阪口直人の「心にかける橋」

衆議院議員としての政治活動や、専門分野の平和構築活動、また、趣味や日常生活についてもメッセージを発信します。

自分ではない役を演じる経験は政治にも活きる?-再び演劇に出演

2019年10月29日 14時11分36秒 | ボランティア

 仲間からの誘いで演劇『木地小屋の怪力専故物語』に出演させて頂くことになりました。前回初めて出演した演劇では放浪の旅を続ける俳人『阪口芭蕉』役でしたが、今回は平安時代の惟喬親王を演じます。自分ではない存在になりきることは面白いですね。いい勉強になりそうです。












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『厚仁の夢プロジェクト』として絵本を読む会を実施

2019年05月14日 10時19分10秒 | ボランティア

 日曜日は『厚仁の夢プロジェクト』の一環として、3月にカンボジアで出版した絵本『中田厚仁物語-夢は世界を平和にすること』の朗読会を午前、午後と二つの会場で行いました。

 最初に私がカンボジアの現代史や経済、政治状況、さらに国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)での活動についてお話しし、絵本の朗読の後は、現在の政治状況、そして中田厚仁さんが殺害された場所にできた『ナカタアツヒト学校(アツスクール)』の現状についてお話ししました。

 絵本セラピストの方が感極まって泣き出すほど感情を込めて読んでくださったこともあり、参加者の方々もとても熱心に参加して下さり、50冊以上用意した絵本も完売でした。

 まずはリクエストがあった教科書が買えない子どもたちへのサポートや文字の判別が難しいほど古くなった各教室の黒板をホワイトボードに替えるなどの資金に使わせて頂きます。絵本は1冊1000円(送料は10冊まで360円)で販売させて頂いています。ご希望の方は阪口直人(sakaguchi-naoto@nifty.com)までご連絡ください。

午後の会場では、お疲れ様でしたと参加者からカーネーションの花束を頂きました。母の日にカーネーションをもらったのは初めてです!

 明日15日には岐阜市でも同様の機会を作りました。吉野克弘氏が行っている心理学勉強会の中でお話しさせて頂きます。


 日時:5月15日(水) 10:30~12:00

 場所:岐阜市琴塚2-8-5 高畑建設敷地内(4つある建物の中の右奥の建物です)

 移動式建物になっており、高畑建設の駐車場の駐車可能です。














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絵本『中田厚仁物語-夢は世界を平和にすること』を出版

2019年03月12日 19時26分43秒 | ボランティア

 先週はカンボジア・コンポントム州の中田厚仁学校(アツスクール)を訪問。作成した絵本『中田厚仁物語-夢は世界を平和にすること』を生徒たち全員に配りました。絵本の朗読や質疑応答などを通して中田厚仁さんについて、またこの学校の歴史について理解を深めてもらう機会を作りました。

 この学校を訪問するのは7回目です。中田厚仁さんが活動中に銃撃を受け亡くなってからまもなく26年。彼が亡くなった場所にできた村、アツヒト村に生まれたこの学校は日本とカンボジアの友情のシンボルのような存在ですが、生徒たちが国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)や、中田厚仁さんのこと、学校ができた経緯をあまり知らず、多くの人々の記憶からも薄れつつあることを何とかしたいと思っていました。プノンペンでの研修中、2ヶ月間ルームメイトだった時のエピソードなども含めて作成した絵本に子どもたちが見せてくれた姿に感無量でした。

 日本でも絵本を読む会をしたいと思います。イラストを担当して下さったMary Watanabeさん、出版コーディネートを担当して下さった小市琢磨さんなど、多くの方々の協力に感謝したいと思います。

 
 この絵本については、カンボジアの多くの新聞やテレビニュースで報道されました。その中の一つ、Cambodia News Todayの記事を、プノンペンの王立行政学院に留学し、カンボジアの専門家を目指している若い友人が訳してくれたので紹介します。多くの方々に関心を持って頂き、初版の3000部はすぐになくなってしまいそうです。


















【UNTAC時代にカンボジアで殉職した日本人男性の話の絵本が学生に配布される】

 UNTAC時代のカンボジアにおいて、”平和と民主主義”のために自らの命を懸けた日本人男性”中田厚仁”氏の勇気ある正義感の強い個性や生き方を描いた絵本が出版され、2019年3月2日、コンポントム州アツヒト村にある”アツ”小中学校の学生に配布された。

