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人間は初めから神の理念でありその儘で如来である

2018-09-29 10:06:28 | 日記
“人間”とは何ぞやということにつきまして、
私の探求は続いています。
「人間の実相は神の理念である」このことについて
今日も調べたことを報告します。
(参考 神癒への道 谷口雅春 日本教文社)
【迷いの心の眼を以て観た場合に神の造り給うた本当のすがたというものは覆われてしまって、或は歪んでしまって、変にいびつに見えて、不快な姿に現れて来る訳であります。それが悟の眼を以て、五官のレンズをかけないで、生命と生命とがカチカチ触れる底の眼で直接ものの本当のすがたを観た時に、此の人間は完全な歪みなきところの人間に見える。すなわち「神の子」の本来健全なる姿が見えるのであります。病人は本当は無いのです。神の理念に依って、理念そのものでつくられているのが人間であります。神の理念を言い換えると仏性とも神性とも申します。人間は仏性であり神性でありますから、未だ曾て病気をしたこともなければ是からも病気をすることがない。また未だ曾て迷ったこともなければ是からも迷うと云うこともない。ですから、人間は今迷っているのでも、これから救われるのでもない。初めから神の理念であり、神の「いのちの波」でありますから、その儘で如来である。「如来」と云うのは真如―真如というのは『マコト』本物そのまま、実在ですね―「如」はさながら、実在のその儘のそこから生れて来た―来生して来たので、如来と云うのであります。】

“実相世界”とは“神の第一創造世界”と言換えることが可能

2018-09-28 10:16:46 | 日記
“実相”というものは
神の第一創造である理念世界であることが
聖典『神癒への道』を読み分ってきました。
ですから実相を観じるということは、
“神の第一創造世界”を観じることと
同一であったわけです。
大分実相と現象の区別が整理されてきた感があります。
実相が現象に時空展開をしていると言っても
現象の方から実相にせまることはできないので
神の第一創造世界をつかむため、
それに神想観で肉迫していくしか
方法はないと思っています。
時間と空間が本当にあるものではないと悟ることが
真理を極める必要条件だと思いますが、
ツェノンのような学者の説も面白いですが、
私の場合は
生老病死のような不幸な出来事があること自体が
現象は本当にあるものでなくウソの世だと思い
現象人生を「真実ならず」と思い込んでいるので
それでいいのだと思います。
つまり“現象(時空世界)は実在でない”ということです。
(参考『神癒への道』(谷口雅春)日本教文社)
【詰りガスの火の形はガス“そのもの”でないのであって設計家の心の中にある。それと同じく人間の形は肉体そのものの中にあるのじゃないのであって、人間を設計した神様の心の中にある。その心的存在即ち「理念の人間」が本当の人間であって、「人間」とは神様の心に描かれたところの姿なのであります。即ち「理念」でありますから、人間は砕けようがないのです。即ち永遠不滅の人間であって、釈迦が涅槃経で説いた、仏身、法身、金剛不壊身、非雑食身であって、決して食べ物をこね上げて造ったものではないのであります。
しかし、その実相身、法身は五官の方からは見えない。五官の方から見えるのは、そこから映し出された影の方ばかりである。影の方は映画のようになって、養分が交替して見えているのであるから、やがて交替が止れば死んでしまうということになっているのであります。そういうわけで吾々の本当のいのちというものは死なないものである。永遠の存在であるということを釈迦もキリストも言ったのであります。】

宇宙を創造した大生命(実相)に自己を委ねる

2018-09-27 10:45:33 | 日記
宇宙を創造したのは
大生命である。
“実相”というのは
その大生命に他ならない。
メタフィジカル・ヒーリングというのは
その自己の内にある大生命“実相”に対して
自己のいっさいを委ねることである。
その大生命こそが
天地を造り、人間を造り、植物、動物、
また現象世界全体を造ったのだ。
それだから藤原先生は
絶対他力で神に全托しなさいと
仰っているのである。
そのためには、
人間自身が自己の心の奥に、
“実相”が存在し、
実は人間が“神のいのち”の表現体であることを
知る必要がある。
人間が“神の心”であり“ロゴス”であり、
“現象を越えたいのちの世界”(9月24日ブログ参照)であることを
真理として悟らなければならない。
つまり人間の“実相”(いのち)が全宇宙である。
そうしてはじめて得心して
自分を実相に委ねることができるようになる。


疑問点がとれてきて「信」の形成がなされる

2018-09-26 10:28:05 | 日記
私が自分は“神の子”であると得心したのは、
自分の環境世界が
自分の心内の世界の写しであり、
自分の心内に(奥の奥に)
その光源があることに
気づいたからである。
自分の心の奥の奥に“実相”(神の心)があり
それが私の脳髄を通して
また五官を通して時空世界という映写幕に投影される。
その時、実相は五官で把握できる目に見える姿に
脳髄によって翻訳されるのであるが、
この時いわゆる物質化というか物質と見える状態に
エーテル波動に色や形がつくのである。
また過去及び過去世において
何処かに蓄積されてきた業が
実相の現象展開において伴うのである。
この自分の心内にあるものが
そっくりそのまま外界として展開しているという真理は
“主観客観相即相入”と呼ばれ、
仏教の真理だということであるが、
『真理第7巻』にくわしくその説明がある。
私は現象展開しているものすべての奥に、
目に見えないが円満完全な実相が存在していることを確信し、
それはキリスト教でいえばロゴスなるものであり、
仏教でいえば無とか空の奥にある“真空妙有”であり、
『聖経甘露の法雨』でいえば『神の心、神のコトバ』であり、
“人間の生命の実相”それ自体であり、
谷口雅春先生がお説きになる“神の子”であることに
気づいたのであった。
つまり人間の心の奥なる生命の実相が
時空世界に現象展開しているのであるが、
人間の脳髄を通る時に
現象的に見える形となり、
過去の業を伴う心の影となるのであって、
現象世界に“実相”が目には見えないが実在しているという真理は
永遠に変わらないのである。
この見えないが外界に存在しているロゴス(神のコトバ)と
人間の心の奥に実在している“神の子”(神の心)とは
同質であるからこそ人間は外界を認識できるのであり、
外界がすべて神のお造りになった“神の世界”なのであるから、
それをキャッチする人間の心も“神の心”なのであって、
これが即ち“神の子”なのである。
人間は“神の子”である。
本来神の子は神の国に実在していて
神の国がどれほど素晴らしいのかは
私には知る由もないが、
ただ観を通して
それを直感し、
その幾分かを現象化することはできる。
それ以上は私には何も言えない。
実相は“神の子”であっても
人間は魂の向上のために
人として生れてきた存在であるからだ。
神の世界ははるかに広大なはずだ。