Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

女と男のいる舗道

2012-12-07 12:36:19 | 日記

★ ゴダールのテクニックの本質は、この映画劈頭のクレジット・シークエンスと第一エピソードにそのすべてが現われている。クレジットは、非常に暗くてほとんどシルエットになっているナナの左のプロフィルの上に現われる。クレジットが続いているあいだ、彼女の正面が、次に右顔が、依然として黒々とした影で、映される。ときおりナナはまばたきしたり、わずかに顔を上げたり(長い時間じっとしているのが不快だとでもいうように)、また唇をなめたりする。ナナはポーズをとっている。彼女は見られているのだ。

「ひよこには内側と外側があります。外側を取ったら内側が見えます。内側を取ったら魂が見えます。」

★ ひよこの話はこの映画でゴダールが言わんとすることを確証するたくさんの「テクスト」のうちの最初のものである。というのは、言うまでもなく、ひよこの物語はナナの物語であるからだ。『女と男のいる舗道』で、われわれはナナが裸になるのに立ち合う。ナナが彼女の外側、つまり昔の彼女を脱ぎ捨てたところから映画は始まる。やがていくつかのエピソードのうちに現われる新しい彼女とは、売春婦としての彼女である。ただし、ゴダールの関心は心理にあるのでもなければ売春の社会学にあるのでもない。彼は人生という環境領域から離脱する行動の最もラディカルな隠喩として、売春を取り上げる――実験演習地として、何が人生の本質で何が余計なものかを探究するひとつの試練として。

★ 『女と男のいる舗道』(原題:”彼女の生を生きる”)全体がひとつのテクストと見なせるかもしれない。それは明晰さのテクスト、明晰さの探究である。つまり、まじめさ(シリアスネス)についての映画なのだ。

★ この映画のテクストで知的に最も精巧に創られているのは、<エピソードⅥ>のナナと哲学者がカフェで交わす会話である。(演じているのは哲学者のブリス・パラン)ナナは人間はなぜ言葉がなければ生きていけないのかと訊く。パランは、話すことは考えることに等しく、考えることは話すことに等しい、思考のない生はないのだ、と説明する。話すこと、話さないことが問題なのではなく、いかに上手に話すかが問題なのだと。上手に話すには、禁欲的な修養が、超脱性(デタッチメント)が必要である。たとえば、まっすぐに真実が得られることはない、ということを理解しなければならない。過ちは必要なのだ。

★ 会話の始めのほうでパランは、はじめて考えたために死んでしまった行動の人デュマ・ポルトの話をする。(ダイナマイトを仕掛けて大急ぎで逃げる途中、ポルトはふと、ひとはどうして歩けるのだろう、どうして足を交互に前へ出すのだろう、と考えはじめた。彼は立ち止まった。ダイナマイトが炸裂した。彼は死んだ。)

★ 自由には真理的内面性がないということ――魂は人間の「内面」にのっかっているのではなく、「内面」がはぎとられた後に見つかるものだということ――は、『女と男のいる舗道』が示すラディカルな精神訓示である。

★ ゴダールは自分の「魂」観と伝統的キリスト教のそれとの違いに完全に気づいている、とひとは考えるであろう。ドレイエルの『裁かるるジャンヌ』の挿入がまさにこの違いを強調している。というのは、われわれが見せられる場面は、若い牧師(演じているのはアントナン・アルトー)がジャンヌに火刑を告げにくるところだからである。ジャンヌは思い悩む牧師に向かって、自分の殉教は真実のところ自分の解放なのだ、と確言する。

★ 『女と男のいる舗道』の12のエピソードは、ナナの十字架の道行の留である。だがゴダールの映画では、聖性と殉教の価値は完全に世俗の次元へ移しかえられている。ゴダールはパスカルではなくモンテーニュをわれわれに差し出す。それはブレッソンの精神性の雰囲気と強烈さに近いものだが、カトリシズム抜きのブレッソンである。

<スーザン・ソンタグ『反解釈』(ちくま学芸文庫1996)>