昨日は、小学校で担任教師と保護者の面談。
うちは以前から、極力夫婦で乗り込み、それぞれが話をするようにしている。
というのも、一応事前に夫婦で話す内容を打ち合わせては行くものの、うっかり項目が抜けてしまってはいけないし、お互い、自分の言葉で話したい部分もあるし。
それに子どもだって、男親と女親と、それぞれにしか見せない顔を持っているし。
そんなわけで、二人そろって乗り込んだ。
まず、担任教師から学習の状況、生活態度等についての説明を受ける。
なんでも、「学習意欲旺盛、責任感も強く、基本的にまじめで、信頼して何でも任せられる」んだそうな、うちの娘は。
「あいさつも、言葉遣いもしっかりしていて、高齢者施設に慰問に行かせても、全く心配がなかった。」
なんかもう、べた褒め。なんにも出ないよ~、そんなに褒めても。
「そんな風に褒めていただいても、あまりうれしくはないんですよ、私は」と、切り返すと、先生は意外そうな表情を浮かべた。
そこで、打ち合わせどおりの内容を以下のように話していった。
俺:
・・・と言うか、そんな簡単なもんじゃないよ、六年生の女の子って。
例えば先日、アフリカンのダンス・ワークに親子で参加した際、「楽しいお父さんでいいじゃな~い!こんなお父さんいないよ?」と言ってくれた講師に対し、娘は、
「そうですか?でも親は選べませんからね。」
と即答しやがった!
娘には娘の視点があって、他者のそれとは明らかに違う。
「私は私」というか、「自分」という概念を既にある程度完成させていて、その時々、話す相手によって使い分けをしている。
それが、ウチの娘が現在立っている地平。
勝手な想像だが、女の子って、みんな思春期ともなればそんなもんなんではなかろうか?
一見まじめに見えても、腹の中では冷静に相手を観察している、妙に大人びた「人間」がいる。
それが思春期の女の子なんではなかろうか?
少なくとも、ウチの夫婦の間にはそのような共通見解があり、だからこそ、夕食時とかに娘が繰り出すマシンガントークを注意深く拾っているのだ。
果たして、先生の眼には、そういった二面性というか、一個人の中の多様性が見えているのか?
いや、見えないだろう。というか、それを見ていくのは親の役目であろうし、先生にそこまで見ろ!と言うのはお門違いとも言える。
ただ、基本的な認識として、表面的な態度だけでその子の内面を理解することは難しい年代に入っている、と考えてもらいたいし、だからこそ、先生にお願いしたいのは、肝心な時にきちんとしたフォローをして欲しい、ということ。
先日の修学旅行におけるバスの座席決め、部屋割りはもちろんのこと、ルール作りにしても、採決を取る段階よりも議論の方向性をうまく導く「声掛け」こそ、先生に求められることなんではないか?
例えば、先日のバスの座席表について、ウチの娘が座った窓際の席は、当初彼女の横は反対側の窓際まで3席空席だった。
その席に座った児童は、旅行中、どういう光景を目の当たりにするのだろう?それを想像してやることこそ、子どもの目線に立って考えるということではないか?
そして、修学旅行の晩から延々と続く「ルール破り」者のあぶり出しは、そもそもルールを子ども達にきちんと納得させることが出来なかった教師サイドの失策がもたらしたものではないか?そこで言うルールとは何か?子ども達に対する意識付けはきちんとなされたのか?
結果的に、「密告」を奨励し、あぶり出しを繰り返すことで、ルールを守ったものに対するインセンティブもなく、子ども達の間には負の感情だけが重層化し、逆に「密告者探し」という状況、それに続く「密告者に対するいじめ」という局面へと移行している・・・
先生:
娘さんが、かなり大人びてきていることは理解していたつもりだが、そこまで冷静な眼をしているとは想像していなかった。
例えば、我々の頃は、修学旅行中の決められた時間以外、決められた場所以外でおやつを食べようとする場合、隠れて食べるのが当たり前だったものが、今の子達は、宿舎の廊下を歩きながら、食いかすを撒き散らしながら食べ歩く、ごみくずはそのまんま廊下に放置、なんてことは当たり前。そもそも、そういった基本的な生活習慣からして身についていない子どもが多い。今、この学校の6年生はそういうレベル。
だからこそ、今回の就学旅行については、クラスごとに話し合いを行い、「ルールを守る」「時間を守る」などの目標を定め、それを持ち寄って全体の目標として、「決められた時間、ルールを守る」と決めて、意思統一を図った。
バスの座席については、空席を作らない、助手席には座らない、というルールを設定しておいたが、そもそもルールを守れない子が多数いて、時間内にこれを作り上げるだけで精一杯だったことを理解して欲しい。
「あぶり出し」については、ワンセグ持ってきたとかそんなレベルじゃなく、夜中に嫌がる男子を女子の部屋に放り込んで逃げる、というゲームが横行し、さらには、全体集会で殴り合いを始めた男子がいたり、とにかく、幼い男子が多いため、彼らに反省を促す意味もあって、学年の担任が話し合って決めたこと。
ルールを守った子ども達が馬鹿を見る、という状況は避けるため、この方法で彼らに反省して欲しい、と考えた。
しかし、ワンセグにせよ、おやつや小遣いにせよ、親がいいと言ったから持ってきた、と開き直られては、学校としては指導のしようがない面もある。
俺:
そもそも、「ルール」とは何か?どういう項目か?その内容は学校側から提示したのか?
