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映画「大いなる陰謀」:映画的興趣から遠く離れた所で燃えさかる監督の想い

2008年05月06日 00時19分56秒 | 映画(新作レヴュー)
独立系映画の聖地となったサンダンス映画祭を育て上げ,人間と現代社会との軋轢を起点に映画を作ってきたロバート・レッドフォードの監督作。3大スターの共演。対テロ戦争を巡って,立場の違う3者が繰り広げるディスカッション。それにシドニー・ポラック=レッドフォードのコンビが生んだ往年の名作「大いなる勇者」から取ったと思しき邦題。
「大いなる陰謀」は,これだけ揃った関連情報から想像される範囲を,残念ながら一歩も逸脱しない,生硬な政治ドラマに留まっている。

アフガニスタンにおいて隠密理に進められていた侵攻作戦と,作戦を推し進める上院議員とそれを報道するよう要請されたジャーナリストのやり取りが併行して語られる,というシンプルな2極構造だったならば,多分ここまでの違和感は感じなかったかもしれない。
やはり,志願して軍に入隊した教え子を思いながら,資質を認める学生に行動を促そうとする大学教授(レッドフォード)のシークエンスが,決定的に映画的興趣から離れてしまっているという印象を拭えないのだ。
結局,杜撰な戦略のせいで窮地に立たされてしまう教え子達の回想シーンを含めて,愚直と言って良いくらい直截な台詞によって描写される教授の想いは,その言葉に熱がこもればこもるほど,現実社会との間で生じる摩擦熱のせいで,観客に届く前に失速してしまうのだ。

監督の思いが最も凝縮しているのは,おそらくこのシークエンスなのだろう。それは,レッドフォード自らの眼力の強さによって充分に伝わってくる。伝わってはくるのだが,それは「心情は理解します」というレベルに留まり,私が映画に求める,どこから湧いてくるのか分からないような熱いエモーションに突き動かされる瞬間は,ついに一度も訪れない。

多分脚本に必要だったのは,1950年代に吹き荒れたレッドパージの嵐の中で取り結ばれた,資産階級の闇取引に端を発する殺人事件を題材にして,米中枢同時多発テロ後のアメリカの右傾化を痛烈に批判してみせたサラ・パレツキー渾身の傑作「ブラック・リスト」のような,周到な「企み」だったのだろう。
そんな思わず膝を打つような企てを欠いた92分は,淡々と過ぎていき,レッドフォード監督の初期作「リバー・ランズ・スルー・イット」でアカデミー撮影賞に輝いたフィリップ・ルースロが腕を振るえる場所も,どこにもないことに気付いた時,湧いてきたのは「どうしても映画でなくてはならなかったのだろうか?」という疑問だった。


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