伝統ある英国の10吋ユニットで、いい音で音楽を聴きたい・・・・・

音楽好きの、古いオーディオ機器10吋TANNOYを改良して聴くダメオヤジの金ちゃんです。

古府(甲府)塩山、恵林寺(えりんじ)の武田晴信(信玄公)を訪れる・・・流石甲府は信玄公に纏わる名所が多い一日目です。

2023年11月04日 | 旅行


甲府と言えば筆者が若い頃仕事で良く通った場所でもあるが、当時は毎日の様にJR利用で新宿から特急(あずさ)で2時間掛け帰りは甲府20時の特急での往復、日帰りの過酷な予定で通っていた、観光等は全く出来ない。未だ記憶に残るは山梨の知人に紹介された勿論葡萄は有名だが、初夏に獲れる桃の旨さは格別で未だ記憶に残っている。

ではいつ頃葡萄栽培が始まったか調べますと、意外と古く古府(甲府)盆地東部の勝沼地区は、葡萄栽培が古くから行われ、葡萄にまつわる伝承の地となっています。 奈良時代の名僧行基の夢に、葡萄を手にした薬師如来が現れ、その姿を刻んだのが大善寺(ぶどう寺)の薬師如来像であり、この地に葡萄栽培を伝え、これが甲州ワインの原料となる甲州葡萄であると言われていますので相当古い様です。
また桃は桃はぶどうとともに高い生産量を誇っているが、その栽培は1900(明治33)年、白根町西野(現南アルプス市)に導入されたのがはじまりで、その後、大正中期に山梨市一町田中、次いで大正末期に東八代郡一宮町(現笛吹市)で栽培が始まったといわれている。下記の写真の様にJRの車内から桃の花が今も望めると言われる。



また筆者は、昔から歴史小説は好きで、甲斐の赤備え等(赤備えの元祖は、武田軍の「飯部虎昌(おぶとらまさ)」であると言われています)は強固で有名だが先の戦争(大東亜戦争)でも日本軍の甲府師団は屈強の兵は最強と言われ、痛ましい事に大変多くの戦没者を出している。
今回は2泊3日の夜の仕事で来たが、昼間の空き時間を利用して、是が非でも甲斐の歴史、信玄公巡りをと思った次第でもあり観光が現実地なった。

武田家は、平安時代から戦国時代にかけて甲斐国を中心に勢力を広げた武家で、平安時代の武将「源信義」(みなもとののぶよし)が甲斐国で「武田信義」(たけだのぶよし)と名乗ったことが始まりで血筋は大変良い。
有名な武田氏では晴信(信玄)が特に有名である。晴信はクーデターで父信虎を駿河に追い自立し、戦国大名として近隣に名をはせたが・・・。勿論正室も由緒正しく正室三条夫人は公家・三条左大臣公頼の次女として、京都三条邸に生まれました。立派な血筋のでもある。
越後の上杉謙信との川中島の戦いは戦国時代の戦いの白眉として世に名高いが、ヒステリックな上杉との戦いを晴信が回避していれば晴信の未来も変わっていたはずである、しかし勝頼の代に信長の手によって、天目山で滅亡した。



「塩山」は市域南西部に位置する塩ノ山は、「四方からよく見える」「四方がよく見える」という意味で「しほうのやま」と呼ばれたことから名付けられた山名といわれています。また、平安時代の「古今和歌集」には、おめでたい歌として「志ほの山(塩ノ山) 差出の磯に住む千鳥 君が御代をば 八千代とぞなく」と詠まれ、宮廷歌人の憧れの地になったと言われています。

前日の夜の仕事は予定通り完了し翌日は午後1時からの予定の為、塩山駅より北側近くの恵林寺に向かう。
朝10時開口とされるが10時に到着、朝の交通ラッシュのありホテルより甲州街道は多少混雑するも、途中塩山付近のフルーツミュージアム辺りは道路はスムースで窓からは、葡萄畑の葉も色付き初め初秋気分爽快のドライブでした。昔から不老不死と言われる果実、桃の花の咲く頃のこの甲斐地方は桃の花で櫻の代わりに
桃で花見を楽しむと聞いた事がある。桃の花が咲く頃の電車の窓から見える甲府盆地の桃は実に美しい記憶が残る。

恵林寺到着するも朝早く来場者も全くいない状態は貸切のようで、駐車場も全て空いていた。



武田武士と言えば14文字の言葉は有名な風林火山です。
「疾きこと風のごとく、徐かなること林のごとく、侵略すること火のごとく、動かざること山のごとし」
有名な言葉ですので知っている方も多いのではないのでしょうか?古代中国の兵法書・孫氏から引用した言葉です。自軍の戒めであったともいわれており、敵軍への威嚇としても使われていました。赤色の鎧兜と「風・林・火・山」この旗印は多くの戦国大名に恐怖を与えたと言われます。