 この絵本は、日本の元衆議院議員阪口直人氏および在カンボジア日本人会会長兼株式会社Locomo Group創業者の小市琢磨氏らによって、計1000冊あるうち450冊が”アツ”小中学校の生徒に配布された。(初版は計3000冊出版)

 この絵本は、1992年にUNTACの国連ボランティアとして、1993年のカンボジア総選挙の支援のため、カンボジアに赴任して来た中田厚仁氏の生涯や功績を描いている。罪のない数百万人の国民を殺害したポルポト政権に続いて長引いた内戦後、カンボジアはUNTACの協力により、平和と民主主義の第一歩としての、自由と公正を第一に掲げた総選挙の実施に向けて準備をしていた。その中で、中田厚仁氏は、国連ボランティアとして、当時軍事衝突が激しかったコンポントム州において、住民へ選挙の重要性を唱え、選挙への参加を呼びかけた。

 しかし、1993年4月8日、選挙まで残り数週間というところで、中田氏は銃撃に遭い、25歳という若さで亡くなった。

 そしてその後行われた1993年の総選挙では、彼が担当した地域の投票率は99.9%にまで上った。また、中田氏の功績を讃え、彼が銃撃にあった村がアツヒト村と改名され、加えて、日本の遺族からの支援で、アツヒト小中学校が建てられた。

 阪口直人氏も、1992年、UNTAC時代のカンボジアで、国連ボランティアとしてカンボジアの総選挙支援に取り組んでいた。

 当時、阪口氏が2ヶ月間プノンペンにて任務およびカンボジア語の研修を受けていた時、中田氏のルームメイトだった。その研修後、阪口氏と中田氏は共に選挙監視員としての任務に就いた。

 阪口氏は、2009年から2014年まで、日本の衆議院議員として活動していた。UNTACのミッション終了後も、阪口氏は現在に至るまでずっとカンボジアの総選挙の監視に携わってきた。

 この絵本は、カンボジア語と日本語で書かれており、Sakura Network Systemの協力および株式会社Locomo Groupのコーディネートにより出版された。
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ミャンマー・カチン族のマノー祭りを実施!(1)

2018年08月28日 17時51分32秒 | ボランティア

 まさか、松阪市の奥地でミャンマー北部の少数民族・カチン族の伝統祭事を実施できるなんて! 8月25日、26日に実施したマノー祭りは全ての関係者の努力が結実した奇跡のようなひとときでした。沢山の写真で紹介したいと思います。

 私は2015年11月、アウンサンスーチー氏率いる国民民主連盟(NLD)が政権交代を果たしたミャンマー総選挙の監視活動を行いましたが、その直後にカチン州に入り、内戦を巡る状況や環境破壊の象徴とされるミッソンダムについて調査を行いました。この時、案内して下さったのが今回の実行委員長を務めた上村眞由氏です。

 異なる言語を持つカチン族の諸族は、連帯への思いを込めて毎年この祭りを行ってきましたが、2011年に始まったミャンマー政府軍とカチン独立軍の戦闘により10万人を超える国内避難民を生み出し、マノー祭りも7年間実施されていません。従って、カチン州から祭司や関係者を呼び、日本各地にいるカチン難民や数多くの難民申請中の方々と一緒に、ふるさとカチン州に似た風景が広がる松阪市飯高町波瀬にてこの伝統的なお祭りを実施しました。目にも鮮やかな彩り豊かな民族衣装、そして誰でも参加できる踊りを、参加者は心から楽しめたのではと思います。

 前日には交流会を行い、歌や踊り、カチン料理を楽しみました。松阪市内から50キロ余り離れた山深い地の学校跡に100人近いカチン族の方々を受け入れ、カチン料理を始め、700食あまりを共に作るなどボランティアの方々のお力添えがあっての素晴らしいイベントになりました。私は踊りは大の苦手ですが、何となく踊れてしまったような気がしています?

