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映画とライフデザイン

大好きな映画の感想、おいしい食べ物、本の話、素敵な街で感じたことなどつれづれなるままに歩きます。

映画「ラストディール」

2020-11-16 18:27:20 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「ラストディール」は2020年日本公開のフィンランド映画


「ラストディール」フィンランドの首都ヘルシンキの店仕舞い寸前の画商がサインなしの肖像画の素晴らしさに魅せられて、オークションに臨み最後の取引をしようとする顛末である。1時間半に起承転結を簡潔にまとめている。何よりそれがいい。気の利いた短編小説のような味のある映画である。主人公が狙いを定めた絵画を取引できるのかどうかドキドキしてしまうミステリー的要素も兼ね備える。

フィンランドといえば、名匠アキ・カウリマスキ監督の作品を連想する。「浮き雲」「過去のない男」など無表情で無愛想な登場人物が繰り広げる人情劇が多い。映像に映るヘルシンキの路面電車を見ながら、一連の作品を頭に浮かべた。

ヘルシンキで長年画廊を営む老画商のオラヴィ(ヘイッキ・ノウシアイネン)は、金銭的にやりくりが難しくなり徐々に限界を感じていた。
そんな時、突然孫息子のオットー(アモス・ブロテルス)が職業体験をさせてくれと画廊にやってきた。たいした仕事をやっていないからといったん断る。ところが、孫は窃盗で捕まったこともあり他では無理だと娘に頼まれて、結局引き受け店の手伝いをすることになった。


ある日、オラヴィはオークションの事前内覧会で男の肖像画に目を奪われる。絵には作者のサインはないが、オラヴィは近代ロシア美術の巨匠イリヤ・レーピンの作品に見えた。贋作の可能性もありオットーを使っていろいろと調べさせる。


その上でレーピンの作品である確信をもったオラヴィは、オークションに参加する。会場では同じようにこの作品に狙いをつけている参加者が多く、オラヴィの予算をはるかに超える入札価格になってしまっているのであるが。。。

⒈人情劇
オラヴィの元には支払いの督促状も届いていて資金繰りはきびしい。それで一度は孫を追い返したが、職業体験をさせてくれるところはないし、雇い主の評価シートがなければ仕事に就けない。孫はダメと最初言われてあっさり帰ったが、改めて娘から電話があり引き受ける。
詳しくは語られないが、オラヴィと娘の間には何かあったのであろう。娘はシングルマザーで元夫の借金もあるという。死別なのかもしれない。


そんな孫が意外な活躍を見せる。1200ユーロの値札がついているのを1500ユーロで絵を求めに来た顧客に売ってしまう。しかも、贋作でないことを掴むために奔走する。意外にやるじゃんという動きだ。しかも、活躍はこれだけではない。
そんな孫や娘の困っている姿を見てオタヴィがこれまでは仕事一辺倒だった自分を悔やむかのような動きをする。フィンランドの国には行ったこともないし、知っている人もいないが、アキカウリスマキの映画とこの映画をみると人情味あふれる国民と想像させる。

⒉オークション
いくつかの映画にオークションの場面があるが、こういう映画だけに頑張って落札してくれと主人公に気持ちが偏る。あれよあれよという間に2000ユーロ程度からどんどん値が上がり10000ユーロまで急上昇する。そして落札するのだ。しかも、前からレーピンの絵を欲しがっている美術収集家を知っている。それだけでゲームセットあれば、何のことない映画だ。ところがそうはさせない。


無理して落札したが、資金繰りができているわけではない。融資を申し込んでも銀行は金を融通してくれない。しかも、オークション会社の社長が妨害に入る。目論見が崩れる。オラヴィには二重三重の障害が目の前にあるのである。

これからの葛藤はここでは語らない。ここからが面白くなるし、何故かむなしさを感じさせる。ただいえるのはこの映画の後味は悪くはない。
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アニメ映画「ウルフ・ウォーカー」

2020-11-08 19:42:16 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「ウルフ・ウォーカー」を映画館で観てきました。


アイルランドの民話を元にしたアイルランドの制作会社カートゥーン・サルーンによるアニメ映画。眠ると魂が抜け出しオオカミになるという人間とオオカミの二面性をもつ「ウルフ・ウォーカー」がこの映画の主題である。

アニメ作品にはあまり関心がないが、週刊文春「シネマチャート」で自分がもっとも敬愛する芝山幹郎氏が最高点の5点をつけている。5月の「マリッジストーリー」以来半年ぶりの5点をつけたとなるとなると見に行くしかない。芝山幹郎氏が4点をつけると映画館に足を運ぶことが多いが、5点は特別だ。おかげで狭い映画館が満席だ。躍動感があるアニメ映像が続くと食い入るように見ている人が目立つ。

でも、アニメ作品の良さってなかなか難しいね。正直この映画の良さはわからなかった。滅多に観ないが、日本のアニメ映画では、線がもっと緻密になっている印象を受ける。風景もリアルだ。ここではフリーハンドのラインが基本である。野性味を出そうとしたのであろうがそこに違和感を感じる。

こうやって↓時にはオオカミに変身してみても、餌を探しに来た熊やイノシシが銃で撃たれるくらいだからこの世の中生きる場所は限られているだろうなあ。


中世という設定だが、銃や大砲がでてくる。日本に鉄砲が伝わったのが16世紀とすぐ連想できる。調べると14世紀くらいには性能はイマイチだけど銃も大砲もあるようだ。しかも、護国卿というのが人間社会の親玉だ。



世界史では近世のイメージがあるが、15世紀にイングランドで最初の護国卿が登場する。多くはいないので、この映画の時代設定も15世紀後半から16世紀くらいと考えるべきだろう。この時期こんな風景↓だったのかな?


イングランドからオオカミ退治の為にやってきたハンターを父に持つ少女ロビン


ある日、森で偶然友だちになったのは、人間とオオカミがひとつの体に共存し、魔法の力で傷を癒すヒーラーでもある “ウルフウォーカー”のメーヴだった。
メーヴは彼女の母がオオカミの姿で森を出ていったきり、戻らず心配でたまらないことをロビンにうちあける。母親のいない寂しさをよく知るロビンは、母親探しを手伝うことを約束する。翌日、森に行くことを禁じられ、父に連れていかれた調理場で、掃除の手伝いをしていたロビンは、メーヴの母らしきオオカミが檻に囚われていることを知る。
森は日々小さくなり、オオカミたちに残された時間はわずかだ。ロビンはなんとしてもメーヴの母を救い出し、オオカミ退治を止めなければならない。


それはハンターである父ビルとの対立を意味していた。それでもロビンは自分の信じることをやり遂げようと決心する。そしてオオカミと人間との闘いが始まろうとしていた。(作品情報より引用)

18世紀後半にはすでにオオカミはアイルランドから姿を消しているらしい。この映画であるようなオオカミ一斉退治でもあったかもしれない。それ自体で郷愁を感じるアイルランド人もいる気もした。

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映画「マーティン・エデン」 ルカ・マリネッリ

2020-09-30 21:18:02 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「マーティン・エデン」を映画館で観てきました


「マーティン・エデン」ジャック・ロンドンの小説を、ピエトロ・マルチェッロ監督が20世紀初頭のアメリカから1970年代のイタリアに舞台を移し映画化した作品である。アメリカ文学に造詣のない自分はもちろん未読。荒くれ者の船乗りがブルジョワ階級の女性と接することで書物に目ざめ作家になるまでを描いている。主演のルカ・マリネッリ「ジョーカー」ホアキン・フェニックスをおさえて2019年ヴェネツィア国際映画祭男優賞受賞、まさに新しい男性スターの登場ともいえる好演である。

イタリアナポリの港町、労働者階級に生まれ育ったマーティン・エデン(ルカ・マリネッリ)は、船乗りとして自由奔放に生きていた。ある日港で一人の若者が暴漢にいじめられているのを見てやめろと声をかける。ところが、言うことを聞かないので暴漢を殴り倒し若者を助ける。若者は大豪邸に住む金持ちの御曹司だった。

