
6月になりアヤメ(Iris sanguinea)の花が咲き出した、以前水郷佐原菖蒲パークで購入した花が今年も咲き出した。400品種150万本の花菖蒲が咲き乱れ、美しい紫色が広がります。
房総の歴史は阿波から安房(安房神社)にそして上総から下総と移って行ったと言われる、香取は下総地区で江戸時代利根川の東遷で利根川流れが房総に流れが変わり佐原が花開いた都市といえよう。
この事について調べますと、「忌部(いんべ)氏とは、古代より大和朝廷の宮廷祭祀を司った有力氏族です。祭具の製作や宮殿の造営も担当していました。忌部氏は、神話上の天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祖神としており、中臣氏とともに祭祀を掌っていました。忌部氏の歴史は長く、平安時代には、斎部広成が「古語拾遺」を著し、忌部氏の権利を主張しました。しかし、中臣氏の勢力拡大とともに、忌部氏は次第に衰退していきました。朝廷の品部としての「忌部」は、出雲・紀伊・阿波・讃岐が代表的なものとして明らかとなっている。
説話のうちでは「総(ふさ)」を麻の古語とするが、現在までの研究では「総」の字に麻の意味はないとされている、同書では続けて、天富命が植えた麻が良く育ったのでその地を「総国(ふさのくに)」というようになり、また穀の木が育った地を「結城郡」というようになったとし(麻は「総(ふさ)」の古語とし、また上総(かずさ)国・下総(しもおさ)国の2国がこれにあたるとする)、阿波斎部が移住した地は「安房郡」と名付けられたとする(これが安房国の国名になったとする)。また、同地には「太玉命社」を建てられ、これが「安房社」(現在の安房神社(千葉県館山市)に比定)にあたり、その神戸(神社付属の民戸)には斎部氏があるとも伝えている。」と示している。
佐原は昔な水路交通佐原は利根川水運の中継基地としで江戸時代は栄えた街で今も古い町並も残るのである。
北総の小江戸と言われる佐原の大祭は、千葉県香取市佐原で毎年7月と10月に行われる伝統的な祭りです。関東三大山車祭りの一つとして知られています。

日本では「楽聖」とも呼ばれる、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)は、ドイツの作曲家、ピアニスト。音楽史において極めて重要な作曲家の一人であり、古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆とされ特に9作の交響曲は有名である。今回は少し古いがヴィルヘルム・バックハウスのピアノ演奏での楽しんでみた。勿論古い演奏ではあるが音質も実にバランス良くバックハウス:ベートーヴェンが実に塩梅よく結びつく。

夏目金之助(漱石)は江戸牛込(現在の東京都新宿区)に生まれた夏目金之助、後の漱石と名乗る、伊予松山(現在の愛媛県松山市)に生まれた正岡処之助、升(のぼる)、後の子規です。 学生時代に東京で知り合った二人は、終生変わらぬ深い友情で結ばれていました。金之助の夏目家は武田氏に支えて、三河に移らずそのまま信濃に残った家系で、室町時代の中頃には守護小笠原持長に仕え、その後甲斐の武田信昌から信玄・勝頼まで5代の武田家に仕え、八代郡夏目原村(現山梨県笛吹市御坂町)に居住したといいます。金之助は夏目氏の後裔であると称しており夏目家に伝わる系図を見た上で、吉信の先祖である夏目左近将監国平の子孫であるとしている。
本名は夏目 金之助。俳号は愚陀仏。 明治末期から大正初期にかけて活躍し、今日に通用する言文一致の現代書き言葉を作った近代日本文学の文豪のうちの一人。代表作は、『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』など。帝大時代より正岡子規とは友達でもある。
筆者が特に好きな短編『現代日本の開花』(はなはだお暑いことで、こう暑くては多人数お寄合いになって演説などお聴きになるのは定めしお苦しいだろうと思います。ことに承うけたまわれば昨日も何か演説会があったそうで、・・・・)と始まる短編冊子は好きでまさに今の令和時代の日本の危機を予見している様もある。若き頃の漱石でもある。
明治維新を思い描いた日本人が切り拓いた猿真似の明治政府は間違っていたのかも知れないが、日本人の士分が犠牲者になり、抑も討幕組の薩摩、長州、土佐と維新に関わった偏った日本を指導した弊害が今に至り間違った方向に向かったのかも知れない、もちろん幕閣にも常識を備わった武士も多くいた事は確かである。先の戦争で敗北し益々米国GHQの違う日本にと方向に進んだ方向を、今こそ正しい方向に正そうではないか!
大東亜戦争以降GHQに仕組まれた自虐的になった日本人が「日本は良い国」と言えば白い目で見られたが、やっと東北地震以降でもある、どこの国の属国になるのはもうゴメンである、先ずは捻じ曲がった自民からの脱却であろう。
此処で一番肝心な心構えは正しい歴史認識であろう、旧石器時代から続く日本の正しい歴史を確認する事が肝心である。

