阪口直人の「心にかける橋」

衆議院議員としての政治活動や、専門分野の平和構築活動、また、趣味や日常生活についてもメッセージを発信します。

建設的な批判精神で多様性を守ることで日本は強くなる-後藤健二さんを巡る世相に思う

2015年01月27日 21時16分00秒 | 政治

「私はあなたの意見に何一つ賛成できないが、あなたがそれを言う権利は命がけで守るつもりだ」

 これは18世紀のフランスの哲学者・作家であるヴォルテールの言葉とされています。言論の自由は民主主義におけるもっとも基本的な権利。米国の第二代大統領トマス・ジェファーソンは人類が将来において獲得すべき4つの自由として、「言論表現の自由」 「欠乏からの自由」 「信教の自由」 「恐怖からの自由」を挙げ、人民の意志こそがどのような政府にとっても基礎的な基盤であり、表現の自由を守ることが私たちの一番の目的と知るべきだ。 と言っています。私たちは同時に言論自身がもたらす恐怖からの自由も有しています。双方の自由を尊重することは成熟した民主主義社会を成立させる上で重要な要素だと思います。

 さて、今回イスラム国で人質になった方々について、一部では『自己責任』と切り捨てる論調があること、残念に思います。私自身も国連統治下で内戦状態になっていたカンボジアや、米国の対テロ戦争への憎悪が渦巻くパキスタンとアフガニスタンの国境の部族支配地域などで平和構築活動に従事した経験がありますが、当然危険のリスクはあり、何かが起こった時は全て自分の責任だと思って活動をしていました。後藤健二さん自身も、現地に赴く前、カメラの前でそのように述べています。危険な場所には政府としても入って欲しくはない。しかし、『人道援助』を行う際にも、現場の声、弱い立場の人々の声なき声を受け止める人は絶対に必要です。政府であるがゆえに生じる制約を補う役割を果たしているのが後藤さんのようなフリージャーナリストであり、NGOで活動する人たちです。彼らの役割の価値を認める社会であって欲しいと願います。

 外務省は国や地域を対象に『危険情報』を提供しています。危険情報それ自体には、国民の渡航・滞在を制限するような強制力はありません。たまたま何かの事件が起こっただけで、数百キロ離れた地域の危険度がついでにアップされることもよくあります。大使館の方々もこの点はジレンマを感じていると思います。そんな時に該当地域に行くと言うと当然いい顔はされませんが、帰ってくると、「で、どうでしたか?」と現地の状況を聞かれるのがいつものことでした。

 今回の事件に関して「安倍政権の対応を批判する」ことが批判の対象になる風潮が生まれているとすれば大きな問題です。イスラム国の場合、相手が政府ではないのですから、日本政府が持つルートは限定的です。単に政府に委ねるのでなく、野党や、それぞれの分野の専門家が建設的批判精神を忘れず、あらゆる角度から分析し、解決を目指すとともに再発するリスクを最小化するための提案をしなければならないはず。全ての批判を許さない雰囲気があるとすれば、行く末はあの道しかないという危惧を抱きます。

 多様性を受容する社会をつくること、それは日本の可能性を高める上で本当に大きな課題だと思います。

 後藤健二さん、私は直接お話した記憶はないのですが、救出の手掛かりを探す中で共通の知人が沢山いることがわかってきました。その人間性や活動の様子を聞くと、何が何でも帰還してもらって、価値のある仕事を続けて欲しいと切に思います。できれば酒を飲みながら、命の危機と直面した時にどのように自分と向き合ったのか、その拠り所は何だったのか、話を聞きたいと思います。そのためにも、様々な立場、考えの方がそれぞれにできることを見出して、少しずつでも可能性を積み上げていきましょう。



ANFREL(Asian Network for Free Elections)の一員としてイラン国内のアフガニスタン難民キャンプで大統領選挙の監視活動を行った時の写真(2004年)


私の友人による後藤健二さんについての追想-拡散希望

2015年01月24日 22時31分58秒 | 政治

 日本政府の『人道支援』は、特に紛争地に関わることについては、政治的に決定され、ニーズ調査なども官僚的なプロセスで決められることが多いのが現実と感じています。一方、大きな組織に属さないジャーナリストやNGOの方々は社会・経済的リスクのみならず生命のリスクも感じながらも現地の人々のコミュニティーに飛び込み、言葉を覚え、本当のニーズを掴もうと頑張っている。この価値を認める日本社会であって欲しいと思います。


