後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

北欧の深い森にいるサンタクロースが北海道にやって来た!

2017年12月18日 | 日記・エッセイ・コラム
サンタクロースはクリスマスの夜に煙突から入って来て子供達へのプレゼントを靴下の中に入れてくれます。
25日の朝に子供達は大喜びします。トナカイの橇に乗り、鈴を鳴らしながら子供達へ楽しい贈り物をしてくれるのです。
キリスト教の国々ではサンタクロースの思い出は人々の一生の宝です。
サンタクロースは一瞬にして世界中の子供のいる家々へ贈り物を届ける神業をします。そしてトナカイの橇に乗って来るので常日頃はフィンランドやノルウエイやスウェーデンの深い深い森に住んでいると信じられています。
皆様はサンタクロースの思い出をお持ちでしょうか? 戦争中に幼少期を過ごした私にはその思い出はありません。しかしサンタクロースの話を聞くたびに楽しくなります。幸せな気分になります。
そこで今日は北海道にあるサンタクロースの住む土地をご紹介したいと思います。
北欧の森に住むサンタクロースが住む土地を北海道に作った町があるのです。帯広の南の太平洋岸にある広尾町です。
サンタクロースの住む土地なので広尾町は「サンタランド」という名前もつけました。
そうしてその土地に本当にサンタクロースが住んでいることをノルウェーの首都オスロ市に正式に認定して貰ったのです。
オスロ市はノルウェー・サンタランドとして世界中の子供たちから届くサンタクロースあての手紙に対し、返事のクリスマスカードを送っているのです。
広尾町はサンタの故郷と称するノルウェーが初めて認めた国外の、そして日本で唯一のサンタの住む土地になったのです。それは1985年のことでした。
それ以来「広尾サンタランド」は平和のシンボルであるクリスマスツリーを全国各地に贈り、平和の灯をともすリレー点灯式をはじめ「サンタメール事業」も行ってきました。そして現在も広尾サンタランドから子供達へクリスマスカードを送っているのです。
全国からの申し込みに応じてクリスマスカードを届けて来たのですが、その総数は30年間で208万通にもなっているそうです。残念ながら今年の申し込み期日は終わっていますが。詳しくは、http://www.santaland.or.jp/welcome/youkoso.html をご覧下さい。
それでは写真に広尾町のサンタランドの今年のイルミネーションを示します。









さてサンタクロースはキリスト教から生まれた楽しい伝承です。そこでサンタクロースとキリスト教の関係を簡略に説明します。
サンタクロースは4世紀頃の東ローマ帝国の小アジアのミラの司教の聖ニコラウスが起源になっているのです。「ニコラウス」の名はイタリア語、スペイン語、フランス語ではサン・ニコラと言います。ロシア語ではニコライです
皆様は東京にあるニコライ堂をご存知だと思いますが、その名は小アジアの司教の聖ニコラウスから来ているのです。
聖ニコラウス神父は、ある時貧しさのあまり三人の娘を身売りしなければならなくなった家族の存在を知ります。
そこでニコラウス神父は真夜中にその家を訪れ、窓から金貨を投げ入れたのです。このとき暖炉には靴下が下げられていており、金貨はその靴下の中に入ったというのです。
この話が由来となり、「夜中に家に入って、靴下の中にプレゼントを入れる」というサンタクロースの伝承が生まれたのです。
そして煙突から入ることになったのは1822年にアメリカの学者クレメント・クラーク・ムーアがフィンランドの言い伝えを伝承した「聖ニクラウスの訪(おとな)い」という次の詩を書いたためです。
    キラ星のなか、
    屋根から聞こえるのは
    小さいトナカイの蹄の立てる爪音
    煙突の下を振り向いて見ると
    聖なるニコラウス煙突からどすん。
    (意味の分かるように一部補足しました)
以上がサンタクロースの伝承が生れた経緯です。
それにしてもサンタクロースの住む土地が北海道にあるというのは驚きです。この事は一昨日のミサを司式したイエズス会の竹内神父さまの説教から知りました。
昨年の今頃、竹内神父さまが広尾町に招待されて、キリスト教とサンタクロースの関係の講演をして来たそうです。
驚いたことに広尾町には十字架やキリスト教の飾りものが一切無いそうです。しかし竹内神父は一切無いのも良いといいます。キリスト教信者は目に見えないイエスさまや神様の愛を信じているのですから広尾町に何も無いのも良いとおっしゃっていました。
貴方は子供達へサンタクロースからの贈り物と言ってプレゼントを上げたことがあるでしょうか?
その経験のあるなしに拘わらずサンタクロースの話は夢があって楽しいものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