先生:
「ルール」とは、決められた持ち物を守る、決められた時間を守る、教師の指示に従う、班行動に際しては班長の指示に従う、など。教師からこれらを示し、それを守ることを全体の「目標」として掲げた。
俺:
その「ルール」を決める段階で、子ども達を参画させることは出来なかったのか?そもそも、何故そのような項目のルールが必要なのか、ということを子ども達が自覚することが必要なのであり、この修学旅行の意義を考えさせ、だからこそこういうルールが必要だ、というような話し合いを事前研修的に仕掛けるのが王道ではないか?最初から「レベルが低い」と切って捨てては、レベルが上がることも、ルールを守ることもあるまいに。
先生:
そんなことは、我々も考えた。しかし、現状の子ども達には無理。例え、その場で採決し、みんなでこのルールを守ろう!と言っても、必ずある特定の子ども達は「親がいいと言っているから」とルールを破る。今まで半年間、その繰り返しだった。
しかし、これから半年間で何とかしなくてはいけない、と考え、学年全員にルール違反者のイニシャルと、どのような違反をしたのか、その内容を書かせたものを全クラス・全員分を廊下に掲示している。
そう!
なんと、先日子ども達が書かされた「ルール違反者告発プリント」(http://blog.goo.ne.jp/yassakajp/e/50ca642da0ad4a65b8b2cef26eede3c4)は、全クラスにおいて廊下に全て張り出されていたのだった!
しかし、よく見ると、イニシャルまで書いているのはウチのクラスだけじゃないの?
どうなのよ、それは!
先生:
我々担任が話し合い、決めたことであり、職員会議にもかけて了承を得ている。
個人名が特定できるものはなく、やりすぎだとは思わない。むしろ、そこにイニシャルを書かれた本人、ルールを破った本人が反省する機会としてもらいたいからそうしているのであって、これが「いじめ」に結びつくとは思わない。
俺:
要するに、「見せしめ」みたいなことかと思うが、私は親として、大人として、これがいい方法だとは思わない。無論、当事者の親に対する注意喚起という意味合いも兼ねて、この時期にやったことと思うが、即刻撤去すべきだ。他の保護者から苦情は出ていないのか?
マイナスはマイナスしか生まない。
明日にも担任が集まり、再考して欲しい。
また、「いじめ」には結びつかない、というが、現実としてそれは始まっているし、しかも、ルールを守った側の人間が攻撃されている。
「いじめ」というのは非常に狡猾なものだし、はっきり言うならば、先生方が「いじめ」るターゲットの抽出方法を子ども達に伝授し、「いじめ」たくなる感情を植えつけ、結果的にウチの娘がいじめられる要因を作り、そして今、子ども達はそれを実践し始めているのだ。
そこは自覚して欲しい。
また、今、「いじめ」を始めようとしている子ども達は、以前から学校側が設定したルールを守らず、子ども達だけで遠方へ出かけたりしている子ども達。そのことは再三保護者会等でも注意喚起してきているが、一向に変化はない。それ捜しては、遊ぶ金をたかったりしている、という話も他の保護者からも聞いている。
彼らの問題は親の問題だということは、実は前年度からもわかっていたこと。
家庭に介入せず、子どもの指導だけでしつけることは不可能ではないか?
