伝統ある英国の10吋ユニットで、いい音で音楽を聴きたい・・・・・

音楽好きの、古いオーディオ機器10吋TANNOYを改良して聴くダメオヤジの金ちゃんです。

TANNOYⅢLZ inGOODMAN AXIOM80 Cabinetのセッティングの考察、ワンダ・ランドフスカ、ユーディ・メニューインのソナタを聴く。

2023年04月27日 | 真空管アンプ・オーディオ


筆者は処で一体どう言う音が好みの音なのであろうか・・・? それは音楽愛好家は全ての人が感じる音への受け入れ方が違うであろう、と同時にこの問題は趣味の範囲内の事で、例え意見が違っても全く構わない世界でもあり自分勝手な聴き方が出来る事が一番の醍醐味でもあろう。
それとこの趣味は凝りだすと無限に近い金食い虫でもある、バランスの良い方法を考えればヤフオク等の利用して、全ての装置総額一万円程度で十分楽しむ方法もある。10センチ程の安価なユニットとバランスの良い自作のバックロードホーンで或程度の重低音を感じながら音質を楽しむ事も可能である。いずれにせよ今の時代人件費が一番コストたかに反映されるので一番の安価な方法は自作が一番とも言える、自分の手間代は趣味と考えれば良いと思われる。

但し十分注意することは、名品と言われる装置はオリジナルにて手を加えれば二束三文になってしまう事もあり扱いには十分注意されたい。

しかし肝心な事に一番見落とす事のできないのオーディオ機器の設置方法であろう、一番簡単で安易な方法でPCの隣にポン置きしても音は鳴る。何故なら音は伝わるからです。しかし据え置き方のある程度の容量のエンクロージャー等でも設置方法が悪ければ良い音は聴けないのである。エンクロージャーの設置には細心の注意を払い、色々な方法を試し調整しながら決めなければならなく、インシュレーターも色々なパーツを販売している様です。

インシュレーターの置き方と工夫により俄然本領を発揮した、前々から我が家のオールドタンノイTANNOYⅢLZ in GOODMAN AXIOM80 Cabinetを最終的に仕上げをしたいと思っている、兎に角音質は涼やかで音は澄み余分な音がしなくなった。この様な変化は大歓迎であるが未だ未だ方法はあるとは思う視聴すれがJAZZ系、フィージョン系は問題ではあるが全体には粗合格であろう。



オーディオの設置で一番肝心なことは低音を如何に自然に処理するかが最大の問題で特に据え置き型のエンクロージャーは問題も多い、小型のものは設置台等色々販売しているが特に大型の物には苦労が絶えません。しかし設置法をいい加減にすればスピーカーユニットの能力を十分出せないので如何に設置が大変だと言うことになります。

これ以上望むとあれば多分以前から考えていた方法だが、床に直接石板を置きその上にエンクロージャーを載せれば音質は益々クリヤーになるかもしれないと前々より感じていたことでもある。確か昔ブロックの上にエンクロージャーを乗せて音質は良くなった体験はあるのですが、実際実行しなければ解りません。

自宅近くの千葉NT印西牧の原駅近くのジョイフル本田の売場を散策すると、自然石の板もあったが寸法は足りなく2枚必要なんです。やはり1枚物でのセットが良く、色々探すとセラミックタイルなる人口石物が販売されている、サイズは610×610mm厚みは15mm厚だが重量も18キロ程である、セラミックタイルの特徴は原材料としては、粘土・シリカ・顔料・融剤などで、表面は釉薬を施したうえで高温で焼成するので不透明なガラス質のエナメル状となります。使用用途としては非常に多岐にわたっており、天然石のような質感も良いのでキッチンや浴室などの水回りのほか、最近では住まいの床や壁といった大判製品にも使用されているそうです。
尚商品(セラミックタイル)裏面は床に直接は傷つきが心配で両面テープを貼り余分に在庫していたカットマットを擁護の為に敷き詰めカッターで仕上げカットしたものを使用する事にする。


表面押上も滑らかで使い勝手も良さそうなので早速購入した。価格2枚で福沢諭吉さん1枚でした。早速購入に至る、設置場所は丁寧に掃除し床にビーズワックスを塗り、乾いた雑巾でから拭きして仕上げたこれは重労働である。今日は掃除夫で床の手入れに家具用のビーズワックス使用は自然な艶がよく出て仕上がりは良好である。床が輝いて見えた。実施した床面である。

この際色々なオーディオ雑誌を眺めますと筆者使用のGOODMANS AXIOM 80の箱は随分ジャジャ馬的な箱だそうです、この様な些細なことで音質向上が得られれば幸いである。しかし思えばエンクロージャーの扱い違いよる設置は今後も注意しなければならないテーマであろう、オーディオ機器の交換よりエンクロージャーの設置方法を見直すこともより大切ではなかろうか。ユニットの能力を十分効率を良くする事も大切です、勿論ブックシェルフ型のエンクロージャーにも色々な設置方法が掲載されている、本格的に極めるなら筆者も使用しているが意外とインシュレーターAIRBOW ウェルフロートボードは高額であるこのタイプの物を仕入れると1台7.5万円となるそうです。

セラミックタイルの後ろ側には安価な簡易なマットを両面テープで貼り固定する。それからセラミックタイルを位置を決め設置しその上に自作のインシュレーターは中心部分の板が凹み今回は中央にもソルボセンイを追加し平行にセットし補修した。エンクロージャーをセットしインシュレーターとエンクロジャーの間にソルボセンイをサンドして仕上がり位置を確かめた。

筆者が思うに小型のブックシェルフ型のエンクロージャーで聴く限りは低音等の影響は少なく音楽鑑賞については気にならないが、ある程度の大きな箱の据え置き型大型タイプのエンクリージャーは余分な音は大変敏感に気になるが、この処理である程度は満足する音質が得られるのであろう。
今回は仕上げは剥き出しのユニットは取りやめ、ユニットの前側にサランネットも取付最終的な落ち着きのある仕上がりとなった。



後は筆者が使用する機材のプリアンプに安価なAIYIMA TUBE 6N3 Vacuum Tube 6N3真空管プリアンプをモノーラルに真空管はSYLVANIA 2C51を代替え品としてしろくま製作所のOPA627AU デュアルに交換し使用するが、レプトンパワーコンダクターグリースを写真上の様にコンデンサー部分の頭の部分に塗布し使っているが、以前より音質に透明度が増したように感ずる、以外と不思議なことに効果は大きく感じた此れはオーディオマジックの様な現象かもしれない。
又現在使用のエンクロージャーの置き方のインシュレーターを重ねることも効果が作用し、このように古いプレスのCD等のソースを聴くも、ある程度のエージングには時間が必要ではあるが以前と比べモノーラル録音の音質が被り気味に聴こえた音も澄んだ音に鳴る様に変化した特に弦楽器の鳴り方の変化は頗る向上した。

実はこのアンプの真空管をWESTERN ELECTRIC 396Aに交換すると良いのですが、現在人気が出て商品が少なく入手困難のため筆者はSYLVANIA 2C51若くはGEの5670Wが同等管で価格も手頃でGE製は入手しやすく、かえってロシア製は戦争中で輸入問題で入荷しずらい状態に陥っているのである。
笑い話として、ダブルのオペアンプ交換と真空管の交換だけで本体価格の倍以上にもの価格になってしまう状態は本末転倒で笑い話にもならない。
一つ関心事項は間違いなくこのタイプのプリアンプはデジアンプであろうがデジアンプ臭さが無いのは立派な商品でもあろう。本体重量が軽量の為上下のカバーに鉛板を貼りその上に銅箔テープで養生し静電気防止する。



オペアンプはしろくま製作所OPA627AU デュアル 8Pin DIP小型変換基板実装済みOPA627AU デュアル 8Pin DIP小型変換基板実装済み物に交換しエージングにある程度の時間が必要ではあるが、今は随分馴染み美音になっている。

勿論今回の改造で以前聴いた低音が被った音ではなく、澄んだ音が聴きたいと思い実験的に床に石板を敷き音質にどの様な変化が起きるかのお試しである。
筆者自身1940〜60年代の録音から聴こえた音は、何か古ぼけた音色、何処となく綺麗な音の体験は無かった。特にヴァイオリンの音色は現在の録音と違い、音全体が被り気味で澄んだ音色は聴けなかったことは確かである。
昔から思った事は録音技術、機材、環境など、いろいろ含めて現代より劣っていたため、主に高音域が理想的に録音されてないことが一番の理由だと思っていた事は確かである。
経年劣化も少なからずあると思いますが、保存状態が良かったとしても、録音の段階から高音域が犠牲になっていたことのほうが理由としては大きいと思います。ソースがSPとか、LPとか、そういうレベルの問題ではなく、時代的な録音技術の格差の問題が大きいと思います。



確かに最新の技術で録音した演奏は音質的も相当良いことは分かります、しかし色々の演奏者の違いで特にクラシック音楽の場合、作者の訴えたい本質も解る事もあるのでと思いますのでなるべく演奏に近い音で聴きたくなる様に思います。

確かに意外と重量のある石板を運び部屋の掃除もして、思いエンクロージャーを移動しての配置は疲れる、歳のせいもある様です。

メインアンプ等は落下防止と物が当たり破損が心配のため特に三極管の真空管は丁重に取り除き筆者としては虎の子のZAIKA5300三極管を箱の中に移動した為に全てセットアップしなければならない。

確かにこの三極管を導入ご音質の再現性が明らかにリアルになりました、勿論好きなジャズからクラシックまで広範囲で聴けるようになった事は事実である。この真空管の詳細は下記に筆者のブログ参照にしてください。



取り敢えずBGM程度に音楽の鳴り方がどの様に変化したのであろうか興味はつきない、以前と比べ如何なものか?音質が良くなることを願うばかりです。

アーマッド・ジャマル(Ahmad Jamal)2023年4月17日70年以上にわたり活躍した米国のジャズピアニストで作曲家のアーマッド・ジャマルさんが16日、死去した。92歳、各国のメディアが伝えた事を知った。
当時は話題となった事は、マイルス・デイヴィスが高く評価していたことでも有名ですが、日本での知名度は非常に低いようです。アーマッド・ジャマルは、アメリカのペンシルバニア州出身で1930年に生まれたジャズピアニスト、作曲家、編曲家です。(マイルス・デイヴィスより4つ下)ある評論家によるとジャズ発展における重要性ではチャーリー・パーカーに次ぐと評価されています。
「マイルス・デイヴィス」の不朽の名盤「Kind Of Blue」のメンバーに直接マイルスから誘われて参加し、その中心的な役割を担いましたが、実は「ビル・エヴァンス」より前にマイルスからメンバーに誘われていたにもかかわらず断ったという逸話の持ち主がいました。それが「アーマッド・ジャマル」です。



