伝統ある英国の10吋ユニットで、いい音で音楽を聴きたい・・・・・

音楽好きの、古いオーディオ機器10吋TANNOYを改良そて聴くダメオヤジの金ちゃんです。

大御所等のジャズを聞きながら、美味しい珈琲の淹れ方有田焼 コーヒーフィルター 陶器 ニューセラミックフィルターのレビュー。

2023年06月30日 | JAZZ・ボサノヴァ

ここ数日仕事、東北の旅とか、昨夜も仕事で深夜に帰宅、何となく軽い熱中症状態に見舞われ体調を崩している様に思える、75歳になって益々少食になっているが勿論食欲も低下気味である。

実は先日青森県立三沢航空科学館見学でグライダー操縦体験をした時に体重測定がありバランスを取る為にも正確な体重を知りたい為にと言っているが、何と58.5キロ-1.5キロ減っているのです。折角60キロまで戻したが食欲が落ちると如実に体重に現れる様である。



東北の旅の青森の冷酒でいただく美味しいお酒でした、以前いも教えて頂くが株式会社西田酒造店「田酒」は有名であるり関東でも偶に置いてある飲み屋も多い。今回教えて頂いた和醸良酒と言われる三浦酒造株式会社の「豊盃(ほうはい)」を一口頂くが適度な辛口ではあるが深みのある大変豊かな味わいで飲み心地が爽やかである。
生のお魚料理とは大変良く合うお酒でしたが、体調が悪く十分堪能できなかった事は誠に残念であった。是非ネットで検索し購入し楽しもうと思う。但し歳と共にお酒も弱くなってきた様である。



その様な事情もあり、珈琲好きの筆者が東北に行くと大変嬉しい事がある、盛岡の水が違うことが原因だあろうか、珈琲のお味が大変美味く感じるのですが、今回の東北旅での珈琲は観光地等先々で珈琲を頂くが実に苦く不味く感じた。なぜであろう・・・? 体調が悪い事も影響するのであろうか? 不思議であった。

実は夜に途中抜け出し一人でスタバに寄り珈琲も頂くが決して美味しいとは言えない感じの珈琲であった。勿論帰りの新幹線も車内の珈琲販売のを試すが途中で残してしまう状態で、あれ程の珈琲好きの筆者には考えられない状態である。何故か・・・?
多分此れは水の問題ではなく抽出方法を変えた事に起因するのかも知れない、珈琲の抽出方法を変えた事であろう喉どしの良さが味わえなく苦味が口に残ってしまう様な感じでもある、勿論コンビニのセブンイレブンの珈琲は愛用するが最近は購入していない原因は苦味が口に残るからである。

帰り次第以前から欲しかったコーヒーサーバーセットをAmazonで購入ボタンを押した。人に言わせると物欲のある間はまだ死なないそうで意外と生命には物欲は大切であると思う。



自宅で十分休養した結果胃腸回復方向に向かった。体調が戻れば、旅行中苦い体験を味わい、やはり美味しい珈琲が飲みたい衝動が持ち上がる。不味いコーヒーの原因の事を考え先日いただいた「東洋セラミックス 有田焼 ニューセラミックフィルター・ドリッパー」で淹れたコーヒーの味である。謳い文句はセラミックフィルターでドリッパーなしでもドリップ可能です。セラミックフィルター外側に突き出した5本のラインによりセラミックフィルターとガラスポット部分に隙間ができるため、外にこぼれることなく、ドリップが可能と説明されるが、当初は余り大してことは無いと思い、試行錯誤しながら淹れてみました。



1.今回はブラジルブレンドの豆の使用、一人用として10グラムを計測し、粗さは荒めのメモリ8なるべく粗く挽く。見た目はペン先ほどの粒度を推奨次に目の細かな茶越しに入れ簡単に細かな弾いた粉部を削除し珈琲豆の殻の部分を削除する。殻の部分を入れ抽出は苦味が出るためこの様な儀式は必修である。



2.有田焼 ニューセラミックフィルターを使う場合必ず実施して頂きたいことは油どうしです、多くの熱湯を使いセラミックフィルターに注ぐ写真の様なお湯の落ちる事を確かめセラミックフィルターと容器を保温して下さい。御湯の落とし方により珈琲の味が随分違います。

上記写真のようにお湯が落ちるまで続けて下さい、この準備が美味しい珈琲を淹れる秘訣に思います、まろやかな味わい深い珈琲をご所望の方は必ず実施の事。



3.さて十分準備した状態にて先程弾いた珈琲豆の投入、珈琲はよく振って馴染ませ全体の密度を上げます、筆者はスプーン等で豆全体を抑え気味にし真ん中を若干凹ましています。



4.目安量の豆をフィルターに入れ、豆が浸る程度のお湯を注ぎ30〜40秒ほど豆を蒸らします。抽出にはこの蒸らし作業は肝心である。
5.兎に角静かにお湯は少しずつ淹れることが肝心である、お湯の注ぎ方(抽出)その後4分ほどかけ5~6回にわけてお湯を注ぎます。フィルター内の湯量が多いほど抽出速度は上がりますので苦味の好きな方はじっくり淹れる様にして下さい。



6.次は抽出して珈琲は良く撹拌されてコップに注ぎ出来上がりです。



7.日常のお手入れは水洗いとお湯通しだけで問題ありません。目が非常に細かいため使用を繰り返すと目詰まりが発生します。

 沸騰したお湯をフィルターに数回通しても流量が少ない場合は目詰まりを起こし始めている状態です。必ずお湯が透明になるまでお湯を通して下さい。長く使うために欠かせないお手入れ方法になります。


お湯が透明になるまで濾過します。



後は同じ淹れ方で紙ドリップで淹れた珈琲を飲み比べる。
ここに「東洋セラミックス 有田焼 ニューセラミックフィルター・ドリッパー」による抽出方法のYouTubeがありますので参考にして下さい。

セラミックフィルター使用珈琲は口触りが良く喉越しも良く、後味素スッキリ感が実に爽やかでジブ味は感じない、この淹れた感じを味わうと実に快適である。お代わりを頂きたい気分になります。
次に紙ドリップコーヒーを試飲する、中々飲み心地は良いが若干苦味が口に残る様に感じる。

味はセラミックフィルターは大変良いが沸騰したお湯が意外と沢山必要で、お手入れは紙フィルターの様に廃棄すれば終わりでは無いことが短所でもあるが、この味を味わうとまた飲みたいと感じた事が感想である。



美味しい珈琲にはBGMが必要である、今回は筆者の好きな、ジャズをチョイスした。スピーカーは軽い感じで鑑賞できるLS3/5aに繋げジャズを聴く。タンノイのユニットの鑑賞も良いがこの状態(体が全快していないく)は少し重低音が強すぎる感じなので、LS3/5aで聴く。重低音が若干削げた感じが病み上がりには良い塩梅である。
しかし確かにLS3/5aのエンクロージャーは大変優れたエンクロージャーではあるが出力音圧レベルは82.5dB/2.83Vrms/m(50Hz~20kHz)音質向上する場合は、兎に角高出力の優れたパワーアンプが必要になる、迫力ある低音等も勿論実感できるが、必要以上にパワーアンプの力が必要なことは現在のスピーカーの弱点でもある。


