子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「レスラー」:「やらずにはいられない」天職を見つけた幸福

2009年07月04日 20時59分58秒 | 映画(新作レヴュー)
「脳内妄想派」というイメージが強かったダーレン・アロノフスキーが,こんな「普通のフォーマット」に則った,しかも「身体」に根ざした映画を撮るとは思わなかった。身体の大きさだけでなく,顔のつくりまで変わってしまったように見えるミッキー・ロークが,衒いのないストレートな演技で生み出した捨て身の必殺技「ラム・ジャム」は実に強力で,私はいとも簡単にフォールされてしまったのだった。

前半は,TBSの密着取材ものの「情熱大陸」よろしく,ドサ廻りのプロレスラーの日常が淡々と綴られる。かつては一世を風靡したスターが送る文字通り「痛々しい」日々もさることながら,試合前のレスラー同士が交わす挨拶や,闘う相手と事前に交わす段取りから伝わってくる,「最近身体の調子はどうだ?金は?女の方は?大丈夫なのか?」という温かなニュアンスに,格闘技に疎い私は少なからず驚かされた。
決して多くはない喝采と少ない報酬,そして生きる実感を求めて,身体を痛め続けざるを得ない者同士に通じる感情は,悲哀とやるせなさに満ちている。

そんな「レスラー残酷物語」は,メリサ・トメイ扮するストリッパーと,疎遠になっていた娘(エヴァン・レイチェル=ウッド)という,二人の女性とのミスコミュニケーション(和製英語ではディス~=対人コミュニケーション不全)が前面に出てくる中盤からトーンを変える。
心臓疾患で倒れてバイパス手術を受けた後,医者からプロレスを禁じられたランディ(ミッキー・ローク)が,二人との関係を生きるよすがとすべく懸命に立ち回る姿は,殆ど訪れないファンを往年の人気レスラー達が待ち続けるファン感謝デーの光景よりも,悲しく切ない。

スーパーの食品売り場を人生の第2のリングと定め,与えられた役回りをこなそうと狭いキッチンを必死に駆け回るランディを長回しで捉えた場面は,マット上のファイトに負けない緊迫感と迫力に満ちている。
メリサ・トメイは昨年の「その土曜日,7時58分」に続いて,「女優は見せるのではなく,見られるのが仕事」とばかりに見事な肢体をスクリーンに曝してあっぱれだ。

見事と唸ったのは,音楽の使い方だ。ロークの部屋には「AC/DC」の大きなポスターが貼ってあり,ロークとトメイは酒場でガンズ&ローゼズを讃え,ニルヴァーナが80年代の素晴らしき音楽を壊した,と罵ることで心を通わせていく。
その一方で,ロークの娘が部屋に張っているのは,2008年にデビューした新しいダンスミュージックの旗頭である,ヴァンパイア・ウィークエンドだ。
双方の生き方の象徴とも言える,二つの音楽ジャンルの間に横たわる断層を見せられた観客は皆,この親子は永遠に理解し合えないはずだと思い込むはずだ。
しかし,暗転したラストに続くクレジットに被さって,静かに流れてくるブルース・スプリングスティーンの嗄れた声は,ひょっとしたら両者を繋ぎ合わせてくれるかもしれないという可能性を感じさせてくれる。たとえそれが,生死を異にする二つの世界に住む親子であったとしても,だ。

★★★★☆


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