50年代のジャマルのピアノ・スタイルは、 音が少なく思索的なピアノ・スタイルでした。 カウント・ベイシーやセロニアス・モンクのような省エネ・ピアノです。 そのスタイルがいたくお気に召した帝王は、自らのコンボを結成する過程において、 ジャマルをピアニストとして加入させることを決意し、本人に打診しますが共演はしませんでした。 
「アーマッド・ジャマル」は「エロール・ガーナー」などから影響を受け、「アート・テイタム」にも将来を嘱望されるなど活動初期から非常に評価の高いピアニストでした。演奏スタイルは、淡々とした静けさの中に美しくおしゃれな洗練されたセンスがある、ビル・エヴァンスなどとともに次世代を担うものでした。

結果を一言で言えば「実に良い塩梅に鳴った!」兎に角驚いた、この様にクリヤーに冴え渡ったピアノの音が鳴っていたのか・・・?今まで何を聴いていたんだろう・・・?悔やむばかりである。


本日は意外に重労働になったようで試聴は翌日に持ち越した。最終敵にセットアップ後イージーリスニング後に米ジャズピアニスト、アーマッド・ジャマルさん死去 92歳をニュースで知った、有名なトランペット奏者マイルス・デイビスをはじめ、名だたるミュージシャンたちと親交があり、国内外で多くの賞を受賞した。BG的に昔聴いたHappy Moodsを流し演奏を聴き惜しんだ。
ジャズ好きの筆者もこのアルバム程度しか知らなかった。1960年にArgoからリリースされた『Happy Moods』、『Listen To The Ahmad Jamal Quintet』が2 in 1で初CD化。
試聴のつもりでCDを聴く、ジャズの枠を超えて愛される"SPEAK LOW"の名カヴァーを収録した'60年の人気作!!早速試聴したが録音の古さも全く感じなくクリヤーな瑞々しい歯切れ良いジャズトリオが鳴り響く。実に爽快であった!


   PERSONEL:AHMAD JAMAL、ピアノ
   ISRAEL CROSBY、ベース
   VERNELL FOURNIER、ドラム
   1960 年 1 月 20 ~ 21 日にシカゴで録音

何となくアーマッド・ジャマルのピアノを聴き何時も聴くより鮮度が良いのであり、ドラミングのキレも大変良く、ベースの音も何故か爽やかに鳴った、特にピアノの高音の音は実にクリヤーな音に驚く、決して米国のアルテック、ジムランとは音質は全く違うが、ジャズが聴桁、いや演奏を楽しむことは違った意味で満足できる、1960 年 1 月 20 ~ 21 日にシカゴで録音とあり可成り古い録音ではあるが、その様な感じも無く実に新鮮に聴けたのであった。



ゆっくり風呂に浸かり疲れをとりビールを頂き軽い食事を済ませて翌日はバッハ:ワンダ・ランドフスカをじっくり聴いてみよう。

1960年前後当時を考えみよう、一般的に出回っていた再生機器やスピーカーの性能も低く、仮に現代と同等の良い音で録音された音源があったとしても、再生側の性能が低ければ、こもったような音になってしまうので、音源の制作側も、性能を上げる必要性がなかったとも言えます。と説明はしていますが、なるべく綺麗な音で当時の名演奏を聴きたと思うようになった、セッテングを工夫すれば音質向上は夢では無い様に思う、ワンダ・ランドフスカが1933年11月18,19,20演奏したJ.S.バッハ:トゴルベルク変奏曲 BWV 988を当時演奏した様な雰囲気を味わいたい。まさに神業と申せましょう。ランドフスカの名人芸を味わってみたいと思いませんか?



ユーディ・メニューイン (Yehudi Menuhin)1916年4月22日生まれ。1999年3月12日心臓発作のためベルリンで死去。ヴァイオリンの神童として、子供の頃からその天才ぶりを発揮し、12歳の時ベルリン・フィルと共演し、一夜にバッハ、ベートーヴェン、ブラームスの3曲の協奏曲を弾くという快挙を成し遂げ、一躍世界的に有名になった。また、後年は音楽学校を設立し、後進の育成にも熱心に尽力した。
20世紀最大のヴァイオリニストの一人、メニューインが1928~29年と1945~52年にかけてアメリカのビクター・レーベル(RCA)に残しCDの中より1944年にワンダ・ランドフスカと共演したバッハのヴァイオリン・ソナタ第3番等を聴く、中には筆者の好きなシューベルト:ヴァイオリン・ソナタニ長調D.384 イ長調D.574も録音されている、ワンダ・ランドフスカはピアノを担当している、以前この手合いの演奏は低音が被り気味で途中で止めてしまったが、修復後は全曲聴けた、若干ピアノの音が硬く感じたがヴァイオリン独自の音も実に細部に渡り上手い具合に鳴った、特にユニゾンの鳴りは実に良い塩梅である。

IIILZ Monitor Goldユニットから伝わる音がエンクロージャーから離れメインが中央に位置する安定化を感じる音なのです、この様な音色はオールドタンノイの魅力が十分伝わって来ました。この状態でやっと音楽が楽しめる状態と相なった様ですがかなりの月日が掛かりました。オーディオは三位一体と言われるが今回の体験でやっと合点がした感じと相成る次第であった。

【CD4】
https://www.youtube.com/watch?v=XKvJec-nqkM
 J.S.バッハ:『ヴァイオリン・ソナタ第3番 ホ長調BWV.1016』~ワンダ・ランドフスカ(チェンバロ)[録音:1944年12月28日]
 エルガー(エルガー編):『愛の挨拶』[録音:1944年12月26日](初出)
 J.S.バッハ:『G線上のアリア』[録音:1945年4月6日](初出)
シューベルト(ヴィルヘルミ編):『アヴェ・マリア』[録音:1945年4月6日](初出)
 シューベルト:『ヴァイオリン・ソナタ(ソナチネ)ニ長調D.384』 [録音:1949年11月11日](第1&3楽章は初出)
 シューベルト:『ヴァイオリン・ソナタ(ソナチネ)イ長調D.574』 [録音:1949年11月11日]
 ラフマニノフ:『夜のしじまの中で Op.4-3』with ロバート・メリル(バリトン)
 ヘンデル:『オンブラ・マイ・フ』with ロバート・メリル(バリトン)[録音:1952年頃]

ワンダ・ランドフスカ(Wanda Landowska) 1879年7月5日:ワルシャワ - 1959年8月16日:コネチカット州レイクヴィル)は、ポーランド出身のチェンバロ奏者、ピアニスト。忘れられた楽器となっていたチェンバロを20世紀に復活させた立役者である。

当初はピアノでバッハを弾いていました。学者の夫からの影響などもあってランドフスカはチェンバロに強い関心を持つようになり、各地の博物館なども回って保存されていた楽器などを研究し、楽器も購入、24歳の時にはチェンバロ奏者としてのそして1912年には、演奏会場での音量不足問題を解決した新たなチェンバロ「ランドフスカ・モデル」を完成させてドイツのブレスラウ音楽祭で披露するに至ります。



この楽器は、かつてヘンデルなども使用していたという大型チェンバロや、ランドフスカによる研究成果などもとにパリのピアノ製作メーカー、プレイエルが製作した2段鍵盤モデルで、オフラインなピアノのフラグメント技術や弦の強靭な張力を利用して、16フィート弦と7つのレジスター操作ペダルまで備えていました。ランドフスカはこの楽器を主に用いて、チェンバロ復興のための活動に乗り出します。
今までずっとランドフスカを聴き1933 年 11 月 9 日 13-15 日録音、バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV 988、1949/03 & 1951/02、1949/03 & 1951/02の録音のバッハ:平均律クラヴィア曲集第1奏曲 BWV 846-869等多く聴いたが音質に問題が多く、全曲楽しむことは出来なかったが、確かにセラミックタイルを敷いた後に聴けば納得出来る音質を得られた様である。ブックシェルフタイプのエンクロージャーより据え置き型のエンクロージャーの音の出し方は酷く神経質に思えるのは筆者だけであろうか。

所謂TANNOY IIILZは聴き方にも色々あるがMonitor Goldのヴァイオリン等のエキセントリックな根音は他のユニットでは味わえない独自の音色と思う次第です。今まで知らなかったアメリカタンノイと言われる物は一度も聴いた事もなくネットで調べる限りは是非一度試聴してみたいスピーカーでもあります。オーディオ機器が導入され蓄音機から始まる中でいまだに当時の装置と変わったないのは各種のスピーカーが今だに残る音出しの方法でもある。



今後は現在気になっているヴァイオリニストのエリカ・モリーニ1904年、ウィーン生まれのヴァイオリニスト。
1995年没。私立音楽学校の校長であったイタリア人の父から手ほどきを受け、ウィーン音楽院でシェフチックに師事する。1918年、ニキッシュ指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団と共演、1921年にはニューヨーク・フィルとの共演で米国デビュー。その圧倒的な成功で、天才少女の名声をほしいままにする。フランク:ヴァイオリンソナタ イ長調等楽しむつもりである。

後日注文してから15日間経過し海外からCDが届き早速開封する。正に此れは100年前の演奏でもある録音技術も断然良くなっているエリカ・モリーニの演奏を聴き、これで当分『壺中の天』を味わい尽くしてみよう、の心境である。人工石材を導入した為に随分低域も閉まり音楽がユニットから離れ目の前に演奏しているかの様に感じる、本来のIIILZユニットの音が鳴ったのである。

確かに筆者所有のTANNOYⅢLZ in GOODMAN AXIOM80Cabinetで所謂ヴィンテージと呼ばれる物であり如何にも1950年代頃の古い演奏は得手を受け再生するのであろう、ブラボー!


