平安時代に源義国が現在の足利市付近を領有することになりその子、義康以降の代々は足利を名乗るようになった。足利義康の子の義兼が源頼朝の挙兵に従って大活躍し鎌倉幕府の有力なご家人になった。この義兼が鑁阿寺の始めになる持仏堂を建てた。足利氏初代の足利義康が現在の足利市に館を作ったのかもしれないが、少なくとも2代目の義兼の頃には現在の鑁阿寺(ばんなじ)の堀の内側に広大な館があったと想定される。
しかし足利一族が実際に足利市付近に住んでいた事実はなかったようで土地の人々は足利一族へ親近感を持っていないことが伺われます。街には足利尊氏を称揚する看板や幟が一切なく、唯一、地味な銅像がひっそり建っていました。明治維新以後、朝敵とか逆賊とかいう汚名を与えられたお陰です。
武田信玄を自慢して信玄祭りを大々的にしている甲府市や明智光秀を英雄として尊敬している明智村などとは全く違う様子です。足利市の人々の気持ちは足利市観光案内人のKMさんが詳しく話してくれました。
結論を言えば、足利尊氏と足利市の人々とは関係がありません。しかし人々は足利学校のことを自慢にも思い、誇りにしています。「学校様」とよんで尊敬しています。
人間の歴史にたいする気持ちは現地へ行ってみないと分からないものです。(終わり)
以下にWikipedeaより鑁阿寺と足利尊氏の系図を付録として掲載します。
==========鑁阿寺(ばんなじ)とは?============
寺号は詳しくは「金剛山 仁王院 法華坊鑁阿寺(こんごうさん におういん ほっけぼう ばんなじ)」と称する。足利氏の氏寺。本尊は大日如来。
足利氏2代目の義兼が1196年、自らの館内に持仏堂を建てたのが始まりという。続いて3代目の義氏が館全体の敷地に堂塔伽藍を建て、足利氏一門の氏寺としたのが鑁阿寺である。
鑁阿寺はもともとは足利氏の館(やかた)であり、現在でも、四方に門を設け、寺の境内の周りには土塁と堀がめぐっており、鎌倉時代前後の武士の館の面影が残されている。
足利氏館として2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(15番)に選定された。
========室町幕府を開いた足利尊氏は足利氏8代目の子孫======
平安時代に河内源氏、源義家(八幡太郎義家)の三男・源義国(足利式部大夫)は下野国足利荘(栃木県足利市)を領有、次男・源義康以降の子孫は足利氏を称する。
義国の次男・源義康(足利義康)は鳥羽上皇の北面の武士となり、保元の乱においても平清盛、源義朝と共に戦う。その子足利義兼は治承4年(1180年)の源頼朝挙兵に参加して、治承・寿永の乱、奥州合戦などに参加し、鎌倉幕府の有力御家人としての地位を得、源氏将軍家の一門的地位にあった。 足利義氏以降のことと思われるが、上総・三河の守護職を務める。第7代当主・足利貞氏は長男・足利高義をもうけたが、高義は早世したため足利尊氏(高氏)が足利氏第8代当主を継いだ。尊氏は正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の挙兵に応じて鎌倉幕府を倒す功績を挙げた。尊氏は後醍醐天皇の建武の新政から離反した後、光明天皇から征夷大将軍に任じられ、京都に室町幕府を開いた。しかしその後は南北朝の動乱の中で室町幕府は常に存亡の危機に立たされたが、そのたび乗り越え、尊氏の孫で第3代将軍・足利義満の時代になって南北朝合一を達成することとなる。
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下に示した写真は堀に囲まれていた足利家の館跡の堀の様子で、この中が現在の鑁阿寺(ばんなじ)の境内になっています。堀の向こうに境内の横に通じる屋根付きの橋が見えます。