 なお、内戦により多くの国内避難民になっているカチン族の人々をサポートするため、9月17日には松阪市クラギ文化ホールでチャリティー・コンサートも行います。平和活動に尽力するソプラノ歌手・下垣真希さんの歌や、世界的二胡奏者の演奏もあります。申し込みは上村眞由(まさよし)さんまで(携帯:090-2683-4915)























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幼稚園以来の演劇で『さすらいの俳人・阪口芭蕉』役を演じる

2017年11月28日 17時05分28秒 | ボランティア

 26日(日)は、松阪市で活動していた時の支援者でもある小林典子氏が脚本・演出を手掛けた演劇『心の月の光みがかん』に役者として参加させて頂きました。演劇をさせて頂くのは幼稚園の時に大国主命を演じて以来です。

 江戸後期の彦根藩主・井伊直弼の懐刀で国学者の長野主膳の人生を陰で支えた多紀の生涯がテーマです。多紀が松阪市飯高町宮前に生まれ育った人であることから、脚本を書いた小林典子氏が長年やりたいと思っていらっしゃったストーリーだそうです。

 長野主膳はNHKの第一回大河ドラマの主人公になったこともあり、松阪の人々にとっては大きな存在です。一方、小林氏によれば「多紀は地味な女性。それ故に多紀の寂しさや心の葛藤を表現することは難しく、盛り上がりの少ない、地味なストーリーになった」とのことですが、舞台袖で見ていても、観客の笑いや涙が伝わってくるなど、皆さん熱心に観て下さったようです。

 小林氏には脚本を書いている時から、是非出演してくださいと言われていました。伊勢の国(三重県)から美濃の国(岐阜県)まで旅をする途中、故郷を離れて旅を続ける主膳と多紀に話しかける『さすらいの俳人・阪口芭蕉』役が私のパート。自分を松尾芭蕉の生まれ変わりなのでは?思っている能天気な俳人として、主膳と多紀が故郷の人々に別れを告げるシーンで観客を泣かせた直後に笑いを取る難しい役回りでした。もし選挙などと重なって参加できなくても全体のストーリーには何の影響もない場面ですよ!とのことで安心して引き受けたのですが、5分以上の長いセリフをほとんど一人で話すことになっていて、初めての経験にしてはかなり荷が重いものでした。ただ、自由にやってくださいと言われていたこともあり、本番では脚本になかったアドリブやオチもつけて楽しく演じることができました。客席がどっと沸く場面もあって、演じることの醍醐味も感じることができました。

 一度でクビになるかと思っていたのですが、次回もまた出演依頼を頂くことになったそうです。受けるかどうかはどんな役なのかを聞いてからにした方がいいかもしれません。



俳句について講釈をする阪口芭蕉


美濃の国に入った主膳と多紀に話しかける阪口芭蕉








中瀬古初美県会議員と
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命の終焉を覚悟した瞬間からの学び

2017年06月19日 00時58分20秒 | ボランティア

命の終焉を覚悟した瞬間からの学び

「金を出せ。さもなければ撃つぞ!」車を止められた私は、荒々しくドアを開けた4人の兵士に銃口を突きつけられました。兵士たちの殺気立った様子、そして、引き金を引いた状態で私に突きつけられたAK47のゾッとする冷たさは、目的を遂げるための凶暴な決意を示していました。

自分の命もここで終焉か…? と背筋が凍りつきました。カンボジアPKOでの選挙支援活動中に銃撃され命を失ったかつての同僚、中田厚仁さんが襲われた状況と同じだったからです。しかし、座席に置いてあったバッグを奪い取った兵士は、「さっさと行け」とばかりドアを蹴るように閉めました。1995年10月1日。カンボジアで起こった一瞬の出来事でした…。

ちょうど、レポーターを務めたNHKのドキュメンタリー番組『新生カンボジア・3年目の現実』の取材を終え、支援していたNGOを訪ねた帰りでした。貴重な取材ノートも、カメラも、現金も全て失ってしまいましたが、命あることのよろこびは何物にも換え難いことを実感しました…。

彼らは政府軍の兵士たちでした。政府の財政難のため給料が支払われず、他の仕事を行う技術もないため生活に困窮し、強盗団として各地で暗躍していたのです。被害届を出しに行ったプノンペンの警察署で聞いたところ、何と警察署長も同じ目にあったそうです。もちろん、犯人を見つけることなど不可能とのことでした。

昨夜のNHKスペシャルはカンボジアでのPKO活動中に襲撃を受けて亡くなった日本人文民警察が置かれた状況を検証する特集でした。ポル・ポト派の支配地域に隣接する危険な地域での活動、そして襲撃の恐怖。CG映像で再現された様子は私が襲われた状況とほとんど同じでした。そして文民警察の方々が、自分の身を守るために15ドルで自動小銃を購入し、いざとなったらこれを使うしかないとの覚悟、私も理解できます。それではとても身を守ることはできないことも。もちろん『駆けつけ警護』を要請するなど全く不可能でしょう。