デューク・エリントン(Duke Ellington)1899年4月29日、米国ワシントンDC生まれ。米国の20世紀を代表するオーケストラ・リーダー/作曲家/ピアニスト。20年代の後半にジャズ・クラブ“コットン・クラブ”の専属となり、ハーレム・ルネッサンスを象徴する活躍をみせる。作編曲家ビリー・エクスタイン、テナー・サックスのベン・ウェブスターらを迎えた40年代の初めにオーケストラは絶頂期を迎えた。生涯に残した楽曲は2,000曲以上といわれる。1974年5月24日、75歳で死去。



ルイ・アームストロング(Louis Armstrong)1901年8月4日、米ニューオーリンズ・ジェーンアレイ生まれのアフリカ系アメリカ人ジャズ・ミュージシャン/トランペッター。“サッチモ”の名で広く親しまれている。10歳頃よりヴォーカル、14歳からトランペットを始める。23年、師と仰ぐキング・オリバーのバンドで初録音、翌年にニューヨークへ進出。25年にはシカゴに戻り、初リーダーを含む録音をする。35年以降はは自己のビッグバンドを率いても活動。ジャズ・ヴォーカルの開祖的なシンガーとしても著名。71年7月6日、ニューヨークで死去。

大物御二方の競演を聴く。「Great Summit: The Master Takes」



61年、ボブ・シールのプロデュースの元、ルイ・アームストロングとデューク・エリントン、2大スターの共演が実現。『Togetherfor First Time』としてRouletteで作品化された音源10トラックを収録。ボーナストラックには、映画『Pris Blues(邦題;パリの憂愁)』のサウンド・トラックを14 トラック、さらに57 年にルイ・アームストロング楽団によって録音されたデューク・エリントンのナンバーを2曲追加収録。


ソリテュード(Solitude)・スウィングしなけりゃ意味ないね(It Don't Mean A Thing)・ドント・ゲット・アラウンド・マッチ・エニモア(Don't Get Aroud Much Any More)・希望の灯(I'm Beginning To See The Light)・ジャスト・スクイーズ・ミー・アイ・ガット・イット・バッドと続く、そのどれもがすばらしい出来だ。1961年にニューヨークのRCAスタジオのものだが、この録音はすばらしい。もちろん演奏はご機嫌で、コットンテールではデューク・エリントンのピアノが軽やかでノリも良い、この2人のグレートは熟年そうではあるが、まさにジャズプレーヤーとして熟年、しっかりとジャズを楽しませ聴かせてくれる。
美味しい珈琲と熟年層の熱いジャズに、ブラボー!


5,500年前の三内丸山遺跡のロマンを訪ねる、縄文時代の前期中頃と言われる広大な遺跡の考察。

2023年06月28日 | 日本史の考察

我々の祖先でもあろう日本人のルーツ、氷河期が終わるとともに、石器を主な道具としていた旧石器時代が始まり、その後終わりを告げ、縄文時代以前の「岩宿時代」の存在を裏付けた事から始まりました。今後旧石器時以前の時代の物が発見されるかもしれませんが・・・・?

戦後間も無く1946年に民間考古学者「相沢忠洋」により両毛線岩宿駅近くから局部磨製石斧を含む石器群で、3万5000年前の後期旧石器時代初頭の石器が採取された岩宿遺跡から始まったと言われる考古学であり、その後日本全土で発見された遺跡は一万ヶ所以上あると言われているが、今回東北での広大な三内丸山遺跡を訪ねた。

約1万5,000年前に縄文時代が始まりました。縄文時代の開始とともに、磨製石器に変化したり、新たに土器が出現しました。縄文時代の人々は、土をこねて思いどおりに形を作り、火熱による化学変化を起こすことで、より強度な容器を手に入れました。それにより、「煮る」などの調理や「貯蔵」も容易となりました。
今回この三内丸山遺跡だけでも1500年以上の平和な暮らしが続いた遺跡の見学は想像を育む世界でもあろう。




三内丸山遺跡に関する最も古い記録は江戸時代に遡ります。県は野球場をはじめとする新たな施設整備が計画されました。工事着手前に発掘調査を実施することになり、平成4年から開始した調査では、大量の遺物が出土しました事で見つかった三内丸山遺跡である。

上記は三内丸山遺跡の全体マップである、全体で約42ヘクタールありこれは東京ドーム約9個分の広さです。
と同時に遠くから安全に獲物をしとめることができる弓矢が使われ、魚介を獲るための釣り針、銛などの漁労具の開発も進みました。さらに、イヌが飼われ、植物の栽培も行われるようになりました。縄文時代は、食料を主に採集・漁労・狩猟によって得ていました。
特にこの時代は温暖で、この地域には豊富な食料にも恵まれ永く定住したのであろう事が想像できる、簡易な木の実の栽培もおこわれていたのであろう。


流行り病の為、自由な移動が出来ない時代が3年間も続き、前回の温泉巡りの旅の2回目である、今回は筆者も大変興味深い、縄文の世界を覗く旅になった。幼少期社会の時間で教えられた縄文時代の生活とは全く違い、この様や遺跡は日本尾あらゆる場所での発掘が行われtりる様である、今回訪れる三内丸山遺跡に至っては平成4年(1992年)から始まった発掘調査で明らかになった様である、今や世界文化遺産に登録されている。

新幹線乗車までは通勤ラッシュもあり混雑したが、上野から新幹線に乗車し盛岡から北東北までの旅である。



取り敢えず皆との待ち合わせ場所の盛岡まで東北新幹線での旅、所要時間は約2時間30分程で到着、ゆっくり前日に購入した「anajog」の冊子を見なが駅構内での淹れたての珈琲を飲みながらは意外と速い時間で到着する。
本の記事内容はLINNのレコードプレイヤーの記事を読みながら、発売当時から
定評のある音響機器レコードプレイヤーは定評がある、最新の機器はは大変高額になっていた、これは雑誌でしか楽しめない商品である。

最後の記事には「オーディオマニアは皆んな病気なんです」のコメントに妙に納得を覚えるのでした。



正午盛岡到着である、友人達が盛岡駅北口に迎えに来ている、久しぶりの再会である、丁度お昼の時間でもある。
ゆったり出来る隣のホテルメトロポリタン盛岡のホテルのレストランでランチタイムを頂きながら、今回の2泊3日の予定を告げられる。年齢は皆近く70歳代の高齢者で久々にお会いする元気な顔に安心を覚える。



ランチを済ませ車に乗り込み青森の目的地三内丸山遺跡に向かい出発する。
盛岡市街地より高速道路は若干混雑していたが、高速は順調である、関東の道路事情とは全く違い実にスムースに走る、しかし冬場は積雪のために舗装状況は関東とは違う感じがする。
しかし皆さんそれぞれの投薬は持参している状態である。

青森から八戸の旅である、途中浅虫温泉等遊び心の多い旅である、また漁港としても有名な八戸は街は意外と盛況であると言う、毎週日曜に行われる朝市は一度は見学の価値は高そうである。と教えられた勿論最終日は朝市見学予定である。