コロナ禍も落ち着き、久しぶりに両親の眠る蒲郡にある墓参りに、今話題の頼朝の御家人安達藤九郎盛長墓所を訪れる。

2023年04月20日 | 歴史の考察

なんとコロナ禍の影響もあり4〜5年ぶりに両親の墓参りに愛知県に車で出かける、此の車での遠乗り(往復約六百キロ)は初めてである。5月は皐月晴れと良い天気は良いのですが、地球の環境の変化あで、生憎の雨模様で富士山は見えそうにない。道路はすこぶる順調で早新東名に差し掛かる、しばらく走ると新沼津を抜け途中富士山の頭が見えた。

此の後またたく間に雲の中に消え姿は見えなくなった。途中新静岡で飲料補給とトイレ休憩を挟み無事音羽蒲郡インターを下り360キロを走破したガソリン補給は約20リットルとリットルあたり18キロ強とノーマル車(トヨタスペード1.5l)としては随分燃費がよい車である。現在化石燃料は廃止され全てEVにと言われてますが、正しい選択であろうか知識人は化石燃料の効率を高めたエンジン車が地球環境にも良いとされているようでEUは間違った方式を選んでいる。

この燃費問題は基本的には化石燃料使用のもたらす仕業で周りに海で囲まれている日本ではCO2は海水に溶け込み酸素を作りプランクトンを生み出し自然環境には良いと思うが。其々の国により自然環境の違いであるので、日本独自の環境問題の数値を提出するべきであろう、この国の政治屋は何時の間にか間違った政治を行う様になったのであろうか・・・?一番の悪は気候温暖化の嘘を信じている政府が最悪である、流石政治は三流国家である。
先の大東亜戦争での敗戦で、奴らアメリカの属国に成り下がった日本は一刻も早い真の意味での独立をしなければならない、それには取り敢えず日清戦争以降の正しい歴史認識を学ぶことが必要である、



この写真は新東名の新沼津付近である、今回の旅は両親並びに世話になった親戚等の三ヶ所の墓参りである。

順調に無事蒲郡到着、妹宅にてコーヒーを淹れていただく、そこに合った中日新聞に竹島の写真が掲載されている、生憎の曇り空で撮影には最低な条件だが、一度撮影してみようと翌日早起きして覗いてみた。
現在でも蒲郡の最強のパワースポットと言われる、「竹島」長さ387メートルの橋で陸地と結ばれた、蒲郡のシンボル・竹島。島の中央部には、開運・安産・縁結びの神々を祀る実に日本人らしい「八百富神社」があります。 



因みに、竹島に鎮座する八百富神社は、平安時代の養和元年(1181)の創建で、蒲郡開発の祖・藤原俊成が竹生島から勧請したという言い伝えがあります。
また蒲郡とは、蒲形(かまがた)と、西郡(にしのこうり)が合わさり蒲郡となったと聞いた事がある。
約300年前の宝永4年(1707)の序をもつ『三河雀(みかわすずめ)』という地誌には、「日本七天女」として、江の島(神奈川県)、宮島(広島県)、天河(奈良県)、竹生島(滋賀県)、布施(千葉県)、野尻(長野県)と並べて「三州竹島」が挙げられています。いわゆる弁天様の事である。

他の地誌にも「風景佳也」と記されており、竹島は古くから観光名所として近隣に知られていたようで、享保20年(1735)に「八百富神」の御神号を賜っています。



また学生時代の友人は週末に現在ボランテアにて竹島付近の案内をしているそうである、意外と同級生は地元で過ごしている人が多いようである。

島の中央に島まで渡る橋が続いている、島はいろいろの神様がお祀りしてあります。詳細は下図をご覧ください。



対岸から約400mしか離れていないのに、本土とは異なる独自の植物体系を持ち、その特異性から島全体が国の天然記念物に指定されています。この先にも大島、小島とあり、昔は夏時期は遊覧船が蒲郡港、三谷港を往来し海水浴客が賑わっていたが現在は筆者には不明であった。ただ記憶に残るは幼少の頃大島で海に潜って採ったアサリは大きく、凄く美味かった記憶が残る。

此の地域は益々過疎化し人口も増えない情態であり兎に角活性化が必要である。環境良い下地は沢山ありほんの少しの調味料で大化けする可能性は大きいかも知れない。この辺りは昔は東三河と言われ岡崎の西三河とも若干違った環境化にも地学的歴史的にも興味深いのかも知れない。
筆者が思うことは昔から三河の糞塊(クソカタマリ)と言われ外部との交流は苦手意識もあり他県で生活すると温暖な環境三河湾特有の穏やかな海後は山で囲まれ神奈川の鎌倉より生活は住み易いのかも知れない、ただ三河気質は馴染めないかも知れない。最近のは古くから親しまれている竹島水族館はスタッフが色々のイベントを実行し最近は客足増員しているそうだが喜ばしい事である。



下の写真は昔有名な常盤館跡地だある、料理旅館「常磐館」は、1912年に滝信四郎氏により竹島海岸に建てられました。滝信四郎氏は「常磐館」「竹島橋」「蒲郡ホテル(現 蒲郡クラシックホテル)」「弘法大師像」など、蒲郡観光の礎を築いた名古屋の実業家です。昔は観光の街として賑わいを見せ、鉄道唱歌にも「海のきれいな蒲郡」と歌われたようである。

現在は「海辺の文学記念館」は、100年を過ぎた今も常磐館と文豪たちを忘れないよう、1997年に建てられました。
館内には、常磐館で実際に使われていた照明器具や100年前から使われている置時計などが飾られ、落ち着いた雰囲気を醸し出しています。


但し筆者が意外と不思議に思うは親鸞聖人が矢作川でのお言葉もあり、西三河には一向宗が多く勿論尾張、東三河とも一向宗の進行は多くない、また本山に於いても一向一揆の支持はなく、単なる偶然での一向一揆の危機が迫ったのであろうか不思議でありお寺側は不入兼の取り消しだけであった。

現在日本中世史、特に戦国時代史小和田 哲男先生並びに岡崎を中心とした地域の歴史研究をしています市橋章男先生も加わって制作中のどうする家康ですが蒲郡の古き時代を西三河と東三河の違いがあるという題材も描かれています。



この写真は妹が撮影した画像を後日添付したものです。今も残る上ノ郷城跡に残る石で作った案内の日が残る、鵜殿どのは裏手の地方名で鵜殿坂と言われる道路で見つかったと言われている。今も残る土塁が残っています。
同じ三河でも全く違う軍団であり、西三河は矢作川と平野しか無く、東三河には温暖で静かな三河湾の隣接と大きな河川豊川もあり、食料、交通網も実に利便性が高く、一種生活環境の違いが伺える事であろう。

鵜殿長照は「西の郡の民話」より引用 蒲郡市立北部小学校 の西のダラグラ坂を「鵜殿坂」と呼んでいる。 永禄5年(1561年)の上ノ郷合戦の時、城主の鵜殿長照が城を逃れて長沢街道を落ちようとした。安楽寺東の坂であとを追って来た敵の松平金十郎が長照に追いつき一騎討ち、刀を抜いて戦った。 運とでもいうか、長照は木の根につまづいてころぴ、起き上るところを飛び込んで来た金十郎の一刀で斬られ、無念の最後をとげてしまった。「無念、もしころばなかったら……。」と長照が言い残したので、この坂を「鵜殿坂」と呼び、この坂でころぶと怪我をすると伝えられており、鵜殿の怨念だと今だに伝説が残っている。そうですのでこの坂では転ばないように注意していると言われる。



後日調べて解った事はこの付近の山の上にある一見城の様な「蒲郡クラシックホテル」創立は昭和 9年だそうでが、以前この辺り東三河は「府相城」として今川支配下になっていた様で、最も有名な城は上ノ郷城があります。思うに昔は海上輸送が発達していた為この辺りは港も多く交通の便も良かった様です。
この様な小さな町なのだが、後は竹谷城、形原城、水竹城、丹野城、中島城の城があったと言われる。



さすが三河湾内と思われる並静かな穏やかな海が広がってます。そして反対から見た竹島を撮ってみました、一般的にはこの方角から撮ることが一番のポイントと言われるようです。早朝は朝凪で風情がある写真が撮れるのですが生憎の曇り空で大変残念であった。
紹介したが隣には昔は有名な旅館で常盤館の跡地が今も残っている撮った場所は常盤館跡地前です。
その後、勿論新鮮な魚を見に西浦漁港の朝市にも立ち寄る、お土産にと「シャコ」を探すが・・・・市場の人に今年のシャコ情報も聞くと、残念なことに天候不順も影響され全く採れないそうです、茹でたてのシャコは絶品で、しかも採って直ぐに船上で蒸した物は最高です。

妹も昨年初めて日展に入選受賞し今年も「書」で日展のテーマが決まり今から準備するそうですが、その前の名古屋開催の朝日展の出品と重なり忙しいと言ってました。日展中心に頑張れと言ってきました。



蒲郡を地政学的に思えば、前方は海でそして小さな街が開けその後方の三方は山で囲まれ、三ヶ根山、五井山、弘法大師像の建立された弘法山等で囲まれ自然な要害でもあり、鎌倉と近い地形が広がる東三河の要所にもなった事は理解できる。現在はその三方の山裾にはみかんの栽培が広がり味の良い「蒲郡みかん」は特に有名です。上ノ郷城址跡地も現在みかん畑になっている。

無事に墓参りも終わり親父の兄弟共に祀られる真宗 大谷派 常円寺にも立ち寄る。無事お参りも済ませ。常円寺のすぐ近く(丁度裏手にあり徒歩5分ほど)にある、今話題の有名な寺、鎌倉時代の歴史の世界に立ち寄る。
大変お恥ずかしい話ではあるが、筆者は歴史好きだが最近までこの曹洞宗 長泉寺(ちょうせんじ)が此のような歴史を抱えた寺とは知らなかった。今年のNHK大河ドラマにより知った話題でもあり、是非訪れて見たかった場所でもある。特に入り口の門は五井城から持ってきた赤門が有名である、たたき部分は未だ赤色に染まり風情を残しているようです。

曹洞宗 龍田山 長泉寺(蒲郡市五井町)に今年の十三人の鎌倉殿に出ている安達藤九郎盛長墓所がある、安達藤九郎盛長は建久5年(1194年)、三河国に守護が置かれた際、初代守護となった鎌倉幕府の重臣。源 頼朝の命により三河国各地の社寺の再興や造営に努め、この地には長泉寺を建立。長泉寺は後に「三河七御堂」と呼ばれるほど栄えました。五輪塔は5つの石を組み合わせて建てられたもの。蒲郡市指定文化財です。



