後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「満州の建国と滅亡後の苦難」

2024年09月18日 | 日記・エッセイ・コラム
日本民族は江戸幕府末期からいくつもの外国との戦争をくりかえしました。開国を決めて 以降の明治政府も「富国強兵」を国是とし、1945年の敗戦までの77年間は戦争の 連続で、まさに戦争の時代でした。
その詳細な一覧は、「日本の戦争歴史年表」、http://www.yuseiunionkyusyu.jp/sennsounorekisinennhyou2.pdf に示してあります。この資料を見ると特に昭和時代の満州の建国と滅亡は1945年の日本の敗戦に直接つながる原因になっています。

昭和6年の柳条湖事件を発端にし満州事変が起きます。そして短期間に満州を占領した日本軍によって満州国が建国されたのです。
しかしこの満州国の建国は日本を破滅に導いたのです。
それでは「満州の建国と滅亡後の苦難」の経緯を箇条書きにして分かり易くします。

(1)満州事変とは?
満州事変は、https://ja.wikipedia.org/wiki/満州事変 に詳細な説明があります。分かりやすく抜粋を示します。
満州事変は、1931年(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した事件 「柳条湖事件」に端を発し、関東軍による満州(中国東北部)全土の占領した軍事行動でした。1933年5月31日の塘沽協定成立で終わりました。日本と中華民国との間の戦争でした。中国側の呼称は九一八事変です。 関東軍は約5か月で満州全土を占領したのです。

1番目の写真は柳条湖事件直後の柳条湖の爆破現場です。

(2)張作霖爆殺事件と張学良の反日行動
関東軍は、地元の親日派軍閥長である張作霖に軍事顧問団を送り、取り込みを図った。しかし、張作霖が排日運動の高まりや欧米からの支援をとりつけようと日本との距離を置き、海外資本の提供をうけて、いわゆる満鉄の並行線を建設し始めると、両者の関係は悪化した。1928年(昭和3年)6月4日、関東軍は張作霖が乗る列車を秘密裏に爆破し、殺害した(張作霖爆殺事件)。事件を首謀した河本大作大佐は、予備役に回される軽い処分とされた。田中義一内閣はこの事件処理をめぐり昭和天皇から不興を買ったことにより、翌年7月になって総辞職に追い込まれた。
事件により父親を殺された張学良だが、日本を表立って批判することは無かった。張作霖の後を継いだ息子の張学良は、蒋介石の南京国民政府への合流を決行し、満洲の外交権と外交事務は南京政府外交部の管轄となった。

(3)柳条湖事件の詳細
1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分頃、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道線路上で爆発が起きた。現場は、3年前の張作霖爆殺事件の現場から、わずか数キロの地点である。爆発自体は小規模で、爆破直後に現場を急行列車が何事もなく通過している。 関東軍はこれを張学良の東北軍による破壊工作と発表し、直ちに軍事行動に移った。 これがいわゆる柳条湖(溝)事件である。
戦後のGHQの調査などにより、本事件は河本大佐の後任の関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と、関東軍作戦参謀石原莞爾中佐が首謀し、軍事行動の口火とするため自ら行った陰謀であったことが判明している。奉天特務機関補佐官花谷正少佐、張学良軍事顧問補佐官今田新太郎大尉らが爆破工作を指揮し、関東軍の虎石台独立守備隊の河本末守中尉指揮の一小隊が爆破を実行した。
事件現場の柳条湖近くには、国民革命軍(中国軍)の兵営である「北大営」がある。関東軍は、爆音に驚いて出てきた中国兵を射殺し、北大営を占拠した。関東軍は、翌日までに、奉天、長春、営口の各都市も占領した。奉天占領後すぐに、奉天特務機関長土肥原賢二大佐が臨時市長となった。土肥原の下で民間特務機関である甘粕機関を運営していた甘粕正彦元大尉は、ハルピン出兵の口実作りのため、奉天市内数箇所に爆弾を投げ込む工作を行った。9月22日関東軍は、居留民保護のためハルピン出兵の意向を示した。

(4)清朝皇帝だった溥儀の擁立
関東軍は、国際世論の批判を避けるため、あるいは陸軍中央からの支持を得るために、満洲全土の領土化ではなく、傀儡政権の樹立へと方針を早々に転換した。事変勃発から4日目のことである。
昭和6年9月22日、当時馮玉祥と孫岳により紫禁城から強制的に退去させられ、天津の日本租界に避難していた清朝の最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀に決起を促し、代表者を派遣するよう連絡した。
23日、羅振玉が奉天の軍司令部を訪れ、板垣大佐に面会して宣統帝の復辟を嘆願し、吉林の煕洽、洮南の張海鵬、蒙古諸王を決起させることを約束した。羅振玉は宗社党の決起を促して回り、鄭孝胥ら清朝宗社党一派は復辟運動を展開した。同日、蒙古独立を目指して挙兵し失敗したパプチャップの子ガンジュルシャップが石原中佐を訪れ、蒙古の挙兵援助を嘆願し、軍は武器弾薬の援助を約束した。
特務機関長の土肥原賢二大佐は、溥儀に日本軍に協力するよう説得にかかった。満洲民族の国家である清朝の復興を条件に、溥儀は新国家の皇帝となることに同意した。11月10日に溥儀は天津の自宅を出て、昭和6年11月13日に営口に到着し、旅順の日本軍の元にとどまった。