その後、私はポル・ポト派の元兵士を含む除隊兵士の社会復帰を支援する活動を数年間にわたって行っていました。ノーベル平和賞受賞者でもあるムハマド・ユヌス博士が開発した貧しい人びとに対する小規模融資を行う手法を応用して、元兵士たちが農村で自立するためのサポートを行いました。

幼い頃から銃を持って闘うことしか知らずに育った兵士にとって、戦争の終焉は失業を意味します。そして、食べていくことができなければ、また、社会の不公平や不条理に怒りを抑えられなくなった時には、再び銃を使って目的を遂げようとします。

このような状況から彼らを脱却させ、銃と未来を交換させるために支援を行うことも日本ができる大きな平和貢献と改めて感じています。










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がん研究を支援する『生命の駅伝』

2017年06月03日 10時49分52秒 | ボランティア

 今年は第23回『生命の駅伝』に参加し、合計63キロを走りました。がん研究を支援すること、がんを知り、がんと向き合うために三重県内を9日間で386キロ走るイベントで、2015年11月にミャンマー・カチン州で選挙支援活動を一緒に行った上村眞由氏が中心になって運営しています。

 私はファイナルイベントを含め、3回走りました。最初は5月14日。松阪市飯高町での開会式の後、松阪市の中部台公園までの56キロのコースを約30キロ走りました。ここ数か月は交差点での街頭活動中に走るぐらいでジョギングさえもしていなかったこと、また30度近い気温もあって過酷な状況でしたが、皆さんと会話もしながら楽しく走ることができました。沿道でサポートして下さったボランティアの方々にも感謝です。選挙区の区割り変更に関する取材が再三入り、走りながら電話取材を受けるなど忙しい一日でした。

 二度目は25日。叩きつけるような土砂降りの中、志摩から鳥羽までの23キロを走りました。23年前にモザンビークでPKO活動に従事していた時、Wet T-shirt contest(濡れたTシャツ姿を競い合うコンテスト)に飛び入り参加させられ、なぜか優勝したことがあるのですが、その時にも負けないほどびしょ濡れになりました!

 みんなで走りながら集めた募金は小児ガンへの取り組みや、分子遺伝学へのアプローチなど目新しい研究、未来を担う学生の研究支援などに使われます。
















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24年目の再会ー山岳少数民族の村から届いたメッセージ

2016年12月06日 19時36分45秒 | ボランティア

 昨日は嬉しいことがありました。1992~3年にかけて私が国連の一員として活動していたカンボジア・ラタナキリ州の山岳少数民族の村で先生をしている女性からメールが届いたのです。

 私は選挙を実施するための地域の責任者でしたが、内戦で破壊された村には電気も水道もなく、首都プノンペンからは国連のヘリコプターでしか行けない陸の孤島でした。彼女は当時生まれたばかりの赤ちゃんで、私の記憶はないそうです。でも、私が撮った写真は家に宝物のように大切に飾られていて、この写真を見て、両親に私のことを沢山質問したそうです。そして、いつか私に会ってみたいと思い続けてくれていたそうです。

 山岳少数民族の言葉には文字もなく、教育の機会も十分ではありません。しかし、彼女は努力を続けてプノンペン大学を卒業し、少しでも村の発展の力になりたい!と先生として村に戻ってきました。Facebookで私を発見し、英語でメッセージを送ってきてくれました。これからは、24年前に1年間過ごした村の様子を彼女を通して知ることができます!


 I want to inspire people. I want someone to look at me and say " Because of U I didn't give up" .

 彼女のこの言葉、私もしっかり受け止めて頑張らなくては!と改めて思いました。 



1992年のボケオ村の様子。後方が村のマーケットです。当時は村には食べ物があまりなく、私もかなり痩せて見えます。


私の著書『心にかける橋』に、いつも彼女を抱っこして遊びに来る少年と一緒に撮った写真も載っています。


左端が彼女の父親です。一緒に仕事をした仲間ですが、亡くなってしまったそうです。


プノンペン大学で学ぶ彼女


プノンペン大学を卒業する彼女
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国連ボランティア終身名誉大使・中田武仁氏の逝去に思う

