Baradomo日誌

ジェンベの話、コラの話、サッカーの話やらよしなしごとを。

個人面談 1

2007-10-31 | 子どもの視線・親の気持ち
昨日は、小学校で担任教師と保護者の面談。
うちは以前から、極力夫婦で乗り込み、それぞれが話をするようにしている。
というのも、一応事前に夫婦で話す内容を打ち合わせては行くものの、うっかり項目が抜けてしまってはいけないし、お互い、自分の言葉で話したい部分もあるし。
それに子どもだって、男親と女親と、それぞれにしか見せない顔を持っているし。

そんなわけで、二人そろって乗り込んだ。

まず、担任教師から学習の状況、生活態度等についての説明を受ける。
なんでも、「学習意欲旺盛、責任感も強く、基本的にまじめで、信頼して何でも任せられる」んだそうな、うちの娘は。
「あいさつも、言葉遣いもしっかりしていて、高齢者施設に慰問に行かせても、全く心配がなかった。」
なんかもう、べた褒め。なんにも出ないよ~、そんなに褒めても。

「そんな風に褒めていただいても、あまりうれしくはないんですよ、私は」と、切り返すと、先生は意外そうな表情を浮かべた。
そこで、打ち合わせどおりの内容を以下のように話していった。

俺:
・・・と言うか、そんな簡単なもんじゃないよ、六年生の女の子って。
例えば先日、アフリカンのダンス・ワークに親子で参加した際、「楽しいお父さんでいいじゃな~い!こんなお父さんいないよ?」と言ってくれた講師に対し、娘は、
「そうですか?でも親は選べませんからね。」
と即答しやがった!
娘には娘の視点があって、他者のそれとは明らかに違う。
「私は私」というか、「自分」という概念を既にある程度完成させていて、その時々、話す相手によって使い分けをしている。
それが、ウチの娘が現在立っている地平。
勝手な想像だが、女の子って、みんな思春期ともなればそんなもんなんではなかろうか?
一見まじめに見えても、腹の中では冷静に相手を観察している、妙に大人びた「人間」がいる。
それが思春期の女の子なんではなかろうか?
少なくとも、ウチの夫婦の間にはそのような共通見解があり、だからこそ、夕食時とかに娘が繰り出すマシンガントークを注意深く拾っているのだ。

果たして、先生の眼には、そういった二面性というか、一個人の中の多様性が見えているのか?
いや、見えないだろう。というか、それを見ていくのは親の役目であろうし、先生にそこまで見ろ!と言うのはお門違いとも言える。
ただ、基本的な認識として、表面的な態度だけでその子の内面を理解することは難しい年代に入っている、と考えてもらいたいし、だからこそ、先生にお願いしたいのは、肝心な時にきちんとしたフォローをして欲しい、ということ。
先日の修学旅行におけるバスの座席決め、部屋割りはもちろんのこと、ルール作りにしても、採決を取る段階よりも議論の方向性をうまく導く「声掛け」こそ、先生に求められることなんではないか?
例えば、先日のバスの座席表について、ウチの娘が座った窓際の席は、当初彼女の横は反対側の窓際まで3席空席だった。
その席に座った児童は、旅行中、どういう光景を目の当たりにするのだろう?それを想像してやることこそ、子どもの目線に立って考えるということではないか?
そして、修学旅行の晩から延々と続く「ルール破り」者のあぶり出しは、そもそもルールを子ども達にきちんと納得させることが出来なかった教師サイドの失策がもたらしたものではないか?そこで言うルールとは何か?子ども達に対する意識付けはきちんとなされたのか?
結果的に、「密告」を奨励し、あぶり出しを繰り返すことで、ルールを守ったものに対するインセンティブもなく、子ども達の間には負の感情だけが重層化し、逆に「密告者探し」という状況、それに続く「密告者に対するいじめ」という局面へと移行している・・・

先生:
娘さんが、かなり大人びてきていることは理解していたつもりだが、そこまで冷静な眼をしているとは想像していなかった。
例えば、我々の頃は、修学旅行中の決められた時間以外、決められた場所以外でおやつを食べようとする場合、隠れて食べるのが当たり前だったものが、今の子達は、宿舎の廊下を歩きながら、食いかすを撒き散らしながら食べ歩く、ごみくずはそのまんま廊下に放置、なんてことは当たり前。そもそも、そういった基本的な生活習慣からして身についていない子どもが多い。今、この学校の6年生はそういうレベル。
だからこそ、今回の就学旅行については、クラスごとに話し合いを行い、「ルールを守る」「時間を守る」などの目標を定め、それを持ち寄って全体の目標として、「決められた時間、ルールを守る」と決めて、意思統一を図った。
バスの座席については、空席を作らない、助手席には座らない、というルールを設定しておいたが、そもそもルールを守れない子が多数いて、時間内にこれを作り上げるだけで精一杯だったことを理解して欲しい。
「あぶり出し」については、ワンセグ持ってきたとかそんなレベルじゃなく、夜中に嫌がる男子を女子の部屋に放り込んで逃げる、というゲームが横行し、さらには、全体集会で殴り合いを始めた男子がいたり、とにかく、幼い男子が多いため、彼らに反省を促す意味もあって、学年の担任が話し合って決めたこと。
ルールを守った子ども達が馬鹿を見る、という状況は避けるため、この方法で彼らに反省して欲しい、と考えた。
しかし、ワンセグにせよ、おやつや小遣いにせよ、親がいいと言ったから持ってきた、と開き直られては、学校としては指導のしようがない面もある。

俺:
そもそも、「ルール」とは何か?どういう項目か?その内容は学校側から提示したのか?