そのお屋敷にいくと、姉のエレナ・オルシーニ(ジェシカ・クレッシー)がいた。エレナは今まで付き合ったことのない清楚で知的な女性で、マーティンは一気に惹かれる。部屋には本がたくさん置いてあり、マーティンはよくわからないけれど強い関心を持った。


オルシーニ家にとっては息子を救った恩人ということでこれをきっかけにお屋敷に出入りするようになる。エレナの影響で読書にのめり込む。しかし、マーティンは小学校4年までしか学校は行かなかった。エレナはマーティンには教育が必要と諭して、本人もその気になるが、基礎的な素養がないと受け取られ独学するしかない。仕事も辞めて旅行にでて、ネタを集めて文章を書こうと試みる。そのとき列車の中で知り合ったマリア一家に身を寄せ、本を読んでは書き出版社に小説を送り続けるが、不採用が続く。


そんなときオルシーニ家で知り合ったインテリ階級のラス・ブリッセンデン(カルロ・チェッキ)の知遇を得る。その後も不採用が続き衰弱したマーティンのもとにようやく雑誌から採用の通知と報酬の20万リラが届く。周囲に喜ばれるが、ラス・ブリッセンデンに連れて行ってもらった社会主義者の集会で演説したことでエレナとオルシーニ家の怒りを買うのであるが。。。


1.努力家マーティン・エデン
荒くれ者で、クチよりも手の方が先に出る。女とみたらすぐやっちゃう。それが努力家に変貌する。個人的にはマーティン・エデンという男に好感を持った。最初は「ブルジョワの女性と接して」という映画の宣伝文句に石川達三の「青春の蹉跌」のような展開を事前に予想していたが、まったく違った。自分を偉くみせようとするところがない。見栄は張らない。素直に小学校4年で学校はやめたと言い切る。

作家のボードレールの名前もちゃんといえない。知ったかぶりをせずに素直にエレナの影響を受ける。しかも、なけなしの金をはたいて中古のタイプライターを購入する。慣れない手つきでタイプを打つ姿がいじらしい。


それだからか、エレナも徐々に惹かれていく。エレナに対しては奥手だ。物書きになろうと、今まで生きてきた人生のことを文章にして出版社に何度も送るがいつも原稿が戻ってくるばかりだ。それでも、常に読書をしたり、旅をして見聞を広めなんとか認められるようになろうとする向上心を持つところに惹かれる。とは言え、立身出世といういやらしさはない。


2.後半への転換に慣れない
認められてからの変貌は、これって夢の中の妄想話と一瞬思ったくらいだ。そんなに変わってしまうの?というのをわざと見せつける意図だろうが、なんかしっくりこない。家賃を支払わないからマーティンを冷遇した義兄や送った原稿をそでにした出版社などを含めて、本が売れて手のひら返した対応に戸惑うというよりも反発する。それでもお世話になった母子家庭のマリアには家を用意している。恩返しのできるいい男でもある。


主人公のキャラを理解し巧みに演じたルカ・マリネッリがパワフルでうまい。アランドロンの再来という褒め言葉もあるが、それは言える気もする。イタリアが舞台ということでは同じの「太陽はひとりぼっち」を連想する。
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映画「シチリアーノ 裏切りの美学」 マルコ・ベロッキオ

2020-09-02 19:48:27 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「シチリアーノ 裏切りの美学」を映画館で観てきました。

「シチリアーノ裏切りの美学」愛の勝利を ムッソリーニを愛した女眠れる美女という傑作でメガホンをとったマルコ・ベロッキオ監督の新作である。愛の勝利を ムッソリーニを愛した女はイタリアの独裁者 ムッソリーニが共産主義者だったころから支えた女性との関係を描いた作品である。ムッソリーニ自らの演説も混ぜた編集、感情を揺さぶる音楽をふくめ 撮影、映像コンテすべてにおいてすばらしい作品だった。今回もそれに期待して映画館に足を運ぶ。


マフィアの鉄の結束を裏切った男に焦点をあてて、実際の抗争とマフィア幹部を裁く裁判を80年代から約20年にわたって追っていく。 日本の傑作といわれる「仁義なき戦い」などの実録もの映画は、裏切りに次ぐ裏切りの連続をスピード感をもって描いている。 ここでは深作欣二監督作品のようなスピード感こそないが、 イタリア人独特の情熱的なパフォーマンスや日本ではありえない大人数の被告人が檻の中から罵声を発する裁判の形式自体に圧倒的迫力を感じる。


1980年代初頭、シチリアではマフィアの全面戦争が激化していた。パレルモ派の大物トンマーゾ・ブシェッタ(ピエルフランチェスコ・ファヴィーノ)は抗争の仲裁に失敗しブラジルに逃れるが、残された家族や仲間達はコルレオーネ派の報復によって次々と抹殺されていった。ブラジルで逮捕されイタリアに引き渡されたブシェッタは、マフィア撲滅に執念を燃やすファルコーネ判事(ファウスト・ルッソ・アレジ)から捜査への協力を求められる。


麻薬と殺人に明け暮れ堕落したコーザ・ノストラに失望していたブシェッタは、固い信頼関係で結ばれたファルコーネに組織の情報を提供することを決意するが、それはコーザ・ノストラの ”血の掟” に背く行為だった。(作品情報より引用)

1. 主人公ブシェッタと ピエルフランチェスコ・ファヴィーノ
よくぞまあ、人相の悪い主人公を選んだものだ。結婚は3回目、パーティがあると前妻との子供も一緒に加わる。 女好きで、刑務所の中でもやりまくりだ。 両方のマフィアのグループの間に入ろうとするが、うまくいかないとわかるとさっさとブラジルに行く。

そこで麻薬で捕まって当局から拷問を受ける。2台のヘリコプターに乗って、片方には拷問で負傷している ブシェッタ、片方には吐かないとヘリコプターから海に落とすぞとばかりに妻クリスチーナを吊るすシーンがすごい。

2.裁判
大きな裁判所の法廷である。その法廷の片隅に檻に入っている被告人が大勢いる。なんじゃこれ?中からは大きな声で裏切り者にたいして罵声が飛ぶ。傍聴席にいる被告人の妻たちも叫びまくる。すごい迫力だ。この連中も人相が悪い。裁判長もそのパワーに負けじと対抗する。ブシェッタとボス的存在だったピッポ・カロ2人並んで証言する。裁判と言うより罵り合いだ。兄貴は会ったことあるけど、本人には会っていないよと。もうその時点でブシェッタの兄貴は暗殺されている。でもとっておきの証拠があると、写真をおもむろに差し出す。


3.印象に残るシーン
あるターゲットがいる。その男に狙いを定めてブシェッタは待機している。相手は自分が狙われていることに気づくと、生まれてまもない赤ちゃんをおもむろに抱く。すると、ブシェッタは撃てない。年数を経てもずっと狙っている。公衆の面前ではいつでも子どもと一緒だ。そうやって時間がたち、その子どもが結婚することになる。ようやく1人になりブシェッタはピストルを手に取るのだ。いつまでたっても追い続ける執念がみなぎっていた。



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映画「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」ジェームズ・ノートン

2020-08-26 21:45:26 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」を映画館で観てきました。

世界恐慌が全世界に猛威を振るっている1933年前後、社会主義国のソ連のみが不景気の影響を受けていないと言われていた。この映画では、英国人ジャーナリスト、ジョーンズがスターリン率いるソ連が繁栄している理由を探りに行ったにもかかわらず、民衆の生活が飢えに苦しんでいるのを目撃し唖然とする姿を描いている。

