このブログのメイン・テーマは「外国体験のいろいろ」のシリーズ記事です。(1)から(61)まで掲載済です。外国に住んでみたり、外国人と一緒に仕事をしてみて理解したことは「文化は翻訳不可能だ!」という事実でした。そこで外国で体験したことをいろいろ書いて、外国の文化の深部を感じとって頂きたいと思った訳です。
例えば、アメリカのアーミッシュという原始キリスト教の人々の文化を言葉で伝えるとします。「電気ガス水道、電化製品、自動車など近代文明を一切拒否して生活している村の人々です」と説明します。ご理解できますか?
でもその村の夜はどのような感じで、昼間人々に会ったときはどのような態度をとるのか、生活費はどうしているか? など体験の切れ切れを説明して、やっと少しその文化の性質が伝わるのではないでしょうか?
明治維新以来、日本人は欧米の文化に憧れて、それを輸入しようとして来ました。しかし現地に住んで、体験しないと理解できない文化領域があります。それを見落としすぎてはいないでしょうか? この問題は明治維新以後、続いて来ました。今後も起きるでしょう。
それに対して、ささやかながら警鐘を鳴らしたい。そんな気持ちを低音基調にしてこのブログを書いています。
それなのに、軽率にも「自動翻訳」に飛びつくとは、穴があったら入りたくなります。
こういうのを自己矛盾というのです。それで一番初めに謝罪の文章を掲載したのです。
さて我々日本人が外国語を勉強するとき何を考えながら勉強したのでしょうか?
英語やフランス語、そしてロシア語を習うときはイギリス文化、フランス文化、そしてロシアの文学を少しでも理解して、それを自分の教養として身に着けようという目的を持っていました。イギリス、フランス、ロシアの文化に憧れ、ロマンを感じて辞書を根気よく引いたものでした。過去形で書いたのは昔の日本の学校教育ではそうだったということを強調したいからです。従って大学への受験英語もその延長にあり、実用的な会話能力は範囲外でした。
日本の昔の学校での外国語教育は実用目的を度外視して教養としての外国語を教えていたのです。
そしてこれが日本の固有の文化の特徴の一つですが、「言葉は単なる道具ではない。全ての言葉には精霊や文化がまとわりついている」という暗黙の了解があります。
そのような性質を持っている日本語を欧米語へ自動翻訳してしまえば誤訳が起きるだけでなく、日本の文化が誤解されてしまいます。誤った理解を与えてしまうわけです。
ブログの内容は色々でが、商業活動と文化活動(日記・グルメ情報を含んで)の2つに大別されます。後者の場合は、自動翻訳による文化破壊の危険性を考慮に入れて、慎重に使用した方が良いと思います。(続く)