伝統ある英国の10吋ユニットで、いい音で音楽を聴きたい・・・・・

音楽好きの、古いオーディオ機器10吋TANNOYを改良して聴くダメオヤジの金ちゃんです。

学生時代に学んだ歴史と全く変わった日本の古代史、今蘇る日本の縄文文明を纏めてみた、Part I

2024年05月29日 | 歴史の考察

45億年前に誕生した地球の歴史は、昔興味本位で観た1968年に上映された今から65年前映画「2001年宇宙の旅」のアーサー・C・クラーク(Sir Arthur Charles Clarke)の映画を思い出す。テーマ曲も衝撃的なニーチェが説いた"超人"の思想を寓話的に描いた哲学書の「ツァラトゥストラかく語りき」は衝撃的であり今も映像と共に記憶に残る曲でもある、又アーサー・C・クラークはイギリス出身のSF作家。20世紀を代表するSF作家の一人であり、科学解説者としても知られている筆者も若い頃「人間に未来はあるか」も読んだが中々興味ある内容と記憶する。

最近ホモ・サピエンス全史なる上、下巻の本が発売されてますが、これが実に驚きの連続であり興味のある方はご覧ください。面白い内容は何故肉食動物は食後ダラダラする時間が必要であるのかの秘密であり、人類誕生の250万年前は猿人も動物同様であり200万年程は他の動物同樣にその生活を続けるのであるが、勿論ヒト族も火を使うまでは肉食動物同様随分長い間、一日中ダラダラした暮らしていたそうである。食物を火によって焼いたり、煮炊きする様になり腸が長さが極端に短くなり消化が劇的に早くなル、又行動時間が著しく増したのである。

それと此のホモサピエンス族だけは認知革命(嘘を信じる)を起こして又他のヒト族違い匂いには敏感な種族で多くのヒト族を滅ぼしホモサピエンス族は残り僅か我々の中にはネアンデルタール人およびデニソワ人由来のDNAが残り当初は交配もしていた事が証明される。特にネアンデルタール人は脳の大きさ、腕力は勝りホモサピエンスが不利であったが「認知革命」により圧倒的に団結力が優った。認知革命は、認知科学と呼ばれる諸学問を生み出した、1950年代に始まった知的運動の総称。 学際的な連携と研究が大規模に進行する現代的文脈の中で始まった動きである。
本編は認知革命の説明をしているが、簡単に説明すると「嘘」が言える様になった事と解いている例えば現在の宗教、国家、お金(紙幣)は絶対的な価値は無く、皆で決めた価値観なのである。一番興味深い事は現在は紙を印刷し、此れをお金の代用品としているが、これは実際は確かに紙であり紙の価値しかない物を虚構と言う噂により流通させたのがヒト族「嘘」の恐ろしい所でもある。正に噂を信じて団結させた社会こそがサピエンス族の頂点になれた認知革命の話でもある。因みにネアンデルタール人は1万2千年前に絶滅しているそうです。



2001年宇宙の旅本編では、太古の昔1匹のヒトザルは、謎の石をきっかけに武器を使うことを覚え、生物の頂点に君臨する。時は過ぎ、人類が宇宙を旅する時代。米国のある博士は謎の石の調査のため月へ赴く。やがて調査が進む中、石は木星に向けて移動し木星から信号を発する。
勿論此のストーリーはミステリーに富んだ人間の歴史の物語でもあった、しかし我々がホモサピエンスと想像すれば出土したのはアフリカであるがヒトザルが樹木から地上に降りた時代には緑豊で食物の豊富であったのであろう・・・当然当時のアフリカは砂漠ではなく森林が広がる世界であったであろう、食物が豊富にあることは生きる為には最低条件でもある。
ヒトザル達は現在の欧州に行くもの、エジプト方面に行くもの、インドを目指すものと色々他方に暮らし易い所に向かった。
ヒトザル達は先ずは火を使う事を覚え、食料、語源、信仰と追求であろう、ヒトザルからホモサピエンスが永遠と感じたものは信仰心の永遠の太陽であったのであろう・・・アフリカで新しい生命となったホモサピエンスは太陽の昇方角に超生命体を感じたホモサピエンスが東を目指したのであろう。

勿論仮説であるが、これがホモ・サピエンス族は認知革命を信じた者たちが極東を目指したその道中に色々な種族と交わり極東にたどり着けやがて定住し縄文時代の幕開けなのであろう、当然或程度の航海技術を持っていないと台湾付近の黒潮の強い流れを克服できないからである。



これは欧州全体から地図を見れば日出るくには日の元であろう。その先は太平洋の海が広がる島であった。日本のルーツを歴史書等を紐解き幾ら読んでも答えは出ないのである。それでは筆者が考える倭人のルーツを推理しある程度納得できる様纏めてみる事にした。
勿論市の図書館にも通い、色々な本を見ながら参考記事の収集、インターネットによる検索、此処2〜3年に行った博物館、青森の三内丸山遺跡等を参考にした、何か学生に戻った様に感じた、A4のコピー用紙をメモ用紙に参考文献等は記載する、後日その記事を見ながらキーボードに打ち込み記事内容を書き込みした。計画とは意外と時間が必要であり久し振り漢字を書く行為は可成り下手な文字になっていた(笑)
下の写真がメモ用紙である、何と学生時代の比べ文字の大きさも大きく年代を考えるは算盤が有利である。



日本人もアフリカから来たのであろうか?或いはジャワ原人の様に何処かのアジア諸国から来たのかは最新のテクノロジーDNA解析で判明するがかなり特色は違えどアフリカ方面から混血種と変貌し現在の日本人となったと言われるルーツが一番正しい様である。

理化学研究所資料提供でゲノム解析資料も掲載(日本人集団の遺伝的構造、ネアンデルタール人およびデニソワ人由来のDNAと病気の関連性、そしてゲノムの自然選択が影響を及ぼしている領域を複数発見しました。日本人の祖先に関わる三つの源流(縄文系祖先、関西系祖先、東北系祖先)の起源を明らかにしました。また、現生人類(ホモ・サピエンス)の最も近縁とされる古代型人類ネアンデルタール人やデニソワ人から受け継いだ遺伝子領域を特定しました。一部の日本人が持つNKX6-1遺伝子領域は、2型糖尿病リスクと関連しており、この領域がデニソワ人由来であることが明らかになりました。さらに、日本人の遺伝子における自然選択が作用している領域も同定しました。)
以上の様な解析書があり日本の土壌は弱アルカリ性の為人骨はほとんど溶けて無くなっているが、偶に貝塚に埋められた人骨が発見される程度である。日本の縄文文化は1万4,000年続く歴史と現在日本国地には14,000件以上の古墳は見つかっており数も世界各国と比べ異常な程多いと言われる。長く続いた縄文の歴史を数枚の容姿に表すことは所詮無理な話であるが、興味本位にまとめて見た。



不思議なことに日本全国の遺跡は圧倒的に関東以北が多く、一般的に考えれば暖かな南が暮らしやすいと思うが、当時怒った大被害があった、その後、1,000年近くは無人の地となったようです。

縄文時代の中の最大の事件である、南九州での遺跡は上野原遺跡から判明する鬼界アカホヤ火山爆発の事実。「鬼界カルデラ」は、北西∼南東の長さが約25㎞、北東∼ 南西が約15㎞の楕円形をしていて、複数の巨大噴火によって形成された、いくつかの カルデラが複合してできたものと考えられています。

鹿児島県霧島市の高台にある縄文時代から弥生時代を中心とした複合遺跡。 特に,北側(第4工区)では,約10,600年前(縄文時代早期前葉)の竪穴住居跡などが発見され,「国内最古,最大級の定住化した集落跡」であることがわかりました。