映画「太陽に灼かれてなどでスターリンの粛清は語られている。ここでは、英国人記者が実際のソ連の飢えに苦しむ姿をみて、それを記事にするべく悪戦苦闘する姿とスターリン体制に買収されたような米国人記者の対比が映画のテーマになっている。


この映画はできる限り大画面で見た方がいい。ジョーンズが向かったウクライナで映し出される雪が激しく降る画面が映像として見どころがある。

1933年、ヒトラーに取材した経験を持つ若き英国人記者ガレス・ジョーンズ(ジェームズ・ノートン)には、大いなる疑問があった。世界恐慌の嵐が吹き荒れるなか、なぜスターリンが統治するソビエト連邦だけが繁栄しているのか。その謎を解くために単身モスクワを訪れたジョーンズは、外国人記者を監視する当局の目をかいくぐり、すべての答えが隠されているウクライナ行きの汽車に乗り込む。やがて凍てつくウクライナの地を踏んだジョーンズが目の当たりにしたのは、想像を絶する悪夢のような光景だった……。(作品情報より引用)


⒈ソ連の偽りの繁栄とウクライナ
1929年10月に始まる米国株価大幅下落を受けて、世界恐慌が始まる。その中で、社会主義計画経済のソ連は1928年にスターリンが第一次5ヶ年計画を発表、重工業化を進めるとともに、集団農場(コルホーズ)による農業の集団化を図った。それにより世界恐慌とは無縁だった。というのが定説であった。でも、実際にはうまくいってなかった。現在の世界史教科書では「政府は集団化に抵抗する多数の農民を逮捕、投獄し、生産物の強制供出を実行した。そのため1932~1933年には農民に多くの餓死者が出たが、集団化はほぼ完了した。」(詳説世界史 山川出版)この映画に準ずる記載がされているが、その昔はこう習っていないかもしれない。


コルホーズを重点的に進めたのがウクライナである。ジョーンズはソ連の経済発展のカギはウクライナにありとの話を聞いて、列車に乗って向かう。ジョーンズの母親はウクライナで生まれていた。同行したソ連の高官をまいて一般車両に乗り込む。どんよりとした雰囲気だった。そこでりんごをかじると、乗客からじろっと見られる。食べ残したりんごが取り合いになるのだ。行先の駅では倒れている人がいる。雪の中、母親の育った家に向かうと、飢えに苦しむ人たちを大勢見かけるのである。ジョーンズはあぜんとする。


⒉ソ連当局に買収される米国人記者
モスクワに到着したジョーンズはニューヨークタイムズのモスクワ支局を訪れる。そこにはピュリツアー賞を受賞したウォルター・デュランティ(ピーター・サースガード)支局長と女性記者エイダ・ブルックス(ヴァネッサ・ガービー)がいた。デュランティはソ連の高官たちや他の記者たちと乱行パーティで遊び呆けている。


ジョーンズは飢えに苦しむウクライナの実情をマスコミに公表しようとするが、デュランティはそういった事実はないとニューヨークタイムズとして発信する。誰もが天下のニューヨークタイムズの発言を信用する。そして、1933年米国とソ連は国交を樹立する。その一方で故郷ウエールズに帰還したジョーンズは虎視眈々とチャンスを狙っていた。そして「市民ケーン」のモデルとして名高い新聞王ハーストと面談するチャンスを得るのだ。


ベルリンの壁が壊され、共産主義国のリーダーであったソ連が崩壊して共産主義というのが妄想となった。日本の左翼系知識人は真っ青である。それ以前からスターリンによる粛清が取りあげられているが、学生運動に狂ったアカ学生はソ連をたたえていた。町でビラを配っている共産党系BBAはこういうのを見てどう思うのか?

「ファシズム」と「共産主義」を研究対象としてきた人々が、当初の期待にまったく反して、この両体制の下における諸条件は、多くの側面において驚くほど似ている事実を次々と発見して、衝撃を受けている。(ハイエク「隷属への道」西山訳 P.28)
ハイエクはピーター・ドラッカーの言葉を引用する。「ファシズムは共産主義が幻想だとあきらかになった後にやってくる段階なのだ。そして、今、ヒットラー直前のドイツでと同様に、スターリン下のソ連において、それは幻想だとわかった。」(同 p.31)

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映画「シャチの見える灯台」 

2020-08-02 18:14:41 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「シャチの見える灯台」は2016年のNetflix映画


Netflixの作品を見ているとふと目につく「自閉症」「シャチ」の二文字に引き寄せられる。重い自閉症気質の息子がこの先どうなるのか心配な母親が、少年が関心を持ったシャチを手なずける海の監視員がいる灯台のある海岸にきて蘇生に向けて海の男と触れ合う姿を描く。

何より、巧みなカメラワークで映し出すアルゼンチンの海岸エリアの風景が美しい。殺しとか末梢神経を刺激するような出来事もなく、ゆったりと少年のシャチとのふれあいと成長を見守る展開がよかった。

アルゼンチンのある海岸で、シャチを観察する仕事をしているベト(ホアキン・フリエル)は崖の上にある灯台のすぐそばで1人住んでいる。海岸では、シャチが波打ち際にやってきて、ときおりアシカを襲う。それなので、もしものことがあってはと一般人がシャチに近づくことは2年前から禁止されている。

ある日、ベトが家に帰ってくると、ローラ(マリベル・ベルドゥ)と息子のトリスタン(ホアキン・ラパリーニ)がはるばるスペインから来ていた。トリスタンは自閉症で周囲との関わりが苦手。そんなトリスタンはベトがシャチといる姿をテレビをみてニッコリ反応したので、ローラはすがる思いで息子を連れてきた。そんなローラに、ベトは帰ったほうが良いと告げる。しかし、一晩泊まっていったん帰った後、結局自閉症の息子が気になったベトが2人をとどめてそのまま滞在することになる。


シャチが人間を襲った例はないので、イルカの発する超音波による心の治療がシャチでも可能であるとベトは考えていた。そこで上司にトリスタンの面倒をみたいと申し出る。しかし、上司は認めず、もしも子供をシャチに近づければ、ベトを森林警備隊にまわすと警告する。

それでも、ベトはトリスタンとローラを小舟に乗せてシャチのいる海へ向かう。そこで仲の良いシャチのシャカに向けてトリスタンから海藻を投げ入れさせて遊ばせる。その後も、ベトはトリスタンを海に連れていくと、次第にトリスタンはシャチに慣れてくるようになる。一方で、ベトは徐々に母親のローラに恋心を抱き近づくようになるのであるが。。。


⒈バルデス半島の絶景
映画が始まり海面から背ビレを浮かび上がらすシャチの姿が映る。浜に大挙して寝そべっているアシカ群が海に近づいた一瞬を襲う。舞台となる海岸エリアをカメラが俯瞰する。砂浜の背には土砂が侵食したままの個性的な絶壁が続いている。何てきれいなんだろう。デイヴィッドリーン監督が描いていた自然の映像美を連想する。


以前映画「さらば青春の光」で見たドーバー海峡に接する英国南部のブライトンの海岸にある断崖絶壁を連想したが、ここは英国ではない。

映画のコメントにはパタゴニアという地名がある。ネットでパタゴニアを検索すると、氷河の写真ばかりが目立つ。なんじゃ?と思っていたらパタゴニアはチリとアルゼンチンの南緯40度より南側の総称だという。そりゃ半端なく広いや。ずっと調べていくと、バルデス半島という地名の写真とこの映像が一致した。ブエノス・アイレスよりもかなり南に行った大西洋岸の半島だ。世界遺産だという。それもうなづけるほど美しい。でも、こんな地の果てまでスペインからモデルになった母子がわざわざ来るというのはちょっと普通じゃない。


⒉自閉症の少年
わざわざアルゼンチンの地の果てまで来て、シャチを手なづけるベトにあったのに目を合わせず、黙っている。部屋の中ではベトの机にある持ち物をいじくり回している。クリップなどの小物を図形的に整列させているのだ。水道の蛇口から水を出しっぱなしにしたままで、ベトに注意を受ける。いずれも典型的自閉症の子供のパフォーマンスだ。