ドラマではお人好しで憎めない役を演じて好感度も誠によろしい様である。
長泉寺の墓場には別の所に安達家の墓があり27代の墓まであった。この三河、尾張はこの様な歴史的名所、人物等は非常に多く点在する、蒲郡の近くに吉良家、岡崎には徳川家と多い様である。頼朝の実母方の実家熱田で、生まれ愛知県尾張熱田の出身者でもある。
丁度関東と京都の真ん中に位置する三河、尾張は何かと歴史的背景の多い地方でもある、日本史の好きな方は長く滞在して、今一度日本史を紐解くも面白そうである。此の様に歴史を考えれば自ずと地形も一緒に考える事が良い方法でもある。
歴史と同時に地形も含めた全般的には地政学を学ぶ事が一番良い方法かも知れない。特に現在問題になっているウイグル地区などは地学と共に学ぶと理解しやすい様です。歴史の変わり目は必ず前の歴史があり無からは生まれないのが歴史である。



寺の近くには今は無き、五井城があった様です、上記の八幡宮境内となっている辺り一帯に築かれていた。さすが鎌倉時代の関係者で八幡様も近くにある、隣の長泉寺境内も含めて高台となって城館を築くのに相応しい地形となっていた。神社の南側にあるフェンスに囲まれた池が堀の名残と伝わっています。

戦国時代、松平(徳川)一族は、三河国内の各地に分家がありました。 その後、蒲郡市五井町を本拠地とした領主が五井松平家です。現在は滅失してしまいましたが、古城山真清寺が建っているところに、 かつて五井城がありました。 
徳川家康が、江戸へ国替えになると、五井松平家も関東へ移り住 みました。
江戸時代には五千五百石の上級旗本として存続し、歴代当主は、「常備火消けし」(江戸城や市中を火災 から守る役目)などを歴任しました。開催中の企画展「松平家ゆかりの文化財」では、五井松平家の子孫の 方にお借りした、系図・過去帳・ 書画・工芸品など貴重な文化財を 展示しています。



安達盛長(あだちもりなが)/野添義弘さんが演じています。安達 盛長は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の御家人。鎌倉時代に繁栄する安達氏・大曽根氏の祖で、源頼朝の流人時代からの側近である。 『尊卑分脈』では小野田三郎兼広の子としているが、盛長以前の家系は系図によって異なり、その出自ははっきりしていない。兄は藤原遠兼でその子が足立遠元とされている。

安達盛長は「愛すべき従者」だとキャスト発表のときに紹介していただきましたが、頼朝のために淡々と動き回って仕事をすることから、とても真面目な人だと思うんです。のちのち13人の中に入るときには強硬派になったりとか、ちょっと怖い部分が見えてきたりもしますけどね。実は三谷さんから、安達盛長という役についてメールをいただいたんです。
「草燃える」(1979年)で盛長を演じられた武田鉄矢さんを例に出して、「当時は若い盛長で書かれていたけど、最近の研究ではもう少し歳を取っていたらしいので、今回は老練な安達盛長を演じてほしい。野添さんがやるのだから、荒々しい坂東武者の中でも異彩を放つ、寡黙ながらもすっとぼけたユーモアのある盛長を演じてもらいたい」と。そうなれるように、一生懸命やっております。三谷さんのイメージは、“かしこまった場が苦手な現場主任”らしいです(笑)。


ひっそりよした佇まいの長泉寺入り口付近。駐車場は左側道路を進み左側に以外と広い駐車場があります。


五輪塔の説明文


入り口山門、赤く塗られた門は五井山の麓にあった五井城より持ってきた門と言われてます。


山門より本堂を覗く、下の土の部分が門の朱色が雨等により塗料が落ち朱に染まってます。
東三河あたりは戦国時代から江戸幕府が登場するまでの時代の中心地に近い為か構築された砦に近い城が多く点在する。また中世から戦国時代までの事を書かれた書物、小林 林之助 著「三州上郷城物語」の本には蒲郡のことは詳しく書かれている様ですので、探して一度読んで見たいですね。


長泉寺本堂


鐘撞堂


稲荷神社


筆者は此処の出身なのにこの寺の見学は初めてでもある、実際蒲郡に住んでいたのは28歳の頃までで、その後は東京住まいで現在千葉県在住で、同級生等はほとんど三河在住者が多い様である。

鎌倉時代の安達盛長の墓何故か?27代の墓まであった。


中央は安達盛長の墓の様です。


特徴は、本堂から鐘撞堂まで来られる便利な創りになっていた。


これを見て今回の歴史巡りの旅は終わる。

お割れが若干小腹が減る、実家近くの地元のうどん屋「清田庵」にて名物のうどんを頂く、最近有名になったうどんである。ご当地うどんの新定番「ガマゴリうどん」

そして最近の食べ物は「ガマゴリうどん」濃厚なアサリのダシとワカメの潮の香りで旨味の効いたご当地うどんのことです。
2013年、滋賀県東近江市で行われた「第3回全国ご当地うどんサミット2013」にて、初出場で初優勝を飾り一躍話題に。 翌年、秋田県湯沢市で行われた「全国まるごとうどんエキスポ2014 in 秋田・湯沢」に於いても、蒲郡うどんは初出場初優勝を飾り、その実力を不動のものとしました。 現在市内17ヶ所(2021年3月現在)のうどん店・飲食店にて、蒲郡市シティセールス推進協議会お墨付きの蒲郡うどんを頂くことができます。

特に春のあさりの旬の頃、身の一杯詰まった味の強い特徴の三河湾のアサリ拾いは特に有名で、大塚、竹島、形原等近くの浜辺で旬の季節に採れる大きなアサリの酒蒸しは実に美味しい。
時期になれば観光バスが押し寄せ特別な賑わいを見せた。筆者は20代後半から江戸で暮らすが江戸湾で取れる魚介類より三河湾のが味が濃く感じる。

良く釣りに出撃していた頃、一度尺近い内房で釣ったキスを両親に送ったことがあるが、型は立派だが味は三河湾のキスが味が濃く上手いと言われた、実際アサリの味を比べ江戸産(船橋浅瀬である三番瀬・木更津当たり)より三河産がはるかに上手いのは不思議である。特にガザミ(ワタリガニ)については味の差が違いは大きい、蒸し蟹が実に上手い。

蒲郡うどんは最近復活したと言われる地元で採れる三河湾のアサリの濃厚なスープは別格である、ブラボー!

TANNOYIIILZ Monitor Goldで今蘇るショパン夜想曲第20番嬰ハ短調の演奏するジネット・ヌヴー(vl)の美しい音。

2023年04月18日 | クラシック音楽・オーディオ

現在筆者の音響機器のエンクロージャーは所謂オールドTANNOYの10i吋同軸2ウェイ(IIILZ Monitor Gold)のユニットにGOODMANS AXIOM 80の箱にアコースティック・レジスタンス・ユニットA.R.U.180を装着した箱に納め試聴している、正直セットしたばかりの頃は、低音が煩く、桶の中で聴く様であり誠に酷い状況であったが、でもオリジナルと比べ低域の音は認識できる様になった事は確かである。
早速改良を始める設置方法、インシュレーター等検討し、勿論箱の点検収音材の検討見直し等も含め随分苦労した、勿論アンプ機器についても色々交換しそれに伴う接続ケーブル、電源ケーブル等の見直し少しずつ改善を重ね現在に至るが、筆者の実施している改善はネット情報によりますと未だ小学生レベル程と紹介されていた。
今やスピーカーケーブルでも片チャンネルだけで10万円程度は序の口と言われるそうであるが、リタイヤ組の筆者にはそこ迄のコストはかけられないのが現状である。勿論RCAケーブルも件案事項である。



アンプはオールドTANNOYを聴くには相性の良いと言われる真空管アンプに交換したが、但し昨年三極管の国産品300Bを入手でき現在使用中ではあるが、この球が実に相性抜群の良い塩梅である。筆者は勝手に思うが確かにオールドTANNOYの音の特徴はそれぞれ鳴らしようには千差万別方法はあるが、ヴァイオリンの音色は他のユニットでは真似の出来ない音を奏でる事が可能である。

オーディオに興味を持ち、当初のステサン誌の記事意外の五味康祐氏の記事が参考になりステサン誌も定期的に読む様になった、筆者が愛読する様になったのは1965年以降と思うは、それ以前のステサン誌及び五味氏の冊子は先輩の本をお借りし読ませていただいた。
記事内容によると(敗戦の衝撃、未だ醒めやらぬ昭和21(1946)年12月、雑誌『創元』第一号に美学評論『モオツアルト』を発表し、日本の知識階級や魂の潤いを求めていた若者に芸術と人生の何たるかを教えた小林秀雄は、女流ヴァイオリニストが大好きであった。小林秀雄は昭和47年春、剣豪作家で音楽とオーディオに狂っていた五味康祐と鎌倉で音楽談義をした。
対談時、ヴァイオリニストっていうのは女が一番いいと思っているんです。女とヴァイオリンっていうもののコンビがいいんです」と気焰をあげている。たまたまテレビでジョコンダ・デ・ヴィートの奏でるメンデルスゾーンを観て、レコードを全部買って来いと家人や弟子に命令したというほどの入れ揚げようである。)デ・ヴィートは35歳のとき、遅咲きの名花として世に出、イタリア最高のヴァイオリニストと謳われた。



以前当時の78回転のレコード版スクラッチノイズは多いが其のレコードからトレースしたジョコンダ・デ・ヴィートCDヘンデル:ヴァイオリンソナタ第4番二長調と当時のマスターテープが見つかりCDプレスしたブラームス:ヴァイオリンソナタ(雨の歌)含む第1番〜3番の発売があり、喜び勇んで聴いたが、音質は程々であったことを記憶するが今回改良したTANNOYで聴くと澄んだヴァイオリンの音色は絶品である、この様な事で今までと違った感覚になるとは、まさにオーデイィオの不思議な醍醐味でもあろう。再度聴き直し寸評したいものである。

ジネット・ヌヴーは15歳の年、ヴィェニャフスキ国際コンクールに参加。下馬評では敵なしと言われた26歳のダヴィード・オイストラフを差し置いて見事に優勝した。そのとき自由曲として選んだのが、お得意のラヴェル《ツィガーヌ》。この作品は後に、兄ジャンのピアノでスタジオ録音しているが、これは子供の産めない男には逆立ちしても敵わない特別の演奏だ。
世界に衝撃を与えたヴァイオリニストの誕生ジネット・ヌヴーは、1919年8月11日、第一次世界大戦の傷がまだ癒えないパリに、5人兄弟の末っ子として生まれた。ヴァイオリンを習いはじめたのは5歳のときだったが、その才能は最初からずば抜けていたようで、はやくも7歳でブルッフの協奏曲を弾いてデビューしている。