発掘調査では17層の土層について調査され、1層目から9層目までの範囲で遺跡が確認された。 
 1層目: 桜島の火山灰を含む現代の農耕土。土師器や陶磁器が確認された。 
 2層目: 黒色土。山之口式土器、中溝式土器、竪穴建物跡6棟が確認され、近世から中世にかけての遺跡とされる。 
 3層目: 暗茶褐色土。掘立柱建物1棟、石皿、石斧などが確認され、古墳時代から弥生時代にかけての遺跡とされる。 
 4層目: 桜島の火山灰を含む薄えび茶褐色土。多数の土坑、黒川式土器が確認され、縄文時代晩期の遺跡とされる。 
 5層目: 桜島の火山灰を含むえび茶褐色土、および鬼界アカホヤ火山灰を含む明橙色土。 
 6層目: 桜島の火山灰を含む灰茶褐色土。 
 7層目: 黒褐色土。様々な種類の縄文土器に加えて集石遺構56基、土坑3基が確認され、縄文時代早期中葉から前葉の遺跡とされる。 
 8層目: 桜島の火山灰を含む黒色土。前平式土器、撚糸文土器が確認された。 
 9層目: 暗茶褐色土。竪穴建物跡、集石遺構、連穴土土坑、前平式土器などが確認された。この層と直下の10層目との間に縄文時代早期前葉の遺構が挟まる形になっている。
この遺跡の鬼界アカホヤ火山灰前の遺跡から底の部分が平らな土器が発掘されかなり進歩した縄文期の土器と同じであり火山爆発以前の南九州での文化は相当進歩していた、ヒエ、アワ等穀物の苗もあったと思われる。



当時縄文人は土器を使っていたが土器を直接火に掛け「煮炊き」をした訳である当然器の土器も窯の様なもので焼いていたのであろう、要するに徐々に「火」を制するのであり高音な温度を操作する様に進化し、銅、鉄は熱により溶ける(溶解)を体得し後に高音の火の作り方を体得し弥生時代には銅鐸、農機具などを磨製石器から金属製(青銅〜鉄)に変換して言ったと考えられそうである。

此処で明らかに理解できることは鬼界アカホヤ火山爆発以前から縄文人達が暮らしていた事である。日本人の祖先三つの源流である。
意外に此処での疑問は鬼界アカホヤ火山噴火は、縄文時代 の7,300年前、鹿児島南方にある 硫黄島・竹島付近で起こった巨大海底 火山噴火です。縄文時代早期の終わりに起こった鬼界カルデラ(大隅海峡にあるカルデラ)の大噴火によって壊滅的な噴煙被害を受け、前期以降は、ほぼ住民がいなくなった地域です。



日本で最後に巨大カルデラ噴火の悲劇が起こったのは、今から7300年前、縄文時代に遡る。縄文時代早期の日本列島では、南九州で成熟した縄文文化が発達していたという。本州ではまだ先の尖った尖底土器を使っていたのに、南九州では既に平底型の土器が使われていたのだ。 尖底土器は、屋外で地面に穴をあけてそこに立てるように置いて使われていたものらしい。 一方、平底土器は住居の中での調理や貯蔵にも使うことができた。すなわち、平底土器の出現は、縄文人のライフスタイルが定住型に変化した証拠だと言われている。

此処で話は前後するが地球が誕生してから46億年の歴史をさらに長い目で見ると、地球は約10万年ごとに暖かくなったり(間氷期)寒くなったり(氷期)を繰り返してきたことが分かっています。その度に地球の海の高さは100メートル以上も変動してきたのです。その様子は、まるで呼吸をするたびに胸が上下するかのようです。
ちょっと信じられないかもしれませんが、現在の地球は、約3500万年前に始まった比かく的気温が低い氷河期のまっただ中にあります。 氷河期はさらに、とても寒い時代の氷期(ひょうき)と少し暖かくなる間氷期(かんぴょうき)にわけられ、現在は間氷期にあたるそうです。

縄文時代が始まる前の、旧石器時代は、とても寒い気候の様でした。 氷河期といって、いちばん寒いときは、年間の平均気温が今より7〜8度も低かったとされています。 氷が地球をおおい、海面の高さは、今より100メートル近く下にありました。 地球の気温がだんだん上がり始めたころ、縄文(じょうもん)時代が始まりました。
例えば人類が産業活動を始める前、約7000年前の縄文時代も温暖でした。 この頃は今よりも2〜3℃気温が高く、海の高さは今よりも3〜5メートルほど高かったと考えられています。



上記はその当時の地図であり縄文の海は、広かった!次の温暖な時期が来れば当然の如し地図で示す様に埼玉の久喜等は昔で言えば奥江戸湾の海の中である。

そのようなことを知ると、当時は"日本が温暖であった「縄文海進」の時代には、 極域に存在する氷床が約7000年前ころに融解したために海面が上昇し、 その後寒冷化すると再び氷床が拡大して海面が低下した"と考えられがちですが、「縄文海進」の原因として、 この考え方は正しいとは言えません。「縄文海進」の正しい原因を考えるヒントは、 かつて北アメリカ大陸やヨーロッパ大陸に存在した氷床が残した地形と世界中の海岸の地形の分布に隠されています。
 最終氷期と呼ばれる今から約10,000年以上前の時代には、 北アメリカ大陸やヨーロッパ大陸の北部には現在の南極氷床の規模にも匹敵する厚さ数千メートルにも達する巨大な氷床が存在していました。 これらの氷床は、約19000年前に最大に達し、それ以降急激に融解し、約7,000年前までには、ほぼ完全に融けきってしまったことが、 氷河の後退過程で削剥・運搬されて残された地形や堆積物の研究からわかっています。 ところが、約7000年前以降に、海面を数メートルも低下させるような氷床の再拡大を示す地形の証拠は確認されていません。

「縄文海進」とは、約7,000年前ころ(縄文時代に含まれる)に、現在に比べて海面が2~3メートル高くなり、 日本列島の各地で海水が陸地奥深くへ浸入した現象をさします。 この時代には日本列島の各地に複雑な入り江をもつ海岸線が作られました。その後海面は現在の高さまで低下し、 かつての入り江は堆積物で埋積されて、現在水田などに利用されている比較的広く低平な沖積平野を作りました。 この海進の現象は日本では東京の有楽町で最初に調べられたこともあり、地質学的には「有楽町海進」、 あるいは「完新世海進」とか「後氷期海進」などと呼ばれています。花粉化石や貝化石の研究に基づくと、 「縄文海進」の時期の日本列島は、今よりも数℃以上気温、水温が温暖な時期であったことも推定されています。



縄文海進当時の流通経路を考えてもわかるように、最初誰が発見したのか分からないが、黒曜石採取に神津島まで航海しそこから日本全国に届ける事ができた様で、全ての日本遺跡より出土されている黒曜石の流通は一番遠くはロシアまで運ばれている事と、ある程度の定期航路は運行したと考えられる、後は貝殻の腕輪、飾り物の瑪瑙等貴重品を運搬したとも考えられる。縄文海進時代の後悔は環フィリピン海経済圏も含め暮らす海洋人も暮らしていた様にも思う。