2人からはぐれてトリスタンが行方不明になる。懸命に探すが見つからない。探しているベトと至近距離になっても自閉症のトリスタンは声も出さない。一般的な自閉症の子どもは3歳から4歳になってもなかなかしゃべれないことが多い。そのまま永久にしゃべれない子もいる。それでも、やっぱりシャチはトリスタンにとってはこだわり。荒っぽいシャチとも平気で付き合えるようになる。
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映画「ペイン・アンド・グローリー」アントニオ・バンデラス&ペネロペ・クルス&ペドロ・アルモドバル

2020-06-27 06:28:21 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「ペインアンドグローリー」を映画館で観てきました。


2月以来なんと4か月ぶりの映画館行きである。この監督の新作なら必ず観るという映画がある。スペインのペドロ・アルモドバル監督もその一人だ。馴染みのおいしいお店に久々立ち寄る感覚でつい行ってしまう。いつものようにアルベルト・イグレシアスの不安を感じさせる音楽が流れるなかで、独特の色彩感覚をもった映像美に身を任せる。

男色系映画は正直苦手であるが、ペドロアルモドバルの世界だけは別である。おそらくは自己の過去を描いているであろうストーリーとアントニオバンデラスと共演俳優のパフォーマンスにドキドキする。


世界的映画監督のサルバドール (アントニオ・バンデラス)は、脊椎の痛みに悩まされ、心身ともに疲れ引退同然の生活を余儀なくされていた。そうしているうちに、子供時代に母親 (ペネロペ・クルス)と暮らすバレンシアの村での出来事を思い出すようになる。


そんなサルバドールに32年前に撮った作品の上映依頼が届く。その作品で仲違いした主演俳優アルベルトとサルバドールは再会し、自伝的な脚本『中毒』をアルベルトに提供する。そして、アルベルトは小劇場で一人芝居で上演する。その時の公演が思わぬ再会を生むのであるが。。。

⒈色彩設計
「ウルトラQ」のオープニング映像のように液体がにじみでるタイトルバックでスタートする。いつものように強い原色が映像の基調である。前作「ジュリエッタ」に引き続き「赤」がベースになる。


至る所に赤い何かが姿を現し、真っ赤なキッチン、子供のころに着た赤い上着、真っ赤な花など、ひたすら赤が目を奪う。サルバドールの子供のころの住まいは洞窟のような真っ白な壁面だ。そこにタイル職人が様々な柄のタイルを貼っている。そして、今の部屋の壁面の色はキャメルイエローだ。それで原色との調和を保つ。

⒉錯覚に惑わされる
サルバドールは旧知の俳優アルベルトに会い、脚本を提供する。監督をするわけでもない。むしろ自分の名前は出して欲しくはないという。そして、アルベルトは小劇場で上演する。客席が映る。そこにいる見かけた顔はサルバドールだと自分は思っていた。

上演が終わり、楽屋に誰かが訪れる。何かおかしい。客席にいたのはサルバドールでなく別人であった。その別人はサルバドールの昔の恋人であり、この劇を偶然見たのであった。そして、アルベルトにサルバドールの行方を聞くのであった。


錯覚である。冷静に見れば、違うとわかるのであるが、髭もそっくりでジャケットの着こなしも同じだ。われわれ観客に一瞬の錯覚を与える。ここがペドロアルモドバルらしい映画の作り方だ。その後、サルバドールと昔の恋人は再会する。そこでのアントニオバンデラスのパフォーマンスには度肝を抜かれる。ペドロアルモドバルが1つの見どころをわれわれに放つ。


⒊幼少のサルバドールの目覚め
賢そうな顔をした少年である。歌を歌えば美声が響き渡り、ペネロペクルス演じる母親の自慢の息子だ。家のなかでタイルを貼っている無学の職人に語学のイロハを教えている。


しかし、どんなに賢くても家庭は貧しい。神学校に通う以外に教育を受ける手段がない。サルバドールは反発するが、そうするしか手がなかった。そんなサルバドールの家で働く若いタイル職人はたくましい誇らしげな肉体を誇っていた。作業をして、汚くなっている体を水浴びしていた。その全裸にはたくましい男性器があり、カメラはそれを隠さずに捉える。そして、その肉体美を見てサルバドール少年は卒倒するのである!!


これが後にゲイとなってしまうペドロアルモドバルが性に目覚める衝動なのであろう。このタイル職人は絵心があった。赤い服を着ているサルバドールの姿をスケッチしていた。この絵が映画のキーになる。


アントニオバンデラスペネロペクルスは同じ映像では交わらない。当然である。なぜなら、アントニオバンデラス演じるサルバドールの子供のころの母親役をペネロペクルスが演じるからである。ところが、最終場面に移り、一瞬われわれに再度錯覚を与える。映画の中の映画の手法が好きなペドロアルモドバルらしい錯覚の演出である。
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映画「太陽はひとりぼっち」 ミケランジェロ・アントニオーニ&アランドロン&モニカ・ヴィッティ

2020-06-08 06:09:09 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「太陽はひとりぼっちは1962年のミケランジェロ・アントニオーニ監督の作品


「情事」、「」、「太陽はひとりぼっち」ミケランジェロ・アントニオーニ監督の不毛の三部作といわれる。今回改めて再見して、とても60年代前半とは思えないスタイリッシュな映像に感激する。イタリアの美的センスというのは超越しているのであろうか?建物センスが日本の30年進んでいる。同じ敗戦国とは思えない。アランドロンとモニカ・ヴィッティの主演2人の姿が そのローマの街並みにマッチしている。

ヴィットリア(モニカ・ヴィッティ)が婚約者と別れるシーンからスタートする。長く付き合ったのにも関わらず、別れるカップルの無情な姿が映し出される。その後で、自分の母親をローマの証券取引所に探しに行く。母親は証券会社社員で場立ちのピエロ(アラン・ドロン)の顧客である。

1.ローマの証券取引所
アランドロン演じるピエロは証券取引所の場立ちである。場立ちどうしで大きな声をだしあって、いったいこれで取引が成り立つのかと思ってしまう。ピレリとかフィアットといった銘柄は日本でもよく知られている名門企業だ。日本の株式取引は完全にコンピュータ取引となり、以前のように兜町の証券取引所の立会い場での活気あふれる光景がなくなった。


飛び交う会話は「なんかいい情報はないか?」いかにもインサイダー取引を連想させる。時代が時代なんで仕方がない。アランドロン演じる証券仲買人は、他の投資家が増資のうわさがあるとコソコソ話しているのを聞きつけて買いを入れる。それに追従して買いが入り、短時間で上昇、すぐ利食いして100万リラをゲットする。場立ちどうしで紙の伝票を融通しあっている。まあ、何でもありの時代なんだと思ってしまう。

そんな景気がいい話がでたあとで、株式が暴落する場面となる。もはや破産だと言っている人がいる。現物取引であれば、会社倒産してゼロにならない限りは一気に飛ぶはずはないので、信用取引であろう。モニカの母親も徹底的にやられてしまうシーンが映る。娘に向かってあなたが別れてしまったから婚約者から金を融通してもらえないなんてすごいセリフまである。このローマ証券取引所のシーンを戦後屈指の名シーンと評する人もいる。自分はそうかな?という感じはするけど。

2.キネマ旬報と当時の著名評論家の評価
1962年のキネマ旬報ベスト10では5位である。この年に3年間で製作されたミケランジェロアントニオーニの3部作が一気に公開されたのか、三作ともエントリーされている。広いジャンルでの粋人植草甚一太陽はひとりぼっちを1位に選出、自分の高校の大先輩双葉十三郎は4位、私の大学時代に「映画論」の講義をしていた津村秀夫は5位に選出する。大学当時のテキスト本「津村秀夫 映画美を求めて」が私の書棚にある。


