Baradomo日誌

ジェンベの話、コラの話、サッカーの話やらよしなしごとを。

ママディ・ケイタ「ジェンベフォラ」

2007-02-01 | ダトトパ教本(ネット版)
映画「ジェンベフォラ」をDVDで購入した。

そう、これはまさに文化的なパン・アフリカニズムだ。

この映画の主人公、ジェンベフォラ、ママディ・ケイタは1950年生まれ。
12,3歳くらいのとき、ギニアの国立バレエ団「バレエ・ジョリバ」にドラマーとしてスカウトされ、故郷を離れたらしい。
その後、20年くらいの間、バレエ団において活躍し、1984年にセク・トゥーレ大統領の死去、そして起こった軍事クーデターに伴い、ギニアを離れ、ヨーロッパ、ベルギーへと活動拠点を移した。
この映画は、それから6年が過ぎ、ママディが6年ぶりにギニアへ帰郷し、二十数年ぶりに故郷の村へ帰る、という話だ。

ママディが所属していた「バレエ・ジョリバ」とは、セク・トゥーレによって創設された国立バレエ団。
その活動は政府の公式行事として行われ、海外公演も同様に政府の公式な事業であったそうだ。
セク・トゥーレというと、フランス帝国主義支配下からの脱却を目指して、「隷属の下での豊かさよりも、自由のもとでの貧困を選ぶ」と言って独立し、社会主義政権を樹立した、ギニアの初代大統領。
しかし、フランスが完全にギニアから手を引いたおかげで、ギニアは本気でびんぼーな国になってしまい、トゥーレは当時の中国の人民公社を模した組織化を進めたり、ここに出てくるバレエ団を育てて海外公演などもさせながら、経済的にも、文化的にも、マリやセネガルとの差別化を図っていったらしい。
しかし、トゥーレの没後、「バレエ・ジョリバ」はそのあまりに政治的な設立経過ゆえか、次第に縮小し、国内での民俗芸能教育機関となった。
現在、ギニアの国名を背負って海外公演を行うのは、同時期にヌボディ・ケイタという人によって創設され、後に国立バレエ団となった「バレエ・アフリカン」のみ。こちらはもともと、比較的商業的な要素が強いものだったんだそうだ。

己が不勉強を恥じるしかないが、セク・トゥーレが国立バレエ団を育てたというエピソードは、まったく知らなかったが、これは、1930年代フランスでのネグリチュード運動の系譜に連なる思想性を持つものなのではないだろうか?
さらにさかのぼるならば、1920年代にはアメリカやヨーロッパの一部のアフリカンによる政治的意思表明であった、特にマーカス・ガーヴィーによって急進化したパン・アフリカニズムからの影響も少なからずあるだろう。
ガーヴィーの活動はネグリチュード運動とも連携したものであり、エンクルマやトゥーレ、ジョモ・ケニヤッタ等に多大なるインパクトを与えた、とはあちらの研究史でも繰り返し述べられている話。
また、ガーヴィーが主催するU.N.I.A.(世界黒人向上協会)の1925年世界大会では、アフリカの民族衣装に身を包んだ万単位の参加者がニューヨークでパレードを行ったりもしている。それはまさに自らの「黒人性」の発露であり、この点において、ガーヴィーが主唱した「人種意識」とは、1920年代を生きたディアスポラの黒人たちにとって、「解放の論理」として鳴り響いたのだ(ってのが、俺の卒論の結論だったな)。
これに対し、トゥーレの政治思想については、詳しくはこれから調べたいが、部族社会、さらには村落共同体をそのまま経済の最小単位として活動させようとする発想を抱き、その結果ソ連との連携、中国共産党の方法論の模倣へと至ったのではないかと、現時点においては短絡的に推察する。
それは実際に国家建設を行った、という点で、1920~30年代の米国等における西インド諸島人によるラディカリズムの隆盛とはまた違った側面を持ったものであり、1958年当時の世界状況を考慮するならば、トゥーレの社会主義への傾倒とは、いわば「脱植民地化の論理」だったのではないかと予想できるのだ。
その意味では、あるいは合衆国におけるN.A.A.C.P(ナイアガラ運動に端を発し、現在も継続する全米有色人種改善協会)の創設者であり、第二次大戦後共産主義へと思想的転換をしたW.E.B.Duboisとの相関関係もあったのかもしれない。

前説が長くなったが、主人公であるママディは故郷に赴き、故郷の人々とジェンベを叩き鳴らす。
子供の頃は農夫であったという彼は「農作業のときも、ジェンベはいつも傍らにあった」と述懐する。
さらに、村落における農作業時、周囲でジェンベを叩きながら男たちが畑を耕すシーンでは、こんな言葉を発している。
「みなでこうして働くことは、単に利益(welfare)を生むための行為ではなく、(共同体への)好意(goodwill)によるものなのだ。それが大切だと知っているから、貧しさも共有できる。」
それはあたかも、独立がもたらした貧困を、単に現実として受け止め、部族的な道徳心によって乗り越えようとするセク・トゥーレの胸中を代弁したかのように響く。
故郷の村でも、20年以上合うことのなかった同胞と、あるいは20年前には生まれていなかったような若者と、ジェンベを鳴らしあうママディ。
国立バレエ団のソフィスティケートされた?ドラマーであろうママディだが、行く先々で土地のグルーヴに溶け合い、自分を表現する。
そんな彼の姿が訴えることは、ギニア・バレエなるものが、決してエスタブリッシュメント向けの娯楽であったり、あるいは外貨獲得のための手段として、必要以上に洗練され、その歴史や民族性と乖離したものなどではなく、まず国民に向けられたものであり、そして同時に己が「黒人性の発露」として表現したものである、という事実。
それは部族の文化、言い換えればミクロ・ナショナリズムを突き詰めた結果獲得した普遍性を示すものであり、すなわち文化的パン・ナショナリズムなのだ。セク・トゥーレが「バレエ・ジョリバ」を設立した意図はここにあったのではないか?
そう考えたとき、彼のパフォーマンスは、無常のリアリズムを持ってわれわれに迫ってくるのだ。

しかし、ほんっと、俺は学生の頃に何を勉強してきたのか、とショックを受けた映画だった。
今頃になって、あの頃に聞きかじった単語や断片的な知識がパズルみたいにピタピタはまっていく感じ。
なんかすごいショック。
なにぶん当時は先行研究があまりにも少なく、とてもじゃないが俺の語学力ではついていけなかったのだが、20年かかって意識が大西洋を渡った感じ。
これからまた勉強再開だ。