先生:
「ルール」とは、決められた持ち物を守る、決められた時間を守る、教師の指示に従う、班行動に際しては班長の指示に従う、など。教師からこれらを示し、それを守ることを全体の「目標」として掲げた。

俺:
その「ルール」を決める段階で、子ども達を参画させることは出来なかったのか?そもそも、何故そのような項目のルールが必要なのか、ということを子ども達が自覚することが必要なのであり、この修学旅行の意義を考えさせ、だからこそこういうルールが必要だ、というような話し合いを事前研修的に仕掛けるのが王道ではないか?最初から「レベルが低い」と切って捨てては、レベルが上がることも、ルールを守ることもあるまいに。

先生:
そんなことは、我々も考えた。しかし、現状の子ども達には無理。例え、その場で採決し、みんなでこのルールを守ろう!と言っても、必ずある特定の子ども達は「親がいいと言っているから」とルールを破る。今まで半年間、その繰り返しだった。
しかし、これから半年間で何とかしなくてはいけない、と考え、学年全員にルール違反者のイニシャルと、どのような違反をしたのか、その内容を書かせたものを全クラス・全員分を廊下に掲示している。

そう!
なんと、先日子ども達が書かされた「ルール違反者告発プリント」(http://blog.goo.ne.jp/yassakajp/e/50ca642da0ad4a65b8b2cef26eede3c4)は、全クラスにおいて廊下に全て張り出されていたのだった!
しかし、よく見ると、イニシャルまで書いているのはウチのクラスだけじゃないの?
どうなのよ、それは!

先生:
我々担任が話し合い、決めたことであり、職員会議にもかけて了承を得ている。
個人名が特定できるものはなく、やりすぎだとは思わない。むしろ、そこにイニシャルを書かれた本人、ルールを破った本人が反省する機会としてもらいたいからそうしているのであって、これが「いじめ」に結びつくとは思わない。

俺:
要するに、「見せしめ」みたいなことかと思うが、私は親として、大人として、これがいい方法だとは思わない。無論、当事者の親に対する注意喚起という意味合いも兼ねて、この時期にやったことと思うが、即刻撤去すべきだ。他の保護者から苦情は出ていないのか?
マイナスはマイナスしか生まない。
明日にも担任が集まり、再考して欲しい。
また、「いじめ」には結びつかない、というが、現実としてそれは始まっているし、しかも、ルールを守った側の人間が攻撃されている。
「いじめ」というのは非常に狡猾なものだし、はっきり言うならば、先生方が「いじめ」るターゲットの抽出方法を子ども達に伝授し、「いじめ」たくなる感情を植えつけ、結果的にウチの娘がいじめられる要因を作り、そして今、子ども達はそれを実践し始めているのだ。
そこは自覚して欲しい。
また、今、「いじめ」を始めようとしている子ども達は、以前から学校側が設定したルールを守らず、子ども達だけで遠方へ出かけたりしている子ども達。そのことは再三保護者会等でも注意喚起してきているが、一向に変化はない。それ捜しては、遊ぶ金をたかったりしている、という話も他の保護者からも聞いている。
彼らの問題は親の問題だということは、実は前年度からもわかっていたこと。
家庭に介入せず、子どもの指導だけでしつけることは不可能ではないか?
ウチの娘がいじめられるにせよ、親としてはあまり心配はしていない。
なぜなら、相手があまりにも幼いから。
ただ、傷害事件だけは起こしてくれるなよ、と思っている。

(続く)