津村秀夫は三部作を評して「いずれも構成法に相通ずるものがあって、つまり劇的発展がなく、ただ水の流れのように単調である。起伏といってもしれている。だから、どの作品も”結末”とか”解決”とかいうものはなく。。」(津村1966:p223)としている。確かにあらすじといってもどう書いていいのか困ってしまう。最後の結末も観念的でよくわからない。この2人の愛を語るときに「なぜこの男と別れねばならないのか。。。なぜ株式店員と結ばねばならぬか」これって証券会社社員をおちょくっている感じがする。いかにも戦前派らしい津村秀夫の発言である。

3.不毛の男女関係
別れの場面とすぐわかるシーンがほぼ無言のまま続く。男はよりを戻そうとするがうまくいかない。津村秀夫はそのシーンをとらえて「アントニオー二の芸術は極めて会話が少ないこと、それだけにまた人間の生活感情がムードによって左右され、あるいはそれに流されていくような情景を得意とする」(津村1966:p221)とする。音楽はほとんど流れない。扇風機の鈍い音が響いていく。

そして、冒頭の別離のシーンを評して「感傷味のない、ドラマティックでもない静かな不気味な美しさである」とする。(津村1966:P220)


アントニオー二の映画美の急所をつけといわれれば、静寂と孤独というよりあるまい」(津村1966:p218)「」におけるジャンヌ・モローのけだるい振る舞いも音楽のないなかで静かに追っていく。静寂なシーンと平行して、女友達との遊びの中でモニカ・ヴィッティがアフリカの原住民の振る舞いをしたり、ローマを俯瞰する自家用飛行機にのって楽しむ姿や映像づくりで遊んでいるところもある。

もともとアランドロン演じるピエロはモニカ・ヴィッティ演じるヴィットリアに関心がない様子だったのが、急接近。モニカはキスをさせず焦らせる。それでも追うアランドロン、最初はガラス越しでようやくキス、そしてベッドへ。モニカは心からのっているわけでもない。そしてわけのわからないラストに向かう。この三部作というのが、モニカ・ヴィッティにとってもピークではなかろうか?彼女の持つアンニュイな魅力が充満している。


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映画「にがい米」 シルバーナ・マンガーノ

2020-05-28 18:56:33 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「にがい米」は1949年のイタリア映画


こういう映画があることは知っていた。主人公シルバーナが体操服のブルーマーのようなパンツをはいている姿の写真を見てドキッとしたこともある。映画史の本ではこの姿の写真はよく見られる。DVDで見たこともなく、名画座でやっていても見過ごしてしまう。

観てみると、ストーリーはどうってことはない。ただひたすら、シルバーナ・マンガーノのエロチックな肢体とその奔放なパフォーマンスに驚くばかりだ。

北イタリアが舞台、高価な首飾りを盗んだ強盗のカップルがいる。警察に追いかけられているところを、イタリア全土から出稼ぎで田植えに来ている女の子たちに紛れ込む。女の子の中には飛び切りの美女のシルバーナがいた。そこでの恋三昧の映画である。

モノクロ映画で屋内のショットでは光と影の使い方が巧みだ。強盗犯の女を演じる鼻筋の通った美女ドリス・ダウリングとともに映し出すショットがいい感じだ。


⒈北イタリアの米
イタリア料理でといえばリゾットである。何気なくわれわれ日本人もイタ飯屋でリゾットを食べているが、実際には北イタリアでないとおいしい米は食べられないという。水田があるのは北イタリアで、南部にはない。田植えの季節になると、産業のない南部から大量の女性たちが大挙列車に乗って出稼ぎに来た時代が70年代くらいまで続いたという。


上記写真のように美しい若い女性たちが涼しい顔をして、田植えをやっている姿を見て正直唖然とした。しかも1949年ですぞ!不謹慎な言い方だが、日本では農家の子どもたちも駆り出されることもあるが、年老いた男女が中心になって田植えをする姿しか見たことがない。最近は北イタリアへの田植えの出稼ぎはなくなった習慣とはいえ驚く。

⒉グラマラスな肢体
果たして1949年の日本映画でこんなに女性の肢体をあらわにする映画ってあったであろうか?黒澤明の「生きる」でガンとわかり夜をさまよう志村喬がストリップ劇場に入るシーンや「野良犬」淡路恵子がダンシングチームのダンサーに扮するシーンはある。

「野良犬」は同じ1949年の日本映画だが、役柄は普通の人ではない。しかも悪いけどこの時の淡路恵子は垢抜けていない。シルバーナマンガーノのボディは現代でも通用する。脇毛をみせながら踊る姿にエロティシズムを感じる。


ダンスミュージックに合わせて悪党と踊るシーンがある。イタリア版提灯が吊ってある野外は収穫祭か?映画「ピクニック」キム・ノヴァックがお祭りの提灯の下でウィリアム・ホールデンと踊るシーンを思い出す。みんなの熱い視線を浴びながらシルバーナ・マンガーノが踊るその姿は実にかっこいい。


今より露出度が低い時代に若い日本人の男の股間をいかに刺激したかが想像できる。
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映画「ドミノ 復讐の咆哮」 ブライアン・デ・パルマ

2020-02-20 05:42:16 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「ドミノ 復讐の咆哮」を映画館で観てきました。


映画「ドミノ 復讐の咆哮」はサスペンス映画の巨匠ブライアン・デ・パルマ監督の8年ぶりの新作だ。しばらく噂を聞かないのでもうあの世にいってしまったのかと思ったくらいである。現在79歳まだまだ頑張る。ブライアン・デ・パルマ監督は顧客をビックリさせるのが趣味のようなところがあり個人的には好きだ。いよいよ久々新作を出すということで、刑事ものサスペンスという事前情報だけで映画館に向かう。


残虐な殺人手法や刑事と犯人のやりとりにピノ・ドナッジオの音楽独特の恐怖感を誘うストリングスがからむ。いかにもブライアン・デ・パルマ監督の匂いだ。その道50年以上の洋食屋にいって、昔からある名物のメニューを食べるような錯覚を覚える。前作パッションはサスペンス映画の醍醐味を見せてくれた。終盤戦のドキドキ感ある画面分割を使った映像ががよかった。でも、今回はいつものブライアン・デ・パルマ監督作品ほどエロティック度は少なめでビックリはさせてくれないなあ。

デンマーク・コペンハーゲンの刑事クリスチャン(ニコライ・コスター=ワルドー)とラース(ソーレン・マリン)は、市内パトロール中にある殺人事件に遭遇。クリスチャンは、殺人犯タルジ(エリック・エブアニー)を取り押さたが、隙を衝かれた際に同僚ラースが重傷を負う。さらには謎の男たちにタルジを連れ去られてしまう。

拳銃の不携帯というミスでラースを危険に晒したクリスチャンだったが、自身への失望と怒りから、上司からの謹慎処分を無視、同僚の女刑事アレックス(カリス・ファン・ハウテン)と共に元特殊部隊員の過去を持つタルジを追う。その頃、米国CIAの男・ジョー(ガイ・ピアース)らに拉致されたタルジは、家族の命と引き換えに、ある危険なミッションを命じられていた―。(作品情報 引用)


1.古典的サスペンス場面
もともとは2人乗りのパトカーに乗り、早朝4時の巡回運行の時に現場に向かったときの出来事だ。ブライアン・デ・パルマ監督得意のエレベーターでのアクションからスタートする。2人がエレベーターに入ると、乗ってきた黒人男性のスニーカーに血がついている。おかしいと感じて手錠をつけて逮捕する。


先輩刑事ラースに男を預けて、クリスチャン刑事は事件があるという部屋に向かうと指がカットされ拷問を受けたと思われる死体があった。あわてて被疑者のもとへ戻ろうとすると、すでに黒人男性は手錠を巧みに外して先輩刑事の喉もとを切りつけ屋根に逃げる。先輩刑事の介護をしようとしたら大丈夫だといわれ、屋根伝いに逃げる男を追う。