2016年06月17日 23時19分22秒 | ボランティア

 中田武仁氏が逝去されました。心からご冥福をお祈り致します。

 武仁氏との出会いは1993年4月11日。ご子息・中田厚仁氏の追悼式の場でした。厚仁さんが生まれた時に庭に植えた桜の一枝を持ってプノンペンに来られた武仁氏。壇上に立ち、毅然とした態度で英語でスピーチされた姿の気高さに、体が震えるほどの勇気と誇りを感じました。

 『親おもう 心にまさる 親心 けふの音づれ いかに聞くらん』

 吉田松陰が刑死した時の辞世の句です。「誰かがやらなければならないことがあるとすれば、僕はその誰かになりたい」そんな自らの意志を実現するため、平和な日本を離れ、カンボジアでももっとも危険なコンポントム州を志願して、若い命を散らした最愛の息子。知らせを聞いた気持ちはいかばかりかと思うと、私はもう、胸が詰まってまともに目を合わすことはできませんでした。それでもご挨拶しなければと思い、勇気を振り絞ってプノンペンでの研修期間中ルームメートとして過ごしたことなどを話しました。

 柔らかいまなざしで私を見つめ、落ち着いた口調で言われた言葉、心に焼き付いています。「お世話になりました。おかげさまで厚仁も幸せな人生を送れたと思います。ありがとうございました」

 その後、私の著書『心にかける橋』の推薦文を書いて頂いたり、何度か講演にも来て頂きました。『世界市民』としての生き方について、また、厚仁さんに影響を与えたポーランドでの経験などについての感動的なお話に、多くの私の友人、また学生も大きな影響を受けました。

 1995年10月1日、私自身もカンボジア・カンポット州で武装集団に襲撃されたことがあります。命の終焉を覚悟した全身が凍り付くような恐怖、一瞬の後に実感した生きる喜び。それは自分にとって運命的な瞬間でした。自分の命が大切であると同時に、他人の命も同様に尊いのです。身近な人が命を奪われ、自分自身も命の危機に瀕した経験は、自分の使命を明確にしてくれました。平和の尊さ、戦争の悲惨さを伝え、平和構築に寄与すること-私の政治活動の原点です。昨年末に訪れたナカタアツヒト学校について報告できなかったことが未だに心残りです。

 この写真は追悼式などでの遺影にも使われました。任地コンポントム州に向かう厚仁さん。私と握手した時の輝くような笑顔、忘れられません。(1992年9月8日撮影)

 映像:『世界を変えた100人の日本人 カンボジアの民主化のために生きた若者 中田厚仁』
 
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日本が岐路に立つ今、中田厚仁さんの命日に改めて思う

2016年04月08日 23時59分48秒 | ボランティア

 4月8日は国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)で同僚だった中田厚仁さんが任務遂行中に銃撃され亡くなってから23回目の命日。この一年は国連PKOの駆けつけ警護について国会審議が行われる中で中田厚仁さんの名前が何度も取り上げられた。

 プノンペンでの研修中、2か月ルームメートだった私たちは、どの州での活動を希望するか、連日話し合った。彼は政府軍とポル・ポト派との内戦の最前線であり、もっとも危険とされたコンポントム州での活動を真剣に考え、懸命の情報収集をしていた。そして、自分の身を守るためにも住民との信頼構築が必要と考えクメール語を真剣に学び、短期間で上達していた。私は山岳少数民族が住む地域で、電気も水道もなく、ヘリコプターでしか行けない陸の孤島ラタナキリ州を選んだ。もっとも生活が過酷な州ともっとも危険な州での健闘を誓い合って握手をしたのが1992年9月8日。彼が殺されたのはその7か月後だった。厚仁さんが生まれた時に植えた庭の桜の一枝を持ってきたご家族の姿とお茶目だった彼の笑顔。桜の季節になると頭から離れなくなる。もっともっと世界を駆け回り、平和への貢献を果たしたかっただろうなと思うたびに私も本当に頑張らなくてはと思う。





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ナカタアツヒト学校、3度目の訪問

2016年02月19日 09時55分20秒 | ボランティア

 昨年は、集団的自衛権をめぐる議論、また自衛隊による駆けつけ警護の在り方などが国民的議論になりました。昨日は、民主党と維新の党が安全保障関連法の対案として、領域警備法などの3法案を国会に提出しています。集団的自衛権行使を認めた安保法は憲法違反であり、自衛隊の活動はあくまでも憲法の範囲内で行うべきとの内容です。

