また・・・雅子皇后がやってくれました。ある意味、期待を裏切らないなあ。
令和3年 歌会始め
今年の皇族方の歌は深読みしようもないものばかり。
にも関わらず、なんで変な方向に深読みするのでしょうか。
「あの歌で余計に眞子さま嫌いになりました」とか言われても、それは単なる誹謗中傷です。
皇族の自覚と、感情は別にあってそのせめぎあいの中で生きている・・・それが皇族です。
天皇陛下
人々の願ひと努力が実を結び平らけき世の到るを祈る
まさしくそのまんまで、ただ七五調にしただけにすぎない。これって歌と言えるんでしょうか? 陛下の存在のおかげで世の中は平らじゃないの、わかってない。
宮城は行啓の頃から呪われたように地震が多いわ、コロナの感染者はふえるわ、タイヤ火災は起きるわ・・・祈ってもしょうがないから静かにしててください。
それにしても・・・歌の才能はからっきしない事がわかりました。
皇后陛下
感染の収まりゆくをひた願ひ出で立つ園に梅の実あをし
でた~~またも「感染」という言葉。直接話法で言えないから歌に託すのに、こうもストレートに言う、それが私のスタイルよと言われても、余計に感染は増えますよ。
誰か皇后に「言霊」の意味を教えて上げて欲しい。
緊急事態宣言中の5月に庭に出てみたら梅の実がなってた? こんなに日常生活が変わっているのに、梅は毎年変わらず身を結ぶとは・・・というよいテーマの歌です。
とはいえ、「梅」かあ・・・花はともかく「実」といわれると梅酒を作る梅しか思う以下ばない。「静養にもいけない。遊べない。鬱屈しちゃった。あ、梅の実。梅の実って青いのかあ」ってな感じですかね。
それにしてもなぜ「梅」梅の花ならともかく、「実」と言われると梅酒を作る梅しか思い浮かばない。情景が美しくも清楚でもない。
皇嗣殿下
夏の日に咲き広ごれる稲の花実りの秋へと明るみてくる
学者殿下だなあと思われる歌です。
稲の観察をしていたら、小さな白い花が奥ゆかしく咲いていて、これが秋には黄金色の実をなすのだなあと。稲の花は眞子さまなのでしょうか。これは週刊誌のいう「結婚を強行する」という意味ではなく「何も焦らずともあなたはおのずと黄金色の実を結ぶようにうまれついでいるのだ」と言っているようにも見えます。
皇嗣妃殿下
竹籠に熟るる黄色の花梨(くわりん)の実あまき香りは身に沁みとほる
夏はピンクの花、秋は黄色に実るかりん。それを籠に盛ると甘い香りが広がっていく。
自然に癒されている印象がありますよね。宮家の方々が赤坂御用地で家族で花梨の実を拾われている過去を懐かしがっておられるのでしょうか。
眞子内親王
烏瓜(からすうり)その実は冴ゆる朱の色に染まりてゆけり深まる秋に
からすうりと聞いて何を思い出すか?
これをKKになぞらえるなんて新潮はセンスなさすぎです。
からすうりと言えば「銀河鉄道の夜」じゃないのですか?夏祭りに「からすうりをながしに行った」こと。
単に色合いが好きだというだけではないと思います。
白いレースのような花をさかせた後、夕焼け色になっていくからすうりに秋を感じる。
ご自分もまたそんな風に色づいていけたらいいなというような印象を持ちます。
週刊誌は花言葉「よき頼り」とか「誠実」とか言ってKKとひっかけますが「男嫌い」という言葉もあるようで、もう男なんてこりごりよ・・(早すぎるけど)だったりしてね。
佳子内親王
鈴懸(すずかけ)の木から落ちにし実を割りてふはふは綿毛を空へと飛ばす
都会のど真ん中で自然一杯にお育ちになった佳子内親王の本領発揮という感じです。
一口に「すずかけ」と言われてもなかなかぴんと来ませんしね。
別名はプラタナスというんだそうです。そう言われると何となくわかるんですけど、実の方はさっぱり。
それを割って綿毛を吹いて空へ飛ばす遊びなんて、本当に森の中に住んでいないと出来ないです。可愛らしくて上品ですね。
秋篠宮家はそれぞれ秋にちなんだ植物を選び、揃っている印象です。
眞子内親王が一人で反逆したらからすうりの歌は出来ない筈です。
夫婦で思っていることは同じ筈なのに、全然違う歌を作ってしまった天皇皇后と比べると秋篠宮家のまとまりはさすがとしか言いようがありません。
眞子様も佳子様も歌が上達されて、本当に素晴らしい。
華子妃殿下
野鳥くる実のなる木々に植ゑかへて君は若かる庭師と語る
殿下が庭師と語っている様子を歌う。お元気なんですね。火星殿下の笑顔が思い浮かぶようです。
信子妃殿下
実りある日のくるためにながさるる汗は力となるを信ずる
こういう歌を皇后は詠むべきではなかったかと思います。
励まし、癒し、未来へと繋がる歌こそ必要なのです。そういう意味で信子妃殿下の歌は、コロナ禍においてのお手本のようですね。
来年のお題は「窓」愛子内親王はどんな歌を詠むのでしょうか?