此処で一つの仮説を立てる、船に用いたものは当初は「葦船」から底の深い「丸木船」に布を帆に加え帆船の如く自由にしかも相当な広範囲に海を航海してのではないであろうか?実験にて当時の磨製石器を使い直径100サンチ長さ8M程の丸木船の製作は仕上がり後に内面を火によって焦がしその後黒曜石で表面を仕上げ水漏れも防ぐことが出来たそうである、製作には一番肝心な事は寸法の基本であるが当時の成人男性の戸を広げた(例えが1ヒロ160センチ)と仮定する等工夫を凝らしてのであろう、後期は成人男性20名で2か月程製作日数が必要で生活を考えれば男性20名女性20名子供60名合計100名の集団が必要で公開の為のメンテナンス等自作の丸木船の計画等に他には丸木船航海士も必要で総勢150人程の集落は必要である。丸木舟に関しては以前の筆者のブログで

この様にして徐々に縄文人達は航海範囲を広げていったのであろう、これは一つのプロ集団を作らなければ上手くいかないのであろう。これは日本が海に囲われた国であり海上航海がある程度の荷物運搬にも適した方法であった。時は江戸時代も水路を利用した海上運搬である、勿論現在も輸送は大型コンテナ船で貿易を行い縄文時代も基本は変わらない様である。
この様に日本の縄文遺跡の発見は世界的に見ても確かに異常であり、お隣韓国では50箇所以下であり、日本は一万箇所以上が認められている以上再度調べ直し研究は怠らない様に努めなければならない。



此のような航海技術が豊富で経験も豊かな縄文人は鬼界アカホヤ火山爆発で南九州は住めなくなり避難先に朝鮮南端、長江下流域に避難したのではないであろうか?その頃朝鮮半島には人間は住んでいなく避難場所とは住み良い場所だったのかもしれない。又支那の長江下流域にも住みやすい場所で会ったと思う。そして船に積んだ穀物を植え生活基盤を作ったと考えれば合点がゆくのだ。

他にも南九州では耳栓やツボ型土器などのモダンな道具が使われていた。何故長江と呼ばれるのであろうか此れは海からこの川を見れば大きな長い入江と見え「長江」と呼ばれるのが一番納得できるのだ。 長江流域に住む縄文人と黄河文明を起こした人種が違い度々闘争が起き武器に青銅が使われ不利になるところが、この南九州で、ある時を境に「先祖返り」が起きたのである。実に辻褄が追うのである。
支那と朝鮮に避難した縄文人が帰化し弥生文明と混じり合うではあるまいか?その後の推理はまとめ次第報告させていただきます・・・ブラボー!


筆者の思う心地よい音とは?いや「良い音とは」をJ.S.バッハのオルガン曲で考察した。

2024年05月23日 | J.S.バッハ関係

最近自宅の塀に蔓薔薇が咲いているが、略2日毎に2〜30の花が咲き満開時に花を摘んでいる、幸いに此の蔓薔薇は良い香りがするため、摘んだ薔薇の花を冷蔵庫で保管し2日毎にネットの小袋に入れ風呂の浴槽に入れて香りを楽しんでいる。
効能はバラ風呂の効能 バラはお肌の活性化や、新陳代謝を良くして冷え性を防止する効果、卵胞ホルモンの分泌を促す効果など、妻にとってはうれしい美容効果が一杯の恩恵もある。 
さらにバラの成分は緊張緩和、抗不安、精神安定にも効果があると言われています。特に翌日の早朝お湯を温めての入浴は香りを良く最高の癒しでもある。凡そ2日に1度の割合程で蔓薔薇入りのバスタイムが楽しめる予定であり、蔓薔薇の花の余りが出る時にはご近所にもお使いになって頂いております。



筆者などは愛犬モジャ君との早朝散歩から帰り蔓薔薇の風呂の入浴が楽しみでもあり、薔薇の花の最盛期は過ぎ後楽しみは1〜2回であろう・・・

先日筆者のオーディオ機材を補修を無事行い音質も更に落ち着いた様に思い、一般的に自宅で普段オーディオ機器で聴くに、忠実度、明瞭度、音の大きさ、の3つが関わります。これらの音質の基本尺度がひとつでも適切でないと、いい音を目指して苦労して揃えた機器のポテンシャルを活かした音楽を聴く(楽しむ)事はできません。

小型スピーカーは当初1950年発売された、注目されたのは英国製のROGERS LS3/5Aモニタースピーカーであろうしかも未だ現役で販売されている最終的要素の強い立派なシステムであろう。
しかし最新の音質の優れたスピーカーは小型の例えばパラダイム(Paradigm)の新製品等の人気があるようだ、確かにサウンドは色付けが無く自然で明瞭のコピーのように実に良い音と頷ける、確かに部屋に大型なスピーカーはスペースの無駄でもあり圧迫感があり最近の傾向か変形小型のスピーカーは快適だと思う、しかし価格は貧困生活の筆者には対応は無理でもある為当分は現状維持である。



昔筆者はオルガン曲はJ.S.バッハ:トッカータとフーガ ニ短調 BWV 565以外は知らなかったが昔と比べ最近はオルガン曲を良く聴く様になった、特にバッハのオルガン曲の豊富な曲には驚かされる、演奏は音域も大変広く再生は大変険しいと思っている、また演奏者も多く筆者好みの演奏は少ない様に思うが多分知らないだけなのであろう。そこで次の事を案が得ながら試聴してみようと思った。

忠実度:原音になるべく忠実でしょうか?これは、聴く人の耳に届く音の周波数特性で決まります。十分な周波数レンジとフラットレスポンスが必要です。それはオーディオシステム全体に依存します。1 つの機材に制限があると、システム全体の忠実度が制限されます。全体的バランスは大切です。

明瞭度:なるべく聴き取りやすい音でしょうか?これは、聞く人の耳における全体的なS/N比と直接音に対する反射音の割合に関係します。聞く人が「一定して音」を理解するためには、聞く人の反射音レベルよりも少なくとも 若干大きくなければなりません。また条件は違うが、部屋が(ライブ・デット)によっても直接音対反射音比が重要になります。バランスの大切さは重要です。

音の大きさ:これは一番重要な事で音楽のジャンルによっても音量の違いで、心地よい音は其々違いますが、筆者の場合は程よい大きさのバリュームが一番心地よいとも感じます、但し単一楽器(ソロ)での演奏は若干と言ってもボリュームを若干大きくしての鑑賞が多いようです。
良い音とは何か、これは永遠のテーマかもしれません。ぜひ皆さんが感じる”良い音”を、ご自身の耳で試し、確認してみてください!

一般的に“いい音” を追求するには、膨大なお金をかけなければならない。 この命題は、ある意味において “真” です。しかし、大変大切な事は筆者自身引退し貧困生活を余儀なく条件は良いとは言えないが、如何に低予算で自分お好みの音を楽しんでいると考えています。



最近よく聴く演奏者にロレンツォ・ギエルミ(Lorenzo Ghielmi)1959年9月1日の演奏する曲をよく聴きますが、最近ドイツ生まれのオルガン奏者を見つけた。

最近発売されたマルティン・ノイ(Martin Neu)現代最高のオルガン・ビルダー、ユルゲン・アーレント制作のオルガンで聴くJSバッハ音楽は素晴らしい。



初めて聴いたが、何故か心の中に響くように聴けるのである。音質もスッキリして実に塩梅が宜しい。何故か心に残る演奏でもある。

アーレント・オルガンといえば、現存する名だたるシュニットガー・オルガンの修復で有名ですが、ユルゲン・アーレントのオリジナルとしては、筆者の装置で聴くと実に音が豊かに聴こえる、説明によるとこのヘルツーゲンアウラハのアーレント・オルガンと比べると、カザルス・ホールのそれは随分と直接音の比率が高いように説明されています。



特に低音域の豊かさは、天井方向への空間が高くなっている様で、この名器と優れた音響特性に助けられているためか、演奏も実に良く聴こえる。確かにオルガン演奏者は大勢いるが、濁りも微塵もなく実に聴きやすい鍵盤音楽が魅力的ある。
屈指のバッハ弾きマルティン・ノイがついにトリオ・ソナタ全曲を録音!現代最高のオルガン・ビルダー、アーレントの名器で演奏!