Aの悲劇

2007-10-26 | 子どもの視線・親の気持ち
娘達の学年が、恐れていたとおりの事態になっているらしい。

修学旅行の夜、各クラスの実行委員が集められ、担任の教師達3人から「ルール違反している子ども達の名前を挙げるよう」、強要されていた。
実は、その隣で、実行委員でもなんでもない、あるいたずら小僧が先生からお説教を食らっていたため、「密告」が露見することを恐れた実行委員たちは皆一様に口を閉ざしたまま。
にもかかわらず、教師達は実行委員の子ども達に「密告」を強要し続け、その結果、Aという子どもだけが告白。残る子ども達は一旦解散後、1人ずつ呼び出され、担任とマンツーマンの状況下で「密告」を強要されていたらしい。
その後、担任教師達は、「挙げられた」子ども達を順次呼び出し、叱責していったのみならず、修学旅行終了後、最初の登校日である火曜の朝から、用紙への違反者イニシャルの記入⇒学年集会での告発強要⇒学年集会での自己申告勧奨と、3度に渡る「ルール違反者のあぶり出し」を実施した。
集会では、多数の「ルール違反者」が自己申告し、既にAの告白により「ワンセグ及び高額な現金の所持」という「ルール違反」を教師達から叱責されていた女子2人組も、全員の前で自らの非を認めた。
実は、修学旅行の夜、彼女たちは、「君達が心を入れ替えたとしても、僕は君たちを信用できない」という担任の言葉に思い悩み、どうするべきかをAに相談していたという。
まさかAが自分たちを「告発」した当の本人であろうとは微塵も考えていなかったようだ。
しかし、学年集会を経ても担任教師からの赦しもなく、また、教師達がこの一連の「あぶり出し」を通じて子ども達に何を伝えたいのか、件の実行委員たちですらわからない、という状況になったため、子ども達の間では「密告者狩り」が始まってしまった。
明くる水曜日、修学旅行の夜に実行委員が集められた際にお説教されていたいたずら小僧が「密告したのはAだ」と「告発」したため、「裏切りだ!」と感じた前述の女子2人組は「復讐のため、Aをいじめる!」と決意。
クラスの女子一人一人に「Aをいじめるから、仲間に入れ」と勧誘を始めた。
この勧誘を受けたある者曰く、「ルール違反したのはお前らであって、そもそもそれが悪いこと。だから私はAの味方だ」。またある者曰く、「そんなことをして何の意味がある?」。
そのやりとりを聞いてしまったAは、心労のあまり、帰宅後学習塾に行く予定がありながら、泥のように眠り込んでしまったそうだ。

教師達の拙い謀略によって、子ども達は今まさに社会の現実を体感している。
「正直者は馬鹿を見る」のだ。

子ども達の側に立てば、「密告」は罪。
しかし教師達にとって、これは「密告」ではなく「報告義務」。

好むと好まざるとに関わらず、「実行委員」などという、教師集団と子ども集団のツナギ役となってしまった子ども達は、このアンビバレントな集団双方から頼られ、突き上げられる。
彼らは、「実行委員」という役目をまっとうするためには、いずれの集団とも距離をとるべきだ、ということを知っているが、そう振舞うことが時としてその後の自分の生活を大きく変えてしまうものであることもよくわかっている。
結果的に彼らの行動を規定するよりどころとなるものは、彼らの良心でしかない。

しかも、現代社会は「自分さえよければ」が横行する社会。
だから、そのような軋轢について理解できる子どもはおろか、親も教師も非常に少ないようだ。

自らの良心に従い、不器用であっても正直者であろうとしたAは、あと半年間の小学校生活をどう過ごしていくのだろう?

学校はいつから夜警国家になったのか?

2007-10-24 | 子どもの視線・親の気持ち
先週の金曜~土曜の1泊で修学旅行に行ってきたうちの娘。
振り替え休日で月曜が休み、火曜日から学校へ。

朝っぱらから授業というわけにもいかなかったのか、担任の先生がおもむろにプリントを配布。
そのプリントには、
「修学旅行でルールを守らなかった人の名前(イニシャルでよし)と、その人がやったことを書きなさい。勇気を持って、正直に書くように」
と、書かれていた。

「え~!なんだよこれ~!」

毎度恒例の旅行感想文だと予想していたのに、なんじゃそれ?
クラス全員不満顔。

そりゃそうだ。
修学旅行の最中にも、やれワンセグを持ってきてたとか、東照宮の巡回ルートを逆走して他のお客さんに迷惑かけまくったとか、鳴き龍の前でかしわ手打っちゃったとか、夜中まで起きて騒いでいたとか、大なり小なりルールを破った者は先生に呼び出され、宿泊先のロビーでこってりしぼられている。
それをまた蒸し返して、なんか意味あるの?

「イニシャルでいいから!早く書きなさい!!」

書いたフリして先生に持っていった子は、
「白紙じゃダメ!半分以上埋まってないと受け付けないよ~!」
そこでしぶしぶ、てきとーにプリントを埋めて先生に渡すと、
「・・・で、この○・△って誰のこと?」

教室の前でわざわざ聞くか、そんなこと!みんなに聞こえちゃうだろ~!

昼休み、去年の担任の先生と廊下ですれ違う。
「修学旅行、どうだった?旅行の感想文書いたの?」
「楽しかったですよ~!でも、実行委員をやっていたので、いろいろ仕事があって大変だったし、クラスの中でルールを守らない子がいれば報告するように先生に言われたり・・・それに、感想文じゃなくて、ルールを守れなかった子の名前を書けって言われて・・・」
「そう・・・本当は楽しいはずなんだけどね。」
去年はあんなに嫌いだった先生なのに、今はちょっといい感じかな。

その日の午後、6年生全員が体育館に集められ、学年集会。
「この中に、修学旅行の間にルールを破った者がいる。実行委員の児童は、その子の名前を知っているね?言いなさい。」
「・・・・」
「言いたくないんだね。じゃ、ルールを破った者は正直に自分から手を上げなさい!」