約2時間弱で青森の目的地に到着する、到着したの午後のため入り口近くの駐車場も空きは多くすんなり早速駐車場に車を止め、入り口での記念写真である。

天候は曇り空ですが、雨は免れる模様であり三内丸山遺跡見学はゆっくりみられる様である。



早速入場し入り口には大きな縄文土器のモニュメントが印象的であった。入り口の壁面には断層のモニュメントが施してある。

今まで縄文時代の生活は獲物を求め定住しなかったと言われる縄文時代の生活であるが三内丸山遺跡は定住した痕跡が見られ有名な6本柱で長方形の大型高床建物が建てられ今までの常識を覆している。
学生時代に教わった古代日本史は今思えば全て全く違う世界であり大変興味深く大きな発見があった、日本の縄文時代が素晴らしく平和な世の中であった。



早速入り口にジオラマ付近で見つけた。小冊子があり早速見ると。なんと昔お付き合いしていた、東北エリアマガジン rakra ラ・クラが編集する三内丸山遺跡の小冊子を見つけた、当時お付き合いしていた代表は既に引退しているが、東北に情報誌小冊子はrakra ラ・クラ独自の雰囲気が漂うものであった。




本人とは、今は全く連絡は取れないが元気で引退生活を謳歌していることをの望む、昔は仕事もお手伝いしたことがありrakra ラ・クラの名前は大変懐かしく感じた。

時間的に本日最後のボランティアガイドで遺跡見学できるので早速申し込み本日です最終の案内された、案内の中年女性曰は、筆者が手に持つ小冊子を見つけこの冊子の案内の写真は私ですと始まった。説明は若干青森弁が混じり所々方言の不明箇所もあったが、最北端の青森に来た実感を覚える。この各地方独特の方言の語源は実に聞き取りにくいが楽しい味わいでもある。


全体を縄文土器に見立て、北海道と北東北の形を、縄文時代のパワーを象徴するような渦巻きの形で繋いでいます。
図形の色は縄文時代の漆器や土器にみられる赤漆色とし、構成資産の分布している範囲を濃い目の色のグラデーションで表現しています。

デザインの左右に「縄文」の文字を、下部に「JOMON JAPAN」の文字を配置しました。「JAPAN」には「漆」の意味もあります。



「漆」についてアジア大陸に自生していた「漆」の木は、縄文時代(約16,000年前〜2,900年前)に日本列島に伝わり、広がったと考えられています。 福井県の遺跡で発見された木材を2012年に調べたところ、約12,000年前の「漆」であることが分かりました。

先ずは三内丸山遺跡のロゴの説明から、これが漆なのであるそうです、漆といえば昔の知り合いに浄法寺町の頃の町長(現在は引退)赴任中から東北浄法寺町の漆の質は大変上質で金閣寺、日光の東照宮等の塗り替え工事には全てを浄法寺町の漆を使っている等営業したと自慢された記憶が残る。金箔を貼るには質の良い漆は必至な接着剤だそうです。質の悪い漆を地ようすると「金閣寺」でなく「黒閣寺」になると笑っておられた事が印象的でした。縄文人達も確かに接着剤としての使用範囲は大変広い様である。接着剤としてはアスファルトも使っていて多様です。



上記写真は、お土産に購入した縄文ロゴ入りのTシャツである。

参考にしてください。YouTubeの三内丸山遺跡案内です、【解説付】縄文時代にタイムスリップ!三内丸山遺跡(青森県)



ボランティアガイドをして頂ける本地最後のガイドさんです、小冊子にも登場されてます、跡の規模は、全体で約42ヘクタールあります。 これは東京ドーム約9個分くらいになります。発掘調査によって集落の構造が少しずつ明らかになってきましたが未だ発掘途中で後30年ほどは作業が続くそうです。


縄文の道路脇に当時の知名人が眠るお墓でそうです。道路を両側から見守っている様に配置されたいる。


丸山遺跡中心部に小高い丘があり、そこが一般の墓地が並び、出土すると一緒に埋葬した土器が発掘されている、人骨は日本の土壌は弱酸性のため今や土に帰っているそうです、しかし僅かながら亡骸からは紐状のものから僅かな漆素材が見つかっている様です。


この建物は一般的な家庭であったと思われる住居後である。


他には高床式の住居が並び意外と精巧な作りとなっている。食料品等の保存用に使われたものであろうか?

当時から多分ネズミ被害防止策とし高床式の倉庫としても重宝したいたのであろう。


近寄って見ると簡単には入居できない工夫おあり、資料館では魚の骨もあり1メートルほどの鯛の骨も貝塚から見つかって現在展示されている。


縄文人達は意外と規律は正しく。壊れた土器等は場所を決め廃棄処理していた事がわかる。まさに当時は北陸地方、北海道地区久慈地方との交流もあり、海洋交通も盛んに行われた様であり、どの様な船で海洋交通をいていたのであろうか?
言葉は話したのであろうか?文字は如何に等疑は尽きない・・・


これは壊れた土器を集めた場所である。
不思議なとこは次々に頭によぎる、次には子供のお墓である、当時出産は生死が虎理合わせでの作業であったようで、また子供の頃は抵抗力も弱く成長が不安であったと思われる。子供専用の墓地であり、使われた土器に入れ埋葬し土器の後ろに小さな穴をあけ、蘇ることを祈ったのであろう。



亡骸を入れた土器は斜めに埋め此の場所に何層もの同じ形式の土器が発掘された様である。



大型掘立柱建物跡
地面に穴を掘り、柱を建てて造った建物跡です。柱穴は直径約2メートル、深さ約2メートル、間隔が4.2メートル、中に直径約1メートルのクリの木柱が入っていました。地下水が豊富なことと木柱の周囲と底を焦がしていたため、腐らないで残っていました。6本柱で長方形の大型高床建物と考えられます。

しかし縄文時代のこの時代には数値に詳しく、柱をわざと傾かせ強度を計る等は建築設計者が居なければこの柱建物は出来ない様に感じるが・・・?



高さ15メートルある大型掘立柱建物は、ガイドさん曰くこの建物の補修したときに上に登れたそうであり、上からの景色な陸奥湾まで見渡せ勿論津軽の海も見えたそうです。
この建物は何の為に作ったのかは未だ不明である。何れにせよここから見えるのは近隣の海の様子でもあり海洋国に相応しく丸木船の目印になっていたのかも知れない。謎は深まるばかりである。



多分ドングリの柱の創作には黒曜石の刃物が使われたのであろう、ノミの様な道具でも製造したと思う、しかし見学していると縄文時代の想像をするのが楽しみでもある。縄文人は暮らしやすい村を構築して行ったのであろう。

直径1メートルのドングリの木の櫓で組み込んでいるそうです、しかしこの建物は設計者がいなければ建築は不可能と思う、当時は文字も言葉も使った板等に思う、1400CC程の脳の重さがある縄文人は現在の脳と同様とは驚きでもある。



少し面白いお話ですが、木の実等(桑の実等の果実を発酵させ簡単なお酒も作っていた様であり、神への捧げ物とし記念日などには皆で楽しんだのでは無いのかとの思いに耽るが、お酒作りも発見されている様である)全く現代と変わらない生活を感じる、と同時に今の生活より平和度は高い様である。

長さが10メートル以上のものを大型住居跡と呼びます。三内丸山遺跡では最大のもので長さ約32メートル、幅約10メートルのものが見つかっています。
復元されていて内部を見学することが出来ます。
この建物も個人用の建物同様建物の床は一定の深さを掘り其処に柱を建て屋根を配置し、中央で火を焚き柱等の腐食を防ぎ実に日本建築の当初の建て方と同様であり学ぶ事も実に多くある様である。縄文土器のお陰で煮る、茹でるの新しい調理用は食材を丁寧に調理し常に食卓を豊かにしてのであろう。

下記写真は大型住居跡の内部で写真です。



集落の中央付近から見つかることが多く、集会所、共同作業所、共同住宅などの説があります。
中央から建物を見ると柱が鳥居に見えるは筆者だけなのであろうか・・・?皆で神々の信仰も行なっていたのであろう・・・・・?