 さて、安全保障法案の国会論戦の中で、1993年4月、カンボジアでの国連PKO活動中に銃撃されて亡くなった中田厚仁さんについて、たびたび言及がありました。カンボジアPKOでの活動の仲間であった中田厚仁さん。彼の生き方が今なお多くの人の心に生き続けていることへの感慨とともに、私自身、『平和』というものにどのように向き合うか、今、何をすべきかとの初心に立ち返るべく、昨年、再びコンポントム州のナカタアツヒト学校を訪れました。2013年7月以来、3度目の訪問です。

  ナカタアツヒト村を再訪して 2013年8月8日投稿 

 ナカタアツヒト学校は、彼が射殺された場所にでき、アツヒト村と名付けられた村に設立された学校です。非常に不便な場所にあるため、この村の子供たちにとっては大きな意義のある教育の場になっています。今回訪問したのは午後でしたので、小学校の授業は終了していました。事務局で話を伺った後、中学校の4つのクラスでスピーチをさせて頂きました。少し前のことになりますが、学校の現状についてヒアリングし、中田厚仁さんについて子どもたちに話すことができたので報告します。

 まずは学校の現状です。

1.中学校の生徒数は約200人。7,8,9年生が通っている。

2.当初は小学校のみで1998年に創設されたが、中学校が2006年に作られた。今はカンボジア政府の下で運営されている。小学校は256人、うち女の子は約140人。

3.運営費として2つのスポンサーから年1700米ドルを支援してもらっている。一つはPB(教育関係の政府系基金)、もう一つはFIGという団体

4.中田厚仁基金からの基金は現在は来ていない。本来使うべき建物の修繕などに使われず、関係者の横領があったのがきっかけで、基金が廃止されたと言う人もいるが、実際はどうなのかと聞かれた。中田厚仁基金は自立を支援することが目的。厚仁さんのお父さんである中田武仁氏は、15年間を区切りとして2008年に国連ボランティア名誉大使から退任している。いつまでも支援に頼るのではなく、自立することが厚仁さんの意思に報いることですよ!と話す。

5.運営費の不足により、電力不足、通学バス不足、教材不足、理科実験室の機材不足などの問題がある。現状では、教育の質は高いとは言えない。教育の質を充実させるべく、設備投資したいがお金がない。

6.高校は村から12キロ離れている。毎年数人が行く。このプラサットサンボ郡には高校はない。

7.学校で中田厚仁さんについて授業で教える、ということは実際にはほとんどない。


 1992~3年にかけて国連が史上初めて一国の暫定的な統治を行ったUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)。学校に通う子供たちはもちろん、状況を話してくれた25歳の職員にとってもUNTACは遠い過去のことなのでしょう。中田さんの記憶が風化していくのも無理はありませんが、この学校の生徒には伝える必要がある!そんな思いで4つのクラスを全てまわって子供たちに語りかけました。

 私にとってはルームメートだった中田さん。「誰かがやらねばならないことがあるとすれば、僕はその誰かになりたい!」 当時、もっとも戦闘が激しかったがゆえに、中田さんはあえてコンポントム州を志願したこと、日本では彼の存在が多くの人の平和への貢献意識を高めたことを話し、皆さんも、しっかり勉強してカンボジアの平和、そして、世界の平和のために働ける人になって下さいね!と語りかけました。
 
 いつも感じることですが、子供たちの瞳の美しさに心打たれました。


教室にて子供たちに語りかける


子供たちには様々な質問をしました。最初は恥ずかしがっていた子供たちも次第に話してくれるようになりました。


子供たちは熱心に聞いてくれました。 














職員の男性は流暢な英語を話していました


少し早く来た女子生徒に学校の様子を聞いているところです


中田厚仁さんと再び握手

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キルギス・シルクロード国際マラソンと『シルクロード経済圏構想』②

2015年05月22日 22時47分17秒 | ボランティア

 今回のマラソンで一番嬉しかったこと、それは、「恩人であるアントニオ猪木議員にお礼を伝えたい!」とのオルズベック・ナザロフ元議員との4年前の約束に応えて、首都から遠く離れたイシククル湖畔まで猪木議員と同行できたことです。私は1990~1992年にかけて協栄ジムで彼と一緒に練習したボクシングの仲間でもあり、キルギス最初の、そして唯一の世界チャンピオンにもなった国民的英雄です。彼が日本に来るきっかけは1989年、猪木さんが『ペレストロイカ・ボクサー』として旧ソ連の実力者だったナザロフ氏をスカウトしたことがきっかけでした。3人の友情を育むことができ、マラソンの開会式の舞台でキルギスの多くの方々にもこのストーリーを伝えることができ、素晴らしい機会になりました。