発売は2024.6の模様で早速予約する。

J.S.バッハ:トリオ・ソナタ第1~6番 BWV525-530

 J.S.バッハ:
  トリオ・ソナタ第1番 変ホ長調 BWV525(13'17)
  トリオ・ソナタ第2番 ハ短調 BWV526(13'00)
  トリオ・ソナタ第3番 ニ短調 BWV527(14'14)
  トリオ・ソナタ第4番 ホ短調 BWV528(11'38)
  トリオ・ソナタ第5番 ハ長調 BWV529(15'47)
  トリオ・ソナタ第6番 ト長調 BWV530(15'12)

 マルティン・ノイ(オルガン/ユルゲン・アーレント製作(2007年))
 セッション:2021年10月15&16日、2022年5月31日&6月1日/聖オットー教会、ヘルツォーゲンアウラハ(バイエルン州)



同曲も本来オルガン奏者一人のために書かれた三声部のトリオ・ソナタBWV525-530の全6曲をフルートとピアノによる二人の奏者で演奏します。

この曲はヨハン・ゼバスティアン・バッハが長男ヴィルヘルム・フリーデマンのオルガン奏者としての教育的目的のため1727-1729年に意識的にこの6曲にまとめましたが、それに先立って関連するいくつかの室内楽曲として存在していた資料が残っています。そしてモーツァルトを初め当時の編曲の記録もあります。
今回使用する楽譜のキルヒナー編曲のベーレンライター版は、その流れを踏襲している事からこの度採用しました。実に聴きやすく音質も大変良い演奏でもある。
CPEバッハが「名作の作品」に数えられると評価され、時代を超えた価値が高く評価されるオルガンのための『6つのソナタ』。の工夫によって、原曲と推測される「アンサンブルとしてのトリオ・ソナタ」を想起させる躍動的な響きが生まれ、作品の真価を入力してみます。

J. S. バッハ(キルヒナー編):フルートとピアノによる 6 つのトリオ・ソナタ(原曲 : 6 つのオルガン・ソナタ)BWV525-530

 1.ソナタ第5番ヘ長調 BWV.529(原調:ハ長調)
 2.ソナタ第2番ホ短調 BWV.526(原調:ハ短調)
 3.ソナタ第3番ト短調 BWV.527(原調:ニ短調)
 4.ソナタ第4番イ短調 BWV.528(原調:ホ短調)
 5.ナソタ第1番ト長調 BWV.525(原調:変ホ長調)
 6.ソナタ第6番ハ長調 BWV.530(原調:ト長調)

 根岸基夫(リコーダー)
 鈴木理賀(チェンバロ)
【使用楽器】
 リコーダー
  アルト:譜久島譲(所沢、2016/2017年 P.ブレッサン( ロンドン、 1700年頃)による) ソナタ第3,5,6番
  ヴォイス・フルート:譜久島譲(東京、2002年 P.ブレッサン(ロンドン、1700年頃)による) ソナタ第1,2,4番
 チェンバロ
  ブルース・ケネディ(アムステルダム) 、1995年 M.ミートケ(1702-4年)によるジャーマン2段鍵盤チェンバロ(所蔵:株式会社ギタルラ社東京古典楽器センター) 
 録音時期:2017年9月5日-7日
 録音場所:東京、三鷹市芸術文化センター
 録音方式:ステレオ(デジタル/セッション)



根岸基夫 (リコーダー)
東京生れ。慶應義塾大学卒業。12歳で飯室謙に、その後大竹尚之にリコーダーを師事。 室内楽を大竹尚之、及び眞川理子に師事またWvハウヴェ、HMリンデ、C.シュタインマン、W.クイケン、T.コープマンラの指導を受ける。



鈴木理賀(チェンバロ)17歳よりチェンバロを始める。東京音楽大学チェンバロ科の実技優秀賞を獲得して卒業。チェンバロを渡邊順生、及川眞理子、室内楽・バロック奏法を大竹尚之に師事。 T.コープマン、H.ドレフュスに指導を受ける。 勿論筆者もCDで持参しますが音質面でも、JSバッハ:ゴルトベルク変奏曲、JSバッハ:パルティータ(全曲)は大変お勧めの作品でもあります。

今回筆者のオーディオ装置でオルガン曲が今まで聴く演奏で最も良い演奏が聴けた、現在マルティン・ノイ演奏のオルガン曲は種類いも少なく今後の発売が楽しみでもある、ブラボー!

今見頃の新緑を求めて、千葉県市原に流れる養老川の上流「養老渓谷」を訪れる。

2024年05月17日 | 旅行

久しぶりに家族全員の時間が出来、昨夜は生憎の雨模様だが雨は上がり、千葉県に住み長いが近くは通るが未だ訪れた事もない県内屈指のパワースポット「養老渓谷」に此の度新緑を求め訪れたみました。

2023年千葉県内各地を襲った台風13号の接近に伴う大雨は養老川が氾濫し被災したが復興への歩みを進めていると聞く。兎に角有名な春から夏は新緑が美しく、特に秋の紅葉に染まる「粟又の滝」は渓谷一の絶景と言われる。



早速朝8時前に自宅を出発する。
但し天気は曇り空ではあるが、天気予想では午後からは晴れるが風が強い様である。朝の通勤ラッシュと重なりで高速入口までは渋滞が続く、千葉北から高速で市原まで通過下車し現地までは2時間30分程で到着、BGMに村治佳織のMusic Gift toを流しながらドライブである。内容はポピュラー楽曲、映画音楽やクラシックの名曲など実に気分爽快なシリーズでもある。

自宅で聴く場合は断然DECCA盤の「Kaori Muraji Plays Bach」が多く聴くが・・・



村治佳織の7年振りのベスト・アルバムと言われる。
 1. 愛はきらめきの中に(B.ギブ、M.ギブ、R.ギブ/佐藤弘和編曲) 
 2 . ムーン・リバー~映画『ティファニーで朝食を』から(H.マンシーニ/村治佳織編曲) 
 3. 愛のロマンス~映画『約束された遊び』から(A.ルビラ/N.イエペス編曲) 
 4. ガブリエルのオーボエ~映画『ミッション』から(E.モリコーネ/J.モーガン&J.ポーチン編曲) 
 5. 愛のテーマ~映画『ニュー・シネマ・パラダイス』から(E.モリコーネ/鈴木大介編曲) 
 6. バガモヨ~タンザニアにて~(村治佳織) 
 7. 主よ、人の好みの楽しみよ(JSバッハ/D.ラッセル編曲) 
 8. 亜麻色の髪の乙女~『前奏曲集 第1巻』から(C.ドビュッシー) /J.マーシャル編曲) 
 9. ミッシェル~『ギターのための12の歌』から(J.レノン&P.マッカートニー/武満徹編曲) 
 10. イエスタデイ~『ギター のための12の歌』から(J.レノン&P.マッカートニー/武満徹編曲) 
 11. 人生のメリーゴーランド~映画『ハウルの動く城』から(久石譲/小関佳宏編曲) 
 12. 愛のテーマ~映画『ロミオとジュリエット』から(N.ロータ/P.キャンベル編曲) 
 13. カヴァティーナ~映画『ディア・ハンター』から(S.マイヤーズ) 
 14. 戦場のメリークリスマス~映画『戦場のメリークリスマス』から(坂本龍一/佐藤弘和編曲) 
 15. アルハンブラの想い出(F .タレガ) 
 16. 花は咲く(菅野よう子/小関佳宏編曲) 
 17. メモリー~ミュージカル『キャッツ』から