先生?あたしたち、修学旅行、楽しかったんだけどな。

ぽつり、ぽつりと手が挙がる。
「あたし、ワンセグ持って行って先生に叱られました。」
「お小遣いを多く持って行って叱られました。」
「夜中に女子に部屋に遊びに行って追い返されました。」
「僕は女子の部屋に閉じ込められました。」

「お前ら、女子の部屋に何しに行ったんだ?」

「え~、愛する女性に告白しに・・・」

「ばかやろ~!」

結局、先生達は、一体何を聞きだしたかったんだろう?
さっぱりわかんないや。

修学旅行

2007-10-22 | 子どもの視線・親の気持ち
娘が修学旅行に行ってきた。
楽しみにしていた修学旅行。
どうせやるならやれることをやってやろう、と思ったのか、なぜか修学旅行の実行委員などになってしまったものだから、単純な参加者ではなく、しおりを作成したり、旅行先では児童の代表で御宿の皆さんに挨拶したり。
まぁ、せっかくの機会だからいいんだけど。
しかし、しおり作成には閉口した様子で、学校での時間内には終わらず、家に持ち帰って作業していた。
クラス全体、もしくは班長らの合議制によるバスの席順や班分け、宿の部屋割りなどの決定に、なんとな~く責任を持たされ、それら全てを表にして・・・。

と、親の目から見て、明らかにおかしかったのはバスの席順。
一応、補助席は座らない・最後列は荷物置きのために空席にする、バスレクで伝言ゲーム途中に空席を作らない、というルールだったらしいのだが、みんな自分が座りたい席を勝手に押さえていったものだから、前から数列目が横一線空白。
その2列くらい後は歩道側2列とも縦に2列連続で空席。座席表で見ると4マスがいきなり空席。
最前列はバスレクの担当が座るから、と、補助席も入れて5人が横並び。
最後列には男の子が5人横並びし、バス中央付近の補助席に堂々と座る男の子もいる。
ちなみに、ウチの娘は「実行委員だから遠慮して」希望を言わなかったために、自席がなく、仲のいい友達の後ろの席にあたる横一線空白の列にただ1人、センターライン側の窓脇の席に後から名前を書き入れたそうだ。

では他のクラスは?というと、しっかりルールを守っている。
補助席に座る子どもはいないし、バスレクの担当はその時だk前に出ればいい、という約束事になっているそうだ。
それが普通だよなぁ。

「担任の先生は何も言わなかったの?」と問いただすと、「ルールを守ろうとは言っていたけれど、時間もないからもういいやって、なんか諦めちゃってるみたい」とのこと。
ルールを守る子どもを育てるのは親の務め。
でも、ルールを守るよう導いたり、サポートしたりするのは教師にも責任があるんじゃないのかな。
抗議しようか?と娘に問うと、「ウチはいいよ、気にしてないから。ちょっと問題あるからね、ウチのクラスは」と、暗に担任に私が抗議することに対する抵抗感を示すので、なんとなく躊躇していた。
すると、出発前日、しおりを見たある親が自分の娘に席を変更するよう命じ、ウチの娘の隣に来てくれたので、淋しい思いはせずに済んだ模様。

でもねぇ。

せっかくの修学旅行に行って、バスガイドさんが「あ、紅葉がきれいですねぇ、歩道の方を見てください」なんて言った時、そっちを向いたら前方に3人分の空席があった、なんていう光景。
バスガイドさんが「車道の方もきれいですよ」と言った時、「うっわぁ~!きれいだね~!」と言っても返事が返ってこないという配置。

そういう座席配置をよしとするのか?

伝言ゲームをやろうにも、やる前から断線してる。
いいんですか、それで?

子どもの目線に立つ、ってのはそういうことじゃないのかな。

生命の太鼓

2007-10-18 | LIVE情報
ここんところ、ず~っとドゥンドゥンバのケンケニとジェンベの絡み方を身体にしみこませようと、手持ちのドゥンドゥンバ音源をかき集め、通勤時と昼休み、そして寝る前に聴いている。
できない、ってのは悔しいですから。
暇さえあれば、飽きもせずトントトパットパトト~と指を動かしている。
これで身体に入ってくれればいいんだけれど。

以前、このブログに

(とチッ)トぱッとチットぱッとチットぱッとチットぱッとチッ
と口ずさみながら叩くと乗れそうだな、ということに気付いた(ケンケニの「トト」を「ット」と省略)。

と書いたが、実はその後参加したタカギワークにて、これだけでは乗れなかった!
というか、ジェンベのノリだけを取り出してみるとそんな感じなのだが、それはあくまで自分の中だけで勝手に刻んでいるに過ぎない、おこがましいとり方。
だいたい、それ以前に、ケンケニが「トントト」ときたらすかさず「パッ」といかねばならず、そこから始めて次のケニのトとジェンベのトがかぶるの位置をこちらの勝手な解釈で叩いてしまうからふらついてしまうのだ。
冷静に考えてみりゃ「パットパトト」という具合に、3×2=6で1区切りとして表記されるフレーズを叩くのに、カウント的にケンケニの「トントト」を聴いてしまったら、無意識のうちに2符分待ってしまうか、もしくはケンケニの最後の「ト」とジェンベの「パ」がかぶってしまう(事実、タカギワークではこれをやらかしてしまった)。
この場合、前者はジェンベとケンケニがユニゾンになり、後者は、

