後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「遥かなる我が故郷、仙台の近世の歴史」

2024年06月20日 | 日記・エッセイ・コラム
仙台は私が生まれた故郷です。1936年に生まれ1960年にアメリカへ留学するまで24年間住んでいた懐かしい故郷です。
今日はこの仙台の近世の歴史、郷土史をご紹介致します.
(1)伊達政宗が青葉山に仙台城を作り城下町を作った。
近世になるまでの仙台市域の大部分は国分氏の支配下にありました。国分氏は現在の多賀城市や仙台市岩切などを拠点とする留守氏と激しく対立していたのです。しかし戦国時代に入ると両氏とも戦国大名として台頭してきた伊達氏の軍門に下り伊達氏に隷属してしまいます。当時は仙台は「千代(せんだい)」と呼ばれていました。 
慶長5年(1601年1月28日)に伊達政宗が青葉山に仙台城を作り城下町を整備します。そして名前を「仙臺(仙台)」と改称したのです。
これが仙台の都市としての始まりでした。 62万石の仙台藩は、加賀藩(102.5万石)、薩摩藩(77万石)に次ぎ、尾張藩(約62万石)と並ぶ大藩だったのです。
(2)仙台の商業を発展させた近江商人たち
伊達政宗は仙台発展の体制を作りました。しかし実際に街造りを担ったのは商人たちでした。
城下町を豊かにしたのは士農工商のなかの工商階級でした。仙台にも鉄砲町や鍛冶町があり職人が鉄砲や刀剣を、そしていろいろな農機具を作っていました。そしていろいろな商店も出来ます。
郷土史家、田村昭さんによると仙台で一番古い店は田善銅器店(1596年)で、それから河原町にあった五軒茶店(1623年)や千松島酒造(1673年)などが記録に残っているそうです。
仙台藩は近江に飛び地の領地を持っていたこともあり、江戸中期に京都や滋賀からの商人が移住して来ました。奥州街道と仙台の大町通りの交差点にある「芭蕉の辻」近辺に店を構え、京都、大阪との商売で大きな儲けをもたらし、仙台を潤したのです。そのような豪商の代表は江戸中期の日野屋の中井新三郎です。現在の滋賀県の日野村からの移住者でした。
そしてもう一人居ます。現在の京都府の丹波の八木村から移住してきた豪商の八木久兵衛です。(八木久兵衛は代々同じ名前の八木久兵衛を使っていますのでご注意ください)
移住してきた始めの八木久兵衛は仙台の芭蕉の辻の近くに、「紅久」という化粧品や小間物を売っていた店を構えたそうです。「紅久」の創業は天明3年の1783年と言われています。その他、近江商人が何人も移住して来て、薬品店、小間物店、呉服店などなどを開業し、仙台の城下町は繁栄の時代を謳歌したのです。
仙台と京都の物流は西の峠を越して最上川に出て、酒田まで川を下って行いました。酒田には近江商人の町があり、そこを経由して北前船で京都、大阪と取引をしていたのです。現在、酒田や鶴岡、そして北海道の松前へ観光旅行をすると当時の近江商人の豪商の屋敷などがあって、北前船の重要性がよく理解できます。
明治維新が起きましたが、商人や職人は江戸時代のままの活躍を続けたのです。鉄道や銀行を作ったのは仙台の豪商たちでした。明治20年頃になって政府がやっと整い税収が増大してから鉄道も銀行も民間から買い上げて国有にしたのです。
(3)4代目、八木久兵衛が東北本線をつくった。
その明治時代に活躍した豪商の一人に「紅久」の4代目、八木久兵衛がいました。現在も仙台にある七十七銀行を作り、仙台味噌で大儲けをし、上野から仙台まで鉄道を敷き、兎に角、八面六臂の活躍をします。
終いには勅撰の貴族院議員になります。そうして仙台城の南西の広大な裏山を全て買い取る決心をするのです。実際にこの広大な国有の土地を買収する事業を完成したのは五代目の八木久兵衛の時です。そのお陰で、現在の仙台市に、「八木山」という地名が残りました。

その5代目、八木久兵衛の息子が八木栄治さんです。私が向山小学校へ通って居た頃、この栄治さんの一人娘が同級生に居ました。あまり目立たない大人しい子供でした。
八木栄治さんは小学校のPTA会長をしていたので何度かお会いしました。いかにも金持ちという鷹揚な態度で、やさしい話ぶりだったのを覚えています。
八木栄治さんの家は八木山の松林の中にある一軒家でしたが決して贅沢な家ではありませんでした。当時はそれでも広大な八木山一帯の土地を持っていて、その後、仙台市が動物園を作る時土地を寄付したり、住宅地へ開放したりして戦後の仙台の発展へも貢献していました。
さて最後に上記の記事に関連した写真を掲載します。

1番目の写真は私が昭和17年から23年まで通っていた向山小学校です。戦争中は向山国民学校という看板が石の門柱にかけてありました。日本軍が昭南島を占領した戦勝祝いに生徒全員がゴムマリを貰ったのを思い出しました。

2番目の写真は私が卒業した東北大学の金属工学科の建物です。現在は青葉山のキャンパスに引っ越して使っていませんが、赤レンガの建物が80年前と同じように残っています。

3番目の写真は青葉城の石垣です。城の建物はすべて戊辰戦争のおりに焼かれてしまいこの石垣だけが残ったのです。この石垣の下を右方向に車で登ると見晴らしの良い城跡に上がれます。

4番目の写真は城跡にある伊達政宗の騎馬像です。

5番目の写真は城跡から見下ろした現在の中心街の風景です。昭和20年の大空襲で一面の焼け野原になった町がこのような風景になったのです。

6番目の写真は広瀬川の評定河原橋付近から見た風景です。写真の左の小高い山に伊達政宗のお霊屋の瑞鳳殿があります。それで瑞鳳殿の下の町を「霊屋(おたまや)下」という地名になっています。この霊屋下には友人達が幾人か住んでいたのでしょっちゅう遊びに行った場所でした。

7番目の写真は伊達政宗のお霊屋の瑞鳳殿のある経ヶ峰の広瀬川に面した断崖の風景です。この写真の右手に家内が若い時に少しの間住んでいた公務員住宅があります。父親が東北大学で働いていたので一緒に少しの間住んでいました。この時見合いをして結婚した思い出の場所です。妻は鎌倉生まれ東京育ちですが偶然にもこの場所に住んでいたの結婚したのです。不思議な縁です。

さて皆様の生まれ故郷はどこでしょうか?遠方にある故郷は懐かしいものですね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

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