Baradomo日誌

ジェンベの話、コラの話、サッカーの話やらよしなしごとを。

太鼓に関する問題提起

2007-02-25 | ダトトパ教本(ネット版)
このところ、毎日暇さえあればママディ・ケイタの教則本とにらめっこしながら付属の教則CDを聴いている。ジェンベを、というよりもむしろ横太鼓のパターンを覚えようと四苦八苦している。

ギニアのトラディショナル・リズム、と言うとそれだけでもう「別世界!」なイメージがあるが、所詮太鼓である。叩けば鳴るのだ。
そして強引ついでに、演奏される楽曲を無理矢理大別すれば、3拍子系のビートか4拍子系のビート。
間違っても変拍子系はないから、とにかく3か4で解析可能。
それしかない、と言えばそれしかないのだが、ここからが難しい。
基本的にジェンベ×2+横太鼓×3で、合計5つのビートが同時に打ち鳴らされると、どこが頭か裏なのか?どこでどうやってソロが始まって、どこでどうやってブレークして、どうなっとんねん?というえらい反復ビートの洗礼を浴びることになる。
そしてどえらいグルーヴが流れ出すと、これまたどえらい倍音が渦を巻く。
まるで笛が鳴っているかのような倍音の渦。
あれはライブで聴かないとわからない・CDでは半減以下。
あるいは見方を変えて、横太鼓3本で1つの反復メロディになっている、と考えても、そこに乗っかるジェンベ2つはやっぱり違うアクセントのビートを奏でている。結局なんだかんだ言っても複雑に絡み合いつつ、大きな塊としてうねり、反復されていく。
よくもまぁ太鼓だけでこんな濃密なアンサンブルが生まれたもんだ。

太鼓だけのアンサンブルというと、日本にも和太鼓があるし、田舎に行けばお祭囃子がある。
私が小中学生だった頃に慣れ親しんだ、故郷のお囃子では、大小の太鼓と大小の鼓、ヒチリキなどの組み合わせでグルーヴを構築していて、小太鼓が基本的なビート、フレーズを決定し、大太鼓は小太鼓のフレーズ上のアクセントをユニゾンで叩く場合が多く、1曲の中で大太鼓のみが音を出すスペースは極めて少ない。また、鼓は大小が互いに掛け合うように(もしくは互いを補完するように)演奏されるが、そこで奏でられるメロディは基本的には小太鼓と同様(もう20年以上叩いていないけれど、いまだに当時やった楽曲のパートを覚えてるのは、単に子どもだったからか?)。
一方、鼓童や鬼太鼓座などのような伝統に根ざしつつも創作性を盛り込んだ和太鼓アンサンブルになると、高度にポリリズミックになっていくし、あるいは我が国の非常に洗練された音楽である、雅楽などを聴いてみると、そこで表現されるポリリズム的な感覚は、むしろ「間」の感覚であり、一つの打音、あるいは他のメロディ楽器の短いパッセージを、どのタイミングで、いかに鳴らすか?という、演奏者の呼吸そのものがポリリズム的に感じられたりするのだが、これらは本質的に民衆音楽ではない。
それが宮廷音楽であったり、あるいは職業音楽家が作り上げたものであり、だからこそ生まれた(もしくは顕在化した)ポリリズムだと言える。
一方、民間伝承的なお祭囃子には地域差もかなりあるし、実は創作されたものも多いらしいのだけれど、敢えて強引に想像するならば、一般大衆が比較的容易に演奏することが出来る範囲で成立しているものがほとんどであることから、リズムは比較的シンプルだと言える。
もっと極端に、失礼を承知で言うなら、聴衆と演奏者との間にある垣根の低さ・セッションのしやすさという点から見れば、雅楽やプロの和太鼓集団の奏でる音楽は「バップ以降のJazz」、お祭囃子は「Rock’n Rollの8ビート」みたいなものかもしれない。
不勉強な私がこのような問題を安易に論じることは危険であるし、この結論付けは非常に暴論であると認識しているけれど、こと和楽に関して言えば、それくらい一般大衆が奏でる音と職業音楽家が奏でる音とのベクトルは違っている、と私には思える。