大型住居跡の柱を見て何か感じませんか?東側に鳥居の形してませんか、共同礼拝所であったのかもしれません。



大型の縄文土器の展示物。特に食の新しい料理方法に変革を起こした土器類は調理は焼くから、煮る、蒸すという新しい調理方法の発見であろう。
旧石器時代から縄文時代に入りの革命は土器の発明であろう、食文化が大幅に向上し平和に豊かにと変化してのであろう。


上記縄文土器は現在でも使えそうであり、5000年以上前から煮物等に使っていたと言われる。



ヒスイ:約600キロメートル離れた新潟県糸魚川周辺から運ばれました。原石、加工途中の未完成品、完成品の珠などが見つかっています。非常に硬い石で、その加工は熟練した技術と知識が必要でした。
黒曜石:ガラスとよく似た、鋭く割れる石です。北海道十勝や白滝、秋田県男鹿、山形県月山、新潟県佐渡、長野県霧ケ峰など、日本海を中心として地域の黒曜石が運ばれてきました。 
コハク:岩手県北部の久慈周辺から琥珀の原石が運ばれてきました。ここで加工され、他の集落へ運ばれたものと考えられます。

ここで想像できる事は縄文人は大変に平和であったのであろう、食料もある程度豊富で、ある程度整った衣服を身につけている。次には珍しい琥珀、翡翠等の装飾品を身に纏いお洒落も楽しんだであろう、豊富な魚介類に囲まれ穀物は栗、椎の実、ドングリ等の穀物を食べ生活を楽しんでいたのであろう。

閉館時間も近くなり青森の宿泊地に出発です、ホテルチェックインした後取り敢えずビールで乾杯。その後は新鮮な魚介類で縄文の世界を語り合った。


本日は青森の新鮮なお魚をたっぷり頂きなが縄文時代の話が盛り上がり、老人の歴史勉強で盛り上がった様です。
このブログはもう少し前に仕上げたかったのですが、東北と関東の温度差の違いに体力が付いて行けなく、上野に到着後大変身体が暑く感じた、体調を整えるので時間が掛かった、確かに老人の世界に足を踏み入れたと実感する、この後の旅行の続きは後日掲載予定します、縄文の世界にブラボー!

ダメ親父の独り言(もはや日本は終わってしまったのかも知れない)口直しに聴く中村 八大のジャズピアノ。

2023年06月21日 | JAZZ・ボサノヴァ

昨日は久しぶりの柏に出かけた、実は以前、血液検査と抗癌治療を受け定期的にCTによる定期診断を年2回実施している、一応前回の診断では数値も上がらず安定しているので大丈夫と診断されてます。筆者は2箇所の癌があり1箇所は手術による削除と後に見つかった癌は抗癌治療で受、10年前に摘出手術したが未だ年1回のCTによる定期診断をしている状態である。

実は今月23日から青森方面に旅行に行く為ついでに新幹線切符購入もする事にした、最寄駅からは新幹線切符は買えなく柏駅を利用する、行きは盛岡駅でワル親父連中に再会しそこから車に便乗し2泊3日の温泉旅行となり、縄文時代の山内丸山遺跡見学初め貧困老人たちの楽しみな旅になりそうです。

考えれば日本に人類が生存して以来遥々アフリカから伝わったと聞くが、当時は氷河期であるため支那を通過しての日本上陸は無理の様である、旧石器時代から遺跡が一万ヶ所以上摘出されている日本は、支那より人類生存した時代は長いのである、人類は日本から支那の流れはが事妻がある様である、縄文時代は非常に長く安定した平和な時代が1万年位以上も続いたそして弥生時代、古墳時代えお経て日本人の祖先は素晴らしいものがあったのであろう。
三国志時代現在の韓国釜山あたりは和人が暮らし鉄性の兵器を作り魏の国に送り青銅武器より優れた武具習得のために魏が勝利を収めたと言うストーリーも以前読んだ事もある・・・今思えば真実かも知れない。
当時から日本人はモノ作りは伝統的に優れた人種かも知れない。当然この縄文時代の磨製石器等の優れた道具作りは素晴らしいテクニックが感じる。



いつもの柏高島屋に寄り珈琲コーナーを覗くとコナ珈琲が美味いのですが高額すぎて、以前飲んだ自家農園ブラジルブレンドを200g購入この銘柄も随分値上がりしていた。上がらないのは年金である(笑)

最近の日本の特に政治は全く違うことばかりを行う政治に成り下がっている。国民は顧みず口先だらけの少子化問題、教育無償化等は口だけである。
岸田の支持率急降問題はこれだ!LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トラン スジェンダーの頭文字)が一番であろう。自分達のご都合でマスゴミ共は全く報道しないが、これは明らかに大失敗であろう。

それと興味深い問題は、知らない人も多いようですが「黄砂の話から見えた政治の怖い裏側」がある。
中国の植林支援のため日本政府が創設した「日中緑化交流基金」に対し、支援先の中国が恩知らずな態度をとっている。基金目減りに伴い日本政府が事業継続のため中国政府にも資金拠出を求めたが、色よい返事はなし。日中関係改善が進まないため中国政府が拒否したとの情報もあり、中国では「日本の助けはいらない」との声まで上がる。日本は過去に3兆円超もの円借款を拠出したが、反日宣伝の影響で中国ではあまり知られていないという苦い記憶がある。度重なる恩知らずな対応に、日本でも対中支援への異論が噴出し、基金の存在意義も宙に浮きつつある。
実は故小渕氏、日中友好願い基金を創設基金は平成11年に故小渕恵三元首相が提案し、政府が約100億円を拠出して創設したもので、事業は日本が主だって実施。民間団体などによる植林緑化運動に資金を提供し続け、26年度までの植林面積は累計で約6万5,000ヘクタールに上った。
中国側も成果は認めているようで、昨年8月に中国政府が日本人記者団を招聘(しょうへい)した際には、わざわざ基金を活用していた甘粛省蘭州市にある砂漠の緑化事業の現場に案内した。
冷え込んだ日中関係を改善したい習近平政権の政治的な狙いもあったようだが、中国側はそのとき、記者団に対して「日中の協力関係の成果だ」とアピールしたという。外務省関係者は、「多くの人が関わってきた。中国は間違いなく事業を重要と受け止めている」と話す。

