Baradomo日誌

ジェンベの話、コラの話、サッカーの話やらよしなしごとを。

終わっちまった悲しみに

2006-06-27 | サッカーよろずごと
小学校5年生の娘が「ブラジルの選手って、みんな水みたいだね」とつぶやいた。
寝ぼけ眼の娘が内に秘めた、眠れる文学的センスを目覚めさせるほど、圧倒的に美しい王国のサッカー。
対する日本代表も序盤はじっくり対応し、王国のお株を奪うような美しい先制点を挙げた、まではよかったが、その後は一気に押し込まれる展開。
ブラウン管越しにも気合が伝わってきたのは、中田英、川口、三都主、加地、玉田、巻だろうか。小笠原、稲本はチャレンジする回数が少なすぎた。中澤~坪井の急造ディフェンスラインはよく耐えていたけれど、人に付ききれず、終始ボールに振り回された。そして中村に至ってはほとんど印象がない。ほぼ90分間「消えていた」のではないか?
試合終盤になっても、イエローカードをもらうほどの激しさも見せず、ホイッスルとともに倒れこむ選手もほとんどいない日本代表。
テレビ画面に映る青いユニフォームを着た男達の半数近くが、完全燃焼どころか試合途中で紙くずみたいに燃え尽きていた。
これが日本版「黄金世代」の集大成?
彼らはチームとして闘うことすら出来なかった。

私は草サッカーとフットサルを少しかじった程度しか経験はなく、スポーツとしての本職は剣道だ。
だから、いつも格闘技的な視点でサッカーを見ている。
剣道や柔道のみならず、いつでもサドンデスのような状況で試合が進行する格闘技に比して、90分あるサッカーは挽回のチャンスがある、という意味で余裕がある。
また、団体競技であるため、1対1の局面を回避すべく、周囲にパスを回すことでポゼッション自体は保持できる。
しかし、チャレンジするパスとは違い、ポゼッションのためのパス、という行為はには甘さを感じる。
1対1で勝てなくては、前に進むことすら出来やしないのに。

真逆の方向から2つの物体をぶつければ、重いものが勝つ。
ならば衝突の方向を変えることで相手の力を利用することが出来る。
それは例えば柔道であり、合気道の考え方だ。
元来、日本には独自の武術があり、その考え方をトレーニングに取り入れていくことは自然なことではないだろうか。
桐朋高校バスケット部における古武術の導入然り、陸上の末次が見せるなんば走り然り。
体幹部をねじり、反動を使っての走り、キックに固執する限り、いわゆる「体格差」は埋まらない。
なぜ、あれほど中田が走れるのか、怪我をしないのか。そしていつでも平均的に活躍できるのは何故か。
特にペルージャ~ローマの頃、あるいはボローニャの頃、相手を引きずりながらドリブルできた理由は何か?
それは腰の重心が上下動せず、体幹部が走ろうとする方向にしっかり正対しているからに他ならない。
あるいはメキシコのような比較的小兵ではあるが闘えるチームを見ても、同様の印象を受ける。
(小野のキックや体裁きなどはパッサーとしては理想的に見えるが、ボールを持ってルックアップした瞬間、若干腰高になりがちなことが怪我が多い理由かもしれない。一方、このような視点から見れば、セットプレー以外の中村俊輔は論外である。)

また、例えば1998フランス大会当時、中田の空間把握能力について「ピッチを上から見ているような」とか「3次元的」とか言われた。
それは、例えば日本の武道であれば「紅葉の目付け」とか「遠山の目付け」と言われるもので、江戸時代当時からあった概念だ。
紅葉を見るとき、葉っぱの一枚一枚を見ても感動は少ない。
木全体、森全体を見ることで感動できるのが「紅葉」である、従って、「遠くの山を見るように」相手を見るべきだ、とするものだ。
そのような感覚を保持しつつ、パスをまわすのであれば、ジーコ言うところの「メンタルをいじるようなパス」、つまり、相手を真綿で締め上げるようなパスワークも可能であろう。