で、ギニアのトラッドだ。
ママディ・ケイタはマリンケのリズムを中心におよそ300種類のリズムを演奏できるそうだが、それは国立バレエ団の音楽監督であったからこそだろう。そして、国立バレエ団自体が政治的なベクトルを持っていたからこそ、民衆の音楽をさらに洗練していったのだ、と推測するが、政治的とはいえ、その音楽はあくまで民衆をその視野においてのことである。従って、政治的背景を背負った彼らの音楽はどこまで洗練されたとしても民衆のベクトルを基礎とし、その延長線上に存在する。
だからこそママディは一般人ともセッションできるし、一般人が作り出すビート、いわば「共通言語」の上で自分を表現できるのだろう。
これは、音楽が「発達する過程」、あるいは「洗練される過程」に関与した為政者の「民衆に対するスタンス」がもたらした大きな「相違」だ。
そして同時に、そこで打ち鳴らされる音楽の構造を見れば、それだけギニアにおいては「トラッド」が普遍化し、「生きた文化」として息づいている、とも言える。
いわば「歴史」がもたらした「伝統音楽」なるものの構造の変容だ。
仮に、今の日本で、複数の地域の伝承音楽の演奏家が、いきなりせーのでセッションしたとしたら、どんな音楽になるのだろう?そして、そこに「素人の」囃子連的演奏家が入った場合、そこに「共通言語」はあるのだろうか?
知りたい。

う~、また脱線してる。
リズムの話を書こうと思っていたのに。


同じように怒る訳

2007-02-09 | 子どもの視線・親の気持ち
このところ、毎晩カミサンの帰宅が遅いので、6時30分までに学童保育所に娘たちを迎えに行く。
帰宅すると、上の娘は風呂の準備、下の娘は音読の宿題、俺は晩御飯の仕度に取り掛かる。
ま、娘たちがすぐ動いてくれればいいんだけど、そう甘くはない。
昨夜も帰宅するなりじゅうたんの上にどべ~っと寝そべり、やおら上の娘がテレビをつけた。
「おい、約束が違うぞ!明日の準備は?風呂の仕度は?とっとと動けぇ!」
包丁と中華なべを握って仁王立ちする父の姿を見ても、
「ちょっと待ってぇ~。」
とだらけている。
敵も疲れているし、日常生活なんてこんなもんだ。

そんなこんなで二人とも宿題と明日の準備を終わらせ、風呂にも入り、さぁ夕食。
この日はとにかく家にあふれかえる葉っぱもの野菜を食べつくそうと、白菜を半分丸々使った中華スープ、親父が畑で育てたほうれん草のソテー山盛り、鶏肉のバター焼き、にんじんのグラッセ。
中華だか洋風なんだかわからんが、ともかく、野菜を食べさせようと、ウチにしては珍しく、各々の皿に取り分けてテーブルにセット。
連中の嫌いな素材は入ってないから、ぱくつくだろう、と思っていたのだが・・・。

「あ~、レストランみたい~!」
「野菜食べるんだよ。残したら、テレビ見せないよ。」
「いっただっきまぁ~す!」
その日の学校でのこと、学童でのこと、テストのこと、プールのこと。
二人の娘は我先にとマシンガントークを繰り出してくる。
話したいこと山積みなんだよね。
君たちの話はどんなささいなことでも昨日の君たちとは違うんだ。
少しずつだけど、着実に育つ心。
でもねぇ、おまえら。ご飯冷めちまうよ。

そうこうするうちに9時近く。
やっと帰宅したカミサンも加わり、マシンガントークはさらに加熱。
で、皿の上は?

