Baradomo日誌

ジェンベの話、コラの話、サッカーの話やらよしなしごとを。

不思議な人。

2010-01-28 | よしなしごと

毎朝通勤のためK駅から電車に乗る。
できれば7時42分発の上り列車に乗りたいが、毎朝ついつい乗り遅れ、続く45分発を待つ。
下車した後のロスタイムを少なくするため、いつも最後尾の車両の3つめの乗車口から乗る。乗車後の立ち位置も毎日ほぼ一定。
恐らく、電車通勤する人ならば皆に共通するだろう、この行動パターン。これも社会秩序の1ピースだ。
不思議なことに、ホーム上には3列で並ぶよう表示がされているにもかかわらず、私が乗る車両付近は何故か二列。三列に並ぼうとすると非難するような視線を感じることが多い。ほかの駅ではあまり意識したことはないが、これもきっと社会秩序の1ピースなのだろう。

42分発の列車が出たあと、私が並ぼうとする列に毎日必ず真っ先に立つ、見たところ30代前半?の女性がいる。
明るくカラーリングしたミディアムのストレートヘアに、きりっとした眼差しが意思の強さを感じさせる。とりたてて美人と言うわけではないが、感じのいい「お姉さん」。
出勤後着替えるのか、スーツ姿はほとんど記憶にないが、パンツルックの時が多く、ショルダーバッグを右肩にかけ、ひじで押さえ込んでいる。年間通して毎日日経新聞を手にしていて、冬場は黄色とオレンジのストライプが入ったマフラーを毎日巻いている。
ちなみに今朝はブーツカットのジーンズにステンカラーコート、マフラーを巻いて、手にはもちろん日経新聞。

毎朝、彼女はその列の先頭左側に立とうとするが、もし自分が2番目であったならば、手に持った日経新聞で先頭の人の肩からうなじ辺りを突付いて押し出し、自分はホームの黄色い線ぎりぎりに立つ。
その間、彼女は新聞から顔を上げることはなく、終始無言。そして定低位置を確保した彼女は足を肩幅程度に開き、微動だにしない。
文句を言う輩に対しては、アゴをほんの少し右に向け、上目遣いの横目で憎悪に満ちた一瞥を送り、すぐ新聞に視線を戻す。

45分の電車がホームに入り、目の前のドアが開く。
しかし彼女は顔を上げず、微動だにしない。
急流に抗う杭のように、乗降口に流れ込む人の群れの中に立ち尽くし、新聞を読み続ける彼女。
車内で低位置を確保した乗車客は、なぜか一様に来たりし方向に目を向ける。
すると、足を肩幅程度に開き、微動だにせず、新聞を読み続けている彼女の姿。
多分、あの時間帯にあの場所にいる人々は皆、彼女の存在を認識し、意図的に避けているのだ。
これも恐らくは社会秩序の1ピースなのだろう。
彼女は杭だ。杭になったんだ!

時々、この秩序を知らずに列に並んでしまう人がいる。彼女をよけることができず、肩もしくは身体ごと彼女にぶつかってしまう彼らに対して、彼女は必ずアゴをほんの少し右に向け、上目遣いの横目で憎悪に満ちた一瞥を送るのだ。

どう見ても通勤列車に乗ったことがなさそうなおば様の群れが濁流のように彼女を飲み込み、ホーム上でキリキリ舞いしていたこともあった。
列の左側に立つ彼女の背後に立っていた屈強そうな2人の若者が、左右から同時にタックルし、彼女を乗車させてしまったこともあった。
それでも彼女は脱兎のごとくホームに戻り、新聞に目を落としながら乱れた髪を必死に撫で付けていた。
みだりに杭を抜いてはいけないのだ。

そんな愚直とも言える彼女の姿は感動的。多分、そのおかげで私たちがほんの数秒前に感じていたはずの怒りは有無消散し、このささやかな空間の秩序が守られたことに安堵してしまうに違いない。

って、そうとでも考えないと、恐らく車両事故等に遭うこともなく、毎朝そこに彼女が立っている理由がわから~ん!
多分、あの時間そこにいる誰しも、彼女に殺意を覚えたことは一度や二度ではないはずだ。
そうまでして次の48分発に乗りたいのか?