トントパットパントパント・・・

という間抜けなメロディとなる(オリジナルならばこれはこれでアリかもしれないけれど)。

ケンケニとの関係で見れば、ケンケニの「トント」が一塊で、ジェンベの「パッ」までつなげると、上の図のような単純で大きな二拍三連なのだ。

だからどうしたっていわれると困るんですが、こうやって取ってみると、「アフリカの連中って、ウラとかオモテとか、ないんだよ」という意見が妙に納得できた。

うらおもてなく、始まりと終わりがあるだけ。

なんか、生命の話みたい。

そんな風に、生きられたらいいだろうなぁ。





顔役が必要だ!

2007-10-18 | サッカーよろずごと
カタールに負けてしまったU22代表。
柏木曰く、「みんなの足が止まりだしていた時に、相手にやられだした。ちょっと自分自身も怖い部分があって、そんな時にやられてしまった。自分がもっと声を出してチームを盛り上げていれば、こんな結果にはならなかったと思う。」
じゃ、声出してくれよ。君にとってもチャンスなんだから!
図らずもリーダー不在といわれて久しいこのチームの弱点が露呈してしまった昨夜の後半戦だった。
やっぱ、顔だよ、顔。
チームの顔役。
試合後の反町監督曰く、「アテネの時も一敗してるし」。
そりゃ甘いんじゃないの?
あの時はチームの屋台骨を背負ったリーダーがいたし、得点源としての核弾頭みたいな選手がいた。今選ばれている選手たちが意識を変えるか、新しいのを入れるか。
アテネのチームは「谷間の世代」と揶揄され続けてきたが、その中でも気を吐き、予選で一敗しても、チームを引き締めていった「顔役」選手たちがいた。
彼らはその後山あり谷ありながらも成長し、今ではすっかりA代表の主役。
闘莉王、阿部、今野、そして鈴木。
守備系の選手ばかりだが、彼らがしっかり戦ったからこそ、アテネには行けたのだ。
特に鈴木なんて、キャプテンとして、スポークスマンとして前面に立ち続け、本戦エントリーからはずされ、そこから這い上がってのA代表。
自意識過剰?との声もあったほどの髪型ともあいまって、あれほど「顔役」を意識し続けた選手もいない。
そして核弾頭的な選手といえば大久保嘉人。
昨夜のエジプト戦では、祝!代表初ゴール!ついでに第2号!
そのあとはハットトリックを意識したのか、3,4本はずしていたけれど、ジーコに初招集されてから早4年、スペインで不遇の時を囲ったり、セレッソが二部落ちしたり、いろいろあったけれど、そんな苦労と日々の努力が結実したかのような昨夜の1点目。
泥池の中で絡まった根からきゅるきゅるっと茎が伸び、ぱっと咲いた蓮の花のようなこの爽快感!
久保の代表初ゴール以来だね、こんな気分は。
思えば俺の大好きな久保竜彦が代表初ゴールを決めたのは、トルシエに初召集されてからなんと5年後のこと。そう言えば彼の初召集は1998.10.28 Wednesday国際親善試合 日本対エジプト 、場所も同じ長居だった。
そして初ゴールは2003.12.04 Thursday東アジア選手権 日本対中国 (国立)。
この試合で2得点した久保のパートナーは、奇しくも大久保だったりする。
大久保は2003年5月31日の韓国戦で初召集され、以降20代表試合無得点とかいう不名誉な記録を残し、代表から遠ざかっていた。
その大久保が昨夜は2得点。
こじつけだけど、俺にとっては大きな因縁。
今後、大久保が腰痛にならないことを祈る。

だいたい、俺はこういう苦労しちゃった選手が好きなんだ。
天才肌でも雑草系でも、チームあってなんぼなのが団体競技。そこでもまれて浮いて沈んでときどき腐ったりしながら、それでも前を向く、ゴールに向かう、まず闘う。
そんな選手が好きなんだ。
同じくアテネ世代にして、大久保同様に昨夜代表初ゴールをゲットした前田。
アテネ予選当時は山本監督にそのユーティリティ性を買われて?ボランチまでこなしていたけれど、昨夜はしっかりFwでアピール。
もともと器用な選手なのだ。ただ、それが災いして、いまいち決め手に欠ける嫌いがあった。
しかし、昨夜は貪欲だった。まず、ハーフラインあたりから独走してGKと1対1となり、GK股抜きを試みて失敗。しかし、次のチャンスではしっかりGKの股を抜いて得点!
狙ってたんだよ、彼は。しっかりGKのクセを見ながら、枠を抜けていく己のシュートをきちんとイメージしながら闘っていた。
1回でだめならもう一度、さらにもう一度。チャレンジし続けることが大切だ。
そうやって、点が取れなきゃ勝てません。
昨夜のU22カタール戦、Fwが得点できないならばMFで。
本田圭佑にせよ水野にせよ、家長も柏木も、打てるところはもっと打たなきゃ。枠に飛ばないのは枠を意識していないからじゃないのか?と無粋なツッコミを入れたくなるけれど、もっと前へ!という意識が欲しいよなぁ。
エジプト戦での大久保・前田。
今回呼ばれていないけれど田中達也、松井大輔、そして高原直泰。
皆ゴールと自分との最短距離をイメージしながら走ってる。
やはり、点とってなんぼ。それに尽きる。

