後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「地酒のロマン・甲州と奥多摩の酒蔵の物語」

2021年03月19日 | 日記・エッセイ・コラム
昔はお酒は貴重で毎日晩酌をする人は少なかったのです。冠婚葬祭のような特別な機会に人々が集まって楽しく飲むものでした。
そして現在のように全国に流通しているお酒はまれで、地元の小さな酒蔵が手塩にかけて醸造していました。
このように全国に流通していないで地元だけで飲まれている日本酒を現在は地酒と呼びます。
「地酒」にはその地方の独特な文化や歴史がつまっています。地酒の蔵元は地方の文化の担い手でした。地酒にはロマンがあります。
少し酔って夢心地になりながらその地方の美しい風景を想像します。その独特な地方史や文化を想像します。

今日はそんな地酒の蔵元を甲州と奥多摩に訪ねてみたいと思います。甲州の七賢という酒蔵と奥多摩の小澤酒造と中村酒造と田村酒造です。
始めは甲州の七賢という地酒を作っている酒蔵です。昔の甲州街道の台ケ原宿にあります。江戸時代から続く小さな酒蔵です。
台ケ原宿は甲府から西へ歩き、韮崎を過ぎ、旧武川村の先にある宿場町です。現在も旧甲州街道にそって江戸時代の宿場を偲ばせる家々が並んでいます。
地方の酒蔵を訪問すると楽しい気分になります。そのせいで私はよくこの七賢を訪れました。地酒の瓶を何度も買いました。
その七賢の向かい側に和菓子の老舗もあります。明治から続く金精軒という店です。信玄餅というお菓子を始めて作ったということです。この店にも必ず寄ります。丁寧に作った和菓子はどれも美味です。2階がギャラリーになっていてその地方に住む人々の作品の展示会を開いています。
以下の写真は数年かけて私達が撮ったものです。

1番目の写真は台ケ原宿の七賢という地酒を作っている酒蔵、山梨銘醸株式会社です。
江戸時代に初代蔵元 中屋伊兵衛が、信州高遠で代々酒造業を営んでいた北原家より分家して作った酒蔵です。白州の水の良さに惚れ込んで、甲州街道台ヶ原の地で酒造業を始めたそうです。

2番目の写真は七賢の母屋の門です。門前に明治天皇の行幸の記念碑が立っています。

3番目の写真は七賢が醸造している地酒です。七賢という酒の他に竹林の七賢人という酒も作っています。

4番目の写真は店にある座敷です。ここに座ってゆっくりいろいろな酒の味を見てから買う酒を決めます。
さて次に奥多摩にある3つの酒蔵を訪ねてみましょう。

5番目の写真は奥多摩の元禄15年創業の小澤酒造の写真です。東京以外にお住みの皆様は「澤乃井」という地酒の名前はご存知ないと思います。「澤乃井」は「沢井村」で出来た酒なのでそう命名したものです。旧沢井村は青梅市の奥の奥多摩街道を登った所にあります。

6番目の写真は小澤酒造の母屋です。母屋は茅葺の江戸時代の家です。現在でも家族が住んでいます。さて次はあきる野市秋川にある中村酒造です。

7番目の写真は秋川の幻の地酒、千代鶴の中村酒造の写真です。

8番目の写真は中村酒造が作っているいろいろなお酒です。

9番目の写真は千代鶴の中村酒造の巨大な杉玉です。小さな酒蔵ですが大きな杉玉があり資料館も公開しています。車を酒蔵の内庭に入れると駐車場があります。
最後は羽村市にある田村酒造です。

10番目の写真は田村酒造です。この酒蔵は文政5年創業です。多摩川の伏流水を用いて「嘉泉」という地酒を作っています。
代々、福生村の名主だった田村家の九代目の勘次郎(賢真)が文政5年(1822年)の46歳の時に酒造業を興したのです。
当時の江戸は華やかな文化文政期を迎え、急速に酒の需要も増えます。主流だった上方(関西)で生産する“下り酒”に代わるものとして幕府は“江戸地廻り酒”の生産を奨励しました。そこで田村家は酒造業を興したのです。敷地内の井戸に、酒造りに好適な中硬水の秩父奥多摩伏流水を得た喜びから“嘉泉“と酒銘を定めたのです。

私は地酒を大切にしています。全国に流通している松竹梅や剣菱や高清水や八海山などには洗練された美味しさがありますが、地酒には独特な味があって魅力があります。時には野生の風味が強すぎて困ることもありますが、それがまた魅力なのです。酒談義をしていると長くなるのでこの辺で終わりにします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山壮人)