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映画「スポットライト 世紀のスクープ」:トランプが決して米国の代表ではないということを再認識するの巻

2016年05月03日 12時20分49秒 | 映画(新作レヴュー)
どうしようもない作品をたくさん生み出すのに,それでもアメリカ映画に希望を抱かざるを得ない理由のひとつに,政治や社会に対する果敢なアプローチを,エンターテインメントとして成立させようとする強い意志を感じさせる作品に,これまで数多く出会ってきたということが挙げられる。アラン・J・パクラの「大統領の陰謀」然り,マイケル・リッチーの「候補者ビル・マッケイ」然り,コッポラの「カンバセーション…盗聴…」然り,ティム・ロビンスの「ボブ★ロバーツ」然り。
そんな綺羅星のような作品列の最後尾に,新たな作品が加わった。トム・マッカーシーの「スポットライト 世紀のスクープ」は大胆且つ緻密な脚本と,まさにアンサンブルと呼ぶに相応しい演技陣のコラボレーションが生んだ傑作だ。

予告編を観る限り,児童に対する性的虐待という,にわかには信じがたいスキャンダルを隠蔽したカトリック教会VS.社会正義を代表するマスコミ(ボストン・グローブ紙)の全面対決,という印象が強い。
しかし作品の構造は,観客の高揚感を煽るには最適な「ストレートな対決もの」というフレームを敢えて避けている。本来,相対峙する双方の攻防の詳細を描くことによって緊迫感を高めるのが常套手段であると考えられるところを,オリジナルの脚本を手掛けたマッカーシーとジョシュ・シンガーは,グロ-ブ紙の側にのみ視点を据え,協会側の堅固な防御や反撃については間接的に描写するという語法を選択することによって,「ビルの谷間から尻尾だけが見えるゴジラ」のような存在としてのカトリック教会の尊大さを見事に炙り出している。

一方で「地道な作業の積み重ねによってのみ,大きな成果が得られる」という物語の核をなすテーマを,如何にして観客を飽きさせない作品として映像化するか,という難題を,マッカーシーは「オーソドックスに作業を積み上げる」という,作品中のキャラクターとまったく同じアプローチを取ることによってクリアした。司法システムの隙間にピンポイントのパスを通すという最後の攻撃は,犠牲者へのインタビューと過去の資料の精査という,地味な作業のベースがあってこそ成り立ったもの。派手なアクションがない中,マット(ブライアン・ダーシー・ジェームズ)が近所にあった教会を探しあてる一人称カメラによるシーンは,並のアクション作品が裸足で逃げ出すサスペンスを生み出している。

「キッズ・オーライト」以降「フォックスキャッチャー」を経て「はじまりのうた」そして本作と,すでにハリウッドを牽引する存在となったマーク・ラファーロを中心とする取材チームは,すべての組織のお手本となるべき結束力と不屈の精神を体現して見事だ。「靴職人と魔法のミシン」で弛緩しきった姿を晒したマッカーシーが,まさか「こんな作品が観たかった」と思わせる見事な作品で復活を果たすとは思わなかった。スパイク・リーは批判するかもしれないが,アカデミー賞の審査はこと「作品賞」と「脚本賞」に限っては,きちんと機能していると断言したい。
★★★★★
(★★★★★が最高)


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