ところが。

48分にもさらに次の50分にも乗らないのだ、彼女は。
一度、遅刻して8時13分発に飛び乗った時、振り返ったら彼女がいた。
ほぼ30分間?人の川の中で杭のように突っ立ってる神経がわからん。

でも案外、彼女側から見たら違う風景なんだろうな。ちょっと見てみたいような・・・。

koraのはなし ~ Adouna(あるいはAduna)

2010-01-26 | 今日の「この音」


Sousou&Maher Cissokoというコラ奏者のデュオ(夫婦?)のアルバムがある。
タイトルはAdouna。
勿論、Adounaという曲が入っている。
コラの楽曲というとモードに基づくため、1コードもしくは2コードというイメージを強く持っているが、この曲は単純なスリーコードの循環に聴こえる。アコースティックギターも入っているせいだろうか?そして、諭すようなやさしいメロディがたおやかな女性ボーカルで歌われる。男性ボーカルに代わってもやわらかな陽の光をあびているようなやさしさは変らない。
歌詞の内容がわからんので印象に過ぎないが、深い慈愛に満ちた空間を感じる。
現時点で手持ちの音源はこれだけだから、これがトラッドなのかどうかわからない。
できればコラの演奏によるAdounaという曲がほしいんだがな。
でも俺が歌ったら暑苦しいか?いっそ日本語の詞をつけるとか?

先日、メールでやり取りをさせていただいたあるコラ奏者の方(日本人)がおっしゃっていた、「セネガルのミュージシャンに弾いてくれと言われたが、知らなかったので弾けなかった」曲が「アドゥナ」というタイトル。
それがこのSousou&Maher CissokoのAdounaとは断定できないんだけれど、そのコラ奏者に「弾いて!」と言ったミュージシャンも10年位前に某所で「アドゥナ」という曲を歌っていた記録が出てきたから、そのミュージシャンにとって大切な歌なんだろうな。

セネガルといえばユッスー・ンドゥール。彼のアルバムにもadouna(Life)という曲が入っているそうだ。
さらに検索してみたら、ギニアのBa CissokoのElectric Griot Land(!)というタイトルのアルバムにもAdunaという曲が入っていることがわかった。
コラの音源、ってことでいくとBa Cissokoが一番近いのかもしれない。
ここ日本でも、清水靖晃さんというサックス奏者がセネガルのワジス・ディオップという方と一緒にアルバムを作っていて、その中にもadunaという曲があるらしい。
いずれも音源は未聴だが、清水さんのHPに清水バージョンの歌詞が載っていた(作詞はワジス・ディオップ)。
下記に示したのは、前述のSousou&Maher Cissokoのバージョンと共通する?と思われる部分。

Aduna potu ndala
Dangaye naan, diox sa morom naan
Aduna potundala
Dangye naan, diox sa morom nano nano

(大意)
生命というのは
大きいコッブ一杯の水と同しなんだ
それを飲む時には、汚さないでね

ちなみにこの冒頭の部分、Aduna potu ndalaってのをgoogleで検索すると、セネガルのスーパーイーグルスというバンドのアルバム収録曲のタイトルでもあった(そちらではAduna poti ndala)。

(大意)にあるように、Adouna(あるいはAduna)とは、ウォロフ語で「生命」を意味するそうだ。
とか言って、ネット上で入手したウォロフ(ガンビア)~英語の辞書には出てこないんだけど、ウォロフ~仏語辞典にはaddunaと出てくる。
ちなみにガンビアのウォロフ~英語辞典では、Life=baken(バケン?バクン?)となっているから、一口にウォロフと言ってもセネガルとガンビアではまた違うのかもしれない。