このあたりはいかにも古典的サスペンスの手法だ。誤って転落する寸前に軒樋にぶら下がる姿は1950年代のヒッチコック映画を彷彿させる。それに数々のブライアン・デ・パルマ監督でおなじみのピノ・ドナッジオの音楽が鳴り響くと、時代が数十年さかのぼる錯覚を得る。でも、現代の機器である携帯電話もインターネットもある。犯罪にはドローンの利用もある。しかし、ブライアン・デ・パルマ監督が持つ元来のリズムがそうは変わることはない。

2.出会ったことある出演者たちとスタッフ
主人公ニコライ・コスター=ワルドーの顔を見てどっかであったことあるな?と思ったけど、思い出せない。デンマークの映画なんだっけと思いながら、自分のブログを検索するとぶちあたったのが「真夜中のゆりかご」だ。デンマーク版「チェンジリング」で運悪く自分の子供を亡くした刑事が捜査に入った家の赤ちゃんと交換する話だ。


新たな相棒になる女性刑事役のカリス・ファン・ハウテン「氷の微笑」で有名なオランダ映画の巨匠ポール・ヴァーホーヴェン監督ブラック・ブックの主演女優である。この映画はよくできた傑作で、カリス・ファン・ハウテンが汚物まみれになったり体当たりの演技をしていたのが記憶に新しい。でもこの映画でその彼女だとは全く気がつかなかった。ここでは犯人に刺されて重体になった刑事と不倫をしているという設定だ。立ち回り場面もあったがさすがにアクションは得意ではなさそうだ。


音楽のピノ・ドナッジオは調べるとエルビス・プレスリーのラスベガスステージでのカバーがもっとも有名な「この胸のときめきを」の作曲者で、サンレモ音楽祭で自ら歌ったという。これには驚いた。この曲これまで1000回以上いろんなバージョンで聴いたことあるがこんなことは全く知らなかった。


さすがブライアン・デ・パルマ監督だけあって音楽のピノ・ドナッジオだけでなく撮影もスペインのペドロ・アルモドバル作品でも撮影監督を務めるホセ・ルイス・アルカイネと強力なスタッフがバックを固める。ただ、撮影と編集に関しては前作パッションの方がよかったなあ。

デンマークが舞台だ。行ったことのない場所の映像は観ていて楽しい。犯人を追って異国に移り闘牛会場でのパフォーマンスやオランダでの狂信的イスラム教徒の振る舞いも観られる。でもブライアン・デ・パルマ監督作品と期待していった割にはもう一歩かな?五反田の老舗洋食屋「グリル・エフ」のビーフシチューを食べている感覚だな?
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映画「ホワイト・クロウ 伝説のダンサー」 レイフ・ファインズ&オレグ・イヴェンコ

2019-11-05 20:16:53 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「ホワイト・クロウ」は2019年公開の俳優レイフ・ファインズの監督作品


東西冷戦は90年代初頭に過去のものとなった。それまで共産党を崇拝していた社会主義者は落胆したであろう。逆に東西冷戦のピークはキューバ危機の一発触発する可能性があった1960年代初頭である。その頃、ソビエトのバレエダンサーがパリに行き、帰国後の自分への待遇に不安を持ち亡命しようとする話である。「イングリッシュペイシェント」などの名作に出演する英国の名優レイフ・ファインズがメガホンをとり、自らもバレエ教師役として登場する。実際にルーブル美術館で撮影したり、主演がバレエの実力をみせるバレエ公演場面など高度な映像が続き映画のレベルは高い。


1961年、23歳のルドルフ・ヌレエフ(オレグ・イヴェンコ)は、所属するキーロフ・バレエのパリ・ロンドン公演のために、生まれて初めて祖国ソ連を出た。5週間のパリ滞在では、オペラ座で観客を熱狂の渦に巻き込む一方で、文化や芸術、音楽のすべてを貪欲に吸収しようとしていた。パリ社交界の花形クララ・サン(アデル・エグザルホプロス)と親密になり、パリの生活に魅せられていく彼の一挙一動は、KGBに常に監視されていた。

1.ワガママなバレエダンサー
主役のオレグ・イヴェンコは現役のバレエダンサーである。劇中でのバレエシーンは自ら踊る。当然迫力がある。自分はバレエには明るくないが、圧巻のステージである。


しかし、演じる性格は超ワガママだ。気に入らない人間がけいこ場にいれば罵声を浴びせて追い出す。パリで知り合った社交界の女友達とはいったレストランでも、ステーキに味付けソースが加わっているだけで自分を出生地の違いでバカにしているからだと急反発する。付き合ってくれたパリジェンヌを困らす。職人気質の優秀な人間にありがちなワガママである。周囲の言うことを聞かないだけでなく、レッスンに対しても注文をつける。レニングラードのバレエ学院でレッスンしてくれた先生の奥さんに誘惑される微妙なシーンもある。

2.亡命への急展開
パリでは、家柄のいいパリの女性と急接近する。パリ公演は大成功をおさめ、街ではルドルフ・ヌレエフの名前は広く知れ渡る。北朝鮮から蓮池薫氏夫妻が帰国した時に、北朝鮮当局の監視員がピッタリとついていた。その時と同じようにソビエトから派遣されたKGB職員がぴったりとルドルフに付く。


パリ公演終了して、親しくなったクララと夜遊びしたが、普通に空港からロンドン公演に向かうところであった。しかし、フルシチョフがパリ公演が好評だったと聞き、目の前で踊って欲しいので帰国せよという話を芸術監督のセルゲイエフから聞く。ルドルフは驚く。そして帰国を拒否する。絶対に当局に拘束されてしまうというのだ。

その場にはフランスで知り合った振付師ピエールラコット(ラファエル・ペルソナス)が見送りに来ていた。とっさに異変に気づき、彼はクララ(アデル・エグザルホプロス)に電話をする。そして亡命させることを考えるのだ。警察に亡命したいと言えばソビエト当局は拘束はできない。やがてクララが現れる。ソビエトから同行している監視員も彼女を知っている。別れを惜しんでいるだけと気を抜いている時に、「あそこにいる2人は警官だ。そこで亡命を宣言せよ」と耳打ちする。


ルドルフが空港に来た途端、それまでの平坦さから強い緊迫感にかわる。ドキドキするシーンが続く。悪名高い当時のKGBの包囲網を潜れるのか、ラファエル・ペルソナスやアデルエグザルホプロスという現代フランス映画の若手の実力俳優が周りを囲み役者は揃った。手に汗をにぎるシーンだ。
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映画「ドッグ・マン」

2019-08-26 21:23:33 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「ドッグ・マン」を映画館で観てきました。


イタリア映画「ドッグ・マン」カンヌ映画祭主演男優賞を受賞した作品である。白黒の犬をてなづける宣伝ポスターが印象的だが、内容は見れば見るほどきつい題材だ。一言でいうと「いじめられっ子の逆襲」というべきか。単純そうで根深いものがある。プロフィルを見ると、主人公を演じるむしろセミプロというべきキャリアのマルチェロ・フォンテは確かに好演、本当に犬好きだね。ドラえもんの「ジャイアン」のようないじめっ子も役に徹してイヤな奴を演じている。

それにしてもナポリ郊外というこの町は寂れている。いじめっ子もいじめられっ子も頭が弱い。
頭が弱いどうし何でこんな関係続けているんだと思ってしまう。イタリア版下層社会の話ということなのであろうか。


イタリアのさびれた海辺の町で、マルチェロ(マルチェロ・フォンテ)は「ドッグマン」という犬のトリミングサロンを営んでいる。妻とは別れて独り身だが、最愛の娘とも頻繁に会い地元の仲間たちと共に食事やサッカーを楽しんでいた。


