Baradomo日誌

ジェンベの話、コラの話、サッカーの話やらよしなしごとを。

Groove=空間なんだろうなぁ

2007-12-25 | 今日の「この音」
12月23日、柏NardisにてBLUES WAGONライブ。
ご来場いただいたお客様、ありがとうございました。
1stセットスタート時は、4,5人しかお客さんがいなくて淋しいねぇ~とか思っていたが、後から後からお客さんが来てくれて、2ndセットが始まる頃には立ち見の方もいるほどになっていた。
結成11年を数えるという、このBLUES WAGONというバンド。人気あるんですねぇ。さすが地元と言うべき?
本来のドラマーさんが、この日は別の仕事が入っていたそうで、急遽私が叩くことになったライブだったが、ベースの米さんとはほかのバンドでもご一緒してるし、リーダーの片貝さんともセッションやライブでご一緒してるから、そういう点では気楽。
しかも、ひっさしぶりにドラムセットでのライブ。
やっぱ、ドラムセットは楽しいし、久しぶりに持ち出した自分のセットは叩きやすい。
そして、ドラムセットはいくら叩いても疲れないね。ジェンベに比べて、だけど。
脱力して叩いているから、長時間やっていても身体は疲れない。
むしろ(やはり?)問題は楽曲。
リハを2回やったけれど、知らない曲も多く、また、セッション等で慣れ親しんだ曲も、微妙にエンディングが違っていたり。
きっと、本番中は借りてきた猫みたいな顔して叩いてたんだろうなぁ、俺。

トラって難しいわ、ほんと。

ところで。

ブルーズ、と言っても、今回はスウィング系の楽曲中心。
ピアノとギターはjazz屋さん、という組み合わせでのライブだったためか、あるいはBLUES WAGONというバンド自体がもともとそういう指向性なのかはわからないが、私が思う「ブルーズ」よりも、若干「jazz寄り」な印象。シカゴスタイルのシャッフルなんて1曲もなかったし。
とはいえ、実は内心、「Jazz系のギター&ピアノだし、何かまた新たな発見があるかも」と期待していた。

スウィングの歌ものの場合、スウィングすることがとにかく大目標で、そういう意味ではポケットは明確だし、単純明快。だからこそ奥深い。
とにかく4ビートをきっちり出して、ウラ拍のニュアンスをどう出すか?っていうところでレガートに表情をつけていくような叩き方を心がけ、とにかくライドのレガートとハットの開け閉めに全神経を集中。
今回はシズラー(と言っても、ホームセンターで購入した風呂の栓用の鎖&金具)をマウントしていたので、ライドの音がつながるつながる。
逆に、このライドの音を基準に組み立てを考えていったので、自然とスネアやベードラ、タムの音はアタック軽め、でもサスティン長め、遠くへ飛ばすようなイメージ。
そんなに器用にドラミングを変えられるわけではないんだが、自分の中ではそんなイメージでスティックを落としていく。
すると、自分が音を出すことで(叩くことで)グルーヴする(させる)のではなく、そこに残っているサスティンと他の楽器の音が混じりあった音の塊が休符の空間に流れていて、そこにシンバルなり太鼓なりのなんらかのアタックを加えることでメロディックなグルーヴが勝手に展開していくような、そんな感覚に捉われた。
おぉ!これって、先日ダンスワークでドゥンドゥンバやってた時と同じ感覚だ!

これも一種の「音場」ってやつかな?
マイルスが意識してたのって、こういう話なのか?なんてことを思った。

ここ最近のライブで感じていた「グルーヴの入り口が複数口を開けている」ような感覚は感じられなかったけれど、とりあえず、ドラムセットを叩く面白さを、また一つ発見したな。

嘉納杯100kg超級決勝

2007-12-10 | よしなしごと
意識の差がこれほど「強さ」に結びついている競技はほかに類を見ないのではないか?