その本のお陰により、ジョコンダ・デ・ヴィート、ジネット・ヌヴー、そして男性の演奏者でジノ・フランチェスカッティ、となる3人の演奏者の深さを知る事となった。



特に彼女の名を世界に知らしめたのは、1835年にワルシャワで行なわれたヴィエニャフスキ国際コンクールだった。各国から有望な若き名手たちが大勢参加したこのコンクールで、15歳のジネット・ヌヴーは、2位のダヴィード・オイストラフに大差をつけて優勝したのだ。

話は筆者の音響機材の音であるが、色々変更しながら調整はしては見るが、最近の録音状態の良いソフトは音質も良くはなり、相変わらず昔の録音の再生は低音の被りが耳につき気に入らない事が気になっていた、大好きなWanda Landowskaのチェンバロの音も何故か低域が被り実にバランスが良くない。
しかし最近インシュレーターを改良したSPENDOR SP3/1P、LS3/5aは箱から音が離れた感じに聴こえる様になったので、早速メインの(IIILZ Monitor Gold)のユニットの箱のインシュレーターも改良を施し視聴すると今までのような低域被りも解消された良好な音質に変わった、試しにWanda LandowskaのInvention BWV772を試す、なんという事か見事にエンクロージャーのセンターに定位するのではないかまるでマジックの様であった、音質の改良された為かボリュームを上げても音の抜けが良く爽やかな感じが増した我ながら見事である。

今まで散々苦労を重ね、色々試しては見たのだが、この様な事で簡単に音質変化するとは思いもしませんでした。この際ジャズ系統も試聴するが以前より全体に抜けの良い音になった様に思う、アメリカのカラッとして音ではありませんが。一番の変化はヴォーガルは断然リアルで生々しく聴ける。



確かに筆者はショパンのピアノ曲は好きで良く聴くが、最近購入したファジル・サイ(ピアノ)沈黙を破って登場したオール・ショパンの皆さんご承知のノクターン集を愛聴する。
仕上がりは「きれいにまとめた演奏」とは次元をことにする、胸を焼かれるような憧れと、深い深い沈潜と、激しい情熱がほとばしり出るようなロマンティックでダイナミックな、ファジル・サイにしかなし得ないハイパー・ロマンティックなショパンを聴くことができた。訳があり第20番 ハ短調を繰り返し聴く。以前と比べ確かに澄んだだ無駄な音は無く、それどころかより研ぎ澄まされた音が聴ける様になった。
 
 ファジル・サイ(ピアノ)ショパン:ノクターン「夜想曲」集


  ノクターン第20番 嬰ハ短調 遺作
 【演奏】
 ファジル・サイ(ピアノ)
 【録音】
 2016年3月 ザルツブルク、モーツァルテウム 大ホール



フレデリック・ショパン(1810-1849 Chopin, Frederic)は、フランス人の父ミコワイ・ショパンとポーランド人の母ユスティナ・クシジャノフスカの間に1810年3月1日に生まれた。父は16歳のときにポーランドに渡り、スカルベック伯爵の家庭教師などをつとめる。
同家で小間使いをしていた同伯爵家の遠縁にあたるクシジャノフスカと知り合い、二人は1806年に結婚する。ショパンの兄弟では、3歳年上の姉ルドヴィカのほかに、妹イザベラ(1811年生)、エミリア(1813年生)がいる。姉ルドヴィカとは強い絆で結ばれ、彼女はショパンの死を見取った。

フレデリック・フランソワ・ショパンは、ポーランド出身の、前期ロマン派音楽を代表する作曲家。当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家としても有名だった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ピアノの詩人とも呼ばれるようになった。



夜想曲第20番 嬰ハ短調 KK. IVa-16「レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ」(遺作)は、フレデリック・ショパンが1830年の春に作曲し、没後の1875年1月5日に出版されたピアノ独奏曲。正式な献呈はないが、姉のルドヴィカ・ショパンがピアノ協奏曲第2番を練習する時のための曲として書かれた。
初版では「アダージョ」という標題がついていたが、ブラームスがこの曲を写譜する際にこの標題を消してしまった。残った速度記号の「レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ(Lento con gran espressione)」のみが残り、これが標題として知られるようになった。また現在では夜想曲として知られるが、これはルドヴィカがショパンの未出版作品のカタログを作った際に「夜想曲風のレント(Lento w rodzaju Nokturna)」と記したことによる。ショパン:ノクターン集
「ノクターン」という呼び名は、邦語では「夜想曲」と訳されるように、「夜を想う曲」というのが語源にもある ようです。

この曲を作曲した当時、ショパンには、 コンスタンツィア・グラドコフスカという片想いの女性がいましたが、この作品にもそのような一途な片想いに 悩み苦しむショパンの姿が影を落としています。この曲の初版には「姉のルドヴィカが私のピアノ協奏曲第2番の練習の前に弾くために」と 書かれていたようです。 曲については、 同じ音型を繰り返す4小節の序奏の後、嬰ハ短調で悲痛で孤独なモノローグが奏でられますが、この旋律は一瞬にして 聴く人を捕らえます。とくに15小節目の3連符の下降音型は、静かな叫び声といった趣で聴く人に強く訴え、胸が痛みます。 曲の至るところに、作曲当時のショパンの決して幸せではなかった青春時代、片想いの苦しみといったものが 感じられ、聴くたびに目頭が熱くなる作品です。
 

ショパンの数ある作品の中では、最近では認知度ナンバーワンかもしれません。
映画「戦場のピアニスト」ではこの音楽象徴的に使われましたし、最近では平原綾香が「風のガーデン」の主題歌として取り上げています。



上のピアノはショパンが使用した楽器だそうです。この様に紹介されていました(作曲家ショパンの死後、このピアノは150年以上の間、その存在を忘れられていた。イギリスのサリー伯爵領 ( Surry ) に住む収集家のもとでこのグランドピアノを発見したのは、スイスの音楽教授ジャン・ジャック・エーゲルディンゲル氏だ。決め手となったのはピアノに記された通し番号だった。)

ジネット・ヌヴー(Ginette Neveu)の演奏を聴き納得したCDです、1949年6月10日 、ハーグでのライヴ。ヌヴーはブラームスのヴァイオリン協奏曲を看板楽曲にしていて、僅かCD7枚分しかない彼女の録音遺産の中で、4種の録音を残しました。これはその最後の録音記録であり、「弾くたびに良くなってゆきたい」と願っていた彼女の同曲べスト演奏となりました。若き日のドラティの気魄のこもった、かつ冷静な視座も併せ持った指揮も見事です。
注意事項は「放送用のアセテート盤からの復刻で、若干のスクラッチ・ノイズが伴いますが、音自体は極めて鮮明です。」ジネット・ヌヴー生誕100年&没後70年記念盤を購入したがやはり低音が被り気味だは合ったが。

コピーでは「この音質の良さには思わず興奮!気迫と情熱、凛とした弾きぶりには思わず震撼、身ぶるい!伝説の名演(ブラームスの協奏曲49年盤)がかつてないほど極上の音質で蘇る!」と煽った文言が掲載されていた。

《CD3》
 1) ラヴェル:ツィガーヌ
 2) ラヴェル:ハバネラ形式の小品
 3) スカルラテスク:バガテル
 4) ファリャ(クライスラー編):歌劇『はかなき人生』~スペイン舞曲
 5) ショパン(ロディオノフ編):夜想曲第20番嬰ハ短調
 6) ディニーク(ハイフェッツ編):ホラ・スタッカート
 7-10) スーク:4つの小品Op.17
 11-13) ドビュッシー:ヴァイオリン・ソナタ ト短調
 [共演]
 ジャン・ヌヴー(ピアノ)
 [録音]
 1946年3月26日&8月13日(1)、1946年3月12日(2, 3, 4)、
 1946年8月13日(5, 6)、1946年8月14日(7-10),
 1948年3月18日(11-13)、
 ロンドン、アビイ・ロード・スタジオ

ここでは筆者の好きな曲を修復後のTANNOYで聴いた、どうであろうか?
第1楽章から、猛烈な気迫が聴く者の心を揺さぶります。吸引力の強さは無類です。ヌヴーのソロの音、凛とした弾きぶり、ストラディヴァリウスの艶やかな音がしっかり捉えられいます。ヴァイオリン・ソナタで演奏を聴くのは初めてであるが、全く古さは感じなく最高の作品に仕上がった演奏である。



この様な記事が掲載されています。
"不世出の天才ヴァイオリニスト"ジネット・ヌヴー。1919年8月11日パリ生まれ。1949年10月28日、アメリカ演奏旅行のためパリから飛び立った飛行機がポルトガル領アゾーレス諸島(大西洋上)中のサン・ミゲル島に墜落、まだ30歳の若さで命を絶ってしまいました。遺された録音は数少なく、どれもが本当に貴重。

従来盤には、世界初発売したキング・セブンシーズのKICC-2182(91年発売、ミュージック・アンド・アーツ原盤、廃盤)、ミュージック・アンド・アーツのCD-837(94年発売)、DanteのLYS389-392(98年発売、廃盤)等がありました。今回の音源はEPITAGRAPH(エピタグラフ)が知人を経由してオランダの放送局のアーカイヴから入手したもの。記録・保存用のアセテート・ディスクから復刻、デジタル・トランスファーした音源です。スクラッチ・ノイズこそありますが、高域を損なわないように過度なノイズ・リダクションはしていないため、臨場感は抜群。第1楽章のあと、聴衆の拍手が起き、その後軽くチューニングしています。YouTube配信音声です。

 12.Nocturne No. 20 in C-Sharp Minor, Op. posth. (arr. K. Rodionov for violin and piano)
 編曲 : コンスタンティン・ロディオノフ - Konstantin Rodionov
 ジネット・ヌヴー - Ginette Neveu (ヴァイオリン)
 ジャン・ヌヴー - Jean Neveu (ピアノ)
1946年8月13日(5, 6)のショパン(ロディオノフ編):夜想曲第20番嬰ハ短調のピアノ共演のジャン・ヌヴーを聴く、冒頭からピアノ演奏が始まり主題のジネット・ヌヴーのヴァイオリンが鳴り出す、実に美しい綺麗な旋律である4枚目のCDにも同曲が録音されているが、共演がブルーノ・ザイドラー=ヴィンクラーになっている、録音:1938年4月13日とされていた。

まさに望んでいたタンノイの怪しい様なそれでいて透き通った涼やかなヴァイオリンの音色の響きがやっと聴けたのです。
確かにヴァイオリンの音が聴けた、ヌヴー音が聴けたのである。その後曲も終わり、闇静寂が漂い余韻い酔い空白の時間が過ぎていく。今までずっとこの音を望んでいた音なのであろうかと・・・。



5度目の訪米を控えた1949年早春、彼女はスペア楽器の必要性を感じ、楽器商マルセル・ヴァトロでJ・B・グァダニーニを購入しました。グァダニーニはオモボノ・ストラディヴァリウスとともにワニ皮カバーが付いている頑丈な二重ケースに収められました。
彼女の楽器についての伝説に「ストラディヴァリウスは破壊されずに生き残った」というのがあります。海外盤の初期LPにある記述を訳したものですが、彼女が持っていたのは、前述した通り有名な「アントニオ・ストラディヴァリウス」ではなく、その息子の「オモボノ・ストラディヴァリウス」でした。また、彼女の遺品を確認した楽器商ヴァトロの2代目、エティエンヌ・ヴァトロ(1925~2013)の証言によれば、事故後、エール・フランスの調査官が発見したのは二重ケースと2本の弓だけでした。エティエンヌは事故から33年後の1982年6月30日、フランスのTV局アンテンヌ2の番組で以下のように証言しています。
もっと沢山の作品を味わって見たかったヴァイオリニストである、ブラボー!