 私の知人で国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のタジキスタン事務所に勤める松下千津さんが、イスラム国に拘束されている後藤健二さんの人柄を伝えるメール(日本文と英文)を送って下さいました。少しでも救出の力になるように、松下さんの了解を得て紹介します。(すでにfacebookでは紹介しています)拡散させて頂ければ幸いです。


 以下、松下さんによる後藤健二さんについての追想(日本語および英語)


 今朝、次のような英語のメッセージを私の勤務先である国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の同僚に向けて送りました。おそらく私と同じようにどこかで健二さんに出会っているであろう同僚たちに、彼のことを思い出して、祈りに参加してもらいたかったからです。

 私が後藤健二さんに初めて会ったのは、当時は本当に小さかったUNHCRのアンマン事務所(ヨルダン)に勤務していた、2002年の秋でした。ある日、事務所代表に呼ばれて彼の部屋に行ってみると、優しい笑顔を浮かべた日本人ジャーナリストが待っていました。当時、アメリカ主導の連合軍がイラクのサダムフセイン政権への軍事攻撃をすることは必須と思われており、そうなると多くの難民が隣国ヨルダンに流出すると思われていたので、健二さんはUNHCR事務所代表に取材に来ていたのでした。その後、数ヶ月の間に大勢押し寄せて来た日本のメディアの方々と違って、UNHCRに来るのに日本人職員のコネ(私)をあてにするでもなく、自信に満ちた笑顔を浮かべた健二さんを前に、年は大して変わらないのにすごいプロフェッショナルだ、と、眩しい思いを持って話をしたことを覚えています。

 その二年後の2004年、健二さんと文字通りばったりと再会したのは、UNHCRルサカ事務所(ザンビア)の廊下でした。彼は、その時佳境にさしかかっていた、アンゴラ人難民の母国への帰還を取材しに来ていたのでした。西部のモングに実際の帰還状況を映像におさめに行き、ルサカに戻ってきた健二さんと夕食を一緒にしました。モングで帰還事業を担当していた日本人女性スタッフの疲労を気遣った話をしてくれたことを、はっきりと覚えています。
その後は、共通の知人を通じて、また最近はソーシャルメディアを通じて彼の活躍を目にしていました。ここ数年は、シリアの紛争とその難民についてレポートしているのを知っていました。でも、彼はけっして、一面記事を求めてむやみに危険をおかすジャーナリストではない。純粋に、難民の人々の苦しみとか、難民の子どもたちの願いとかを、世の中の人に伝えようとするジャーナリストです。シリアへ入ることのリスクも良く知っていたし、万が一の最悪の事態に備えて準備もしていました。

 今、一体自分に何が出来るのだろうかと考えると大変に苦しいですが、少なくとも、メディアで目にしている Kenji Goto、後藤健二という名前のジャーナリストがどんな人なのか、少しでも多くの人に知っていただき、そして私と一緒に祈りに参加していただければ本当に嬉しく思います。

松下千津






Dear colleagues,

Please allow me to send this around, but please also accept my apologies if
any of you are disturbed by this message.

I wished to request that you join my prayer for Mr. Kenji Goto's safe
release from his captivity, not because he is my compatriot, but because he
has been a great supporter of UNHCR and a friend of many thousands
refugees. He is one of the two Japanese hostages held by IS.

I first met him in the room of the UNHCR Representative at then-very small
UNHCR Amman Office in Jordan in the autumn of 2002. The representative
called me to come and meet with the Japanese journalist who came to
interview him about the potential human displacement in case of the
coalition forces' attack in Iraq (that was imminent). Unlike many other
Japanese journalists (of large media companies) who came to Jordan and
entered into Iraq afterwards, he did not need a "connection" of a Japanese
UNHCR staff to get in touch with the Representative. His friendly smile and
confident manner gave me the impression that he is a truly independent,
professional journalist (as his company name suggests – "The Independent
Press").

Two years later, in 2004, I literally bumped into Kenji-san in the corridor
of UNHCR Office in Lusaka, Zambia. He came to report on the voluntary
repatriation of Angolan refugees to their home country. He went to the
field, Mongu, to film the VolRep movement. After his return to Lusaka we
had a dinner. I clearly remember what he said over dinner – he was
concerned about the tired look of another Japanese staff in Mongu, a
Repatriation Officer, who was very busy organising the VolRep movements.

That was my last direct contact with Kenji-san, ten years ago. I only know
of his dedicated reporting career through word of mouths of mutual
acquaintances and the social media more recently. Obviously, he was
reporting a lot on the Syrian refugees over the past years. He is not one
of these reckless journalists who are hungry for risks and for top coverage
events. He genuinely wanted to let people know of human misery, plights of
refugees, and hopes of refugee children. He was absolutely aware of the
risks of entering into Syria and in a way, did all he could to prepare for
the worst.