日本の「お家芸」柔道である。

昨夜、嘉納治五郎杯国際柔道大会のテレビ中継を見ていたら、100キロ超級の石井が「とにかく勝たなければ意味がない。誰が相手でも勝っちゃいますよ!」と話し、その言葉どおりに決勝では復活を期してこの大会に臨んだ井上を1ポイントの優勢勝ちで下し、対井上二連勝。
「本家」の意地と言えばいいのか?
100キロ超級ベスト4全員が日本人選手だった。
体格、筋力、気力、総合力で世界を相手に臆することなく闘う柔道日本代表選手たち。
何より「心の強さ」。
あの強さがサッカー日本代表選手にもあれば。

100キロ超級決勝戦。
先に畳に立った井上がゆったりと礼をしたのに対し、若干遅れて登場した石井は審判に促されるように一礼してコートに入るやいなや、開始線をまたぎながら再度礼をして「はじめ!」の声を聞く。
この勝負に期するところあったのだろう石井は、やおら左手で井上の襟を掴むと、そのままのど元を突き上げ、みぞおちに肘を入れるようにして内股から朽木倒しの連続技でたたみかけようとする。
一方、井上はこの石井の左手を嫌いながらも、小内刈からの連続技で応戦する。
最初から挑戦者石井、受けて立つ井上という構図だったが、なんと表現すべきか。

「はじめ!」の声を受けて気合を発した両者が組み合ったその瞬間に見せた姿は、それまでの他クラスをふくめた全ての試合とは明らかな「格の違い」を発散していた。
これが柔道の場合の位取りなのだろうか。
互いに組み手を争い、隙あらばと足を飛ばしていくのだが、お互いに腰がぶれない。
剣道ならば切先の攻防、気の攻め。
高段者の試合を見るような展開。
あるいは、井上の気合が石井を高いところへ連れて行ったのか?

ところが。
試合後、石井が語ったところによると、「肘を入れて投げに行ったがまったく効かなかった。投げることは不可能だと思った」ため、冒頭に見せていた位取りの勝負を放棄してしまう。そこからは石井が技を出し、井上がそれをいなしながら技を出すタイミングを狙う、という展開が続く。
中途半端な体勢からも技を繰り出す石井の攻めは、ややもすると「掛け逃げ」的な面もあったが、その石井の連続技をもてあましつつ、それでも一本にこだわる井上はペースをつかむことができず、ずるずると時間が経過。
結局井上に言い渡された「指導」が決勝ポイントとなり、勝利の女神は石井に微笑んだ。

勝ちにこだわるならば、とにかく制限時間内に技を出して行かねばならないのが試合の定石。
今後さらにヨーロッパ主導になっていく国際試合ならばなおのことだ。
石井の闘い方はそういった試合の機微をわきまえたものであり、決して間違ってはいない。
しかし、同じ戦法を井上が取ったならば、それは批判の対象となるだろうし、そのことは井上自身も自覚しているところだったのだろう。
だからこそ一本にこだわり、結果的に技はおろか崩す攻めさえも出せなくなっていった。

国内の試合ならば。
普段の稽古ならば。
井上の柔道は光るもの。
しかし、国際試合では石井のような戦法が効果的。

日本柔道が立っている地平を、図らずも垣間見せてくれた、そんな決勝戦だった。

とはいえ、あのような「格」を感じさせる攻め合いを、ヨーロッパの選手が見せてくれたことがあるだろうか?
いつぞや明らかな誤審で勝利したフランスのドイエに「位」を感じたことがあっただろうか?