東北より嬉しい便り到着、コロナ禍で足止めされていた、「貧困老人(俺たち)の旅」のお誘い・・・

2023年04月16日 | 歴史の考察

筆者も今年後期高齢者を迎えそれなりに過ごしている老人ではごじゃりますが、珈琲好きでもあり、新しい銘柄を見つけたら購入し試しては見るが、結果としては味と価格は比例する様である。但しお店毎でオリジナルブレンドと称する豆があり一番お値打ちである様です。

勿論淹れ方も様々ではあるが、筆者は基本ドリップ方式を取り入れているが淹れ方にもテクニックな箇所があり色々試しながら味見し繰り返し最近は美味い淹れ方が固まった様であり、遊びに来る友人達も美味いと言っている。
但し原産地の値上がり、輸送価格の高騰により珈琲豆もずいぶん値上がりをしている傾向がある。

確かに珈琲豆の違いで味も千差万別だが筆者の場合はオリジナルブレンドでの豆の違いでの味の楽しみも面白く、必ずオリジナルを試し飲みする。



今回見つけた珈琲は「やなか珈琲店 」オリジナル ブレンド品にて配合生産国(ブラジル、コロンビア、ニカラグア、ペルー)満足感の高いコクとスムーズでバランスのとれた味。質感の高い後味。エリア指定のブラジルをベースに生産者の生活と農園の持続性に配慮したニカラグアとペルーのコーヒーをプラスの豆を一人前100グラムを抽出する。引き方は8番です。

尚梱包も丁寧で紙製の包装も気に入っています残りは冷蔵庫の保湿ルームで保管、早速いただくとこの味わいは少し薄めであり、110グラム程が良い塩梅と思う、しかし実にスッキリした味わい飲み心地は大変良い塩梅で合格である。



後は最近東北の友人から吉報が入った!
コロナ騒ぎで延び延びになっていた「貧困老人(俺たち)の旅」。のお誘いである、以前露天風呂から一面に見える日本海の温泉で秋田方面の話もあったが、最近海外の訪れたい都市で有名になった盛岡地方も最近観光客が多く混雑を避けるため、検討の結果候補は青森の三内丸山遺跡を含めた温泉旅行で期間は6月下旬で2泊3日であるそうでした。

入梅時期も重なるが基本は温泉と美味しいお酒と会話が楽しみですので、青森地方の温泉三昧と爺さん達の楽しい会話を肴に美味しい日本酒が楽しみでもある。

最近注目される筆者の学生時代の教科書には縄文時代の文字のみの紹介で終わる縄文時代は実に長く磨製石器時代も含め一万年以上も続いた縄文時代は勿論、興味深く一度は訪ねて見たい場所でもあり日本本州最北端での長く続いた三内丸山遺跡も面白い案件である。
縄文時代は今から約1万2~3千年前に始まり、約2千3百年前に終わった約一万年以上続いた縄文時代は実に長い歴史であろう。
今回の一番の興味は三内丸山遺跡であろう、平成4年(1992年)から始まった発掘調査で、縄文時代前期~中期(紀元前約3,900~2,200年 現在から約5,900~4,200年前)の大規模な集落跡が見つかりました。たくさんの竪穴建物跡や掘立柱建物跡、盛土、大人や子供の墓などのほか、多量の土器や石器、貴重な木製品、骨角製品などが出土したそうです。
一番興味深いことは石器時代使われた黒曜石等の磨製石器を使い続け殺戮のための武器も見つからなく、ごく自然に次の世代に上手く混じり合って行った事が解る、世界でも類を見ない種族なのであろう。



 縄文時代の建物の巨大な建築筒は興味が膨らむ、地面に穴を掘り、柱を建てて造った建物跡です。柱穴は直径約2メートル、深さ約2メートル、間隔が4.2メートル、中に直径約1メートルのクリの木柱が入っていました。地下水が豊富なことと木柱の周囲と底を焦がしていたため、腐らないで残っていました。6本柱で長方形の大型高床建物と考えられます。
一番の興味は、後は海から続く道路もあり、集落の中心から幅約12メートル、長さ420メートルにわたって、海に向かって延びています。道路は地面を少し掘り下げて、浅い溝のようになっているものや、さらに土を貼って「舗装」されているものもあります。最近の調査で、南北にのびる道路も見つかりました。石川、諏訪、岩宿等の遠方からヒスイ、黒曜石、琥珀、アスファルトなどが舟を使って運ばれてきました。集落が大きくなる約5000年前から、他地域と活発に交流・交易がさらに行われるようになりましたそうです。

以前にも当ブログにて紹介はしたが、黒曜石ガラスとよく似た、鋭く割れる石です。北海道十勝や白滝、秋田県男鹿、山形県月山、新潟県佐渡、長野県霧ケ峰など、日本海を中心として地域の黒曜石が運ばれてき海洋交易が盛んに行われ当時の定着ぶりが伺える様です。海上航海による交易も盛んで想像する船も大きな船であったように想像できる。ある程度は定期航海していた様にも思える。

今まで縄文人は獲物と共に移動しての生活が常識と言われていたが、現在の資料では安定した定住型生活を営んでいた外が解る。
一番驚くことに下図は当時の航路図である。この頃から北前航路があったのであろうか?確かにこの当時の海の航路に使われていた船の遺跡も見たいですね、海洋国民の事実は興味ある話でもあります。当時は良質の黒曜石採取のために神津島の恩馳島にて採取していた事実もあるそうです。
最近の研究では人間の脳の重さは1,400g程あるそうですが、近年の脳の重量は少し減っているそうです。確かに縄文時代の人は現在より脳を使っていたのかも知れません。


 
最近特に面白く興味をそそられるは、日本の歴史である、旧石器時代を含め縄文時代、弥生時代とあるが、世界の歴史と全く違う日本の国は大きな戦争もなく、温暖で適度な安定した自然環境も整い穏やかで暮らしやすかったのであろう。

この様な大きな遺跡を訪ねる旅も実に面白さ、興味深さがあり縄文時代の世界を覗く気持ちでじっくり楽しんで見るつもりである。



最近DNA解析が進み歴史が解き明かされる状態にはなった様であるが今後益々細分化された情報が楽しみでもある、
日本人男性のY染色体を調べて判明した世界でも実に珍しいハプログループD1b2と言う遺伝子を持っていることであろう「ハプログループ」は、人間の細胞内の「ミトコンドリア」と呼ばれる器官のDNAの多型を用いて分類される遺伝的なグループを指します。 ミトコンドリアは祖母から母親、母親から自分と母系を伝って受け継がれるため、ミトコンドリアのDNAを調べることによって母系の祖先のルーツを辿ることができると考えられています。ゲノムも船泊23号F23と解析されている。

この様な事実は発見され20年程経過しないと本にはならなく、一番面白い事は一般的には違った学校教育問題が残るであろう、近隣諸国条項等の事があり歴史的には闇の世界の話になるのであろう。
全く役人は時代遅れも甚だしく全く馬鹿馬鹿しい限りで今後の教育より役人の立場ばかりを考え今後も間違った歴史を押し通すつもりであろうか?疑問視する。



中世が「暗黒の時代」と言われるのは、度重なる悪天候や戦乱により農作物の栽培が安定せず、文化が成熟できるほどの社会基盤が整っていなかったためと言われています。この様な時代は、1,000年間も続いたということになります。
ここでは一般的な区分でもある「ローマ帝国の崩壊(5世紀)から、ルネッサンスの始まり(15世紀)まで」の間を指して中世とすることにします。ここで面白い事はキリスト教は全く広まって無かった事が事実でローマが滅び欧州の平野部は落葉樹の樹海ができ、所心にいた貴族がキリスト教徒で庶民は森を伐採し農地に変えて生活をし日曜は貴族の館に行きキリストを祈り、やがて街の中央にバロック建築を大聖堂として建築して、礼拝のために讃美歌を演奏者を雇い演奏し歌った事で徐々にキリスト教徒を増やしていったのである。

王や貴族たちは、市民から搾り取った血税で夜な夜な豪華なパーティをして、国が揺らぐほどのお金を浪費するのは日常茶飯事でした。
この貴族は世襲がほとんどなので、貴族に生まれたら貴族だし、一般市民として生まれたら、市民としてしか生きていけない時代です。アメリカンドリームのようなサクセスストーリーなんてありえない時代なので、一般市民はぐっと耐えるしかなかったのです。
このような時代背景の中、市民の不満がたまることは明白で、市民の怒りのパワーが徐々にたまっています。そうなると、市民が暴動やクーデタを起こすのは当然ですよね。そのパワーにより、あっけなく王政の時代は終わってしまいます。

クーデタにより王や貴族を倒した市民は、今度はその市民によって国づくりが行われるようになります。そして現代にもつながっていく資本主義へと、世の中は大きく進化していきます。



なのでこのバロックの時代は、「近代化」への架け橋に過ぎない、、、という時代だったと言えます。
その音楽カンタータ単声、または多声の器楽伴奏付の大規模な声楽作品のことです。または交声曲。「歌われるもの」を意味します。オラトリオイタリアで始まった、宗教や、道徳的なテーマによって作られた、独唱、合唱、管弦楽のための大規模な音楽作品のことを言います。オペラなどとは違い、動きや衣装、舞台などの背景装置を伴わない叙事的な楽曲のことです。