車の中での音質は相当悪いが小さな音でのBGMとしたは聴き流す程度ではこの程度でも良しと思ったいる。



早速到着は山の駅 養老渓谷「 喜楽里」で此処には「遠見の滝」があり見学ができる。昨日の雨の影響で水は濁っていた。





水の量は多く、濁りはあるが流れが急で足元には十分注意が必要でもある。



次は水月寺である。此処にも養老渓谷の小さな滝があるのですが、水嵩が増し本日は見学は出来ませんでした、未だ台風被害の影響がある様です。



その後水月寺(すいげつじ)に行ったが境内はツツジの名所として知られ有名ではあるが、見頃は3〜4月で今は新緑であり静かな綺麗なお寺であった。



メインは粟又の滝は養老渓谷の上流にあり、養老渓谷随一の壮大な景観を誇ります。落差約30m、長さ約100mに渡り水しぶきをあげて流れ落ちる滝の様子はまさに豪快そのもの。








次は粟又の滝の前回が見える場所に移動する。



意外と斜面が強くハードな急勾配である、途中休憩を取りながら階段を下る、サワガニが歩いている・・・・!



写真は撮ったのだが探すと携帯のカメラに写した為後日携帯の画像を追加した。撮影場所がこの下の階段部分である。


最後は階段があり其処から遊歩道があるが、本日は水かさが増し歩道には水墨して歩行不能である。



粟又の滝の全景である、昨日の雨で水かさが増し手摺のすぐ近くまで水の流れが見え迫力ある風景でもあった。



この場所から暫く歩くと粟又の滝展望台があり滝が一望できる。
この時期の新緑は綺麗で、全体に紅葉が多く秋の紅葉は楽しみでもある、野山の鶯のさえずりが聞こえ、ゆったり歩く散歩しながら癒しの時間を過す事ができる。



13時頃まで散策し駐車場に戻る、最近オープンした山猫のソフトクリーム購入、やや甘味を抑えたまろやかな舌触り、これが実に美味かった。



そして昼食と愛なるが館山の魚市場の食堂でランチを考えていたが14時でラストオーダーのため、大多喜のうどん屋での昼食と決める。





釜揚げ天ぷらうどんを注文、他に生湯葉が有名なので一皿注文し皆で分けて頂く、確かに淡白な味の湯葉であった。秋は地元で取れる自然薯がメニューに加わるそうです。



後日調べると本来は「高滝」という名称であるが、地元自治体や観光情報サイトによる観光案内などでは「粟又の滝」が多く用いられており、国土地理院発行の地形図でも「粟又の滝」と記載されている。

帰りはこの辺りでは有名は高瀧神社に立ち寄る、房総半島のほぼ中央、市原市松尾山に鎮座する赤い社殿は有名だそうです。9世紀の記録である『日本三代実録』に記載のある古社です。古くから安産・子育ての霊験で知られ、「底なし袋」の信仰があります。

白鳳元年に瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を祀ったとされ、高瀧神と号した旧県社です。






社伝によれば7世紀の創建とされています。天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫であり、天孫として高千穂の地に降り立ったとされる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと:邇々芸命とも)を主祭神とし、9世紀の記録である『日本三代実録』にも記載された由緒あるお社だそうです。
玉依姫(たまよりひめ)と別雷命(わけいかづちのみこと)も合祀されていることから、古くから安産・子育ての霊験で知られる。



飾りの飾りの色付けも大変綺麗で驚きである。社殿の正面上には、3匹の龍が舞っている。



対岸のふれあいの広場にある高滝湖の鳥居も有名である。
普段は鳥居の下にも行けるが、本日は昨夜の雨で水位が高くなっている様です。






高滝湖の市原湖畔美術館では水上には生命の星(やませみ)、かげろう、湖の祭りダム建設によって失われた生命が復活するという「生命の循環」をキーワードとする水上彫刻です。意外と未だ知らない千葉の名称も多い様です。

この近くには。江戸時代においては城は戦国時代から所在したが、近世に入り徳川四天王の一人と言われた本多平八郎忠勝が10万石を拝領し、城主となった。 忠勝は入城後直ちに近世城郭としての大多喜城建築に着手した。ブラボー!

「喜寿」は室町時代末期に日本で生まれた習わしであるといわれるが、77歳間近の歳になった過ごし方。

2024年05月09日 | 歴史の考察


今朝も早朝から愛犬モジャ君との散歩です、今日はコースを梨畑とコースを変えてみた早朝5時30分ではあるが、この時間から消毒の散布する作業車を動かしていた、農園の方に声を掛け写真撮影の許可を頂き今年の梨の赤ちゃんを撮った、暫くして余分な実は摘果するのであろう・・・今年も美味しい梨に期待する。

引退生活も長くなり、あまりこれと言う趣味も持たず、毎日はBGM的に好きな音楽を流し、粗毎日同様な定期的な生活を送っているが、会社員の頃との違いは早朝から愛犬と散歩しシャワーを浴び朝食代わりに淹れたての珈琲を頂き夜は早めに休む生活のリズムが夜型から昼間型に変わった、PCのスイッチを起動しメールチェックしながら近くの市の図書館で借りた歴史書見ながら、不明事項にはインターネット検索し、改めて思うは筆者が学生時代に習った歴史書は古い時代も程正しい歴史と違い驚くやらこれは違った意味に置いて、責めて日本史程度はもう一度見直す価値はありそうである。


最近珈琲豆の在庫も減ったので美味しかった豆を選び4種類ほどの追加注文品が届くので早速新しい豆を使用し珈琲を淹れる。
頻度は2ヶ月に一度程の周期ではあるが、夏場はかなり需要は減る様である。最近購入毎に根が上がるのは早いペースでもある。



今日はエディット・ピヒト=アクセンフェルト( Edith Picht-Axenfeld)のバッハを聴きながら過ごした。

フライブルク大学眼科学の教授であり眼科臨床医の世界的権威テオドール・アクセンフェルトの娘として1914年、フライブルクで生まれた。5歳でピアノの演奏を始め、卒業試験後は当時バーゼルにいたルドルフ・ゼルキンにピアノを、ヴォルフガング・アウラー、アルベルト・シュヴァイツァーのもとでオルガンを学んだ。世界的なピアニスト、チェンバリストとして活躍。オーレル・ニコレ、ハインツ・ホリガー、フィッシャー・ディースカウ、ヘンリク・シェリング、ローター・コッホらとの共演やレコーディングなども数多い。



J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集 第1巻 24の前奏曲とフーガ
      [1]-[24] 第1番 ハ長調 BWV846~第12番 ヘ短調 BWV857
      [1]-[24] 第13番 嬰ヘ長調 BWV858~第24番 ロ短調 BWV869

J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集 第2巻 24の前奏曲とフーガ
      [1]-[26] 第1番 ハ長調 BWV870~第13番 嬰ヘ長調 BWV882
      [1]-[22] 第14番 嬰ヘ短調 BWV883~第24番 ロ短調 BWV893

