09:25:26 | 「遊去の部屋」
<2006年7月30日に投稿>

(1) フトンは干し始めると止められない
この冬は冷え込む日が例年より多かったように思います。その割には温かく眠れる日が多かったのですが、それには、実は、理由(ワケ)があるのです。
 底冷えのする夜は背中からじーんと冷え込みがきて、犬のように丸くならないとなかなか眠れません。その度に春を待ち遠しく思うのですが、この冬は、そんな日は2,3日くらいのものでした。去年までは、冬ならそんなことは当たり前。では、今年は何があったのかというと、そこで、「フトンがふっ飛んだ」ということになるのですが、実は,これ、日本で(もちろん日本に決まっていることですが)一番人気のあるシャレだそうです(個人的には好きではありませんが)。
 この家に引っ越してきてからはよくフトンを干すようになりました。何しろ、敷地の南側には塀があって、その向こうは畑や田んぼになっているので、その塀はフトンを干すのにちょうどいいのです。はじめの頃は天気がいいと干していましたが、だんだんと曇りの日にも干すようになり、ついには、雨の日以外は毎日干すというところにまで行き着いてしまいました。
 雨の日には干せないのでそのまま寝ることになるわけですが、別にじめっとするような感じはありません。それなら毎日干さなくても良さそうなものなのに、何故干すかというと、眠っている間に体から出た水分は湿気となってフトンの中に溜まります。それを外へ干すと太陽の光と風がその水分を大気の中に戻してくれる、つまり、自分の体が自然の循環の中にあるという感じがするのです。もちろん、ふわふわしたフトンに寝たときの気持ち良さが一番の理由ですが、冬の曇りの日などは、干すと却って冷たく感じられることもあります。それでも僅かな光や風を求めて干すというのは実質的な意味以上のものを感じているからなのでしょう。

(2) 天気のいい日はうらめしや
 ところが、年に一時期、4月の初めだけは天気が良くてもフトンを干すことができません。この時期には柿が一斉に新芽を出し、するとそれに4,5日遅れて毛虫が大発生するのです。自然界のこのタイミングの見事さにはあきれるほかありません。小さな新芽が薄緑のやわらかい葉に広がって行くときに毛虫はそれを食べて成長します。葉は大きく広がると、今度は次第に緑が濃くなり、だんだんかたくなってごわごわしてきます。小さな毛虫はその前に充分大きくなっておく必要があるのでしょう。
 発生時の毛虫はせいぜい2,3mmですが、その名の通り全身に毛が密生しています。そして口から糸を出し風に乗って飛ぶようです。実際には、糸を出してすーっとぶら下がったところ、体が余りに軽いので風に乗って糸をつけたまま吹き上げられ、そのまま飛行をすることになってしまうのかも知れません。そんなときにフトンを干すとフトンが毛虫だらけになるので、この時期の1,2週間はじっと我慢をするしかないのです。
 そういうわけで天気のいい日には却って気分が塞いでしまうことにもなるのですが、時々、「もう今日あたりは大丈夫じゃないか」という気がして、我慢できずに干してしまうことがあります。大抵の場合、大丈夫ではありません。でも、そんなときにはピンセットがあれば大丈夫、50匹くらいならわけなく取れます。しかし、取り残しが1匹でもいると刺されることにもなりかねないので慎重にやらなければならず、なかなかやっかいであることには変わりありません。
 クモはこの時期には生き生きしています。何しろ、空中に掛けられたクモの巣には毎日無数の黒い毛虫がかかります。連日の大漁に次ぐ大漁でクモはどんどん成長するのですが、しかし、このクモも、多くは、やはり、蛙やトカゲに食べられることになるのでしょう。それが自然の掟です。
 
(3) 嵐の後はだらりと過ごす
 春先には暴風雨のような日が周期的にやってきます。私はこれを勝手に「春の嵐」と呼んで楽しんでいます。その翌朝は、湿気をたっぷり含んだ生温かい空気が地を覆い、その下の黒い土から立ち上がった靄が斜めにもうもうと流れたりして、いかにも「いよいよ春」という風情です。
 こんなとき雨戸の隙間から差し込む光の筋をフトンの中から眺めていると、子供のときに風邪を引いて寝ていたときの熱っぽい感じを思い出したりもします。私にとって「春の嵐」はノスタルジーと結びついていて、それは、学んだ知識と共に形成される後の人格以前に持っていた本来の自分の「感覚」のようなものを思い出させてくれるのです。
 成長と共に、あるいは教育と共に脱ぎ捨ててきた、自分の皮膚によく馴染んだ衣服のような感触を取り戻すのは容易なことではありません。目新しいものにあこがれてそれらを追いかけているうちに、手に入れた物は増え続け、それらで溢れ返る中にいて、それでも何か満たされない、何か違う、という感じがするときには、きっと、心の皮膚呼吸ができないでいるのです。
 そんなときには意識的に「じ~~~っと」してみるといいでしょう。頭で考えず、風呂の湯をみるときのように手を入れて「じ~~~っと」みる、服などもデザインを目で見るだけでなく布の感触を手で触って「じ~~~っと」みる、料理も目で楽しんだ後はほんの少し口に入れ、今度は舌で「じ~~~っと」味をみる、建物などの場合でも、自分がそのまましばらくそこに居たいと感じているかどうか、というようなところを「じ~~~っと」みるのです。そして、子供の頃、どんなものが好きだったか、どんな感じがしたかというようなことを「じ~~~っと」思い出してみることは、さらりと流してしまっている日常の自分の感覚に「手ごたえ」を取り戻すいい方法だと思います。