今回は意外とコーラスが妙に生々しく聴こえた英国の鍵盤勝者が指揮する、勿論録音も大変優れ音質もよい。
ジョン・バット(John Butt)は、(1960年11月17日、ソリハル、イギリス生まれ)は、オーケストラと合唱の指揮者、オルガニスト、ハープシコーディスト、学者です。彼はグラスゴー大学のガーディナー音楽委員長であり、ダニーデンコンソートの音楽監督であり、彼は歴史的知識に基づいたパフォーマンスで受賞歴のある録音を行っています。それらの多くは、ライプツィヒのクリスマスの日にバッハの最初のクリスマス礼拝など、特定の歴史的パフォーマンスの再構成を備えています。



これがリフキンの導き出した結論!ダニーデン・コンソートのロ短調ミサ!
.S.バッハ:ミサ曲ロ短調 BWV.232(ジョシュア・リフキン校訂ブライトコップ版/2006)

話題をよんできたジョン・バットとダニーデン・コンソート&プレーヤーズ。音楽学者としても高名なジョン・バットが取り組んだバッハの名作『ロ短調ミサ』。演奏に使用した楽譜は、2006年末に出版されたジョシュア・リフキン校訂によるブライトコップ版。

ジョン・バットと共にダニーデン・コンソート&プレーヤーズの芸術監督を務めるスコットランドのソプラノ歌手スーザン・ハミルトンや、古楽唱法に長け、名匠たちからの信頼も厚いバスのマシュー・ブルックなど、各声部1名という「OVPP」で重要な役割を担うソリスト陣への期待にも大きなものがあります。
ジョシュア・リフキンが導き出した『ロ短調ミサ』の最終形態の全容を、ダニーデン・コンソート&プレーヤーズの演奏とリン・レコーズの超優秀録音が明らかにする注目盤の登場です。



スーザン・ハミルトン(ソプラノ)
 セシリア・オズモンド(ソプラノ)
 マルゴット・オイツィンガー(アルト)
 トーマス・ホッブス(テノール)
 マシュー・ブルック(バス)
 ダニーデン・コンソート・プレーヤーズ
 ジョン・バット(指揮)

 録音時期:2009年9月11-17日
 録音場所:エディンバラ、グレイフライアーズ教会
 録音方式:ステレオ(デジタル/セッション)

J.S.バッハ:ミサ曲ロ短調BWV.232(ジョシュア・リフキン校訂ブライトコップ版/2006)
1.CD
 1.Mass in B Minor: Missa (Kyrie & Gloria): Kyrie eleison
 2.Mass in B Minor: Missa (Kyrie & Gloria): Christe eleison
 3.Mass in B Minor: Missa (Kyrie & Gloria): Kyrie eleison
 4.Mass in B Minor: Missa (Kyrie & Gloria): Gloria in excelsis Deo
 5.Mass in B Minor: Missa (Kyrie & Gloria): Et in terra pax
 6.Mass in B Minor: Missa (Kyrie & Gloria): Laudamus te
 7.Mass in B Minor: Missa (Kyrie & Gloria): Gratias
 8.Mass in B Minor: Missa (Kyrie & Gloria): Domine deus
 9.Mass in B Minor: Missa (Kyrie & Gloria): Qui tollis
 10.Mass in B Minor: Missa (Kyrie & Gloria): Qui sedes
 11.Mass in B Minor: Missa (Kyrie & Gloria): Quoniam tu solus Sanctus
 12.Mass in B Minor: Missa (Kyrie & Gloria): Cum Sancto Spiritu
2.CD
 1.Mass in B Minor: Symbolum Nicenum (Nicene Creed): Credo in unum Deum
 2.Mass in B Minor: Symbolum Nicenum (Nicene Creed): Patrem omnipotentem
 3.Mass in B Minor: Symbolum Nicenum (Nicene Creed): Et in unum Dominum
 4.Mass in B Minor: Symbolum Nicenum (Nicene Creed): Et incarnatus est
 5.Mass in B Minor: Symbolum Nicenum (Nicene Creed): Crucifixus
 6.Mass in B Minor: Symbolum Nicenum (Nicene Creed): Et resurrexit
 7.Mass in B Minor: Symbolum Nicenum (Nicene Creed): Et in Spiritum sanctum
 8.Mass in B Minor: Symbolum Nicenum (Nicene Creed): Confiteor
 9.Mass in B Minor: Symbolum Nicenum (Nicene Creed): Et expecto
 10.Mass in B Minor: Sanctus
 11.Mass in B Minor: Osanna
 12.Mass in B Minor: Benedictus
 13.Mass in B Minor: Osanna - da capo
 14.Mass in B Minor: Agnus Dei
 15.Mass in B Minor: Dona nobis pacem
永らくロ短ミサの理想を追求してきたら。経済的にも苦しくなってきたところに最終回答が出た。リフキン校訂によるブライトコップ版1パート1人によるものだ。ロ短ミサ堅苦しさを解放してなんと自由な拡がりになったろう。コーラス(合唱)は必然を失ったのだ、これこそがロ短ミサの原風景だ。歌手もすばらしい。とくにアルトのオイツィンガーはただ者ではない様に思った。
カンタータ:単声、または多声の器楽伴奏付の大規模な声楽作品のことです。または交声曲。「歌われるもの」を意味します。



オラトリオ:イタリアで始まった、宗教や、道徳的なテーマによって作られた、独唱、合唱、管弦楽のための大規模な音楽作品のことを言います。オペラなどとは違い、動きや衣装、舞台などの背景装置を伴わない叙事的な楽曲のことです。
このスタイルは、古典派、ロマン派へと受け継がれ、名曲がたくさん残されています。


今回音質を確かめるためにも鍵盤奏者の平均律クラヴィーア曲集第1集も聴きましたが。音質を探るには単一楽器を聴く事で微妙なニュアンスが分かりやすい、チェンバロ等は弦を引っ掻くので強弱での音が変わりにくく音質チェックには重宝しています。手持ちのLS3/5aとTANNOY IIILZをケーブルを切り返し綿密に聴き比べたが以前インシュレーター改良前と比べ随分キレも良く透明度が増した様に感じる、筆者としても先ず先ずの音になった様にもと思えるが、たかが音質程度の問題に随分調整に時間を費やしたものだと笑ってしまう。若い頃からJ.S.バッハの研究者でもあるジョン・バットだけに、多くの経験を経てきた現在の演奏になったのであろう完成度の近い演奏の様ににも思える。



確かに筆者のような老人が学生の頃歴史の教科書では学ばなかった事、なぜ日本は大東亜戦争を決意したのか、日露戦争の戦争費用700億ドルを何処で調達したのであろうか?欧州は何故大規模な奴隷制度は終息したのであろうか?英国、スペイン、フランスの陰謀は何処までであろうか、新しい米国の陰謀なのであろうか?現在ロシアは戦争中だがロシアの後は誰がロシアの後を引き継ぐのであろうか?は世界は打算で組み立てられている事は事実であろう。
現在様々な疑問はPCのネット情報でも手軽に解明できるようになった事と、特に興味ある事柄は市の図書館通いで情報は幅広く収集出来る。

昔から日本人にはこの打算的な気持ちが少ない民族ではあったのですが今は経済界、政治家が狙っている日本は変わって来ているのであろう。実に情けないが事実でもある。この様なことを思い、これで当分素直な心で音楽を聴きながら歴史を考察し想像力を養ってみたいと思います、ブラボー!

実にJ.S.バッハの曲らしい「序曲」(じょきょく)、一般的には管弦楽組曲(BWV1066〜1069)と言われた曲を楽しむ。

2023年04月13日 | J.S.バッハ関係

正月明け何かと忙しく予定が続く、勿論仕事も多少ありやっと日常生活に戻る、暫く振りに年の初めに聴く曲を探してみた。勿論好きなバッハの中から選んでみた。

筆者はバッハのこの曲は今まで余り聴かなかった曲でもあろう、今更ながら疑問に思う・・・?最近は実に良く聴くようになった曲でもある、何故か?聴かなかった理由は金管楽器の音が耳に付き敬遠したのかも知れない?

バッハはこの作品群を「組曲」(Suite)とは呼ばなかった。というのも、バッハにとって組曲とはもっとも狭義の組曲、すなわちアルマンド(「ドイツ風」の意は舞曲の一種)、クーラント(3拍子の舞曲の一種)、サラバンド(3拍子による荘重な舞曲)、ジーク(8分の6拍子または8分の9拍子の舞曲で、イギリスやアイルランドの民俗的な踊りの形式の一つ)の4曲から成る組曲、ないしそれにいくらかの舞曲を加えたものでなければならなかったからである。

従ってこれら作品は前述の通り、「序曲に始まる作品」というような意味で「序曲(Ouvertüre)と呼ばれていたようである。これに基づき、新しいバッハ全集では「4つの序曲(管弦楽組曲)」としている。『管弦楽組曲』(BWV1066-1069)はつまりは序曲である。

今日では単に「管弦楽組曲」といえば、この作品を指すことが多いと思う。成立年代はそれぞれ、バッハが世俗器楽曲を多数作曲したケーテン時代(1717-1723)、またはそれ以前のヴァイマル(1708年-1717年)時代と考えられる。だが、トランペットやティンパニーを含む第3・第4組曲などの編成を見ると、当時のケーテン宮廷の小規模な楽団には不釣り合いと思われ、のちのライプツィヒ時代(1723年以降)に、コレギウム・ムジクムでの演奏のために大幅に加筆された可能性が高い。

また第4組曲の序曲は、ヴィヴァーチェ部分に合唱を加えて、カンタータ110番の冒頭合唱曲に転用されている。なお、第5組曲 BWV1070は、今日では長男フリーデマンの作とされ同曲をカンタータ等の違った演奏方法を知り見直した発見により注目したのである。

筆者がこの曲を改めて聴くうちに、一番バッハらしい作品なのかも知れないと思っている。少し前まではブランデンブルグコンチェルトを聴く事が多かったように思う、これはエンクロージャーをAXIOM80の箱に移植してからに思う、金管楽器が煩く感じなくなったようです。それに太鼓の音は10吋のTANNOYのユニットとAXIOM80の箱でのなり方が実にリアルである。

最近はベルリン古楽アカデミーによるバッハの管弦楽組曲が復活!

