阪口直人の「心にかける橋」

衆議院議員としての政治活動や、専門分野の平和構築活動、また、趣味や日常生活についてもメッセージを発信します。

北朝鮮社会の変化と、日朝関係における今後の課題

2014年07月21日 11時32分04秒 | 政治

 7月9日~14日までアントニオ猪木参議院議員と、日本維新の会、みんなの党の議員とともに北朝鮮と中国を訪問しました。目的はスポーツ交流を進めること、そして日朝間の様々な問題解決に向けて朝鮮労働党の幹部と意見交換をすることです。

 今回は、姜錫柱(カン•ソクジュ)書記と3回にわたって意見交換をする機会に恵まれ、拉致被害者や日本人配偶者の帰国問題、ミサイルや核開発、また経済連携などについて突っ込んで意見交換をしました。カン・ソクジュ書記は元副首相で現在も外交の責任者。金日成・カーター会談や2002年に小泉首相が訪朝した際の首脳会談に同席するなど金日成主席、金正日総書記、金正恩第一書記と3代の外交を支えてきた重鎮です。

 ミサイルについては米国と韓国による軍事演習の対抗手段として発射した」とのこと。米国の原子力空母が参加して行われる日米韓3か国による合同訓練や、来月に予定されている韓国軍とアメリカ軍の軍事演習に反発した行動である説明した上で、ターゲットは米国と韓国で日本に向けて発射したものではないと明言。拉致問題については、今、日朝会談の通り進展させていて、連携して解決していきたいと強い意志を表明しました。この点については誠意ある対応が行われるよう厳しく監視していかなくてはなりません。

 私が北朝鮮を訪問するのは14年ぶりです。前回は、金大中大統領と金正日総書記の南北首脳会談が行われる1か月前の2000年5月でした。私はカンボジアやモザンビークなど、社会や経済が根底から破壊された国でのPKO活動経験があります。私が住んでいたのは両国とも山岳少数民族が住む特に貧しい地域でしたが、当時の北朝鮮は、さらに貧しい国との印象でした。平壌市内は高層ビルが並んでいましたが、夜になると真っ暗になり、人が住んでいる気配はありませんでした。平壌市内で『出会う』人は、掃除をしているか、行進をしているか、マスゲームの練習をしているかで、経済活動の気配もなく、まるで映画のセットの中を旅しているような気分でした。地方は、国民の1割以上が餓死したとされる90年代後半の大飢饉の影響が色濃く残り、人々の表情やたたずまいにも栄養状態の劣悪さがはっきりと窺えました。

 ところが今回は、人々の活気ある生活が普通に目の前を展開していました。以前はホテルの外に行こうとすると必ず公安に止められ自由な行動はできませんでしたが、今回はジョギングに出かけても注意されることもありませんでした。あちこちで自由に写真を撮ることも自由でしたし、道行く人に私の写真を依頼したら喜んで撮ってくれました。

 道行く人々の姿勢が良く、清潔感のある服装で歩いていることに驚きました。日本人や韓国人に比べるとやや小柄ですが、太っている人はほぼ皆無。また町を歩く女性も清楚で明るい表情が印象的でした。昔の日本人もこんな感じだったのかもしれないと思いました。平壌の町は一昔前の中国の地方都市のような印象でしたが、町にはゴミがなく、商業目的のネオンや看板はありません。一方で、金日成主席や金正日総書記を称えるスローガンや絵が至る所にあるのは相変わらずでした。一方で、最近アミューズメントパークのようなプールがオープンし、1日8千人~1万人が来場するそうです。また、遊園地もできていて、多くの人々で賑わっていました。5月に中朝国境地域を訪問した際、「金正日総書記は軍事一辺倒だったが、金正恩第一書記は国民を食べさせることに重きを置いている」と国境貿易に携わる人から聞いていましたが、この国は162カ国と国交があり、すでに国際経済の枠組みに組み込まれているのは明らかでした。経済制裁の『効果』は限定的であると実感しました。