ウチの娘がいじめられるにせよ、親としてはあまり心配はしていない。
なぜなら、相手があまりにも幼いから。
ただ、傷害事件だけは起こしてくれるなよ、と思っている。
(続く)
うちは以前から、極力夫婦で乗り込み、それぞれが話をするようにしている。
というのも、一応事前に夫婦で話す内容を打ち合わせては行くものの、うっかり項目が抜けてしまってはいけないし、お互い、自分の言葉で話したい部分もあるし。
それに子どもだって、男親と女親と、それぞれにしか見せない顔を持っているし。
そんなわけで、二人そろって乗り込んだ。
まず、担任教師から学習の状況、生活態度等についての説明を受ける。
なんでも、「学習意欲旺盛、責任感も強く、基本的にまじめで、信頼して何でも任せられる」んだそうな、うちの娘は。
「あいさつも、言葉遣いもしっかりしていて、高齢者施設に慰問に行かせても、全く心配がなかった。」
なんかもう、べた褒め。なんにも出ないよ~、そんなに褒めても。
「そんな風に褒めていただいても、あまりうれしくはないんですよ、私は」と、切り返すと、先生は意外そうな表情を浮かべた。
そこで、打ち合わせどおりの内容を以下のように話していった。
俺:
・・・と言うか、そんな簡単なもんじゃないよ、六年生の女の子って。
例えば先日、アフリカンのダンス・ワークに親子で参加した際、「楽しいお父さんでいいじゃな~い!こんなお父さんいないよ?」と言ってくれた講師に対し、娘は、
「そうですか?でも親は選べませんからね。」
と即答しやがった!
娘には娘の視点があって、他者のそれとは明らかに違う。
「私は私」というか、「自分」という概念を既にある程度完成させていて、その時々、話す相手によって使い分けをしている。
それが、ウチの娘が現在立っている地平。
勝手な想像だが、女の子って、みんな思春期ともなればそんなもんなんではなかろうか?
一見まじめに見えても、腹の中では冷静に相手を観察している、妙に大人びた「人間」がいる。
それが思春期の女の子なんではなかろうか?
少なくとも、ウチの夫婦の間にはそのような共通見解があり、だからこそ、夕食時とかに娘が繰り出すマシンガントークを注意深く拾っているのだ。
果たして、先生の眼には、そういった二面性というか、一個人の中の多様性が見えているのか?
いや、見えないだろう。というか、それを見ていくのは親の役目であろうし、先生にそこまで見ろ!と言うのはお門違いとも言える。
ただ、基本的な認識として、表面的な態度だけでその子の内面を理解することは難しい年代に入っている、と考えてもらいたいし、だからこそ、先生にお願いしたいのは、肝心な時にきちんとしたフォローをして欲しい、ということ。
先日の修学旅行におけるバスの座席決め、部屋割りはもちろんのこと、ルール作りにしても、採決を取る段階よりも議論の方向性をうまく導く「声掛け」こそ、先生に求められることなんではないか?
例えば、先日のバスの座席表について、ウチの娘が座った窓際の席は、当初彼女の横は反対側の窓際まで3席空席だった。
その席に座った児童は、旅行中、どういう光景を目の当たりにするのだろう?それを想像してやることこそ、子どもの目線に立って考えるということではないか?
そして、修学旅行の晩から延々と続く「ルール破り」者のあぶり出しは、そもそもルールを子ども達にきちんと納得させることが出来なかった教師サイドの失策がもたらしたものではないか?そこで言うルールとは何か?子ども達に対する意識付けはきちんとなされたのか?
結果的に、「密告」を奨励し、あぶり出しを繰り返すことで、ルールを守ったものに対するインセンティブもなく、子ども達の間には負の感情だけが重層化し、逆に「密告者探し」という状況、それに続く「密告者に対するいじめ」という局面へと移行している・・・
先生:
娘さんが、かなり大人びてきていることは理解していたつもりだが、そこまで冷静な眼をしているとは想像していなかった。
例えば、我々の頃は、修学旅行中の決められた時間以外、決められた場所以外でおやつを食べようとする場合、隠れて食べるのが当たり前だったものが、今の子達は、宿舎の廊下を歩きながら、食いかすを撒き散らしながら食べ歩く、ごみくずはそのまんま廊下に放置、なんてことは当たり前。そもそも、そういった基本的な生活習慣からして身についていない子どもが多い。今、この学校の6年生はそういうレベル。
だからこそ、今回の就学旅行については、クラスごとに話し合いを行い、「ルールを守る」「時間を守る」などの目標を定め、それを持ち寄って全体の目標として、「決められた時間、ルールを守る」と決めて、意思統一を図った。
バスの座席については、空席を作らない、助手席には座らない、というルールを設定しておいたが、そもそもルールを守れない子が多数いて、時間内にこれを作り上げるだけで精一杯だったことを理解して欲しい。
「あぶり出し」については、ワンセグ持ってきたとかそんなレベルじゃなく、夜中に嫌がる男子を女子の部屋に放り込んで逃げる、というゲームが横行し、さらには、全体集会で殴り合いを始めた男子がいたり、とにかく、幼い男子が多いため、彼らに反省を促す意味もあって、学年の担任が話し合って決めたこと。
ルールを守った子ども達が馬鹿を見る、という状況は避けるため、この方法で彼らに反省して欲しい、と考えた。
しかし、ワンセグにせよ、おやつや小遣いにせよ、親がいいと言ったから持ってきた、と開き直られては、学校としては指導のしようがない面もある。
俺:
そもそも、「ルール」とは何か?どういう項目か?その内容は学校側から提示したのか?