黄砂の話から見えた政治の怖い裏側 | 髙橋洋一も話しているのでご覧ください。
日中友好に一定の効果をあげた基金だが、創設から15年以上がたち、残高は昨年6月時点で約15億円に目減り。事業継続を模索する日本政府は、中国が世界第2位の経済大国の地位にあることなどから共同で事業に取り組むのが望ましいとして、昨年末に中国政府に対して出資を持ちかけた。だが驚くことに、中国側は日本が働きかけても「今すぐ拠出するのは難しい」との回答を繰り返し、「中国が資金を拠出するめどはたっていない」(政府関係者)という。
日中関係がなかなか改善しないことから、中国政府が手のひらを返すように出資を拒否したとの情報も出ている。中国国内では、基金に対し否定的な意見が多いようだ。中国情報サイト「レコードチャイナ」によると、インターネット上では「お金の問題ではなく立場、民族としての尊厳の問題だ。大中国は日本の助けなど必要としない」「日本が中国のことに手出しするのはお断り」などの意見が出ているという。
正にきな臭いい話であろう、お得意の政治屋さんが公金ガブガブの匂いはするが文春砲も是非頑張って頂きたい。筆者も何もできない。現在のマスゴミはまともな報道も出来なく、スポンサー、政治屋に忖度し国民のことは関係なく一層ニュース放映等は辞めてしまば良いと思うが?如何に。



何もしない、ただ隙あれば税金を上げることしか興味のない岸田は早く辞任するべきで、総理は出来ないオヤジであった。一時ガーシーがYouTubeで公開していた木原誠二官房副長官の事が一部公開された、幻冬舎・見城徹さんも木原誠二のことは公開していた、(見城氏は今月5日、トークアプリ「755」で、岸田文雄内閣で官房副長官を務める木原誠二氏について言及。「ガーシーという人が自民党の木原誠二官房副長官に対して言っていたまとめを初めて見た。本当にガーシーという人が言っている通りだ。こんな人が政権の中枢に居るなら、もう日本は終わる」と批判した。)こうなってくると岸田政権がどん詰まりで死に体ある。以前自民党が抱えた問題噴出で顔ぶれももう、うんざりりである、LGBT問題も含め新しい日本丸に期待する他ないであろう。自民に解体も可能か?
まともな政治家不在で議員の粗全員は政治屋でお金目当て議員ばかりである。ましてや国の総理を司る人が総理官邸であの様な事件を起こせば、一般的には辞任であるが本人は全く意に関せずである、一刻も早い辞任をするべきである。

海の向こうではお爺ちゃん売電、売電ジュニアがやっと話題となっているようで、支那からの闇献金は相当なものだったが、トランプと売電の嘘つき選挙により売電が勝利したが、当時の闇が芽を出した様であろう。もちろん売電ジュニアとオバマの娘とのホテルでの下着の写真が筆者のメールにも投函され見た瞬間コラージュであろうと削除したが、皆さん間違えないでください、アメリカ合衆国ではありませんアメリカ帝国なのですよ。その様に世界を考えると、何処かスター・ウォーズ/STAR WARSが俄然面白く感じられるのかもしれません。



汚い話から気分を一新して綺麗な話に・・・今から四十年前仕事関係で東京放送(現在は情けないが親韓放送とも言われるが)のラジオ関係のお付き合いがあり、当時筆者がジャズ好きな事を知っておられた担当者が永六輔司会で中村八大のピアノの演奏の生テープを頂いた事があり、2トラック38センチの10号テープで演奏時間は45分程度ですが司会者にお喋りも多く、演奏は少なかったと記憶するが、実に生々しく綺麗なピアノが聴こえた。改めて中村八大はジャズピアニストとして聴くが実に綺麗なピアノの音が好印象でした。

当時はTEAC A-6700の2とら38を所有しプリアンプはMcIntosh C29でパワーアンプは東芝の知り合いに真空管アンプ、モノーラルで繋ぎFERROGRAPH S1と言う組み合わせで聴いていた、思えば現在より豪華な組み合わだとも思える。色々聴き自宅も3箇所以上も引っ越しをする事になり一度はオーディオ機器は全て処分し、この歳になって以前から持参する残骸のオーディオ機器から細々と再会したのが今の装置に至る。



中村 八大(なかむら はちだい、1931年〈昭和6年〉1月20日 - 1992年〈平成4年〉6月10日)は、日本のジャズ界の第1期黄金期時代を築いたスタープレーヤーの一人。日本が世界に誇るジャズピアニスト・作曲家で、その華麗なテクニックとフィーリングにより国際的にも一流の評価を得て、遺した楽曲と共に今日でも広く親しまれている。
 1931年1月20日、実父の赴任先、中国・青島に生れる。小学4年生の時、上野音楽児童学園に入学、福井直俊氏、高田真一氏、ダカール・ヘルス氏に師事、後に早稲田大学に進学し、在学中にジャズピアニストとしてデビュー、一躍天才児として注目を浴びる。我国ジャズ界の第一期黄金時代を築いたスタープレーヤーの一人として、ビッグフォー、シックスジョーズ等で活躍した。



「黒い花びら」「上を向いて歩こう」「夢で逢いましょう」など、作曲家としても数多くのヒット曲を生み出しが、筆者が中村八大の曲で印象に残るはピアノ演奏による「黄昏のビギン」であろう。

世界的にも高く評価され多数の賞を受賞した。日本を代表するピアニスト、音楽家である。誠に残園なことに1992年6月逝去された。



ピアニスト、中村八大が1970年代半ばにソニーに残したイージーリスニングジャズの4枚のアルバムを聴く!ピアノの音が綺麗で驚きでした!以前購入したとある冊子にも中村八大のジャズピアノの美しい調べが掲載さていました。(上記文中赤波線にて掲載)またYouTubeにも配信されています。この機会に綺麗な音色のピアノ曲を是非お聴きください。

ピアノ・ムード・ベストのアルバムからシバの女王、シャレード、ひまわり、イエスタデイ・ワンス・モア、ミスティと続くが枯葉は絶品であろう。確かに演奏が上手く位置音一音低調に旋律を膝み、ピアノ音を大事に扱う音は実にせせらぎの様な美しさが心を癒してくれる様である。
23日からの東北の温泉旅を楽しんできます。ブラボー!

最近聴くのはピアノ曲が断然多い、配置場所をえ変えた為であろうか? 新しいセラミックフイルターで淹れる珈琲の味は如何?

2023年06月15日 | クラシック音楽・オーディオ


以前にも紹介したがステンレス製のフイルターいらずの珈琲フィルターではあるが、長くの使用で目詰まりになる欠点はあり、現在の抽出は紙フィルターに戻って珈琲を抽出しているが、この度オーディオ仲間のK氏から有田焼のニューセラミックフィルターなる物を頂く、早速説明書を見る、この商品の優れた点は目詰まりが解消する事ができる点である、珈琲の堕ちる速度が低下した場合はガスレンジの上に載せ金網を敷き燃焼させ、珈琲カスを燃焼させ取り除く方法と記載されている。そして新品に復活する。
後は熱湯のお湯を通し透明になれば終了です。また珈琲抽後は水洗いしその後お湯を入れコーヒーの油分を削除すれば終了である。しかも使えるのはコーヒーだけではない!お水も、お茶も、ワインも色々と使用範囲も増えそうです。



早速使用するが、先ずは珈琲豆を挽く、取り敢えず10gを普段通りの荒さに挽く。そしていつも通りに淹れる、ここで問題は珈琲抽出時の落とし速度が不安定である。取り敢えず試験に頂く、不味い!と同時に若干ぬるめであり、味が濃い。その様な不快部分が大きい、淹れながらも感じた事ではある。
でも味わ濃いめではあるが、テスト抽出は大失敗であった。