 私自身は、大会のアドバイザーとして開会式や表彰式で挨拶や賞品の授与を担当させてもらった他、『コスチューム・ラン』の部(5キロ)を走りました。最初はハーフマラソンを走る予定だったのですが、3月31日に椎間板ヘルニアと診断されて無理はできないと判断し、予定を変更しました。(統一地方選挙の応援をしながら気合で治しました!)結果はこちらで優勝し、表彰する予定が表彰もされることになりました!!

 もう一つ、嬉しいことがありました。3年前のレース中に、近くの村で生まれた男の子と再会したのです。その父親と村長は、大会の実行委員長でもあった私の名前をつけてもいいですか?と聞きに来ました。嬉しいのですが、いくらなんでもナオトでは苛められるかもしれない。キルギス人に相応しい名前の方がいいはずと思い、いくつか候補を挙げてもらった中で私が決めることになりました。私に似た名前「ナルボト(昔の皇帝の名前)」をはじめ、いくつかの候補を挙げてもらいましたが、その中で私が選んで「クバヌチベック」という名前になりました。キルギス語で「幸せ」「喜び」という意味のこの名前。世界一美しい湖畔で、世界一幸せな大会の日に生まれた男の子に相応しい名前だと思います。

 実は、カンボジアには私の名前をつけてくれた男の子がいます。当時、平和構築活動として除隊兵士の社会復帰を支援していたのですが、バッタンバン州のKing氏の子どもがNaotoと名付けられました。何とキング・ナオト君です!しばらく会っていないのですが、今はどうしているのでしょう。会いに行きたいものです。


アントニオ猪木議員、ナザロフ氏と一緒に


マラソンの号砲はもちろん「1・2・3・ダー!」でした!


今回唯一?のレース中の写真です。100人以上の沿道の方々とハイタッチをして、マスクをつけたり外したり・・・。忙しいマラソンでした!


サマコフ議員の姪っ子、ナシカットさんと。このような写真、マラソン参加者とたぶん200枚ぐらいは撮りました!


コスチューム・ランの文化はまだまだ未熟。この格好で走れば優勝するしかなかったようです。


少し緊張気味のクバノチベック君と


13年前、King Naoto君と


サマコフ議員から贈られた民族衣装を着て。猪木議員はキルギスから帰ってすぐ、『イノキ・ゲノム』にこの格好で登場したそうです!


(デイリースポーツ新聞社の写真より)

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中田厚仁さんと桜の思い出 再び

2015年04月08日 21時00分45秒 | ボランティア

 新しい生命が芽吹く季節がやってきました。その中でも桜ほど、春を迎える喜びを感じさせてくれる花はありません。きっと皆さんにも、桜と共に心に刻まれた多くの記憶があることでしょう。

 桜は私にとっても特別な花です。とりわけ22年前からは・・・。

 カンボジアで国連ボランティアとして共に活動した中田厚仁さんが射殺された日が桜の季節だったのです。22年前の今日、4月8日のことでした。

 酷暑のカンボジアに桜はありませんでしたが、知らせを聞いた厚仁さんの家族は桜の一枝を持ってプノンペンにやって来ました。厚仁さんが生まれた時に庭に植えた桜の一枝だったそうです。

 1995年、私自身も武装集団に襲撃されたことがあります。命の終焉を覚悟した恐怖。一瞬の後に実感した生きる喜び。それは自分にとって運命的な瞬間でした。自分の命が大切であると同時に、他人の命も同様に尊いのです。それが理不尽な戦争で奪われることがあるとすれば、何と悲しいことでしょうか。

 身近な人が命を奪われ、自分自身も命の危機に瀕した経験は、自分の使命を明確にしてくれました。平和の尊さ、戦争の悲惨さを伝え、平和構築に寄与すること-私の政治活動の原点は、全てそこにあります。

