2018年03月27日 に「日本人と欧米人の違い、心に思う光景の違い」という記事を掲載しました。
その記事で欧米人が心に抱く「宗教的な光景」を三つ選んで説明しました。
その三つとは次のようなものです。
(1)棕櫚の葉を振った多くの人々に歓迎されて、イエスがエルサレムに入城する場面。
(2)人々の歓迎にもかかわらず、イエスは捕まってローマ総督のピラトの裁判にかけられ、十字架上で死ぬ場面。
(3)墓に葬られたイエスが生き返って、墓からイエスの遺骸が消えて無くなる場面。
今日はその補足として生き返ったイエスの胸の傷跡にトマスが手を入れてイエスが本当に生き返ったことを確認している場面を追加したいと思います。

1番目の写真の絵画がその場面です。この写真の出典は、http://lifepeace365.blogspot.jp/2011/04/blog-post_29.html です。
欧米人はこのような光景を子供の頃から見て育つのです。キリスト教を信じなくても欧米人はこの残酷な光景を記憶しています。
この絵画の描かれた経緯はヨハネによる福音書の20・19~31に書いてあります。
この福音書は世界中のカトリック教会で今日のミサで朗読されるのです。カトリックのミサは国が違っても世界中、みんな同じなのです。
福音書は理解し難いので、まず最初に2つの部分に分けて説明します。
(1)イエスが生き返って弟子達の前に現れた時、トマスは居なかったのです。その話を聞いたトマスはイエスが生き返ったことを信じなかったのです。
十字架上でローマの兵士に突かれた槍先の傷跡に自分の手をいれてみなければトマスは絶対に信じないと言い放つのです。
(2)8日後にイエスがトマスも含めた弟子達の前に再び現れて、トマスに語りかけるのです。槍先の傷跡に手を入れたトマスはやっとイエスの復活を信じたのです。
この経緯をヨハネによる福音書の20・19~31は以下のように書いています。
・・・その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
以上の部分で一番重要なところは、イエスがトマスに言われた言葉です。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
現代の世界中のカトリック信者達は生きているイエスには会えません。それでも信じています。見ないで信じているのです。
疑いながらも信じているのです。イエスは「私に会えなくても信じよ」と言っているのです。
これこそが今日のミサの趣旨なのです。
キリスト教が日本人に理解されない原因はこの辺にもあるのでしょう。
しかし翻って仏教のことを考えてみましょう。お釈迦様は遥か2500年も前の方です
遠方のインドの方です。
しかし多くの日本人はお釈迦さまの教えを信じています。
「見なくても信じる」のはどんな宗教にも共通する重要なことではないでしょうか?
皆様の平安をお祈りします。
その記事で欧米人が心に抱く「宗教的な光景」を三つ選んで説明しました。
その三つとは次のようなものです。
(1)棕櫚の葉を振った多くの人々に歓迎されて、イエスがエルサレムに入城する場面。
(2)人々の歓迎にもかかわらず、イエスは捕まってローマ総督のピラトの裁判にかけられ、十字架上で死ぬ場面。
(3)墓に葬られたイエスが生き返って、墓からイエスの遺骸が消えて無くなる場面。
今日はその補足として生き返ったイエスの胸の傷跡にトマスが手を入れてイエスが本当に生き返ったことを確認している場面を追加したいと思います。

1番目の写真の絵画がその場面です。この写真の出典は、http://lifepeace365.blogspot.jp/2011/04/blog-post_29.html です。
欧米人はこのような光景を子供の頃から見て育つのです。キリスト教を信じなくても欧米人はこの残酷な光景を記憶しています。
この絵画の描かれた経緯はヨハネによる福音書の20・19~31に書いてあります。
この福音書は世界中のカトリック教会で今日のミサで朗読されるのです。カトリックのミサは国が違っても世界中、みんな同じなのです。
福音書は理解し難いので、まず最初に2つの部分に分けて説明します。
(1)イエスが生き返って弟子達の前に現れた時、トマスは居なかったのです。その話を聞いたトマスはイエスが生き返ったことを信じなかったのです。
十字架上でローマの兵士に突かれた槍先の傷跡に自分の手をいれてみなければトマスは絶対に信じないと言い放つのです。
(2)8日後にイエスがトマスも含めた弟子達の前に再び現れて、トマスに語りかけるのです。槍先の傷跡に手を入れたトマスはやっとイエスの復活を信じたのです。
この経緯をヨハネによる福音書の20・19~31は以下のように書いています。
・・・その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
以上の部分で一番重要なところは、イエスがトマスに言われた言葉です。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
現代の世界中のカトリック信者達は生きているイエスには会えません。それでも信じています。見ないで信じているのです。
疑いながらも信じているのです。イエスは「私に会えなくても信じよ」と言っているのです。
これこそが今日のミサの趣旨なのです。
キリスト教が日本人に理解されない原因はこの辺にもあるのでしょう。
しかし翻って仏教のことを考えてみましょう。お釈迦様は遥か2500年も前の方です
遠方のインドの方です。
しかし多くの日本人はお釈迦さまの教えを信じています。
「見なくても信じる」のはどんな宗教にも共通する重要なことではないでしょうか?
皆様の平安をお祈りします。