正式名称は、乾徳山 恵林寺(けんとくさん えりんじ)恵林寺到着、早朝誰も訪れのない恵林寺境内も静粛な感じがして気持は大変宜しいです。



恵林寺は臨済宗妙心寺派の名刹である。元徳2年(1330)に、甲斐牧ノ庄の地頭職をつとめていた二階堂出羽守貞藤:道号は道蘊が、夢窓国師を招き、自邸を禅院とし創建しましたそうです。
武田信玄の尊敬を受けた美濃の快川和尚の入山で寺勢を高め、永禄7年(1564)には、信玄自ら寺領を寄進し当山を菩提寺と定めました、元徳2年(1330)に創建され、武田信玄の菩提寺となっているそうです。
信玄の墓は9ヶ所あるそうです、遺言により3年間は喪を秘めたと言われたのは有名な逸話でもあり。その後この恵林寺の住職によって葬儀が行われました。「織田信長」勢の焼き打ちにあった際に、信玄の師であった「快川和尚」によって炎の中「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自づから涼し」の遺偈を残したことは有名な話しとなっています。以前から一度は見たかった開山堂でもある。

混ぜは最初に通る門で、「黒門」恵林寺の総門である黒門の扁額には「雑華世界」とあり、この先が悟りの世界であることを告げています、まるで禅問答の様なお言葉でもある。

恵林寺の表参道はこの薬医門形式の総門から始まり、黒一色で塗られていることから、黒門とも称されています。門に掲げられた「雑華世界」は、「この門より外は喧騒の世界、門の中は静寂の世界」という意味だそうです。


古府はいかにも古刹といった感じに見える風景は実に素敵でもある、同時に紅葉は徐々に始まり出した頃であった。

駐車場から見えるは、雑華世界の黒門である。この先からは静寂な世界が広がると言われます。


山道を歩くと遠方に見えるは有名な、四脚門(赤門)恵林寺の南の入口に建つ総門(通称:黒門)から入って、参道を進むと見えてくるのが四脚門(通称:赤門)。徳川家康の再建と伝えられるもので、現在は国の重要文化財。 恵林寺の山号である「乾徳山」の額を門の上に堂々と掲げている。


確かに遠くからは分からないが、近づくと確かに四脚門の構成になっている、家康も信玄公からは色々学び、また違った意味でも尊敬したいたのであろう。

また石川数正が秀吉に出奔後徳川家の戦法全てを甲斐の国の戦法に変え、徳川四天王の一人としてご存知有名な井伊直政は「井伊の赤揃い」と有名でもある。



三門に続く・・・
四脚門(赤門)をくぐり庭園を進んでいくと、次なる門が見えてくる。県の重要文化財に指定される三門である。この三門には織田信長の焼き討ちで壮絶な火定を遂げた快川和尚の遺偈が掲げられているが、現在のこの三門は、まさしくその悲劇の現場に建てられている。

今は誰も知る"心頭滅却すれば火もまた涼し"は臨済宗の僧、快川紹喜の最後の言葉と伝えられ、その前に"安禅必ずしも山水を用いず"と述べられている。快川紹喜は、武田信玄に迎えられて、恵林寺に入っている。



筆者の記憶におけるこの地は多分小学校時代タフロイド版、朝日のグラビア雑誌の中に掲載された"心頭滅却すれば火もまた涼し"筆の文字と、この三門の事の記事内容と信長の事件が語られていた恵林寺の記事は今も印象に残っている。今回初めて訪れた甲斐の国の歴史に触れた、以前見学した吹割の滝と真田家の歴史と重なり今更ながら歴史に触れる旅は面白き旅でもある、歴史も色々な角度から見る事も大切に思う次第である。

三門には有名な快川国師の遺偈(ゆいげ)が掛けられている「安禅不必須山水減却心頭に火自涼」の文字が門に書かれてあるのです。



開山堂に続く・・・・
三門をくぐって正面に見えるのが甲州市指定文化財の開山堂である。夢窓疎石(むそうそせき)、快川紹喜(かいせんしょうき)、末宗瑞曷(まっしゅうずいかつ)の三像が堂内に安置されている。

意外と新しい建物の、三重塔(仏舎利宝塔:納骨堂)昭和48年建立というから、由緒ある建物の多い中では目立たない存在である。



三門脇に「天正亡諸大和尚諸位禅師安骨場」と刻まれた碑が立っていた。僧侶たちの遺骨が埋葬されているという。



開山堂、三門をくぐって正面に見えるのが甲州市指定文化財の開山堂である。夢窓疎石(むそうそせき)、快川紹喜(かいせんしょうき)、末宗瑞曷(まっしゅうずいかつ)の三像が堂内に安置されている。

誠に残念なことに、現在恵林寺開山堂兼法堂(『真空院』)に安置されています開山夢窓国師の木造に、一部不具合が見つかり今回調査・点検を行うことと成りました。当分の間、開山堂を閉鎖いたします。


