天気がよくわかりません。晴れたり雨が降ったり。
寒いよーと思っていると、意外暖かいと感じたり。
立春を過ぎたんですものね。
さて。
昨今、皇后様のファッションについて色々考える事が多く。
個人的には「年齢にそぐわない恰好」じゃないのかなあと思ったりしてます。
アンチエイジングという考え方が浸透し、50代でも30代に見えるとか
80代でもせいぜい50代に見えるとか・・・そういう努力が必要と言われますよね。
吉永小百合なんて年齢不詳の域に達し、もはや怖いーーだし
十朱幸代も栗原小巻も岩下志麻も年齢不詳
大地真央なんて、自分の年齢を忘れてるって感じ。それは黒木瞳もそうだけど。
だけど役柄の幅を広げるには歳相応に老ける事が必要。
そんなに若く見える事が重要なのかなと思ったり。
皇后陛下は成婚以来、日本のセレブ女性のファッションリーダーでした。
それはベストドレッサーになった80年代にピークだったと思います。
あれから30年。
皇后陛下の時は止まってしまったような気がします。
それがいいか悪いかは私にわかりませんが、最近の皇后様の
ファッションを通して感じるのは「痛々しさ」です。
老人なのに老人らしく暮らせない。
それは現代の老人も同じでしょう。
やっぱり皇室は国民の鏡なのかなと思ったりして。
香淳皇后・・・1903年(明治36年)3月6日生まれ。
満7歳頃。
10歳頃。
初等科に入られた頃のドレスは舶来品ですよね。
まるでフランス人形のような感じ。
学校へは制服をお召のようで。プライベートで写真撮影時には
髪を後ろで束ねて袴。
久邇宮家は幕末に「朝敵」とされた宮家です。
しかし、伏見宮家の血筋をもっとも濃く受け継いでいるのもまた久邇宮家。
母は薩摩藩主の七女。
父は久邇宮邦彦王。
皇后・・・1934年(昭和9年)10月20日生まれ。
5歳くらい?
愛子内親王5歳。
物議をかもしだした道中着。
ちなみにこの時の雅子妃の服装は白スーツ。ローブ・モンタントでは
ありませんでした。
簡略化の一途ですね。
もうちょい大き目
この時代、昭和10年代はモボとかモガの時代でしょうか?
でも裕福じゃないとこんな素敵な服は着れませんでしたよね。
戦前は商人。
だけど、戦後は「新興貴族」のお家柄。
皇太子妃・・・1963年Z(昭和38年)12月9日生まれ
小和田三姉妹
久邇宮三姉妹
8歳頃。田園調布雙葉合格祝いの関西旅行。
こういうチェックのワンピースは普通でしたけどね。
秋篠宮妃紀子・・・1966年(昭和41年)9月11日生まれ
七五三時。
今と違って柄がシンプルですよね。
色も紫を選ぶとは。冒険したなあという感じ。
皇后陛下の七五三は・・・
右側のお写真です。
小和田雅子さんの七五三の写真はありません。
双子ちゃんのはあるようですけど・・・・・外国にいたから(という理由で?)
ないのかな。
とはいえ、これは雅子さんを責められません。
1960年代。今みたいに必ず七五三をやるとは限らなかったんです。
あの当時は今ほど季節行事とか年齢行事が大事にされてなかったというか。
まだまだ余裕のない時代だったんでしょうね。
ゆえに、着物を着てお写真撮れる(貸衣装ではなく)人はお金持ち。
だけど、小和田家は外交官の家ですからお金持ちの筈ですよね。
父は地方公務員。
七五三ちゃんとやりましたよ。
妹は三つの祝いで一緒に着物も着せてもらい、神社に参拝いたしました。
ひとりで写真館で撮影した写真と、近所に住む同い年のお友達(こちらも着物)と2人で撮ったスナップ写真もあります。周りの子供たち結構着物姿でした。
仙台は新興家庭か多かったのか、あまり
大々的にはやらなかったと思います。
今度、同級生に聞いてみますね。
故郷の神社境内で写真屋さんに撮影された緊張した顔と
その後にか父が撮影した欠伸した小さな七五三お宮参りの写真あります。
兄も一緒に5歳のお宮参りをしてます。
産まれて1か月後に初宮参りした時の産着を
七五三用に仕立て直した物です。
九州の田舎で商売人の家なので
女の子が生まれたお祝いに来られた呉服屋さんに産着をお願いしたので
その後にお祝いに来られた老舗の呉服屋さんから
「では当店は成人式のお着物を」 と
赤子の前で約束したとかw
本人が知らぬ間に前年の成人式が終わった数日後にはお誘いがあり
1年後の成人式用の着物を
祖母が着物を 母が帯を選んで長いお約束が叶い
その着物は私や妹や従姉妹達に従業員さんも着て
今は日舞をしてる娘が
結婚式やおさらえ会で着て舞ってます。
姑は一つ年上の主人の宮参りは仲人さんから出産祝いに戴いたベビードレスだけ着せたけど
分家三男には何もしてくれない と、義妹が生まれた時は和裁や洋裁を習ってたのもあり
産後の身体でお宮参りの着物を縫ったそうです。
三姉妹の着崩したお着物姿を見る度感じる事は
呉服屋さんとのお付き合いがない家柄かな?