(4) フトンも空を飛ぶことがある
 前日の春の嵐で前の田んぼは水が溜まって池のようになっていました。空は少し曇っていましたが風があったので昨日の湿気が取れるかなと思ってフトンを干しました。時々、ひゅーっと強い風が吹いています。私は奮起して春の大掃除に取り組んでいましたが、雨が降り出さないか気になってちょっと窓の外に目をやりました。すると、田んぼの中に、ちらっと何か白いものが見えました。『風で飛んできたんだな、看板かなぁ、…』
 フトンでした。確かにフトンでしたが、まさか自分の干したフトンだとは思いません。何しろ、フトンを干したところからは25mくらいも離れていて、田んぼの向こう側の畦の手前にあるのです。空飛ぶじゅうたんではあるまいし、あんなところまで飛んでいくはずがない。ということは他所の家のフトンが飛んできたということになりますが、それはもっと考えにくいことなのですぐにフトンを見に行きました。塀のところに行くと敷き布団も掛け布団も2枚ともありません。塀の向こうを見ると池のような田んぼの中にフトンが2枚ともおぼれるようにして浮いていました。
 水を吸ったフトンは半端な重さではありません。田んぼに入り、フトンのところまで行き、冷たい水の中をずるずる引きずってくるしかありません。この重さではとても持ち上げて塀を越えさせることはできません。遠回りでも一旦農道まで運ぶしかないでしょう。仕方なく、水の中でフトンを畳んでから農道のところまで引きずり、そこで上からゆっくり圧力をかけて水を押し出しました。おぼれた人に水を吐かせているみたいです。そこからは地面を引きずるわけには行かないので担架の代わりに広げたダンボールに乗せて家まで引きずりました。

(5) 「窮すれば通ず」(易経)
 泥にまみれて溺死体のように庭に広げられた2枚のフトンを見れば、これは「干す」というような穏やかな手段では到底回復の見込みがないことは明らかです。私はすぐに家の中に入って行き電話帳を開きました。職業別の電話帳を開けたのは殆どこれが初めてのことでした。毎年きちんと届けてくれるので決まった場所に大切に保管してあるのですが、その割にはこれまで使う機会がありませんでした。
 早速、ふとん店を捜し、電話で「フトンの丸洗い」のことを尋ねてから車に積み込んで持っていくと、店の人は何でもなさそうな様子で費用のことを言ったのですが、それは私が考えていた値段の2倍以上のものでした。一応、私は別の店の値段表を見てあったのでそのわけを尋ねると、クリーニングの仕方にもいろいろあるのだということでした。私は近くということでこの店に持ってきたのですが、この値段の違いにちょっと迷ってしまいました。
 この店は全体が小さな製造工場になっていて、その一角にフトンが展示してあり、店構えも普通の商店のような感じではありません。店の人も作業服を着ていて自分で製造しているようでした。その様子から、私は信頼しても良さそうだと思いました。
 ところが、つい、「しかし、それだけの値段を出すのなら…」と考えてしまったのです。「それだけの値段を出すのなら、この機会に打ち直しをした方がいいんじゃないか」私がそう思って尋ねると、「そうですねぇ、クリーニングすれば大丈夫ですが、フトンは古いけどいい綿を使っているから打ち直しをしたらすごく良くなりますよ。この際、皮も替えた方がいいですね、赤にしますか、それとも青に…」ということで、結局、打ち直しをすることになりました。「綿は多めに足しましょうか、それとも少なめに…」
 打ち直しの値段は殆ど新品が買えそうなくらいのものでしたが、打ち直しのときには新しい綿を足すということだし、何よりもまだ使えるフトンを捨てなくてもいいのです。こんな状況になったのはすべて私のせいで、こんな風の強い日にフトンを干した私が悪いのです。フトンに責任はありません。それなのに、値段の点からみて、古いものはどうせだめになるのだし、この際、新品に替えた方が結局は得になるのではないかという理由で、泥水に浸かったみじめな姿のまま捨てるのは許せない気持ちがありました。
 打ち直しもこの店の中でやっているようだし、店の人がフトンを大事に思っている感じがしたので、この機会に打ち直しをお願いすることにしました。綿は、冬場のことを考えて「多め」に足してもらうことにしました。

(6) 「アア、コノ ニオイ …」
 その晩は古いフトンを出してきて寝ました。ずっと押入れにしまってあったので、ぷーんとかび臭い匂いがします。 アア、 ムカシ ノ フトン ノ ニオイ ガ スル … その瞬間に、昔のあの重いフトンの記憶が甦りました。

