おはようございます。
今日から京阪の古い写真をもう一度見てもらいます。
私の写真のみですのでひと形式一枚のものもありますので辛抱ください。
また今日は出かけるかもしれません。あす9時にブログが出ていたら出かけているなぁと思っていてください。
ゆく場所は天候次第で家内は初めてショウトスティ(一泊でケアに)行っています。
首輪が外れたのでどこに行こうか?考え中です。
京阪沿線で見るかもしれません。・・・・ でも予報が雨だそうです。
明日は300形です。
200形 212 丹波橋 S34.4.
200形は100形(100~162・111を除く)の62両は木造車で大正14.7.登場の111・163~168は半鋼製車で
あった。事故などにより10数両の廃車を出したが、昭和4年5月大改番を行った。
従来通りの100形31両を100形 日立製PR複式制御器を取り付けた21両を200形として2形式に分けられた。
新100形は、短区間用として昭和15年まで活躍したが、
800形の京阪線移管の代替えとして119・120・127・128の4両はS15.大津線に転出 PR制御化(200形へ改造)
も進められた。
S22.大津線へ移って100形は京阪線からすがたを消した。
S22.規格車の新車1300形が登場時供出車として109・111は広島電鉄に渡っている。
連結運転が可能な200形は当初21両あったが、その後100形からのPR改造車を加えて30両に増えた。
S22.229・230の2両が広島へS24.8.に227・228 S26.225 S29.半鋼車の201~206・221が
電制取り付け特急色に塗られ大津線へ転属 残りの車両も大正以来の木造車体の疲労が激しいため、S32.から
順次廃車機器は新造車体に取り付けて260形として大津線に移管が進められた。
S38.全車大津線転属を完了した。
約50年前の丹波橋ですか
半世紀も経つと走っている車両はもちろんですが、
風景も大きく様変わりしますね。
三条行きなので、大阪方での撮影だと思いますが、
線路配置なんかはなんとなくですが、
現在に通じるものあがある気がしました。
コメントありがとうございます。
この写真は丹波橋駅下りホームの京都方より撮影したものです。(当時は京都端に構内踏切がありました。)
先頭車は丹波橋1番線から近鉄京都と京阪三条に渡るポイントの上を走行しています。
踏切は丹波橋通です。
ちょっと想像つかないかもしれませんが、「鉄パパの鉄道写真」http://www.justmystage.com/home/tetupapa/index.html
から「自己紹介」を開いて「構内配線」京阪配線の丹波橋を見てください。
http://www.justmystage.com/home/tetupapa/kounai.html#tannba
参考にしてください。
またコメントお願いします。
あの独特な踏切のカウント形状は今も昔も変わっていないと思います、そして懐かしい200形、夏は車掌が閉めた後電車が走り出したらそおっと30センチほどドアーを開けて涼しい風を入れたものでした(学生時代の通学で日々乗車)また鳥羽街道から東福寺へ至る奈良線越えの登坂は喘ぎ喘ぎ登っていたのが懐かしいです。
ちなみに当方の最寄駅名は「師団前」でした、懐かしい写真に出会えて有難う御座いました。
はじめまして鉄パパです。
コメントありがとうございます。
あの頃は車掌が運動靴を履いて列車が駅に到着すると走って扉を開けてまわり、乗客が乗車が終わると扉を閉めてホームを走り車掌台に乗車して運転士に合図をして発車していきました。
3連ならば車掌が2人乗車していることもありましたねぇ!(ラッシュ時)
懐かしいことを思い出させていただきました。。
最寄駅が「師団前」ということで調べてみました。
1910年(明治43年)4月15日師団前駅開業。
1941年(昭和16年)9月1日藤森駅に改称1968年(昭和43年)7月21日上りホームを踏切の京都方に移設、地下道使用開始(現在位置になりました。)
それまでは墨染・藤森両駅は踏切の手前に上下ともホームがありましたねぇ!
私ももうすぐ75歳になりますが、新しいことはすぐ忘れますが、古いことは案外覚えています。
またコメントお願いします。
ありがとうございました。