 「僕の夢は世界を平和にすることなんです」ルームメートだった厚仁さんは、幼い頃ポーランドで見たアウシュビッツの記憶と共に、彼を駆り立てた思いを話してくれました。

 その厚仁さんが亡くなって22年、彼は命を失った代わりに国際ボランティア活動に光を当て、間違いなく日本人の価値観にも変化をもたらしました。

 彼が渡してくれたバトンをしっかり繋ぐ責任。より多くの人々と共に果たしていきたいと思っています。

 今年の桜は、統一地方選挙の応援の中で沢山見ることができました。投票日には沢山の桜が咲くことを願いつつ、中田さんもこんな桜をもっと見たかっただろうなぁ・・・と、この間の22年に思いを馳せていました。彼の分まで中身のある人生を生きなければと思いを新たにしています。


















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風に立つライオン

2015年01月05日 00時17分16秒 | ボランティア

 今夜は『風に立つライオン』という歌をテーマにしたBSプレミアムの番組に釘づけになりました。

 歌手のさだまさしさんが、今から40年前に医師・研究者としてケニアで働いていた青年を題材に作ったとても感動的な歌。番組の中では、その医師と一緒に当時の病院を訪ねたり、この歌によってアフリカに導かれマサイ族と結婚して暮らす女性や、スラム街で医師として働く女性など現地の日本人の思いに迫ります。

 「風に立つライオン」、私は知らなかったのですが、衆議院議員に当選した後で、政治の先輩から「阪口さんも、こんな思いでアフリカで活動してたんやろ」とCDを貸して頂いて初めて聴きました。歌声と共に自分自身が国連のPeace Keeperとしてモザンビークの少数民族の村で過ごした日々の記憶が鮮やかに蘇りました。そして今日、理想を追って生きることは、孤独や不条理と闘い、受け入れ、楽しむことなんだなぁと改めて実感。風に立つライオン、それはたぶん言葉の響きほどカッコいい生き方とは限らない。でも、例え、もがき、あがく姿の中にも志は忘れてはいけないと心に刻みました。

 私の任地だったモザンビーク・カーボ・デルガード州での当時の写真です。



モザンビーク総選挙の当日、投票に来た人々が大勢集まってきて写真を撮って!とせがまれました。写真からデータにした時の解像度が低いのが残念ですが…。国連ブルーの帽子とベスト姿ですね。


朝起きたら女性たちが家の前で魚を獲っていました。


元女性ゲリラが当時の格好でシサノ大統領を歓迎しています。


灼熱の太陽の下、工事現場で働く女の子。


私が住んでいた村をヘリコプターから見た風景です。銛や網を使った素朴な方法で魚を獲る人々が住む漁村でした。


山岳少数民族のマコンデ族の女性は、1975年頃までこのような風習があったそうです。


1994年9月24日。独立蜂起30周年の日、選挙キャンペーンのためにやってきたシサノ大統領を歓迎する若者たち。

 


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アンコール遺跡を走るマラソンに15年ぶりに参加

2014年08月25日 23時07分35秒 | ボランティア
 8月17日に行われた『第一回アンコール・エンパイア・国際マラソン』に参加しました。1999年に教員として学生と一緒に参加したアンコールワット国際ハーフマラソン以来15年ぶりのアンコール遺跡の中を走るハーフマラソンでした。

 当日はアンコールワットの幻想的な夜明けでスタートした雲ひとつない快晴。沿道の応援も温かく本当に素晴らしい大会でした。私の記録は1時間57分57秒。これまでのハーフマラソンの中では際立って遅いのですが、腰と背中を痛めて10日前には10メートルも走れなかったので上出来です。300人ぐらいの沿道の子どもたちとハイタッチ(ロータッチ?)したり、走りながら多くのランナーと会話したり、記録は度外視してコミュニケーション重視のレースを楽しみました。

 世界遺産の中を走るコースの景観は最高なのですが、路面がデコボコで最短距離を走ることができない上に、足先にいつもとは違う負担がかかったらしく、右足中指の爪が剥がれかかっていました。また、クラクラするような暑さの中でのレースだったので、この記録でも恐らく上位1割台の順位だったのではと思います。記録を狙うには向きませんが、感動的なレースになることは間違いありません。私にとってはその後の政治対話における掴みの話題にもなり、いろんな意味で有意義なレースでした。



アンコールワットの夜明け。これまで見た中で一番美しい夜明けでした。


レース前、アンコールワットを背景に


同僚議員だった松岡広隆氏とレース直前に


レース直後。心地良い疲労感でした。


参加者同士、写真を撮り合いました


前日の前夜祭で一緒だった日本アジア振興財団、そして在日本国カンボジアオリンピック委員会の事務局の方々と

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