これは子の成長を氏神様に報告して、感謝して御加護を戴く行事ですよね。本来は。
owd家には、その気持ちはないのが良く判ります。
私は七五三は大変に豪華にしてもらいました。物資の出回らない時期に当ってしまった姉は、随分と羨ましがっておりました。周囲が繁華街=商人が多い・・事もあってか、実家の周りでは七五三は競うように立派にしている家が多かったように思います。
ところで、m子の旅行中の写真ですが、私は見るに耐えません。車窓や座席に色々なものが集まっていますし、何よりもm子の左手指の形が不気味です。I子さんも、よくコンナ風に指を絡ませていますよね。
もし、わざとやっているのなら、お尻ペンペンものですし、そうでないのなら・・・ガクブルですわ。
しっかり七五三やってましたよ。
立派な写真が沢山残ってます。
普通の地方公務員の家です。
姉妹平等に七五三をやるか
もしくは長女という事で、姉の方が派手にやるのが普通の
家庭じゃないでしょうか
若造りの方って、御自分が一番イケテル時のマンマの化粧とか服装をなさってしまうんですよね。それはイタイと感じます。
イタくならないためには、自分の現在と第三者の目で見るくらいの冷徹さが必要だと思うのです。
m子にはそんな物ないな。自分を見てるんじゃなくて、自分が見た(雑誌に載ったセレブとかの)一番上と思うのを真似しているだけですよね。結果、悲惨な事に。
美智子様は、デザイン画そのままじゃなきゃいけないってな思い込みが見えます。もしかして、入内前はファッション音痴だったのかも。
いつも、再コメントしてすみません。
香淳皇后さまのやんごとないお姿、静かな美しさを湛えた品格を感じられます。
昭和天皇のダンディであられること、そして品格を備え・・・お二人とも別格でしたね。
紀子様の7歳の晴れ着は、おはしょりが長く肩上げが深いので、本裁ち四つ身に仕立てられているように思います。
私も、昭和20年代ですが祝ってもらいました。
母方の実家が用意してくれるのが習わしで、当時は染物屋さんで染めて誂えたものです。
当時は、上着・下着・長襦袢と3枚着用しました。
上着は、本裁ち四つ身に仕立てられ、十三詣りの時に仕立て直して、虚空蔵へのお参りに使用しました。
下着はお正月などに着用しましたが、上着は、成人してから母が小紋柄に染め直してくれ、お茶席などに着用しましたが、今でも大事にとってあります。
緋の長襦袢は、染物屋さんに相談しましたら、まだ使えると云われ、洗い張りに出して
孫娘の3歳の祝い着の、長襦袢に仕立て直してもらいました。
簪も、つまみ細工の鶴と桜の花をあしらった重厚なもので、60年以上過ぎた今も大事に飾っています。
今日は、久々にアルバムを出して見入り、思い出に耽りました。
戦後の物もなかった時代に、よくこれだけの品物を揃え祝ってくれた、母方の祖父母に想いを馳せた日でした。
苦悶しているような、あるいは威嚇しているような「顔」が少なくとも二つ・・・目に飛び込んできたっ!
私の見間違いかな!?
私は零感だしオカルト系も苦手なのでちょっとショックで書きこんでおります。
「手」もたしかに変だと思います。
雅子さんって何者?
まだ8歳の少女にこのようなお憑物、いったいどんな因果を背負って生まれてきたのでしょう。両親は育てていて何も感ずるところはなかったのでしょうか?
謎です。
しかし闇の存在がいるということは光の存在もたしかにあるということ。私は光を信じたいと思います。
もう、あの写真はすっ飛ばします(汗)
1950年代前半でも七五三やりましたよ。
日本人ならね。貧乏でもやりくりして親は日本の伝統を守っていましたよ。
安易に時代のせいにしないでくださいね。
けれど、小学校に入学したら、七五三を経験していない同級生、いっぱいいましたよ。
自分の家に、お風呂も台所もない6畳一間で6人生活とか、当時は不思議ではありませんでしたから。七五三、どころではなかったと思います。
1960年代の東京二十三区の話です。
思うんですが、ここに集っておられる皆様、皇室に関心のある皆様。
もし、昭和30年代(あるいはそれ以前)に七五三なら、平均以上のお育ちをなさったのではないでしょうか?
昭和30年代はまだまだ貧しい時代でした。
幼稚園に通った経験のない同級生もクラスの3分の1おり、当たり前の世界でした。写真機を持っていない家庭も結構ありましたよ。
ただ、小和田さんちの場合は、これは貧富関係なく、意識の問題かと思います。