次のベトナム戦こそ正念場だ。
相手ホームだろうがなんだろうが、ここを草刈場にしなかったら得失点差は跳ね返せない。
チームの顔役がいないならば、全員が顔になってしまえばいい。
まず、全員坊主頭になることだな。


音の楽しみ

2007-10-15 | よしなしごと
都内のライブハウス、それも、弾き語り系のハコでのブッキングは、一晩の出演者(組)が5組とかになったりする。
しかも、毎回初対面の方々とご一緒しているから、毎回知らない曲ばかり聴ける、という特典つき。
だから毎回、「おはようございま~す!よろしくおねがいしま~す!」と元気に腰低く挨拶しまくる。
まぁ、月に1回とか二か月に1回程度の出演では、一気に知己が増えるはずもないからあたりまえのことなんだけれど。

いいライブのためにはいい挨拶から。
楽屋でも他の出演者の皆さん全員と極力話し、演奏も可能な限りしっかり聴くようにしている。
あまりにいたたまれない場合には出て行くこともあるけど、基本的には、自分の好みの音楽性ではなくても、なにかしら学ぶべきところがある、と思っている。
そしてライブがはねた後は、一杯飲りながら、他の出演者の皆さんと音楽談義したり、楽器の話をしたり。
こういう過ごし方は昔からあまり変わらない。

昨夜の出演がちょうど10回目となった四谷天窓。
ここは、弾き語り系の店ゆえか、ほぼ毎回俺以外にもパーカッショニストが出演している。無論、リハの段階からお互いのプレイをチェックしあうし、楽屋では確実に器材の話で盛り上がる。
一度、パーカッショニストが自分含めて3人出演した夜など、ライブ終了後、いきなりセッションに突入。
そんな時間が、音楽屋としての無上の幸福感をもたらしてくれる。
これが音楽活動を続けている一つの理由かもしれない。

ごくごくまれに、ノリの合わない打楽器屋と出会うこともある。
過去1年程度の間に3,4人出会っただろうか。
しかも彼らは皆、悲しいかな、普段はセットのドラマーだけど、このセットはジェンベやカホンを演奏する、という人達。俺自身、もともとセットのドラマーだけに、これはつらい。
挨拶もそこそこに、ろくに口も聞かない人や、「楽器なんて、我流でやってるから、鳴ればいいんだ、俺はどんなのでもいいんだ」なんて嘯く輩もいる。
まるで過去の自分。
俺も、同じような言葉を言ってしまった事がある。
でもこれって無味乾燥。TPOを間違えるとえらく尊大な態度、なんて身勝手!

ジェンベに限らず、楽器は「鳴ってくれる」ものだ。「鳴ってもらう」ために自分でメンテするからこそ、こだわりも愛着もひとしおなのに。
ただ、俺が楽器をそんな風に思えるようになったのは、ジェンベと出会ったためだろう。
無垢の木一本をくり貫いて作られたボディに、ヤギの皮。
この楽器には二つの命が宿ってる。
ひとつとして同じものは存在しない、全てがOne and onlyな楽器。

否、ほかの楽器だって皆そうなんだ。
そして、みんなそれに気付いてる。
しかし、その思いをストレートに楽器に伝えることのなんと難しいことか!
でも、それをもがきながら伝えないと楽器と仲良くなれないだろうな。
斜に構えていれば斜に構えた音しか出ない。


そんなことを日々感じているおっさんドラマーの俺が、多分過去に一番むっとしてしまったのは、某有名ドラマーの弟子だと言っていた、ある若者(多分20代後半)に対して。
その日彼はジェンベを持参し、これ見よがしに「うまい」と思わせるような、派手なモーションで叩き、悔しいかな「我流だからこれでいい」と嘯くだけの説得力はあった。
しかし、「ひっぱたきゃぁ鳴るんだからジャンベって簡単だよ」と言い放ち、叩き分けは皆無、全曲ほぼ同じパターン、早いか遅いかの違いだけで30分のステージを叩ききっていたから、当方とは明らかに違うベクトルで歩いているドラマーだった。
実はその彼、リハのときに、たまたま私がひとりでテキトーに叩いていた様子を眺めながら、傍らにいた自分のバンドメンバーに「なんだかシラネエけど、ドラムのパターンが叩けるようになってから出てこいよ、なぁ?」と吐き捨て、店外へ出て行ってしまった。
意外に聴こえちゃうんだよね、そういう言葉って。
ちなみに、その場にいたほかのパーカッショニストからは「今のリズム、なんですか?」と尋ねられ、そのまま楽屋で即席アフリカンセッションに突入しちゃったんだけど。