2001年、87歳で他界した偉大なピアノ、チェンバロ奏者であり、教育者としても20世紀の音楽界に大きな足跡を遺したエディット・ピヒト=アクセンフェルト。バッハの譜面のすみずみまで熟知したエキスパートである彼女が高度な技術でエレガントに奏でる比類のない音色は、どこまでも暖かく聴くものをやさしく包み込みます。
いかにも厳格な感じのピヒト=アクセンフェルトの演奏はいかにもJ.S.バッハらしい風格も備わった演奏が聴けると思う、またBGMとして聴くも心穏やかになる演奏は大変重宝します。
先日筆者所有のTANNOYⅢLZ in GOODMAN AXIOM80Cabinetも若干改善の手入れをいた結果以前より落ち着きあるエディット・ピヒト=アクセンフェルトの演奏になった様である。確かに書類をまとめる作業にごく小さな音でのバッハの音楽は頭をスッキリさせる効果もある様にも思う。



先ずは縄文時代の歴史は随分当時とは違い、筆者の小学校高学年6年生時代今から約60年前の社会の教科書ではこの時期長く続いて縄文時代は1頁で終了1万年以上続く縄文の歴史が1頁とは情けないのである。
これは我々日本人が1万年以上生活した記録は弥生時代も含め精々2,500〜3,000年しか経過していないのである。この現実を想像する事により日本の歴史は大変に長いのである。
勿論隣国支那に黄河流域には文明が栄えたが、支那の書物には日本の記載は昔からあり最初は三国志時代に「魏」について書かれた「魏書」の一部、「東夷伝」のさらに一部分、「倭人(わじん)」についての記述を指します。
「魏志倭人伝」に書かれているのは、三国志が書かれたのと同じ、3世紀の日本の様子です。「帯方郡 (たいほうぐん)」の海の向こうに倭人がいること、30の国に分かれていることが記されています。
「魏志倭人伝」は長い三国志の中の、ほんの一部分に過ぎません。それでも日本人にとっては、当時の様子を知る手がかりとなる、重要な資料です。
なぜ外国人が書いた書物が、それほど重要視されてきたのでしょうか。
魏志倭人伝日本の古代史を知るうえで貴重な資料
日本で漢字が広まり、文書として残されるようになったのは、4~5世紀のことといわれています。
魏志倭人伝が書かれた3世紀の日本では、まだ文字が普及していなかったと考えられており、当時の様子が分かる文書もまったく見つかっていません。
しかし、中国人が三国志に記述を残してくれたおかげで、3世紀の日本の様子が少しだけ明らかになりました。三国志は史実を述べているうえに、同じ時代を生きた人が書いたこともあり、研究に値する重要な資料といえます。
ただし、現存の三国志は何度も書き写されたもので、字の間違いも多く、すべてを信頼できるわけではありません。魏志倭人伝によって、その存在が分かった「卑弥呼」や「邪馬台国」についても、いまだに多くの謎が残されたままです。
「魏志倭人伝」には、古代日本の政治体制や人々の暮らし、魏との関係などが記録されています。それぞれ具体的に見ていきましょう。



邪馬台国の位置や政治「魏志倭人伝」には。邪馬台国への行き方や距離が書かれています。しかし、解釈の仕方によって位置が大きく変わってしまうため、現在も、邪馬台国がどこにあったのかは分かっていません。
邪馬台国は、もともと男性の王が治めていましたが、争乱が起こったため、卑弥呼という女性が王位に就き、国をまとめたとされています。
卑弥呼は不思議な力を持つ「巫女(みこ)」で、その力を発揮して人々の支持を集め、争いを収めたと記されています。

当時の日本人の生活や風習「魏志倭人伝」には、日本人(倭人)が、魚や貝を好んで食べていたことや、馬やトラ、羊がいない代わりに、サルやキジがいたことなどが書かれています。
また、卑弥呼が住んでいた場所には、宮殿や物見やぐらがあり、その周囲を柵で厳重に囲われていました。卑弥呼が亡くなったときには、大きな墓が造られ、100人ほどの奴隷が「いけにえ」になったとも記されています。
当時の日本人の生活や風習がよく分かる内容といえるでしょう。
国内の争乱を収めるために、大国の力を借りようと考えた卑弥呼は、魏の皇帝に使者を送ります。
そのころ中国では、漢が弱体化して三国時代に突入したことで、それまで漢に朝貢していた周辺の国々が背を向け始めていました。
そのようなときに、傘下に加わりたいと、はるばるやってきた卑弥呼からの使者に、魏はたいそう喜びます。
皇帝は卑弥呼を支援することを決め、「親魏倭王 (しんぎわおう)」の称号や金印、銅鏡百枚などを与えたのです。
実際に邪馬台国が他の国と争いを始めたとき、卑弥呼の要請に応じて魏は支援を決めます。しかし、間もなく卑弥呼が亡くなったため、魏が動くことはありませんでした。
卑弥呼の死後、邪馬台国では男性の王が即位しますが、他国の反感を買い、日本(倭)は再び戦乱の世に逆戻りします。
女王の不思議な力がなければ国を治められないと考えた邪馬台国は、「壱与(いよ、とよ)」という少女を後継者に選びました。
魏との外交も続いていましたが、魏志倭人伝の話は、266年に使者がやってきた時点で終わっています。その後の邪馬台国がどうなったのかについては、どこにも記録が残っていません。
「魏志倭人伝」に登場するさまざまな情報の中でも、特に注目されているのが邪馬台国です。
邪馬台国があった場所はもちろん、本当に国名なのか、邪馬台国の表記自体が誤りではないかとの説もあります。現在分かっている邪馬台国の情報を見ていきましょう。



邪馬台国があった場所には、諸説あります。
「魏志倭人伝」には邪馬台国への行き方が記されていますが、記述の通りに進むと太平洋上になってしまうことから、方角か距離のどちらかが誤りだったのではないかという推測のもとに、研究が進んでいるのです。
「魏志倭人伝」に記された卑弥呼の政治手腕や周辺国との関係を踏まえて、邪馬台国の場所を特定しようとする研究も行われています。
現在、邪馬台国の場所として有力候補に挙がっているのは、「畿内(きない)」と「九州」です。それぞれの説について、具体的に紹介します。
邪馬台国の場所を特定する研究は、江戸時代から行われていました。江戸時代前期の歴史家は「邪馬台」が「ヤマト」と読めることから、邪馬台国は大和国(やまとのくに、現在の奈良県)だったと考えます。
帯方郡は、現在の朝鮮半島におかれた中国の郡です。中国から見て朝鮮半島の海の先にあるわけですから、まさに日本のことを表していると分かります。
三国時代以前の漢の書物にも、日本に関する記述がありますが、そのときは100を超える国があったとされています。
中国で国が三つに分かれていたころ、日本では100以上もあった小さな国が統合され、30国ほどになっていたのです。
「魏志倭人伝」は長い三国志の中の、ほんの一部分に過ぎません。それでも日本人にとっては、当時の様子を知る手がかりとなる、重要な資料です。
なぜ外国人が書いた書物が、それほど重要視されてきたのでしょうか。



三国志時代も終わり隋の時代になり倭国の記実が現る。
後は隋(王朝) (581年〜618年)南北朝の分裂を統一した中国の王朝の頃『隋書』は、二十四史の一つで第13番目にあたる。中国大陸史の中における隋代を扱った歴史書。志の部分だけは通史である。その頃は日本国も同時期の「日本書紀」推古朝は女帝の時代にあり、倭王が 誰にあたるのかは定説がない。
当時支那は漢字の書物が用いられ、漢文が書かれた書物が流通していた。表題も「隋書倭国伝」の中に倭国の記載は列伝第46条東夷伝の中にある隋書倭国伝に位置、地勢、倭国での順路、倭国の気候、暮らし、習慣や支那との関係等詳しく述べれれている。

