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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本人と欧米人の違い、心に思う光景の違い、補足

2018年04月08日 | 日記・エッセイ・コラム
2018年03月27日 に「日本人と欧米人の違い、心に思う光景の違い」という記事を掲載しました。
その記事で欧米人が心に抱く「宗教的な光景」を三つ選んで説明しました。
その三つとは次のようなものです。
(1)棕櫚の葉を振った多くの人々に歓迎されて、イエスがエルサレムに入城する場面。
(2)人々の歓迎にもかかわらず、イエスは捕まってローマ総督のピラトの裁判にかけられ、十字架上で死ぬ場面。
(3)墓に葬られたイエスが生き返って、墓からイエスの遺骸が消えて無くなる場面。
今日はその補足として生き返ったイエスの胸の傷跡にトマスが手を入れてイエスが本当に生き返ったことを確認している場面を追加したいと思います。

1番目の写真の絵画がその場面です。この写真の出典は、http://lifepeace365.blogspot.jp/2011/04/blog-post_29.html  です。
欧米人はこのような光景を子供の頃から見て育つのです。キリスト教を信じなくても欧米人はこの残酷な光景を記憶しています。
この絵画の描かれた経緯はヨハネによる福音書の20・19~31に書いてあります。
この福音書は世界中のカトリック教会で今日のミサで朗読されるのです。カトリックのミサは国が違っても世界中、みんな同じなのです。
福音書は理解し難いので、まず最初に2つの部分に分けて説明します。
(1)イエスが生き返って弟子達の前に現れた時、トマスは居なかったのです。その話を聞いたトマスはイエスが生き返ったことを信じなかったのです。
十字架上でローマの兵士に突かれた槍先の傷跡に自分の手をいれてみなければトマスは絶対に信じないと言い放つのです。
(2)8日後にイエスがトマスも含めた弟子達の前に再び現れて、トマスに語りかけるのです。槍先の傷跡に手を入れたトマスはやっとイエスの復活を信じたのです。

この経緯をヨハネによる福音書の20・19~31は以下のように書いています。
・・・その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

以上の部分で一番重要なところは、イエスがトマスに言われた言葉です。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
現代の世界中のカトリック信者達は生きているイエスには会えません。それでも信じています。見ないで信じているのです。
疑いながらも信じているのです。イエスは「私に会えなくても信じよ」と言っているのです。
これこそが今日のミサの趣旨なのです。

キリスト教が日本人に理解されない原因はこの辺にもあるのでしょう。
しかし翻って仏教のことを考えてみましょう。お釈迦様は遥か2500年も前の方です
遠方のインドの方です。
しかし多くの日本人はお釈迦さまの教えを信じています。
「見なくても信じる」のはどんな宗教にも共通する重要なことではないでしょうか?

皆様の平安をお祈りします。

遥かな隠れキリシタンの里、五島列島への旅の思い出

2018年04月08日 | 日記・エッセイ・コラム
五島列島は本当に遠い離れ島です。遥かに憧れて数十年、やっと2015年の4月10日から2泊3日の旅で訪れることが出来ました。長崎の活水大学の教授だった片岡弥吉氏のキリシタンに関する数々の本や遠藤周作氏の「沈黙」などのカトリック関連の著書を読んで以来一度は訪れるべき場所として長らく心に決めて憧れていました。
その2015年の春の五島列島への旅を懐かしく思い出しています。
五島列島には50余のカトリック教会があります。その大部分は明治6年キリシタン禁教が廃止された後の明治、大正、昭和の時代に造られたものです。建築の設計から施工を担当したのは鉄川与助という大工の棟梁でした。そのお孫さんが「おじいちゃんがつくった教会」(http://www1.odn.ne.jp/tetsukawa/)という資料をネットに掲載しています。

今日は日曜日でミサに行きますので、その遥かな五島列島への旅の思い出を書いてみます。
長崎から小さい旅客機で下五島の福江に渡り、そこに一泊しました。2日目は海上タクシーで上五島に渡りそこに泊まりました。
3日間、観光バスで五島列島の険しい山々を越えて岬と岬の間にある小さな集落を幾つも巡り5つのカトリック教会を訪ねました。五島列島には全部で50ケ所のカトリック教会がありますので、訪問したところはそのほんの一部にすぎません。
そして五島列島という大きな島を巡りいろいろな問題を考えました。
ここには古い日本の文化が残っています。しかし過疎化や経済の低迷など現代の問題も抱えているのです。
そしてこの島は遣唐使以来、中国大陸への航海の最後の寄港地として弘法大師の空海や伝教大師の最澄が風待ちで長く逗留した場所でもあります。仏教も盛んな土地です。立派な神社もあります。
その上、山上憶良のこの地にまつわる歌もあるのです。従って五島列島は万葉集時代から文化交流の十字路として重要な島だったのです。キリシタン信仰はずっと後になって江戸時代から入ってきたのです。
この五島列島の3日間で感じた特徴ある歴史や現在の社会問題などについてか「遥かな五島列島への旅」と題する連載として2015年の4月に何度か掲載しました。
今日は今回訪れた5つの教会の写真だけをお送り致します。

1番目と2番目の写真は井持浦天主堂です。



3番目と4番目の写真は堂崎天主堂です。



5番目と6番目の写真は青砂ケ浦天主堂です。



7番目と8番目の写真は頭ケ島天主堂です。



9番目と10番目の写真は中ノ浦天主堂です。



そして11番目の写真はキリシタンが隠れていて、後に逮捕、処刑されたキリシタン洞窟、ハリノメンドの写真です。現在でも毎年供養の儀式が長崎大司教区がとりおこなっています。

現在、五島列島は福江のある下五島を五島市といい上五島は上五島町という2つの自治体になっていて上五島と下五島の人口の総数は約7万人です。
下五島のカトリック信者は人口の約10%で、上五島は25%位と言われています。
たった7万人の住民にたいして50もの教会が存在するのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)