その彼は、基本的には「いい人」であり、対バンの演奏は我先に盛り上げ役を買って出てくれていたが、そんな自分に同調せず、楽屋に引っ込んでいる他の出演者に対しては、目の前でこれ見よがしに「ああいう態度のやつって気にイラねぇ」「みんなで楽しいことやろうとしているのに、楽しくやれないやつは許せない」と吐き捨てる。
そんな、身勝手な幸せを強要されても困るんだけど。
随分前に、俺もそんな風に尊大な態度で人に接していた時期があったことを思い出し、あまりの恥ずかしさに傍観者であるこちらが逃げ出したくなってしまった。

あの晩、最後に出演した私らの演奏中、客席にうずくまり、身じろぎ一つせず聴いていた彼。
少しは楽しんで行ってくれたのかな。


でもそんなの関係ねぇ

2007-10-12 | よしなしごと
生中継で見たわけではないが、深夜のスポーツニュース等でひっきりなしに流されていた昨夜の内藤VS亀田の世界戦。
世界戦だったんだな、あれは。
ビデオで録画しておいたものを見たけれど、内藤にとって、敵は亀田ではなく「自分」であり、世論であり、前チャンプのポンサクレックだった。亀田はかませ犬にすらなれなかった。
世界戦だと言うからには、それなりの品格があって欲しいし、互いに隙を探す間合いの攻防にも位取りがあって欲しい。
また、勝者が敗者を称えるのは当然としても、試合後、敗者は潔く負けを認めることができるよう、悔いを残さぬ捨て身の攻防をやってほしい。
真っ白になれとは言わないけれど。

亀田は位で負け、位を跳ね返すパンチ力を持ちながら生かす術を知らず、ただただガードを固めて前進し、チャンピオンが近間での打ち合いに応じるのを待つだけだった。
そして応じてくれない相手に業を煮やし、ローブロー気味のパンチと親指を使った目への攻撃を繰り返し、クリンチから相手を再三投げ飛ばし、自ら試合を棒に振った。
彼の「攻め」には相手に対するリスペクトが微塵も感じられない。

自分の記憶にある中で、過去、最もお行儀が悪く、最も強く、最も相手を認め、最も人気があったボクサーは辰吉丈一郎だ。
試合中相手を挑発し、客をあおり、しかし反則はせず、正々堂々と「ボクシング」して、試合後は勝っても負けても相手を称える。
だからこそラバナレスとの名勝負があり、薬師寺との決戦があり、網膜はく離になろうが現役を続け、今なお敬意を払われる存在だ。

ただ強ければいい、というわけにはいかないのだ。

試合前、現チャンピオンをゴキブリとののしりながら、敗戦が決まると勝者を称えようともせず、半ば自ら息子たちを先導するようにしてそそくさと会場を後にした亀田家の父。
あんな、厚顔無恥な行為は見たことがないが、実はあの父親が恥を感じつつ、それを表現する術を知らなかったからであって欲しい。
息子の醜く、無残な敗戦を目の当たりにした今、亀田家において最も悩んでいるのは彼であって欲しい。
そして、あの3兄弟には、がっくりと肩を落として通路を足早に歩く親父の背中と自分たちを取り巻く観客の視線のギャップに、自分達に足りないものを探して欲しい。

・・・と、せめて好意的に見てやろうと思っていたら、昨夜のセコンドでの発言は、全てTBSのマイクで拾われていたんだそうな。
特にひどいのが10ラウンドあたりのインターバル。
親父曰く、「どうせわかりゃしねぇんだから肘入れろ。玉も打ってけ」。
兄曰く、「一回くらいあやまりゃ済むんだから」。

なんだよそれ。
要は、出血多量でドクターストップを狙ってたわけね。
そういうもんかもしれないけれど、試合前も試合中も試合後もその調子かい!
商品価値があるからTBSが肩入れするのもわからんでもないが、だったら、そのセコンドの会話だけを全て生中継した方が視聴率は上がるんじゃないの?

そう言えば以前、サッカーの三浦和義と亀田家長男が対談したことがあったそうな。
その時、そのあまりに傍若無人な態度に切れそうになったカズが、「世界チャンプなんだから、言葉遣いとか注意した方がいいよ」とやんわり諭したところ、「なんでお前にそんなこと言われにゃならんねん?」と逆切れ。
なんだかなぁ。
残念ながら亀田家にとってボクシングは「金儲けのための殴り合い」に過ぎないようだ。
最近流行の学校等へのヘヴィクレーマーの親達と、この亀田家の振る舞い。
自分さえよけりゃそれでいい、「謙虚さ」のかけらもない意識は共通のもの。
そういう意味では、時代を象徴する存在。
「でもそんなの関係ねぇ」が笑えるのは、それがタブーだから。
タブーを持たない彼らには誰も微笑まない。