親戚筋の夏目家は三河に移った夏目吉久の長子として、三河国幡豆郡六栗村(現在の愛知県額田郡幸田町)で生まれた。夏目吉信が15歳の時に手柄を立て、松平廣忠から諱を賜り、廣次に改名したという記述がある。熊野那智大社文書に収録の徳川家康奉行・夏目廣次奉書は、永禄12年のことである。家康は戦場で正気を失い家臣の退却の進言を聞き入れず武田軍に向かって突撃を開始しようとしました。廣次は突撃をしかけようとする家康の乗る馬の向きを逆向きに変えて馬の脚を刀のみねで打ち馬を走らせました。そして、廣次は家康の兜をかぶり十文字の槍を手にわずかな配下とともに「我こそ家康である」と叫びながら武田軍に向かって突進し討ち死にしました。廣次が家康の身代わりとして影武者となったことで家康は危機を脱することができたのです。このとき夏目廣次55歳、徳川家康は30歳でした。家康は三方ヶ原戦死者の慰霊碑を法蔵寺に建立し「信誉徹忠居士」と刻んだ夏目廣次の墓を建てました。この話は有名でもある、吉信の先祖である夏目左近将監国平の子孫であるとしている。した写真は夏目家の屋敷跡だそうです。

さてこの度PDFにてヴィルヘルム・バックハウスと日本人、夏目漱石から池田理代子までと言う物を見つけた。二十世紀を代表するピアニストの一人、ヴィルヘルム・バックハウス(Wilhelm Backhaus, 1884年3月26日 - 1969年7月5日)戦前からSPレコードが輸入され、戦後1954年には来日して演奏会はも催されるなど、古くから日本人に真馴染み深い存在であった、最近は古いSPレコードからCD化され未発表の録音が新たに公開されたりして我々マニアには大変有り難い時代になった、筆者などのベートーヴェンピアノ好きには特にピアノソナタ全集が手軽に聴ける事に感謝するばかりである。
当時漱石はヨーロッパに於いて瀧廉太郎と共にバックハウスの演奏を楽しんだではあるまいか、ヨーロッパ滞在時の時代が一致している。

日本の夏目金之助(漱石)1901年ロンドン留学中にバックハウスの演奏を聴いているセイント・ジェームス・ホールでヴァイオリニストのエルジー・サウスゲイトElsie Muriel Southgate(1880年1月23日-1946年5月5日)はイギリスの バイオリニスト兼作曲家であり、クラシック音楽家としてイギリスをツアーし、アメリカとカナダの寄席で演奏し、妹、オルガニスト、作曲家を伴って商業的に録音しました。ドロシーサウスゲート(1889年-1946年)。有名な難曲であるブラームス :パガニーニの主題による変奏曲 イ短調 Op.35 Brahms, Johannes:Variationen über ein Thema von Paganini a-moll Op.35等を弾いて、その完璧な技巧と柔らかく美しい打鍵によって聴衆を驚かせ8月27日にはクイーンズ・ホールに於けるロバート・ニューマン主催のプロムナード・コンサートに登場しメンデルスゾーン :ピアノ協奏曲 第1番 ト短調 Op.25 O 7 Mendelssohn, Felix:Konzert für Klavier und Orchester Nr.1 g-moll Op.25 O 7を演奏し、29日にはシューマン :ピアノ協奏曲 イ短調 Op.54 Schumann, Robert:Konzert für Klavier und Orchester a-moll Op.54の演奏、さらにロンドンその他の都市で各種演奏会に顔を出していたと書かれたいる。まさか漱石が音楽好きとは想像も付かなかった事実でもあります。
ヴィルヘルム・バックハウス(Wilhelm Backhaus, 1884年3月26日 - 1969年7月5日)1884年にドイツの古くからの音楽の町ライプツィヒで生まれたバックハウスは、幼い時から母親にピアノを学び、さらにライプツィヒ音楽院に1891年に入学した。その後幼くしてコンサートデビューした。1899年からはフランクフルトに移り、当時の大ピアニストであったダルベールに師事する。ダルベールはバックハウスのために多忙な時間を割き、彼のために多くのことを伝えた。このときにバックハウスが得たベートーヴェンの解釈は後の彼の演奏ににつながっていると思われる。さらに1900年のロンドンデビューの成功からコンサートツアーを行い、ヨーロッパで名声を博した。

