伝統ある英国の10吋ユニットで、いい音で音楽を聴きたい・・・・・

音楽好きの、古いオーディオ機器10吋TANNOYを改良して聴くダメオヤジの金ちゃんです。

甲斐の国、古府(甲府)の武田信玄公を訪れる・・・Part 2

2023年11月05日 | 旅行

昨夜の仕事は夜中までの作業で、帰り次第ホテルの朝まで入浴可能な大きな風呂に一人独占して浸かRU、風呂上がりのビールを頂くと、適度な疲れと共に睡魔が訪れそのまま熟睡する。何時もモジャ君との早朝散歩の日課が抜けず気がつくと6時30分には一旦間が覚め、其の儘睡魔が・・・・すると突然ドアノック? 10時のチェックアウトの時間です。慌てて身支度してホテルを後にする。

朝食を途中の喫茶店で軽く済ませ、トイレで顔を洗いゆっくり珈琲を頂く、本日の予定は仕事は夕方からなので、先ずは武田神社、信玄公正室の菩提寺を訪れ、武田信玄公墓所を訪れ様と思っている。
ランチは甲斐名物「ほうとう」でも頂くつもりである。そんな事を思いながら宿泊地甲府昭和から武田神社までドライブである、場所は甲府駅北口の裏側の場所であり武田通りを北方面に向かうと山梨大学があり通過ししばらく直進すれば武田神社到着である。



一般的には、武田信玄ゆかりの地として、勝運だけでなく、金運や延命長寿にもご利益がある武田神社。と言われる様であるが武田神社は信玄公の父君信虎公が永正16年(1519年)に石和より移した躑躅ヶ崎館跡に鎮座致しております。



武田神社は信玄公の父君信虎公が永正16年(1519年)に石和より移した(躑躅ヶ崎館)跡に鎮座致してお理、この館には信虎・信玄・勝頼の三代が60年余りにわたって居住し、昭和13年には国の史跡として指定されました。

館跡には当時からの堀、石垣、古井戸等が残り、信玄公を始め一族の遺香を現在まで伝えると共に、神社創建の折、県内各所より寄進を受けた数百種類の樹木が四季折々の風景を見せます。


神社跡の周りには堀があり正しく信玄屋敷として機能していたのであろう・・・階段を進むと中庭にたどり着く。しばし歩けば拝殿があらわる。


次には「手水舎」がりますが、一般的に神社本庁は「てみずや」、大國魂神社は「てみずしゃ」と呼びますし、「ちょうずや」「ちょうずしゃ」と呼ぶところもあります。筆者は「ちょうずや」と言っているが・・・皆はなんと言っているのか・・・?



拝殿は現在「七五三詣で」客での賑わいを見せていた。可愛いお子さんお衣装は艶やかであった。



次には我が国の国歌の中に出てくるワンフレーズ、「さざれ石」が武田神社創建100年を記念して奉納されたそうである。
実はこの「さざれ石」は山梨県産のものではなく、岐阜県揖斐川町(いびがわ)産だそうです。


「さざれ石」はもともと細かい石のことですが、長い年月をかけて大きな塊となった石灰質角礫岩(せっかいしつかくれきがん)のことをいいます。武田神社に奉納されたのも創建100年を記念してのものですし、長寿を象徴するものとしてとても縁起がいいものなんですね。何となく亀の形に見えませんか?国歌「君が代」も意味を調べれば大変縁起の良い歌で、伴奏も宮中で演奏される雅楽花の節回しもいかにも日本古来の歌の様な気もしますね!


武田信玄の娘に「松姫」がいます。純愛の姫として人気の高い姫ですが、生まれた際にこちらの井戸で産湯がとられ「姫の井戸」名付けられたそうです。
この「姫の井戸」ですが、もともと、武田家の生活の中心となっていたこの場所となっていたため、茶をたてる際ににも使用されたそうです。
筆者も「姫の井戸」の水を口にして見ましたが無味無臭の自然の湧き水でした。