「スープ残ってる、ほうれん草のこってる、もう冷たいんじゃないの?9時から見たい番組あるんじゃないの?」
「あ~!」

そして・・・ほうれん草が最後に残った。

「だって苦いんだもん。」
異口同音に娘たち。
「じゃ、残してもいいから。」
「ううん、食べる。」
しかし、遅々として進まず、おしゃべりも止まらず、時計の長い針は12を指した。

「いい加減にしとけよ。言われなきゃ宿題もやらない、風呂掃除は結局俺がやって、お前ら今日は帰ってきてから何にも約束果たしてないだろう?それでしまいにゃご飯残すかぁ?勝手にしろ!」
そう言って、俺は自分の皿だけさっさと片付け、2階の自室へ閉じこもった。

しばらくして、まず下の娘が上がってきた。
「ごめんなさい(すでに泣いている)。」
「食べ終わったのか?」
「全部食べた(鼻をすすりだす)。」
「言われたことはやりなさい。で、あのほうれん草は、誰が育てたんだ?」
「おじいちゃん(涙腺が本格的に決壊)。」
「おじいちゃんが、お前らに食べさせたくて作ったんだから、気持ちが栄養になってるんだ。だから味が濃いんだ。今日の味を忘れるなよ。」
「ごめんなさ~い(号泣)。」

そして上の娘。
こちらはちょっと手ごわい。
「ごめんなさい(とりあえず涙目)。」
「何が?(努めてにっこり)」
「ほうれん草残したこと。」
「ん~?」
「あと、帰ってきてから、怒られないと何もしなかったこと。」
「明日から、ちゃんとできる?」
「できる・・・ぶえぇぇぇ~ん(突如号泣)。」
「何で泣くの?」
「だって、くま、本気で怒ってたから、おじいちゃんのほうれん草だし、口も訊いてくれないんじゃないかと思って、そしたら普通に話してくれるし、さっき怒られたのは何なんだろうって・・・。」
「んで?」
「うちだって、毎日毎日おんなじように怒られて、毎日怒られるのやだし、毎日考えてるのに、結局怒られて、なんでだろうって。くまがよく言うように、うちだって毎日考えてるし、少しずつだけど出来ることも増えてるのに、でも、くまが毎日同じように怒るから、うちはぜんぜん出来るようになってないんじゃないかって、なんか嫌になってきちゃったんだもん。」
「君は、毎日同じように怒られてる?同じことで?」
「似たようなことだけど、同じじゃぁない。」
「じゃ、違うことで怒られてるっていう自覚はあるんだ?」
「うん。」
「それなら成長してないってことにはならんでしょ?」
「なんで?毎日違うことなのに、おんなじように、なんか、こう、上からべしって叩くみたいに怒られてるよ。」
「俺がさぁ、立ったままこうやって腕を振り上げて、君の頭をばしっと叩いたとするだろ?ところが、君は毎日少しずつ背が伸びてるだろ?」
「だから?」
「俺が毎日君を叩くためには、俺は毎日すこ~しずつ背伸びするか、台の上に載らなきゃなんないね。毎日違うことで同じように叩かれてると思うなら、それは君が少しずつ心も成長してる、ってことなんじゃないの?」
「なんで?」
「だって、もし毎日同じことでひっぱたいてるんだったら、なんでできないの!って、最初はスリッパ、次は平手打ち、それでもだめなら拳骨、右ストレート、しまいにゃ蹴り、って、どんどん激しくなるでしょうに。」
「・・・あぁ!そうか。」
「君を叱るのも一苦労なんだよね、俺としては。俺は父親だから、爺ちゃん婆ちゃんから受け継いだ君たちの命を大きく育てる責任があるんだ。だから、君たちを叱るのさ。でも、君たちなりに出来ることも増えてきているし、成長してることがわかるから、結局怒り方は変わらないの。納得?」
「わかったような、わからんような・・・でも、なんかすっきりした。」
「じゃ、次にやることは?」
「下へ降りて歯磨き!」

みんなわかってるんだよな、君たちは。
そして、わかってることをわかってほしいんだよな。
だから子どもたちは体を張って怒られちゃう。
俺たち親は、そのことに気付いてあげないと、「できた!」っていう無邪気な声を聞くことはできないんだ。