それでも勝たねばならないというプレッシャーの中で日々稽古に励んでいる柔道選手たちの精神力に感動。


小説の読み方

2007-12-04 | よしなしごと
今年度、訳あって吉村昭氏の著作を読み漁ってきた。
自選集は読み終えたけれど、まだまだ読んでいないものが山積。
だって、すんごい執筆量なんだもん。
全部読むのに何年かかるんだろう?ってか、手に入らないものも多いし。
一方、この作家がどういう作家だったのか、という命題を考えるために、関連するその他の作家も読み始め、ここ最近は夏目漱石だ、泉鏡花だ、坪内逍遥だ、川端康成だ、梶井基次郎だ、志賀直哉だと、近代日本の文学史をなぞっている。
その結果、恥ずかしながら、小説の読み方を間違っていた、というか、一面的な読み方しかしてこなかったな、と猛省しているところだ。

小説って面白いもの、なんだけど、どこに面白さを感じるか?
描かれた内容?風景?登場人物?ストーリー?

学生の頃は、そういった要素にばかりこだわり、濫読していたけれど、結局、事実の方が奥深かったり、あるいはスポーツの1試合に凝縮されたその選手の過去の方が感動的だったりする、と痛感し、小説読みを辞めて早10年。

ところが。

吉村氏の初期の短編を読みすすめていくうちに、はたと気付いたことがある。
例えばギタリストにもテクニック志向のギタリストがいるように、小説家にも技巧派というか、丹精な文章を練り上げるタイプ、いわば「文体」の獲得にプライオリティを置いている人たちがいるのではないか?と思い始めた。
それは、描くべき内容を伴わないということではなくて、描くべき対象と読者との距離感を一気に縮める役割を果たすものであって、優れた作家と呼ばれる人はすべからく「○○節」とでも呼ぶべき自分の文体を持っている。
吉村氏もそうした作家だったのではないか?
だからこそ、彼自身をしてこれが自分の本質だという純文学系の短編を書いているその同時期に、緻密な調査に基づく戦史小説や記録小説を書くことが出来たのではないか?
なんらかのテーマ、自己の主張であったり、特定の感情であったり、そういったものを「描く」ことを最優先に考えている作家であれば、そのような両極端な作品を書くことはできまい?
しかし、彼は書いている。
「戦艦武蔵」と同時期に短編「星への旅」を書いているし、「星への旅」の元となった取材は後年「三陸大津波」となった。また、短編「水の葬列」と黒部ダムを扱った「高熱隧道」は対を成す。
それは何故なら、彼が獲得しようとした「吉村節」は対象を選ばない文体だったから。
だからこそ、描くべき対象は「フィクション」でも「ノンフィクション」でもOKだったのではないか?
そんなことを考えた。

先日、吉村氏の講演を書き起こした「わが心の小説家たち」という本を読んだ。
彼が好きだった作家、範とした作家について語ったこの講演において、例えば森鴎外や志賀直哉といった人たちの文章のすばらしさはその「文体」にあるのだと彼は言う。
あるいは川端康成の文体は唯一無二のものであって、いたずらにあれをまねすると大火傷するとも。

抱いていた感想は確信に変わりつつある。
やはり、彼が目指したのは「吉村節」。そこに作家の矜持を凝縮させようとしたのだ。
そういう読み方は今までしてこなかった。
なんのためのテクニックなのか?ということだ。
これは音楽にも通じる。

彼によれば、「金閣寺」での三島由紀夫の文体も、実は気障に思えたりもしたらしい。
「潮騒」とか好きだったんだけど、ああいうのはどうなんだろう?
あるいは、坂口安吾についてはどう思っていたんだろう?中上健次については?
吉村氏は批評家ではないから、そういった事柄は発表されていないかもしれないが。
俺が学生の頃に好きだった作家たちは皆、とにかく最後まで読ませきってしまうパワーのようなものを感じたし、それが小説だと思っていた。
個人的には、それらの作家に比して、吉村氏の文体は控えめ、中立、透明。
主観と言うか、作家の感情のようなものをあまり感じないのだ。
しかし、それ故に生み出される、「ただそこに立って見ているだけ」のような佇まい。
そこにこの作家の凄みがあったのだ。

「ただそこに立っている」ことの強さ。
ルースターズの「鉄橋の下で」を聴きたくなった。