後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ベリリンの壁の崩壊の衝撃の大きさを理解していない日本人

2010年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム

1989年のベリリンの壁の崩壊で、1945年の第二次世界大戦終了後から44年間続いた冷戦がアメリカ陣営の勝利で終わったのです。日本の周辺ではなにも変化が無く、北方4島は相変わらずロシアの領土のままです。従って日本人にとっては冷戦の終了はあまり大きな事件と思いません。しかし、ヨーロッパの東部ではロシアは衛星国を失い、ロシアの軍事防衛線が大きく東へ退いたのです。

以下の地図のようにポーランドとエストニア、ラトビア、リトアニアはNATO軍事同盟に加わり、アメリカ陣営になってしまいました。更にその東のベラルーシとウクライナも独立してロシアの衛星国から脱したのです。その結果、ヨーロッパの東部とロシア西部の国境がとても大きく塗り替えられたのです。是非、下記のURLをクリックして新しい国々をご覧下さい。http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=56.57975141889055&lon=22.006962946169054&z=6&mode=map&pointer=on&datum=wgs&fa=ks&home=on&hlat=52.004151275936&hlon=19.007695368044&layout=&ei=utf-8&p=

その結果として、ポーランド北部とリトアニアの間に残ったロシア領のカリーニングラードが本国から切り離されて飛び地になったのです。この飛び地はロシアの軍事要塞として重要な意味があります。

それにしてもこの飛び地は不思議な存在です。そこで少し調べて見ました。歴史的には12世紀後半にカトリックの正式な修道組織として公認された「ドイツ騎士修道会」が布教と領土を求め東ヨーロッパへ侵入したことが原因になっているようです。ドイツ騎士修道会が作った国がプロイセンであり、現在のカリーニングラード付近を東プロイセンと呼ばれていました。第二次大戦の始まる前はドイツの飛び地でした

ロシアがそれを奪ったので戦後はロシアの領地になったのです。

ベリリンの壁崩壊の後で、エリツェン大統領がカリーニングラードをポーランドへ返還しようとしました。しかしポーランドとエストニア、ラトビア、リトアニアはNATO軍事同盟に加わり、アメリカ陣営へ入ろうとしている情報を入手し、ポーランドへの返還を中止し、軍事要塞を自国の防衛の為に保持することになったそうです。

丁度、その頃、北方4島の2島をエリツェン大統領は日本へ返還しようとして橋本首相と交渉をしていました。それが突然中止になったのです。

何故か?私の個人的な想像を記します。ポーランドとエストニア、ラトビア、リトアニアがNATO軍事同盟へ加盟する動きをしたのでロシアは急に警戒を強めたに違いありません。当然、北方2島返還を止め、軍事基地設置を計画したと信じています。

日本では「北方4島返還」と空しく叫ぶ人が多いのも事実です。しかしそれはロシアの西側の東ヨーロッパで何が起きているかを考えないと無駄な叫びになります。

北方4島返還はロシアとNATO同盟軍の動きと密接に関係していると思います。貴方のご意見をコメントととして頂ければ嬉しく存じます。(終り)

下の写真はエストニアの首都リガの風景です。出典は、http://www.tripadvisor.jp/Tourism-g274967-Riga-Vacations.html です。

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