I am sure that many of my colleagues have met and encountered with
Kenji-san in the past somewhere in the world, as I did.

I kindly ask you to remember him at this moment. And please join me praying
for his safe release, regardless of our religious backgrounds.
Sincerely,

Chizu Matsushita

イスラム国に口実を与えた安倍政権の失態

2015年01月23日 01時47分48秒 | 政治

 昨日に続いてイスラム国による日本人殺害予告事件について書きます。

 『イスラム国』を生み出した最大の構造的要因は、グローバリゼーションが進む中で広がる格差、そして様々な不公正に対する人々の怒りであり、仮にイスラム国を壊滅させても、この構造が変わらない限り同じような勢力が現れるだけだと思います。一方、今回の事件の引き金要因は、イスラム国に口実を与えた外交上の様々な失態だったと思います。

 ひとつは安倍総理のスピーチの英訳に問題があったこと。

 首藤信彦衆議院議員の政策秘書をしていた時、外務省は外国語を都合良く訳して日本の世論をミスリードするので、原文も気をつけて読みなさいと教えられました。今回も英文を読まなきゃと思って探していたら、偶然、三谷英弘前衆議院議員のブログを見つけました。安倍総理のスピーチの英訳に問題があることを、三谷前議員はとても明確に指摘していますので、私もエジプトでのスピーチの原文(日本語)と英訳を丹念に読んでみました。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/me_a/me1/eg/page24_000392.html(日本語)

http://www.mofa.go.jp/me_a/me1/eg/page24e_000067.html(英訳)


 問題は第4章の「日本の約束」の後半部分です。阿部総理のスピーチの全体のタイトルは"The Best Way Is to Go in the Middle" つまり、中庸こそが最善の道とした上で、日本はそこに果たすべき大きな役割があると訴えています。アベノミクスで格差を作り出す張本人の安倍総理が言うには首をかしげる内容になっていますが、その直前では、このように言っています。

 イラク、シリアの難民・避難民支援、トルコ、レバノンへの支援をするのは、ISILがもたらす脅威を少しでも食い止めるためです。地道な人材開発、インフラ整備を含め、ISILと闘う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援をお約束します。

 ところが、この部分は英語では下記のようになります。

 We are also going to support Turkey and Lebanon. All that, we shall do to help curb the threat ISIL poses. I will pledge assistance of a total of about 200 million U.S. dollars for those countries contending with ISIL, to help build their human capacities, infrastructure, and so on.

 これを今度は日本語に訳せば「トルコとレバノンにも支援を行います。ISILの脅威を食い止めるためです。ISILと対決している国々には人的能力やインフラ開発のために2億ドルを供与します」との解釈ができます。もともとの日本語とは異なり、人道支援目的であることが後退し、ISILと闘う国を支援すると解釈され得る内容になっています。

 一方で、日本とイスラエルとの関係についても配慮が足りません。この写真のようなセッティングの中でスピーチをすることが、それ自体、イスラエルと敵対する国々を挑発しているかのような誤ったメッセージを与えることになってしまいます。

 負けに不思議の負けなしとは、名将・野村克也監督の言葉。何も起こらなければ見逃されていたと思いますが、構造的要因に加え、後藤健二さんの家族がまさに身代金を要求されている時に、このようなメッセージを発信してしまうとはイスラム国に口実を与える大きな失態だったと言わざるを得ません。

 テロリストには屈しない姿勢と人命優先。両方を追い求める中、限られた時間の中でどのように交渉すべきなのでしょうか? 

 身代金を払ってテロリストの力を強めることは断じて許されません。しかしギリギリの選択肢としては、あらゆるルートを通してイスラム国の中にいる、もっとも弱い立場の人たちを対象に人道援助を約束することではないでしょうか。北朝鮮への対応と似て本当の交渉相手がわからない、本当に支援が届いたかどうか確認できないなどの難しさがあります。しかし、有効な対応を講じることもなく人質が殺されていくのを座視することはできません。リミットとされる数時間後までに少なくとも交渉に入り、人命優先の立場で最後まで解決の可能性を探るのが政府の使命です。

 自分自身が国会にいれば、先頭に立って政府に問題提起をするのですが、自分の力不足が口惜しいです。でも、議員であろうとなかろうと、自分にできることを見出して微力を尽くしたいと思います。



 