色えんぴつ

2007-02-08 | 子どもの視線・親の気持ち
先日、下の娘が、
「学校で使う色鉛筆の、ちゃいろと、むらさきと、おれんじが短くなっちゃったの。」
と言うので、仕事帰りに必要な色を買い揃えてきた。

そして日曜日の夜。
パジャマに着替えて「もう寝ろ~!布団にイケ~!」と言ったところ、実はまだ明日の学校の準備が出来ていないと言う。
「今すぐやっちゃいな~!」
と下の娘に言ったところ、「はぁぁ~ぃ」とやる気なく二階にあがったきり、降りてこない。
俺は洗い物を済ませ、上の娘は歯磨きも終わったけれど、下の娘はまだ二階。
「寝る時間なくなるよ~!」
と声をかけながら階段を上り、娘の部屋に入ったら、手動の鉛筆削りに右手を置いたまま、左の手のひらをじ~っと見つめていた。

小学一年生の小さな手のひらの上で、親指みたいなむらさき鉛筆がころころ転がっている。
「どしたの?新しいの買ってあげたろ?早く削っちゃいなヨ!」
「・・・。」
「ん?どこにやったの?」
「あのね、ん・・・とね、これをね・・・ぴんってきれいに尖らせたかったんだけどね、どうしても先っちょが折れちゃうの。」
「ん~?色鉛筆だから、普通の鉛筆より芯がやわらかいんだよ。だから、そんなに尖らせなくていいんだよ。ほら、新しい長いのはどこ?」
「だからね・・・・これ。」

何気なく勉強机の上を見ると、こちらにも、ちんまり短いむらさきくんがころん。

「?え、まさか新しいの削っちゃったの?・・・しぇぇぇぇぇっ!」
「・・・ふえぇぇぇぇ~ん!ごめんなさ~い!」

おいおい、泣くなよ。
って、そりゃ泣くよなぁ、おい・・・。
でも、俺も泣きたいよ。
あ~ぁ。

070203四谷天窓~中村翔ライブ報告

2007-02-07 | LIVE情報
先週の土曜は、高田馬場・四谷天窓にて中村翔ライブ。
基本的にこのユニットは、彼のソロワークであって、私はにぎやかしだから、彼の歌の邪魔さえしなければステージとしては成立する。
彼自身、一人でもあちこちでやってるし、俺とのユニットはこのところ天窓くらいでしかやってない。
曲によってはジャム的な性格の強いものもあり、それはそれではっちゃけることも出来るのだが、激しい曲でジャム的に展開するのは比較的常套手段。
でも、これはライブだから、あまりセッション的にやりすぎるとバランスを欠く。
だから、むしろ、抑え目の曲で即興的にバッキングできたら、そりゃぁかっこええやろ~な~、なんて夢想しながら、毎回ステージを楽しみにしているのだ。

ところで、実はこのユニット、11月以来リハをやってない!
既存の曲でも最近やってないのもあるし、アレンジ途中のものもあるし、何より新曲が増やせないなぁ・・・と思っていたら、今回は新曲が。
「風に舞う」という曲だったんだけれど、これが淡々とした曲で、沁みるんだ・・・って、おいおい、ジェンベつけなきゃ。
サウンドチェックで軽くあわせた後、楽屋でしばらく回してみて、一応の基本パターンをつけておいた。
後は野となれ山となれ・・・。

本番は、手馴れた感じで比較的まとまった演奏。
ミドルテンポの曲を2曲ほど。
ジェンベは音がでかいのでマイクも立てずにやってるんだけど、それでもかなりの迫力で聞こえるようだ。

で、問題の新曲。
始まってしまえばこっちのもの。
2コーラス目に入ったあたりでかなり気持ちよくなってきた。
ところが!
途中からな~んか気になる気になる。
こういうミドル~スローなテンポで、あまりハネない曲で、アスファルトの上を風に飛ばされた空き缶が転がっていくようなパーカッションのフレーズが使われていた曲があったはず・・・なんだっけなぁ~?あれ~?思い出せない~!!

