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映画「ヒッチコック/トリュフォー」:マエストロは技術の継承によってのみ生み出される

2017年01月21日 10時50分22秒 | 映画(新作レヴュー)
本読みの方々の多くに共通する習慣に,気に入った本は何度も読み返す,ということがあるように思う。苦しい時の道しるべになってくれるような本,生き方を決めるきっかけとなった本,文体が好きな本,昔なら伏せ字になっていたような描写のある本,などなど。私にも,心情的にはそのくらい好きな本がない訳ではないのだが,実際に通して何度も読み返したという経験はほとんどない。貧乏暇なし,限られた時間しか充てられない読書の基本は,どうしても「読んだことのない本」になってしまうからだ。
そんな中で唯一,通して読んだ後に,折に触れて開いてはひとり「ふむふむ,そうだったのか」と悦に入る本が,本作「ヒッチコック/トリュフォー」の原作本とも言える「ヒッチコック映画術トリュフォー」だ。

私が持っている晶文社の第8版は1982年12月の発行。翌年に就職した直後の給料で買ったような記憶が,おぼろげながらもある。
以来30年以上に亘って,ただ映画が好きでだらだらと観続けてきた単なる映画ファンですらここまで魅了されるのだから,映画を作る側を目指す人々にとっては文字通り「聖書」と言える存在であろう同書を,残された音声を使ってドキュメンタリーにするという発想は,今までなかったのが不思議に思えてくる。
監督のケント・ジョーンズは,彼自身も大いにインスパイアされたであろう両巨匠のやり取りを,敬意と好奇心と作家としての興味のバランスに配慮しつつ,文字通り「映画術」の伝承を映像によって行うという偉業にチャレンジしている。

「ロジックは退屈だ」「(次作で起用しようと思っていたヴェラ・マイルズが妊娠したことについて)バカ女だ」「観客のエモーションがすべて」。自身の思想や作品に託すテーマは差し置いて,映像によって観客の感情を揺さぶることへの飽くなき情熱を率直に語るヒッチコックの声を聞いただけで,ヒッチコッキアン(熱狂的なヒッチコックのファン)はシャワー室で殺害された「サイコ」のジャネット・リーのようにくずおれるに違いない。
トリュフォーが一方的かつ盲目的に師を崇拝する弟子に留まらず,批評家として冷静に作品に迫る度に,ヒッチコックが「そう来たかい」と受けるやり取りには,凡庸な会話劇が裸足で逃げ出す密度がある。

家に帰ってすぐに,劇中で何度も言及されている「間違えられた男」を再見したら,周防正行の「それでもボクはやってない」そのものだった。ヒッチコックが後世に残した足跡の大きさに,改めてため息が出る。
今回の採点は作品の出来というより「興奮度」。
★★★★★
(★★★★★が最高)


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