1905年にはイギリスのマンチェスター王立音楽院の教授となり、1907年からはゾンデルスハウゼン音楽院でも教鞭をとったが、彼が後進の指導をした期間は極めて短く、コンサートピアニストとしての活動を優先した。1912年からはアメリカでも公演を行い日本も含め世界中で公演した。特に有名な逸話は演奏も無骨で男性的、いかにもドイツ人らしい巨匠として、”鍵盤の獅子王”と呼ばれました。
今は音響機器による再現しか試す事がでいないのではあるが、数々ある音響機器での再現は実に苦労する、しかしある程度ナチュラルな音(自然界で発生する音や、自然に近く聞こえる音)の出せるタイプのユニットが必要ではあるが、リラックス効果や集中力向上、ストレス軽減などの効果が期待できるので様々な場面で活用されています、確かにアメリンタイプの乾いた音ではなく或程度ウエットなユニットが好ましい様である。
1973年当時初めて聴くSANSUI SP-LE8T(JBL8吋ユニット)の音は確かに衝撃的な音がした、夢中で偶々当時家の近くにあったJAZZ喫茶に通い此のスピーカーJBLユニット8吋の音をに夢中になる、勿論JAZZ音楽にも嵌り確かにジャズトリオのJAZZに夢中になった時代でもあり当時LE8Tが2本で12万は高額で夢でもあった頃の思い出でもある。その後聴いた装置は有名なTANNOY IIILZであった、全く対照的な個性の強い音質にオーディオの世界に入門するのであった。TANNOYの音質はじっくり聴かなければ解らない音ではあるが、特に弦楽器の再生には特異性を持った音が聴けた印象があった。改めて海外製の音響の音の特異性は当時の日本製品とは違った特徴があった。

TANNOY ⅢLZ in GOODMAN AXIOM80 Cabinetでのピアノを聴くとまるでステージで聴くような感じにも聴こえる、ただしアンプに使用するは間違いなく方チャンネル3.5W程の三極管の真空管アンプ、日本名をUX-2A3と命名し製造した(マツダ(東京芝浦電気)製)が相性は良いとされる。2A3の真空管は試して事はないのだが、筆者も現在シングルの300Bの真空管を使いが12畳ほどの部屋で聴く限り程々のプレゼンスが得られる。
確かに最新ピアノ演奏者の録音も機材も優れたピアノ音はリアルで良いが、筆者が試聴するTANNOY ⅢLZユニットで聴く限り何お不満も無く50年前のバックハウス(P)も十分堪能できる。

ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 作品109
1.第1楽章: Vivace, ma non troppo - Adagio espressivo - Tempo I
2.第2楽章: Prestissimo
3.第3楽章: 歌うように、心の底から感動をもって (Andante molto cantabile ed espressivo)
https://www.youtube.com/watch?v=cqZcLSWsMCE
1.第1楽章: Vivace, ma non troppo - Adagio espressivo - Tempo I
2.第2楽章: Prestissimo
3.第3楽章: 歌うように、心の底から感動をもって (Andante molto cantabile ed espressivo)
https://www.youtube.com/watch?v=cqZcLSWsMCE
ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110
4.第1楽章: Moderato cantabile molto espressivo
5.第2楽章: Allegro molto
6.第3楽章: Adagio ma non troppo
7.第3楽章: Fuga Allegro ma non troppo
4.第1楽章: Moderato cantabile molto espressivo
5.第2楽章: Allegro molto
6.第3楽章: Adagio ma non troppo
7.第3楽章: Fuga Allegro ma non troppo
ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 作品111
8.第1楽章: Maestoso - Allegro con brio ed appassionato
9.第2楽章: Arietta (Adagio molto semplice e cantabile)
8.第1楽章: Maestoso - Allegro con brio ed appassionato
9.第2楽章: Arietta (Adagio molto semplice e cantabile)
演奏:ヴィルヘルム・バックハウス(P)
ドイツのピアニスト、ヴィルヘルム・バックハウスが晩年に録音した2回目のベートーヴェン・ピアノ・ソナタ集、勿論3大ソナタとしても有名ピアノソナタ第8番ハ短調 作品13「悲愴」ピアノソナタ第14番嬰ハ短調 作品27-2 「月光」ピアノソナタ第15番ニ長調 作品28「田園」、特にピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110は実に素晴らしい演奏でもある。録音から50年を経てもなお、スタンダードな演奏として世界中で聴かれいるそうです。ブラボー!