次に珈琲豆の挽く粗さを2ステップ粗めに挽く、挽いたコーヒーを良く古い皮の部分を削除する、珈琲専門店ではこの行為を「儀式」と言っている専門店もあるそうです。次に2番目の注意点は抽出する前に熱湯のお湯を通しフィルターを温める、そして若干お湯を淹れ珈琲豆を蒸す、筆者の場合は蒸らし時間は1分程度蒸す。そしてソフトに抽出する、肝心な事は抽出後の珈琲の出方が問題で一定に抽出するなら大丈夫である。
そして抽出後は抽出後の珈琲を良く混ぜ、カップに入れ頂く。味は紙フィルターと同様美味しい珈琲ですが、挽き方が若干粗めにしたことで、より珈琲の味は深い様に感じた、蒸らし時間を30秒程長くすれば如何であろう・・・?
美味しい珈琲を淹れるには時間が必要である様です。これでも濃い様な場合は豆を挽く荒さの調節でお好きな珈琲が頂ける様です、筆者の場合はメモリは7メモリの数値で暫く頂く事にする。

後に判明するが有田焼のニューセラミックフィルター使用は抽出の前のセラミックにお湯通しをし十二分に温めなければ美味しい珈琲抽出はできない。
抽出する熱湯の適温はフイルターより若干高めがより良く抽出され香り、風味、旨さは良い塩梅に感じた、しばらくは珈琲を淹れる楽しみも増えそうである。



余談になるが、茶の心は昔から日本でが鎌倉以前より盛んであった様である。
若い頃は海外も出掛けてはいるが、色々な国で好きな珈琲は飲んだが日本での頂く珈琲が一番美味しいと思う、飲み比べてみると最終的には自分で淹れた珈琲が一番美味い事となる、昔から茶の湯の世界は日本は歴史も古く「一期一会」井伊 直弼(いい なおすけ)曰く、訪ねて来られた人には最高の茶を差し上げるの言葉を刻んでいるようである。
昔は武士の間にもお茶を頂く「一服する」ことであり、そこには世間話しさを含め個人的対応をした訳である、そう様な話に切り離せないお茶の時間である、さて「美味しい珈琲」と共にの珈琲とはお茶であり、人により紅茶であったり、煎茶でもあり又抹茶でもある、そもそもこのお茶の発祥といえば薬であったとも言われる、そこでよりリラックスするには良い音楽が必要ではないですか?

最近良く聴くはは断然ピアノ曲を聴くことが多い、いや多くなったのであり、エンクロージャーの置き方を変え、今まで以上のピアノの音の響きが良く感じる様です。好きなショッパンの曲はBGM的に流す事が多い、イリーナ・メジューエワの京都リサイタルのアルバムよりショパン: 24の前奏曲 Op.28 第2番 イ短調 を流す程よいイリーナ・メジューエワ優しいピアノの響きは実に心地良い。筆者の様てでも実に一音一音が明確にトレース出来も苦苦なく良い塩梅に鳴っている。
エッジはコーン紙がそのままエッジとして使われているフィックスドエッジです。 
IIILZ Monitor Gold以降はHPDと呼ばれるユニットに変わりこちらも素晴らしいものには変わりませんが、やはりオールドタンノイを語るならば、コーン紙が工場火災によりクルトミューラー社製に変わる前のこの時代のユニットは少し前に関西のオーディオ仲間より譲り受けた物を丁重に使ってます。HPDと比べ断然粒ダチがよく高音が実に涼やかに鳴るように変わった。



最近仕事で飯田橋に出かける、多少の時間があり、お隣のお茶も水のオーディオユニオンを除く、相変わらず高級機器が居並び圧倒されるが、何時もそこそこの音が出ていると思っていたが、久しぶりに聴くと若干違う向き的な雰囲気の音に聴こえる、特にピアノ音はご存じの如くフエルトが金属弦を叩きそこから出る音は何と無くフエルトが弦に当たる音が聴こえる様に感じなければならないのに無機的に聴こえる、自宅の音に慣れすぎてしまったのであろうか?最近配置変えしインシュレーターを工夫し音質はようなった事が筆者の耳が感じたのであろう。

ここで改めてTANNO IIILZ Monitor Goldを新たな気持ちで聴く、56年前のユニットにも関わらずスピーカーボックは違えどピアノの音は実に鳴り具合も実に良い塩梅に聴こえる、改めて思うは10吋のユニットは現在では大きく感ずるは時代の違いであろう、確かに古いオールドTANNOでしか出せない深みのある響きの良いピアノの音は最低でも10吋と言うユニットが必要かも知れないと感じた。


この様に感じたことは、確かに全て違う音楽聴き自分自身の音を聴かなければ気づきにくい点なのあろう。兎に角ピアノのフエルトのついたハンマーの部分は確かにどちらかと言えば布製に近い音がする、それをハンマーから弦を打ちます。 そして弦の振動は駒を介して響板に伝わり、響板が空気を振動させることで大きな音が鳴るのです。この様に誠に複雑な響きが人間の耳には心地よく聴こえる、そんなピアノ音を聴きたいのです。いきなりピアノ弦の金属音が聞こえればピアノ音が聴けないと言う違ったピアノに聴こえるからである。
やはり無機的は音より演奏者の違いが解る様な音が聞きたいと思うのです。

ショパンの残した21曲のノクターン(夜想曲)の中でも特に有名なのがノクターン(夜想曲)第2番 変ホ長調 Op.9-2です。今では一般的にノクターンと言えばこの曲を指すといっても過言ではないようだ。
そしてもう一つ有名なのがノクターン(夜想曲)嬰ハ短調「遺作」。タイトルで述べると首を傾げる方も入間もしれないがワンフレーズ聴かせれば、殆どの方はご存知の曲である。ショパンの名曲、夜想曲「遺作」は映画戦場のピアニストのテーマ曲としても知られ、多くの方に愛されています。 遺作とは、作曲家が亡くなった後楽譜が発見され、出版されたという意味があり、ショパンの死後世に出た作品としてなにか特別なメッセージを感じさせてくれます。
この第2番と遺作は映画・テレビ等で数多く使われているので、クラッシク音楽に興味がない人でも一度が聴いたことがあると思います。
どちらも穏やかで憂いを感じさせるメロディで『夜想曲』のイメージにピッタリの曲です。
ピアノの詩人と言われたショパンも39歳の若さで肺結核で亡くなった、ショパンは最後に1847年7月末,パリにひとりで暮らすショパンはサンドから決別の手紙を受け取った。と記録されている。その様な時期に作ったピアノ曲の数々には驚かされます。(夜想曲)嬰ハ短調「遺作の方はさらに「寂しげ」、「儚さ」、「切なさ」といった印象があります。
遺作というタイトルもそう感じさせる要因ですが、これはショパンの没後に出版されたためにそう呼ばれるだけで、曲の印象とは関係ないようです・・・。

イリーナ・メジューエワ/ショパン:ノクターン全集(2016年ライヴ)名器スタインウェイと出逢いにより更なる高みへ飛翔したピアニズムが良い、ピアノ曲の好きな方は是非お薦めします。YouTubeリンクも掲載しました。


