子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「ティエリー・トグルドーの憂鬱」:矜持を保って生き抜く覚悟

2016年12月03日 13時43分50秒 | 映画(新作レヴュー)
極端に少ない台詞。動かないカメラ。対象を見つめる静かな視線。92分に凝縮された濃密な時間。一見すると21世紀にロベール・ブレッソンが甦ったかのように見える作品だ。
だが決定的に異なる点がある。ブレッソン作品では一部の例外を除いて,主要な登場人物に素人や無名の役者を多く配することにより,観客の既視感や先入観を排除して匿名性を普遍性に昇華させていたのに対し,本作の監督であるステファヌ・ブリゼは,ヴァンサン・ランドンという稀代の名優を中心に据えることで,敢えて作劇性を前面に出しながら,ブレッソン作品に劣らないヒリヒリするようなリアルな皮膚感覚をスクリーンに再現することに成功している。

エンジニアとして働いてきたティエリーが会社から解雇され,職業紹介所のような場所で係員と言い争うシーンから映画は始まる。再就職のためのクレーンの運転研修を終えたティエリーは,同様の仕事の経験がなかったことを理由に採用を見送られたため,最初からその条件を知っていたはずの紹介所の職員に詰め寄る。ところがティエリーがアグレッシブな姿勢を見せるのはこの場面だけ。解雇した会社を訴えようと彼を煽る元の同僚達に対して,ティエリーは争いはしたくない,早く生活を立て直すことの方が先だ,と主張して,彼らの誘いには乗らず,スーパーの警備員としての新たな人生を歩み出すことを選択する。

障碍を抱えた息子と妻との三人の日常の暮らしが,丹念に描かれる。ささやかな出来事に心を動かされつつ,日々を生きるという覚悟がじんわりと伝わってくる何気ないシークエンスの連なりの中で,やがてティエリーの仕事における小市民の出来心が引き起こす事件が,小さなひび割れを生じさせる。肉の万引きにクーポンやポイントカードの不適切な使用といった軽犯罪や不正が,その重みに相応しいとは思えない結末を引き起こす物語が炙り出すのは,その背後にある非人間的な現代社会の不寛容そのものだ。

驚いたことに,一見こわもてで不調法に見えるティエリーが,妻とダンスを踊るシーンが心に残る。踊りの型は決まっていても,リズムを取って相手に合わせて身体を動かすことの歓びが,やがて来るティエリーの最後の決断に,細く,しかししっかりと繋がっている。3本目になるというランドンとブリゼのコンビに祝福を。
★★★★☆
(★★★★★が最高)


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