勿論古楽器による演奏、奏者も聞き慣れたメンバーが並ぶ安定した演奏で、勿論ハルモニア・ムンディの好録音も見逃せない、組曲第1番プレリュードの冒頭の、品格漂うテンポ感と音色はさすが。

2番の終曲「バディヌリ」で魅せる絶妙なリズム感覚が冴えたアンサンブルは絶品です。旧東ベルリンの古楽器奏者たちが1982年に結成、ドイツ統一後、世界的に進出したこの団体。ベルリンの宮廷演奏の伝統を受け継ぎ、指揮者なしで各奏者の自発性を重んじるバッハがとても新鮮です。

他に、代表的にはカール・リヒター指揮ミュンヒェン・バッハ管弦楽団のアルヒーフレコードが安定して良いが筆者に取って少し古いが、オットー・クレンペラー指揮/ニュー・フィルハーモニア管弦楽団 の演奏は兎に角別格である。

今まで筆者はバロック演奏を聴いたがいずれも雄大なフランス風序曲ではじまるバッハの管弦楽組曲に、クレンペラーは晴れやかな響きを行き渡らせています。

これはベートーヴェンで見せるような、厳然とした面もちとはまた違ったクレンペラーの魅力。巨匠の本質にさまざまな角度から接することができます。
勿論聴けば分かるがオットー・クレンペラー指揮の管弦楽組曲は荘厳という言葉が相応しく、重厚で荘厳なバッハが聴ける確かに現在の演奏者の曲もよいがいかにもバッハらしい序曲である。

ただ音質は期待しない事である、音楽を楽しむなら断然お薦めします。荘厳と言っても良いよ思える響きは正に新しい年にふさわしい気もする。

Silent Tone Record/バッハ:管弦楽組曲14/オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団/クラシックLP専門店サイレント・トーン・レコード

 【曲目】J.S.バッハ:管弦楽組曲全曲

  1-7. 管弦楽組曲 1 ハ長調 BWV1066 序曲

  8-14. 管弦楽組曲 2 ロ短調 BWV1067 序曲

  1-5. 管弦楽組曲 3 ニ長調 BWV1068 序曲

  6-10. 管弦楽組曲 4 ニ長調 BWV1069 序曲

 【演奏】オットー・クレンペラー(指揮)ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

 【録音】1954年11月 ロンドン

確かに此の(AXIOM-TANNOY)エンクロージャーに変えてから聴く音楽が変わってきた、以前は小編成の曲が多く聴いたが最近はオーケストラ、オペラが断然多い、何よりも比較的大勢の演奏を楽しめるようになる。この管弦楽組曲も巨大な交響曲を聴いたような充実感に満たされる。

フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュ、クレンペラーといった指揮者の演奏が古い時代の演奏スタイルと言う人がいるが、古い演奏スタイルのどこが悪いのだろうか。むしろ現在評価されている楽譜に忠実で没個性的な演奏の方が、筆者には退屈に思う聴けば必ず納得します。

但し録音の古い演奏は音質も悪く、暫く聴き続け慣れてから聴けば、人間の耳は相当便利にできていて、それ相当の演奏の叡智は受けるとは思うが、聴き出しは相当無不満も感じ、今回インシュレーターの改良で相当音質もきける程度に変化した、筆者の手持ちのソフトではWanda Landowska演奏のBWV998等は見違える程クリヤーな音が聴ける様になったことは大変ありがたい。今回特に目立ったことはピアノ演奏のクープラン 小品集1.パッサカリア 2.お気に入りの女 3.収穫をする人々 4.心地よい恋やつれ 5.さえずり他の演奏は実に可愛らしく聴けました。

後は、エドゥアルト・ファン・ベイヌム Eduard van Beinum 感動的な「アリア」が聴けるベイヌムによるバッハ演奏録音詳細は1955年5月31日‐6月2日(BWV1066,BWV1067)、1956年4月3日(BWV1068)、10日(BWV1069)かなり前の録音である。

確かにこの当時の演奏は、ご承知のようにモノーラル演奏の為か何故か低域の音が被り気味で曲全体に低音がまとわり付く様な音に聴こえ、どうも遠慮がちでもあった、最近その辺りのの鑑賞方法を解決し、インシュレーターをダブルで使い低域の音量をスッキリした音が鳴る様になった結果に満足しています、この方法はオーディオ雑誌等では敬遠がちな対策と言われている様ですが、敢えて無視して実行したが意外にも音楽を楽しむには筆者としては満足している評論家諸氏が色々口にするが弊害も多い様に思う特にRCEケーブル、スピーカーケーブルについては現物を使用しなければ答えは出ない様である。これで古い演奏も聴くことが増え、改めてベイヌムによるバッハ演奏を愉しむことが出来る様になった。

確かにこの様な古い録音演奏全体に言えることはキレが改善され、実に力強くイキイキと迫力みなぎる演奏は新しい発見である。状況を調べますとレコード会社の契約はデッカ録音ですが、1954年からは地元フィリップス(元オランダ・デッカ)と契約し、58歳で急死するまでレコーディングを続けていました。自然な傾向のサウンド志向でありながら優れた音質で有名だったフィリップスの音の傾向が音質にも影響を与えていた事もある様です。


エドゥアルト・ファン・ベイヌム(Eduard van Beinum)は、オランダの指揮者。1901年9月3日、オランダのアルンヘム生まれの指揮者。1959年4月13日、アムステルダムにて没。音楽一家に生まれ、兄にヴァイオリンを学び、アムステルダム音楽院卒業後、オーケストラのヴィオラ奏者となる。
6人姉弟の末っ子
ベイヌムの小学生時代の同級生によると、女子の帽子でサッカーに興じていたようなほかの粗野な男子生徒たちとベイヌムはだいぶ雰囲気が違っていたようです。ベイヌムの兄弟は、年長の4人が女、年少の2人が男という6人構成で、しかも長女とは15歳、兄とも9歳も年の離れた末っ子というのがベイヌムの置かれたポジションでした。小学校や音楽院で、クラスの女子生徒を下品に攻撃しなかったのも、クチの発達が早い女子4人が支配的という、コミュニケーション能力が発達しやすい家庭環境が影響していたとも考えられます。結婚も、伴奏を通じて知り合った4歳年長のヴァイオリニストのセファ・ヤンセンが相手で、生涯に渡って、威張ったり、無理に我意を通そうとしたりすることのない仲間のような関係だったということです。
 こうしたベイヌムのコミュニケーション能力の高さは、100人前後の人間を相手にするというオーケストラのリハーサルでは特に有効で、メンゲルベルクのように怒鳴ったり脅したり演説したりすることなく、楽員のメンタルを上々に保ちながら、合奏や奏法、バランスの課題を克服していくという手法で、オーケストラの水準を高度に維持することが可能でした。



その後指揮者に転じ、26年からハールレム交響楽団の常任指揮者を経て、31年に名門アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の副指揮者に就任。
38年にはメンゲルベルクと並んで正指揮者となる。
45年、ナチ協力者として追放されたメンゲルベルクの後を継いで首席指揮者となり、その後は世界の主要なオーケストラに客演し、華々しい活躍を続けた。

一時期はロンドン・フィル、ロス・フィルの常任指揮者も兼任していたが、心臓病のため58歳で急逝した。地味だが正統的な実力派で、コンセルトヘボウ管と共演した数々の名盤が残されている。


筆者が使用する機材のプリアンプに安価なAIYIMA TUBE 6N3 Vacuum Tube 6N3真空管プリアンプをモノーラルに真空管はSYLVANIA2C51を代替え品としてしろくま製作所のOPA627AU デュアルに交換し使用するが、レプトンパワーコンダクターグリースを写真上の様にコンデンサー部分の頭の部分に塗布し使っているが、以前より音質に透明度が増したように感ずる、以外と不思議なことに効果は大きく感じた。又現在使用のエンクロージャーの置き方のインシュレーターを重ねることも効果が作用し、このように古いプレスのCD等のソースを聴くも、以前と比べモノーラル録音の音質が被り気味に聴こえた音も澄んだ音に鳴る様に変化した。

以前と比べ断然聴きやすい音質に変化したように思う、このような音が聴けるのなら、古い録音の音楽も今後聴く事が多くなるのであろう。現在自作のインシュレーターの板の下には床の上に載せているが、来週は600×600mmの石板を敷き音質を確かめようと思っている。

Bach: Orchestral Suite No. 3, Beinum & COA (1956) バッハ 管弦楽組曲第3 ベイヌム

 『エドゥアルト・ファン・ベイヌム~J.S.バッハ:管弦楽組曲全曲』

 【曲目】J.S.バッハ:管弦楽組曲

  1) 1番ハ長調BWV1066

  2) 2番ロ短調BWV1067

  3) 3番ニ長調BWV1068

  4) 4番ニ長調BWV1069

 フーベルト・バルワーザー(ソロ・フルート)

 (2)エドゥアルト・ファン・ベイヌム(指揮)

 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

ベイヌムのバッハ演奏は聴く者を元気にさせてくれます。

多くの現代版演奏に見られる非常に速いテンポも、コンセルトヘボウ管弦楽団の前任者であるメンゲルベルクの大げさなクライマックス、ロマン的なポルタメントもなく、ベイヌムは作品への深い愛情が感じられる陽気な演奏を聴かせてくれるのです。

有名な組曲第3番の「アリア」は、トランペット主導の堂々とした第4番の「序曲」と同様に感動的です。なんと言ってもバッハの音楽は何時聴いても色々な演奏者で聴くも飽きない、新鮮ささえ感じられる古楽のオーケストラそのものであろう。



特に嬉しかった作品は「モーツァルト:交響曲第35・36・38・41番、《ポストホルン》セレナード」

録音年:1956年5月22-23日(CD2:5-11)、1960年12月15-19日(CD1:1-4, CD2:1-4)、1961年12月11-13日(CD1:5-11)
録音場所:アムステルダム、コンセルトヘボウ
指揮者:オイゲン・ヨッフム(CD1,CD2:1-4)、エドゥアルト・ファン・ベイヌム(CD2:5-11)
楽団:ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

ドイツとオランダの二人の巨匠によるモーツァルトの歴史的名演、1956年5月録音の《ポストホルン》セレナードは、エドゥアルト・ファン・ベイヌムが晩年にコンセルトヘボウ管弦楽団と行った遺産ともいうべき演奏です。そして、その古典音楽の録音の伝統を踏襲しているオイゲン・ヨッフムのモーツァルトには、快活さ、雄大さがあり、後期交響曲、中でも特に《リンツ》はドイツの伝統における歴史的名演です。

J.S.バッハの序曲は、一度是非フルオケで聴いて下さい、ブラボー!