(5)満州国の建国
1932年(昭和7年)2月初め頃には、関東軍は満洲全土をほぼ占領した。

2番目の写真は錦州の裕民洋服店附近を行く日本軍です。
3月1日、満洲国の建国が宣言された。国家元首にあたる「執政」には、清朝の廃帝愛新覚羅溥儀が就いた。国務総理には鄭孝胥が就き、首都は新京(現在の長春)、元号は大同とされた。これらの発表は、東北最高行政委員会委員長張景恵の公館において行われた。

3番目の写真は天津時代の溥儀と婉容です。

3月9日には、溥儀の執政就任式が新京で行なわれた。1932年3月4日、熱河省都承徳を占領し、4月に長城線を確保し、万里の長城が満州国と中華民国の境界線になった。
同年3月12日、犬養毅内閣は「満蒙は中国本土から分離独立した政権の統治支配地域であり、逐次、国家としての実質が備わるよう誘導する」と閣議決定した。日本政府は、関東軍の独断行動に引きずられる結果となった。同年5月に五・一五事件が起き、政府の満洲国承認に慎重であった犬養は、反乱部隊の一人に暗殺された。

4番目の写真は満洲国皇帝となった愛新覚羅溥儀です。

(6)国際連盟脱退との関係
中華民国側は日本軍の軍事行動を侵略行為として国際連盟に提訴し、1932年3月、リットン調査団が派遣され、10月2日に日本の主張を認めない報告を発表した。
熱河作戦は満洲国領土を確定するための熱河省と河北省への進出作戦であった。陸軍中央では万里の長城以北に作戦範囲を限定し、悪化する欧米諸国との関係を局限して国際連盟脱退を防ごうと考えていた。
しかし、1933年(昭和8年)2月20日に閣議決定により日本国の国際連盟脱退が決定され、24日にはジュネーブで松岡全権大使が国際連盟の総会議場より退場した。

(7)満州国の滅亡と溥儀の逮捕(https://ja.wikipedia.org/wiki/満州国 )
皇帝溥儀をはじめとする国家首脳たちはソ連の進撃が進むと新京を放棄し、朝鮮にほど近い、通化省臨江県大栗子に8月13日夕刻到着。同地に避難していたが、8月15日に行われた日本の昭和天皇による「玉音放送」で戦争と自らの帝国の終焉を知った。
2日後の8月17日に、国務総理大臣の張景恵が主宰する重臣会議は通化で満洲国の廃止を決定、翌18日未明には溥儀が大栗子の地で退位の詔勅を読み上げ、満洲国は誕生から僅か13年で滅亡した。
8月19日に旧満洲国政府要人による東北地方暫時治安維持委員会が組織されたが、8月24日にソ連軍の指示で解散された。
溥儀は退位宣言の翌日、通化飛行場から飛行機で日本に亡命する途中、奉天でソ連軍の空挺部隊によって拘束され、通遼を経由してソ連のチタの収容施設に護送された。そのほか、旧政府要人も8月31日に一斉に逮捕された。

(8)日本兵と日本人入植者の悲劇と苦難
戦闘終了後、ソ連軍はほとんどの関東軍兵士を武装解除して捕虜とし、シベリアや中央アジアなどの強制収容所に送り、過酷な強制労働を課した。18歳から45歳までの民間人男性が収容され、65万人以上が極度の栄養失調状態で極寒の環境にさらされた。このシベリア抑留と引揚に苦難によって、25万人以上の日本人が帰国できずに死亡したといわれる。中華民国政府に協力した日本人数千名が中国共産党に虐殺された通化事件も発生した。
また、一部の日本人の幼児は、肉親と死別したりはぐれたりして現地の中国人に保護され、あるいは肉親自身が現地人に預けたりして戦後も大陸に残った中国残留日本人孤児が数多く発生した。その後、日本人は新京や大連などの大都市に集められたが、日本本国への引き揚げ作業は遅れ、ようやく1946年から開始された(葫芦島在留日本人大送還)。さらに、帰国した「引揚者」は、戦争で経済基盤が破壊された日本国内では居住地もなく、苦しい生活を強いられた。政府が満蒙開拓団や引揚者向けに「引揚者村」を日本各地に置いたが、いずれも農作に適さない荒れた土地で引揚者らは後々まで困窮した。

5番目の写真は瀋陽にある九・一八歴史博物館です。九・一八歴史博物館とは1931年の柳条湖事件の歴史博物館のことです。

以上が「満州の建国と滅亡後の苦難」でした。しかし悲劇的な事件は以上の他にも数多くあったのです。
日本民族は永久に「満州の建国と滅亡後の苦難」を忘れるべきではないと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山壮人)

「中国の都会と農村の美しい風景写真」

2024年09月18日 | 日記・エッセイ・コラム
昔の中国を知っている人々が吃驚するような経済成長をしている中国です。
1980年以後の鄧小平の時代からです。
今日はその中国の都会と農村の美しい風景写真をお送りいたします。

1番目の写真は 夜の香港の美しい風景です。香港は英領の頃も高層ビルがありましたが中国領になってからさらに高層ビルが増えてのです。{https://publicdomainq.net/hong-kong-cityscape-night-0013280/ )

2番目の写真は上海です。(https://www.city.osaka.lg.jp/keizaisenryaku/page/0000017093.html )

3番目の写真は蘇州のそばの銭江新城です。(https://crea.bunshun.jp/articles/-/11485 )

4番目の写真は蘇州付近の農村です。(https://pixta.jp/photo/20111191 )

5番目の写真は奥地の四川省郷城県の美しい田園風景です。(http://j.people.com.cn/n/2015/0618/c94657-8908444.html )

6番目の写真は中国でもっとも美しい村と言われている四川省丹巴です。美人谷のある山里の秘境村です。

今日は中国の都会と農村の美しい風景写真を示しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)