『イスラム国』による日本人殺害予告事件-紛争地での活動とリスクについて自分自身の経験から

2015年01月21日 16時35分30秒 | 政治

 『イスラム国』による日本人人質殺害予告事件が発生しました。国際社会への責任として、断じてテロに屈する姿勢を見せることはできません。一方、人命尊重は最優先すべきことであり、日本政府は極めて難しい立場に立たされています。

 私自身も武装集団に銃撃され、その場で射殺されるか拘束されることを覚悟したことがあります。

 「金を出せ。さもなければ撃つぞ!」

 銃声とともに車を止められた私は、荒々しくドアを開けた4人の兵士に銃口を突きつけられました。当時のカンボジアでは、「検問所」を設置した兵士に金品をせびられるのはよくあることでしたが、兵士たちの殺気立った様子、そして、引き金を引いた状態で私に突きつけられたライフル銃-3本のAK47とM16のゾッとする冷たさは、目的を遂げるための凶暴な決意を示していました。

 自分の命もここで終焉か…? 背筋が凍りつきました。カンボジアでの活動中に銃撃され命を失ったかつての仲間、中田厚仁さんが襲われた状況と同じだったからです。しかし、座席の隣に置いてあったバッグを奪い取った兵士は、「さっさと行け」とばかりドアを閉めました。1995年10月1日。カンボジアのカンポット州からプノンペンへの帰り道で起こった一瞬の出来事でした…。

 ちょうど、レポーターを務めたNHKのドキュメンタリー番組の取材を終え、障害児や孤児のための学校を設立したイギリス人の友人を訪ねた帰りでした。貴重な取材ノートも、カメラも、現金も全て失ってしまいましたが、命あることのよろこびは何物にも換え難いことを実感しました…。

 最初はポル・ポト派の兵士かと思いましたが、カンボジア政府軍の元兵士たちでした。政府の財政難のため給料が支払われず、他の仕事を行う技術もないため生活に困窮し、凶悪な強盗団として各地で暗躍していたのです。被害届を出しに行ったプノンペンの警察署で聞いたところ、何と警察署長も同じ目にあったそうです。もちろん、犯人を見つけることなど不可能とのことでした。

 それ以来、紛争国の平和構築が私のテーマになりました。とりわけ民主的な選挙を通して自由で公正な社会をつくる『民主化支援』、そして紛争終結後の兵士の社会復帰支援(DDR)を現場で行っていましたが、これらは極めて政治的なテーマであり、現場を知る政治家として取り組みたいと思うようになったのが、私が国会議員を目指した動機の一つです。当選後、衆議院本会議や外務委員会で再三質問をしました。

 今回の日本人人質事件については、安倍首相が表明した2億ドルの支援は人道目的を中心としたものであり、それ自体を非難するのは筋違いです。一方、「人道援助」だから感謝されるいうものでは決してなく、本当のニーズがあるのか、それが新たな紛争や混乱の原因にならないかなどを検証した上で実施する必要があります。そして、そのためには現地の人々の声、そして心を受け止めるプロセスが不可欠です。その役割を果たしているのが大きな組織に属さないジャーナリストであり、NGOの方々だと思います。この部分は政府機関には難しく、リスクを承知で現場で活動する方々が果たしている役割の重さを、私たちはもっと評価すべきではないでしょうか。

 広がる経済格差が生み出すあまりにも不公平な現実。イスラム社会に対する無理解や偏見。それが社会への怒り、未来に対する絶望感になりテロリストを生み出す土壌になること、私たちは強く認識する必要があります。一人一人は善良な市民ではあっても日本人であること自体がグローバル経済システムの中では搾取側に立つと見られること、また、米国との関係を強化すればするほど、『敵』と見なされるリスクが高まることは、自覚すべきです。

 後藤健二さんも、湯川遥菜さんもリスクを承知し、自己責任の活動であることを踏まえた上で、それでも突き動かされるような情熱に動かされて現地に向かったのでしょうね。私自身も、命にかかわる事態がいつでも起こり得ることは百も承知で活動をしていました。

 有効な活動をするには危険であっても紛争の現場に行かなくてはならない。しかし、そこには常に命のリスクが存在する。これは永遠のテーマでありジレンマです。その結果の不幸な事件。お二人を非難するのは簡単ですが、自分が安全な場所にいて自己責任論を振りかざす一部の人たちには強い違和感を感じます。

 多くの穏健なイスラム教徒にとって、日本は、欧米を凌ぐ経済成長を最初に成し遂げた国であり、長年守ってきた平和主義が信頼を得てきました。しかし、2001年の対テロ戦争で米国によるアフガニスタンへの攻撃を支持した小泉内閣の決定は、大きな分岐点でした。

