1991月14日 憲政記念館にて「海外日系人大会」に出席
1992年5月27日 全国赤十字大会
1992年3月11日付けで紀子妃は名誉副総裁に。本来は結婚後すぐにそうなるべきを皇后が「大ベテランに配慮」して遅らせた。皇后の心情は推し量れませんが紀子妃に大変厳しい目を向けていたことは事実。のちに雅子妃を甘やかすのとは正反対。
1992年5月31日 新潟県・「全国花いっぱい長岡大会」
1992年6月12日 葉山御用邸に
1992年7月9日ー12日 富山県訪問。五箇山合掌集落視察
7月10日「第一回ジャパンエキスポ富山92」開会式典
7月11日 「いこいの村富山」視察
女性自身1992年7月28日号
「紀子さまもしやの第2子ご懐妊?眞子ちゃまのときとそっくり」
1992年7月17日 明治神宮参拝
日刊スポーツ1992年7月19日
「紀子さま観劇に感激 オペラ座の怪人主役ストレイカー」
1992年7月19日 宮城県・養護学校訪問
1992年7月28日 江戸川区球場少年軟式野球世界大会にて台覧試合。グローブをはめ、客席からボールを投げる紀子妃。
1992年7月31日 香川県・全日本高等学校馬術大会
殿下は独身時代の紀子様から贈られた金のブレスレットにナマズの婚約指輪と結婚指輪姿
1992年9月 宮崎県訪問
1992年8月 京都訪問
1992年8月7日 軽井沢静養
この頃は、紀子さまも若くお美しい盛り、お召し物もいかにもロイヤルファッションで、上品で華やかで。こうやって拝見すると、紀子さまは本当に、何色でもお似合いになりましたね。
今は、特に国内ではデザインも色目も抑えた地味ファッションですし。内親王お二人も飾り甲斐のある方たちですのに、「出過ぎないように」をモットーにしていらっしゃるよう。
センスの悪い、見た目も悪い、意地も悪いご親戚(の方々)に気を兼ねていらっしゃるのですね。
浴衣のショットがありますが、これはお皿様に小言を言われたでしょうね。そんな姑世代です。
確実に公務のあり方が変わります。国民が不安に感じる時期に控えるだけの皇室には、いささか疑問を感じています。
正念場でしょうか。
そして紀子さまを囲む人たちの笑顔がまた素敵ですね。
紀子さまの上品で明るいオーラが周りに波及して幸せを振りまいておられるのがよく分かります。
美智子さん、雅子さんの同じ状況の写真では周りの方が辛辣な表情をされているのが結構多いですよね。ご本人達はニタニタと笑顔なんですが。
メディアがいくらアゲアゲに話を盛っても人間そうバカじゃありません。分かる人には分かります。例えそこまでの認識が無くても「笑いたい」気持ちにならない負のオーラが漂っているのだろうな、と思ったりしました。
あちこちに、いこいの村もあったようです。たばこ会館とかも。
昼のいこいのテーマミュージックも聴こえてくるようです。
旧き良き日本で、登り盛りで、ピークはまだ見えずに老大国に同情的でしたが、
アメリカのプアホワイトという言葉で初めて聞いた時は、
暗い気持ちになったのを、思い出しました。思えば、明日は我が身だったんですね。
今日のラジオで、ロシアで百歳の誕生日にコロナで入院していたおばあちゃんが、全快して退院のニュースは良かった。初期に入院できたのが良かったと言っていました。
日本赤十字の名誉副総裁のトップは当時の皇太子殿下、次は常陸宮殿下、華子様の順でした。
お妃が単独で名誉副総裁に就任するのは異例の事で、紀子様は皇太子殿下の次席、常陸宮殿下の上席となったのです。
だから、ワンクッション置いたのではないですか。
戦後、男性皇族が日赤の名誉職に就く事が慣例化しました。
皇太子が日赤の名誉副総裁トップに、他の男性皇族は結婚宮家創設を機に夫婦で就任。
皇后の名誉総裁就任も戦後始まった事です。
女性皇族はあくまで要職に就く夫を妻として支えるという「従」の立場であって、夫の代理を務める為の名誉副総裁でした。
医療の中でも看護は女性社会です。
女性が管理職になる唯一の職業ですから、そこに男性皇族が関わるのは一般でも違和感がありましたね。
現在も常陸宮殿下は副総裁ですが、副総裁のトップは紀子様。
紀子様は上皇陛下や天皇陛下の皇太子時代の役に就き、皇太子時代にされていた公務、献血大会を引き継いだ。
なぜ、秋篠宮殿下ではなく紀子様なんでしょうね。