後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日の小金井公園の桜、満開ですが散り始めた木々も」

2021年03月29日 | 写真
青空の下の櫻花は美しいものです。今日の小金井公園の桜はまだ満開ですが散り始めた木々もあります。季節は移ろいやすく淋しく感じました。先程撮って来た写真をお送り致します。









「中国の覇権主義と欧米列強の租界への中国人の怨念」

2021年03月29日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は現在の中国の覇権主義と欧米列強の租界への中国人の怨念の関係を考えたいと思います。租界とは1840年の清国と英国の阿片(アヘン)戦争による清国の敗北後、欧米列強が中国の上海などの都会に作った治外法権の植民地のような区域です。その公園には、「犬とシナ人は入るべからず」という看板が掲げてありました。酷い差別が横行していたのです。
さて始めに4枚の上海の風景写真を見ましょう。始めの2枚は1920年代の租界のあった上海の風景です。イギリスの租界があったのでロンドンのような風景です。そして続く2枚は経済発展後の現在の上海の風景です。植民地のような上海の面影を一新しています。







イギリスは、インドで製造したアヘンを、清に輸出して巨額の利益を得ていました。ところがアヘン販売を禁止していた清は、アヘンの蔓延に対してその全面禁輸を断行し、イギリス商人の保有するアヘンを没収・処分してしまいます。反発したイギリスとの間でアヘン戦争となったのは当然です。このアヘン戦争はイギリスの勝利に終わり1842年に南京条約が締結されます。イギリスへの香港の割譲の他、清にとって不平等条約でした。

5番目の写真はイギリス海軍軍艦に吹き飛ばされる清軍のジャンク兵船を描いた絵です。
このアヘン戦争以後に欧米列強は中国の各地に租界を作ったのです。これで清国は欧米列強の呵責無い簒奪を受けるようになったのです。
租界とは、清国内の治外法権の外国人居留地です。阿片戦争後の1840年代以降に中国大陸各地の条約港に設けられたもので、列強各国が行政自治権や治外法権を持っていました。
大きな租界では工部局と称する自治行政組織が住民から住民税や営業税などの租税を徴収して宗主国へ上納していました。

中国のあった租界の一覧を示します。

欧州各国の租界;
イギリス - 上海(のちにアメリカ租界と合併して上海共同租界)、天津、漢口、広州(沙面島)、鎮江、九江、廈門
フランス - 上海、天津、漢口、広州(沙面島)
ドイツ - 天津、漢口
オーストリア=ハンガリー - 天津
イタリア - 天津
ロシア - 天津、漢口
ベルギー - 天津

日本の租界;
上海(公式には上海共同租界の一部)、天津、漢口、杭州、蘇州、重慶、沙市

アメリカの租界;
アメリカ - 上海(のちにイギリス租界と合併して上海共同租界)、天津

(出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E7%A7%9F%E7%95%8C です。)

日本は中国各地に租界を持っていましたが、日中戦争と太平洋戦争の武力占領により欧米列強の租界を全て解消したのです。その歴史をかいつまんで説明します。

日本の租界接収と租界の終焉;
蒋介石による北伐が開始されると、従来の権益を失うことを恐れた日本は上海租界などに対する干渉を繰り返しました。そして1931年の満州事変と翌1932年の上海事変の後に1937年にはついに中華民国との全面戦争に突入したのです。日中戦争です。
中華民国は上海を爆撃し多くの市民を殺傷するなどしましたが、緒戦の奮戦も空しく南京、武漢を相次いで失い、上海より長江を2000キロも遡った重慶に立て籠もりました。租界都市上海は日本軍の占領地になったのです。
そして1941年12月に太平洋戦争が勃発して、英米の共同租界とフランス租界が日本軍に接収されます。
こうして租界都市上海の歴史が閉じたのです。
しかし、1945年に日本が敗れまもなく国共内戦が勃発し、上海は再び戦禍を被ることとなったのです。
1949年10月1日に中華人民共和国が成立すると、数10万人の外国人資本家や、秘密結社の構成員、文化人・技術者・熟練工などが、香港に渡って行きました。そのため香港がかつての租界都市上海の繁栄を承継したのです。
その後1976年に鄧小平による改革開放政策が始まると、香港に隣接する深圳市に経済特区が建設され、香港は繁栄を謳歌するようになり急成長します。

以上のような中国の屈辱の近代史を顧みると中国の覇権主義の中には欧米列強の租界への中国人の怨念があると理解するのが自然な理解でははいでしょうか。
勿論、現在の中国の覇権主義の原因にはいろいろな国際的事情や経済的理由が含まれます。欧米列強への中国人の怨念だけではありません。
しかしある民族の屈辱の歴史を無視することは正しい歴史認識ではありません。それは危険な歴史観です。それを続けていると戦争が起き一層不幸な事態になるのです。
現在の日本は平和が76年も続いています。しかし正しい歴史認識を常に持つことが重要でないでしょうか。将来の平和を祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)