だが、一つだけ気掛かりがあった。シモーネ(エドアルド・ペッシェ)に暴力でおどされ、犯罪の片棒を担がされていた。小心者のマルチェロは彼から利用され支配される関係から抜け出せずにいた。ある日、シモーネから持ちかけられた話を断りきれずにいたマルチェロは、その代償として仲間たちの信用とサロンの顧客を失い、娘とも会えなくなってしまう。マルチェロは考えた末に、驚くべき計画を立てる。

1.いじめられっ子 マルチェロ
廃墟のような建物の一角で、犬のトリミングサロンを経営している。性格は温厚で、犬を通じて地域社会に溶け込んでいる。妻とは別れたが、娘とは仲がいい。旅行の計画を2人で立てている。腐れ縁の友人シモーネが、泥棒に入るときに運転手役をむりやりさせられている。

シモーネが泥棒に入った家には、まさに警備員のようにプードル犬がいた。シモーネはうるさいのでむりやり犬を冷蔵庫に押し込んでその場を去っている。その話を聞いて犬がかわいそうだと思ったマルチェロはもう一度その家に忍び込んで、冷蔵庫から犬を取り出して水につけて解凍する。ともかく商売を超えて犬が好きなやさしい男だ。



2.いじめっ子 シモーネ

小柄なマルチェロとは対照的に大柄で、腕っぷしも強い。まさにドラえもんのジャイアンのイタリア版だ。ゲームセンターのスロットで遊んでいて、300ユーロやられる。頭にきて叩いてマシンを壊す。弁償させようと店主は怒るが、逆上され怖くなった店主は逆に300ユーロをシモーネに支払う。泥棒に入って金品を盗むことはしょっちゅうである。町の人から厄介者だと思われている。あるときマルチェロを脅迫して犯罪を起こす。警察もシモーネの仕業と思い込んでそれをマルチェロに認めろというが、マルチェロが承認のサインをしない。結局マルチェロに犯罪の責任を押し付ける。



3.反発

マルチェロが警察に行っても仲間をかばうこと自体は、マルチェロ本人が刑務所でのお勤めをすることを意味する。長いお勤めを終えて地元へ帰ってきてもシモーネは感謝すらしない。マルチェロは改めて分け前をくれというが、そんなものはないとシモーネに言われる。さすがに腹が立ち、シモーネのバイクをぶち壊そうとするが、その倍付で半殺しに痛めつけられるのだ。それでもマルチェロは自分が悪かったと言って、いいヤクを手に入れる方法があると相談を持ち掛けていくのであるが。。。(あとはこの映画のヤマ場)

4.いじめの構造
いじめを映画を見ると、誰しもが自分にあった記憶を思い出すであろう。自分もそうだ。一度あったいじめから抜け出すのはむずかしい。時間がかかる。相手か自分のどちらかがその場を離れることが必要である。この二人は腐れ縁で、子供のころから同じような関係だったに違いない。ずっと同じエリアにいるとなると、その上下関係は下手すると一生変わらないかもしれない。どこにも身体だけ大きくて腕っぷしの強いジャイアンのような奴っているもんだ。これだけは万国共通だ。

ただ、いじめをやった方は気楽に考えているし、すぐ自分のやったことを忘れるけど、やられた方の恨みは一生残る。それが爆発するとどうなるのか?というのがこの映画のポイント。

この映画の最終に向けての動きを見て、スカッとした人もいるかもしれない。
そんなことを考えていた。

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映画「COLD WAR あの歌、2つの心」

2019-06-28 19:21:26 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )


映画「COLD WAR あの歌、2つの心」を映画館で観てきました。

「COLD WAR」はポーランドのパヴェウ・パヴリコフスキ監督がカンヌ映画祭監督賞を受賞した作品である。オーディションを経てポーランドの舞踏団の団員になった主人公ズーラが、舞踏団の音楽指導者ヴィクトルと恋に落ちる。ポーランドからパリ、ユーゴスラビアと場所を移し、つかず離れずの腐れ縁の恋を描いている。第二次大戦後ソ連が主導権をとった共産党当局に画家が虐待されるポーランド映画「残像」を見た。同じような時代背景ということで「COLD WAR」に関心を持ち、早々に観にいく。


民族芸能を主体にした舞踏団に対して、政府当局から国家の歌をやるように指示を受ける。その後、スターリンの大きな肖像の前で舞踏団が賞賛の歌を歌うシーンも出る。その偶像崇拝は現在の北朝鮮みたいだ。「COLD WAR」の名のごとく冷戦を描く映画と思ったらそうでもない。 強制連行などむごい描写は弱められる。 モノトーンの画像にもかかわらず、鮮明な印象を受ける。


冷戦に揺れるポーランドで、歌手を夢見るズーラ(ヨアンナ・クーリグ)とピアニストのヴィクトル(トマシュ・コット)は音楽舞踊団の養成所で出会い、恋におちる。だが、ヴィクトルは政府に監視されるようになり、パリに亡命する。ズーラは公演で訪れた先でヴィクトルと再会、幾度かのすれ違いを経て共に暮らし始める。しかし、ある日突然ズーラはポーランドへ帰ってしまう。あとを追うヴィクトルに、思いもかけぬ運命が待ち受けていた。(作品情報より)


1.情熱的な主人公
1949年舞踏団の団員になるためのオーディションから映像はスタートする。審査員の前で仲間と2人で歌を披露した後、ズーラは自ら得意の曲を歌う。ここまでという審査員の声にも、これからがサビだと巧みな歌を続ける。審査員はこの子が父親に反抗して刺し殺したことを知っている。

やがて、もともと審査員で音楽指導者だったヴィクトルとひそかに恋仲になる。2人は結ばれる。それぞれかんしゃくを起こして、離れたりくっついたりする。ズーラは芯がしっかりしていて気が強い。自己主張も強い。パリに移っても、どこへ行っても性格は変わらない。ヨアンナクーリグは快演である。映画観ている間、ジェシカ・チャスティンに似ているように見えたんだけどなあ。


2.究極の腐れ縁
森雅之、高峰秀子の映画「浮雲」はもともと仏印で結ばれていた2人が戦争を経て、日本で再会し、くっつき離れるのを繰り返しながら究極の腐れ縁から逃れられない姿を描いている。名作である。映画「COLD WAR」の根底に流れる恋は「浮雲」と同じ腐れ縁の恋である。
浮雲
林芙美子


ヴィクトルがポーランドを離れ西側社会に向かった後で、ジャズピアニストとしてパリで演奏活動をしているヴィクトルとズーラが再会する。その時はお互いに夫や妻がある。それでも2人は強い吸引力で結びつく。この後にも、何回かの別れと再会を繰り返す。そのたびごとに熱く抱擁しあう。

3.多彩な音楽
ポーランドの民族音楽が流れる。それを透き通った声でズーラが歌う。そのあとで、久々にロシア民謡「カチューシャ」を聞く。最近はあまり聞かないなあ。ズーラの声が透き通っている。清楚な響きがいい。

やがて、パリではジャズである。モダンジャズバンドを率いたヴィクトルがテンポのいいジャズを演奏する。そこにズーラが加わり、しっとりしたボーカルを聞かせる。ヴィクトルはパリの有力プロデューサーをズーラに紹介する。「スラブ的魅力」に魅せられ仕事が増える。そのあとも、ズーラが「ロック・アラウンド・ザ・クロック」に合わせて踊りまくるシーン、メキシカンギターバックの情熱的なラテンの歌を歌うシーンなど多種多様に盛りだくさんだ。


エンディングロールでバッハのピアノソナタが流れる。人の唸るような声がピアノのバックに聞こえるので、グレングールドの「ゴールドベルク変奏曲」であると確信する。それまでに出ている音楽と違うタッチだ。映像をじっくり味わった後でのグレングールドのバッハが胸にジーンと響く。いい瞬間だ。