 拉致被害者や行方不明者、また日本人配偶者など、重大な人権問題に責任のある対応を求めていく姿勢は徹底的に貫かなくてはなりません。一方で豊富な地下資源の開発が中国などに独占されている状況を変えることは、日本にとっても、北朝鮮の社会を変えていく上でも意味があると思います。この点に戦略的に対応することも、今後の大きな課題と感じました。

 今回の訪朝は、7月4日に経済制裁が一部解除されたことに伴い渡航自粛が解除された上での訪問でした。菅義偉官房長官がアントニオ猪木氏らの訪朝は問題ないと記者会見で認識を示したこと、BBCや中国の国際放送でも大きく報道されたこともあって日本のメディアの対応も概ね好意的でした。人道問題の解決に向けては与党も野党もありません。一方で、政府の外にいることで自由に意見交換ができる議員外交の可能性も実感しました。今後とも、議員外交による国際紛争の解決について、可能性を追求していきたいとの思いを新たにしました。



平壌駅前にて(以前は駅に近づくことはできませんでした)


姜錫柱(カン•ソクジュ)書記と


町を行く人々の間では日傘が流行っていました


以前は無人に見えた高層アパートではほとんど全てのベランダに花が飾ってあるのが印象的でした。


ジョギング中も人々と交流することができました


平壌市内にできたプール


視察した遊園地で


開城(ケソン)に行く途中の村


開城に行く途中の売店の女性と


朝鮮労働党の幹部と


100階を超える柳京ホテルも完成間近のようです。以前は近づくこともできませんでした




8月30日、31日に格闘技イベントが開催される体育館の前で
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サッカー場が墓地になった悲劇をこえて-ボスニアの健闘と集団的自衛権

2014年07月07日 14時17分44秒 | 政治

 サッカーのワールドカップ、私は初出場したボスニア・ヘルツェゴビナを応援していました。日本代表監督を務めたイビチャ・オシムは対立していた3つの民族のサッカー協会を説得してひとつにまとめ、民族を超えてチームがひとつになりました。地区予選で快進撃を演じ、初出場を決めたのです。

 1996年、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都・サラエボで日本政府派遣の選挙指導員として活動していた時、こんな小噺を聞いたことがあります。「君の兄さんは何してる?」「サッカー場でゴールを守ってるよ」「父さんは?」「観客席で応援してる」過酷な内戦が続き、セルビア人勢力に包囲されたサラエボでは、周辺の山々から銃弾が降り注ぎ、多くの市民が犠牲になりました。狭い盆地であるサラエボには犠牲者を埋葬する十分な場所がなく、私の担当地域にあったオリンピック会場やサッカー場まで墓地になりました。そんな状況を表し、少しでも悲しみを忘れようとする小噺に胸が痛みました。一方で、戦争の影は小さな子どもたちにも及んでおり、写真の子どもたちは「セルビア人をやっつけろ!」と言いながら戦争ごっこをしていました。
 
 オシム監督が率いる90年のイタリア大会でマラドーナを翻弄し、世界的なスターになったストイコビッチはユーゴスラビアの国民的英雄でしたが、内戦によって民族は引き裂かれ、セルビア人の彼を見るボスニアの人々の気持ちは何とも複雑だったと想像します。
 
 しかし、彼も戦争の被害者です。ユーゴスラビアチームは国際サッカー連盟から排除され、タレントが揃い優勝さえ期待された94年は予選を戦うこともできませんでした。コソボ内戦に伴うNATOのユーゴ空爆の時、試合でゴールを決めた後、ユニフォームをたくし上げ、Stop Strikeと書かれたTシャツを見せながらピッチで咆哮していた姿も忘れられません。

 テレビ観戦の時間はあまりないのですが、ワールドカップでは、内戦や圧制、災害から立ち上がろうとしている国、サッカーによって国民の心がひとつになり、内戦や混乱から立ち直るきっかけが生まれそうな国を応援することにしています。今回のボスニアは1勝2敗で予選リーグ敗退でしたが、アルゼンチン相手に大健闘するなど心を打つ戦いぶりでした。

 集団的自衛権の行使が売られていないケンカを買いに行くことになり新たな悲劇を生む結果になってはならない。ボスニアで刻んだ記憶を国会での議論に活かしていかなくてはと改めて思います。 


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