この当時仏教の伝来し、権力争いの火種となり豪族の間で仏教を受け入れるかの意見が分かれ派閥が出来上がる。朝廷では蘇我馬子(蘇我 馬子は、飛鳥時代の政治家、貴族。邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれた。 敏達朝で大臣に就き、 以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕えて、54年にわたり権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築いた。)
当時朝廷内の蘇我馬子が推古天皇が即位し飛鳥時代が始まり、朝廷を中心とする中央政権化が進み592年に初の女性天皇である推古天皇が即位する593年にその甥である聖徳太子が摂政となる蘇我馬子と協力し天皇に忠誠を目指した。



上記の写真は聖徳太子の幼少の頃とされる。

その後聖徳太子が603年(推古天皇11年)に制定した「冠位十二階」(かんいじゅうにかい)は、優れた人物であれば身分に関係なく取り立てられる制度で、旧来の豪族の力を弱体化して天皇に権力を集中することが目的でした。しかしこの制度が導入されたあとも蘇我馬子は権力の中心にいたことから、聖徳太子を背後で操っていたのが蘇我馬子であったと主張する歴史家もいます。



603年には家柄には関係なく優秀な人材を登用を目的とした冠位十二階(大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智の十二種からなる位階である。 この名称は、儒教の最高の徳目である徳をはじめにおき、人のおこなうべき五つの道、仁・義・礼・智・信の五常を加えて六つとして、それぞれ大小にわけて十二にした。)604年に初めての憲法でもある。政治に関する人々に道徳や心構えを説いた憲法17条を制定した。内容は以下の通りである。
 第1条:和(仲良くすること、争わないこと)を大切にせよ。
 第2条:仏教を信仰せよ。)
 第3条: 天皇の命令には必ずしたが従え。)
 第4条:身分の高い人も低い人も、礼儀作法・ 儀式などの社会的・道徳的な  決まりにもとづく行いをすれば、国は自然に治まる。
 第5条:裁判をする人が、賄賂を貰って、金持ちに有利な裁判をすることをやめ裁判を公正にせよ。
 第6 条:人のよい行いをほめ、悪い行いを改めさせよ。
 第7条:その役職に適した人を 選べ。
 第8条:勤勉に仕事をせよ。
 第9条:すべての事にまごころをもってあたれ。 
 第10条:いかりをおさえて表面に出さないだけでなく、心を広くもって人の失敗 をゆるせ。
 第11条:功績と悪事を見分けて、賞ばつを公平に行え。
 第12条: 租税 を取る権利があるのは天皇だけだから、役人が勝手に租税を取ってはならない。)
 第 13条:自分の担当する仕事や役目をよく知れ。
 第14条:人をうらやんではなら ない。
 第15条:地位を利用して、自分の利益をはかってはならない。国や民のた めにつくせ。
 第16条:農閑期を利用して民を使うのは昔からのよき教えであ る。
 第17条:重要な事を決めるときは、おおぜいの人と相談せよ。そうすれば、 人々を納得させるような理(道理、理論)が必ず見つかる。

現在日本の政治問題で問われる事についはこの内容をよく理解した上にて議院バッチを付け、守れない場合は即刻辞職する。1,500年以上前の憲法17条を基本にすれば全て上手く捗る、まず政治家自身上記の記載をよく遵守する事は最低の国民との約束ごとでもあろう。当時この後607年に小野妹子を遣隋使として隋の国に送っている、又隋の歴史書に於いても隋書倭国伝に記載される。

確かに当時は海の向かいの支那に漢文、政治に関する冠位十二階等は学んでいるが、当時の支那の学術を日本風にアレンジし日本人が使いやすい様にした所は見逃せない所でもある。


推古天皇陵

隋の中央官僚には十二等級あり
大徳・小徳・大仁・小仁・大義・小義・大礼・小礼・大智・小智・大信・小信と並び日本の並び順とは異なっていた。「徳・仁・義・礼・智・信」となっていた様である。日本では「徳・仁・礼・信・義・知」と教えた。又冠位十二階は儒教の影響が強い当時の隋では影響を受け水を真似し日本に導入されたと考えたが、隋の時代の儒教では五徳の徳の教えが「仁・義・礼・智・信」が重要視され「仁」人を思いやる事「義」利欲にとらわれない事「仁」守るべき事「智」通りをよく知るえる人「信」真実を告げ約束を守り誠実である事と述べている。儒教ではこの順番を重要視され隋書が正しいと思われるが日本人の法制度はこの順番を変更し冠位十二階を定めたであろう。しかし720年には冠位十二階は無くなってしまった。

この様に祭り事を行う政治家、役人が昔決められた冠位十二階も学ぶ事なく現在の政治を決める政治は真の平和な世界が作れるのであろうか?
以前トランプ大統領選挙の結果が発表された時に、高々200年の歴史しか持たない米国の判断は本当に正しいのであろうか、日本は世界でも歴史の古い伝統ある国の判断を聴きたいと叫んだトランプ大統領の言葉が今も残る言葉でもある、所詮先の戦争で与えられた日本国憲法も官僚、政治家が冠位十二階をよく学びた後に新たな日本に相応しい日本国憲法も視野に入れた新しい憲法が必要な時を迎えて様にも思う。
昨今の大臣の態度は最悪でもあり、日本人としての品格も疑われる現在の政治家には基礎教育が必要であり実に情けな無い時代となっているのが現状でもある。

連休は自宅にてベートーヴェン:甘味なヴァイオリン・ソナタを考察する。

2024年05月03日 | クラシック音楽・オーディオ


早くも恒例の連休である、一年中お休みが続く筆者は、賑わう処には行かない、海外からの旅行者も多く桜開花時期からオーバーツーリズムが続く様である、後期高齢者になる筆者は他人には迷惑をかけない為にも混雑する連休は自宅でのんびりが一番である。

最低の岸田政権が続けば続く程日本の民度が下がる様であり、余りにも低脳な岸田政治にはウンザリである、先日岸田は米訪した際にウクライナ問題で米国のウクライナ支援担保補償をした売国奴岸田は最低である。ウクライナが破産すれば最低9兆ドルは日本が保証しなければならないのである。国民を経済制裁しても厭わないのが岸田でもある、お決まりの勿論マスゴミ諸氏は全く騒がずこのまま放置しても構わないのであろうか?

庭には毎年咲く蔓薔薇の蕾が盛んであり、先日蕾が多過ぎ剪定をおこなったが、少々開花の時期が迫ったようで写真に収めてみる。



最近オーディオ雑誌に取り上げられていた据え置きタイプのエンクロージャーの設置方法を見ていると、是非補修を試みたい箇所が見つかる。

それは前から気になった自作のオーディオボードの改良を試みる、つまりオーディオボードを補強し後ろ部分(設置面)にカーペット材を布製の両面テープで貼り付け現在設置方法を替えた、TANNOYⅢLZ in GOODMAN AXIOM80Cabinetの幅の置き位置を1.8Mから1.5Mに狭くする勿論試聴しながら少しずつ狭くし良い塩梅の所で定位置に定めた。基本的には音は変わらないが今までの音と比べ若干ではあるが中間の音が増した感じになり若干ではあるが音楽が色濃く濃度の満ちた音が聴こえるように感じた。特に擦る楽器には濃度の増した音が効果的の様に感じた。



移動はジュニアの手を借り移動した、狭い部屋での移動と補修は意外と苦労する、位置移動の僅かな変化で意外と音が変わる事にも驚きであった。
位置の移動後はTANNOYⅢLZ in GOODMAN AXIOM80Cabinetの表面をビーズワックス(蜜蝋)を塗布し目的は木の表面の乾燥と劣化を防ぎます或程度の木目の潤いは必要である。後は乾拭きをして仕上げた。

