子供はかまってくれない

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映画「危険なメソッド」:裏通りの巨匠の姿はどこにもなく

2012年12月06日 22時16分45秒 | 映画(新作レヴュー)
カナダのシネアスト,デヴィッド・クローネンバーグの映画監督としてのピークをどこと考えるか。当然,人によって見方は異なると思われるが,私はまだインディペンデント・フィルムの香りが残る初期の「スキャナーズ(1981)」から「ヴィデオドローム(1982)」と大傑作「デッドゾーン(1983)」を経て,メジャーに躍り出た「ザ・フライ(1986)」を撮った頃が,まだ誰も足を踏み入れたことのない荒野を拓くパイオニアとして,歴史に名を刻んだ時期ではないかと考えている。
当時はまだスプラッター映画の専売特許だった「ドロドロ」「グチョグチョ」という形容詞が似合うグロテスクな描写を,物語をダイナミックに語るための武器として活用しながら人間の心の闇を描く,というクローネンバーグの荒技は,SFという狭い枠を越えて,広範囲の映画ファンに衝撃を与えたものだった。

そんな彼の新作は,「裸のランチ」あたりから顕著になった「純文学」傾倒路線に,濃密な演劇的香気をまとわせた,台詞の量では過去のどんな作品にも負けない会話劇だった。
独自の心理療法を実践するユングが,治療のために身の上話を聞くうち,自然に男女の仲となってしまった医者志望の患者との関係に悩み,フロイトに相談する。フロイトはフロイトで,まるで世界の終わりを救うための使命を帯びたかのようなシリアスな反応で,二人の関係に介入していく。
台詞と手紙とキーラ・ナイトレイのこれでもかというくらい過剰な演技が,ぎっしりと詰まったスタンダード・サイズの画面は,見方によっては先に述べた内臓感覚満載の初期作品に負けないくらい密度の高いものだ。最初からユングとフロイトの会話劇をひとつの歴史的なイヴェントとして楽しみたいと思って劇場にやって来た観客にとっては,堪えられないであろうやり取りが,これでもかとばかりに延々と続く。

改めて書くまでもなく,私はそんな3人のやり取りが醸し出す大きな流れのようなものに,全然乗ることが出来なかった。
話の中心が,実は自分の患者に手を出してしまったユングの「迂闊さ加減」だったという「しょうもなさ」に落胆した訳でもなければ,マイケル・ファスベンダーとヴィゴ・モーテンセンという今を時めく俳優二人が,ほとんど心理学のテキストの著者近影の写真にしか見えないようなコスチューム・プレイに終始させられていることに失望した訳でもない。

ただもう,クローネンバーグでなければ撮れない映像や展開がどこにも見出せなかった落胆。その一語に尽きる。
端正な台詞回し,高尚な会話の応酬,堅固な構図の絵づくり。どれもこれも行儀と品位に満ちた立派なものだった。だが,クローネンバーグならではという趣味や気概や画面の粘度を欠いているという一点で,私の写真ではなかった。いつまでも「ハエ男」でもないだろうことは分かっているのだが,何だかとても寂しくなった。
★★☆
(★★★★★が最高)


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