国宝の金閣寺は1950年(昭和25年)7月2日に放火されて完全に焼失しました。放火したのは金閣寺の見習い僧侶で大谷大学学生の林承賢でした。この林承賢の世話をしていたのが住職の慈海さんでした。
昨夜のNHK、BSテレビでは金閣寺炎上事件を詳しく伝えていました。ご覧になった方も多いと存じます。
まず再建された現在の金閣の写真と昭和25年以前の写真を示します。
1番目の写真は現在の国宝、金閣寺です。
2番目の写真は昭和25年以前の焼失前の金閣寺の写真です。
昨日の金閣寺炎上に関する番組では三島由紀夫と水上勉の金閣寺炎上を題材にした作品を紹介し、関連した人々について詳しいことを伝えていました。流石にNHKらしく取材も行き届いて内容の深い番組でした。とくに放火した林承賢とその母親の不幸な人生の描き方も過不足無く分かり易かったです。しかし私が一番感銘を受けたのは慈海住職の心温まる人柄でした。
そこで今日は慈海住職だけのことを書きます。
3番目の写真は金閣寺の焼け跡に呆然と立つ慈海住職です。
慈海住職がどんなに暖かいのか箇条書きにします。
1)放火犯、林承賢のことは一切非難しません。記者にクドクド聞かれても、「私の不徳です」と答えるだけです。弟子の承賢が放火したのですから師匠の不徳が100%原因と信じ込んでいるのです。自分は悪いが承賢は悪くないと
ないと思っているのです。
2)懲役7年になった承賢は恩赦で5年で出て来ます。そして間もなく病死します。事件直後に京都に馳せ参じた母親も帰りの汽車から投身自殺します。
慈海さんは哀れに思い2人に美しい戒名をつけ位牌を金閣寺に祀って供養しました。
3)慈海さんは刑務所にいた承賢へ本や食べ物を5年間差し入れたのです。
4)焼失した金閣寺を再建するため慈海さんは単身、托鉢に打ち込みます。同情した人々が寄付をします。やがて財界も動き出します。こうして5年後に金閣寺は見事再建されたのです。慈海さんは徒手空拳でした。
結論です。慈海さんは心優しい本物の仏教徒だったのです。
しかし慈海さんは人間です。全能ではありません。吃音で内向的で病的な承賢の心の闇を見抜けなかったです。放火しようとしている心の葛藤が見えなっかのです。
金閣寺炎上にはいろいろな悲劇が重なっていたのです。とても考えさせる番組でした。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)