ランチを頂き午後から色々音楽を楽しもうと思い、早速珈琲豆を曳き淹れる。銘柄は「いつもの珈琲」である。ブレンドではあるが、最近はお気に入りはブレンドが多い、一般的で癖が少なく。豆のカス並びに余りにも細かな粉を取り除き適温(75度)前後で淹れれば比較的美味しい珈琲は何時でも頂けます。慌てずにゆっくりお湯を落とせが良いのである。



大変申し訳ないが筆者が思うにベートーヴェンといえばまず浮かんでくるのが、学校の音楽室に掲げてある、あの厳つい感じの肖像画。ボサボサの髪に非常に鋭い眼差しが怖そうな感じの印象が残るが、コワモテでちょっと野暮ったくて、才気に満ちた感じはするものの、見るからに女性とは縁が薄そうに感じる。実際、57歳まで生きたベートーヴェンは、一生独身で過ごした様である。

しかし彼の曲にはロマンチックたっぷりな曲が記憶に残る、最初聴いたのはアルテュール・グリュミオー演奏の「ロマンス第1番ト長調作品40」「ロマンス第2番へ長調作品50」と記憶する、甘みなヴァイオリンの調べはあの肖像画は決して想像できない。又今回取り上げたヴァイオリン・ソナタ第5番ヘ長調 Op.24「春」等も可成りロマンイックな曲でもある。
そして色々調べて見ると意外に、本人、女性にあまり興味がなかったのかと思いきや、決してそんなことはなく、ベートーヴェンは生涯、何人もの女性に恋をしました。しかし、これについてはたくさんの友人、知人たちが証言しているのですが、ベートーヴェンはけっこう女性にモテたのだそうです。では何故恋愛関係が少ないように思うが、その理由はベートーヴェンが好きになったお相手はほとんどが貴族出身(あるいは富豪の娘など)で身分が違い恋愛関係には至らなかったと言われているそうです。
勿論筆者等も恋愛には縁は薄く結婚もお見合いで結婚出来ましたので人の事は言えた義理も無いが、作品40、作品50、 Op.24「春」等聴くたびにベートーヴェンの肖像画を想像しニヤリとしてしまいます。

偶には変わった所で季節柄も春なので、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタの中でも非常に有名な曲であり、その、幸福感に満ちた明るい曲想から「春」や「スプリングソナタ」という愛称で親しまれている。ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第5番(作品24)は、1800年から翌年にかけて作曲されています。とっても有名な楽曲なので、誰もが一度は耳にされたことがあるのではないでしょうか。幸福感に満ちた明るい曲で「春」「スプリングソナタ」という愛称で親しまれています。聴けばお分かりのように春の息吹が感じられるる、又ベートーヴェン自身のヴァイオリンのテクニックは稚拙だったそうで、ソナタの旋律リズムは、ピアノのものが中心になっているそうです。

色々数あるヴァイオリン・ソナタの演奏を選ぶが古い演奏者が多くなってしまった様であるこれは筆者の趣味的要素が多いのかも知れない。


まずは演奏者は特に筆者好みは(フランチェスカティ/カサドシュのデュオは好みでもある)ヴァイオリン・ソナタ第5番の第一楽章から優雅なヴァイオリンの調べから始まる曲は春そのものでもある。



続いてアイダ・シュトゥッキ=ピラッチーニ(Aida Stucki - Piraccini, 1921年2月19日 - 2011年6月9日)は、エジプト出身のヴァイオリン奏者、1916年にデビューして天才少女として有名になり、アメリカで活躍したヴァイオリニスト。

モリーニがアメリカ・デッカ、ウェストミンスターとドイツ・グラモフォンに行ったすべての録音が初めてまとめて発売されます。指揮者のアルトゥール・ロジンスキー、フェレンツ・フリッ・チャイ、ニコラス・ハーサニー、フレデリック・ワルトマン、ヴァイオリンのフェリックス・ガリミール、ヴィオラのワルター・トランプラー、チェロのラー・スロー・ヴァルガ、ピアノのレオン・ポマーズとルドルフ・フィルクシュニーと共演しています。



 「ニューヨーク・タイムズ」紙の音楽評論家ハロルド・C・ショーンバーグが「たぶん今までで最も偉大な女性ヴァイオリニスト」 ”と書いたことに、モリーニは「ヴァイオリニストはヴァイオリニスト。私はそう判断されるべきです。女性音楽家としてではなく」と語ったということです。 
以前購入しCD13枚組ボックス・セット限定盤を以前入手しました。中より

Disc9 
 ベートーヴェン: 1.ヴァイオリン・ソナタ第5番ヘ長調 Op.24『春』 
          2. ヴァイオリン・ソナタ第7番ハ短調 Op.30-2 
 エリカ・モリーニ(ヴァイオリン) 
 ルドルフ・フィルクシュニー(ピアノ) 
 録音: 1961年3月、ニューヨーク

エリカ・モリーニはウィーン出身、アメリカで活躍したヴァイオリニスト「ただの天才児ではなく、驚くべきことだ」と指揮者アルトゥール・ニキシュはモリーニを高く評価しました。



筆者の装置では一番上手く鳴ったベートーヴェンヴァイオリン・ソナタは
ヴァイオリン・ソナタ全集 : ヴォルフガング・シュナイダーハン(Vn)カール・ゼーマン(P)であった。確かに弦楽器を聴くにはTANNOYのユニットは誠にうまい具合に鳴る、他にも英国製のブックシェルフスピーカーも持参するが50年以上前のTANNOYユニットの鳴り方は群を抜く様でもある。

ソナタ全曲録音は、1959年、ウィーン楽友協会(ブラームス・ザール)で伝説のプロデューサー、エルザ・シラー女史により行われました。
 ヴァイオリン ・ソナタ第1番ニ長調 Op.12-1 
 ヴァイオリン・ソナタ第2番イ長調 Op.12-2 
 ヴァイオリン・ソナタ第3番変ホ長調 Op.12-3 
 ヴァイオリン・ソナタ第4番イ長調 Op.12-3 23 Disc2 
 ヴァイオリン・ソナタ第5番ヘ長調 Op.24『春』 
 ヴァイオリン・ソナタ第6番イ長調 Op.30-1 
 ヴァイオリン・ソナタ第7番ハ短調 Op.30-2 Disc3 
 ヴァイオリン・ソナタ第8番ト長調 Op.30-3 
 ヴァイオリン・ソナタ第9番イ長調 Op.47『クロイツェル』 
 ヴァイオリン・ソナタ第10番ト長調 Op.96 【BDA】 
 
 ヴォルフガング・シュナイダーハン(ヴァイオリン) 
 カール・ゼーマン(ピアノ) 
 録音時期:1959年5月11日~28日 
 録音場所:ウィーン、ムジークフェライン、ブラームス・ザール 
 録音方式:ステレオ(アナログ/セッション)

録音史上、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタの名演は数多くある。フランチェスカッティ/カサドシュ、クレーメル/アルゲリッチ、いずれもビッグネーム同士の共演で豪華な事この上ない。
このシュナイダーハン/ゼーマン盤は、ヴァイオリンは表現の創造元が作曲家に基づく事を充分に理解してベートーヴェンの前にかしずいている。これを聴けば、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタが決して若書きの作品にとどまるものではない、演奏によっては大変神聖な味わいを持つ事ができると思うのであった。


連休は天気にも恵まれ早朝何時もより多めの愛犬「モジャ君」と散歩を楽しんでいます、帰宅し一緒にシャワータイム、軽めの朝食後はのんびりと淹れたての珈琲を頂きながらの毎日です・・・・ブラボー!