母子揃って空気の詠めない歌だったら・・と思うと恐ろしい。
天皇陛下のはお歌は平凡かもしれません。
けど、とりあえずお二人とも今の状況がよくなるようにという祈りの歌ではあります。
皇嗣家ご一家は、自然の実りの歌であり、今のコロナ禍の状況とはちょっと違う、天上の美しい世界を描いておられるんだなと。
余談ですが、いつも不思議なのは、歌会始には瑤子様が絶対にお出ましにならないことです。つい先日の講書始にはきちんと出ておられるので、体調云々ではないのだろうと。毎年の一般参賀と歌会始はガンとして出ない。これについての情報は全くない。
皇族として今の天皇家から、かなり遠い血の方までも、「枯れ木も山のにぎわい」として出ていただかないと人数が非常に少なくなるばかりという状況を憂えています。もはや百合子様、常陸宮家のお姿も拝見することがかなわなくなりました。
コロナ禍中で総人数が少なくなっている今、全体に寂しい風景だなと思います。
(だからとって女性宮家には絶対反対ですが)
両陛下は平均点にも届きません。センス無い。
烏瓜の花がこんなに綺麗なものとは知りませんでした。昔お花を習っていたときに、烏瓜は素材として扱ったことは有りました。
素材としての、ぬばたまの黒くて艶やかな玉の色合いとか、昔の歌に読まれるものを知ったときに、これか(笑)これがそうなんだ!と感心したものです。
確かに眞子さま佳子さまの歌のセンスは上がってますね。もっともっと磨いて下さい。
俵万智的なのものは和歌ではなく短歌ですよね。
秋篠宮家の方々は、そのあたりをきちんと理解され、そのうえで国民の暮らしへの願いをさりげなく表現されていると思いました。
眞子さまの作品に関しては深読みしすぎです。
自然を表面的に歌われているのは、このご一家らしさだと思います。そのように皆様、お父様・お母様のご教育で、自然を愛でるようにお育ちになってきましたからね。
こうした日々のつましい暮らし、ご公務へお出ましになれないなか、自然のうつろいに癒されながら、国民にも、ひとときでもそうあって欲しいと願われているのだと思います。
殿下の御歌ははまさに、日嗣の御子らしく、いいえ、それ以上の風格を感じさせられました。
これこそが陛下の御歌といえましょう。
本当に天皇ご夫妻の歌には、またかいッ!と突っ込みを入れたくたくなります。比喩を使う等々指導を受けているでしょうに。ある意味ゴーストライター無しの証明ですね。
昔、「鈴懸の径」という歌が有り、素敵な歌詞でした。
華子様のお歌も愛情溢れジンとします。
皆様、上達されていくなか、アレレのお二人。来年はいよいよ愛子様のデビュー。楽しみです。
感染って…。こんな言葉を使うのは雅子さまらしいですね。
風情とか情感といったものが皆無。
物事の背景に何があるのか、など想像するのが難しいのでしょうね。
せめて、ご成婚が6月なのですから、「梅の実を見ると、1年1年が過ぎていくのだなあと思い出される」とかにすれば良かったのに。
そういえば、愛子さまのティアラの予算がつかなかった、というような内容がネットニュースにありました。
現在の状況に配慮してとかなんとか…。
清子さまのティアラを引き継がれたりするのでしょうかね。
愛子さまの成年式に関しては、変に倹約しないで、皇族としてきちんとすべきだよな、と思うのですが。
梅の実について歳時記で調べてみたら、夏(5月)の季語になっておりますが5月の梅の実は青い色に決まってますから
、うたの中で「青し」とするのは説明し過ぎかなとも。
梅の実が青いぞ!青いぞと!とよっぽど強調したかったのかしら??
青梅は梅酒の原料にしたり、砂糖で煮付けたり、梅干しにしたりするそうですので、雅子皇后はそっちのほうに心が傾いてしまわれたのかしらね~(笑)
秋篠宮ご一家の和歌はみな読む者の気持ちを明るくしてくれます。
とくに皇嗣殿下の作品は、
「咲き広ごれる」「実り」「明るみ」
と、佳き言葉ばかりで、すみずみにまで心遣いなさっていることがわかります。
あと六年たったら悠仁親王殿下の和歌も拝見できるんですね。楽しみです。
言いたくはないのですが、最初の二首は、奥行きも深みもなくぺらっぺらっ。
和歌は心で作るものなのでしょうから、普段からなーんにも思っていないのがばれっばれっです。
せめて「感染」をあたまにもってくるのをやめればいいのにと思いますが、和歌の指導者が添削しようものなら、
「皇后陛下たるわたくしの作品にいちゃもんつけるなんて、キーッ」
となるので、手がつけられないんだろうなんて妄想してしまいます。