老境を幸せに暮らす3つの鉄則

2017年12月18日 | 日記・エッセイ・コラム
幸せとは人それぞれですから、今日は私が幸せに暮らすために自分へ課して鉄則です。
皆様はまた違う方法で老境を楽しく過ごしていると思います。
それでも少しは参考になるのではと思いますので、ご紹介したいと存じます。
(1)過去の悲しい思い出は忘れ楽しかった思い出だけを考えて暮らす。
私も悲しい思い出は沢山ありましたが、一切忘れることにしています。例えば悲しかったことの実例をここで書き出しますとまた思い出しますからここでは一切書きません。
それとは反対に楽しかったことはいとも簡単に書き出せます。
例えば家内と結婚した頃のことは全て楽しい思い出です。当時は家内も若く心も初々しかったのです。オハイオ州のコロンバス市へ許嫁を日本から呼んで結婚したのです。新婚時代をそこで過ごしいろいろな事がありましたが全て楽しい思い出です。
それから2人の子供を育て上げる経験も楽しい思い出になりました。そして孫達の保育園への送り迎えも楽しい思い出でした。
こんなことだけを考えていると毎日が幸せに暮らせます。
しかし絶対に忘れないようにしている大きな悲しみが唯一つあります。それは戦争中の惨禍や戦後の食糧難の時代の苦しみや悲しみです。これだけは忘れないで若い日本人へ伝えるべきと思いっています。
(2)親親類や恩人や友人の助けに感謝してその顔を思い出して暮らす。
昔の日本では両親はもとより親類のおじさんやおばさんに随分と可愛がられお世話になったものです。親類付き合いが現在より濃かったのです。お世話になった人の顔々を鮮明に思い出して感謝しています。
そして学校の先生方や同級生にも非常にお世話になりました。その一人一人の顔や声を思い出していると毎日が楽しく過ごせるのです。
特筆すべき思い出はオハイオで結婚するときに受けたアメリカ人達の好意と助けです。
当時は1961年でしたので、外貨の無い日本からは家族や友人がオハイオへは行けなかったのです。
結婚式の段取りや全ての準備はアメリカ人と現地に居た日本人がしてくれたのです。
特にアメリカ人達の助けには頭が下がりました。嗚呼、人間の好意には国境が無いと確信したのです。
その経験は私の国境というものへの考え方を変えたのです。そして「人類愛」は存在すか否かを考えるようになったのです。
話は飛びますが、世界には「国境なき医師団」という名前の団体があります。戦争や災害があると国境に関係無く飛び込んで治療をする医者の組織なのです。この名前を時々思い出しては幸せな気分になります。
(3)政治のことや外国のことの悪い側面を見ないで良い部分のみを見る。
この実例は簡単です。例えば安倍総理の悪口を書くのは簡単です。政治家は叩けば埃が出るものなのです。そのような職業なのです。
ですから安倍総理の加計学園問題や森友学園問題の黒い霧を書き出せばだれでも長文の非難記事が書けます。しかし私はなるべく控えるようにしています。
その代わり安倍総理の良い点を書きます。まず安定した政権運営は立派ものです。日本人の戦後の屈辱を晴らして自尊心を取り戻させました。独立国とは何かとい問題提起をしています。
これらは総理大臣として立派なリーダーシップです。
もう一つ書かせて下さい。よく韓国や中国の悪口を沢山書く人が多いようです。しかし私は書きません。書く前に日本の過去の朝鮮合併や満州国の建国の歴史を考えます。
すると韓国や中国の悪口が書けなくなります。
全ての外国のことの悪い側面を見ないで良い部分のみを見ることにしています。それは自分が幸せに暮らすためにしていることで、外国の為にしているのではありません。

今日の挿し絵代わりの写真深く感謝している家内が好きなマチスの絵画です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)