先生:
「ルール」とは、決められた持ち物を守る、決められた時間を守る、教師の指示に従う、班行動に際しては班長の指示に従う、など。教師からこれらを示し、それを守ることを全体の「目標」として掲げた。
俺:
その「ルール」を決める段階で、子ども達を参画させることは出来なかったのか?そもそも、何故そのような項目のルールが必要なのか、ということを子ども達が自覚することが必要なのであり、この修学旅行の意義を考えさせ、だからこそこういうルールが必要だ、というような話し合いを事前研修的に仕掛けるのが王道ではないか?最初から「レベルが低い」と切って捨てては、レベルが上がることも、ルールを守ることもあるまいに。
先生:
そんなことは、我々も考えた。しかし、現状の子ども達には無理。例え、その場で採決し、みんなでこのルールを守ろう!と言っても、必ずある特定の子ども達は「親がいいと言っているから」とルールを破る。今まで半年間、その繰り返しだった。
しかし、これから半年間で何とかしなくてはいけない、と考え、学年全員にルール違反者のイニシャルと、どのような違反をしたのか、その内容を書かせたものを全クラス・全員分を廊下に掲示している。
そう!
なんと、先日子ども達が書かされた「ルール違反者告発プリント」(http://blog.goo.ne.jp/yassakajp/e/50ca642da0ad4a65b8b2cef26eede3c4)は、全クラスにおいて廊下に全て張り出されていたのだった!
しかし、よく見ると、イニシャルまで書いているのはウチのクラスだけじゃないの?
どうなのよ、それは!
先生:
我々担任が話し合い、決めたことであり、職員会議にもかけて了承を得ている。
個人名が特定できるものはなく、やりすぎだとは思わない。むしろ、そこにイニシャルを書かれた本人、ルールを破った本人が反省する機会としてもらいたいからそうしているのであって、これが「いじめ」に結びつくとは思わない。
俺:
要するに、「見せしめ」みたいなことかと思うが、私は親として、大人として、これがいい方法だとは思わない。無論、当事者の親に対する注意喚起という意味合いも兼ねて、この時期にやったことと思うが、即刻撤去すべきだ。他の保護者から苦情は出ていないのか?
マイナスはマイナスしか生まない。
明日にも担任が集まり、再考して欲しい。
また、「いじめ」には結びつかない、というが、現実としてそれは始まっているし、しかも、ルールを守った側の人間が攻撃されている。
「いじめ」というのは非常に狡猾なものだし、はっきり言うならば、先生方が「いじめ」るターゲットの抽出方法を子ども達に伝授し、「いじめ」たくなる感情を植えつけ、結果的にウチの娘がいじめられる要因を作り、そして今、子ども達はそれを実践し始めているのだ。
そこは自覚して欲しい。
また、今、「いじめ」を始めようとしている子ども達は、以前から学校側が設定したルールを守らず、子ども達だけで遠方へ出かけたりしている子ども達。そのことは再三保護者会等でも注意喚起してきているが、一向に変化はない。それ捜しては、遊ぶ金をたかったりしている、という話も他の保護者からも聞いている。
彼らの問題は親の問題だということは、実は前年度からもわかっていたこと。
家庭に介入せず、子どもの指導だけでしつけることは不可能ではないか?
ウチの娘がいじめられるにせよ、親としてはあまり心配はしていない。
なぜなら、相手があまりにも幼いから。
ただ、傷害事件だけは起こしてくれるなよ、と思っている。
(続く)