 50代以上じゃないと体験がないから分からないだろうと思いますが、昔の、厚くて、重くて、がばがばしたフトンに入って温まるのはかなり時間のかかることでした。もう今ではその頃のフトンの中の寒さの感じについてはよく覚えていませんが、コタツを入れていたところをみるとコタツなしではやはり足が寒くて眠れなかったのでしょう。
 コタツといってもそれは陶器でできた箱のようなもので、中に炭を入れて使うのです。火鉢をフトンの中に入れても大丈夫なように改良したものだと思えばいいでしょう。大きさはランドセルより一回り大きいくらいだったと思います。それを足元のところに一つずつ置くのでそれぞれのフトンの足のところは小山のように盛り上がっています。
 子供のことですから、寝る前にはフトンにもぐり込んでそのコタツを抱きかかえるようにして温かさを喜んだものでした。そのまま眠ってしまったら一酸化炭素中毒になっただろうと思いますが、そのせいか、いつも、やかましく「フトンを被って寝てはいけない」といわれたのを覚えています。
 その後、コタツは「豆炭のあんか」に変わりましたが、私の足には、この「あんか」でした火傷の痕がまだ何ヶ所も残っています。湯たんぽは祖母が使っていましたが私は使った記憶はありません。
 今考えると、その頃は寝るときにフトンの中が温まっているということだけで幸せだったようですね。今と比べると、物が豊かになった分だけ喜びは確実に薄まっているのではないかと思います。

(7) この厚さ、恐るべし!
 数日後、フトンを受け取りに行きました。厚さは30cmくらい。皮も新しくなっていたので見る限りでは新品です。中には前のフトンの綿が入っているわけですが、この厚さから考えると元の綿の3倍くらいは足してありそうです。車に積み込むのも一苦労でした。代金は安くはなかったけど、それ以上の値打ちがあると思いました。
 これでフトンに対しても面目が立つというものだし、冬場に寒い思いをしなくても済みそうなのはありがたいことでした。ただ、これから気候は暖かくなるところなので、このフトンの威力を試すには次の冬まで待たなければなりません。試しにちょっと敷布団の上に寝転んでみましたが、背中にかかる体重が畳に届かず、中途半端なところでふわふわしていて、薄いフトンに慣れた体には少々落ち着かないところがありました。それに下からこもったような熱に包みこまれる感じがあったので今から使うにはやはり少々温かすぎるようでした。
 それで冬までしまっておくことにして、押入れに入れようとすると厚すぎて一枚しか入りません。仕方がないので別の部屋の押入れを片付け、何とかそれぞれ別の押入れに一枚ずつ納めることができました。

 冬が来て、あの敷布団を取り出しました。さすがに違いました。とにかく暖かい。フトンというのはこんなに暖かいものだったのかと思いました。それにしてもたくさん綿を入れてくれたものです。3つに折りたたむことができません。仕方がないので丸めるようにして押入れにしまうことにしたのですが、そうすると毛布をいっしょにしまうことができません。結局、冬の間、毛布などは籐椅子の上に積み上げておくことになってしまいました。
 フトンを干すときにも南側の塀のところに行くには狭い通路を通らねばなりません。フトンを抱えると前が見えないので、そこを通り抜けるのがまた一仕事です。釘に引っかけてかぎ裂きを作らないように気をつけて通り、干した後はフトンが膨れるのでさらに注意が必要になりました。あれやこれやで手間は確かに増えましたが、この暖かさのことを考えればそれくらいのことは何でもありません。
 寒い冬に暖かくぐっすり眠れるなら寝ることそのものが楽しみです。一日の終わりに楽しみが待っているということは一日の最高の締めくくりと言えるでしょう。これもみな、元はと言えば、「フトンがふっ飛んだ」からなのです。何が幸いするかということは、こんなことを例に取っても本当にわからないものですね。

2006年7月30日


★コメント
 思い出しました。知り合いから「記事が長いのでどこまで読んだか分からなくなる。小見出しを付けたら。」と言われました。確かに長いです。この頃は<長い方が内容がある>と感じていたところがあります。別に短いものも書いていたのでHPには長いものを書いていたのでしょう。小見出しを付けるのはかなり苦しい作業でしたが、こうして分割しなかったらとても読む気にはならないなと思いました。
 このフトン、2枚とも今も使っています。敷布団は薄くなりましたが、掛け布団にはまだ厚みが残っています。こちらに引っ越してからは室温が0℃になるのでさらに布団を重ねています。そうするとすごく暖かいです。こちらに来るまでは布団を重ねることはしなかったようです。若い時は布団が上下一組しかなく、毛布だけでは寒くて、布団の上にコートを掛けたりして寒さを凌いでいました。ずっと後になっても布団を買えばいいということは思いつかなかったようです。
 暖かい布団で眠れるということは幸せです。その代わり早朝、布団から出るのは辛いです。なかなか踏ん切りがつかないのは本来の性分でしょうか。
2021年11月30日

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