あの親父から離れないかぎり、もう彼らの試合が我が家のテレビに映ることはないだろう。

口太鼓でドゥンドゥンバ

2007-10-10 | ダトトパ教本(ネット版)
最近、何人かの古い知り合いから、「お前、ドラム叩けなくなってるんじゃないの?」とか、「アフリカンだなんだって、もうブルースとかジャズとか、やる気ないんじゃないの?」な~んてご心配の声をいただいた。
そ、そんな、心配御無用。
ドラムはまだまだ叩けます。キックの符数が多いとやばいですが。
別に、マリンケの音楽を学んでいるからって、そういった自分のバックグラウンドを捨ててしまったわけじゃないっす。
否、むしろシャッフルとか、いわゆるファンクのはねた感じって、どんなものが元になってるのか、ルーツを遡っていったらこうなっちゃった、ってだけで。
だいたい、一般的なポップミュージックは、荒っぽく大別すれば4拍子系か3拍子系。
音符とか小節という概念を持ち出せば、4/4、3/4、8/8、6/8、16/16とかって、4の倍数が分母になっているものばかり。問題はその一つ一つの音符がいくつに割られるか。
でも、そんな風に整数的に考えすぎるとグルーヴなんて出やしない。
リズムなんてもっとおおらかなもの。揺れもすれば走りもする。それを全て飲み込んでアンサンブルするところに合奏の醍醐味がある、と勝手に思ってるんだけれど。

というわけで口太鼓だ。

「とチットぱッとチットぱッとチットぱッとチットぱッ」

これじゃなんだかわかりませんね。

このところ参加しているMetal Guinee主催のジェンベ・ワークとダンス・ワーク。
いずれもお題はドゥンドゥンバ。
基本的に3拍が連なったフレーズで構成されるこの曲(というか様式というべきか)、無理やりハチロクだとして、アタマから乗っかることが出来ればなんとかなるが、途中一瞬でも迷ったりするとあっさりグルーヴから弾き飛ばされ、川のほとりの傍観者といった風情に陥る。
他のリズムと何が違うって、1拍目というかアタマというか、とにかく最初の音が弱く、裏拍というか、2拍3拍に横太鼓のアクセントがあることが多いため、そっちに引っ張られてしまうともうアウト。
考えてみりゃレゲエでもそうだけれど、アタマがあろうがなかろうが、グルーヴを感じていれば見失うこともないはず、だから、現状はリズムを「感じていない」、リズムが「身体に入ってない」という状態なのだ。

アタマからいくと、

パタコパタコッドデンドドぱットパッッぱットパッッ

と聴こえる(パタコパタコってのがカウント出しのジェンベフレーズ、ひらがなの「ぱ」がアタマ)。
途中見失うことがあっても、「ドデンドド」が出てきたら「ぱッ」とやれば入れる、というのが講師であるメタギ・タカギくんの説明。
ところが、横太鼓だけ聴いていると、

パタコパタコッドデンドドッッとットトッッとットト

となって、ケンケニの「ッッとットト」が耳に残り、気付くと「とットトッッ」という具合に微妙にひっくり返った位置をアタマに感じてしまう。
ケンケニのフレーズを「とットトッッ」として捉えた場合(本来は「ッッとットト」)、本来のアタマ(ぱットパッッ)とのズレは、2拍前もしくは4拍後。
ジェンベと合わせると「とパトトぱッ」となるが、本来は「ぱっとパトト」と聴こえなくてはならない(感じていなくてはならない)。
否、無論、実際にはドゥンドゥンもサンバンも入るし、ベルも鳴っているから、アタマの「ぱ」の位置にサンバンが鳴っていることが多いのだが、まだそこまで3本の太鼓を総体として捉えきれていないのだ。
前掲のタカギくんの解説では、「とットト」ときたら「ぱッ」とやれば入れる、とのことだったが、それだけではどうもしっくりこない。
結局、自分にとって一番入りやすい捉え方を探るしかないのだが、この曲は、基本は3音符×2=6音符で1フレーズなので、いわゆるハチロク、あるいはスウィングの手順に無理やり置き換えてみると、例えばハイハットの動きに当てはめれば、「ッッとットト」であれ「とットトッッ」であれ、とにかく「と」の次の「ッ」が、チッとハットを閉じるタイミング。
ならば、「と(チ)トトぱッ」とハットを開ければ、そのまんまスウィングしていくんでないかい?あれ、ちょうどいいかも?!?

というわけで、どうやら私にとっては

とチットぱッとチットぱッとチットぱッとチットぱッ

あるいは、

(とチッ)トぱッとチットぱッとチットぱッとチットぱッとチッ

と口ずさみながら叩くと乗れそうだな、ということに気付いた(ケンケニの「トト」を「ット」と省略)。
ハチロクで言えば、スネアが入るバックビートの位置(4拍目)をプッシュする感じか?
しかし、ちょっと待て。
これって、いわゆるシャッフルじゃないの?
両足でやったらタップダンスそのまんま。
ついでに、この稿の冒頭で、ケンケニやドゥンドゥンのアクセントが裏というか後ろにある、なんて書いてしまったけれど、これはむしろ前にあって、まさにケンケニはジェンベを引っ張る役割。
オーナメンション・ノートとか言うんだっけ、こういうのって?

ドゥンドゥンバがうまく叩ける確証はまだ持てないけれど、俺のシャッフルはまたちょっと変化しそうだ。