子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「ともしび」:スリリングな無言劇

2019年04月13日 14時47分33秒 | 映画(新作レヴュー)
ほとんど台詞はない。いわゆるスコアと呼ばれる音楽もない。物語の核になる夫が犯した犯罪も,家を訪れてドアを叩く被害者の親の罵詈雑言と,偶然発見した「証拠」らしき写真によって,間接的に語られるだけ。原題である「アンナ」という演劇教室に通う老年の家政婦の所作を,ほぼフィックスのカメラで捉えた物語は,思いの外さまざまな感情を呼び起こすドラマだ。

映画のほとんどは,夫が収監された後に一人残されたアンナの生活を淡々と追いかけることに費やされる。朝起きて料理を作り,地下鉄に乗り,家事を任された家で子供に本を読み,演劇学校でおそらくそこでしか出したことがないような声を絞り出し,再び家に帰る。一人息子の子供である孫の誕生日のために丹精込めて立派なケーキを作り,それを大事に胸に抱えて息子の家を訪れるが,夫の犯罪によって受けた中傷のせいなのか,冷たく追い返される。
どんなことにも手を抜かず,一方で込み上げてくる感情を押し殺し,彫刻刀で刻んで作ったかのような表情を崩さず,必死に「普通の日常」を過ごすそんなアンナの姿は,ロベール・ブレッソンの作品で何度も反復されたスリや脱獄囚の作業をも想起させる。

ただアンドレア・パラオロ作品がブレッソンと決定的に異なるのは,アンナを演じるのがブレッソン作品のトレードマークだった「素人」ではなく,超一流の職人シャーロット・ランプリングであるという点だ。ランプリングはここで,孤独と闘う主婦アンナの姿を,一分の隙もない技術で,完璧に演じきる。終盤,夫の本当の姿を知ってしまうことによって,それまで辛うじて立っていた足元の基盤が崩れ去り,このまま最悪の悲劇を迎えるかという展開で,観客を不安のどん底に陥れるのは,文字通りランプリングの「体当たり」の気迫と技術があったればこそだったろう。ヴェネチアでの主演女優賞獲得という栄誉は,伊達ではない。

ただ裏を返せば,ブレッソン作品に存在した,どこに向かうのか分からない未知のエネルギーや,誰の人生にも起こり得ると感じさせるドラマの普遍性が,その完璧な「演技」によって薄まった感は否めない。勿論,73歳にしてこんな境地に到達したランプリングの見事な演技がなければ,こんな地味な物語が映画化されたかどうかも危ういことは事実だが,その安定感とそれによって失ったものとをつい比較してしまう我が侭勝手な観客だと自戒しつつ,この点数で。
★★★☆
(★★★★★が最高)


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