しかし、この「アドゥナ」っていう言葉の響きがいいな。
スス語(だったよな?)の「ドゥニヤマ」(世界とか平和とかの意味)と同じくらい好きな響き。
多分、「ドゥ」で口をすぼめて「ナ」や「マ」で母音がaで終わるのがいいんだろうな。
やはり女性に歌ってもらった方がいいような・・・。


次女のこと

2010-01-21 | 子どもの視線・親の気持ち
次女のこと

今、次女は小学校4年生。
彼女は時折不思議な言い回しやキメ台詞を思いついては、しばらくの間その言葉を使う。
「だめね~」がなぜか「たけれ~」になり、何を聞いても「たけれ~たけれ~」と連発したり、ゆうこりんのごとく○○星人と自称してその星の文化を語ってみたり。
ここ最近は、まるでタラちゃんのごとく、必ず語尾に「・・・デスカ?」とつけるのがブームらしい。

しかし。

普段何を考えてるんだろう?
どんな夢を持ってるんだろう?
そういう内面はわからない。恐らく、私には「見せない」。
そもそも、長女の場合と比して、圧倒的に次女とは話した時間が少ないのだ。
一つ屋根の下に暮らしてはいるけれど、私にとって次女は謎だらけの子猫みたいな存在だったりするのだ。

いつの頃からだっただろうか。
長女の送り迎え役は私、次女の送り迎え役はカミサン、という組み合わせが多くなっていた。
保育園の頃からか?長女がダンススクールに通い始めてからか?
先に生まれた長女の方が話す内容も大人びてきているし、まるで速射砲のごとく喋りまくるから、たとえ話したいという気持ちがあっても、次女は聞き役、あるいは蚊帳の外になってしまうことが多い。

いやむしろ、私自身が次女に対して、いつまでもかわいらしい「子ども」でいることを望んでしまっているのかもしれず、私自身の態度や言葉にそれが出てしまっているのかもしれず。

その結果、次女は私に寄り付かなくなってしまったのかもしれない。
ふと、そんなことを思ってから、次女への接し方を本気で変えてみた。
何かあっても怒らず、命令口調はしない。極力、自ら行動するよう、促すような言い回しを心がけている。

このところ、長女は学習塾やダンススクールで忙しく、平日の夜はほぼ毎晩でかけてしまうので、次女は母親を独占し、私とも過ごす時間が増えた。
と言っても、母親に対してするように、すり寄ってくることなど絶対にない。私の顔を見れば、まずパンチ翔りが飛んでくる。
以前に比べて身長も伸び、体力もついてきているので、腹筋に力を入れていないとけっこう痛いスキンシップだ。
会話も少しずつ。カミサンに話しながら、私にも聞こえる位置で話しているから、私もからみやすくなってきた。
学校で何したとか、学童保育所でどうだったとか。
やっぱり君もいろいろ話したかったんだな。

ある日、疲れていたのかホットカーペットの上で眠ってしまった次女。
「ここで寝るなら歯磨きしてベッドに行きな」と背中をなでると、「ん~わかった」と言って起き上がり、身体を反転させると、今度は私の足にしがみついて寝てしまった。
何年ぶりだろうかね、こんな風にこいつが寝てるのは、と思うとちょっとうれしくて、気付けば自分もそのまま寝てしまっていた。

そして今朝のこと。
毎朝家族で一番先に出かける次女は、玄関を出るとこちらを振り返ったりしない。
「いってらっしゃい、気をつけてね」と言っても、「ん、いってきます」と返す程度でランドセルのベルトを握り締めて行ってしまうのが常だった。
ところが今朝は、「いってらっしゃい」に対して、こちらを振り返り、笑顔で手を振っているではないか!
おぉ、なんかうれしいぞ。
でも、そう聞くと「今朝は暖かかったから機嫌が良かっただけだよ」って言うんだろうな、あいつは。

猫だからな。