 2002年10月、当時オサマ・ビン・ラディンが潜伏しているとされたパキスタンの部族地域でパキスタン総選挙の監視員として活動をしていた時、何度も言われました。「多くの仲間にとって日本への思いは尊敬から落胆と憎悪に変わった。気をつけろ」と。米国による空爆で連日民間人が殺戮される現実を目の当たりにすると、その感情は当然だと思いました。

http://homepage2.nifty.com/naoto1016/news/pakistan-report.htm
NGOが行う選挙監視活動・独自性の追及と安全確保-パキスタン選挙監視ミッション運営の視点から


 日本政府には人質解放を求める上での交渉窓口になり得るネットワークがあるのかどうか。通常、武装勢力は政府の対等な交渉相手にはならないので、このような時こそ、野党議員のネットワークも含め、宗教指導者や地元有力者などとのパイプを全て使って解決の糸口を見出さねばなりません。

 確実に言えることは、今回の対応が今後の試金石になること、そして集団的自衛権を行使し『売られていないケンカを買いに行く』事態になれば、日本人がこのような事件に巻き込まれるリスクは遥かに高くなることです。安倍内閣の対応、注視していかねばなりません。



写真上:パキスタンのトライバルエリア(部族支配地域)での選挙キャンペーン


写真上:現地の状況について報告を受ける私


写真上:政党代理人は何と11歳同士のクラスメートの少女でした!


写真上:ANFREL(Asian Network for Free Elections)で記者会見に臨む私




風に立つライオン

2015年01月05日 00時17分16秒 | ボランティア
 今夜は『風に立つライオン』という歌をテーマにしたBSプレミアムの番組に釘づけになりました。

 歌手のさだまさしさんが、今から40年前に医師・研究者としてケニアで働いていた青年を題材に作ったとても感動的な歌。番組の中では、その医師と一緒に当時の病院を訪ねたり、この歌によってアフリカに導かれマサイ族と結婚して暮らす女性や、スラム街で医師として働く女性など現地の日本人の思いに迫ります。

 「風に立つライオン」、私は知らなかったのですが、衆議院議員に当選した後で、政治の先輩から「阪口さんも、こんな思いでアフリカで活動してたんやろ」とCDを貸して頂いて初めて聴きました。歌声と共に自分自身が国連のPeace Keeperとしてモザンビークの少数民族の村で過ごした日々の記憶が鮮やかに蘇りました。そして今日、理想を追って生きることは、孤独や不条理と闘い、受け入れ、楽しむことなんだなぁと改めて実感。風に立つライオン、それはたぶん言葉の響きほどカッコいい生き方とは限らない。でも、例え、もがき、あがく姿の中にも志は忘れてはいけないと心に刻みました。

 私の任地だったモザンビーク・カーボ・デルガード州での当時の写真です。



モザンビーク総選挙の当日、投票に来た人々が大勢集まってきて写真を撮って!とせがまれました。国連ブルーの帽子とベスト姿ですね。


朝起きたら女性たちが家の前で魚を獲っていました。


元女性ゲリラが当時の格好でシサノ大統領を歓迎しています。


灼熱の太陽の下、工事現場で働く女の子。


私が住んでいた村をヘリコプターから見た風景です。銛や網を使った素朴な方法で魚を獲る人々が住む漁村でした。


山岳少数民族のマコンデ族の女性は、1975年頃までこのような風習があったそうです。


1994年9月24日。独立蜂起30周年の日、選挙キャンペーンのためにやってきたシサノ大統領を歓迎する若者たち。

 



2015年を迎えて-今年のテーマはビジョン構築力を磨くこと

2015年01月01日 21時28分26秒 | 政治

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 今日はお餅拾いなどの地域行事に参加した後、元旦の挨拶回りに歩きました。夕方からは自宅で読書。小川淳也衆議院議員が書かれた『日本改革原案』を読み返しています。現職議員の時は、特にこの2年は党の政策調査会のメンバーだったので移動中などはいつも政策関連の資料を読んでいました。しかし、国会議員にとってより重要なのはビジョン構築力。日本の未来が直面する不都合な現実に向き合い、解決の方向を示すことだと思います。

 現職の時はそのために必要な本格的な勉強の時間はなかなか取れなかったのも現実。『日本改革原案』は、国会議員が書いた本として、個別の論点を超えて、捨て身の勇気で日本が直視すべき問題に向き合い、ビジョンを示した本として鮮烈な印象を受けた本です。この本を切り口に、この機会に徹底的な読書と現場でのリサーチで私自身のビジョン構築力を磨きたい、そんな思いで再び手に取りました!