次に宝物殿に入館しました。この館内は撮影禁止のためカタログ添付します。



武田神社御宝物の白眉は三條家より寄進された「吉岡一文字」の太刀であり、国の重要文化財に指定されております。


上記は当時の全景の模型だそうです。相当広大な屋敷跡と伺えます。
宝物源入り口には信玄像が飾られていた。


そして次は、空堀後も見つける。相当樹木も大きくなって見分けがつかないが確かに空堀跡が残る、屋敷と言うよりお城なのである。


外回りは堀が囲ってある、池には大きな鯉が泳いでいた。



そして半周回って神社入り口より正面を参拝する。

今年のNHK大河「どうする家康」の家康役松本潤の視聴率11.9%とワースト2位と言われるが、なかでも信玄役の阿部寛は迫力十分で家康の先生の様な立場を取っていたのが印象的、今までの家康のドラマでは一番事実に近い描き方でもあろうと思えた。あとはムロツヨシの秀吉は実に「らしい」演技が光った事と茶々の若干の品の無さが目だったのが印象的であった。


所要時間は1時間程で終わる、お土産に天然石の値付けを購入、もちろん家族分も・・・!



武田家は由緒正しい家柄でもあり河内源氏の一門源義光を始祖とする甲斐源氏であり正室も選ばれしき女性を娶った様でありポット出の武将では無いのである。多分信長、家康如きと格が違うと思っていたのであろう・・・

信玄公の正室三条夫人の眠る円光院
瑞巌山円光院(臨済宗妙心寺派)は甲府市の北東に位置し、春花秋月の美しさと展望に恵まれた躑躅ヶ崎(つつじがさき)の東にあります。当山を創建した武田信玄公は、山囲むこの自然環境そのものをもって自らの境涯を示しました。


階段を登り円光院がある。


三条夫人は、大永元年(1521)に公家・三条左大臣公頼の次女として、京都三条邸に生まれました。母は高顕院、姉は細川晴元夫人、妹は本願寺(一向宗)光佐(顕如)上人の裏方(如春尼)だそうです。
天文5年(1536)7月、16歳で駿河の今川義元の媒酌で武田晴信(信玄)公の正室となりました。信玄公との間に長男義信・次男竜芳・三男信之・長女黄梅院(北条氏政夫人)・次女見性院(穴山梅雪夫人)を生みました。


墓地から戻り高台にある所より甲府盆地を望む、11月とはいえどまるで夏日であり、徘徊するのは半袖が心地良い。確かに今年は暑い年である。後一ヶ月でクリスマス、年末となり新しい年も間近である。


少しの休息と水分補給をし、景色を単横する。やはり甲斐は信玄公色が今も強い、どこに行くも信玄公オンリーなのである。信長、家康が恐れた、流石甲斐の虎なのである。

続いて意外と近くに「武田信玄公墓所」があり車で3分程で到着する、近くに県の施設の駐車場があり大変便利である。



少しチープに感じる墓所がある、説明では天正元年(1573)4月12日、信玄公は信州伊那の駒場の陣中にて、53歳で逝去されました。死は3年間秘密にされましたが、埋葬されたのが、当院にほど近い土屋右衛門の邸でした。この場所は後の安永8年、代官中井清太夫によって発掘され、今に残る「法性院大僧正機山信玄之墓」の墓石が建立されました。


信玄公の墓は九箇所あると言われるが、基本的は恵林寺にある様です。


武田氏は、武家・士族だった日本の氏族。清和源氏の一流・河内源氏の一門源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家であり、平安時代末から戦国時代にかけて栄えた。鎌倉幕府の有力御家人、室町幕府の守護大名を経て、戦国時代には戦国大名化し、武田晴信の代に中部地方に大きく領土を広げたが、勝頼の代の1582年に織田信長により滅ぼされた。


後は甲府駅近くにある、舞鶴城、武田氏滅亡後、豊臣秀吉の命により築城されました。関東の徳川家康に対抗するための重要な戦略拠点として築かれたといわれ、徳川体制になってからは西側への備えとしての重要性を保ち続けたといわれています。


二日目の甲斐国の観光も終わる、今日も夕方から作業なのでランチを頂き、昨日入浴をした桜湯でスッキリし休憩室で休息し現地に向かう。



富士のお山も今日が最終日で夕日が綺麗でした、夜中に仕事は終わり高速で帰宅するが、本日より三連休ですので高速の下り線は意外と車量が多い、帰宅途中の高井戸過ぎれば交通量が意外と多い、運転時間は途中休憩も含め2時間30分程にて無事帰宅しました。
11月なのにまるで初夏の匂いが感じがする気候、勿論半袖姿であり、天気も穏やかで甲斐の観光も意外と楽しい旅でありました。ブラボー!

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