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映画「スターリンの葬送狂騒曲」

2018-08-12 06:42:42 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「スターリンの葬送狂騒曲」を映画館で観てきました。


1953年スターリンが亡くなったあと、スターリンショックという株の大暴落が日本で起こった。これにより朝鮮戦争が落ち着き、景気を牽引してきた戦争特需がなくなるのでは?という連想だそうだ。でも当のソ連のトップは後釜狙いの権力闘争で大騒ぎだ。この映画はだいたい史実に基づいている。この映画のいいところは、その史実をコメディタッチで描いているところだろう。内容はエグいが笑えるシーンも多い。

一応後継者になるがオタオタするマレンコフ、マレンコフをたてるフリをして虎視眈々とトップを狙うフルシチョフ、秘密警察の親分で粛清を指導してきたベリヤなど、突然意識を失ったスターリンの後釜問題で大あらわだ。


時は1953年、モスクワ。この国を20年にわたって支配していたスターリンは側近たちと夕食のテーブルを囲む。道化役の中央委員会第一書記のフルシチョフ(スティーヴ・ブシェミ)の小話に大笑いする秘密警察警備隊長のベリヤ(サイモン・ラッセル・ビール)。スターリンの腹心のマレンコフ(ジェフリー・タンバー)はすぐに場をシラケさせてしまう。


明け方近くまで続いた宴をお開きにし、自室でクラシックのレコードをかけるスターリン。無理を言って録音させたレコードに、ピアニストのマリヤ(オルガ・キュリレンコ)からの「その死を祈り、神の赦しを願う、暴君よ」と書かれた手紙が入っていた。スターリンは読んだ瞬間、顔をゆがめて倒れ込む。

朝になりお茶を運んできたメイドが、意識不明のスターリンを発見し、すぐに側近たちが呼ばれる。驚きながらも「代理は私が務める」と、すかさず宣言するマレンコフ。側近たちが医者を呼ぼうと協議するが、有能な者はすべてスターリンの毒殺を企てた罪で獄中か、死刑に処されていた。仕方なく集めたヤブ医者たちが、駆け付けたスターリンの娘スヴェトラーナ(アンドレア・ライズブロー)に、スターリンは脳出血で回復は難しいと診断を下す。その後、スターリンはほんの数分間だけ意識を取り戻すが、後継者を指名することなく、間もなく息を引き取る。


この混乱に乗じて、側近たちは最高権力の座を狙い、互いを出し抜く卑劣な駆け引きを始める。表向きは厳粛な国葬の準備を進めながら、マレンコフ、フルシチョフ、ベリヤに加え、各大臣、ソビエト軍の最高司令官ジューコフまでもが参戦するが。。。
(作品情報一部引用)


1924年レーニン亡き後、トロツキーと権力争いをした後にスターリン書記長が自らに権力をを集中させソ連のトップとなる。そしてトロツキーばかりでなくスターリンの反対思想を持つ者は全て粛清されてしまうのである。当時のソ連で失脚する人たちの姿がいくつかの映画で描かれる。ニキータ・ミハルコフ「太陽に灼かれて」はその中でもピカイチの出来だ。忠実な軍人までが連行されることもある。スターリンは権力をとって以来、粛清で対立する勢力を押さえつけてきた。今でこそヒトラーにひけをとらない独裁者というが、世間には公表されていないことも多い。しかも、戦後の日本の知識人にはアカが多く、フルシチョフによるスターリン批判があった後でも支持されていた時期すらある。実際にはヒトラーの人後に落ちないとんでもない野郎だ。

映画でもスターリンが列挙した粛清リストに載る面々を収容所で次から次へと銃殺するシーンが出てくる。スターリン死亡の後、目の前で次々射殺されていたのに突然中止になり助かる処刑者の姿を映し出すのには笑える。ニキータ・ミハルコフ「太陽に灼かれて」でもわかるように、ちゃんとした反発の証拠があるわけではない人でも引っ張られる。むちゃくちゃだ。


映画ではフルシチョフ、ブルガーニン、マレンコフといった世界史の教科書には欠かせないソ連の指導者が登場する。この後、11年たってブレジネフが書記長となり権力を持つと同時にフルシチョフは失脚。誰もが権力を失った途端に失脚の道を歩む。韓国の大統領の末路も酷いもんだが、ソ連も同じようなもんだ。ここでも、ベリヤに至っては濡れ衣といってもいいような状態で、失脚どころか殺されてしまう。北朝鮮だけでなく他の共産主義国にもそういう部分は残っているだろう。アカ連中の権力闘争は怖い。

こういうのを見て町の駅で共産党のビラ配っているアカババアどもは共産主義がいかにひどいものかと理解できるのであろうか?対岸の火事と思ってわからないだろうなあ。

太陽に灼かれて
スターリンの粛清で壊れる家庭(ブログ記事)
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映画「笑う故郷」

2018-05-30 16:24:02 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )
映画「笑う故郷」はアルゼンチン、スペイン合作の作品である。


ノーベル文学賞を受賞した作家が故郷のアルゼンチンの小さな町に帰った時に起こるドタバタを描いている。
平昌オリンピックでメダルをとった選手たちが故郷に帰るとパレードで大歓迎される。そんな構図はテレビで見てきた。仙台で10万人を超える見学者が出たという羽生さん、北海道のそれぞれの町で歓迎を受けた高木姉妹やカーリングの選手など。この映画のノーベル賞作家ダニエルもいったんは歓待を受けるが、そのあとはあまりいいことが続かない。それどころか大変な災いを被る。そんな話である。

スペインマドリードに住むノーベル文学賞を受賞した主人公ダニエルは自作が書けずモヤモヤしていた。そんな彼には講演依頼が殺到するが、引き受けることはなかった。長年戻っていない故郷アルゼンチンの町から名誉市民として表彰したいという便りがくる。これだけはという思いから、1人向かうこととなる。 ブエノスアイレスから車で7時間もかかる道を車で向かうが途中でタイヤがパンク。前途多難と心配する。


現地に着くと、市民が集まる中歓迎集会が開かれ、ミスコンの女王、市長から表彰を受け、たいへんな名誉とダニエルは感激する。そのあとは消防車で凱旋パレードだ。そのあと、昔好きだった彼女と再会する。


彼女は同じ幼なじみのアントニオと結婚していた。他にも美術展のコンクールの審査員になったり、方々から金の無心を受けたりと忙しい。しかも、ホテルの部屋にファンだという若い女の子が乱入してくる。

それにしても、途中から主人公が故郷の人から受ける仕打ちはやってられないの一言だ。でもそれらの話が最後のオチでゲームセットになる。ここでは書かないが、これこそ笑えてしまう。

この作品を見て思い出すのは、中国の作家魯迅「故郷」である。自分が中学校を卒業してから40年以上たつのに 中学3年生の教科書に今でもあるというのもすごい。実際訳もいいのか趣がある。国語の授業でのやり取りがいまだに脳裏に残る。主人公がしばらく離れていた故郷に帰ってみると、荒れ果てていて昔の面影がない。仲良しだった旧友も落ちぶれている。こんなはずではなかったという話はまさにこの映画「笑う故郷」に通じるではないか。おそらくは、原題『名誉市民』と違うこの題をつけた人は明らかに「魯迅」を意識したと感じる。

「思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」(魯迅 故郷の一節)
このフレーズは印象的であった。このフレーズに対しての感想を述べたら、国語の女教師から絶賛された思い出があるので忘れられない。

何で魯迅の「故郷」が中学校3年の教科書に今もあるのか?小中学校時代、成績が悪い人もいい人もいて、いい意味でフラットな立場だったのが、進学校に進学する人もいれば、昔であればそのまま中卒で就職する者もいる。その人たちがいずれ故郷に戻り、再会するときまでに、それぞれが道をつくってほしいという希望を教育者たちがもっているからなのであろうか?

この映画を見てそんなことを思った。
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