こぼれ話として、快川国師、という呼び方は、じつは正確ではないそうです。
天正九年に正親町天皇(おおぎまちてんのう)から「国師号」を賜っているのですが、その国師号は「大通智勝国師(だいつうちしょうこくし)」と言います。ですから、「国師」とお呼びするときには「大通智勝国師」と呼ぶのが正しく、国師としてお呼びしないときには快川紹喜禅師というのが正式なお名前です。
正親町天皇という名は聞き覚えもおられる方もいると思うが、信長暗殺にも登場する天皇でもある。



臨済宗 妙心寺派乾徳山 恵林寺 拝観時間  午前8:30~午後4:30(年中無休)宝物館は、12月~3月の間は毎週木曜日が閉館です。


そして本堂に入りました。館内拝観料金が必要ですが見応え十分満足できました。最初案内される部屋からは方丈庭園が障子腰に見える。

本堂の正面を進むと、左手にみえるのが枯山水式の庭園である。力強い枝振りの松がそびえ、西の端に勅使門がある。


あまり広くはい部屋ですか、景色を見ながら過ごせる風景は格別である。
観ている風景は何処となく京都の佇まいの感もあり、日本独自の詫び錆の味わいが印象強く目に焼き付きます。一眼レフ持参すれば良かったが残念に思う。


昔から伝わる書院作りも何処となく風格があり日本の原風景の様でもある。そして方丈庭園の力強い松は印書的で男世界を感じる様である。


そして本堂に続く、本堂には、ご本尊の釈迦如来が安置されている。本堂西の間は貴人席となっており勅使が端坐される間がおかれている。



それから木で作った太鼓橋を渡る・・・・此の様な造りは日本建築の良さが現れ古き良き時代を垣間みるようでもある。


闌干中央で、お抹茶でも頂ければ実に風量な感触がえられるであろう・・・。



続いて有名な、日本の古来の建築物に見られる、人が床の板の上を歩く事によりきしみ音が鳴る様につくられた仕組みを、うぐいす張りという。外部侵入者の危険探知の為に設けられたのがはじまり。廊下を歩くと、うぐいすの鳴くような音が聞こえてくる。

たった一人で廊下をわたる、そっと歩くも逃さず。うぐいすの鳴き声が聞こえた、木工技術は昔から日本人の得意分野でもあり地震にも強い国造建築の推を集めた傑作ねのであろう、勿論と事心におもしろき細工を施した様である。



その奥に進むと皆さんのお馴染みの信玄公のお姿ともいわれた、武田信玄公が生前に対面で摸刻させたという、有名な等身大の不動明王が安置されており、「武田不動」として尊崇されている。
幸いなことに入場者は筆者一人なので、厳粛な不動明王の前に正座し頭を深く垂れた。お姿が実に勇ましい像である。


そして次は真っ暗な渡廊下をの壁を伝わり出口が見つかる。奈落の底とはこの様なところであるのであろうか・・・・?
出口は奇妙な作りになっているが、なぜか無の境地になるような感じが素敵に思えた。


柳沢吉保公と思われる、柳沢吉保坐像が霊廟の中に納められている。束帯で公事に着用する正装姿で、吉保自筆の納め状によると正徳元年(1711)に製作されて信玄菩提寺の恵林寺へ奉納安置した。



そして建物の裏にある素敵な建物の裏にある素敵な庭園から、本堂で見つけた大変有り難い。涅槃図であった。



次は国の名勝指定を受けている庭園。恵林寺の庭園は、京都嵯峨野の天龍寺、嵐山の西芳寺(苔寺)庭園とともに、夢窓国師の代表的な築庭庭園として有名である。700年近い歴史を経たその姿は、四季折々に違った情景をみせる。


そして大広間の一部がのぞけました。


遠方に堂々とした「書」が飾ったあったのが印象的です。



確かに堂々とした文字であり、誰の書かもまからないが圧倒される文字である。


乗り物の写真です、天井に吊され中々手の込んだ作りである。

今回の恵林寺の訪れは、紅葉の時期の少し手前でもあった為か、それと会場の公開時間からの訪れの為、観光客が全くお見えにも来られていなかった為、たった一人での見学が可能でした、うぐいすの鳴き声が聞こえた廊下を唯一人で渡り鳴き声を独り占め出来た事も有り難いです事でした。恵林寺の庭園は風情があり一人でのんびり出来るひと時は少し早い秋を満喫出来ました。
有名な恵林寺の人気の無い風景を眺める事が出来感謝の他はないであろう。


お土産に購入したお守りです、この後11月とは言え暑く、午後からは仕事なので地元では有名な「桜湯」に浸かりすっかりリラックスして食事を兼ねる。


甲斐から見える富士山ですが、裾野まで見れない事が残念である、しかし富士山も白く彩られすっかり冬支度である。



本日の信玄公回りは秋晴れの良い観光でした、写真は今回はオールスマホでの撮影で色があまり優れIない様に感じました。初めての甲斐の観光は実り大きな旅でもあった。ブラボー!

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