イリーナ メジューエワ IRINA MEJOUEVA
ロシア出身。モスクワのグネーシン特別音楽学校とグネーシン音楽大学(現ロシア音楽アカデミー)でウラジーミル・トロップに師事。1992年ロッテルダム(オランダ)で開催された第4回エドゥアルド・フリプセ国際コンクールでの優勝後、オランダ、ドイツ、フランスなどで公演を行う。

メジューエワ初のアナログ盤!ほぼ同内容のCDは「レコ芸特選盤」
CD未収録の「ノクターン(遺作)」を含む
ヴィンテージ楽器の輝かしいサウンドを最大限に伝える優秀録音
イリーナ・メジューエワ「京都リサイタル2016」LPで発売!
確かに彼女の演奏するピアノ曲はJ.S.バッハが断然多いが最近シューマン、ショパンの曲も聴いています。

メジューエワ初のアナログ盤。ほぼ同内容のCD(若林工房:WKLC-7022)は「レコ芸特選盤」、CD未収録の「ノクターン(遺作)」を含むヴィンテージ楽器の輝かしいサウンドを最大限に伝える優秀録音。
メジューエワによる恒例の京都リサイタル・シリーズ、2016年は得意とするオール・ショパン・プログラム。いずれもホール・セッション録音の存在するレパートリーですが、ライヴでのテンションの高さと燃焼度はやはり格別。まさに「一期一会」と呼ぶにふさわしい演奏が展開されています。確信に満ちた解釈を名器ヴィンテージ・スタインウェイ(1925年ニューヨーク製、CD135)による輝かしいサウンドが楽しみ。のコメントを見て購入した。



ショパン:ノクターン全集
Disc1 
 ノクターン 嬰ハ短調(遺作))
 3つのノクターン op.9
 3つのノクターンop.15
  2つのノクターン op.27
  2つのノクターン op.32
Disc2  
 ノクターン破短調(遺作)
 2つのノクターン op.37
 2つのノクターン op.48
 2つのノクターン op.55
  2つのノクターン op.62
 ノクターンホ短調 op.72-1
 3つの新練習曲(遺作)より第1番ヘ短調
 プレリュード ホ短調 op.28-4
 プレリュード 嬰ヘ短調 op.28-8

 イリーナ・メジューエワ(ピアノ/1925年製ニューヨーク・スタインウェイCD-135)
 録音時期:2016年6月18日
 録音場所:東京文化会館小ホール
 録音方式:ステレオ(DSD/ライヴ)



ピアノの音が綺麗に聴こえた原音は以下の様な事柄だったのか、配置変えするまでは余り感じなかった音が聴けた様である。確かに最新の録音技術は素晴らしい作品を味わうことができるは大変ありがたいことである。
(7年の歳月を経て、メジューエワガショパン:ノクターン全曲を再録音したそうです。(2016年6月の東京リサイタルのライヴ録音となる今回は、神戸から1925年製のニューヨーク・スタインウェイを運んで使用 )サウンドと圧倒的な名ダイナミクスを併せ持つ器スタインウェイ、メジューエワの薫り高いピアニズムは類稀なる調和を向き、ショパンの詩情の結晶ともいうべきノクターンの宇宙を見事に再創造される如くでもある。
確かにショパンの作品の美しさには舌を巻く、イリーナ・メジューエワの演奏するスタインウェイCD135素適な音楽は勿論テクニックも相当のものであろう、プロヂュースされる若林工房との三位一体となる作品でもあろう。



ここで以前GOODMANS AXIOM 80の箱を頂きTANNO IIILZ Monitor Goldのユニットを移植して愛聴して5年程過ぎ去りやっと据え置き型のエンクロージャーから演奏される音楽が良い塩梅に鳴る様になった、以前聴いた音楽も聴き返すと感動を覚える最近でもある、昔良く聴いたダヴィッド・フレイ(P)を再度聴く。録音状態の響きであろうか、筆者には幾分金属的すぎるピアノの音の様にも思うが曲が進むにつれ慣れてくると清流を思わせる透明感の如くに感じる。
確かにダヴィッド・フレイのJ.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV.988を聴く限り、かなりテンポはゆっくり目である、筆者も少し前の鍵盤楽器演奏者を聴く人には余り感じないが比較的ピアノ演奏を聴く最新のバッハ愛好家はテンポの違いが気になるのかも知れない、しかしJ.S.バッハは演奏のテンポは指定して無く演奏者にお任せである、確かにバロック音楽の楽譜の指定は大変おおらかで細かな指示がない事が人気があったようです。
当時作曲家の収入は楽譜の譜面の販売が収入源であり、当時は簡単な練習で演奏でき、素敵なメロディーが人気があったようで、J.S.バッハ等の楽譜は可也の製薬のあった楽譜で人気はなかったと言われています。
ダヴィッド・フレイのピアノ演奏は確かに美しいピアノ音が鳴る、コメントを読めば分かりが、演奏会場の教会でしかもペテルを多くの箇所で多用し響きを多くしているが、筆者としては普段お演奏が望ましい。
特にショパン作品集を聴けば解るがモダンピアノの演奏する音質は最高に美しく聴こえる、清流を思わせる透明感ある音色と、情感と抑制の絶妙なバランスがショパンの音楽に新しい風を吹き込んでいる。この様な状態のJ.S.バッハも聴いてみたいのが本音である。ブラボー!

まったく、どうでも良いお話しですが、今更ながら60年前の007「ドクターノウ」の映画を検証した

2023年06月10日 | 映画・ビデオ

先日久しぶりにオーディオ仲間から連絡をいただき、本屋で300Bの本があると言われ、早速最寄りの本屋に出かけ早速探すが以前に別冊ステレオサウン誌『300B Book』は以前購入した本であった、が別冊『真空管アンプ クラフト主義』があり、購入する。

記事の中に上杉研究所の創業設計者である上杉佳郎氏は、かねて親しんだラジオやアンプに思いを馳せ、愛情を注いでリストアする「甦る少年時代の〈思い出〉」を『管球王国』に執筆。を紐解くも面白く、ステレオ・サウンド社の「管球王国」創刊を記念して発売された管球式パワーアンプキットの紹介。



今興味ある6L6WGCによるプッシュプル/ウルトラリニア接続パワーアンプ(1995年8月発売)UESUGI U・BROS-1(キット)「管球王国」創刊を記念して発売された大変興味深いアンプでもある。
思うは能率の良い10吋同軸2ウェイ(IIILZ Monitor Gold)をひっそり鳴らすアンプは最適なアンプの様にも思う、英国の音に憧れ、古い10吋TANNOYを再び2013年から聴き始めたが基本は余り変わり映えもしない音ではあるがこの音に長く浸ると最新の音に興味を抱かなくもなるのが不思議だ。

しかし注意書きで真空管の球は製作者の意図もあるので指示された玉を使う事を勧めると書かれてある、確かに真空管の音はメーカーにより違うことで頷けるこれもルールなのである。それをわきまえ使用する事が大人なのである。この様な記事を見るとこのアンプが欲しくなりますよね!

