登場人物が突然歌い出したり踊り出したりするってあり得ない。主人公の静香がミュージカルに対して持つそんな違和感を逆手に取った「ダンス ウィズ ミー」は,三吉彩花という素晴らしい素材を得て,怪しげな催眠術など必要とせずとも観たものすべてを踊らせてしまうような躍動感を獲得している。本作の監督である矢口史靖がメガフォンを取った佳作「スウィング・ガールズ」が,上野樹里というヒロインを中心に据えながらも,その躍動感があくまで集団劇に根差していたのに比べると,「ダンス ウィズ ミー」は三吉彩花ただ一人を輝かせる正真正銘のヒロイン映画だ。その輝きは山口百恵や松田聖子まで遡るヒロイン映画の系譜に,久しぶりに新たな一頁を加えたと言っても過言ではない。
三吉は前作「いぬやしき」で,父親を嫌う不機嫌な高校生役を,まるでそれが彼女の地でもあるかのように自然に演じていた。本作の三吉はその不機嫌さはそのままに,「いぬやしき」では封印していた(ように見える)長い手足を解放して,オフィスやレストランで見事に弾けてみせる。その踊りと不機嫌さの落差こそが,ミュージカル映画が内包する「不自然かもしれないけれども,それが一体なんだっていうんだ?」的な開き直りだけが持つエネルギーを,ものの見事に表出させている。オフィスの中をシュレッダーの紙吹雪が舞う中を疾走するスピード感や,レストランで踊りながら淡々とテーブルクロス引きを成功させたと思ったら,シャンデリアにぶら下がってみせる振り付けも素晴らしいが,とにかく彼女の長い腕が空中を自在かつ優雅に動き回る様子を観ているだけで,幸福感に満たされるのだ。こんな経験はそうあるものではない。
けれどもそんな幸福感やエネルギーは,静香が自分に催眠術をかけた催眠術師マーチン上田(宝田明)を探して,上田のアシスタント(やしろ優)と共に旅に出るや否や,失速してしまう。
そもそも静香のダンスや歌が,社会人となるまでに相当な苦労を重ねた上,今も都心のタワーマンションに住むという背伸びを続けながら「現代を活きる理想の女性の姿」を必死に体現しようとする,いわば「非自然体」から脱却するための武器として機能していたことを考えれば,それは当然の帰結だ。序盤の躍動感を最後まで維持し続けるには,彼女を縛り続けた様々な制約との葛藤をこそ,執拗に描くべきだったのではないか。後半のダンスシーンがすべてフェイドアウトで終わってしまったことも含めて,作劇が彼女の踊りを最大限に活かす方向に収斂していかなかったことが残念でならない。
とは言え,三吉彩花の奔放な手足をスクリーンに踊らせた功績は大きい。彼女が同じく矢口作品のミューズである上野樹里とは異なる方向で,大きく開花することを期待したい。
★★☆
(★★★★★が最高)
三吉は前作「いぬやしき」で,父親を嫌う不機嫌な高校生役を,まるでそれが彼女の地でもあるかのように自然に演じていた。本作の三吉はその不機嫌さはそのままに,「いぬやしき」では封印していた(ように見える)長い手足を解放して,オフィスやレストランで見事に弾けてみせる。その踊りと不機嫌さの落差こそが,ミュージカル映画が内包する「不自然かもしれないけれども,それが一体なんだっていうんだ?」的な開き直りだけが持つエネルギーを,ものの見事に表出させている。オフィスの中をシュレッダーの紙吹雪が舞う中を疾走するスピード感や,レストランで踊りながら淡々とテーブルクロス引きを成功させたと思ったら,シャンデリアにぶら下がってみせる振り付けも素晴らしいが,とにかく彼女の長い腕が空中を自在かつ優雅に動き回る様子を観ているだけで,幸福感に満たされるのだ。こんな経験はそうあるものではない。
けれどもそんな幸福感やエネルギーは,静香が自分に催眠術をかけた催眠術師マーチン上田(宝田明)を探して,上田のアシスタント(やしろ優)と共に旅に出るや否や,失速してしまう。
そもそも静香のダンスや歌が,社会人となるまでに相当な苦労を重ねた上,今も都心のタワーマンションに住むという背伸びを続けながら「現代を活きる理想の女性の姿」を必死に体現しようとする,いわば「非自然体」から脱却するための武器として機能していたことを考えれば,それは当然の帰結だ。序盤の躍動感を最後まで維持し続けるには,彼女を縛り続けた様々な制約との葛藤をこそ,執拗に描くべきだったのではないか。後半のダンスシーンがすべてフェイドアウトで終わってしまったことも含めて,作劇が彼女の踊りを最大限に活かす方向に収斂していかなかったことが残念でならない。
とは言え,三吉彩花の奔放な手足をスクリーンに踊らせた功績は大きい。彼女が同じく矢口作品のミューズである上野樹里とは異なる方向で,大きく開花することを期待したい。
★★☆
(★★★★★が最高)