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世界の覚書

道州制、易姓革命、外国人参政権には反対です。伝王仁墓に百済門を作るのは場違いであり、反対です。
 



1928年7月3日から11日、北京の東方にある東陵(満州帝室の霊廟)が破壊され、冒涜され、略奪された。廟の入り口、棺は爆破して暴かれた。乾隆帝の遺物や西太后の遺体もずたずたにされ、遺骨が散乱した。

特別法廷が設置されたが、首謀者の中に少なくとも国民政府軍の将校(譚温江)も含まれていたものの、全員が刑罰を免れ、略奪品の回収も行われなかった。また国民政府から、何の遺憾の意も表明されなかった。

わたしの北京50万年(第23話) 東陵と西陵――清」にはこうある。
主犯は、この一帯に駐屯していた地方軍閥「国民革命軍」第12軍の軍長、孫殿英です。「軍事演習」という名目で東陵全域を立入り禁止区域とし、工兵大隊が出動して陵の石門を爆破し、盗みだした財宝を馬車数十台で運び去る……などなど、第12軍総動員の白日の下での強奪でした。孫殿英が「攻撃対象」としたのは、乾隆帝の裕陵と西太后の定東陵です。この二人は、清王朝でも文物財宝をいちばん愛した皇帝と皇太后でした。
まさにこの事件こそ、若き廃皇帝溥儀の考え方を一変させた事件だった。彼は、まさにこの事件によって、支那に絶望したのだ。溥儀の運命の転換点でもあった。

以上、引用の他は『完訳 紫禁城の黄昏(下)』終章を参考にした。前王朝の陵を辱めるのは、中国史の基本中の基本であるから、むしろ1912年ではなく、1928年に起こった事に違いを認めるべきかもしれない(ちなみに「皇帝は」1924年11月5日に紫禁城を追われた)。しかも皇陵が冒涜された時点で、皇統の継承者(皇帝の称号を保持していた)は健在だったのだ。略奪者や国民政府は、何を考えていたのだろうか。中国史は不可解だが、少なくとも20世紀以降の中国近代史は、そういうものだと、わきまえておく必要がある。

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