つづいて激しくファンキーな曲をやった後、うちらの次に出演予定だったKENTAくんを引っ張り込んでSweet Home Chicago。
天窓出演も4回目くらいになるが、ブルースネタで盛り上がれる共演者は初めてじゃないかな。
最後はRedemption Song。
カバー2曲ってのも久しぶり。

そのあとは、トリをつとめたKENTA君のステージ。

よかった。
ほんっとによかった。
「デパート」という曲で、不覚にも涙が出てしまった。
「香り」をキーワードに展開する慕情とでも言おうか、単なる「匂い」フェチと言おうか、まじめによかった。

無論、ステージ終了後はみんなで飲み会突入。

で、帰りの駅で、階段を転がり落ちる空き缶を目撃。
「Oh! あの音サンプリングするか?」
なんて、あほなことも思ったんだけれど、そこでまたフラッシュバック!
なんだっけ、あの曲は?

で、ついに昨夜思い出した。
ロイド・コールのソロ1stだよ。
ギターはロバート・クワインだ!ドラムはフレッド・マー!80年代末当時のルー・リードのバックバンドのメンバーだ。
もしかしてあの音ってジェンベだったのかなぁ・・・クレジットには「per Fred Maher」としか書かれていなかったと思うんだけれど。
さて、どこにあったかなぁ・・・がさごそがさごそ・・・。

ママディ・ケイタ「ジェンベフォラ」

2007-02-01 | ダトトパ教本(ネット版)
映画「ジェンベフォラ」をDVDで購入した。

そう、これはまさに文化的なパン・アフリカニズムだ。

この映画の主人公、ジェンベフォラ、ママディ・ケイタは1950年生まれ。
12,3歳くらいのとき、ギニアの国立バレエ団「バレエ・ジョリバ」にドラマーとしてスカウトされ、故郷を離れたらしい。
その後、20年くらいの間、バレエ団において活躍し、1984年にセク・トゥーレ大統領の死去、そして起こった軍事クーデターに伴い、ギニアを離れ、ヨーロッパ、ベルギーへと活動拠点を移した。
この映画は、それから6年が過ぎ、ママディが6年ぶりにギニアへ帰郷し、二十数年ぶりに故郷の村へ帰る、という話だ。

ママディが所属していた「バレエ・ジョリバ」とは、セク・トゥーレによって創設された国立バレエ団。
その活動は政府の公式行事として行われ、海外公演も同様に政府の公式な事業であったそうだ。
セク・トゥーレというと、フランス帝国主義支配下からの脱却を目指して、「隷属の下での豊かさよりも、自由のもとでの貧困を選ぶ」と言って独立し、社会主義政権を樹立した、ギニアの初代大統領。
しかし、フランスが完全にギニアから手を引いたおかげで、ギニアは本気でびんぼーな国になってしまい、トゥーレは当時の中国の人民公社を模した組織化を進めたり、ここに出てくるバレエ団を育てて海外公演などもさせながら、経済的にも、文化的にも、マリやセネガルとの差別化を図っていったらしい。
しかし、トゥーレの没後、「バレエ・ジョリバ」はそのあまりに政治的な設立経過ゆえか、次第に縮小し、国内での民俗芸能教育機関となった。
現在、ギニアの国名を背負って海外公演を行うのは、同時期にヌボディ・ケイタという人によって創設され、後に国立バレエ団となった「バレエ・アフリカン」のみ。こちらはもともと、比較的商業的な要素が強いものだったんだそうだ。