そして、そのような身体の使い方と「紅葉の目付け」的な視野の広さは、「位取り」が出来て初めて生きる。

「位取り」とは、基本的には打突等の技を出す前のポジショニングのこと。
それが外形にどう表れるかは、各々の武道、流派によって違いがあるが、「気」の攻めと一体であることはすべてにおいて共通する。
サッカーに置き換えれば、攻めようとする行為が体もしくはチームとしての動きとして外見上現れる前に、お互いに絶えず争っているような、いわば心理戦も含まれるだろう。
過去の実績、選手個々人の能力から、試合をする前からびびってしまって試合にならない、という状況は、ここ最近の日本代表の試合ではほとんど見られなくなったが、問題は試合開始後である。
立ち会った刹那から注意深く相手の打ち気(攻め)を殺ぎ、相手の技を出させず、なおかつ自分の優位を保つポジショニングに腐心する。
ここでポジショニングに基づく精神的な余裕を持てれば(即ち「位取り」で勝てれば)、思うままに自分の技を出すことが出来る。
言い換えればイニシアチブの奪い合い。
相手がイニシアチブを持っている状況下でまわすパスなど、相手には何の怖さもない。

サッカーはその国の文化を表す、と言われる。
ならば、日本サッカー協会、Jリーグ含め全てのサッカー関係者は、貪欲に日本の武道をはじめ、他のスポーツから良い見本を吸収し、「日本のサッカー」のイメージを作り上げるべき。
「温故知新」、それが日本的なサッカー文化を育む道だ。

試合終了後、サポーターに挨拶に向かう選手達の背後で、1人センターサークルに寝転び、何事かをつぶやきつづけていた中田英寿。
そんなスタンドプレーまがいの行為を許してしまう(許さざるを得ない?)こと自体が、日本代表の「幼さ」。
1人寝そべる中田も、動けなくなるまで闘えなかった(闘わなかった?)ピッチ上の選手も、サブのメンバーも、さらには協会も含め、チームとして「幼い」のだ。
なにが"SAMURAI BLUE"だ!
そんなんで日本の子供達に感動を与えられるか?
それが代表選手のロール・モデルたりえるのか?
「先に行ってくれ」って言われたから放って置くだけでいいのか、それがキャプテンシーか、宮本よ?
駒野よ、茂庭よ、土居よ、楢崎よ、遠藤よ、そして小野よ!
中田を担いででもサポーターの前に連れて行こうとは思わなかったのか?
そんなんだからブラッターには「後退した」と言われ、一足先に髪の毛を後退させたジーコにまで「プロフェッショナル意識の欠如」なんて言われちまうんだ。
1998フランス大会ジャマイカ戦での中田~小野の流れるようなパスワークに日本の未来を見た!と感じたのは私だけではないはず。
これでお前ら終わりかい?真っ白になったのか?
カズ、ラモス、ゴン等の「ドーハ組」を長兄、秋田、名波、山口らの「フランス組」を次男とするなら、中田・小野は早熟な三男坊か。
一見「熱さ」とは無縁に思える中田の心中で、誰よりも青く燃え盛っていた、長兄から脈々と受け継がれた「誇り」。
試合終了後、いまだぎらついていた巻の目に、その残滓を見た思いがする。
駒野はどうだ?茂庭は?松井は?長谷部は?今野は?阿部は?大久保は?田中達也は?菊池直哉は?

熱いヤツらはまだまだいる。
2010年はもう始まっているんだ。


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2 コメント

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全てにおいて (Gen)
2006-06-29 13:32:17
「幼い」と思うよ。

サポーター、メディア、指導者...。

もちろん自国の選手を応援するのはあたりまえだし、多少の期待もする。だけど、ことサッカーに関して言えば、根拠のない期待が多すぎると思うよ。特に、その言動が大きく影響するリーガー上がりの輩ね。もっと正直に言えば良いと思う。中途半端に期待させるから、現実を見たときの落胆も激しいんだね。10年やそこらで世界レベルにはならないし、段階を踏まなきゃなんないんだから。

もっと長い目で見ていかないと、サッカーなんか、人気無くなっちゃうよ~ほんとに...。これから将来を背負って行く卵がたくさん見ていた訳だからね。



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孫の代 (@鳴り物)
2006-06-29 14:01:00
私らの孫の代になったころ、日本のサッカーはどうなってるんだろう?

いやむしろ、日本のスポーツはどうなってるんだろう?

指導者の方々はきっとみんな考えているんだと思いますが、ことサッカーに関しては中途半端に商業化されてきた分、スポイルされるのも早いだろうな。

「100年構想」もそうだけれど、イメージ戦略の落とし穴にはまっているように思います。

ウチの娘は、昨日のフランスvsスペイン戦でのビエイラの得点シーンと、ブラジルvsガーナ戦でのアドリアーノの得点シーンにいたく感激していまし、「日本代表はああいう事できないの?」と、真顔で質問してきました。

まいったなぁ。
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