信州諏訪発気まぐれ親父のブログ

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アララギ派のゆかりの地 富士見町富士見公園の秋

2015-10-28 21:15:48 | 富士見町

我が町、富士見町も秋、真っ盛りです。今日は「アララギ派」の歌人達のゆかりの地ともなった富士見公園の紅葉を、と思います

        

私も小学生の頃は学校の帰りに友達たちと遊んだ覚えもある公園です。 今も子供たちは寄り道しているのでしょうか?

 

 

平日の昼間は人気もなく、小学校から近いので学校からは音楽の授業でしょう・・・縦笛。。今はリコーダーと呼びますね 演奏が聞こえて来ます

           

     

島木 赤彦始め 伊藤佐千夫・森山 汀川・斎藤 茂吉 らの句碑が建てられています。アララギ派の人達のゆかりの公園でもあります        

   

そろそろ晩秋  公園はモミジの落ち葉で赤い絨毯となっています。昨晩の大雨で八ヶ岳は雪かと思いきや意外と降っては居なかったようです

   水飲み場の球体の部分に

銀杏の木が映り込んで・・・  さて、では「富士見公園」に付いて少し詳しい話を。。。富士見町教育委員会の書から引用させて頂きました

 

明治12年、原之茶屋の人たちは、入会地の一部であったこの地を買い受けて小公園をつくった。ここは特に富士山と八ケ岳の眺望がすばらしく、翌年の明治天皇御巡幸の折には街道端に「芙蓉峰ヲ望ムノ勝地タリ」との建札も行われた。


 明治31年、東京では正岡子規による短歌革新運動が起こり、子規没後は伊藤佐千夫によって継承され、雑誌「馬酔木」「アカネ」「阿羅々木」などが次々と発刊された。同じころ、諏訪では島木赤彦を中心とする短歌活動が活発化し、同人誌「比牟呂」が刊行されていた。37年に左千夫が上諏訪布半短歌会に出席して以来、二人は志を通じ交友を重ねていた。41年、富士見油屋短歌会に左千夫ほか阿羅々木の同人たちが出席したのを契機に機運が高まり、翌年、両誌は合同して「アララギ」と改め、左千夫が主宰するごとになった。富士見は「アララギ」にとって記念すべき地となったのである。


 左千夫はこの間にしばしば富士見を訪れたが、ここの自然景観をたたえ、公開の設計を推奨した。これを受けて富士見村では直ちに用地を確保し、左千夫の構想と村人の奉仕によって44年、新しい公園が完成した。爾来、今日に至っている。

 左千夫の没後大正11年に、村民はその恩に酬いるため、歌碑を建立した。赤彦没後十三回忌の昭和12年には、県内外の多数の賛同者によって赤彦の歌碑が建立された。さらに、赤彦のあとアララギを主宰した斎藤茂吉の歌碑も十三回忌の昭和40年に建立された。また当町神代の出身で、アララギの選者として活躍した森山汀川の歌碑も四五年忌の平成2年に建立された。

平成10年3月

富士見町教育委員会


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