最近はオーディオ機器の価格高騰も驚くが、貧困老人には大変辛い事である。今更ながら6L6アンプに興味が湧いてます。



今回は話は古い映画のBS放送で再放送を見た感じた事を記した。スパイアクションの金字塔「007」シリーズの第1作で、ショーン・コネリーが自身の当たり役であるジェームズ・ボンドを初めて演じた記念碑的作品ではあると言われるが素人の様な感じで演技も最低である。イアン・フレミングによる原作小説のシリーズ第6作を基に、イギリスの敏腕諜報員ジェームズ・ボンドと天才科学者ノオ博士の戦いを描く。
当時日本初公開時のタイトルは「007は殺しの番号」。実は映画「007」シリーズは1962年にイギリスで第1作が公開され以来、2021年10月1日に日本公開される最新作『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』で25作目。世界中で長〜く愛されているスパイ映画なのです。



日本では一年後の1963年6月1日公開している筆者の記憶によると15歳の夏休みに公開映画を観た記憶は残るが、ストリーは今一つ意味不明な箇所が多く、後に観た第二作目「007/ロシアより愛をこめて」の作品は一番好きで主題歌テレンス・ヤングが監督の2作目、マット・モンローの美声が良いテーマ曲は名曲だと思う。

第一作目では余り気にならなかったが、第二作目のボンドガールにはイタリア出身のダニエラ・ビアンキの「タチアナ・ロマノヴァ」役は美人で見逃せなく魅力であった。ストーリーも子供ながら理解でき大変好印象に残る作為品であった。
最近BSで大一作から順に再放映していたので第一作目をジックリ観ることにした、この映画は第一作目から順位になければならないと解説されいる事は、当然のことであるように映画をみて理解できるのである。

これは筆者の独り言ではあるが007映画シリーズとは違うが1967年のジェームズ・ボンド卿(デイヴィッド・ニーヴン)のBurt Bacharach 映画「007 カジノ・ロワイヤル」恋の面影「THE LOOK OF LOVE」は好きな曲である。後にTHE LOOK OF LOVEはジャズ等でアレンジされ大変親しまれているようである。最近ではダイアナ・クラール、ニキ・パロット等等が人気の様である。

再放送を見て思うはこの「クラブ」が一番の問題で如何にも英国式な物語になっていることだ、当時幾らませた中学生如きには理解できないであろう、これが映画の中でのクラブの中身の一部である。リンクを貼り付けました、

ここで思うは英国ルールは大切である事が理解できる。勿論ジェームズ・ボンド式ルールがある様です(笑)。例えばドンペリは3.5度で飲めと言う様に・・・



中学生の子供にはこの様な事は全く理解出来ない内容であろう・・・、
アンバサダークラブとはなんぞや?の意味が解明しなければ面白さは半減する、この第一作目の説明、いや当時英国流の世界観が理解できなければ007なんて面白みに欠ける、いや解らないのであろう。

カードゲームはわかるが意外と年配の社交上儀式は日本にはなく、意味不明の怨憎であった。此処でジェントルマン(gentleman)に意味も曖昧で日本では一般的に紳士と訳させれいるからです。ジェントルマン は地主貴族を核とするイギリスの名望家。16世紀から20世紀初頭にかけての実質的なイギリスの支配階級であった。世襲の爵位を有する少数の貴族と、身分上は庶民である大地主層ジェントリを中核とし、経済活動の活発化に伴って興隆した中流階級を随時取り込む形でその境界を広げながら支配体制の温存を図った。

この様にこのスパイ映画を観ると、意外とシリアスな面と英国独特の社会が分かってくる様であるのが面白い第二作目以降はお遊び要素が多くなる。



当時携行用拳銃がベレッタからワルサーPPKに変更しモデルガンも人気が出た記憶がある。東京御徒町のモデルガン専門店が人気があった等である。
写真のPPKであるが一部切り抜き部分に間違いがあり早速補修する未だPhotoshopでの補修は手放せない様である。
今思えば、この様な社会が理解できればこの映画は大変貴重な映画であり国際スパイ行動を理解するには面白い映画でもある
現在プーチン大統領は約1ヶ月に一人を殺していると言われるが、不思議なことにロシア国民が騒ぐが次々に殺されまたか?と言う感じになり最近は騒がないそうである。毒殺説も頻繁に横行している様である。

西側諸国の英国では産業革命以降はあまり変わらない社会に収まっている事がわかり、日本と随分違い様に思う。ギリシャ、ローマ以降の中世以降のEUは余り変化しない様に思う。
初代ジェームズ・ボンド役で知られる英俳優ショーン・コネリーさんが2020年10月死去したと伝えた。90歳だった。



「ジェントルマン」という言葉はよく目にも耳にもするし、実際使うこともあるけれど、いざ、では「ジェントルマンって何」と問われたら、なかなか即座には「これがジェントルマンだ」と返答できないのではないだろうか。

これこそが列記とした英国の歴史から成立した言葉なのである。
中世末から近代初頭に成立したイギリスの社会層。16世紀以来のイギリスの支配的階層であるが,その具体的な内容は時代によって微妙に変化している。本来のジェントルマンとは,地代収入によって特有の奢侈(しやし)的な消費生活や教養,政治活動を中心とする行動様式などを維持しえた有閑階級のことである。基本的には,公侯伯子男という爵位をもつ貴族と,身分的には庶民であるが,貴族と同様に〈家紋つきコートcoat of arms〉の使用を認められていた〈ジェントリーgentry〉とがその構成員であった。又、産業革命により庶民にも裕福な家族が増え、たとえば銀行の頭取、大会社の取締役とも〈ジェントリーgentry〉が与えられ様になった。英国には当時クラブは至るところにあり、朝食、昼食、夕食は勿論クラブで頂きカードをしながら投資物件の調査をしその様なデーターを徴収できるのが社交場のクラブであった。食事も全てクラブの出された物いただき味付け等は騒が無い事が決まりでもあった様である。

当然家庭ではあまり食事をしていない方々が多く、文句を言いたくとも誰に言うのかも知らない世界の事だったのであろう。笑える事は英国紳士は「飯が不味い」と叫べなかった事も英国の食事の不味さである様に思う。



調べてみると次のようは説明を引用しました。
歴史的には中世末期以降の英国で大きな政治的・経済的役割を果たした社会層。おもに地代収入によって特有の生活様式、教養などを維持した有閑層で、その内容は時代によって変化したが、貴族と、大多数の身分的には庶民である〈ジェントリーgentry〉からなった。
また大地主以外でも開業医,法律家,聖職者や富裕な商人なども含むことがあった。荘園制の解体の中で農業経営によって富を蓄積し,中世末には地方政治をにない,近代絶対主義時代には中央政治に進出、名望家支配の体制を固め、17世紀以降の市民革命に際しても多大の役割を演じた。ブルジョアジー台頭後は中産階級以上の地位・財産・教養をもつ者(紳士)を広くさし、単なる尊称としても用いられるようになった。



今思うも007のボンドガールとしてもダニエラ・ビアンキが最高でもある。
この様な歴史がある、英国は飯が不味いと言う事なのであろう、勿論支那料理も不味いと言われていると聞いた事がある。日本人が見た目に解るはイギリスパンは皆知っている食べ物である。肉じゃがの基本は英国と聞いた事がある、勿論我々にはたいした料理としか思えない。
中学生時代この「ジェントルマン」と言う意味合いを理解していれば007ドクターノウはもっと面白い記憶に残る作品であったのであろう、ブラボー!