己が不勉強を恥じるしかないが、セク・トゥーレが国立バレエ団を育てたというエピソードは、まったく知らなかったが、これは、1930年代フランスでのネグリチュード運動の系譜に連なる思想性を持つものなのではないだろうか?
さらにさかのぼるならば、1920年代にはアメリカやヨーロッパの一部のアフリカンによる政治的意思表明であった、特にマーカス・ガーヴィーによって急進化したパン・アフリカニズムからの影響も少なからずあるだろう。
ガーヴィーの活動はネグリチュード運動とも連携したものであり、エンクルマやトゥーレ、ジョモ・ケニヤッタ等に多大なるインパクトを与えた、とはあちらの研究史でも繰り返し述べられている話。
また、ガーヴィーが主催するU.N.I.A.(世界黒人向上協会)の1925年世界大会では、アフリカの民族衣装に身を包んだ万単位の参加者がニューヨークでパレードを行ったりもしている。それはまさに自らの「黒人性」の発露であり、この点において、ガーヴィーが主唱した「人種意識」とは、1920年代を生きたディアスポラの黒人たちにとって、「解放の論理」として鳴り響いたのだ(ってのが、俺の卒論の結論だったな)。
これに対し、トゥーレの政治思想については、詳しくはこれから調べたいが、部族社会、さらには村落共同体をそのまま経済の最小単位として活動させようとする発想を抱き、その結果ソ連との連携、中国共産党の方法論の模倣へと至ったのではないかと、現時点においては短絡的に推察する。
それは実際に国家建設を行った、という点で、1920~30年代の米国等における西インド諸島人によるラディカリズムの隆盛とはまた違った側面を持ったものであり、1958年当時の世界状況を考慮するならば、トゥーレの社会主義への傾倒とは、いわば「脱植民地化の論理」だったのではないかと予想できるのだ。
その意味では、あるいは合衆国におけるN.A.A.C.P(ナイアガラ運動に端を発し、現在も継続する全米有色人種改善協会)の創設者であり、第二次大戦後共産主義へと思想的転換をしたW.E.B.Duboisとの相関関係もあったのかもしれない。

前説が長くなったが、主人公であるママディは故郷に赴き、故郷の人々とジェンベを叩き鳴らす。
子供の頃は農夫であったという彼は「農作業のときも、ジェンベはいつも傍らにあった」と述懐する。
さらに、村落における農作業時、周囲でジェンベを叩きながら男たちが畑を耕すシーンでは、こんな言葉を発している。
「みなでこうして働くことは、単に利益(welfare)を生むための行為ではなく、(共同体への)好意(goodwill)によるものなのだ。それが大切だと知っているから、貧しさも共有できる。」
それはあたかも、独立がもたらした貧困を、単に現実として受け止め、部族的な道徳心によって乗り越えようとするセク・トゥーレの胸中を代弁したかのように響く。
故郷の村でも、20年以上合うことのなかった同胞と、あるいは20年前には生まれていなかったような若者と、ジェンベを鳴らしあうママディ。
国立バレエ団のソフィスティケートされた?ドラマーであろうママディだが、行く先々で土地のグルーヴに溶け合い、自分を表現する。
そんな彼の姿が訴えることは、ギニア・バレエなるものが、決してエスタブリッシュメント向けの娯楽であったり、あるいは外貨獲得のための手段として、必要以上に洗練され、その歴史や民族性と乖離したものなどではなく、まず国民に向けられたものであり、そして同時に己が「黒人性の発露」として表現したものである、という事実。
それは部族の文化、言い換えればミクロ・ナショナリズムを突き詰めた結果獲得した普遍性を示すものであり、すなわち文化的パン・ナショナリズムなのだ。セク・トゥーレが「バレエ・ジョリバ」を設立した意図はここにあったのではないか?
そう考えたとき、彼のパフォーマンスは、無常のリアリズムを持ってわれわれに迫ってくるのだ。

しかし、ほんっと、俺は学生の頃に何を勉強してきたのか、とショックを受けた映画だった。
今頃になって、あの頃に聞きかじった単語や断片的な知識がパズルみたいにピタピタはまっていく感じ。
なんかすごいショック。
なにぶん当時は先行研究があまりにも少なく、とてもじゃないが俺の語学力ではついていけなかったのだが、20年かかって意識が大西洋を渡った感じ。
これからまた勉強再開だ。